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2014年12月29日月曜日

論文紹介 本来の戦略の意味を取り戻す


安全保障学の分野で「戦略」ほど乱雑に使用される概念は他にありません。
戦略という概念は戦争術から派生して発展したものですが、現在では政策の意味で、また経営戦略の分析でも使用されています。

今回は、歴史的考察から戦略の意味を再検討するための論文を紹介したいと思います。

文献情報
Strachan, H. 2006. "The Lost Meaning of Strategy," Survival, 47(3): 33-54.

目次
1.戦略の発達
2.戦略と政策の一体化
3.冷戦と戦略と諌止の戦略
4.古い戦略のための新しい言葉
5.戦略の再発見

そもそも戦略は古代ギリシアの語彙にまでさかのぼることができる言葉で、当初は統帥、将軍を意味していました(Ibid: 34-35)。
しかし、古代から中世にかけて将軍の仕事は戦場に限定されていましたので、現在のように戦域に広く部隊を展開して運用する現代の戦略のイメージからかけ離れていました(Ibid: 35)。

現在我々が一般に知っている戦略という概念を確立したのは18世紀のフランス陸軍の中佐マイゼロア(Paul Gideon Joly de Maizeroy)です。

彼は戦略という概念に新しい意味を与え、「計画を立案するために、戦略は時間、配備、手段、異なる利害の関係を考察し、すべての要因を考慮に入れる」と論じました(Ibid: 35)

ナポレオン戦争で戦略と戦術の区別はより一層明確に認識されるようになります。
例えば、ジョミニの研究では戦略を「図上で戦争を遂行する技術」と定義しますが、これは戦術が戦闘で部隊を展開する技術であるという理解を踏まえたもので、戦術の上位に立って全体の計画立案を行うことが戦略と見なされていたのです。
そして、第一次世界大戦までこうした理解がヨーロッパで受け継がれることになりました(Ibid: 36)。

しかし、第一次世界大戦において戦略の意味には重大な変化が見られました。

著者はフランス、ドイツでは20世紀初頭に戦略と政策の区別が取り払われ、戦争が勃発してから将軍には作戦指導について全面的な自由が与えられなければならない、という説が議論されていたことを指摘します(Ibid: 36-37)。

一方で、イギリスでは戦略の概念に別の変化が見られました。
海洋戦略の研究で知られるコーベット(Julian Corbett)が戦略を大戦略(Grand Strategy)と小戦略(Minor Strategy)に区別したのです(Ibid: 38)。
コーベットは大戦略を政策と関連付けた上で、小戦略はジョミニが考えた戦略の考えを受け入れたのです。

ここでマイゼロアが提唱し、ジョミニが定義した戦略の概念は小戦略として区分され、大戦略というより上位の戦略概念が設定され、その大戦略もさらに上位の政策に従属することが明確化されました。

さらにイギリスではフラー(J. F. C. Fuller)が大戦略の意味に関する分析を発展させており、政策の一部として直接的に構成される大戦略の特徴として、戦時と平時のいずれにも適用されることや、物心両面で国力全体を活用することなどが述べられます(Ibid: 39-40)。

このようなイギリスにおける戦略学の研究成果を踏まえたことによって、リデル・ハートは大戦略の概念を、国家政策によって定義された目標、戦争の政治的目標を達成するために国家の資源のすべてを調整し、指向することとして定義することができました(Ibid: 40)。

フラーやリデル・ハートの研究で、第二次世界大戦以降には戦略を政策との関係から理解することが主流になると、次に政策と戦略の一体化という理解が浸透するようになりました。
著者はこのような一体化が1945年以降の英米における戦略の研究で重大な問題を引き起こしたと見なしています(Ibid: 41)。

冷戦期に入ると戦略という用語は核抑止の研究で使用されるようになり、対外政策との区別が希薄になったことが指摘されています(Ibid: 43)。
例えば、ボーフル(Andre Beaufre)の研究では戦略の種類として、軍事戦略だけでなく、経済戦略や外交戦略も含ませました(Ibid)。
ボーフルに言わせれば、ナポレオン戦争の時代に見られた戦略はすでに過去のものでした(Ibid)。

しかし、著者はボーフルのような見方を「戦略は歴史家のためだけの問題ではない」と批判し、戦略という概念に検討を加える必要を主張しています(Ibid: 48)。
戦略はあくまでも国家が武力紛争を有利に遂行して政治的目的を達成するための構想であり、「それは政策ではなく、政治ではなく、外交でもない」というのが著者が最も強調する主張です(Ibid)。

要約すると、戦略はもともとマイゼロアの議論からはじまって戦略と戦術を区別するところから発生しましたが、次第に戦略の意味が拡大して政策との関連が強調されるようになります。
しかし、政策との一体性が強調されすぎた結果として、戦略と政策を概念として区別することができなくなりつつあるというのが近年の状況ということになります。

乱雑に使われる戦略の意味を問い直すことは、歴史を通じて積み重ねられてきた戦略学の体系のためにも重要なことです。
乱用されがちな現代の戦略概念に有意義な批判を加えた優れた論文であると思います。

KT

2014年12月28日日曜日

論文紹介 軍事技術それ自体は解決策ではない


あらゆる軍事技術はまず戦場でその効果を発揮しますが、必ずそれは戦略的な影響をももたらします。
したがって、軍事技術を理解するためには、戦術と戦略を深く理解することが必要となります。

今回は1970年代に登場したミサイルの技術が西側陣営の防衛力を高めるのではなく、かえって危険にしている側面があると指摘した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Kennedy, R. 1978. Precision ATGM's and NATO Defense, Carlisle: Strategic Studies Institute U.S. Army War College.

1970年代、精密誘導の技術が向上すると、西側では対戦車ミサイルを活用することで歩兵でも簡単に戦車を撃破することができるという楽観的な見方がありました。

それ以前の陸上戦闘では、一般に機甲師団が高い攻撃能力を持つという前提から、陸軍の中核的存在として位置づけられており、実際にソ連軍は西側よりも多くの機甲戦力を保持していました。

しかし、対戦車ミサイルがNATOの部隊に配備されたことによって西側の防御能力はWPの攻撃能力に優越する可能性があると西側の専門家の間で考えられていたのです。

しかし、この研究で著者が指摘しているのは、機甲師団の戦闘効率が対戦車ミサイルにより低下すると、ソ連の軍事戦略における核戦力への依存度がより増大するという点でした。
「対戦車誘導弾技術が陸上戦術に革命をもたらし、戦車による攻撃を潜在的に放棄することが議論されるようになった今日、ソ連としては対戦車防御を突破する手段として初期から考えていた核兵器に依存する戦略に復帰することに強い誘惑を感じただろう」
これは多くの専門家にとって意外な指摘でした。

専門家たちは問題をWPの中核である機甲師団の攻撃を対戦車ミサイルによって阻止することだけに限定していました。
そのため、ソ連の軍事戦略の全体像が見過ごされ、核戦力によって機甲戦力を補完する可能性を十分に考慮に入れていませんでした。

著者は、ソ連が核戦力を重視する軍事戦略に回帰した場合に予想されるシナリオを次のように考察しています。
「ソ連の専門家が書いているように、核攻撃を予想するとき防御者はその部隊を分散しておかなければならないし、防御者に対してきわめて精密な命中精度の核攻撃を実施すれば、攻撃者の歩兵は装甲兵員輸送車から下車することなしに早い速度で進撃作戦を続行することができる」
「しかし、この攻撃者も防御者から核による反撃を予想しなければならないので、戦場にある攻防両者のチェス盤のように格子模様に区分した広い地域に戦車部隊を分散して作戦しなければならない。このような作戦は事実上『核の敷居』を低くする。精密誘導武器は核の敷居を高くすると主張する人が多いが、ソ連の核の奇襲は核の敷居を低くする潜在力を持っており、歓迎されるべきことではない」
少し長い引用ですが、ここで議論されているのは精密誘導技術で対戦車戦闘を有利に戦うことができたとしても、結局は西側の防御能力を向上させることはできないという見方です。

第一に、対戦車戦闘だけで考えれば確かに精密誘導技術の導入で防御者である西側に有利になるでしょう。
第二に、精密誘導の技術が拡散すると核攻撃の精度も同時に向上するため、核攻撃の目標とならないように防御者、攻撃者の両方が広い地域に部隊を分散させる必要を生じさせます。
第三に、防御者の西側陣営が広い地域に部隊を分散させるほど、攻撃者である東側は前線を突破することがより容易となります。

したがって、精密誘導技術によってNATOの防御能力を改善することができるという意見には問題があるだけでなく、結局のところWPの攻撃を容易にする側面もあるということになります。

もしソ連が核戦力を重視しない場合でもNATOの対戦車戦力の強化に対して第二の対抗策が考えられるということも指摘しています。その対抗策とは、砲兵火力の増強です。
「ソ連の対戦車誘導ミサイル論争で重要な位置を占める第二の選択は野砲の役割である。対戦車誘導ミサイルの射手は防御物がなく、射手のいないミサイルは発射できない。しかし、ミサイルは発射後目標に命中するまで射手が目標の照準を続けなければならない。これらはこの種のミサイルを圧倒的な野砲の火力の前で極めて脆弱なものにしている。ソ連の多くの専門家は核兵器の助けを借りなくても野砲の火力によって敵の対戦車ミサイルを十分に撃破できると述べている」
現在の対戦車ミサイルでは自動誘導も導入されていますが、この研究が発表された当時の技術では撃ち放しができませんでした。
そのため、防衛線に対戦車ミサイルが配備されたとしても、その射程は限られていました。

ソ連軍としては、戦車部隊を進める前の段階で砲兵の支援射撃で対戦車ミサイルが配備された陣地を無力化しておけば、突破することは可能であると考えられていたのです。
したがって、やはり対戦車ミサイルによって西側が東側の攻撃を抑止することができるとは認められないという結論になります。

今回の結論としては、軍事技術それ自体が戦略の問題を解決するわけではないことが今回の研究で示唆されています。
新たな軍事技術が導入されたとしても、相手はそれに対応するためさまざまな戦術的、戦略的な選択肢を編み出すことができることを考慮しなければなりません。

だからこそ、軍事技術を軍事教義に結び付ける戦術、戦略の研究こそが最も重要だと言えるのではないでしょうか。

KT

2014年12月22日月曜日

論文紹介 フランス史における動員能力の変遷

戦争の歴史を振り返ると、国家は絶えず多くの軍事要員を動員する能力を拡大させてきたことが分かります。
最古の戦争の記録によれば、古代エジプト王朝が動員可能だった軍隊はおよそ2万名の規模と記録されていますが、第二次世界大戦の記録ではソ連軍は600万名以上の部隊を動員していました。これほどの動員能力の向上はどのように発達してきたのでしょうか。

今回はフランスの事例を取り上げて、その陸軍の規模がどのように変遷してきたのかをまとめた研究論文を紹介したいと思います。

論文情報
Lynn, John A. 1990. ''The Pattern of Army Growth, 1445-1945.'' in Lynn, J. A., ed. Tools of War, Urbana: University of Illinois Press, pp. 100-127.

この論文の趣旨は1445年から1945年までの500年に及ぶフランス陸軍の規模をがどのように発展したのかを解明することです。著者はフランス軍の規模の変化を調査し、そこから国家体制が発展した推移、近代化の過程を検討しています。
1445年から1945年までのフランス陸軍の規模の推移。
y軸が1000名単位の仏軍の兵員(総人口に関しては100万単位)、x軸は年を表す。
実線は平時の規模、点線は戦時の規模、半実線はフランスの総人口を著す。
(Lynn, 1990: 7)
著者は研究対象の500年間を四分割していますが、この時期区分によると、第一期(1450年以降)における平時の陸軍の規模は10,000名から25,000名に過ぎません。
この時期のフランスはオーストリアと争っていた時期に該当します。一連の戦争で国力が衰退した影響から1589年に王朝が交代することになるのですが、その影響がグラフでも確認でき、戦力低下が一時的に見られます。

1678年以降の第二期に入ると、軍隊の規模が150,000名の水準にまで増員されています。
この時期にフランスを統治していたのはルイ十四世であり、彼は数多くの征服を行っていますが、これを財政、行政の側面から支援したのは大蔵大臣のジャン=バティスト・コルベールでした。
彼は税制を改革し、産業を振興し、さらに関税を重視し、フランスの植民地戦略を指導する役割も果たしており、フランスの税収を3倍にも伸ばす画期的な功績を残しています。
貴族を政府の監視下に置くために、かの有名なヴェルサイユ宮殿を建設したのも、ちょうどこの軍拡の時期と対応しています。
貴族の動向を監視し、彼らの状況を細かに掌握することだけでなく、その中で軍事的能力を持つ貴族を積極的に取り立てて、フランス軍の強化を推進しました。

第三期に入るとさらに平時の陸軍の兵員は352,000名から412,000名に急激に増員されます。
この時期はちょうどナポレオン戦争の時代に該当しており、フランスが平時から編成する部隊の数を増大させていることが分かります。
この時期に国家体制の改革として実施された一つが一般徴兵制度の導入であり、このことによって戦時に動員されるフランス軍の規模が400,000万名程度から1,000,000万名の水準へと爆発的に増えていることがグラフから読み取れます。
これはヨーロッパ各国ではまだ見られなかった制度であり、歴史的にも重要な転換点となる兵役制度の改革でした。

そして最後の第四期に入ると最大650,000名の軍事力をフランスが組織したことが示されています。
この時期のフランスは国民国家を基礎づける軍事行政上の仕組みを全て整えていました。
すでにフランス経済は工業化されており、義務教育によって識字率も向上し、近代社会が成立していた時代です。
一般徴兵制度が根付き、予備役の制度も定着したことから、人的損害を速やかに補填することが可能となっていました。
特に第一次世界大戦でフランスが動員した部隊の規模はおよそ4,000,000名であり、増加する速度が極めて早くなっていることが見て取れます。

本論文の結論において指摘されていることは、国家が動員可能な部隊の規模は常にその国家の行政的能力の向上と関係しながら直線的というよりも指数的に増大してきたことです。
人口の推移を考慮しても、フランス軍の動員能力は人口の推移と対応して発展してきたわけではありません。19世紀以降の動員能力の拡大は人口の推移をはるかに超える速度で増加しています。
フランスが大国として台頭した要因はその軍事力ですが、軍事力も純粋な戦闘効率だけで判断するのではなく、その背後にある国家の行政的能力、つまり動員力からも理解することが重要であると分かります。

KT

2014年12月17日水曜日

論文紹介 作戦指導における機動戦と消耗戦の相違


一般に安全保障における活動で最も包括的な分析レベルは戦略であり、最も限定的なのは戦術であると考えられています。

戦術と戦略を別の次元として区別することは依然として重要なのですが、相互の密接な関連が見落とされる危険があります。

今回は安全保障学における戦略と戦術の領域を総合するために重要な、作戦という概念を考察し、それを消耗戦と機動戦という類型で分析したエドワード・ルトワックの論文を紹介したいと思います。

論文情報
Luttwak, E. N. 1980/1981. "The Operational Level of War," International Security, 5(3): 61-79.

ルトワックがこの論文で提起した問題というのは、安全保障学では戦略という分析レベルが注目されているものの、作戦という分析レベルの重要性が見過ごされているのではないかという点でした。

ルトワックの見方では、戦略レベルにおける戦争と戦術レベルにおける戦闘という二つの研究対象を関連付ける上で、中間の分析レベルである作戦が重要であると考えられました(Luttwak 1980/1981: 63)。

しかし、この作戦についての研究を発展させるための専門用語が整理されていないという問題があり、そのことが研究を困難にしていたとルトワックは判断しています。

この問題への対策として、作戦を分析する方法として消耗戦(Attrition Warfare)と機動戦(Maneuver Warfare)に区別することを提案しています。

これら類型について論文では次のように説明されています。
「一般的に言えば、消耗は戦力が戦力に対して適用されることを必要としている。勢力を使用する上で効率を確実にするために目標が集中していることが求められるため、敵が攻撃を受ける時間と場所において敵もまた強力でなければならない。それとは反対に、相対的な機動の出発点は厳密に敵の戦力を回避することであり、しかる後に(物理的または心理的に)敵が弱点とする一側面に対して選択的な戦力を使用することである」(Luttwak 1980/1981: 64)
したがって、消耗戦という作戦の形態では勢力の優劣が戦闘の勝敗に直結する点が特徴となるのですが、機動戦においては戦闘の勝敗を勢力の相対的な比較だけで考察することができません。

もちろん、これらは概念の上での整理であって、現実の戦争は消耗戦と機動戦を組み合わせて行われていることをルトワックは認めていますが、その作戦の全般的な方針としてどちらの構想を重視するかにより戦略の形態に重大な変化が生じると指摘されています(Luttwak 1980/1981: 65-66)。

機動戦の事例として挙げられるのが、第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦です。

当時のドイツ軍の電撃戦にもさまざまな側面があったのですが、ここでは要点のみを述べるとすれば、それは縦深が十分ではない広域の防衛線に対して、航空支援と機甲部隊を特定の地点に集中的に使用する作戦であり、戦術的には突破、浸透、戦果拡張の三段階から構成されています(Luttwak 1980/1981: 67-68)。

この事例から機動戦の原則としては、(1)可能な限り敵の主力を回避すること、(2)あらゆる段階で欺瞞が決定的に重要であること、(3)無形の戦力が重要であること、という三点が挙げられています(Luttwak 1980/1981: 70-72)。

消耗戦の事例として挙げられているのはノルマンディー上陸作戦であり、ドイツ軍の主力を別の方面に誘致するための欺瞞を実施しているのですが、基本的には敵の戦闘能力で処理することが可能な範囲を超える規模の部隊を大量に投入する点が特徴です(Luttwak 1980/1981: 77-78)。

消耗戦は機動戦よりも敵の主力を捕捉して打撃することを主眼に置いているため、有形の戦力、特に部隊の相対的な規模が重要な意味を持っています。

最後に、この論文の成果として重要な点は、安全保障学における戦略の研究と戦術の研究の相互関連を認識した上で、それを分析するためのモデルを定式化して見せたことだと思われます。

ルトワックは戦略理論として垂直的・水平的論理の重要性を主張したことでも知られていますが、この論文においても戦術・作戦・戦略という階層に一貫した垂直的論理が働いていることを示唆しています。

それ自体が優れた戦略であったとしても、それを実行するためには作戦として具体化される必要があり、そこで消耗戦と機動戦という選択が重要な意味を持つことになるのです。

KT

2014年12月13日土曜日

文献紹介 軍医たちの戦争


戦争を物語る文学や映画では、銃弾を受け、手足を失い、血を流す兵士たちの姿が描かれ、私たちに戦争の悲惨さを印象づけますが、そこで話を終わらせてはいけません。

負傷した兵士たちはまだ生きており、彼らを回復させることができれば、兵士たちに与えた教育や訓練を無駄にせず、部隊に復帰させることも可能となります。

したがって、軍医に与えられた任務は単に人道的な意義を持つだけではなく、兵站の観点からも重要であり、その役割は国家安全保障に大きく寄与するものです。

今回は、こうした観点から南北戦争の事例における米陸軍衛生部の活動を記述した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Duncan, L. C. 1987. The Medical Department of the United States Army in the Civil War, Gaithersburg: Olde Soldier Books.

目次
1.はじめに
2.ブル・ランの戦い
3.ヴァージニア戦役
4.救急部隊と野戦病院の発達
5.米国史上、最も血が流れた日、アンティータムの戦い
6.フレデリックスバーグの戦い
7.南部の絶頂、ゲティスバーグの戦い
8.西部戦線の最大の戦い、チカマウガの戦い
9.荒野の戦い
10.シャーマンが南進する時

この著作で記されている南北戦争は1861年から1865年にかけてアメリカ合衆国とアメリカ連合国の間で戦われた戦争であり、開戦当初に合衆国は大陸北部、連合国は大陸南部に多くの支配地域を有していたことから、日本では南北戦争という名称となっています。

米国史において南北戦争の特徴はその動員された兵士の規模と人的損害が大きかったことです。
南北両軍を合計すると240万名以上の兵士が動員されました。
戦場で発揮される火力も向上していたために、最終的には50万名以上の死者を出しています。

この研究で描かれているのは、この戦争で負傷者の治療に当たった米陸軍衛生部(以下、衛生部)の歴史であり、戦闘の推移に従って衛生部の組織や体制が整備されていった経過が述べられています。

南北戦争が勃発した当時、戦場で負傷者にどのような処置を与え、後送し、治療するかという計画は一切なく、緊急搬送という面で大きな課題を抱えていました(Duncan, 1987: 1)。

すでに1859年に米陸軍の軍医たちは救急搬送の重要性を認識しており、専門とする部隊の重要性について政策提言も出していたのですが、上層部で受け入れられていなかったためです(Ibid)。

当時の北軍の規模はおよそ35,000名であり、5個の師団に編成されていました。
この時の軍医長(Medical Director)は軍医のキング(W.S. King)という少佐でした。キング少佐は絶えず階級の低さから業務上の権限にも制約が多かったことが指摘されています(Duncan, 1987: 2)。

キングは戦場で発生する負傷者の緊急搬送のために各連隊で相応の準備が必要だと考え、北軍の現有勢力から考えれば、各連隊に600名から800名の衛生要員、20両の馬車を配備することが必要だと具申していました。
しかし、この具申は形式的な承認が得られただけで実際の人員や装備は別の部門へ優先的に配分されたために、具体化することはありませんでした(Duncan, 1987: 2)。

そして、キングが危惧した通りブル・ランの戦いで負傷者の救急搬送が深刻な問題として浮上します。
南北戦争で最初の一大会戦となったブル・ランの戦いで予想を超える負傷者が発生し、救急搬送のための要員や装備が著しく不足したためです。

当時の戦場での医療体制の概要としては、連隊ごとに1名から数名の軍医が配属されており、彼らの指揮の下で野戦病院が設置されていました(Ibid)。
負傷者は自力でそこまで移動するか、他の隊員の助力を得て搬送されるという仕組みでした。

当時、戦場に展開していた28個連隊の野戦病院で処置することが可能な負傷者の規模は700名程度でしたが、実際にブル・ランの戦いが始まると負傷者は800名を超えて増加し、たちまち処置が追い付かなくなります(Ibid)。
しかも、戦場では自力で移動することができない多数の重傷の負傷者が放置された状況にありました。

北軍の記録によるとブル・ランの戦いで戦死者483名、負傷者1011名、合計1491名の損害が発生しました(Duncan, 1987: 17)。
この戦闘から間もなくキングは現地に入り、負傷者たちの後送のために必要な装備として馬車の調達を手配しています。
しかし、上層部は命令を執行するために必要な政府の承認を得ることができませんでした(Ibid)。

その最大の要因は、戦場での緊急搬送の必要が国民からほとんど認知されておらず、いったい何のためにそれほど大量の馬車が必要かが議会で理解されなかったことが挙げられます(Ibid)。
政治家は現地でどれだけの負傷者が出ているかを知らず、また軍部も説得に失敗してしまいました。

キング少佐や他の軍医たちにとっては耐え難いことではりましたが、負傷者を搬送するための馬車は現地で負傷者を一人も乗せることなく基地に戻らざるをえなかったのです。

キング少佐は1862年にその任を離れることになり、米陸軍衛生部を去ることになりました。
しかし、その後も医療体制の問題は繰り返し表面化し、特に緊急搬送の問題点については現場での試行錯誤が繰り返されながら改善が重ねられていきます。

長くなりすぎましたので、ここではこれ以上の詳細を述べることはしませんが、本書は近代戦闘の様相に対処するため軍医たちが陸軍の体制を変革させた歴史を知ることができる名著であり、兵站学の観点から見て重要な価値を持つものと言えます。

戦争で戦っているのは兵士だけでなく、後方の軍医たちもまた戦っていたことを、この米陸軍衛生部の歴史はわれわれに伝えているのではないでしょうか。

KT

2014年12月12日金曜日

二正面作戦は本当に不利なのか


戦略学の問題の特徴は個々の戦闘での部隊の行動よりもむしろ、政治的目的を達成するために部隊の作戦行動の全般を指導する点にあります。

戦略には集中の原則のような、いくつかの原則があると考えられていますが、その一つとして「二正面作戦は不利である」という主張がなされる場合があります。

しかし、この主張は厳密には正しいものではありません。今回は二正面作戦というものが戦略理論としてどのように理解されているかを紹介したいと思います。

戦略の観点から図上で彼我の部隊の配置を判断する場合に重要なのは基地と部隊が配備される方向、すなわち戦略正面であることは以前の記事で触れましたが、もう一つの重要なポイントとして内線(Interior Lines)と外線(Exterior Lines)を区別することも挙げられます。

左が内線作戦、右が外線作戦の概念図。
内線作戦では二正面で敵の侵攻を阻止しながら、一正面の敵を打撃している。
一方で外線作戦では二正面から敵を打撃している。
(Kim 2012: 156)より引用。
上図は内線・外線を概念的に区別した図であり、部隊を展開する場合に彼我の相対的な位置関係では二種類のパターンがあることを示しています。

内線作戦は我の部隊が敵の部隊に対して中心的な位置を占める位置関係で実施する作戦であり、次のような定義を与えることができます。

「(内線作戦とは)数方向の外方から求心的に向かって作戦を行う敵に対し、わが後方連絡線を内方に保持して行う作戦をいい、全体の結合をもってこの目標に対するものである」(内田1999: 168)

内線作戦では味方の戦力を集中させることが容易であるのに対して、敵が複数の方向に分散しています
反対に外線とは我の部隊が分散しており、敵の部隊は一か所に集中する関係にあります。

「(外線作戦とは)敵に対し後方連絡線を外方に保持して数方向から求心的に行う作戦をいう」(Ibid)

一般に二正面作戦と呼ばれている作戦は戦略学では外線作戦と呼ばれるものであると言えます。

ここで内線・外線の相対関係に議論を進めると、両者のどちらにも有利な側面と不利な側面があり、どちらが決定的に不利ということは言えないと考えられています。

外線作戦の最大の不利は「戦闘力の分離を生じ的に乗ぜられる危険性」が指摘されていますが、同時に有利として「位置正面の作戦の成果を直ちに他の正面に及ぼすことができ」と述べられています(Ibid)。

また内線作戦の不利は「後方連絡線に対し脅威を受けやすい」という特性が指摘されていますが、反面で「敵の兵力分離に乗じてこれを各個に撃破できる」と説明されています(Ibid)。
このことは、複数の正面で戦うこと自体が直ちに戦略上の不利であると言い切ることができないということを意味しています。

結論として、二正面作戦が常に不利であるという主張は戦略上の原則ではなく、内線作戦と外線作戦を指導する上で異なる注意が必要とされるということを誤解したものであると考えられます。

内線作戦と外線作戦の歴史的事例については別の機会に触れたいと思いますが、国家が戦略上の内線・外線のどちらの態勢に置かれるかは、その国家が置かれている地理的環境と国際関係によって変化する傾向にあります。

ナポレオン戦争におけるフランスや、第一次世界大戦でのドイツ、第二次世界大戦での日本の戦略でも見られたように、外交上で敵対する隣国の数が増加するほど、戦略上の態勢としては外線に制限されやすくなるということです。

だからこそ、戦略では武力だけではなく交渉を展開し、自国の安全保障上にとって有利な戦略正面を選択することが必要となるのです。

KT

参考文献
内田政三「現代の陸上戦力」防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年、152頁-175頁
Kim, J. D. 2012. Planning for Action, Campaign Concepts and Tools, Fort Leavenworth, KA: U.S. Army Command and General Staff College.

2014年12月7日日曜日

文献紹介 外交官のための指南書

16世紀のフランスの大使Jean de DintevilleとGeorges de Selveの肖像画
今の国際情勢に精通している人物であれば、誰でも外交が重要であることは理解していますし、そのことを改めて問い直すことは必要ないかもしれません。
しかし、現代の外交の意義が十分に認識されていなかった時代においては、外交の重要性を主張することは極めて重要なことでした。

今回は外交の研究において古典と評価されるカリエールの著作を紹介し、外交官に要求される能力に関する記述のいくつかを示したいと思います。

文献情報
Callières, F. de. 1716. De la manière de négocier avec les souverains, Paris: Michel Brunet.(カリエール『外交談判論』坂野正高訳、岩波書店、1978年)

(目次は本記事の末尾)

この著作が書かれた背景には近世ヨーロッパの国際情勢が関係していました。
カリエールが生きた時代のヨーロッパ大陸ではブルボン王朝とハプスブルク王朝という二大勢力が存在していました。

こうした二極的な勢力構造では攻勢に出ても戦果を上げることが困難であるため、各国間で継続的に交渉を実施する技術が必要とされていました。
したがって、フランスでは今でいう外務省の在外公館で使節として働く要員を選抜し、教育、管理する必要が高まっていました。

しかし、当時には外交という業務の具体的な内容はそれほど知られておらず、そもそも為政者が外交の重要性に自覚的であるとは限らなかったのです。
そのような状況からカリエールは外交の意義や業務の全般を解説した著作を執筆する必要があると判断しました。

ただし、カリエールの時代にはまだ外交(Diplomacy)に該当する用語は存在せず、もっぱら交渉に当たる言葉が使用されていました。しかし、カリエールの著作には現代の外交にも通じる考察が少なくありません。
「交渉にどのような効用があるかをよく知るためにはヨーロッパを構成するすべての国家が相互の間に回避することができないさまざまな結びつきや関係があり、そのためにこれら国家はあたかも一つの同じ国家の部分のようなものであり、そのいずれかの部分に大きな変動が生じると必ず他のすべての部分に動揺が及ぶということに注目しなければならない」
外交交渉の良否がどのような結果をもたらすかについて、カリエールはいくつかの例示を示しながら説明しています。

例えば、大国で政変に引き起こし、国益に反するにもかかわらず外国を戦争に参戦させ、反乱をけしかけ、同盟を締結させ、また条約を破棄させることは、いずれもカリエールにとって外交交渉がもたらしうる結果と考えられています。

カリエールが紹介している事例にリシュリュー枢機卿がスウェーデン軍に働きかけてオーストリアが支配するドイツに侵攻させた事例があります。
「彼はそれより以前に北方においてスウェーデン国王グスタフ・アドルフをドイツに侵攻させて、ドイツをオーストリア王家の支配から解放させようとし、これに成功した。オーストリア王家は当時ドイツに専制的支配をしき、同地の君主たちの所領を奪い、その領土と高い官職や地位を自由に処分して味方や子分にくれてやっていた」
ここで言及されているのは三十年戦争での事例なのですが、当時のフランスはすでに南部で国境を接するスペインが敵対するオーストリアによって支配されていました。
したがって、ドイツにまでオーストリアの影響が及べばフランスは南部と西部の両方の防衛線に対して重大な脅威が及ぶ危険があったのです。
「ヨーロッパ諸国に配置された選り抜きの少数の外交官は彼らを派遣する君主ないし政府に対して大いに役立つことができる。彼らはしばしば軍隊を維持するにも劣らない効果をわずかな費用で挙げる。なぜなら、彼らは任地の軍隊を主君の利益になるように行動させる技術を心得ているからであり、近くや遠くの同盟国がちょうどうまい時期に牽制のための作戦行動をしてくれるほど有益なことはないのである」
ここでカリエールは外交に伴う費用と軍隊に伴う費用を比較しています。
ある国家が保有することができる軍事力には限界がありますが、外交を駆使することで作戦に投入される部隊の規模を増加させることが可能であることが示唆されています。

カリエールの著作の大部分は外交官の職務に関連する事項に関する記述であり、細かい慣習については現代の実態とは適合していない部分もあります。
しかし、外国の有力者から信頼を獲得することを外交官は何よりも重視する必要があること、外国における情報の収集の方法、本国からの訓令を実行することなど、現代にも通用する教示も多く見られます。

特に外交では個人的な人間関係を適切に処理しなければならない場面も多く、政府の首脳部を構成する要人の気質や性格、趣味を注意深く観察することの重要性なども述べられています。

こうした記述を見れば、時代や地域は異なっても外交という業務の本質までもが変化しているとは言えず、カリエールの著作は常に新しい時代背景の下で読み返される価値があると私は考えています。

KT

目次
1. 本書の構想
2. 交渉の効用について
3. 交渉官の資質と行状について
4. 交渉官の備えるべきその他の資質について
5. 交渉官にとって必要かつ有益な知識について
6. 大使、派遣使節並びに駐在使節について
7. 教皇特使、教皇大使並びに教皇公使について
8. 交渉官の職務について
9. 使節団の特権について
10. 使節団の間で交わされる儀礼について
11. 信任状、全権委任状並びに旅券について
12. 訓令について
13. 出発に先立って大使や派遣使節のなすべきこと
14. 交渉官が外国の宮廷に到着したときになすべきこと
15. 君主とその大臣たちにうまく取り入る方法
16. 交渉の方法についての意見
17. 外国で交渉を行う大使その他の施設に対する注意
18. 条約と批准について
19. 公信とそこで守るべきことについて
20. 暗号で書かれた書簡について
21. 交渉官の選択について
22. 交渉官の選択についての意見
23. 同じ国家への複数の交渉官を送ることは有益か
24. 交渉官に特有の義務について

2014年12月6日土曜日

論文紹介 機動戦略に伴う軍事的リスク


平成26年度以降に係る防衛計画の大綱」では将来の自衛隊の防衛戦略の基本的指針として「統合機動防衛力」と呼ばれる防衛構想を実現することが示されています。

国民がこの構想の是非を検討する一つの着眼点となるのが、この構想で機動を重視している特徴です。
戦略上の防御には大きく分けて消耗を主眼とする防御、そして機動を主眼とする防御の二種類があるのですが、この防衛戦略は後者に重きを置いた戦略構想を重視することを含意しています。

今回はこのような防衛戦略にどのような危険が含まれているかを冷戦期におけるNATOの戦略についての研究を紹介した上で考察してみたいと思います。

文献情報
Mearsheimer, J. 1981/1982. "Maneuver, Mobile Defense, and the NATO Central Front," International Security, 6(3): 104-122.

1.機動と機動防御
2.理論における機動防御
3.機動防御とNATO
4.ソビエトの脅威
5.機動防御と危機の安定性
6.結論

機動戦略か、消耗戦略か

著者のミアシャイマーがこの論文を執筆した時期はちょうどレーガン政権の軍拡が注目を集めていた時期でした。

当時、中欧地域で西側陣営が東側陣営に対して軍事的に劣勢な状態に置かれていることが問題とされており、レーガン政権でこの勢力不均衡を是正するために軍事力の増強が推進されていました。

しかし、このような取り組みに対しては多くの研究者から批判が加えられていました。
というのも、米ソ間の勢力不均衡はアメリカ軍の過剰に高額すぎる武器体系と、それに依存した前方防衛(Forward Defense)という脆弱な戦略に起因するものであったためだと考えられていたためです(Mearsheimer 1982: 104)。

前方防衛の要点は東西ドイツの国境地帯に沿ってNATOの防衛線を設定した上でWPの攻撃をその防衛線上で阻止し、敵に損害を強要することでそれ以上の侵攻を断念させるという戦略であり、その前提にあるのは機動戦略ではなく消耗戦略の考え方です。

レーガン政権がいくら軍事予算を増額したとしても、前方防衛のような不完全な戦略を採用する限りは米ソ間の勢力不均衡を是正することは不可能であり、機動を志向する戦略へ転換しなければならないというのが従来の批判者の見解でした(Ibid: 104-105)。

NATOの戦力は機動戦略に適さない

この論文における著者の意図は、このような従来の批判者の見解を批判的に検討することでした。
機動戦略に基づいたNATOのヨーロッパ防衛の実現性がどの程度かを見積もることが重大な研究課題として持ち上がったためです。

この論文では第一に、機動戦略には消耗戦略よりも遥かに高度な能力が要求される難度の高い戦略であるため失敗の危険が大きくなるものの、消耗戦略と比べて高い戦闘効率を可能にする軍事戦略であることが確認されています(Ibid: 110-114)。

機動戦略の長所と短所を踏まえた上で、著者は中欧地域に配備されたNATOの部隊は機動戦略に基づく防衛に不向きである理由を次のように整理しています。

(1)NATOの部隊は連合部隊であり、使用する言語や武器の体系、訓練の水準がそれぞれ異なるために、機動戦略に求められる高い精度で実施されるべき部隊行動を調整することが困難。
(2)西ドイツの狭隘性が機動的な部隊の運用に不向きであり、特にドイツ防衛の要であるフランクフルトが国境からわずか100キロメートルの地点に位置しており極めて脆弱。
(3)西ドイツの地形的特質として機甲師団の運用に適当な平野部が少ない(Ibid: 114-116)。

予想される東側陣営の攻撃軸

著者はWPが攻勢作戦を実施するとすれば、ハノーヴァーを攻撃の重点とするシナリオ、ゴッティンゲンを重点とするシナリオ、フランクフルトを重点とするシナリオが考えられると論じます。

冷戦期のNATOの防衛線に対するWPの攻撃目標を図示した地図。
WPの攻撃目標の候補は西独のハノーヴァー、ゴッティンゲン、フランクフルトの三都市。
(Mearsheimer 1982: 117)より引用
著者の見解によれば、NATOの防衛を考える場合に機動戦略に基づいて防衛計画を立案しても、それを実行する際には多大な困難を伴うことが予想されます。
「機動防衛は消耗戦に対する代替案を提供することに失敗しているだけではない。それは潜在的に不安定な状況を出現させもするのである。もしNATOの部隊が機動防衛を実行することができるならば、そのような部隊は間違いなく重大な攻勢的能力を保持することになる。すでに述べたように、機動防衛は実際には非常に攻勢的思考を持つ防衛戦略である」(Ibid: 120)
ここで指摘されているのは、安全保障のジレンマの問題であり、本来であれば防衛を主眼とするはずのNATOの戦略が攻勢的になれば、防勢的な戦略を選択するよりもWPが侵攻する危険を高める恐れがあります。

戦略機動の難しさを軽視すべきではない

この論文が結論で述べていることは、戦略的機動を基礎とする防衛計画が持つ危険性です。
機動戦略は消耗戦略よりも実施が困難であり、高い水準の練度や機動を可能にする装備が必要となるだけでなく、NATOが戦略正面とする地域や、その基本方針には適しているとは言えません。

著者はNATOの現状で機動防衛を採用することは回避するべきであり、従来の前方防衛戦略を放棄するより堅実に実施することがより重要であると主張しています(Ibid 121-122)。

冷戦期における自衛隊の防衛計画が依拠していた構想は、理論的に見れば前方防衛に近いものだったと言えます。
しかし、その戦略構想を捨てて統合機動防衛力へ移行するのであれば、従来と大きく異なった教義、編成、装備、計画が必要となってきます。

私は決して一概に自衛隊が機動戦略に移行することの有効性を否定する考えを持っているわけではありません。
しかし、機動戦略に伴う軍事的な危険性、技術的な困難性が国民に理解されておらず、自衛隊の内部で議論が自己完結しているのではないかという懸念を抱いています。

戦略の選択は安全保障の要であり、国家の存続を分ける重大な決定です。
日本の防衛をどのような戦略で実現するかという論点はより幅広い人々に議論される価値があるはずです。

KT