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2015年2月28日土曜日

演習問題 どこまで複雑な戦術ならば通用するのか


命令が単純明快であることは、戦術の実行可能性を左右する重要な条件です。

今回は、この論点について考察するために、第一次世界大戦中の1918年10月に起きた事例から戦術問題を出してみたいと思います。
今回の状況は参考文献で取り上げられているものですが、作問のために一部手を加えています。

状況
1918年10月10日早朝、米軍の第30歩兵連隊は砲兵の突撃支援射撃の後に小村落Cunelに向けて前進、攻撃せよという命令を受けました。

連隊の作戦地区となっている地域は下図の境界線の右側の地域で、小村落Cunelの南方の丘陵に防御陣地が構築されています。
さらに連隊の主力である第1大隊と第2大隊は森林地域Bois de Cunelに展開していました。第3大隊は予備として、さらに後方に拘置されていました。
第30歩兵連隊の作戦地区は境界線(―III30―)の右側。
森林地Bois de cunelと小村落Cunnelの中間の丘陵に敵の野戦陣地が構築されている。
第30連隊隷下の第1大隊と第2大隊は森林地域に展開している。
(Infantry Journal 1939: p. 36)より引用。
第1大隊はBouis de cunelの北端に、第2大隊はその攻撃を支援するために第1大隊の背後に配置されました。
第1大隊の攻撃は0700時に開始され、森林地域から部隊が出て450メートルほど前進したのですが、そこでドイツ軍の激しい抵抗によってそれ以上の前進が不可能となりました。

それだけでなく、ドイツ軍の砲火によって第1大隊はあらゆる方向への移動ができなくなり、敵の目前で退却を試みると直ちに部隊が全滅する恐れがありました。
また、第2大隊も第1大隊を支援するために効果的な行動をとることができず、結局この日の日没まで第1大隊はその場所に止まらざるをえませんでした。

問題

敵の抵抗でこれ以上の第1大隊の攻撃の進展が望めない以上、連隊はどのような命令を出すべきだと考えられるでしょうか。
事後の方針について最も適切だと思われるものを次の三つから選択してみて下さい。

(1)夜間のうちに第2大隊で敵を攻撃する方針。
(2)闇夜に乗じて第1大隊をBouis de Cunelに退却させ、一旦部隊を再編成した後に第2大隊と協同して攻撃を実施する方針。
(3)直ちに第2大隊を第1大隊の救出のために派遣して退却を支援する方針。

考察

まずこの事例の結果を見てみると、最初の攻撃に失敗した直後に連隊では次のような命令が出されていました。

まず、大きな損害を受けた第1大隊は夜間のうちにBouid de Cunelへと退却し、そこで部隊を再編成することが命令されました。
そして1930時、砲兵が敵の塹壕に突撃支援射撃を行った後に第1大隊は改めて攻撃を実施し、第2大隊がそれを支援するように命令されました。
この命令の内容を検討すると、先ほどの選択肢でも特に(2)に該当する方針だと言えます。

しかし、この方針は現場ではまったく意味をなしませんでした。
理由として決定的だったのは、早朝から半日にわたってドイツ軍の砲火を受け続けた第1大隊は疲労困憊の状態であり、新しい命令に対応することが困難であったことが挙げられます。
伝令から新しい命令を受け取った第1大隊は、一度はBouid de Cunelへの退却を試みました。
それでも日が暮れた後に方角を見出すことは難しく、部隊は道に迷ってしまい退却することができないほど現場は混乱していました。

ここで考察しなければならないのは、(2)の選択肢が前提としているいくつかの条件です。
第一に、(2)の方針は必ずしも複雑ではありませんでしたが、命令が単純明快であるべきという戦術の原則は状況に依拠するものです。当時の第1大隊の状態からすれば、(2)の方針を実行することは極めて困難でありました。
したがって、原案としてまして(2)は間違いということになります。

また(3)の方針についても、すでに前進を開始した地点から450メートル先に展開し、ドイツ軍から断続的な砲撃を受けながらも、第2大隊が第1大隊を無事に発見することができない危険が大きいと考えられます。もし発見することに成功して無事に退却することができたとしても、師団から示された本来の命令であるCunelの攻略奪取を達成することができないという問題点も残ります。
したがって、(3)についても間違いであると判定されます。

作戦の方針として(1)の優れている点は、第1大隊がすでに早朝から日没にかけて射撃、砲撃を受けたことで多くの損害を出し、戦闘力を喪失したという可能性を考慮している点でしょう。
この方針であれば、第1大隊がすでに行動できない状態であったとしても実施することが可能です。
一見すると単純にすぎるようにも見えますが、当時の状況から判断するに妥当なものであったと考えられます。

実際の事例を見てみても、第1大隊が1930時までに次の攻撃に移ることができなかったことをうけて、第2大隊が急遽攻撃を準備することになり、同日2200時には第1大隊を通り過ぎて攻撃を実施し、翌朝までにドイツ軍の陣地を奪取することに成功しているのです。

議論をまとめると、この事例では戦いの原則の一つである簡明の原則を遵守するためには、現場がどの程度の混乱に見舞われているかを考慮に入れることが必要であり、ただ作戦命令を可能な限り単純に整理すればよいわけではない、ということが示唆されています。

戦術的に最も肝心なことは、状況の特性に応じた単純さであって、この原則を立派に現場で実践するためには現場での出来事を見通すための経験と、優れた洞察が必要であると考えられます。

KT

参考文献
Infantry Journal. 1939. Infantry in Battle, Washington, DC: Government Printing Office.

2015年2月27日金曜日

米軍専属の戦略家アンドリュー・マーシャルの知られざる功績

アンドリュー・マーシャル(93歳)。
写真は退職式典のもの。米国防総省HPより引用。
2015年1月5日、世界的に知られた戦略家の一人が米国防総省を退職していたことをご存知でしょうか。

アンドリュー・マーシャル(Andrew W. Marshall)は、冷戦期における米国の軍事戦略の立案、評価に尽力した人物で、1921年にデトロイト市で生まれ、シカゴ大学で経済学の学位を取得した後にシンクタンクのランドに入社しています。

ランドでマーシャルは数多くの研究者と交流を持つことになり、1966年には軍事的均衡を分析する方法を考察した『軍事力見積の問題』を発表し、本格的に戦略学の研究に取り組むようになります。
当時、ランドで勤務していたジェームズ・シュレシンジャー(James R. Schlesinger)もこの時に知り合っており、ニクソン政権で国防長官のポストに就任したシュレシンジャーは、マーシャルの才能を高く評価したことから、1973年に国防総省に戦略の研究を専門に行う総合評価局を新たに設置して、その局長にマーシャルを就任させました。
就任当時、マーシャルに与えられた仕事は、米国の安全保障にとって脅威であるソ連の軍事力を再評価することでした。

1970年代、米国は貿易収支の悪化に伴う金ドル兌換の停止、ベトナム戦争に対する国民世論の反発という状況にあり、これまで通りの軍事予算の水準を維持することが困難となっていました。
こうした時代背景の下で、マーシャルは米国の軍事戦略の前提であるソ連の脅威見積を再検討し、ソ連の軍事的能力が過剰に評価されていたことを指摘したのです。

この時にマーシャルが考案したのが総合評価(Net Assessment)と呼ばれる分析法でした。

従来の分析法では、軍事的能力を構成する兵員や武器の数量から軍事力が考察されており、例えば、核弾頭、師団、戦車の保有量などが、少なくとも軍事力の中心的要素と見なされていました。
しかし、従来の分析では定量的分析が可能である一方で、戦争の実態から大きくかけ離れたものにならざるをえませんでした。
戦争では確かに、兵員や武器の数量が問題となりますが、それ以上に兵員と武器をどのように運用するかという作戦の構想、軍事力を対外政策と結びつける政治的意思決定が重要性を持っています。

マーシャルが考案した総合評価は、従来の分析法で見落とされていた要因を組み込んだ分析モデルであり、現在の米国防総省では「諸国家の相対的な軍事的能力に作用する軍事的、技術的、政治的、経済的、その他の諸要因の比較分析」と定義されています(DoD 2001)。
この分析法を活用することでマーシャルは1972年に『ソビエトとの長期的対決』を出版し、ソ連の軍事的能力に関する従来の見積を大幅に見直し、その研究成果は1970年以降の米国の軍事戦略の方向性に大きな影響を与えたとされています。

この分析で特にマーシャルが重視したのは、ソ連の政治的な意図という要因であり、従来の分析が軍事力それ自体に注目しすぎたがあまり、バランスのとれた軍事分析ができていなかったことを指摘しています。後にマーシャルは、別の論文で次のように述べています。
「ソビエトの計算はシナリオと目標に関する異なった想定を形成しそうである。(中略)ソビエトの評価はおおむねアメリカの評価と異なっている」(Marshall 1982: 48)
これまでのソ連に対する分析と決別する意味でもマーシャルの分析法は画期的でしたが、安全保障学の方法論においても重要な影響を与えました。

つまり、相対的な軍事力の優劣を分析するためには、政策決定者の政治的意思決定をも分析することが必要であり、それは単に指導者だけでなく、その側近として重要な政策決定に関与する軍隊や行政の幹部を含むエリート集団の内情に関する分析が進められるようになったのです。

米国防総省からマーシャルは去りましたが、彼の功績は安全保障の研究者に広く応用されており、総合評価という方法論に対しては数多くの研究成果が報告されており、さまざまな問題に適用できるように改良が重ねられています。

若年の私はまだまだ駆け出しの研究者に過ぎないのですが、学術の世界において安全保障学に大いに貢献し、最も困難な時代において米軍に優れた助言を与え続けたマーシャル氏に対して、尊敬の念を禁じ得ません。

KT

参考文献
Department of Defense. Directive 5111.11, August, 2001. Washington, DC.
Marshall, A. W. 1966. Problems of Estimating Military Power, Santa Monica: RAND.
Marshall, A. W. 1972. Long-Term Competition with the Soviets: A Framework for Strategic Analysis, Santa Monica: RAND Corporation.
Marshall, A. W. 1982. "A Program to Improve Analytic Methods Related to Strategic Fores," Policy Sciences,

2015年2月25日水曜日

モーゲンソーが考える国際政治と軍事力

政治学者モーゲンソーは現代の国際関係論の発展に寄与した研究者です。彼は国際法、国際連合、外交などについて数多くの考察を書き残していますが、今回は軍事力をどのように考えていたのかを紹介してみたいと思います。

モーゲンソーの考察では、国家の相対的な勢力関係の優劣から国際関係のパターンを説明することができると考えられています。その理論では軍事力に大きな重要性があることが前提とされています。
「地理、天然資源、工業力などの諸要因が、国家の力にとって実際上の重要性をもっているのは、これらの要因が軍備に関係があるからである。国力が軍備に依存しているということは、あまりにも明白であるので、詳しく論じる必要もなかろう」(モーゲンソー、1998年、129頁)
モーゲンソーは、このように述べることで、軍事力が国際関係における国力の水準を決定する一因であることを強調しました。
まず軍事力の規模の問題について次のような記述が見られます。
「軍事的諸条件からみた国家の力はまた、兵士及び兵器の量と、軍事編成のいろいろな部門間におけるこれら兵士・兵器の配分状況にも依存している」(同上、132頁)
軍事行動の成否は、軍事力の規模ではなく、その効率によって決定されるという考え方もありますが、モーゲンソーはそうした見解をとっていません。高い効率を発揮しながらも人的、物的基盤がわずかな軍事力は脆弱であることが考えられるためです。
「国家は戦争行為の技術革新に対して優れた理解力をもっているかもしれない。国家の軍事指導者は、新しい戦争技術に適した戦略と戦術をたてるのにすぐれているかもしれない。 
だがそうした国家も、もしその全体的な強さとそれを構成する各部分の強さにおいて大きすぎも小さすぎもしない適正規模―それは国家が遂行すべき任務と言う観点からみての話であるが―の軍事編成を整えていないならば、軍事的にしたがって政治的にももろいということになるであろう」(同上、132頁)
当然のことながら、軍事力は適正な規模を整備するだけでは十分ではありません。
モーゲンソーの学説では、軍事技術と軍事的リーダーシップが軍事力の水準を決定すると述べられていますが、ここでは軍事技術の影響に関する記述を見てみたいと思います。
「国家と文明の運命は、しばしば劣勢国が他の方法では埋め合わせることのできない戦争技術の格差によって左右されてきた。ヨーロッパは、15世紀から19世紀にかけての勢力拡張期に、西半球、アフリカ、近東、極東などのそれよりも優れた戦争技術の手段を用いることによって力を行使した。 
14世紀および15世紀に伝統兵器に加えて歩兵、火器、大砲が使われだしたことによって、力の配分において重大な変化が生じたが、敵より早くそれらの兵器を使用した方が有利となった。騎兵と城―これは、その当時までは相手側の直接攻撃から実際上免れていた―に頼りつづけていた封建領主や自由都市は、これらの新兵器がでてきたことによって、いまやその優越的地位が突然にくつがえされたことに気付いたのである」(同上、129-130)
ここでモーゲンソーが言及したのは、軍事史の研究で「軍事革命」と呼ばれる出来事で、戦場での火器の大規模かつ体系的な導入のことです。
中世から近世にかけて軍事技術のトレンドが白兵戦闘から火力戦闘に変化すると、それまでの国際関係における封建領主や都市市民の政治的自律性が大いに損なわれ、そのことが近代という時代の転換を可能にしたという歴史があります。

モーゲンソーの議論が私たちに示していることは、軍事力は国際関係論における重要な論点として真剣に研究する必要があるということであり、しかも単に軍事力が国際関係に与える効果だけを考えるだけでは不十分であることも示唆されています。
なぜなら、軍事技術の歴史からも分かるように、軍事力それ自体が非常に複雑な研究対象であり、それを理解するためには軍事について踏み込んだ研究が求められるためです。

結論としては、国際関係論の文献ではしばしば軍事力についての議論は避けられるか、それとも簡単に済ませられてしまいがちですが、モーゲンソーが軍事力についてかなり踏み込んだ議論を展開していることを考慮しなければなりません。

国際政治を理解するために軍事を知ることができれば、それが勢力均衡、そしてひいては戦争、同盟、国際法、国際組織、そして平和を考察するための確固とした基礎として役立てることができます。

KT

参考文献
モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会訳、福村出版、1998年

2015年2月22日日曜日

精鋭の証明


ある国の軍隊の強さは印象論的な方法で説明されることが多いと思いますが、先行研究ではより定量的な取扱い方で説明することも検討されています。

戦闘理論における戦闘効率値(Combat Effectiveness Values, CEV)は、部隊の質の高さを表す指標の一つであり、デュピュイ(Trevor N. Dupuy)の代表的な研究では次のように定義されています。(赤軍と青軍の二つの部隊が交戦する場合の定義です)
赤軍の戦闘効率値=(赤軍の戦果/青軍の戦果)/(赤軍の戦闘力/青軍の戦闘力)
ここでは戦闘力質的要素は考慮しておらず、純粋な規模を表しています。また、戦果についても敵に対して与えた人的損害等から判定されているものです。

この定式で軍事力の効率を測定すると、どのようなことが分かるのでしょうか。

デュプイはこの定式を用いて第二次世界大戦における米軍、英軍、ドイツ軍の戦闘を分析したところ、次のような結果を得ています。


ここでは第二次世界大戦で戦った主要な師団の戦闘回数と、その師団の戦闘効率値の平均値がまとめられています。

これらの部隊の戦闘効率値を分析すると多くの知見が得られます。
例えば、国家別にまとめて平均すると、ドイツ軍が全般的にアメリカ軍、イギリス軍よりも効率的に戦うことが多かったことが分かります。

二次大戦におけるドイツ軍、イギリス軍、アメリカ軍の主力師団の平均戦闘効率値。
ドイツ軍は1.1、イギリス軍は0.76、アメリカ軍は0.84となっている。
ここで高いレベルの戦闘力を示していた部隊のトップ3がいずれもドイツ軍の部隊であることであることは、ドイツが効率的な軍事力を構築する能力に優れていたことを示しています。

米軍の部隊で最優秀だったのは第5位の第88師団、英軍で最優秀だったのは第11位の第46師団でしたが、全般として見ると英米軍の部隊はドイツ軍の部隊ほど質的側面で優れていたとは認められません。

もう一つ指摘するべきは、戦闘の経験の豊富さが必ずしも高い戦闘効率と結び付いているとは言えない点です。
ドイツ軍の第3装甲擲弾兵師団は17回の戦闘を経験していますが、平均した戦闘効率値は1.17とドイツ軍の他の主要な師団と比べて高くなっているわけではありません。
米軍の第88師団は戦闘の回数は4回ですが、戦闘効率から見れば極めて優れた成果を上げています。

興味深いことに、米軍とドイツ軍の双方の記録で第88師団は特別に高い戦闘力を持つ師団だと判定されています。第88師団は1942年に新設された部隊の一つでしたが、同時期に新設された他の部隊はそれほどの戦果を上げていません。
そのため、戦後に行われた分析では第88師団の師団長だったスローン(John Emmit Sloan)少将の指揮統率によるところが大であった、と考えられています(Dupuy 1987: 118-121)。

この分析が正しいのであれば、スローン少将の功績とは、自らの師団の戦闘効率を米軍の平均値0.84から1.14にまで向上させたことである、と言うことができるでしょう。

KT

参考文献
Dupuy, Trevor N. 1987. Understanding War: History and Theory of Combat, New York: Paragon House Publishers.
Dupuy, Trevor N. 1993(1977). A Genius For War: The German Army And General Staff, 1807–1945, New Jersey: HERO Books.

2015年2月19日木曜日

地政学入門 ハートランド、リムランド、オフショア


地政学の基本は国際関係の出来事を地図上で考察することにあります。

しかし、単に地図上で国際関係を分析するだけが地政学の要件と言い切ることはできません。
ある地点で生じた出来事が他の地点に及ぼす影響を、あくまでも地域単位ではなく地球規模で考察することが地政学の要諦と言えます。

マッキンダーが考案した地政学の分析モデルの概要。
世界全体がユーラシア大陸の中心部(pivot area)、沿岸部(inner or marginal crescent)、ユーラシア大陸の沖合の大陸・島嶼(lands of outer or insular crescent)の三地域に区分されている。
(Mackinder, 1904: 435)より引用。
研究者の間でも議論が分かれる点ですが、基本的に地政学の分析モデルは世界全体を三つの地域に区別することによって成り立っています。

第一の地域はハートランドと呼ばれる地域であり、ユーラシア大陸の中枢部にあって沿岸地域から容易に接近することができないだけでなく、厳しい大陸性の気候のため人口稠密地ではない内陸部のことを指します。

第二の地域はリムランドと呼ばれる地域であり、これはユーラシア大陸の周縁部にあって海洋から近接することが容易であり、農業生産に適した穏やかな気候のため人口が密集しやすい地域のことを意味しています。

第三の地域はオフショアと呼ばれる地域で、ユーラシア大陸から交通が隔てられた沖合の陸地を総称する用語として使用されます。

ただし、これらの地域の境界が常に明確であるわけではありません。このような区別が重要な意味を持つ理由として言えるのは、どの地域を勢力圏として確保するかによって国家の対外政策の方向性が大きく異なるためです。

例えばマハンの学説では世界を一つに結ぶ海上交通路の価値を重視する観点からオフショア各地に基地を建設することが重要であると考えられています。これはシーパワーの理論としても知られている議論です。

しかし、マッキンダーの学説ではハートランドを支配することが戦略的に重要であると考えられており、その理由としてユーラシア大陸の各地に通じる交通路の中心を確保していることが挙げられています。これがランドパワーの理論的な根拠となっている分析の要点となります。

さらに、別の見解としてスパイクマンはリムランドに独特な特徴に注目して、そこがランドパワーとシーパワーの両方の影響を受ける地域であると判断しています。
リムランドに勢力圏を構築した大国は、必然的に大陸方面と海洋方面の両方の脅威に対処する必要が生じますが、その脅威にはランドパワーとシーパワーの対立という側面だけではなく、リムランドの内部で展開される対立も含まれています。

地政学にもさまざまな考え方があるのですが、以上の三つの地域概念を押さえておけば、その大部分を自分なり理解することは十分に可能です。

例えば、既に述べた地政学の知識を使えば、中国はリムランドの国家であり、日本はオフショアの国家であることが分かります。
リムランドの国家はランドパワーとシーパワーの両方の影響を受けるため、その安全保障戦略では海洋方面と大陸方面の両方に資源を配分する必要があるということが考えられます。

こうした分析をさらに進めていけば、中国がウクライナの問題、イスラム国の問題によってロシアと米国の両方からの圧力を免れていることや、東シナ海、南シナ海を中国のコントロール下に置かせないことを日本の政策目標とするのであれば、地政学的にリムランドの国家である韓国との協力よりもむしろ台湾、フィリピン、インドネシア、オーストラリアとの協力関係に高い優先度を置く必要がある、などの判断を得ることが可能です。

地政学を学ぶために、マッキンダー、スパイクマン、マハンの著作を読むことが重要だという意見には一理あるのですが、私の意見では学説を勉強するよりも実際に地図を片手にして歴史に親しむことのほうがはるかに重要です。

例えば、真珠湾攻撃の直後に日本海軍で、ハワイ、セイロン、北オーストラリアのいずれを次の攻撃目標とすべきかが議論になったことがありました。
これは地政学的な研究課題として大変興味深い論点ではありますが、純粋な地政学の理論上の問題として考えるべきではありません。
なぜなら、この問題は地理上の特性だけでなく、敵である英国と米国の戦略を十分に考慮に入れる必要があるためです。

地政学の理論はあくまでも思考に一定の方向性を与えるものにすぎないのであって、実際の問題解決に当たっては具体的な地理上の知識が必要です。

KT

参考文献
Cohen, Saul B. 2015. Geopolitics: The Geography of International Relations, New York: Rowman & Littlefield.
Mackinder, Halford J. 1904. "The Geographical Pivot of History," The Geographical Journal, 23(4): 421-437.
Mackinder, Halford J. 1962(1919). Democratic Ideals and Reality, New York: Norton.
Mahan, Alfred T. 1890. The Influence of Sea Power on History: 1660-1783, Boston: Little, Brown.
Spykman, Nicholas. 1944. The Geography of Peace, New York: Harcourt, Brace.

2015年2月11日水曜日

論文紹介 海上戦闘における戦術原則と技術革新


以前、大学の勉強会で近代の海軍戦術について議論していた時に、私が近世の海上戦闘の事例を引用したところ、技術水準が異なる時代の事例を検討しても意味がないという批判を受けたことがありました。

これは、海軍戦術について知識がある方の普通の見解ではないかとと思います。
というのも、歴史的に海上戦闘は陸上戦闘よりも武器装備に依存する度合いが大きいことは事実であり、海上戦闘の勝敗は技術力により決せられるという通念には一定の説得力があるためです。

しかし、今回はこのような通念を批判する立場から、戦術的類推を用いることによって、技術水準が異なる事例であっても、戦術学的に有意義な分析が可能であることを論じた論文を紹介したいと思います。

文献情報
Uhlig, Frank. 1981. "Naval Tactics: Examples and Analogies," Naval War College Review, March-April, pp. 92-104.

海軍の戦術学の内容はしばしば「雑然」と形容されることがあります。
例えば、リデル・ハートの著作でも、海軍が戦術の研究を軽視し、教範も十分に整理されていないことを批判する記述があります(Uhlig 1981: 92)。

このような見解から見れば、海上戦闘の問題がしばしば技術的な問題に還元して理解されているため、海軍戦術の意義そのものに対して否定的な視線が向けられています。

この論文で著者は、海軍の戦術、海上戦闘を遂行するために用いられる技術の変遷を考慮することが重要であると認めながら、戦術がやはり重要であることを説明しようとしています。

まず、さまざまな海軍の軍事技術の中でも、特に武器とセンサーという二つの領域の変化に注目することが重要であると判断されています。
著者はこれら二つの領域における海軍史の技術的な変遷を、交戦距離という観点から整理しています(Ibid.)。

交戦距離に注目すると、19世紀には海上戦闘での交戦距離はおよそ5キロ以下でしたが、第一次世界大戦に入ると砲戦距離は10キロから12キロにまで増加しており、第二次世界大戦に至っては航空戦力が導入されたために一挙に160キロに拡大されたことが指摘されています(Ibid.: 95)。

現在の技術を考慮すれば、航空戦力が投入した場合に海上戦闘での彼我の距離は300キロ以上にまで拡大しており、対水上戦闘だけを考慮しても、やはりミサイルを用いることでおよそ100キロの交戦距離になると考えられます(Ibid.)。

こうした海上戦闘の空間的な拡大を考えると、私たちは海軍の戦術が、その時代の技術だけに対応したものであり、新しい技術によって絶えず陳腐化していく、というような印象を受けます。
しかし、著者はそのような印象は海軍の戦術を理解する上で妨げになるものであり、より柔軟な戦術的類推(Tactical Analogy)を駆使して研究する必要があることを論じています。

海上戦闘における諸種の戦術的任務を一般的に分類すると、次のように整理されます。
「海軍の指揮官が直面するであろう戦術上の任務は六種類に区分される。すなわち、重要な艦船、海域、沿岸を守ること、敵の目標達成を妨げるか、敵の重要な艦船、海域、沿岸を脅かすこと、敵の戦力を捜索して交戦すること、敵の戦力を回避すること、戦闘を中断すること、そして敵を誘致することである。これらの中でも最初の二つの任務は特別な重要性を帯びている。(中略)反対に、指揮官は彼我の重要な艦船に対して自身の注意を払わずに、残った四つの任務のうちの一つを遂行することが可能である。」(Ibid.: 93)
交戦距離がどれだけ拡大しても、海軍の任務が本質的に変化したわけではありません。

著者は、19世紀の技術水準で沿岸要塞を利用することと、20世紀の技術水準で防勢的機雷戦を実施することは、軍事技術から考えるとまったく異なる作戦ですが、戦術的類推を用いるならば、敵の戦力から沿岸を防衛しようとする、という点で本質的に同一の作戦であると考えられます(Ibid.: 96)。

著者はさらに、技術水準が異なる複数の歴史的事例を取り上げてながら、このような見解を裏付けています。
古代におけるサラミスの海戦から、第二次世界大戦の戦闘に至るまで、さまざまな時代の事例を戦術的類推によって理解する意義について「過去の事例から引き出される戦術的類推は膨大である」と強調しています(Ibid.: 103)。

結論として、この論文では、海上戦闘における技術的条件が変化したからといって、戦術原理までが変化したと即断してはならないことが示唆されています。
先ほど引用した著者の海軍の任務の分類は、私たちが戦術的類推を行う上で有用な分析枠組みであると言えます。

近年、海上戦闘の分野では電子戦技術やミサイルなどで技術の進展が見られますが、こうした技術環境の変化に直面した時こそ、戦術原理に対する深い洞察と、戦術原理の適用方法について注意深くある必要があるのではないでしょうか。

KT

2015年2月5日木曜日

文献紹介 戦術的革新を生み出した組織的学習


第一次世界大戦でドイツ軍の部隊が精強であった理由は、しばしばその質実剛健な国民性というイメージから説明されることもあります。
しかし、このような説明では当時のドイツ軍の各部隊で行われていた研究努力が見過ごされてしまいます。

今回は、当時のドイツ軍における戦闘教義の革新を可能にした研究体制を調査した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Lupfer, Timothy T. 1981. The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine during the First World War, Leavenworth Papers, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute.

目次
1.弾力的な縦深防御
2.1918年における攻勢の戦術
3.一般的考察の試案

この研究の主な特徴は、第一次世界大戦における戦術そのものの変遷ではなく、戦術の更新を推進していた研究努力について注目していることです。

1914年に第一次世界大戦が勃発した当初、ドイツ軍のほとんどの士官は、砲兵火力の優位性と集密な攻撃こそが勝利の条件である、という当時の戦術上の通説を疑っていませんでした。
しかし、開戦から間もなくして、この戦争がこれまでの戦争とは異次元の戦争であり、これまでの攻撃を重視した戦術が通用するとは限らないという認識が陸軍の間で普及していきます(Ibid.: 1-2)。

1915年に西部戦線では広大な野戦築城に依拠した防衛線が構成されるようになり、ドイツ軍として犠牲が拡大しないように陣地攻撃を実施しない防勢作戦の方針を決定します。
この時期にイギリス軍とフランス軍が行った大規模な攻撃に対して、ドイツ軍は地域防御を実施するための戦術を研究する必要に迫られました。

1915年6月に刊行されたドイツ軍の教範では、防御陣地を構成する上で第二線を設定して敵の突破に備えるように指示され、本格的な戦術の見直しが進められました。
さらに現場での経験から、逆襲が防御戦闘において有効であること、敵の監視と間接射撃から部隊を守るために野戦陣地に逆勾配を設けることの価値などが、この時期に明らかにされています(Ibid.: 3)

一方のフランス軍、イギリス軍では、ドイツ軍の防御陣地に対する歩兵部隊の攻撃が有効であるためには、砲兵による集中的な突撃支援射撃が有用であるという理解が普及するようになり、火力の優勢に依拠した戦術が発達することになります(Ibid.: 4)。

ドイツ軍はイギリス軍、フランス軍の戦術に適用し、突撃支援射撃によって敵の攻撃目標を判断して予備をそこに派遣するという対抗措置を講ずるようになりました(Ibid.)。
そうした対応にもかかわらず、1916年のソンムの戦闘で、ドイツ軍はイギリス軍の砲兵によって甚大な損害を出すことになり、直後から戦術の変更を進めることになりました(Ibid.: 7)。
エーリヒ・ルーデンドルフ(1865年-1937年)
1916年以降、第一兵站総監として参謀本部を実質的に指導。
この時期に新しい戦術の研究を主導した人物がルーデンドルフでした。
当時、ドイツ軍の参謀本部を指導したルーデンドルフは西部戦線のいくつかの部隊では、防御陣地のために従来よりも大きな縦深を設定していることに注目し、西部戦線以外でも導入させました(Ibid.: 8)。

さらに、ルーデンドルフは戦術の評価研究のために野戦司令部にまで足を運び、「都合の良い報告」ではなく、正確な情報を要求する視察を始めています(Ibid.: 9)。
このような視察は、各地の部隊でも行われており、ルプレヒト軍集団の参謀長だったクール(Hermann von Kuhl)中将は、参謀たちを第一線に派遣して戦術の有用性に関するデータの収集が可能な体制を構築しました(Ibid.)。

このような取り組みの結果、数多くの研究資料が集積される取り組みが西部戦線全体に広がり、1916年末の時点で参謀本部作戦課を中心とする研究体制が構築されていきます。
ただし、ルーデンドルフは必ずしも高級士官だけをその研究体制で用いたわけではありませんでした。

例えば西部戦線で第一線部隊の指揮官だったヘルマン・ガイヤー(Hermann Geyer)の階級は大尉でしたが、全ドイツ軍の部隊に配布する教範の作成で重要な貢献を果たしました。
またルーデンドルフの下で参謀本部作戦課長を務めたゲオルグ・ヴェッツェル(Georg Wetzell)少佐は研究体制の統括することに手腕を発揮しており、マックス・バウアー(Max Bauer)大佐も、1916年末の防御戦闘に関する教範の作成に参加しました(Ibid.: 10)。

ただし、参謀本部作戦課は新しい戦術を現場に強要することはなく、あくまでも第一線の部隊から寄せられる研究成果の報告や情報の収集、新しい教義の開発、教範の作成配布に徹していました。
この研究に参加したガイヤーは後に「参謀の最も重要かつ困難な仕事は、その戦闘部隊の優秀性を維持することを助けるために、特定の戦場での経験を検討することであった」と述べています(Ibid.)。
また、参謀本部作戦課は、敵の教義の研究においても重要な成果を上げており、戦場で入手した教範の研究から優れたアイディアだと判断されたものは、ドイツ軍の戦術にも積極的に取り入れられていきました(Ibid.: 11)。

こうした研究努力を通じて、1916年のソンムの戦闘の教訓はドイツ軍にまったく新しい防御戦術をもたらすことになります。特に重要な教範は『陣地戦における防御戦闘の指揮に関する諸原則(以下、原則)』(1916年12月1日刊行)であり、先に名前を挙げたバウアーとガイヤーがこの教範の執筆者でした(Ibid.: 12)。

『原則』が定めた新しい防御の方式の特徴は、敵の砲兵によって狙われやすい第一線の防御陣地を維持する従来の方式を批判したことでした。
つまり、最前線の陣地で敵の攻撃を阻止するのではなく、そこから縦深を広く取った場所に主抵抗線を設定し、予備を効果的に活用した逆襲によって敵を撃退するという地域防御の戦術です(Ibid.: 13)。
つまり、『原則』では主な防御戦闘が行われるのは、敵の部隊が防御陣地を突破して深く前進してきた後だと定められており、陣地それ自体の戦術的価値を抜本的に見直す意義がありました。

歩兵師団が弾力的縦深防御を実施する場合の陣地構成。
概要としては、前方500-1000メートルの外哨地域、2キロの戦闘地帯、後方地帯に区分。
□は特に強化された戦闘陣地が配置される。
外哨地域を抜けてから敵が主抵抗線に到達するように考慮されている。
その後ろの塹壕線は砲兵陣地のためのもの。
(Lupfer 1981: 14)より引用。
この図に従って説明すると、師団はその戦力を正面に配置する大隊、それを支援する大隊、予備として拘置する大隊に区分しておきます。最も敵と近接する大隊は、いわば警戒に当たる部隊であり、実際の防御戦闘で敵の攻撃を阻止する部隊が第二の大隊です。そして、敵の砲兵の射程外に拘置されていた最も後方の予備の大隊が、逆襲を行う役割を担います(Ibid.: 18)。

このような『原則』の構想が現場に示された時、やはり固定的な陣地防御の方式に固執する考え方も根強くありました。しかし、不注意によって教範が無視された場合を除けば、現場の経験に依拠した新戦術に対する批判は、ドイツ軍においては許容されていました(Ibid.: 22)。

例えば、von Lossbergは、ソンムの戦闘の経験に基づいて、「防御陣地の各所で多数の小部隊が配置されると、戦闘中の連絡が阻害され、混乱の危険が増大される」と批判しており、作戦課は実際にこの批判をソンムの戦闘から得られた教訓として慎重に検討し、士官候補生の教材にも反映させました(Ibid.)。

この批判で指摘されたように、『原則』の構想を実現させるためには、士官だけでなく、下士官、兵卒が流動的な状況の変化にも対応できる戦術的能力の向上が必要であることが認識されるようになります。
そのため、『原則』が出版されてから2か月後に教範として『戦争のための歩兵訓練の教範』が改めて策定されることになりました(Ibid.: 23)。
そうした一連の研究努力によって、1916年から1917年の冬季は、ドイツ軍にとって大規模な改革が推進され、その成果は1917年におけるイギリス・フランス軍の攻勢を阻止する上で重要な役割を果たしました。

ここでは、これ以上第一次世界大戦の詳細な経過を述べるよりも、当時のドイツ軍が取り組んだ新しい戦術の研究体制が即時的かつ組織的であり、また批判的精神に基づいたものであったことについて確認しておいきたいと思います。
著者は、この戦争におけるドイツ軍が見せた戦術に関する研究の効率性について次のように要約しています。
「個人の才能や資質は重要なものであった。しかし、その教義は考案されたり、アイディアが考案されたり、独断的に無理強いされたりするのではなく、それが発見され、共有される雰囲気において発達したのであった」(Lupfer 1981: 57)
「ドイツ陸軍は味方の才能に対して敬意を払い、またそれを活用するのみならず、敵の才能に対しても同様の態度をとった。才能がある者が必ずしも高い階級に昇進したわけではなかった。すべての大規模な軍には、ヘルマン・ガイヤーのような才能ある人物がおり、いくつかの軍ではそのような才能を極めて有効に活用した」(Ibid.)
この研究の興味深いところは、第一次世界大戦でドイツ陸軍の戦術的革新が必ずしも一部の天才によって推進されたのではなく、現場で指揮をとる士官たちの組織的学習として成し遂げられていたことを明らかにしていることです。
彼らは単に部隊を指揮する士官であっただけでなく、科学的方法を身に着けた戦術家として思考し、現地の実態をよく観察し、図上研究の成果の妥当性を常に現地調査で確認する重要性を理解していました。

教範が指し示す定型的な戦術を研究することに終始するのではなく、研究心を大事にし、時として戦術の原理に立ち返り、批判的精神をもって我の現状を再検討する当時の軍人たちの姿勢は、現代においても戦術家のあるべき姿を体現していると思います。

KT