最近人気の記事

2016年2月28日日曜日

事例研究 師団の過失とホイットルセーの戦功

第一次世界大戦に参戦した米国の欧州派遣軍の兵士たち。
戦争で指揮官が立派に任務を遂行した功績は、時として美談として語られることも少なくありませんが、そのことがかえって軍事上の教訓を分かりにくくすることもあります。
第一次世界大戦で名誉勲章を授与された米陸軍のホイットルセーの功績もこれに含まれると思います。彼はアルゴンヌの戦いでドイツ軍に完全包囲される中、粘り強く戦い抜いたことが高く評価されましたが、師団の立場で見れば重大な戦力運用上の過失が見られました。

今回は、アルゴンヌの戦いを紹介し、この事例からどのような軍事的教訓を読み取ることができるのかを考察してみたいと思います。

第一次世界大戦の終結を導いたムーズ・アルゴンヌ攻勢
ムース・アルゴンヌ攻勢(1918年9月-11月)。
フランスとベルギーの国境付近の地域で実施され、赤線が独軍の主抵抗線を表す。
地図で見ると米軍部隊の左翼が南方から北進し、ドイツ軍を後退させていることが分かる。
1914年に勃発した第一次世界大戦はすでに四年目に入り、ドイツ軍の戦闘力は限界に達しつつありました。1918年、米国は部隊を西部戦線に配置し、ドイツ軍に対する数的優勢を確保しながら戦うことができるようになりました。
この機会を利用するため、米軍は大規模な攻勢作戦を計画します。この攻勢はムーズ・アルゴンヌ攻勢と呼ばれています。

9月から実施されたムーズ・アルゴンヌ攻勢は、第一次世界大戦の最終局面を形成する重要な作戦でした。この攻勢作戦において特に主攻の目標とされたのは、交通の要所であるセダン(Sedan)でしたが、単にセダンを奪取するだけでなく、ドイツ軍に決定的な打撃を加え、戦争を早期に終結へと導くことが戦略的に意図されていました。

ムーズ・アルゴンヌ攻勢におけるアルゴンヌの戦闘
ホイットルセー(Charles W. Whittlesey)少佐。
ハーバード大学法科大学院修了、米国が参戦を決定した1917年に陸軍入隊。
アルゴンヌの戦闘を指揮した功績で名誉勲章が授与されている。
1918年10月2日、セダンを目標とする攻勢作戦に参加していた米軍の第七十七歩兵師団では、アルゴンヌの森の北端部を占領するドイツ軍の防御陣地に対して攻撃が実施されることになりました。
この攻撃に使用された部隊の一つにホイットルセーが指揮する歩兵大隊554名が含まれていました。(第七十七旅団、第三〇八歩兵連隊に所属)

師団長のアレクサンダー将軍は「われわれは後退しない、前進あるのみ」という基本方針の下で、次のようなメッセージをすべての中隊に送付します。
「われわれの任務はあらゆる犠牲を払ってでもこの陣地を確保することであり、このことを命令を遂行する全員が理解しておくように」(Infantry in Battle 1939: 407)
この時にホイットルセー大隊にはアルゴンヌのMoulin de Charlevaux地区を敵から奪取するという任務を与えられていました。

攻撃を開始した10月2日の内に、ホイットルセーは敵の抵抗を排除し、目標とする地点に到達しています。
しかし、この時にホイットルセー大隊以外の部隊は、すべてドイツ軍の抵抗を受けて撃退されていたことをホイットルセーは知りませんでした。
さらに、ホイットルセー大隊に撃退されたドイツ軍の戦闘部隊も後方地域で再編成され、敵の大隊が突出していることに気が付くと、これを完全包囲の態勢に持ち込むことに成功しました。
当時、ホイットルセーには4個中隊の戦力がありましたが、兵士が各自で携行していた戦闘糧食はわずか1日分しかなく、後方連絡線を失ったことは致命的でした。

敵地において完全に孤立無援となった大隊
Moulin de Charleauxから少し東に位置する陣地をホイットルセーは占領した。
その周囲をドイツ軍が取り囲んで完全包囲の態勢とした。
(Infantry in Battle 1939: 408)
ドイツ軍は当初、ホイットルセーの大隊を容易に撃破することができると考え、夜が明けた10月3日の午後3時、準備を整えて前後左右から攻撃しますが、ホイットルセーはこの第一波を直ちに撃退します。
さらに午後5時、ドイツ軍は二度目の攻撃でホイットルセーの大隊の両翼側面に戦力を集中させましたが、これも撃退されて不成功に終わります。

10月4日、敵の逆襲を撃退することができたホイットルセーでしたが、部下は疲労と空腹で疲弊し、特に夜の気温低下によって衰弱していることが観察されました。特に負傷者の衰弱が深刻であり、正面に展開するドイツ軍に迫撃砲が新たに配備されたことも懸念材料でした。

ホイットルセーは師団司令部から何の連絡もなかったため、自身の左右両翼には計画通り味方が展開しているはずであると判断していました。そこで味方と連携を図るために、斥候を送って連絡をとろうとします。
しかし、戻ってきた斥候長の報告によれば、ドイツ軍はすでに大隊の四方を取り囲んでいることが判明しました。状況は極めて深刻であると判断したホイットルセーは、伝書鳩を用いて自分の大隊が命令のあった地点を占領していることに関して師団司令部に報告します。

この報告を受け取った師団司令部は、行方不明だった大隊が未だに敵地に止まって戦っていることに驚き、急遽この大隊を支援するための支援射撃を砲兵に要請しました。
しかし、師団司令部が部隊の位置を正確に把握していない状態で命令を出したために、この砲撃によってホイットルセーの大隊から多くの犠牲者が出てしまいました。この混乱を利用してドイツ軍も迫撃砲によりホイットルセーたちが守る防御陣地に砲弾を落下させ始めます。

ホイットルセーは最後の伝書鳩を使用して、味方の砲撃の中止を要請しなければなりませんでした。それから間もなく午後5時にドイツ軍が攻撃してきましたが、ホイットルセーの大隊は陣地をかろうじて防ぎ切ります。

増援が到着するまでの苦しい戦闘
10月4日の時点で、師団司令部はホイットルセーの大隊を救援する必要を認めていましたが、先日の攻撃が失敗したことにより、複数の大隊が全滅に近い損害を受けており、新たな攻撃を実施することができる状態にはありませんでした。

10月5日午後、フランス軍の砲兵による砲撃がドイツ軍の陣地に加えられたことにより、ホイットルセー大隊に対する攻撃を足止めする効果が得られました。
砲撃が停止された後にドイツ軍が実施した攻撃をホイットルセー大隊は食い止めています。
米軍はこの交戦の直後にホイットルセー大隊に物資を空中投下しましたが、投下地点の間違いからドイツ軍に物資を奪われてしまいます。

10月6日早朝、ドイツ軍は小銃、機関銃、迫撃砲をもってホイットルセー大隊に射撃を加えてきました。この際に、米軍の航空機が再び間違った地点に物資を投下してしまい、やはりドイツ軍の手に物資が渡ってしまいます。
その後のドイツ軍の攻撃を押し返すことはできましたが、ホイットルセー大隊で蓄積された損害は甚大なものとなっており、生き残った兵士には弾薬がほとんど残されていませんでした。
しかし、ホイットルセーの統率の下、兵士は依然として士気を保ち続けていました。

10月7日正午頃、この日のドイツ軍の来襲が撃退されると、午後4時にドイツ軍は射撃を停止し、米国人の捕虜に降伏を勧告する文章を持たせて送り出しました。しかし、これを読んだホイットルセーは降伏を拒否したため、ドイツ軍は最後の攻撃を準備します。

同日、ドイツ軍は従来の歩兵の武器に加えて、火炎放射器を投入してきました。
すでに限界を超えて戦っていたホイットルセー大隊は防御陣地を維持することが難しくなり、崩壊寸前の状態となります。しかし、弾薬のほとんどすべてを使い切ることで、ホイットルセーはこの攻撃を何とか撃退しました。
とはいえ、この日の交戦で部隊の戦闘力は著しく低下し、もし翌日にドイツ軍の攻撃があれば、ホイットルセーの大隊は銃剣による白兵戦闘で戦うことを余儀なくされる段階にまで追い詰められていました。

戦闘の結末とホイットルセーの苦悩
10月7日夜間から10月8日にかけて、アルゴンヌにおけるドイツ軍は戦略的状況から退却を始めました。
この退却によって、ホイットルセーの大隊に対する完全包囲も解かれ、師団も救援に駆けつけることが可能となりました。この時、歩くことができた大隊の兵員は194名であり、残りの内訳は107名が戦死、63名が行方不明、190名が負傷でした。

10月2日から10月8日までの6日間にわたり、後方からの物資や弾薬、兵員の補充もない1個大隊がドイツ軍と連日のように戦い続けたことは、軍事的観点から見ても極めて特異な事例だといえます。このような状況で士気を保つことは至難のことであり、ホイットルセーが指揮官として優れた能力を持っていたことを実証しています。

アルゴンヌの戦いが報道されると、ホイットルセーは戦争の英雄として広く民衆の知る有名人になり、帰国してから数多くの公の行事に出席して演説を求められました。1919年にはこの戦闘を題材にした映画も制作されています。
戦後、ホイットルセーは法律家としての仕事に復帰することを希望していましたが、名誉勲章を授与された数日後の1921年11月26日、彼は自殺しました。

師団は一部の戦力を予備として拘置すべきだった
アルゴンヌの戦闘の記念碑。
第七十七歩兵師団の数字と、兵士が被る鉄棒の上に伝書鳩が見られる。
そもそも、アルゴンヌの戦闘でホイットルセーの大隊がなぜ敵地で孤立しなければならなかったのでしょうか。それは師団長の訓示として「あらゆる犠牲を払ってでもこの陣地を確保せよ」という姿勢を各隊長にまで徹底させたにもかかわらず、攻撃を貫徹させるために必要な準備を怠っていたために他なりません。当時の第七十七歩兵師団の攻撃に見られる戦術上の問題点として指摘すべきは、攻撃の序盤で戦闘力を使い果たしてしまい、状況の進展に応じて新たに投入できる予備の戦力を拘置していなかったということです。

師団が示した計画に従って、各大隊は人的犠牲を度外視して攻撃前進を続け、結果として大隊のほぼすべてが全滅に近い損害を被りました。
ホイットルセーの大隊だけが攻撃に成功しましたが、師団はこの突破口を拡張するために使用できる予備がなかっただけでなく、ホイットルセーの大隊を救出するための行動を起こすこともできませんでした。
孤立した大隊に対して師団が行ったのは不正確な砲兵支援や敵の戦闘力を強化する空中からの物資投下でした。それらがホイットルセーの大隊に直接間接に損害を与えたことは、すでに述べた通りです。
あと一日、ドイツ軍の戦略的退却が遅れていれば、弾薬を使い果たしたホイットルセーの大隊は他の大隊と同様に全滅していたことでしょう。

最後に
アルゴンヌでホイットルセーが見せた指揮能力は確かに高く評価されるべきものではあります。しかし、軍事的観点から見ればアルゴンヌの戦闘に見出すべきは、失敗から得られる教訓の方だと考えられます。
正面攻撃で序盤からすべての戦力を使用してしまうと、敵から逆襲を受けた時には前線に疲弊した部隊だけが残されることになり、有効に対処できません。このアルゴンヌの戦闘のように、敵地で味方の部隊が孤立した際に、これを救援する手段を師団として用意していないことは、攻撃の計画として重大な欠陥でした。

アルゴンヌの戦闘でホイットルセーは大隊長として立派に戦い抜きました。しかし、彼の大隊が敵地で孤立したまま戦わなければならなかったのか、その原因を見過ごしてはなりません。

KT

参考文献
Johnson, Thomas M., and Fletcher Pratt. 2000. The Lost Battalion, Lincoln: University of Nebraska Press.
The Infantry Journal. 1939. Infantry in Battle, Washington, D.C.: The Infantry Journal Incorporated.

2016年2月26日金曜日

中間層が減少するほど、政治家は急進化する

今回の大統領選挙についてですが、私は次のような質問を繰り返し受ける機会がありました。
「イデオロギー的に極端で、過激とも受け取れる候補者が、どうして多くの有権者の支持を集めているのでしょうか」
政治学者にとって、この疑問はそれほど難しいものではありません。社会の中で格差が広がり、中間層が減少するほど、極端な立場をとる政治家が支持されやすくなるという事象は、アリストテレスの時代から政治学者にとってなじみ深いものです。

今回は、2016年の大統領選で過激な主張を打ち出した候補が躍進してきた理由を政治学の観点から簡単に説明してみたいと思います。

政治の要諦は異なる階層の利害のバランスをとることである
そもそも政治とは、国家を運営する技術であり、国民が社会的に分裂する事態を防止することも当然その技術に含まれています。

国内の分裂を防ぐ上で、政治家が知っておくべき基本的なテクニックとして、資産を多く持つ上流階級と、資産をあまり持たない下流階級の利害を適切に調整するというものがあります。
古代ギリシアの哲学者であり、政治学者でもあったアリストテレスは、次のようなことを政治の基本的な原則として述べたことがあります。

上流階級の発言権が強くなりやすい寡頭制においては下流階級の利益を重視する政策を行い、反対に下流階級の発言権が強化されやすい民主制においては、上流階級の利益を重視する政策を採用することが重要ということです。
これは一つの国内で階級が発生したとしても、両者の利害のバランスを図り、国内に格差が生じて来ることを防止するための処置です。
(詳細は「講義録 アリストテレスが語る、政治の逆説的論理」を参照)

中間層の増加するほど、穏健派が優勢となり、政情も安定する
アリストテレスは上流と下流の階級の利害はどうしても対立的なものであり、どちらかの階級が国政を支配するような事態になれば、政策は他方の階級を抑圧し、政情が不安定になりやすくなると考えていました。ここで重要となるのが中間層の存在です。

中間層は上流階級と下流階級のどちらの立場からも距離を置き、穏健な政策を支持することができるため、国家の安定化にとって望ましい役割を果たすことが期待されるのです。
「よい政治が行われ得る国家というのは、そこにおいては中間的な部分が多数であって、できれば両極端のいずれよりも強力であるか、それがだめなら、どちらか一方よりは強力であるというような国家だ、ということは明らかである。それは彼らがどちらか一方の側につくことによって、秤はそちらへ下がって形勢は決まり、両派があまりに極端に対立することになるのを妨げるからである」(アリストテレス、169頁)
つまり、中間層が総人口に占める割合が大きくなると、選挙の際に動員できる有権者の比率も増加してくるため、上流階級を形成する富裕層や下流階級を形成する貧困層も、中間層の立場を尊重しなければならなくなります。さもなければ、代表を選ぶ選挙や重要な政策を決める選挙で勝つことはできなくなってしまいます。

こうした中間層の政治的役割によって、上流階級が過剰に富を蓄えることを防止すると同時に、下流階級が富の再配分を徹底させる政策を封じ込めることが期待されるのです。

現代の政治理論で捉え直す中間層の役割
このアリストテレスの基本的な考え方は、現代の政治学の研究でも議論されています。
例えば、アンソニー・ダウンズ(Anthony Downs, 1930-)は多数派を占める有権者の政策選好に応じて、政党はイデオロギーを穏健化させたり、急進化させると説明したことがあります。

ここでの政党とは正規に定められた選挙によって政権を得ることによって、政府を支配しようと努力する人々の連合体として定義されます(ダウンズ、邦訳、26頁)。政党は、市場でシェア(得票数)を拡大するために、人々のニーズ(有権者の政策選好)を見極めて、新たな商品(政権公約)を開発し続ける企業と同じように、絶えず有権者を奪い合う主体として考えることができます。

もし中流階級が多くなれば、政党は可能な限り多くの支持を得るために、自らのイデオロギー的な立場を中道派に近付けようとします。実際、中流階級が多い国では、どの政党を見ても公約、政策が似通ったものとなることがあるのは、このようなメカニズムが働いているためだと考えられており、結果として政権が選択する政策も穏健なものへと収斂していきます。
しかし、中流階級が国民の全体で占める割合が小さくなると、穏健な中道の立場をとることで政党は支持者をかえって失う恐れが出てきます。だからこそ、富裕層や貧困層といった特定の属性を持つ有権者にターゲットを絞り、急進的で過激なイデオロギーを打ち出すことが選挙戦略として合理的な行動となるのです。

ダウンズは社会の中の格差によって、選挙戦における政党の立場に大きな偏りが生じて来ることを次のように説明しています。
「もっと正常な状態で相対立する二つの社会階級があるが、中産階級が取るに足らないものでしかない国々では、人員分布は左に偏り、右端に小さな峰を持つことになりがちである。左側の大きな峰は下層、すなわち労働者階級を表し、右側は上流階級である。ここで民主主義は、もし有効ならば、下層階級が人数の上で優勢であるから左翼政権の成立をもたらすことになろう。まさにこの結果を懸念したがために、ヨーロッパ貴族政治主義者の多くは普通選挙の導入と戦ったのである」(ダウンズ、124頁)
米国の政治情勢は今に始まったことではありません。というのも、米国の社会的分裂をもたらしている所得の格差は1980年代から始まったトレンドであり、今回のような事態が起きることは十分に予測することができるものでした。

米国における所得格差の拡大とレーガノミクスの影響
1945年から2014年の米国における所得格差の拡大の推移。
青線が納税者ごとの平均所得、赤線が所得水準上位10%、黄緑線が上位5%、紫色が上位1%の人々の平均所得。
1980年代後半から急激に上位1%の所得水準が上昇する傾向にあると判断できる。
The World Wealth Top Income Databaseのデータにより筆者作成。
ここでは米国で格差の拡大がどの程度進んでいるのかを大まかに把握しておきたいと思います。米国の税務当局の統計によれば、米国では1980年代の後半から高額納税者が急激に増加する傾向にあり、平均的納税者との所得格差は広がる傾向が見られます。
この時期の歴史的経緯を振り返ると、1981年に大統領に就任したレーガン(Ronald Reagan)が「レーガノミクス」と呼ばれる経済政策を打ち出し、所得税の減税と、軍備、社会福祉の支出拡大を推進していました。

こうした経済政策の狙いは、当時の米国で起きていた景気悪化と物価上昇の同時進行、つまりスタグフレーションの解決であり、レーガン政権は所得税の引き下げを進め、設備投資を拡大させようとしていました。とはいえ、この問題はレーガン政権だけのものというわけではなく、きっかけに過ぎませんでした。その後も、紫色で示した所得水準上位1%に当たる納税者の平均所得が順調に伸びている一方で、大多数の納税者の平均所得がほとんど伸びていません。

むすびにかえて
政治は国家を運営するための技術であり、そこには国家の課題を特定し、将来にわたって持続していくために必要な政策を選択していくことも含まれています。しかし、選挙戦で勝たなければ失職する政治家にとっては、支持者を動員することこそが最も重要なことです。

今回の米国の大統領選では低所得者の支持をターゲットに絞った公約(移民排斥、雇用創出、民生安定)が繰り返し主張されています。民主党、共和党の変質を指摘する見方もありますが、むしろ生活水準の低下を受けて、新たな政策選好を獲得した無党派層の増加に適応しようとしていると判断できるのではないかと思います。

最終的にどちらの候補が勝利するとしても、権力を獲得した後の政権の運営についてはまだ予測を立てることができる状況ではありません。権力を掌握する前後で政治家はその立場を大幅に見直し、再調整する必要に迫られるためです。とはいえ、米国には格差の拡大という大きな政治的リスクが生じていること、そのリスクは今後も長期にわたって存在し続け、有権者はますます政治に対する不信を深めていくでしょうし、それだけ過激な主張を表明する勢力が台頭しやすくなるものと予測されます。

KT

参考文献・資料
アリストテレス『政治学』田中美知太郎ほか訳、中央公論新社、2009年
Downs, Anthony. 1957. An Economic Theory of Democracy, New York: Harper & Row Publishers.(邦訳、アンソニー・ダウンズ『民主主義の経済理論』古田精司監訳、成文堂、1980年)
The World Wealth and Incom Database

2016年2月25日木曜日

論文紹介 対潜戦での新戦力となる無人水上艇

Textron System社製の無人水上艇。
すでに米海軍では対潜戦の観点から無人水上艇の配備と研究を進めている。
沿岸海域で活用できれば、直衛突破を図る潜水艦の優位を低下させることが期待される。
1941年12月に日本と米国が戦争状態に入ってから間もなく、日本海軍は敵の潜水艦が実施する通商破壊の影響が、当初の予測よりも甚大かつ深刻であることを思い知らされることになり、海上護衛戦で大きく出遅れました。
海洋国家にとって生命線ともいえる海上交通路を潜水艦の脅威から効果的に防護することができなかったことは、累積的効果ではあったとはいえ、日本の敗北に大きな影響を与えたと考えられています。

戦後の日本では海上護衛戦の重要性を認識し、対潜戦(Anti-Submarine Warfare, 以下ASW)の戦術を研究し、装備の開発にも努めてきました。ASW能力は日本の対中戦略にとって欠かすことができない重要なものとなっています。
しかし、中国海軍の勢力が拡大していることを受けて、日本としてもさらにASWの能力を強化する必要が大きくなっています。

今回は、ASWにおける無人水上艇の可能性について考察した論文を取り上げて、その内容を紹介したいと思います。

文献情報
Unlu, Salim. 2015. Effectiveness of Unmanned Surface Vehicles in Anti-Submarine Warfare with the Goal of Protecting a High Value Unit, Master Thesis, California: Naval Postgraduate School.

沿岸海域でのASWと無人水上艇による対応
著者が取り組んでいるのは、沿岸海域におけるASWという特定の条件の下で無人水上艇がどこまで潜水艦の捜索に有用であるかを明らかにすることです。
なぜ、沿岸海域に絞ってASWを研究する必要があるかといえば、沿岸海域における水中音響には独特な特性があり、外洋海域よりも音の伝播が劣悪であり、また雑音が大きくなりやすいため、ASWの観点から見れば大きな不利があるためです(Unlu 2015: 12)。

すでに2001年に米海軍大学校で実施された兵棋演習では、無人水上艇が沿岸海域に艦艇が接近する際に極めて重要な役割を果たす可能性が確認されており(Ibid.: 17)、2007年には米海軍で『海軍無人水上艇基本計画』が策定されています(Ibid.: 18)。
この計画によれば、沿岸海域でのASWにおける無人水上艇の任務は「リスクの抑制」、「海上での保護」、そして「航行の防護」の三つであると規定されています(Ibid.: 20)。
無人水上艇の任務を説明した概念図。
第一に港湾に停泊する艦艇のリスクの抑制(Hold at Risk)、第二に海上に出た艦艇に安全な場所を提供する海上での保護(Maritime Shield)、第三に海軍基地と安全海域の間を移動する際に通過する海域での航行の防護(Protected Passage)が示されている。対潜ヘリコプターと異なり無人水上艇は長時間にわたって洋上監視を実施することができる利点がある。
(Ibid.: 20)
ここでのリスクの抑制とはチョークポイントを継続的に監視する任務であり、海上での保護は空母打撃群の進出をより安全なものにする任務です。航行の防護については、戦闘海域の潜水艦を捜索して航路の安全を確保するという積極的な行動に基づいて実施されます(Ibid.: 20)。

無人水上艇に以上の任務を遂行させることができれば、沿岸海域においても潜水艦の探知、識別において大きな優位を獲得することが期待されます。

シミュレーション分析による検証
著者はMap Aware Non-Uniform Automataというエージェント・ベース・シミュレーションを用いて沿岸海域におけるASWでの無人水上艇の効果を検証しています。

まず、沿岸海域におけるASWを想定した場合、空母のような艦艇を潜水艦から掩護するためには、ASWのための直衛陣形(screen formation)をとります。
直衛陣形の一例を示した要図。
空母など防護すべき艦艇を中心とし、水上艦艇、航空機がその周囲に展開する。
(Ibid.: 26)
戦術の研究において、直衛(screen)とは主隊または船団を護衛するための艦艇と航空機の配列のことをいい、潜水艦がこの直衛の任務に当たる艦艇の配列に進入することを直衛突破(screen penetration)といいます。

著者は、海域のランダムな地点に出現して直衛突破を図る潜水艦の脅威を想定した上で、その脅威に対処するよう作戦行動をプログラムしたフリゲート、対潜ヘリコプター、無人水上艇から成る直衛任務群を重要艦艇の周囲に配置し、護衛の対象を潜水艦からどれだけ有効に防護することができるのかをシミュレートしました。

使用する兵力が異なるシナリオごとで65,000回試行したところ、直衛が潜水艦の発見に成功した回数と成功率は次の通りとなりました。

  • シナリオ1 フリゲート2隻、対潜ヘリコプター2機(成功24,953回、成功率38%)
  • シナリオ2 フリゲート2隻、無人水上艇2隻(成功24,578回、成功率37%)
  • シナリオ3 フリゲート2隻、対潜ヘリコプター2機、無人水上艇2隻(成功30,752回、47%)
  • シナリオ4 フリゲート3隻、対潜ヘリコプター2機(成功29,108回、44%)
  • シナリオ5 フリゲート3隻、無人水上艇3隻(成功28,664回、44%)
  • シナリオ6 フリゲート3隻、対潜ヘリコプター3機、無人水上艇3隻(成功34,947回、53%)(Ibid.: 53)

条件と成功率の変動を見ると分かるように、フリゲートに加えて対潜ヘリコプターを使用した場合よりも、無人水上艇をさらに加えた場合の方が、潜水艦の直衛突破を防ぎやすくなっていることが分かります。
これはASWにおいてはプラットフォームが増えるほど直衛任務群としての「視界」が広がるためです。

さらに著者は対潜ヘリコプターは、少なくともASWでの直衛という観点から見れば、無人水上艇と置き換えることが完全に可能であるということも指摘しています(Ibid.: 74)。
ただし、無人水上艇は活動半径が対潜ヘリコプターよりも小さくなるため、ASW以外の状況を考えた場合の代替性は確保できないとも認めています(Ibid.)。
直衛としての対潜ヘリコプターと比較すると、無人水上艇は潜水艦を防護すべき艦艇から遠方で発見するという機能には劣っています。これはASWでの戦術にとって重要な意味を持つ無人水上艇の特性であると考えられます。

結びにかえて
今後も沿岸海域において潜水艦の脅威を完全に排除するということは、戦術的に非常に難しい過大であり続けることは間違いありません。
特に空母のような高価値な艦艇がチョークポイントを通過する際には、直衛による厳重な警戒が欠かせないでしょう。

しかし、この研究が指摘しているように、潜水艦の優位というものを低下させる技術の開発が進んでいることも事実であり、例えば無人水上艇を空母打撃群の直衛陣形を強化するために活用することができれば、直衛突破の成功率を大きく引き下げることが期待されます。

日本も南西地域において中国海軍の潜水艦の脅威に直面していますが、こうした近年におけるASWの研究を積極的に取り入れ、有事における米空母打撃群の来援を促進できる態勢構築が求められていると思います。

KT

2016年2月23日火曜日

文献紹介 世界戦争に周期性はあるのか

政治学者は、単に政治上の出来事を記すだけでなく、その背後にある原理、原則を解明することに関心を寄せてきましたが、その研究課題の一つに世界戦争の発生パターンの解明が含まれています。
そのパターンを知ることができれば、次に戦争が発生しやすい時期がいつ頃になるのかを予測することもできるようになるためです。

今回は、政治学者ジョージ・モデルスキーが提唱したことで有名な長期循環論を論じた著作を紹介してみたいと思います。

文献情報
Modelski, George. 1987. Long Cycles in Global Politics, London: Macmillan.(邦訳『世界システムの動態―世界政治の長期サイクル』浦野起央、信夫隆司訳、晃洋書房、1991年)

モデルスキーの長期循環論とは何か
長期循環論は、国際政治において世界規模で発生する戦争は100年から120年程度の周期性を持っているという政治学の学説です。

この学説の基礎にあるのは、世界平和を維持するために必要な国力を持つ大国が出現したとしても、その地位は永続的なものではないという前提です。
つまり、大国の優位は時間の経過によって徐々に失われていくため、次の世界の覇権国家の地位を狙う別の国家が出現することを防ぐことができなくなるのです。

長期循環のサイクル進行
長期循環は次のようなサイクルで進行します。
(1)国際システムはアナーキーつまり無政府状態であり、国家間で対立が発生しても、それを外交で解決することは難しく、究極的には武力を行使する必要が生じます。こうした国際情勢では戦争のような激しい政治的対立が多発することが避けられません。

(2)第二段階に入ると、激しい対立の中で勢力を拡大し続ける国家が出現し、そのような国家の勢力圏は地球規模にまで広がるようになります。
この段階に入れば、国際政治はより安定した局面を迎え、もし国家間の対立が生じたとしても、指導力を持つ国家の圧倒的な武力の下で各国の行動は統制されているため、外交によって問題を解決しやすく、国際平和も維持されやすくなります。

(3)この段階に入ると、国際社会の平和と安定を担ってきた世界国家が徐々に軍事的に衰退し始め、国際政治の秩序を維持すること以上に経済的利益を優先するようになります。
そうなると、その国家の指導的地位を受け入れていた他国は距離を置くようになり、独自の勢力を蓄えるようになります。平和を維持することは難しくなり、戦争が対外政策の主要な手段となります。

(4)最後の段階に入ると(1)の段階に戻ってきます。世界規模に勢力圏を保持していた指導国家は衰退し、国力を十分に蓄えた新たな挑戦者となる国家が台頭し、世界は再び戦争の時代を迎えることになります。
「歴史は繰り返す」という言葉をそのまま具体化した循環モデルといえるでしょう。

世界史の流れに長期循環論を当てはめると
このモデルの妥当性を検討するため、著者は過去500年間に見られる長期循環において覇権国家としての地位を築いた国家とそれに敵対した敵対した国家を考察しています。

(1)ポルトガル優位の時代(1518-1608)1494年から1517年までイタリアと競合
(2)オランダ優位の時代(1609-1713)1581年から1608年までスペインと競合
(3)イギリス優位の時代(1714-1815)1688年から1713年までフランスと競合
(4)イギリス優位の時代(1816-1945)1792年から1815年までフランスと競合
(5)アメリカ優位の時代(1946-)1914年/1945年までドイツと競合

これらの時期区分から、おおよそ100年から120年程度の間隔で世界規模の戦争が見られるというのが著者の基本的な考え方になります。

長期循環論の妥当性に関する議論
少し世界史に詳しい人であれば、このモデルスキーの学説を批判することは容易くできるはずです。というのも、彼の学説で説明できない細かい史実が多数存在するためです。

例えば、16世紀の国際情勢においてポルトガル優位と見なすことができるかどうか疑わしい点があります。当時の国際情勢であれば、中国大陸を支配していた明王朝がありました。明は北方からモンゴル人の軍事的圧力を受けて、国内でも反乱の鎮圧に追われる状況ではあったものの、ポルトガル人が1517年に中国の広州に上陸した時に、明をポルトガルの勢力下に置くことができるような状況ではありませんでした。
その他にもモデルスキーの分析に対して細かな異論を出すことができます。

とはいえ、長期循環論はどれほど有力な指導者、国家、陣営であっても、必ず時間の経過によって衰退を余儀なくされるという事象を説明している以上、全面的に棄却することができない説得力があります。
長期循環が100年から120年であるという主張自体を棄却できたとしても、その長期循環の存在それ自体を否定することは難しいのです。

結びにかえて
この研究は未完成の研究であると思います。
解決されるべき主要な課題が少なくとも二つあると私は考えます。一つは、国際政治の歴史を包括的に考える際に、どうしても近代以前のアジアにおける国際政治の歴史を考える必要があるということです。本書の分析では、どうしても覇権国家の交代に関してもヨーロッパ史の見方が基本となっているため、より地域的視野を広げた長期循環の研究が必要です。

第二に、かりに世界戦争の長期的サイクルが100年から120年のパターンで繰り返すという著者の説がわたしたちの知らない理由で正しいものと仮定すると、第二次世界大戦が終結した1945年から100年後の2045年から2065年の時期に世界戦争のリスクが高くなるという予測が導かれます。
この予測が実際にどれほど当たるのかを検討する必要があります。世界経済の一体化や核兵器の配備が進んだ現代の国際情勢において、世界規模の戦争が果たして再び発生し得るかどうかという問題があり、現代の環境における長期循環説の妥当性を考察する必要があるでしょう。

昨今の国際情勢の推移を見ると、国際政治の長期的トレンドについて考える重要性はますます大きくなっています。国際システムを全般的に俯瞰する視点がなければ、これからの国際政治の推移を見極めることは難しいでしょう。本書が直ちにその手助けになるとは限りませんが、議論の出発点として重要性を持っていると思います。

KT

2016年2月17日水曜日

論文紹介 エアシー・バトル(AirSea Battle)とは何か、なぜ日本が関係するのか

第二次世界大戦で日本海軍との戦いに勝利を収めたことで、米海軍は太平洋に盤石なプレゼンスを築き上げてきました。

しかし、中国が経済成長を続けるにつれて、海上戦力の増強に乗り出したことにより、太平洋の戦略環境は一変する危険があると認識されるようになります(中国の接近阻止/領域拒否(以下、A2/AD)に関しては過去の「今さら聞けない中国軍の接近阻止/領域拒否(A2/AD)」を参照)。
1990年代の段階から米国では太平洋に配備した戦力の態勢や運用の方針の再検討に着手していましたが、その検討作業の中で具体化された構想にエアシー・バトル(AirSea Battle)がありました。

今回は、このエアシー・バトルが中国軍のA2/ADにどのように対抗する構想であるかを説明した文献を紹介したいと思います。(普段の記事よりも少し長文であることを事前にご了承下さい)

論文情報
van Tol, Jan., Mark Gunzinger, Andrew Krepinevich, and Jim Thomas. 2010. AirSea Battle: A Point of Departure Operational Concept, Washington, D.C.: Center for Strategic and Budgetary Assessment. http://www.
csbaonline.org/publications/2010/05/airsea-battle-concept/ (Accessed 2016 Feb. 16)

なぜエアシー・バトルが必要なのか
エアシー・バトル(AirSea Battle, ASB)構想は米国がアジア太平洋地域での影響力を保持し、中国による武力の行使を抑止することを目的とした教義のことです。
具体的な内容を理解するためには、戦略レベル、作戦レベル、戦術レベルに区別することが適当でしょう。

戦略レベルから見れば、これは西太平洋地域の米国の領土と同盟国、友好国を防衛し、かつ米軍の戦力投射能力を維持するための教義です。
中国軍が東アジア地域で米軍の戦力運用を妨害する能力を持つことになれば、米国の同盟国、友好国の間で米国の抑止力に対し疑いの眼が向けられるようになり、引いては米国から離れ、中国との関係を重視するようになる誘因となり得ます。
そのため、エアシー・バトルによって中国の能力強化を無効化することができることを米軍として示すことが重要なのです。

作戦レベルで見ると、エアシー・バトルは中国軍のA2/AD能力を相殺することを主眼とした教義として特徴付けることができます。
西太平洋地域における在外米軍基地と中国の第一列島線、第二列島線の位置関係。
第二列島線にはグアム、横須賀、横田が近接しており、第一列島線には沖縄、佐世保が近接している。
これら防衛線を構成することができれば、中国は北東アジア地域を包括する広域防衛圏を形成できる。
(Ibid.: 13)
この地図で分かるように、中国軍のA2/AD能力は米軍が日本、台湾、フィリピン、韓国に部隊を展開する自由を妨げるものです。
このような能力が与える影響は地域全体に及び、中国が実際に武力攻撃を仕掛ける事態をもたらす危険さえあるため、エアシー・バトル構想によって、このような防衛線を打破する能力の強化が必要とされているのです。

最後に戦術レベルの視点から見ると、中国のA2/AD能力は後述するようにいくつかの武器体系によって構築されており、それぞれの武器体系に見合った戦術行動に対抗する防御が必要となるため、エアシー・バトルではその具体的な戦術行動も考察されています(van Tol, et al. 2010: 10-1)。

エアシー・バトル構想では、どのように中国軍に対抗するのか
そもそも、エアシー・バトルでは中国軍がどのような作戦行動をとると見積もられているのでしょうか。著者らの分析によれば、中国軍の作戦は次のような形態をとると考えられています。

・紛争が開始された直後、低軌道情報監視偵察システム、宇宙配備赤外線システム、第三世代赤外線システム、通信用人工衛星は直接的な攻撃を受け、サイバー攻撃、電子戦攻撃も同時に実施される。
・弾道ミサイルの一斉発射によって米国と日本の海軍基地、空軍基地が攻撃を受けるだけでなく、日本に対する攻撃については空爆も同時に実施される。優先的な攻撃目標としてはアンダーソン基地、嘉手納基地、三沢基地等の空軍基地であり、兵站基地でもあるグアムでは備蓄された装備品や軍需品を狙った攻撃が実施されるであろう。
・地上配備型の対艦弾道ミサイル、対艦巡航ミサイルで米国とその同盟国の全ての海上戦力が攻撃の対象となる。このことで、中国はその周辺海域で敵対的な艦隊行動をとることを不可能にする。
・米国と同盟国の海上交通路を阻止し、原子力潜水艦等のプラットフォームを用いて、米国のハワイ、ディエゴ・ガルシアの周辺を哨戒し、前方基地に展開しようとする米軍部隊の前進を継続的に後方で阻止する(Ibid.: 21)。

これら一連の作戦を成功させた場合、中国は北東アジア地域を包括する以下の図のような勢力圏を獲得することが期待されます。
中国軍のA2/ADシステムが有効に機能し、中国の周辺海域から脅威を排除した場合の勢力圏。
第一列島線からさらに勢力圏を前方に推進し、その軍事的プレゼンスを日本からフィリピンにまで及ばせている。
(Ibid.: 22)
エアシー・バトル構想では、このような形態の攻撃を予想した上で、二段階の作戦を準備する必要があると考えられています。

第一段階 米国とその同盟国の軍隊に対する初期の攻撃に抵抗し、被害を局限する。これと同時に、敵の戦闘ネットワークを破壊し、また長射程のミサイルを我が方のミサイルによって制圧し、海上、航空、宇宙、サイバー空間における戦いの主導権を奪回する(Ibid.: 53)。

第二段階 必要に応じて、あらゆる作戦領域での攻勢を継続、拡大する一方で、遠隔封鎖を実施して敵の経済構造、兵站基盤を衰弱させる。作戦基盤である兵站支援を確立し、産業生産の拡充を進めることも同時に平行して実施する(Ibid.: 74)。

これらの作戦の内容からも見て取れるように、エアシー・バトルの基本的な考え方は中国のA2/AD能力を相殺して無効化し、西太平洋地域で中国が武力を発動したとしても、有利な成果を得ることを不可能にすることであり、引いては米国の同盟国と友好国からの信用を保つことにあると言えます(Ibid.: 95)。

米国だけの能力ではエアシー・バトルは実行不可能
エアシー・バトル構想にはいくつかの想定があります。米国から戦争を仕掛けることはしない、米中間の核抑止は保持される等の想定ですが、その中に「日本とオーストラリアは米国の積極的な同盟国になる」という想定があります(ibid.: 51)。

これはどういう意味なのかといえば、米中間の武力紛争が勃発した場合、日本の領土とその防衛力が中国の海洋進出を食い止める要になるということです。
中国の潜水艦が海洋正面に進出することを妨げ、米軍部隊の作戦地域に重要な戦略的縦深を確保するためには、自衛隊とオーストラリア軍が米軍と緊密な防衛協力を持つことが求められています(Ibid)。
「もし日本の領土が利用できなくなれば、米国の戦力投射の可能性は重大な制約を受けるであろう。これと同じように、オーストラリアは戦略的縦深を提供し、東インド洋、オセアニア、南シナ海における海上管制または支援作戦に関与する作戦のための戦力の使用を可能とする」(Ibid.)
このような防衛協力が必要な例の一つとして挙げられているのは、中国の潜水艦に対する作戦です。米中紛争において米軍部隊が北東アジア地域を自在に移動するためには、海上交通路に対する脅威を除外しておく必要があります。
そのためには、中国の潜水艦を捕捉して撃沈できるだけの防御態勢を準備しなければなりません。
米軍が敵の潜水艦を警戒する海域が左斜線で、米軍が潜水艦を送り込む哨戒海域を右斜線で表している。
黒点は中国海軍の主要作戦基地であり、黄海、東シナ海、南シナ海にそれぞれ面している。
(Ibid.: 72)
しかし、広大な海上で敵の潜水艦を捕捉することは容易なことではありません。そのため、エアシー・バトル構想の第一段階として、南西地域の壁が不可欠になるのです。
「エアシー・バトルは水路に対する同盟国の地理的な位置と優位を拡張し、南西諸島に沿って対潜水艦障壁を確立する。この障壁はフィリピン諸島を通じてルソン海峡を越え、南シナ海にまで及ぶことになる。中国軍の潜水艦はそうした天然のチョークポイントを通過する必要があるが、米国と日本の対潜戦の計画立案者は自らの優位性を拡大するために必要な行動をとると想定されるため、それらは中国にとって重大な課題となり得る。日本の潜水艦と対潜哨戒機や海底ソナーを含む日本の対潜戦戦力は『南西の壁』を確立し、これを維持する上で特別な重要性を持つと考えられる」(Ibid.: 73) 
日本はその地理的位置によって、中国が西太平洋に進出するために通過すべきチョークポイントを確保することができます。
著者らが指摘するように、このチョークポイントを日本が確保することができなければ、その後の米軍のエアシー・バトルの構想を実現させることは極めて難しくなると考えられるのです。

終わりに
この研究を読んで改めて思うことは、日本の領土が北東アジア地域においてどれほど重要な戦略的要衝に位置しているのかということです。
特に南西地域をめぐる米中の勢力関係が、今や長期的な東アジア地域のあり方を左右するようになっていることは地政学的に重要な意味を持つ問題です。

政府関係者の発言で、「安全保障環境が厳しさを増している」という言葉はよく耳にしますが、それだけではどのような意味で「厳しさ」が増しているのか国民には分かりにくいと思います。
とはいえ、政府関係者がそれを直接口にすることは外交的な影響を考えれば、あまり望ましいことでもありません。
結局、政府と関係を持たない安全保障学、防衛学の研究者がこうした問題について積極的に広報することが必要だと思います。
武力攻撃事態が発生した後で、こうした状況があったことを国民が初めて知ることがないように、議論の輪を広げていく努力がますます求められていると思います。

KT

関連記事
論文紹介 アメリカ軍による島嶼防衛の限界
論文紹介 中国の立場から見た在日米軍基地
論文紹介 海洋戦略から見た日本の島嶼防衛

2016年2月16日火曜日

はじめて学ぶ築城学の基本基礎

日本にも各地に城塞が残っており、こうした史跡を観光資源として活用するために改めて調査研究する取り組みも活発に見られます。
しかし、こうした城塞の研究を進める上で基礎とすべき築城学の文献はそれほど多く流通していないため、理解を深める上で障害となっている部分があるのではないかと思います。

築城(fortification)とは、我が部隊の防護性を向上させ、かつ戦闘力の発揮を容易とするため、土地に対して施す工事、またはその工事によって構築される掩体等の各種構築物の総称であり、築城学はその研究をいいます。

築城の意義は戦闘を戦闘で所要の地点を味方が防御することを助けることにありますが、築城の形態や規模は与えられた任務や利用できる物資、また周囲の状況によってさまざまです。
最も一般的に分類すると、あらゆる築城は平時から計画的に工事を実施して構築される永久築城と戦時に一時的、応急的に構築される野戦築城の二種類に分類されます。

今回は築城学の基本である野戦築城を中心に、その基本知識を簡単に説明し、より深く城塞について研究して頂く上での参考にして頂ければと思います。

掩体の基本的な構造と特徴
築城学でよく使用される専門用語の一覧。
用語の解説のための掩体の断面図だが、各辺の大きさは強調または短縮している。
ここで示しているのは19世紀から20世紀前半まで見られた典型的な堡塁構造の断面図である。
現在の個人用の掩体では外壕を設けず、積土、本体部、通路部で構成する。
ここで示した築城用語に関する個別の解説は(Mahan 1852)を参照。
野戦築城の基本的な要素となるのは掩体です。
掩体の目的は火力の発揮または監視や観測を容易にし、かつ敵の火力から人員、武器、装備を防護することであり、一見すると土が周囲に盛られ、大人が全身を入れることができるだけの大きさを持つ穴のようにも見えます。

基本的に野戦築城では掘開した土を積土として射手の前方に設置します。米軍では掘開深さの目安は小銃の全長の二倍と指導することもあるようです。
掘り返した土を周囲に盛り、その斜面を緩やかにすれば、少ない積土でも厚みを増すことができます。ただし、この場合には積土は低くなるという欠点があり、より深く掘らなければなりません。
しかし、斜面の角度を急にして積土高を高くしようとすると、銃撃や爆撃等の衝撃を受けた際に積土が崩壊してしまう恐れが大きくなります。
小銃手の掩体の一例。元来の地形が傾斜しているため、僅かな積土高しか認めらず、敵の射撃に対する防護性は低くなっていることが分かる。このように、地形地物によって掩体の強度が影響を受けることが示されている。
射手が射撃を容易にするためには、胸土に射手の肘を乗せるスペースを設けることも命中精度を上げる上で重要なことです。内壕に水がたまることを防止するために排水溝を作らないと、気象条件によっては雨水で掩体が崩壊する危険もあります。また、掩体は他の掩体と射撃区域を効率よく分担していなければならないということにも注意が必要でしょう。

ただし、地面を掘ればそれが直ちに掩体になるわけではありません。火力の発揮をそもそも目的としない構築物もあるためです。そのような構築物は掩体ではなく掩壕と呼びます。掩壕は敵の火力から味方の人員、武器を防護することのみを目的とするためです。これら掩体、掩壕の間を移動するための壕のことを交通壕または連絡壕といいます。

築城の構成方法と戦術的な考慮の関係
築城の編成は個々の陣地の強度に加えて、正面と縦深、予備の運用等の観点から考察する必要がある。
先ほど述べた掩体等は野戦築城を構成する要素であり、それぞれの陣地に配備した火器の射程や威力に加え、防御陣地の正面と縦深をどのように設定するのかが非常に重要となります。

個々の陣地の正面が広すぎると、敵に突破を許す危険が増大しますが、陣地の正面を狭くすると側面を攻撃される危険が増大します。
また縦深を大きくとれば、敵が深く浸透してきたとしても、それを正面に捉えて交戦することができますが、縦深が小さいと第一線で増援が必要となっても速やかに予備を派遣することができるという利点があります。
こうした複雑な利害関係を踏まえ、任務、地形、敵情に応じた築城の編成が選択されなければなりません。

なお、防御陣地と接近経路の関係については、以前の記事「接近経路で分類できる防御陣地」もご参照下さい。

終わりに
概論的な内容になってしまいましたが、野戦築城における基本的な要素である掩体とそれらを全体的に組み合わせた際に、どのような事項が論点となりえるのかを見てきました。
近代的な築城のモデルは17世紀にフランス軍で活躍した将軍ヴォーバンによって本格的に研究がすすめられ、その後も武器の威力が高まるのに応じて進歩し続けてきました。
軍事学の歴史を振り返ると、技術革新によって火力が著しく向上した19世紀に築城学の文献も急増しており、現在の築城の考え方もこの時期に相当確立されています。
築城学をさらに深く知りたい方々については、次のような文献が参考になるかもしれません。

ジラール『戦術応用築城学』三村友芸訳、陸軍大学校、1885年
Bralmont, Charles B. 1888. Field Works: Their Technical Construction and Tactical Application, London: Kegan Paul, Trench & Co.
Clarke, G. S. 1889. Land Fortification, Past Present and Future, London: Woolwich.
Clarke, G. S. 1907. Fortification: Its Past Achievements, Recent Developments, and Future Progress, Liphook, Hants: Beaufort Publishing.
Duffy, Christopher. 1976. Fire and Stone: The Science of Fortress Warfare 1660-1860, London: David & Charles.
Duffy, Christopher. 1997. Siege Warfare: The Fortress in the Early Modern World 14949-1660, London: Routledge.
Fiebeger, Gustave J. 1913. A Text-Book on Field Fortification, New York: John Wiley & Sons.
Floyd, D. E., ed. 1992. Military Fortifications: A Selective Bibliography, New York: Greenwood Press.
Hogg, I. 1979. Fortress: A History of Military Defense, New York: St. Martin's Press.
Yule, Henry. 1851. Fortification for Officers of the Army and Students of Military History: With Illustrations and Notes, London: William Blackwood and Sons.

参考文献
Mahan, Dennis Hart. 1852. A Treatise on Field Fortifications, New York: John Wiley.

2016年2月14日日曜日

論文紹介 未来の戦場では歩兵分隊が重要となる

基本的に陸軍の組織構造は師団・旅団を基本とし、その下位組織として連隊、大隊、中隊、小隊、分隊が置かれています。しかし、こうした組織構造は絶えず陸軍の歴史の中で見直されており、戦争の様相が変化し続けている現代においても再検討が行われています。
特に米陸軍はアフガニスタン、イラク等の経験を踏まえ、組織の設計を見直すべきという議論が活発に交わされています。

今回は、分隊の役割に注目した研究について取り上げ、その内容を紹介したいと思います。

論文情報
Brown, Robert B. 2011. "The Infantry Squad: Decisive Force Now and in the Future," Military Review, November-December, pp. 2-9.

現代の戦場では分隊員の一人ひとりが重要なプラットフォームである
著者の見解によれば、分隊という部隊が戦場でこれほど重要な役割を担うようになったことはかつてありません。かつて分隊は小隊を構成する一要素という以上の役割を果たすことはめったにありませんでしたが、著者は「われわれは歩兵分隊を決定的戦力の基礎として取り扱わなければならない」と強調しています(Brown 2011: 3)。

分隊の位置付けが変化した背景には数多くの技術革新があります。依然として歩兵分隊の能力は近接戦闘に限られてることは確かですが、ネットワークを活用して他の部隊と絶えず状況認識を共有するようになっており、分隊員の射撃によらずとも、砲兵や航空支援を従来よりもはるかに容易に活用することができるようになりました(Ibid.: 5)。

技術の革新だけではなく、現代の戦場では即席爆発装置や自殺攻撃のような攻撃方法がとられる機会が増加していることも重要な要因です。
著者はこのような脅威に対して米軍は兵士を保護することに多大な努力を費やしており、例えば歩兵戦闘車等のプラットフォームを充実させることに多額の予算を費やしていますが、著者はそのような消極的な措置ばかりでなく、戦いの主導権を獲得することにも着意する必要があり、そのためには兵士一人ひとりを「プラットフォーム」として位置付けることが必要だと述べています(Ibid.: 6)。

将来の戦争に向けて、分隊が保有すべき戦闘能力を再定義すべき時が来ている
著者は陸軍が分隊を一つのシステムと見なし、それが保有すべき戦闘能力を考察していますが、特に偵察能力の重要性について強く改善を要求しています。

著者の言葉を借りれば、分隊には常態的に状況を把握し続けるための「瞬きしない眼」が必要とされています(Ibid.: 7)。
これには分隊が他の部隊からの情報を共有できるネットワークの管理が必要ですが、そのためには中隊の情報支援能力を拡充し、可能な限り現地に近い本部で情報分析ができる態勢を整えなければならないと主張しています(Ibid.: 7-8)。
従来の陸軍の編制だと情報分析のような任務を遂行する部隊が歩兵中隊に置かれることはないため、この組織的欠点が現場での情報共有の妨げになっている側面があるのです。
「われわれは陸軍の歴史において重要な時期に来ている。(中略)もし現在の出来事が将来の紛争を何らかの示唆するのであれば、未来はめまぐるしいものとなるだろう。アイゼンハワーは『賢く、勇ましい人間は、歴史の通り道で横になり、未来という列車に引き殺されるのを待ったりはしない』と言った。今はわれわれが未来を形作る時である。わが歩兵分隊は今や決定的な重要性を持っているのだ」(Ibid.: 9)
終わりに
戦争は常に変わり続けているということを頭で理解していたとしても、実績を持つ完成された組織を未知の形態に変えることには常に費用とリスクが伴います。
しかし、著者が指摘しているとおり、現代の戦場において歩兵分隊の役割は相対的に大きくなっており、情報技術が発達した現代では兵士一人ひとりが全軍の眼となり、耳となって情報を後方の本部に送り、また航空部隊からの情報に基づいて数百メートル先の敵を標定できるようになっていることは重要な変化です。

21世紀の陸軍における歩兵分隊の役割は何かという論点に関してはまだ研究者の間でも定説と呼べるものが固まっていませんが、このような見解が今後の世界各国の陸軍で分隊の編成、武器、装備の設計、戦術や訓練内容に影響を及ぼす可能性は小さくないと思います。

KT

2016年2月12日金曜日

ホプキンソン-クランツ相似則で考えるTNTの殺傷範囲

武器、特に核兵器に関するデータを読んでいると、その威力の単位としてトリニトロトルエン(以下、TNT)換算の方法が頻繁に使用されていることに気付きます。
問題は、ほとんどの人がTNTの威力を具体的に知らないということです。せっかくデータを持っていても、それがどの程度の殺傷能力を発揮するのか解釈することができないのです。

今回は、弾薬管理の現場でも保安距離の計算のために使用されているホプキンソン-クランツ相似則を紹介し、それを用いて簡単な殺傷範囲の計算式を説明したいと思います。

ホプキンソン-クランツ相似則とは何か
ホプキンソン-クランツ相似則(Hopkinson-Cranz Scaling Law)は、爆発のエネルギーと爆心からの距離、爆発によって生じる圧力の間には次のような関係が成り立つという法則です。(危険物を取り扱う資格試験の参考書等では「ホプキンソンの法則」と呼ばれることもあります)
ホプキンソン-クランツ相似則で取り扱われている要素。
距離はその爆発で圧力が作用する距離の値を、重量は爆発する爆発物の全重量の値をとる。
比例定数は爆発で生じる加圧がどの程度であれば許容範囲であるかによって変更できる。
この計算式の具体的な使用法としては、例えば爆弾をXトンだけ弾薬庫に貯蔵する場合、弾薬庫の広さや壁の強度をどの程度にすれば安全を保つことができるのかを考える際に、この計算をします。
また、戦場で弾薬をどこに集積するべきかを考える際に、遠すぎると補給で不便ですが、近すぎると射手の安全が確保できません。したがって、この計算を行っておくと、ある弾薬の集積場所で爆発事故が発生した場合に射手が安全な距離を保つために必要な距離を見積ることもできます。

まず1トンのTNTの殺傷範囲を計算してみる
問題は、ホプキンソン-クランツ相似則を用いて、TNT1トンがどれだけの殺傷範囲を持っているのかを明らかにすることです。

まず殺傷範囲を考える時にどの程度の加圧をもって死者や負傷者が発生する領域と見なすべきかを決める必要があります。
ここでは1000キログラムのTNTが100メートル先にまで衝撃波が到達するという想定(100/1000^(1/3)=10)で計算していきたいと思います。

この場合、1トン=1000キログラムのTNTを爆発させるとすると、その威力が及ぶ距離は

10×1000(kg)^(1/3)=100(㎡)

となりますので、この100メートルを半径として円の面積を求めると

100^2×3.14=31400

したがって、1トンのTNTは31400平方メートルの空間を占める目標を殺傷する能力があるという答えになります。大雑把に考えると、1平方メートル当たり1名の間隔で兵士が密集していた時に、この一回の爆発で31400名の損害が発生することを意味しています。

別の数値で計算した結果をまとめると次の図のようになります。
縦軸が殺傷範囲(㎡)の値で、横軸が弾薬重量(kg)の値。

分析は以上となりますが、今回の計算はあくまでもホプキンソン-クランツ相似則に依拠したものに過ぎず、爆薬の地上からの位置、反射波の影響、気象の条件等によって爆発はさまざまな影響を受けるという点に十分ご留意下さい。

終わりに
現代の武器、特に核兵器の威力はあまりに大きいため、それを使用した場合にどれほどの威力が発揮されるのか、具体的なイメージに結びつけて理解することが非常に難しくなっています。武器を取り扱った経験がなければ尚更です。

TNT換算されている核出力のデータからそれがどの程度の殺傷能力を持つのかを考えることができれば、その武器に対する理解はより深まることでしょう。
特にその核兵器の威力範囲に注目してTNTの値を見ていくと、限られた範囲だけを攻撃するための戦術核兵器の役割や運用を空間的に考えることができるようになります。
厳密さに問題もあるのですが、今回のホプキンソン-クランツ相似則を用いれば、さまざまな武器の威力を解釈する上で手がかりとなると思います。

KT

参考文献等
United Nations Office for Disarmament Affairs. 2015. International Ammunition Technical Guideline, 2nd edition, New York: United Nations.
弾薬管理の文献。保安距離の計算を目的として、2頁にホプキンス-クランツ相似則のことが述べられている。

2016年2月11日木曜日

プラトンは戦争の原因をいかに説明しているのか

世界で最も有名な哲学者であるプラトン(前427年-前347年)は哲学者(知を愛する者)こそが権力者とならなければ、国家は不正から逃れることができないと論じたことで知られています。
当時、プラトンがいた都市国家アテナイの政治体制は民主制でしたが、プラトンは民主制が個々人の私益のために暴走する傾向を持ち、また矛盾と混乱に満ちているとして批判的立場をとっていました。それゆえ、国家を適切に指導する能力を持つ哲学者でなければ権力を掌握するべきではないと考えていたのです。

このようなプラトンの政治哲学はよく知られていますが、今回はプラトンの政治哲学を踏まえた上で、彼が戦争の原因をいかに説明していたのかを紹介してみたいと思います。

アテナイの政治情勢と哲人政治の必要性
当時のアテナイでは民会と呼ばれる市民集会の議決によって政策が策定されていました。民会に出席する議員はアテナイ人を両親に持つ30歳以上の成人男性でなければならず、自由市民としての身分を持ち、また有事においては兵士として従軍する義務を負わなければなりませんでした。
したがって、常備軍は編成されておらず、官僚制に関しても市民がくじ引きで任期ごとに分担しているという状態でした。

言い換えれば、当時のアテナイ市民は兼業として政務に従事しており、政治権力に対するアクセスが容易でした。このことが市民同士の権力闘争を加速させており、プラトンは強い問題意識を持っていたのです。

権力闘争によって国家の結束が損なわれる危険性を除去し、人々が財産や名誉等の短期的な利益ではなく、知恵や謙虚さ、公正さといった重要な美徳に沿って善い人生を送るためには、哲学者(つまり徳の重要性を理解している知識人)が国王の地位に就き、その合理的な判断の下に人々の思想と行動を統制することが重要である、とプラトンは考えました。

しかし、王と言ってもその哲学者は世襲制であってはならないとプラトンは主張しています。
その結果、プラトンの政治哲学では、男女分け隔てなく、あくまでも実力主義に基づいて国民を知的能力に優れた最適者、戦闘能力に優れた守護者、そしてその他の民衆に区分する国家の理想的モデルが提案されています。

現代の研究では、このようなプラトンの政治思想を民主主義の批判に基づく全体主義の擁護として解釈する見方もありますが、その後でシラクサ王国の政治顧問の仕事を通じて実際の政治を経験してからは、より穏健な思想へと変化したことも分かっています。

戦争の原因としての不均衡な経済成長
ペルシア戦争に勝利したことでエーゲ海の海上優勢を確立したアテナイは海上貿易を通じて経済的に台頭し、政治的、軍事的にもギリシア半島各都市を支配下に置くことができる国力を備えていた。
貴族階級の出身だったプラトンは青年期に最盛期のアテナイでソクラテスの教えを受けていたが、アテナイでソクラテスの影響力の拡大を懸念した勢力は、ソクラテスの言論が若年者を惑わせるものとして死罪にしたことで、プラトンは民主制への敵意を強めることになった。
プラトンが哲学者を頂点に多数の職業軍人を擁する国家体制を構想し、その理由として人々が目先の利益を求めて行動する傾向があるため、これを統制しなければならないからだと主張したことは、先に述べた通りであり、政治学の教科書でも広く言及されているところです。
しかし、この国家体制を建設する理由の一部には戦争の防止をも含まれていた、ということはあまり理解されていません。

そもそもプラトンは戦争が発生する理由とは、「必要なだけの限度を超えて」国民が隣国の人々の土地を獲得することにあると考えていました(上143)。これはプラトンが哲人政治によって是正しようとした人間の過剰な物質的欲求の一部でもありました。
「われわれはさらに戦争の起源なるものを発見した。すなわち、国々にとって公私いずれの面でも害悪が生じるときの最大の原因であるところのもの、そのものから戦争は発生するのだ、と」(上144)
この論点に関してプラトンは人間が持つ欲求それ自体が問題だと主張しているわけではありません。ここで問題となるのは、物質的欲求の拡大を促進する一連の過程であり、バランスを欠いた経済成長の過程なのです。

経済成長がなぜ戦争の原因となり得るのか
プラトンの説明を要約すると次のようになります。
元来、あらゆる国家は人間が自給自足の生活を営むために建設されていました。
人間はその生存自活のために一カ所に集団生活を始めますが、少しずつ人口が大きくなるにつれて、食料の調達、住居の建設、衣服の生産を分担するために農夫、大工、織物工等の分業が進んでいくものだとプラトンは説明していきます(上131-132)。

その理由は生産性の高さです。
プラトンの例えに沿って説明すると、「農夫は一人で四人分の食料を供給し、四倍の時間と労力をその食糧生産のために費や」した方が、自分ひとりだけのために作る代わりに、残りの四分の三の時間を住居建設や衣服の生産に使い、自分は自分のために自分のことだけをするよりも遥かに効率的なのです(上133)。
これは分業によって単位時間当たりの労働生産性が増加すれば、それだけ国家全体の生産力も増大し、国民はより豊かになるということです。

経済成長を続けていくと、分業が複雑多様化しておくため、必需品の流通を促すための貨幣の機能が重要となり、ここに商業の発達も促されることになります。
特にプラトンは農夫や職人が市場で生産物を交換する労力を節約するために、商人の果たす役割が大きいと考えており、国内の市場で売買のための世話をする小売商人や外国と貿易するための貿易商人もまた分業体制を整えていくと述べています(上138)。
こうして国家が十分に成長して自給自足となります。プラトンはこうした国家を「健康な国家」と表現しました。

しかし、こうして必需品が満足に供給されるようになると、人々は徐々に奢侈品を求めるようになります。
ここで「健康な国家」は損なわれ始めます。つまり、奢侈品の生産、サービスに専念する詩人、吟遊家、俳優、舞踏家、召使、教育係、乳母、理髪師、料理人等が国家の中に現れてくることになるのです。彼らは人々の生活水準を高めますが、必需品の生産に携わらないため、無計画にこのような産業が肥大化していくと、国家は従来の土地で自給自足することが難しくなります。
ここで新たな土地や資源の獲得に打って出る必要が生じてくるのです。
「そうすると、われわれは、牧畜や農耕に十分なだけの土地を確保しようとするならば、隣国の人々の土地の一部を切り取って自分のものとしなければならない。そして、隣国の人々のほうでもまた、われわれの土地の一部を切り取ろうとするだろう。―もし彼らもはやり、どうしても必要なだけの限度を超えて、財貨を無際限に獲得することに夢中になるとするならばね」(上143) 
終わりに
プラトンは戦争が人間のある意味で自然な欲求に基づくものであり、それは高度に経済成長した国家にとって土地や資源が慢性的に不足しやすい事情によるものだと考えていました。
したがって、哲人政治を導入すべきとプラトンが考えていたのは、(彼自身が哲学者であり、人間として善い生き方を重視していたこともあるのですが)人間がその欲望を満たすために際限のない経済成長を続ければ、それは戦争を引き起こすリスクに繋がるという判断があったと考えることは重要なことです。
奢侈品の生産に携わる国民が増加し、結果として自給自足がままならくなった国家を、プラトンは「豚の国家」、「贅沢な国家」と表現しています(上140-141)。

古代ギリシアの哲学者であるプラトンの学説を現代の政治情勢にそのまま当てはめることはできませんが、そこで提起されている問題は依然として重要な意味を持っていると思います。

KT

参考文献
プラトン『国家』藤沢令夫訳、上下、岩波書店、1979年

2016年2月9日火曜日

論文紹介 風の流れが空母の針路を決める

近代の海上作戦において航空母艦(以下、空母)の果たす役割は極めて大きなものがあります。
航空機の打撃力と機動力はそれだけでも水上艦艇にとって重大な脅威ですが、空母はその航空機を洋上で大規模に展開する能力を持っているためです。
そのため、空母が配備されることの戦略的、政治的な影響は非常に大きいものと考えられています。

しかし、戦術の観点で考えれば、他の水上艦艇と同じように、空母にもさまざまな弱点や制約があることが見えてきます。むしろ、戦術学の立場で見れば、空母ほど運用に制約が多い艦艇は他にないとさえ言えるかもしれません。
今回は、空母の戦術は気象条件によって大きく制約されることを説明した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Browning, M. R. 1946. "Aircraft Carrier Tactics," Military Review, Vol. XXV, No. 10, pp. 17-23.

気象条件が空母の運用を難しくする
空母の最大の特徴は、空母そのものが交戦するのではなく、空母から発艦した航空機が交戦するという点でしょう。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦と比較しても、この特徴は際立って特異です。
空母の戦闘力を発揮するためには、搭載されている航空機を適時適所に指向する戦術が必須であり、航空機の的確な運用が空母の最も重要な課題となります。

著者は、このような特性を持つ空母の戦術は、気象条件、特に風向きによって大きな制約を受けることを説明しています。
「誰もが基本原則として知っていることは、空母が航空機を発着艦させるために向かい風に対して針路をとらなければならない、ということである。さらに、大部分の人々は気が付いていることであるが、このような空母の行動において横風は一切許容できない。それは飛行甲板が提供する滑走路を極端に狭めるためである。それゆえ、風速が非常に弱い場合は別として、空母は航空作戦が継続している間は、基本的に向かい風に針路をとりつつ、非常に厳格な制約の下で航路をとることを余儀なくされるのである」(Browning 1946: 18)
南太平洋海戦におけるエンタープライズの行動
このような空母の運用を説明するために、著者は1942年10月に日米で戦われた南太平洋海戦を取り上げています。
当時、トラック島に作戦基地を置いた日本海軍の艦隊は、4隻の空母を戦闘地域に指向可能でしたが、米海軍の戦力ではエンタープライズとホーネットの2隻の空母しか展開することができませんでした。そのため、米海軍は不利な戦力比でこの時の戦闘を切り抜く必要があり、何としても戦闘では先制攻撃を成功させたいところでした。

10月25日未明、地上基地に配備されて警戒に当たっていた哨戒機が日本海軍の艦隊を発見し、おおまかな座標が判明しました(Ibid.: 18)。エンタープライズは直ちに日本の攻撃を阻止するため、情報に従って北西の方向に進んでいました。
そして25日午前6時に次の地図で示したA地点に到達します。
25日6時以降のエンタープライズの行動。(図の右下のA地点より)
日本海軍が所在するとされるJ地点はエンタープライズの北西の方向。
向かい風とするためエンタープライズが航空機の発着艦のたびに変針していることが分かる。
(Ibid.: 19)
当時、エンタープライズが占位した座標は敵から南東の方向に位置していました。しかし、現場の風向も南東(つまり南東から北西に流れる風向き)であり、風速は5ノットでした。これは空母の艦長にとって望ましくない状況でした。

すでに哨戒機と接触した敵艦隊は新たな方向に向かって移動している可能性があるため、敵の攻撃を阻止するためにはいち早く捜索しなければなりません。
しかし、向かい風になるためには空母の針路を敵とは反対の方向へと向ける必要があります。それゆえ、エンタープライズでは航空隊の発着艦のたびに北西に向けていた針路を南東に何度も変針せざるを得ませんでした(Ibid.: 19)。艦艇は大型になるほど旋回が難しくなるため、このような回頭には時間を必要とします。

空母を運用する際に基本となる戦術的原則とは何か
風向、風速といった気象条件によって空母がその本来の戦闘力を発揮することができなくなるということは、空母の戦術を考える上で最も基本とされるべき事項であると著者は強調しています。
「空母の戦術の大原則とはその極端な脆弱性から直接かつ明白に導き出される。それは空母はいかなる敵の水上艦艇の大砲または魚雷の射程内に決して不用意に占位してはならない、ということである。この原則に例外は存在しない」(Ibid.: 22)
空母が敵の砲撃、雷撃の射程外に占位していると、空母は回避行動をとらなければなりません。それゆえ、風向に応じて針路を選択し、自らを掩護する航空隊を発進させることが完全に不可能となってしまいます。
しかも空母はその内部に航空機に補給する弾薬や燃料が多く、攻撃を受けた時の脆弱性は他の艦艇よりも大きいことにも注意しなければなりません。
「空母は基本的に攻撃的な武器であり、その打撃力を最大限に拡大するためには、その戦術は展開する海域の選択とその目標の選定し、その戦術では目標に対して最適規模の航空隊の行動を可能にするために正しい選択を下すことが求められる。同時にその脆弱性から空母は敵のあらゆる火力、特に水上艦艇の砲撃から一定の距離を保つ必要がある」(Ibid.: 23)
終わりに
この研究で示されたように、風向や風速といった気象条件によって発揮できる戦闘力が絶えず制約されるということは空母の行動で第一に考慮すべき事項です。
現在の空母も航空機の発着艦において向かい風となるように針路をとることが必要であるため、基本的な制約は今も昔も変わっていません。

空母の艦長はあらかじめ天気図をよく研究しておき、敵情だけでなく、作戦地域の気象の推移を踏まえて針路を考えておかなければなりません。逆の立場から考えれば、空母といってもその戦闘力の発揮が難しい状況があり、その機会を戦機として活用できるようにすることが重要であると考えられるでしょう。

KT

2016年2月8日月曜日

論文紹介 戦略だけで抑止論を語ってはならない

戦略は国家の政策目標を達成するために、その国家の保有する軍事力を活用する方法、計画、方針であり、長期的、大局的な視点から物事を考える時には「戦略的に考える」という表現を慣用的に用いることもあります。
しかし、上層部の地図上で部隊が適切に配置、移動できたとしても、それを実行に移す過程で、部隊の運用に問題が生じると、そこから計画は破綻していき、結局は机上の空論に終わってしまう恐れがあります。そして、このような事態は戦争の歴史で繰り返し起きたことでもあります。

今回は、抑止という問題を取り上げて、これを戦略の観点だけでなく、作戦という下位の観点から考察することの重要性を示した論文を紹介します。

論文情報
Crawford, Dorn. 1987. "The Operational Level of Deterrence," Military Review, January, pp. 14-22.

抑止の分析レベルを考える
抑止とは、その行動を起こすことによって期待される利益を費用が上回ると相手に認識させる努力を我が方として講じることにより、潜在的な攻撃を未然に防止することをいいます。
研究者はこれまでにも抑止を研究するために、抑止-防衛、抑止-戦争、核抑止-通常抑止、報復的抑止-拒否的抑止などの分類を考案してきましたが、著者は抑止という概念が曖昧に解釈されているという点を問題として提起しています(Crawford 1987: 15)。
そこで著者は軍事学の分析レベルをより体系的に抑止の研究に導入する必要があると論じています。

全ての学問には分析レベルの区分があります。
経済学にはミクロ経済学とマクロ経済学の分析レベルがあり、政治学でも国家の対外行動を分析する国際政治のレベル、国内の勢力関係を分析する国内政治のレベル、そして政治過程における個々人の行動に注目する個人レベルに分かれます(Ibid.: 16)。
動揺に、軍事学でも戦略、作戦、戦術という三種類の分析レベルが存在しており、それぞれのレベルに抑止の問題があると考えています。

(1)戦略レベルの抑止
戦略レベルにおける抑止の目標とは、米国の領土と死活的権益を脅かそうとする敵国を何をしてでも思いとどまらせることです(Ibid.: 16)。
戦略的抑止はすでに多くの研究が行われていますが、具体的には部隊の編制、機動力、前方展開、即応展開、動員計画、事前集積基地、交戦規定、同盟国との共同作戦、そして究極的には戦略核兵器の運用に関する問題が取り扱われています(Ibid.)。
しかし、戦略レベルだけで抑止を研究するには限界があり、より詳細な作戦的抑止と戦術的抑止の研究が必要であると著者は考えています。

(2)作戦レベルの抑止
作戦は戦略と戦術の中間にあって、両方と関係を持っています。作戦の指導では戦闘部隊の配置と移動、即応態勢の指定、指揮統制や連絡体制、後方支援等が問題となり、抑止もまた具体的な問題として考えることができます。
すなわち、作戦的抑止は作戦地域で敵の潜在的利得を上回るだけの費用とリスクを強いる戦闘能力によって測定されるものです(Ibid.: 18)。
作戦的抑止をさらに詳細に検討する場合には、戦術的抑止が問題となります。

(3)戦術レベルの抑止
戦術レベルの抑止は部隊の運用を分析する上で最も基礎的な分析レベルといえます。
戦術的抑止の目標は戦場において敵に戦闘で勝利を収めることはできないと確信させることであり、それは彼我の武器、部隊、教義、訓練、士気、団結、統率などの要因によって影響を受けると考えられます(Ibid.)。
このように抑止を分類すると、戦術的抑止が作戦的抑止を可能にし、作戦的抑止が戦略的抑止を可能にするような、相互作用の関係があることが分かります。

作戦的抑止の研究が信頼性の高い抑止の実現に繋がる
1980年代、米国はソ連の通常戦力による攻撃に対しては直ちに核戦力を使用することを避け、通常戦力によって対抗する柔軟反応という戦略構想を導入しました。
しかし、著者はこの戦略的抑止が成功するためには、作戦術(operational art)が重要であることを指摘しています(Ibid.: 20)。特に当時の米陸軍で研究がなされていたエアランド・バトルの実効性を作戦レベルで確保することが、戦略的抑止の成功にとっても必要であると考えられています。
「二つの重要な分類がある。拒否的抑止とは、取引過程において、敵の行動によって生じる費用を代償とさせることにより、敵がその所望の利得を得ることを拒絶することを目指すものである。報復的抑止は、敵の損害を将来期待される利益より上回らせることによって、敵が現時点で保有する装備品等を危険な状態にするものである。後者は戦略核兵器により伝統的に実施されてきたが、前者は通常兵器によって実施されてきたものである。しかし、この基礎にある区別は防御・拒否と攻撃・報復として残っている」(Ibid.)
ここで興味深いのは、作戦レベルで攻撃と防御の能力が、作戦的抑止の形態としての報復的抑止と拒否的抑止を可能にすると論じているところです。
さらに著者は作戦的抑止が相手の意思決定に影響を及ぼすためには、報復的抑止と拒否的抑止の二つを組み合わせることが必要であり、そのためには攻撃と防御の能力をバランスよく整備すべきではないかと論じているところです(Ibid.)。

結びにかえて
この論文で著者が若干の指摘を加えているように、政治学、国際関係論、安全保障学では抑止を戦略の観点で考えることに終始する傾向が確かにあります。
抑止を戦略レベルだけでなく作戦レベル、戦術レベルで研究しようとすると、それが作戦、人事、情報、兵站、武器、訓練などが関係してくる非常に複雑な問題であることが分かります。この段階で研究者の多くは後退を余儀なくされてしまいます。

しかし、著者が指摘する通り、抑止をより深く理解するためには、戦略的抑止だけでなく、作戦的抑止の問題に取り組むことは重要な研究課題です。同時にそれは政治学、国際関係論が軍事学の研究とより緊密な交流をもって取り組むべき研究課題ではないかとも思います。

KT

2016年2月6日土曜日

論文紹介 知られざる太平洋戦争での米海軍戦術発達史

第二次世界大戦の海軍戦術に関する研究を読むと、日米で空母の運用に関する研究進捗に相違があったという見方があります。1941年の真珠湾攻撃で空母の集中運用に成功した日本海軍ですが、その後に空母の戦術、運用の研究を進めた米海軍の戦術によって敗北したという捉え方もここに含まれるでしょう。

しかしながら、そもそも米海軍で戦艦重視の教義が空母重視の教義へと転換したという解釈はどれほど妥当なのでしょうか。その結果、米海軍は日本海軍に対して戦術的優位に立ったと判断できるのでしょうか。これらの疑問は必ずしも解決されていませんでした。

今回は、この問題に取り組んだ研究論文を取り上げ、その内容を一部紹介してみたいと思います。

文献情報
Hone, Trent. 2009. "U.S. Navy Surface Battle Doctrine and Victory in the Pacific," Naval War College Review, 62(1): 67-105.

そもそも艦隊決戦を想定していた米海軍の戦闘教義
著者は、米海軍が日本海軍よりも迅速かつ的確に戦艦中心の教義を捨て、空母による航空打撃戦の教義を発展させたという解釈は、非常に一面的で問題が多いと批判しています。
なぜなら、当時の米海軍の内部で進められた戦術研究を調べると、米海軍は当初から空母による航空打撃戦に重点を置いて戦術の研究に取り組んでいたわけではないためです。

1941年、太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツ(Chester W. Nimitz)は日本海軍の真珠湾攻撃によって損害を受けた艦隊の再建に着手します。しかし、日本海軍が見せた空母の集中運用が直ちに米海軍の戦闘教義に取り入れたということはありませんでした。これは当時の米海軍の教義がすでに戦間期に確立されており、これを容易に変更することが難しかったことと関係しています。
戦間期に米海軍の教範で策定された標準的な戦闘陣の概念図。
戦列の針路(太矢印)は敵の方向(細矢印)に対して直角に向け、その周囲に駆逐艦、巡洋艦が占位する。
戦列から敵の方向に対しては視界・射界を確保しており、典型的な艦隊決戦を想定していることが分かる。
(Ibid.: 70)
当時の米海軍の教義では「戦列(battle line)」に基づいて組み立てられていました。
1930年、米海軍では標準的な戦術を定めるために『1930年度艦隊配置及び戦闘計画試案(Tentative Fleet Dispositions and Battle Plans, 1930)』が策定されますが、そこで戦列を中心に艦隊の戦闘要領が規定され、その内容は1934年に『合衆国海軍大戦術教令(General Tactical Instructions, United States Navy, FTP 142)』、1940年の改訂版に継承されています。

この時に採用された戦列とは戦艦等の主力艦によって構成される戦闘陣の中核的要素であり、対水上戦で主力艦が持つ火力を最も発揮しやすいという特徴があります(Ibid.: 70)。

興味深いのは、当時の米海軍の教義では戦列の一部に空母を組み入れるという着想があったものの、空母の機能は「戦艦と他の艦艇に対して上空援護」と理解されており、空母を独立して運用する場合でも、それは航空偵察や航空優勢獲得を目的とする補助兵力に過ぎまなかったのです(Ibid.)。これは米海軍の教義が空母を用いた航空打撃戦ではなく、戦艦同士の艦隊決戦を想定していたことの現れでした。

大戦術重視から小戦術重視へと切り替えれた米海軍の教範
1942年8月、第一次ソロモン海戦で米英豪海軍は数的に有利な戦力比で日本海軍で交戦したにもかかわらず、重巡洋艦5隻の損害をはじめ多大な損害を被ることになり敗北した。米海軍の歴史に残る最悪の敗北の一つとする歴史家の見方もあるだけでなく、当時においても太平洋艦隊で大きな衝撃をもって受け止められ、調査委員会が設置された。
1941年から1942年にかけて日本海軍との交戦経験が増えてくると、艦隊決戦を想定した教義の実行可能性には大きな問題があることが分かってきました。
特にガダルカナル等の周辺で発生した一連のソロモンの海戦の戦闘様相が米海軍の想定してきた艦隊決戦と大きく異なっていたことが事実関係の調査によって解明されると、戦闘陣を整えて艦隊が機動するような戦術に実効性がないという確信を深めることになりました(Ibid.: 73)。

このことから、艦隊決戦を想定した主力艦の集中運用に主眼を置いた大戦術(major tactics)の教義ではなく、駆逐艦や軽巡洋艦の運用を主眼に置いた小戦術(minor tactics)の重要性がはるかに大きいという意見が出されるようになります(Ibid.: 72)。これは米海軍の教義を艦隊レベルの運用から、戦隊レベルの運用へと発展させるきっかけとなりました(Ibid.)。

1943年4月、ニミッツは太平洋艦隊として教範の内容を全面的に見直すための会議を立ち上げ、収集した報告書の調査、戦闘から帰還した士官への面接調査を開始します(Ibid.: 74)。
この時の研究成果をまとめて同年6月に完成したのが『太平洋艦隊最新戦術陣形及び教義(Current Tactical Orders and Doctrine, U.S. Pacific Fleet, PAC 10)』でした。

この教範の改訂によって米海軍は二つの戦術問題を解決したと著者は評価しています。
(1)艦隊の教義を徹底して標準化し、任務群(task group)同士の運用上の互換性を確保し、攻撃前進を連続して実施する態勢を整えた。
(2)個々の艦長がより迅速に決定を下すことを可能にすることで、小規模な海戦における行動の柔軟性も改善された(Ibid.: 76)。
こうして軽巡洋艦や駆逐艦等の運用に関する戦隊レベルの戦術の研究が進むと、その成果は当時の米海軍で補助兵力と位置付けられていた空母の運用にも適用され始めます。

新教義によって促された空母の機動的運用
1943年から1945年にかけて実施された連合軍の反攻の進展を示した地図。
米海軍はギルバート諸島、マーシャル諸島に対する攻勢から開始して中部太平洋に進出し、その後は日本軍が設定した絶対国防圏を破る形でマリアナ諸島、フィリピンへと攻撃を進めたことで、日本本土と南方資源地域を結ぶ海上交通路を遮断することに成功した。
1943年11月、ニミッツは新たな教範を通じて新戦術の徹底を図り、ギルバート諸島、マーシャル諸島をはじめ一連の攻勢作戦を遂行していきます。
すでに述べたように、このニミッツの攻勢作戦では、駆逐艦、軽巡洋艦等の補助的兵力と見なされてきた艦艇の艦長の権限が大幅に強化されることになり、海上戦闘では戦闘艦隊ではなく、任務部隊が主体となって迅速に対応するようになっていきます。

このように任務部隊の重要性が拡大したことにより、艦隊全体の防空任務に制約されがちだった空母の運用にも重大な変化が起こりました。著者は次のようにこの変化を説明しています。
「1943年夏季に太平洋艦隊で導入された教義の発達と普及に対する新たなアプローチは、太平洋艦隊(の航空兵力)を空母中心の任務部隊へと区分しておき、艦隊が敵の対水上脅威に直面する際には、それらを一つの部隊として行動することができることを確実にした」(Ibid.: 93)
ここで著者が指摘していることは、戦時中に米海軍で実施された戦術研究は当初から航空打撃戦を重視したものではなく、戦闘の単位を艦隊から戦隊レベルに移行させるべきだという問題意識に基づいて進められていたということです。
つまり、戦艦から空母への移行という単純な図式ではなく、戦艦や重巡洋艦のような主力艦を中心とする艦隊レベルの大戦術から、駆逐艦や軽巡洋艦、空母のような補助兵力を中心とする戦隊レベルの小戦術への移行という図式に基づいていたという方が適切なのです。
このような戦術の変革を進めた結果として、空母中心の任務部隊が従来よりも機動的に運用できるようになりましたが、軽巡洋艦や駆逐艦の機動的運用を促進することの方がはるかに重視されていました。

米海軍の戦術に的確に対抗してきた日本海軍
1944年6月20日、マリアナ沖海戦で米海軍第58任務部隊から出撃した航空機により撮影された日本海軍の航空戦隊を映した偵察写真。この戦闘の結果日本海軍の航空兵力は大幅に低下し、マリアナ諸島に対する支配を失った。
しかし、著者はこの当時の米海軍による空母の運用には戦術的観点から見て問題があったことを指摘している。
ただし、著者はこのような新戦術をもってしても、米海軍は日本海軍に対して戦術的な優位性を獲得できたと言い切れない点があるとも述べています。
著者によれば、日本海軍はこうした米海軍の新たな戦術に対抗するための方法を実戦の中で編み出していたためです。
「しかし、米海軍のアプローチに問題がなかったわけではない。その問題で最も深刻だったのは米空母部隊の規模と勢力の増強に対する日本の対応であり、これに取り組むことに関しては失敗していた。日本人はいくつかの方法で米国を難題を突き付けたが、ここでは二つの課題が関係している。第一の課題は長年にわたり日本の対水上戦闘の中心的な要素であった戦局挽回の鍵、夜戦である。第二の課題は分散した展開、陣形の活用であった」(Ibid.: 94)
日本海軍が夜戦で小規模な交戦を挑んでくる問題に関して、米海軍は戦術的な解決を導くことができませんでした。米海軍は夜間の交戦を避けることで対応していましたが、1944年6月のマリアナ沖海戦でスプルーアンスの戦術が消極的すぎると批判されたのも、彼が日本海軍と夜戦になることを恐れて夜間に索敵を控えたことが関係しています(Ibid.)。

また、米海軍は任務部隊に対応した戦隊レベルの戦術を発展させた一方で、広範囲に分散した戦隊をどのようにすれば戦術的に連携させることができるのかという問題にはあまり取り組んでいなかったと著者は指摘しています。1942年の時点で日本海軍はこの問題に取り組んでおり、複数の空母を分散させて運用する方法を研究しているにもかかわらず、米海軍は1944年の時点になっても空母を一つにまとめて運用する段階に止まっていました(Ibid.)。

研究成果の要点とその意義
以上の議論をまとめると、著者は太平洋での日米の戦いが従来考えられているよりも、はるかに複雑な戦術的試行錯誤の産物であり、米海軍が日本海軍に対して空母の運用で優位に立ったという単純化された解釈は全面的に見直される必要があると訴えています。
この議論は個人的にも考えさせられるところが多く、日本海軍の歴史を戦術という観点から考える重要性を改めて確認させられるものでした。
特に著者が指摘した夜戦と空母の運用方法に関する議論は、日米間での太平洋戦史研究をますます活発にする必要があることを示していると思います。

KT

2016年2月3日水曜日

論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない

1914年、西部戦線に向けて鉄道で輸送されるドイツ軍の部隊。
車体の落書きにはドイツ語で「パリへの旅行(Ausflug nach Paris)」などと書かれている。
第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)の諸要因で特に重要だったのはドイツの戦争計画だったという説があります。それによれば、当時のヨーロッパ大陸で東のロシアと西のフランスに挟撃される事態を恐れたドイツが、両国を各個撃破する目的で対フランス戦を急いだ結果、第一次世界大戦が引き起こされたと考えられています。
しかし、この説明は完全なものではありません。というのも、ドイツよりもロシアが先に動員を行っていたことが十分に考慮されていないためです。

今回は、第一次世界大戦の要因を考え直すために、当時のロシアが行った動員の政治的な重要性について再評価を試みた研究を紹介したいと思います。

文献情報
Trachtenberg, Marc. 1990-1991. "Meaning of Mobilization in 1914," International Security, 15(3): 120-150.

第一次世界大戦直前の国際情勢と軍事バランス
第一次世界大戦における主要陣営の政治地図。ドイツ、オーストリア、イタリアから構成される同盟国(茶色)と、イギリス、フランス、ロシアから構成される協商国(緑色)の間で戦われた戦争。この政治地図では同盟国の盟主であるドイツはロシアを東側に、フランス、イギリスを西側に挟まれる位置関係にあることが分かる。
第一次世界大戦はイギリス、フランス、ロシア(後にアメリカ、イタリア)等の協商国とドイツ、オーストリア(後にトルコ)等の同盟国との戦争でした。
この戦争がどのような軍事バランスの下で勃発したのかをドイツの視点から簡単に解説しておきたいと思います。
ドイツにとって最も脅威が大きかったのは動員規模が大きいロシアでした。その兵力は1300万名程度であり、ドイツの兵力1325万名にほぼ匹敵します。ドイツと同盟関係にあるオーストリアの兵力は900万名ですが、ロシアと手を結ぶフランスの兵力が820万名であることも考えると、ドイツがこのロシアの脅威に対処できるかどうかは非常に難しい状況にありました。

戦争勃発前にドイツ軍が立案していた作戦計画「シュリーフェン・プラン」がロシアを強く意識していたことは、こうしたドイツの軍事情勢を強く反映していました。
この計画では戦争の勃発と同時に対フランス戦に踏み切って直ちにパリを攻め落とすことが目指されており、その間の対ロシア戦は防御に回ることになっていました。そしてフランスとの戦争を終わらせると直ちに兵力を西部から東部に移動させて、ロシアと戦うことまでが予定されていたのです。
こうした計画があったため、ロシア軍が総動員を開始すると、ドイツ軍として直ちに対フランス戦に入る必要がある、非常に厳しいスケジュールとなっていました(Trachtenberg 1990-1991: 121)。

これまで研究者はロシアを含む各国の政治家たちが、このようなドイツの戦争計画について十分に理解できていなかったのではないかと考えてきました。
つまり、ロシアは敵国の行動を抑止するために動員を発令したに過ぎないにもかかわらず、その結果としてドイツの戦争計画の開始を引き起こし、それによって第一次世界大戦が戦争を「意図せず」引き起こしたと解釈してきたのです(Ibid. 122)。

あえて戦争を決断したロシア
この論文の著者が批判しているのは、この「意図せず勃発した第一次世界大戦」という解釈です。著者はロシアが非常に意識的にこの戦争を引き起こした可能性が大きいことを指摘しています。つまり、ロシア政府は当時の国際情勢で総動員を発令することが、ドイツの軍事行動を引き起こすことを承知していたということです。
このことを説明するために、著者は当時のロシア政府における政策過程を検討しています。

この発端は6月28日、サラエボでオーストリア皇太子夫妻暗殺事件が発生した時点にまでさかのぼります。この事件を受けてオーストリアはドイツの了解を取り付けてから、7月23日にセルビアに対して最後通牒を提示し、48時間以内の回答を要求した上で無回答だった場合に備え、作戦開始の準備を整えます。
7月25日、セルビアを防衛するためにロシア政府は対オーストリア作戦のための部分動員を発令しました(Ibid.: 124)。この時のロシアの部分動員はあくまでもオーストリアに対する軍事行動を準備するためのものでしたが、ロシアでは総動員の発令がすでに検討され始めていました。
セルゲイ・セゾーノフ(1860-1927)
ロシア帝国の外務大臣として皇帝ニコライ二世に仕えた。
問題となるのは、この時までにロシアの政策決定者が世界戦争の危険にどれだけ気が付いていたのかという点です。
この点について著者はBaron M. F. Schillingの史料をたよりに、6月30日に外務大臣サゾーノフ(Sergey Sazonov)が重要な決定を後押ししたことを指摘しています(Ibid.: 125)。
それによると、サゾーノフは6月30日の時点で「可能な限り早期の総動員」を主張していただけでなく、ニコライ二世にドイツがすでに開戦を決断したことは誰に目にも明らかであるとして「戦争は不可避のものにりつつある」と見なし、「我が方の好戦的な準備措置が戦争をもたらすという恐れをすべて捨て去り、恐怖から戦争に無意識に引きずり込まれるのではなく、準備措置を慎重に継続する必要がある」と主張していました(Ibid.: 125-6)

またこの時のサゾーノフはロシア軍に対して総動員を発令することが、重大な戦争を引き起こすことについて認識していたことが外国の大使の警告からも分かっています。
当時、イギリス大使はサゾーノフに対して「もしロシアが動員を行えば、ドイツは単なる動員に満足しないであろうし、ロシアがそれを完了させるまで待たないであろう。そうなれば、ドイツは恐らくは直ちに宣戦する」と警告し、サゾーノフもそれに同意しました(Ibid.: 127)。

一部の研究者にはサゾーノフがやはり戦争の危険を理解していなかったと主張する見方があることを著者は紹介していますが(Ibid.: 127-8)、こうした史料を基礎に考えれば、その根拠は薄弱であると見なさざるを得ないと批判しています。「要するに、ロシアの首脳部は確実に動員の意味するところを理解していた」というのが著者の一貫した主張です(Ibid.: 128)。

むすびにかえて
第一次世界大戦でドイツ軍が立案したシュリーフェン・プランは確かに戦争の拡大という意味において重要な影響をもたらし、戦争の様相を左右したことは確かです。しかし、あの戦争が誤解に基づいて意図せず始められたという解釈は、この研究で示された史実を説明することができません。少なくともロシアは戦争のリスクをあえて取るという決断を自覚的に下していたということが伺えます。

第一次世界大戦の歴史は数多くの教訓を私たちに与えてくれますが、この研究から導き出される教訓も重要な意味を持っていると思います。
我々にとって戦争が恐るべき状況であるように、政治家にとっても開戦の決定は大きなリスクであり、だからこそ各国は問題を可能な限り平和的手段によって解決しようとするものである、という考え方は通用しません。
一旦、戦争が不可避のものであると判断されたならば、軍事的優位を確保するために積極的な武力の行使に走るということも、政治的にはあり得るのです。

KT

関連記事

2016年2月2日火曜日

今さら聞けない中国軍の接近阻止/領域拒否(A2/AD)

最近の日本の安全保障に関する研究者、自衛官の間では、中国軍が「積極防衛」という基本方針に従って、「接近阻止/領域拒否」(英語でA2/ADと略されることもあります)の能力を強化しており、このことが北東アジア地域における米国の抑止力を低下させる恐れがあるという状況判断が、議論の前提として広く共有されつつあります。

しかしながら、このような議論は依然として国民の間で共有されているとは言い難い状況が続いていると思います。
その背景には米国での議論を日本に持ち込む際に「A2/AD」というペンタゴン用語、つまり国防の関係者以外には理解し難い用語が十分に日本国内で理解されておらず、また理解を広げる取り組みが専門家の側でまだまだ不足している事情が関係していると思います。

今回は、改めて中国軍が重視する接近阻止/領域拒否が何を目指すものであり、それが日本や米国にどのような影響を及ぼすものであるのかを基礎から説明したいと思います。

接近阻止/領域拒否の基本的な考え方
この記事ではMcDevittの研究に沿って説明してみたいと思います。
そもそも接近阻止・領域拒否(Anti-Access/Area Denial)という用語が米国国防総省の公文書で最初に使用されたのは2001年度四カ年防衛評価(Quadrennial Defense Review)であり、当時この用語は台湾有事で米軍が介入してくることを防止するための中国軍の取り組みを特徴付けるために用いられていました(McDevitt 2011: 191)。

接近阻止/領域拒否の基本的な考え方はそれほど複雑なものではありません。
要するに中国軍が作戦を開始した際に、その作戦地域に米軍が部隊を送り込んでくる事態を防ぐため、努めて遠方で米軍の部隊を撃破し、中国軍の作戦地域には進出させないという構想です(Ibid.)。

このような構想を中国軍が実現することができれば、軍事力で圧倒的に優勢な米軍が北東アジア情勢に介入してくることを妨げることができるため、中国はこの地域で対外政策をより遂行しやすくなると期待されます。

接近阻止/領域拒否は一つの概念として議論されることも少なくありませんが、McDevittの研究によると、異なる意味を持っている用語です。

つまり接近阻止は沖縄の嘉手納基地に配備された米空軍の戦闘機が台湾有事に出動することを防止することを念頭に置いたものなのですが、領域拒否はより遠方から接近する空母機動群(1隻以上の空母を中心とした戦闘部隊)が進出することを拒否するためのものといえます(Ibid.)。
中国の接近阻止/領域拒否で影響を受ける地域を図上で示したもの。
第一列島線は九州南端から南西諸島、台湾、フィリピンに沿って展開されており、東シナ海、南シナ海を中国の防衛圏としている。第二列島線は東京湾を起点にマリアナ諸島、グアム、ミクロネシア、パラオに沿って展開されており、フィリピン海を中国の防衛圏として組み入れる構想であることが分かる。
(Ibid.: 201)
ここで注目して頂きたいのは、接近阻止/領域拒否が中国の立場で見れば防御的性格を持っていますが、日本、台湾、フィリピンなどから見れば攻撃的性格を持っているという点です。特に台湾に向けられる軍事的圧力は地域の安定にとって深刻なレベルとなると考えられます。

もちろん、台湾有事だけでなく、尖閣諸島や南シナ海など中国が死活的利益と見なす問題に関しても、この接近阻止/領域拒否の構想は適応可能です。この点に関してMcDevittは次のように説明しています。
「接近阻止の作戦そのものは防勢的であり、中国本土に近接し、また接近しつつある米軍部隊が突き付ける問題に対応するための反応作戦構想であることを中国の視座から認識することも重要なことである。それは台湾有事を念頭に置いて発展したものではあるものの、その概念自体は単純な台湾紛争シナリオ以上に幅広い適用可能性を持っている」(Ibid.: 192)
接近阻止/領域拒否を重視する中国軍の「積極防衛」の戦略
なぜ中国軍は接近阻止/領域拒否のような意図を持っているのでしょうか。
この疑問を解決するためには、中国軍がどのような戦争計画を持っているのかを考えなければなりません。当然のことながら、中国軍の戦争計画は明らかにはされていませんが、その計画の基礎となる戦略理論に関しては研究が進んでいます。

中国軍の教義を知る上で研究者が重視している著作に『軍事戦略の科学(Science of Military Strategy)』があり、そこでは「積極防衛(active defense)」という概念が中国の軍事戦略にとって中心的なものであり、また中国の戦略方針の理論にとって基礎に位置付けられていることを説明しています。
中国軍にとって積極防衛とは、敵国によって中国の国益が侵害された際には第一撃を加えて戦略的反攻を加えるものである考えられており(Ibid.: 191-2)、「我々は敵に対して可能な限り遠方で交戦するように最大限の努力を払うべきであり、戦争を敵の作戦基地へと導き、敵の戦争システムを形成する有効な能力の全体を積極的に打撃すべきである」と述べられています(Ibid.: 192)。

積極防衛という考え方は、戦略家、戦略の研究者にとってなじみ深いものであり、それ自体は新しいものではありません。
中国軍の積極防衛の特徴は、この古典的な概念をミサイル部隊の運用と結びつけた上で、地理的に広大な防衛圏を確保することを目指していることにあります。

Yoshiharaの研究では中国軍の第二砲兵(2016年からロケット軍に改称)の運用計画を推定するために『第二砲兵戦役の科学(The Science of Second Artillery Campaigns)』が検討されています。
その研究から明らかになったこととして、中国軍は米軍の作戦基盤だけでなく、同盟国の作戦基盤についても重要な攻撃目標とするだけでなく、先制攻撃によって破壊する必要があると考えていることです(Yoshihara 2010: 55)。

無論、この攻撃対象には在日米軍基地も含まれており、このような攻撃によって米軍が北東アジア地域で展開する中国軍の作戦に干渉できない状況を作り上げることが可能になると期待されています。

むすびにかえて
読者の皆様に注意して頂きたいのは、この接近阻止/領域拒否の構想は中国軍にとってまだ研究の段階にあるということです。
このような大規模な作戦を遂行する上で必要な武器や装備の開発、部隊編成の見直し、教育訓練の改革などは現在進行中であり、現時点で中国軍が直ちにこの作戦構想を実行に移せる状態にあるというわけではありません。

しかし、長期的なトレンドとして中国軍が接近阻止/領域拒否の能力強化を継続すると考えられるため、自衛隊としても新たな脅威に対抗可能な防衛力の整備を進め、新たな戦略、戦術の研究を推進していかなければならないでしょう。

また、特に朝鮮半島、台湾海峡、南シナ海に地理的に近く、平時に中国軍の動向を監視する上でも、有事に即座に部隊を出動させる上でも重要な沖縄の在日米軍基地を活用することが地域の安定を維持する上で重要な意味を持つことになるとも考えられます。
いずれにしても、このような安全保障上の問題があることを国民全体で共有し、どのような対応をとるべきか議論を重ねることが重要であると考えます。

KT

関連記事
論文紹介 中国の立場から見た在日米軍基地
論文紹介 中国軍の潜水艦発射型弾道ミサイルが抱える課題
論文紹介 中国の航空母艦は脅威となるのか
論文紹介 オフショア・コントロールとは何か、日本の視点から
論文紹介 エアシー・バトル(AirSea Battle)とは何か、なぜ日本が関係するのか

参考文献
McDevitt, Michael. 2011. "The PLA Navy's Antiaccess Role in Taiwan Contingency," in Saunders, Phillip, Christopher D. Yung, Michael Sqaine, and Andrew Nien-Dzu Yang, eds. The Chinese Navy: Expanding Capabilities, Evolving Roles, Washington, D.C.: National Defense University Press, pp. 191-214.
Yoshihara, Toshi. 2010. "Chinese Missile Strategy and the U.S. Naval Presence in Japan." Naval War College Review, 63(3): 39-62.