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2017年11月21日火曜日

学説紹介 防衛経済学(defense economics)という学問がある

防衛経済学(defense economics)は経済学の理論や方法を防衛問題に適用する研究領域です。
そこで扱われているテーマは実に多種多様であり、軍拡競争の分析もあれば、防衛予算の変化がマクロ経済に与える影響、防衛産業基盤をめぐる問題も含まれています。

今回は、防衛経済学が軍事学の分野として成立した経緯を紹介し、そこで登場した代表的な文献にどのようなものがあるのかを紹介したいと思います。

第二次世界大戦の経験

もともと防衛経済学は第二次世界大戦における人的資源と物的資源の最適な配分を研究するために米国で生まれました。
この背景には、米国が1941年に参戦してから国家総動員の一環として各地の大学から学者を集め、さまざまな調査研究に従事させていた事情がありました。
これは軍事学という軍人だけが研究していた分野に、多くの文民研究者が参画する契機となったのです。

当初、防衛経済学の研究は兵站管理の研究が主流だったのですが(Lincoln 1954)、やがて潜在的な敵国の兵力を弱体化させるため、どうやって経済力を低下させるべきかという問題も取り扱われるようになり(Knorr 1956)、戦略爆撃の効果をマクロ経済の手法で見積る研究もこうした潮流の中で生み出されました(U.S. Strategic Bombing Survey 1945-6)。

第二次世界大戦を通じて経済学が国防問題を解決する上で有用であることが認識されると、防衛経済学を一つの学問として体系化する動きが出てきました。
その過程で防衛経済学の対象は経済に関する問題だけでなく、戦略学といった軍事学の中核的領域にまで広がるようになりました。

冷戦期の防衛経済学の成長

防衛経済学の概説書として今でも古典的業績と見なされている著作にヒッチとマケインが1960年に刊行した『核時代における国防経済学(The Economics of Defense in the Nuclear Age)』が挙げられます。
この著作は経済学の概念を防衛問題に応用するための方法が系統的にまとめられており、防衛経済学を一つの学問として確立する上で重要な一歩となりました。

1960年代には、これに続いて防衛経済学の優れた研究が相次いで出されています。
軍拡競争のメカニズムを理論的に分析したリチャードソンの『軍備と危険(Arms and Insecurity)』(1960)や、ゲーム理論に基づく抑止の分析方法を確立したシェリングの『紛争の戦略』、防衛調達市場における武器調達の問題を検討したシェーラーの『武器調達過程(The Weapons Acquisition Process)』(1962)は、いずれもその後の防衛経済学の研究者が基本文献とする優れた業績でした。

これらの研究成果の内容からも分かるように、すでに1960年代の段階で防衛経済学の研究対象は戦時経済や防衛産業の問題だけでなくなります。
防衛経済学はあらゆる軍事問題について議論するようになり、軍事学における防衛経済学の地位は確固としたものとなりました。

その後、防衛経済学は研究領域の細分化に進み、同盟理論、抑止理論、軍拡競争、防衛調達、兵役制度、軍需産業、武器貿易、軍事予算などの研究へと発展していくことになるのですが、その詳細はまた別の記事で取り上げたいと思います。

文献案内

より深く防衛経済学を学びたいなら、まずはサンドラー、ハーストの『防衛の経済学(The Economics of Defense)』(1995)を一読するべきでしょう。(文献情報については下記の参考文献を参照)
1995年出版のため少し内容が古くなっていますが、防衛経済学の研究を幅広く取り上げ、その論点を分かりやすく提示した上で、いくつかの重要な学説について要約しており、入門者にとって有益な内容です。
ただし、基本的な経済学の知識がある読者を想定して書かれているため、内容には一部難解な部分が含まれています。

1960年に出たヒッチとマケインの『核時代の国防経済学』は邦訳が出ているので、最新の研究動向を踏まえた内容でなくてもよい方は、こちらの文献の方が分かりやすいかもしれません。古典的著作とされるだけあり、目新しさはありませんが、巧みな解説が見られます。

2007年に出たポースト『戦争の経済学』は抑止や同盟といったテーマを取り扱っていませんが、比較的最近刊行された文献ということもあり、入手しやすい入門書と言えます。
狭い分野しかカバーしていないため、防衛経済学の研究領域を概観するには問題がありますが、数式も少なく抑えられており、読みやすい文献だと思います。

日本における防衛経済学の研究動向は全般として低調であり、入門者を想定した教科書や参考書を見つけることは極めて困難な状況です。
長い時間がかかるでしょうが、こうした現状は一歩ずつ改善しなければならないでしょう。防衛経済学は現代の軍事学にとって欠かすことができな重要な研究領域の一角を占めており、より多くの人々にこの学問を認知してもらう必要があると思います。

KT

参考文献

文献案内で紹介した文献
Todd Sandler, Keith Hartley, The Economics of Defense, Cambridge University Press, 1995.(『防衛の経済学』深谷庄一監訳、日本評論社、1999年)


 Charls Hitch and Roland McKean, The Economics of Defense in the Nuclear Age, Harvard University Press, 1960.(『核時代の国防経済学』前田寿夫訳、東洋政治経済研究所、1967年)


Paul Poast, The Economics of War, McGraw-Hill, 2006.(『戦争の経済学』山形浩生訳、バジリコ、2007年)



その他の文献
K. Knorr, The War Potential of Nations, Princeton University Press, 1956.
Lewis Richardson, Arms and Insecurity: A Mathematical Study of the Causes and Origins of War, Homewood, 1960.
G. Lincoln, Economics of National Security, Prentice Hall, 1954.
Thomas Schelling, The Strategy of Conflict, Harvard University Press, 1960.(『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス 』河野勝訳、勁草書房、2008年)
M. Peck and F. Scherer, The Weapons Acquisition Process, Harvard University Press, 1962.
U.S. Strategic Bombing Survey, The Effects of Strategic Bombing on the German (Japan's) War Economy, U.S. Department of the Air Force, 1945-6.

2017年11月17日金曜日

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。

最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。
これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。

イギリスの学者ベイジル・リデル・ハートが検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。

最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた

ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて
まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。
そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。
「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁)
こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。
ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。

結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送りにしました(同上、269頁)。

つまり、1941年6月22日にドイツ軍がソ連国境を越えた時も、ドイツ軍の主力がソ連のどこに向かおうとしているのかは、はっきりと決まっていなかったということです。

先送りにした問題が再浮上した7月

1941年6月22日から1941年12月5日までの状況推移
黄色の地域が7月までにドイツ軍が到達した地域を表している。その後、ドイツ軍は中部の部隊の一部を南部に転進させるなど、戦力運用に一貫性を欠いた。
6月にバルバロッサ作戦が始まると、ドイツ軍は国境地帯を突破することに成功し、目覚ましい戦果を上げました。
作戦の発起から6日しか経っていない6月29日の時点で、ドイツ軍の部隊がミンスク(現在ベラルーシ首都)に到達し、そこで30万名近いソ連軍の捕虜を獲得したことも、当時のドイツ軍の快進撃の結果でした(同上、269-270頁)。

しかし、7月に入ると次第にドイツ軍は兵站の問題に悩まされ始めます。北方の戦線ではバルト諸国の森林地帯で進撃の速度が失われ始め、中部の戦線ではソ連軍が頑強にドイツ軍に抵抗し、南部では広大な湿地帯で部隊間の連絡に支障が出始めました。

戦略的に考えれば、どの攻撃目標を重視するかを判断し、戦力の集中が必要な局面であり、ブラウヒッチュはやはりモスクワ攻撃を急ぐべきとの判断から中部に戦力集中を考えていました。しかし、ここでヒトラーとの意見対立が再度、表面化します。
「しかし、ヒトラーは、レニングラードとウクライナを主目標として取上げる自己の最初の構想を実行に移すべき時機が到来したと考えた。彼は、レニングラード及びウクライナの重要性のほうをモスクワよりも上位に格付けするに際しては、将軍らの間に居た彼への批判者の大部分が思ったように、レニングラード及びウクライナの経済的効果と政治的効果を考えていただけではなかった。彼は超特大の規模のカンネのような作戦を心に描いていたようである」(同上、271頁)
こうして7月19日にヒトラーは新たな命令でレニングラードとウクライナ方面に部隊を転進させ、ブラウヒッチュもこれを受け入れますが、モスクワ攻撃の必要性はその後も一貫して主張し続けます(同上、271-272頁)。

ブラウヒッチュに譲歩したヒトラー

1941年のモスクワ、ドイツ軍の攻撃に備えて、道路が封鎖されている
ヒトラーが求めたレニングラードにドイツ軍の部隊が到達するのは8月末のことですが、戦力が十分ではなく、陥落させることができませんでした(同上、273頁)。
北部の戦況に比べれば、南部のウクライナでは順調にドイツ軍は攻撃を続け、9月17日、キエフを占領することに成功し、20万名を超える捕虜を獲得しています(同上)。

この8月から9月にかけての情勢変化と関連して重要だったのは、ヒトラーがブラウヒッチュの主張する作戦方針を部分的に受け入れ始めたことです(同上、273-274頁)。
9月にはヒトラーは自らの考えを修正し、レニングラード攻囲戦とウクライナでの戦果拡張が続く中で、10月にモスクワ攻撃の必要を認めるに至ります。
しかし、これは積極的な賛成というより、ブラウヒッチュの執拗な主張に対する譲歩と呼ぶべきものであり、ヒトラーはモスクワ攻撃が成功するのか懸念を持っていたようです。
「一般に考えられていたことと反対に、ヒトラー自身は 、モスクワ占領への継続的努力を強いる原動力ではなかった。最初から彼は、モスクワを他の諸目標よりも重要性の少ないものと見なしていたし、彼はモスクワの方向に行なう遅れ走せの十月攻勢を裁可するにはしたが、それについての新たな危惧を再び抱いていた」(同上、274頁)
事実、当時のドイツ軍の戦闘力は極度に低下し、ソ連軍が守るモスクワを正面から攻め落とせるかどうか厳しい状況でした(同上)。
ブラウヒッチュ自身もこの問題を認識していましたが、それまで再三にわたりヒトラーにモスクワ攻撃を進言してきたので、今さら作戦中止を提案することに躊躇したとリデル・ハートは述べています(同上)。

むすびにかえて

その後、ドイツ軍はモスクワ攻撃に失敗し、ブラウヒッチュはすべての責任をヒトラーから押し付けられる形で罷免されました(同上、275頁)。
こうして、ソ連は存亡の危機を脱し、ドイツは短期決戦に持ち込む機会を失うことになります。

ここでは個人の責任問題に立ち入らず、リデル・ハートが指摘した敗因をまとめておくだけにしておきます。
リデル・ハートはバルバロッサ作戦の失敗が「最高指導層における意見の分裂」によるものであり、それは起こるべくして起きた災難だったと考えました(同上、275頁)。
ヒトラーとブラウヒッチュの意見対立は、国境地帯を突破した後のドイツ軍の行動を事前に規定することを妨げただけでなく、攻撃目標に関する一貫した決定を妨げたのです。
結果として、ドイツ軍の作戦はヒトラーとブラウヒッチュのどちらにとっても中途半端なものになってしまいました。

これが戦いの原則の一つ「目標の原則」に反していることは明らかです。
当時のソ連軍の健闘があったこともよく考慮しなければいけませんが、ドイツ軍のバルバロッサ作戦が終わりに近づくにつれて行き詰まりを見せたのは、その作戦計画そのものが不完全な状態だったからだと言えるでしょう。

KT

関連項目

学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則
学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―
論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

参考文献

Liddell Hart, B. H. 1967(1954). Strategy. Second Edition. London: Faber & Faber.(邦訳『戦略論 間接的アプローチ』森沢亀鶴訳、原書房、1986年)

 

2017年11月10日金曜日

学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―

プロイセンの軍事学者として知られるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、かつて戦争と政治の関係について重要な学説を提起したことで知られています。

彼の命題はその後の軍事学者の間で繰り返し参照されることになり、政治の観点から戦争を研究する意義を指摘したクラウゼヴィッツの思想を表わす記述として知られるようになりました。

しかし、クラウゼヴィッツは具体的に何を論じていたのかという点については、よく分からない方も少なくないと思います。

今回の記事では、クラウゼヴィッツの戦争観が読み取れる記述をいくつか紹介し、政治と戦争の関係に関する彼の思想を紹介してみたいと思います。

戦争は政治の道具である

クラウゼヴィッツの軍事思想の特徴は、戦争が政治の道具であり、政治が示した目的を達成するために戦争は遂行されるという関係をはっきりと規定したことにあります。
「そこで戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国の政治的交渉の継続であり、政治における手段とは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。
 してみると、戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に固有の性質に関連するものだけである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上、58頁)
クラウゼヴィッツが述べた通り、戦争が政治の道具であるならば、戦争において用いられる手段、つまり軍隊や武器に特有の性質が多少関連するとしても、それは必ずしもその戦争を理解する上で重要なものではありません。

もちろん、クラウゼヴィッツは軍事力を運用する上で直面するさまざまな問題や制約を理解していましたが、「かかる要求が政治的意図にどれほど強く反映されるにせよ、そのようなものがいちいち政治的意図を変更し得るなどと考えてはならない。政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段にすぎないからである」とも述べています(同上)。

戦争の原動力となっているのは政治の目的であり、軍隊の能力はそれを達成するために使用されるに過ぎません。戦争は政治の道具であり、政治が戦争の道具になるようなことは、クラウゼヴィッツの考え方からすると、到底考えられません(同上)。

政策形成における政治対立の問題

戦争が政治の道具だとして、その政治はどのように方向付けられるのでしょうか。
クラウゼヴィッツは基本的に国家で権力を握っている特権的集団によってそれが決まると考えており、そのことを次のように述べています。
「戦争は元来、一国の知能であるところの少数の政治家および軍人によって発起せられる。そしてこの人達なら、彼等の目標をしっかりと見定めて、戦争に関する一切の事項をいちいち点検することができるだろう」(同上、下362頁)
しかし、クラウゼヴィッツは実際の政治がそのように単純なものではないことも理解していました。

つまり、一カ国の内部において権力が複数の人間に分散し、一貫した政策決定が阻害される場合もあると考慮していたのです。(これは過去の記事「論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦」で紹介した事例も該当するでしょう)
「しかしそのほかにも国家の要務に携わる多数の人達があり、かかる場合には、この人達の存在も無視するわけにいかない、とは言えかかる人達がすべて当局者と同じ立場にたって、一切の事情を了解し得るとは限らないだろう。そこで反目や軋轢が生じ、この困難を切りぬけるには、多数の反対者を圧服するような力を必要とする。しかし、この力は十分に強力でないのが通例である」(同上)
ここで示唆されているのは、政策形成に携わる関係者が、それぞれ党派的な利害で対立を繰り広げた結果、政策論争で折り合えず、しかも最高権力者さえも自らの立場を押し通すことができない場合があるということです。

これが国家として一貫した戦争目標の設定を困難にするだけでなく、組織的な戦争努力を阻害する要因になることは言うまでもありません。

クラウゼヴィッツは「かかる不一致は、彼我両国のいずれかに生じるし、或はまた双方に生じることもある」と述べた上で(同上)、戦争がより長期化、緩慢になる傾向を助長すると指摘しています。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツは戦争を理解するために政治を理解せよと主張していただけではありません。

政治の領域で起こるさまざまな権力闘争や意見対立が強いリーダーシップの下で解消されないままになると、それが戦争の遂行にも影響を及ぼすということを述べていたのです。

一般にクラウゼヴィッツの分析は戦争で起こる事象にのみ焦点が絞られていると考えられがちですが、むしろ戦争で起きている軍事上の出来事を理解するためには、政治の世界で起きていることを理解すべきと論じた人物として位置付けられるべきです。

この意味においてクラウゼヴィッツは、戦争を研究するために、政治分析・政策分析を積極的に取り入れる必要があることを論じた軍事学者だと評することもできるでしょう。

KT

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参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2017年11月4日土曜日

論文紹介 イラクの情勢を一変させた第三軍団の攻勢―オディエルノの作戦術―

レイモンド・オディエルノ(1954-)、元米陸軍参謀総長、2015年に大将の階級で退役
2006年に第三軍団司令官としてイラクに入り、治安回復で大きな成果を上げた。
オディエルノ(Raymond Odierno, 1954-)は米陸軍参謀総長も務めた米国の軍人であり、2017年現在ではJPモルガンで顧問として働いているそうです。
彼には2006年から2年にわたり第三軍団の司令官としてイラクにおける作戦を指揮した経験があるのですが、最近この作戦に注目する論文が発表されました。

今回は作戦術という観点からオディエルノが指揮した第三軍団の作戦を考察した研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
Wilson C. Blythe Jr., "III Corps during the Surge: A Study in Operational Art," Military Review, Vol. 97, No. 5(September-October 2017), pp. 78-85.

悪化する治安情勢、オディエルノの作戦転換

著者は、オディエルノの功績を理解する上で作戦術の視点が重要だと述べています。
もともと作戦術という概念は、ある統一された目標を達成するため、作戦地域の全域において複数の作戦部隊の行動を同時的かつ連続的に実施するためのものです(Ibid.: 78)。

オディエルノがイラクで武装勢力を相手に行った作戦はこの作戦術の考え方によく合致していると著者は指摘しています。

2006年11月、オディエルノの第三軍団がイラクで第五軍団から任務を引き継いだ時、治安情勢は悪化の一途を辿っていました。
その原因は同年2月22日に起きた爆弾攻撃で宗派間闘争が激化したことであり、11月だけでも3462名のイラク人が命を落としている状況でした(Ibid.: 79)。

当時、第五軍団に与えられた任務は、イラクにおける前方作戦基地の数を2006年末までに110カ所から50カ所に減らし、イラク治安部隊に権限を移譲する準備を進めることでした(Ibid.: 79)。
そのため、2月以降に治安情勢が急激に悪化する事態に対して有効に対応することは困難であり、結局2006年末になっても前方作戦基地を50カ所に減らす目標は未達という状況でした(Ibid.)。

オディエルノは現地の状況を把握すると、直ちにイラク多国籍軍と事後の作戦行動について検討を重ね、イラク人の安全を確保することを最優先事項と定めます(Ibid.: 80)。
その結果、前方作戦基地の削減目標は棚上げにされ、代わりに米軍の支配地域を拡大するための大規模な攻勢作戦が計画されることになりました(Ibid.)。

徹底した攻勢による敵兵站線の遮断

2007年1月上旬のバグダッド周辺における米軍部隊の配置図。
オディエルノが指導した攻勢作戦は米軍がアルカイダなどの武装勢力に甚大な被害をもたらすことになります。

まず2007年1月、オディエルノの第三軍団はまずバグダッド市内に根拠を持つ武装勢力に対して大規模な攻勢を開始し、首都圏の武装勢力を一掃しただけでなく、彼らの後方連絡線を外部から遮断することに成功しました(Ibid.: 80-1)。
首都圏から地方に退却した武装勢力を追撃するためにオディエルノは8月に別の作戦を開始させ、特にバグダッドから北にあるDiyala川沿いの渓谷では念入りな追跡が実施されています(Ibid.: 81)。
2007年6月の米軍部隊配置図。1月と比べてより広範かつ緻密に兵力を展開していることが分かる。追跡が実施された現場のDiyala川はバグダッドからちょうど北北西の方向から流れている河川。
この攻勢の後もバグダッドに潜伏し続けた武装勢力もいましたが、彼らは外部との兵站線が絶たれたために、破壊工作を行う能力は大幅に低下しました。このことを著者は次のように述べています。
「バグダッド内の過激派集団の戦闘力は、後方連絡線・後方地帯の両方を確保することに依拠しており、それらはバグダッドの周辺地域を通過していた。イラク多国籍軍が得た情報によれば、バグダッドの過激派は市内で1日に50回の攻撃を維持するためには、車載式の即席爆発装置やその他の装置の供給を常に必要としていることが判明した。この物資の流入を阻止する戦いはイラク多国籍軍の地形に対する深い認識に依拠していた」(Ibid.: 82)
ここでの著者の議論については違和感を持つ方もいるかもしれません。というのも、爆発物を使った破壊工作であれば、小人数で実施できるため、後方連絡線を維持して、そこから物資の供給を得ることは必ずしも必要ないように思えるためです。
しかし、実際にはバグダッドに潜伏していた武装勢力もやはり兵站線を確保しようとしていたことを第三軍団は掴んでいました。

IEDによる攻撃も兵站線に依拠していた

第三軍団がこのことに気づくきっかけとなったのは、Taji-Tarmiyah地域で2006年12月19日に第一騎兵旅団が襲撃でした。
これは第三軍団が第五軍団から任務を引き継いでから、本格的な攻勢作戦が始まるまでの間のことです。

著者によれば、この襲撃で現地の部隊は500ギガバイトを超える文書と、詳細な地図を入手することに成功しました(Ibid.)。
これらの情報資料によって、イラクで活動するアルカイダがどのような戦略を抱いていたのかを詳細に把握することができたのです。

情報分析の結果によれば、アルカイダはバグダッド市街地を取り囲む周辺地域に即席爆発装置(IED)と防空ミサイルを集中的に配置する構想を検討していたことが分かりました。
その目的は市内に潜伏する部隊が外部との交通手段を確保しておくことだったのです(Ibid.)。これはオディエルノが攻勢作戦を立案する上で重要な情報となりました。

オディエルノの第三軍団が2006年11月に展開してから、2008年2月に撤退するまでの間に、イラクの治安情勢を大幅に改善させることができたのは、こうした敵の弱点を的確に突くことができたためだと言えます。
著者の議論だと、第三軍団の成功は敵の後方連絡線を十分に遮断できるだけの縦深にわたって、連続的に攻勢を指導したオディエルノの作戦術によるものであると評価しています(Ibid.: 83)。

むすびにかえて

これまでのイラクにおける治安作戦の研究では、ペトレイアス(David Howell Petraeus)の功績が注目される傾向にありました。
これはペトレイアスが2007年からイラク多国籍軍司令官を、2008年から中央軍司令官として指揮に当たり、その成果が評価されているためです(文献案内を参照)。

しかし、著者はこの論文でイラクの治安情勢を回復させる上でオディエルノの功績も考慮する必要があると主張しています。
著者自身の言葉を借りれば、オディエルノは「2007年と2008年に成功を収めた作戦の基礎をもたらした」のです(Ibid.: 78)。
この解釈によると、オディエルノが実施した攻勢作戦はペトレイアスが遂行した対反乱作戦を準備するものだったと位置付けることもできるでしょう。

小規模な武装勢力を相手とする作戦であっても、作戦術という概念が有用性を持つという著者の議論は非常に興味深いものです。
正規戦争・非正規戦争という分類を超えて、作戦術が適用可能であるという命題についっては、今後さらに多くの事例も踏まえて検証されることが必要だと思います。

KT

文献案内

Michael Gordon and Bernard Trainor, The Endgame: The Inside Story of the Struggle for Iraq, from George W. Bush to Barack Obama, Vintage, 2012.
2003年から2012年までにかけてイラクで実施された米軍の作戦について包括的に記述しています。第三軍団の功績への言及に欠けていると著者は批判しますが、イラク戦争とその後の一連の治安作戦に関する有益な通史を記した基本文献として価値があるでしょう。


Thomas Ricks, The Gamble: General David Petraeus and the American Military Adventure in Iraq, 2006-2008, Penguin Press, 2009.
2006年から2008年にかけてイラクにおける米軍の作戦をペトレイアスの貢献を中心に記述しています。著者はこの文献で第三軍団の功績に言及されていることを評価していますが、第三軍団が行った作戦の内容に踏み込んでいないことを批判しています。

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2017年11月1日水曜日

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、ヘルムート・フォン・モルトケがいます。

モルトケはプロイセン陸軍でカール・フォン・クラウゼヴィッツの研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。

今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。

モルトケの戦略思想の特徴
ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。
これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。

この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。
いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。

この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。
「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁)
モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。

もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。

モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。

戦略と戦術の関係は一方的なものではない
モルトケの戦略思想の特徴としてもう一つ指摘できるのは、戦術との関係に関するものです。この点についてモルトケはクラウゼヴィッツを引用しながら次のように書き残しています。
「一方、フォン・クラウゼヴィッツ将軍は、戦略とは戦争目的達成のために戦闘を利用することであるといっている。事実、戦略は戦術に戦闘力を付与し、軍を指揮して会戦場裡で激突を行って勝てるだけの可能性を与える者である。だが一方で、戦略はそれぞれの戦闘の結果に適合し、その結果の上に構築される者である。戦術的な勝利の前では戦略の要請は沈黙する。戦略は戦術的な勝利が新たに生み出した状況にしたがうものである」(同上、16頁)
一般に戦略と聞くと、それは戦術の上位に位置付けられる概念であり、戦略が戦術に一方的に指図しているような印象を受けますが、ここでモルトケはそうした印象を払拭しようとしています。

つまり、モルトケの見解からすれば、戦略家の要諦は戦域における彼我の兵力の配置と移動を判断し、必要な時期、場所に必要なだけの我が兵力を集中させることによって、個別の戦闘で戦術家が勝利を得ることを可能にするだけの条件を整えることにあります。

しかし、戦闘の結果には不確実性があるため、敵に対して優勢な戦闘力を集中できたにもかかわらず敗北することもあれば、劣勢なはずなのに勝利を得る場合も出てきます。
そうした状況の変化の一つひとつにきめ細かく対応することが戦略の実務であり、それこそモルトケが考える技術としての戦略なのです。

したがって、「戦略は戦術が適時、適所において付与されることを求める手段を確保するものである」という記述はまさにモルトケの戦略思想の基本であり、それは「科学的原則」を忠実に守ればよいというものではないということです(同上)

むすびにかえて
モルトケは科学を基礎とした創造的技術として戦略を理解すべきと主張したのであって、科学それ自体を戦略から排斥しようとしたわけではありません。
しかし、あくまでもモルトケの関心は実際の戦争指導にあり、理論が重んじられる学術研究ではなかったということは理解しておく必要があるでしょう。

だからこそ、モルトケは戦争には理論化が難しい不確実な領域が大きいという側面を率直に認めることができましたし、学説と実践のバランスをとることもできたのだと思います。研究者のローゼンバーグは次のように述べています。
「モルトケは、戦争の目的は望ましい政治的な結果を達成することであり、そのためには、柔軟で応用的な戦略が必要であるというクラウゼヴィッツの主張にもまったく同意していた。彼は、戦争においてはすべてが不確実であると考えており、固定的なシステムは、彼にとっては排斥すべきものであった。それゆえ、彼は、どのような固定的な原則も確立することは不可能である」(邦訳、ローゼンバーグ、266頁)
モルトケは軍隊の実務で戦争が持つ不確実性は重視する必要があり、そこでは明確な因果関係で説明がつかない事象がしばしば起こることを理解していました。

そうした環境で明確に定式化された戦略理論を機械的に適用すると、意図しない間違いが生じる危険があります。
モルトケはあまりに理論化が行き過ぎた学説の影響力を押さえつつ、実践とのバランスをうまくとることが必要であるということを、自らの戦略思想で示していると思います。

KT

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参考文献
モルトケ「戦略」片岡徹也編『戦略論体系3 モルトケ』芙蓉書房出版、2002年、15-7頁
ガンサー・ローゼンバーグ「モルトケ、シュリーフェンと戦略的包囲の原則」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、263-289頁

2017年10月22日日曜日

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じてナポレオンが選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。
しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。

今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。

ナポレオンの戦略思想の基本
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。
ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。
この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。

チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。
「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162)
このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。

当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。
ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。

ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント
ナポレオンが使用した戦略を図上で一般的に表現した概念図。赤色が敵、青色がフランス軍を表す。敵の前衛を正面で拘束しておき、その間に側面を通過して背面に進出する。この機動によって敵の主力の後方連絡線を遮断し、決戦を強制することが出来ると同時に、敵の増援が戦場に到着することを防ぐことも期待される。
(Chandler 2009: 165)
チャンドラーの説によると、ナポレオンの戦略には5つの基本原則があったとされています。それは次のように説明されています。
「第一に、軍は作戦線を1本だけ保持しなければならない。つまり、目標は明確に規定され、指向可能な全ての部隊が目標に向かわなければならない」
「第二に、敵の主力が常に目標でなければならない。敵の野戦軍を撃破することによってのみ、敵に戦争をあきらめさせることができる」
「第三に、フランス軍は心理的理由ではなく、戦略的理由のために、敵の側面や背面に自らを位置付けるような仕方で移動しなければならない」
「第四に、フランス軍は常に敵のもっとも露出した側面を迂回するように努めなければならない」
「第五に、ナポレオンはフランス軍の連絡線を安全に確保し続ける必要性を強調した」(Ibid. 162)
チャンドラーは、これらの原則に裏付けられたナポレオンの戦略を「戦略的包囲(La manoeuvre sur les derrières)」という用語で説明しています(Ibid.: 163)。
(もともとの仏語に忠実に訳すと「後方への機動」となります)

戦略的包囲では、戦域で敵の主力である野戦軍に目標が限定され(第二原則)、そこに向かって全部隊を集中させることが目指されています(第一原則)。
ただし、その過程で部隊が使う経路として敵の正面を避けるよう機動させますが(第三原則、第四原則)、この際に我が方の後方連絡線の安全が敵に脅かされないような経路を選択する必要があります(第五原則)。

こうしたナポレオンの戦略は、一度その発想を理解してしまうと、その本質は驚くほど単純です。チャンドラーが掲げた五つの原則を理解していれば、ナポレオンでなくても彼の戦略を形式として再現することは可能です。

しかし、こうした戦略も完全無欠なものではなく、いくつかの敵の可能行動について注意する必要がありました。最後にナポレオンが自らの戦略を実施に移す際に考慮しなければならなかったリスクについて考えてみます。

「戦略的包囲」の際に注意すべき敵の行動
大前提としてナポレオンの戦略的包囲は敵情不明な状況で行われることを理解しておかなければなりません。

警戒部隊を先行させながら接敵機動を始めたとしましょう。こちらの前衛が最初に接触し、交戦によって動きを拘束できるのは恐らく敵の前衛であり、敵の主力ではありません。
敵の主力は前衛の背後にいるものと思われますが、その詳細な位置を知ることができるとは限らず、しばしば曖昧な情報しか得られません。

つまり、攻撃目標である敵の主力がどこにいるのかを知らないという状況の中で、司令官は敵の背後に素早く回り込むことを決断しなければならないのです。これは非常にリスク志向の強い戦略なのです。

こうした状況でリスクとして注意すべき敵の可能行動は具体的に三つあります。
一つ目は敵の主力が前衛同士の戦闘が始まった時点で一足先に動き出しているという可能性です。
「もし敵の司令官が十分に勇敢であるなら、拘束する部隊に向けて前進を続けることができる」とチャンドラーも述べているように、敵の前衛が我が前衛と遭遇戦に突入した時点で敵の主力がすぐに前進を開始している可能性があり、そうであれば我が方が戦略的包囲を試みても、それが空振りに終わる危険があります。

それだけでなく、我が前衛は敵の前衛とその応援に駆け付けた主力によって完全に撃破される恐れさえ考えなければなりません。

第二のリスクは敵も同じような戦略的包囲を仕掛けてくる可能性があるということです。
この点についてチャンドラーは「敵はフランス軍の主力の後方連絡線を遮断しようとすることもできる」と述べています(Ibid.)。
戦略的包囲は敵の作戦線を遮断することを狙う戦略であると同時に、我が方の作戦線を危険な状態に置く側面もあります。
戦略的包囲を行おうとする主力同士が同じ道路上を前進して遭遇戦になる可能性もあり、そうなれば戦略的包囲そのものは失敗するでしょう。

最後の可能性は敵が後退する可能性です。敵の前衛が戦闘を離脱し、主力も戦略的包囲を受ける危険を避けるために後退すれば、敵を捕捉撃滅する機会を逃すことになるでしょう(Ibid.)。
戦略的包囲はその後で戦闘に持ち込むことを目的としているため、敵がこのような行動に出れば成功は期待できません。

むすびにかえて
チャンドラーの分析によると、ナポレオンはこうした戦略を1796年から1815年にわたって少なくとも13回使用したとされています(Ibid.)。
ナポレオンの軍事的才能を手放しで賞賛する論者ならば、この数字は彼の戦略家としての大胆さと勝負強さを示しているとして高く評価するかもしれません。
しかし、戦略的包囲という機動にどのような危険性があるのかを考慮すれば、あまりにもリスク指向性が強い戦略家だという見方もできます。

結局、ナポレオンが愛用した戦略にも他の戦略と同じくいくつかの問題があったことを踏まえて、ナポレオンの軍事思想を検討することが必要だと思います。
ナポレオンは19世紀から20世紀前半の戦略思想に比類ない影響を及ぼし、特にフランスでは第一次世界大戦が終わった後さえ軍事学の研究に影響を与えました。
英雄崇拝に陥らないように、また批判的検討の姿勢を欠かさないようにしながら、彼の軍事思想を研究することが大事だと思います。

KT

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参考文献
Chandler, David G. 2009. The Campaigns of Napoleon:The Mind and Method of History's Greatest Soldier. Scribner.
英語で書かれたナポレオン戦争の研究書としては、最も広く読まれた基本文献。邦訳にチャンドラー『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点』全5巻、信山社、2003年があるが、これは2009年に出た改訂版の翻訳ではない点に注意。
ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、Kindle版、国家政策研究会、2016年

2017年10月18日水曜日

学説紹介 米国の覇権はいつまで続くのか

米国を中心とする覇権は今後も存続できるかどうかについては、研究者の間でも議論が分かれていますが、当面では肯定的に見る論者の方が多いと思います。
ただし、彼らを批判する論者も根強く、学界での議論は定まっているとは言えません

今回は、米国の大戦略をめぐる論争をモントゴメリー(Evan Braden Montgomery)がどのように整理しているのかを取り上げ、それを紹介したいと思います。

ディープ・エンゲージメント派の主張
モントゴメリーは米国の戦略論争において二つの学派が形成されていると考えており、それをディープ・エンゲージメント(deep engagement)とオフショア・バランシング(offshore balancing)に区別して考察しています(Montgomery 2014: 118)。

前者の立場に立つ論者は「米国はまだ覇権の費用をまかなうことが可能」と考えますが、後者の立場に立つ論者はより悲観的に情勢を判断し、「条約の履行の多くはもはや財政的に維持し得ない」と考えます(Ibid.)。

まず、ディープ・エンゲージメントを擁護する論者が展開する主張の特徴として指摘できるのは、米国の繁栄を可能にする自由主義的な経済秩序を構築し、これを維持することを構想していることです。

このような国際経済体制を実現することができれば、そこから得られる利益で安全保障上の約束をきちんと履行することは可能であり、引き続き重要な地域の平和と安定を確保する努力を継続することにも繋がると考えられます(Ibid.: 118-9)。

さらにディープ・エンゲージメントの主張を調べていくと、イラク、アフガニスタンでの戦争があったにもかかわらず、米国はGDPの5%にも満たない国防予算で対応することが可能だったという議論も出されており、ブルックス(Brooks)やウォルフォース(Wohlforth)のような研究者は「単一の超大国の世界が直ちに終わるということは極めて起こりにくい」と述べたことがあることも紹介されています(Ibid.: 119)。

つまり、米国は依然として圧倒的な優位を占めているのだから、中国がたとえこれからも経済成長を遂げたとしても、それは米国の地位を脅かすまでには至らないというのがディープ・エンゲージメント派の見解として整理されます(Ibid.: 119-20)。

オフショア・バランシング派の主張
ディープ・エンゲージメント派の見解に対してオフショア・バランシング派の見解はより慎重です。

こちらの立場に立つ論者はそもそも米国は本土から遠く離れた海外基地に部隊を維持することの財政的負担は決して小さなものではなく、米国の勢力を削いでいると考えているためです(Ibid.: 120)。

また彼らは米国の軍事力に頼る同盟国を援助するよりも、独力で対処できるようにして、少しでも米国が不必要な戦争に巻き込まれることがないようにすべきだと考えます(Ibid.)。

モントゴメリーの調査によれば、オフショア・バランシング派の側に立つ論者は増加する傾向にあり、イラクとアフガニスタンでの戦争、金融危機、中国の台頭がその背景的要因としてあることも指摘されています(Ibid.)。

オフショア・バランシングに賛成する論者の一人であるレイン(Christopher Layne)は、もはや米国を中心とする一極構造の時代ではないという見解から、特に中国が台頭していることが「米国の勢力低下を裏付ける最も確固とした証拠」だと述べたことで知られています(Ibid.: 121)。

こうした立場から見れば、海外に駐留させている米軍部隊を縮小させることは、米国の国力を温存、回復させるという意味で非常に重要なことであり、諸外国の防衛に米軍を出動させることにより慎重を期すべきだと考えられます。

その代わりとして、政府は国内の課題に取り組むことが可能となり、財政の立て直しと経済の発展のためにより多くの予算を配分することができるという議論が出されてくるのです。

むすびにかえて
核抑止など米軍の兵力に依存する程度が大きい日本の防衛体制にとって、米国が大戦略としてオフショア・バランシングの路線をとることは望ましいこととは言えません。
それは東アジアに新たな真空地帯を形成する恐れがあり、兵力を縮小するタイミングによっては中国の勢力圏がさらに躍進する事態になりかねないためです。

しかし、ここで示した議論を踏まえると、ディープ・エンゲージメントを維持するためには、米国を中心とする自由主義的な国際経済体制に日本として協力する必要があることも同時に考えなければなりません。
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の交渉をめぐる論争でしばしば日本国内で議論されたことですが、これは決して関税だけの問題ではなく、法規制を標準化する過程で国内の多くの産業に影響を及ぼす可能性があります。そのため、経済政策、産業政策の観点からもよく検討される必要があるでしょう。

この論争ではっきりしているのは、今後も米国が覇権を維持できたとしても、それは現状のまま存続することは難しいということです。日本の大戦略を改めて長期的視野に立って検討しておく時期に来ていると思います。

KT

文献案内
米国の大戦略に関する論争についてより詳細に知りたい場合は、次の論文が参考になります。
Barry R. Posen and Andrew L. Ross, "Competing Visions for U.S. Grand Strategy," International Security, Vol. 21, No. 3(Winter 1996/7), pp. 5-53.
Michele A. Flournoy and Shawn Brimley, eds. Finding Our Way: Debating American Grand Strategy, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2008.(下記リンクあり)

またディープ・エンゲージメント派の議論をより知りたい場合は以下の論文を参照してみて下さい。
Stephen G. Brooks, G. John Ikenberry, and William C. Wohlforth, "Don't Come Home, America: The Case against Retrenchment," International Security, Vol. 37, No. 3(Winter 2012/3), pp. 7-51.
Robert J. Art, "Selective Engagement in the Era of Austerity," in Richard Fontaine and Kristine M. Lord, eds., America's Path: Grand Strategy for the Next Administration, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2012.(下記リンクあり)

オフショア・バランシングに関しては以下の文献が参考になります。
Eugene Gholz, Daryl G. Press, and Harvey M. Sapolsky, "Come Home America: The Strategy of Restraint in the Face of Temptation," International Security, Vol. 21, No. 4(Spring 1997), pp. 5-48.
Christopher Layne, "From Preponderance to Offshore Balancing: America's Future Grand Strategy," International Security, Vol 22, No. 1(Summer 1997), pp. 233-248.

参考文献
Evan Braden Montogmery, "Contested Primacy in the Western Pacific: China's Rise and the Future of U.S. Power Projection," International Security, Vol. 38, No. 4(Spring 2014), pp. 115-149.