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2016年2月6日土曜日

論文紹介 知られざる太平洋戦争での米海軍戦術発達史

第二次世界大戦の海軍戦術に関する研究を読むと、日米で空母の運用に関する研究進捗に相違があったという見方があります。1941年の真珠湾攻撃で空母の集中運用に成功した日本海軍ですが、その後に空母の戦術、運用の研究を進めた米海軍の戦術によって敗北したという捉え方もここに含まれるでしょう。

しかしながら、そもそも米海軍で戦艦重視の教義が空母重視の教義へと転換したという解釈はどれほど妥当なのでしょうか。その結果、米海軍は日本海軍に対して戦術的優位に立ったと判断できるのでしょうか。これらの疑問は必ずしも解決されていませんでした。

今回は、この問題に取り組んだ研究論文を取り上げ、その内容を一部紹介してみたいと思います。

文献情報
Hone, Trent. 2009. "U.S. Navy Surface Battle Doctrine and Victory in the Pacific," Naval War College Review, 62(1): 67-105.

そもそも艦隊決戦を想定していた米海軍の戦闘教義
著者は、米海軍が日本海軍よりも迅速かつ的確に戦艦中心の教義を捨て、空母による航空打撃戦の教義を発展させたという解釈は、非常に一面的で問題が多いと批判しています。
なぜなら、当時の米海軍の内部で進められた戦術研究を調べると、米海軍は当初から空母による航空打撃戦に重点を置いて戦術の研究に取り組んでいたわけではないためです。

1941年、太平洋艦隊司令長官に就任したニミッツ(Chester W. Nimitz)は日本海軍の真珠湾攻撃によって損害を受けた艦隊の再建に着手します。しかし、日本海軍が見せた空母の集中運用が直ちに米海軍の戦闘教義に取り入れたということはありませんでした。これは当時の米海軍の教義がすでに戦間期に確立されており、これを容易に変更することが難しかったことと関係しています。
戦間期に米海軍の教範で策定された標準的な戦闘陣の概念図。
戦列の針路(太矢印)は敵の方向(細矢印)に対して直角に向け、その周囲に駆逐艦、巡洋艦が占位する。
戦列から敵の方向に対しては視界・射界を確保しており、典型的な艦隊決戦を想定していることが分かる。
(Ibid.: 70)
当時の米海軍の教義では「戦列(battle line)」に基づいて組み立てられていました。
1930年、米海軍では標準的な戦術を定めるために『1930年度艦隊配置及び戦闘計画試案(Tentative Fleet Dispositions and Battle Plans, 1930)』が策定されますが、そこで戦列を中心に艦隊の戦闘要領が規定され、その内容は1934年に『合衆国海軍大戦術教令(General Tactical Instructions, United States Navy, FTP 142)』、1940年の改訂版に継承されています。

この時に採用された戦列とは戦艦等の主力艦によって構成される戦闘陣の中核的要素であり、対水上戦で主力艦が持つ火力を最も発揮しやすいという特徴があります(Ibid.: 70)。

興味深いのは、当時の米海軍の教義では戦列の一部に空母を組み入れるという着想があったものの、空母の機能は「戦艦と他の艦艇に対して上空援護」と理解されており、空母を独立して運用する場合でも、それは航空偵察や航空優勢獲得を目的とする補助兵力に過ぎまなかったのです(Ibid.)。これは米海軍の教義が空母を用いた航空打撃戦ではなく、戦艦同士の艦隊決戦を想定していたことの現れでした。

大戦術重視から小戦術重視へと切り替えれた米海軍の教範
1942年8月、第一次ソロモン海戦で米英豪海軍は数的に有利な戦力比で日本海軍で交戦したにもかかわらず、重巡洋艦5隻の損害をはじめ多大な損害を被ることになり敗北した。米海軍の歴史に残る最悪の敗北の一つとする歴史家の見方もあるだけでなく、当時においても太平洋艦隊で大きな衝撃をもって受け止められ、調査委員会が設置された。
1941年から1942年にかけて日本海軍との交戦経験が増えてくると、艦隊決戦を想定した教義の実行可能性には大きな問題があることが分かってきました。
特にガダルカナル等の周辺で発生した一連のソロモンの海戦の戦闘様相が米海軍の想定してきた艦隊決戦と大きく異なっていたことが事実関係の調査によって解明されると、戦闘陣を整えて艦隊が機動するような戦術に実効性がないという確信を深めることになりました(Ibid.: 73)。

このことから、艦隊決戦を想定した主力艦の集中運用に主眼を置いた大戦術(major tactics)の教義ではなく、駆逐艦や軽巡洋艦の運用を主眼に置いた小戦術(minor tactics)の重要性がはるかに大きいという意見が出されるようになります(Ibid.: 72)。これは米海軍の教義を艦隊レベルの運用から、戦隊レベルの運用へと発展させるきっかけとなりました(Ibid.)。

1943年4月、ニミッツは太平洋艦隊として教範の内容を全面的に見直すための会議を立ち上げ、収集した報告書の調査、戦闘から帰還した士官への面接調査を開始します(Ibid.: 74)。
この時の研究成果をまとめて同年6月に完成したのが『太平洋艦隊最新戦術陣形及び教義(Current Tactical Orders and Doctrine, U.S. Pacific Fleet, PAC 10)』でした。

この教範の改訂によって米海軍は二つの戦術問題を解決したと著者は評価しています。
(1)艦隊の教義を徹底して標準化し、任務群(task group)同士の運用上の互換性を確保し、攻撃前進を連続して実施する態勢を整えた。
(2)個々の艦長がより迅速に決定を下すことを可能にすることで、小規模な海戦における行動の柔軟性も改善された(Ibid.: 76)。
こうして軽巡洋艦や駆逐艦等の運用に関する戦隊レベルの戦術の研究が進むと、その成果は当時の米海軍で補助兵力と位置付けられていた空母の運用にも適用され始めます。

新教義によって促された空母の機動的運用
1943年から1945年にかけて実施された連合軍の反攻の進展を示した地図。
米海軍はギルバート諸島、マーシャル諸島に対する攻勢から開始して中部太平洋に進出し、その後は日本軍が設定した絶対国防圏を破る形でマリアナ諸島、フィリピンへと攻撃を進めたことで、日本本土と南方資源地域を結ぶ海上交通路を遮断することに成功した。
1943年11月、ニミッツは新たな教範を通じて新戦術の徹底を図り、ギルバート諸島、マーシャル諸島をはじめ一連の攻勢作戦を遂行していきます。
すでに述べたように、このニミッツの攻勢作戦では、駆逐艦、軽巡洋艦等の補助的兵力と見なされてきた艦艇の艦長の権限が大幅に強化されることになり、海上戦闘では戦闘艦隊ではなく、任務部隊が主体となって迅速に対応するようになっていきます。

このように任務部隊の重要性が拡大したことにより、艦隊全体の防空任務に制約されがちだった空母の運用にも重大な変化が起こりました。著者は次のようにこの変化を説明しています。
「1943年夏季に太平洋艦隊で導入された教義の発達と普及に対する新たなアプローチは、太平洋艦隊(の航空兵力)を空母中心の任務部隊へと区分しておき、艦隊が敵の対水上脅威に直面する際には、それらを一つの部隊として行動することができることを確実にした」(Ibid.: 93)
ここで著者が指摘していることは、戦時中に米海軍で実施された戦術研究は当初から航空打撃戦を重視したものではなく、戦闘の単位を艦隊から戦隊レベルに移行させるべきだという問題意識に基づいて進められていたということです。
つまり、戦艦から空母への移行という単純な図式ではなく、戦艦や重巡洋艦のような主力艦を中心とする艦隊レベルの大戦術から、駆逐艦や軽巡洋艦、空母のような補助兵力を中心とする戦隊レベルの小戦術への移行という図式に基づいていたという方が適切なのです。
このような戦術の変革を進めた結果として、空母中心の任務部隊が従来よりも機動的に運用できるようになりましたが、軽巡洋艦や駆逐艦の機動的運用を促進することの方がはるかに重視されていました。

米海軍の戦術に的確に対抗してきた日本海軍
1944年6月20日、マリアナ沖海戦で米海軍第58任務部隊から出撃した航空機により撮影された日本海軍の航空戦隊を映した偵察写真。この戦闘の結果日本海軍の航空兵力は大幅に低下し、マリアナ諸島に対する支配を失った。
しかし、著者はこの当時の米海軍による空母の運用には戦術的観点から見て問題があったことを指摘している。
ただし、著者はこのような新戦術をもってしても、米海軍は日本海軍に対して戦術的な優位性を獲得できたと言い切れない点があるとも述べています。
著者によれば、日本海軍はこうした米海軍の新たな戦術に対抗するための方法を実戦の中で編み出していたためです。
「しかし、米海軍のアプローチに問題がなかったわけではない。その問題で最も深刻だったのは米空母部隊の規模と勢力の増強に対する日本の対応であり、これに取り組むことに関しては失敗していた。日本人はいくつかの方法で米国を難題を突き付けたが、ここでは二つの課題が関係している。第一の課題は長年にわたり日本の対水上戦闘の中心的な要素であった戦局挽回の鍵、夜戦である。第二の課題は分散した展開、陣形の活用であった」(Ibid.: 94)
日本海軍が夜戦で小規模な交戦を挑んでくる問題に関して、米海軍は戦術的な解決を導くことができませんでした。米海軍は夜間の交戦を避けることで対応していましたが、1944年6月のマリアナ沖海戦でスプルーアンスの戦術が消極的すぎると批判されたのも、彼が日本海軍と夜戦になることを恐れて夜間に索敵を控えたことが関係しています(Ibid.)。

また、米海軍は任務部隊に対応した戦隊レベルの戦術を発展させた一方で、広範囲に分散した戦隊をどのようにすれば戦術的に連携させることができるのかという問題にはあまり取り組んでいなかったと著者は指摘しています。1942年の時点で日本海軍はこの問題に取り組んでおり、複数の空母を分散させて運用する方法を研究しているにもかかわらず、米海軍は1944年の時点になっても空母を一つにまとめて運用する段階に止まっていました(Ibid.)。

研究成果の要点とその意義
以上の議論をまとめると、著者は太平洋での日米の戦いが従来考えられているよりも、はるかに複雑な戦術的試行錯誤の産物であり、米海軍が日本海軍に対して空母の運用で優位に立ったという単純化された解釈は全面的に見直される必要があると訴えています。
この議論は個人的にも考えさせられるところが多く、日本海軍の歴史を戦術という観点から考える重要性を改めて確認させられるものでした。
特に著者が指摘した夜戦と空母の運用方法に関する議論は、日米間での太平洋戦史研究をますます活発にする必要があることを示していると思います。

KT

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