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2016年2月3日水曜日

論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない

1914年、西部戦線に向けて鉄道で輸送されるドイツ軍の部隊。
車体の落書きにはドイツ語で「パリへの旅行(Ausflug nach Paris)」などと書かれている。
国際政治を研究する人間にとって、第一次世界大戦は政治的教訓の宝庫であり、特に戦争勃発に至る経緯に関しては数多くの研究成果が報告されています。

第一次世界大戦の原因には実に多種多様な側面がありましたが、その中でも特に重要な要因だったのはドイツの戦争計画で対露作戦の前提条件に短期間での対仏攻撃の決着があったこと、そしてその作戦計画を直前に訂正することができなかったことではないかと考えられています。

このような解釈は確かに説得的ではありますが、ロシアの動員がドイツの動員を引き起こした点が十分に考慮されていないという問題があります。今回は、このような問題意識から、第一次世界大戦の勃発に至る過程でロシアが下した決定の重要性を再検討する研究を紹介したいと思います。

文献情報
Trachtenberg, Marc. 1990-1991. "Meaning of Mobilization in 1914," International Security, 15(3): 120-150.

第一次世界大戦の概要とこれまでの学説の要点
第一次世界大戦における主要陣営の政治地図。ドイツ、オーストリア、イタリアから構成される同盟国(茶色)と、イギリス、フランス、ロシアから構成される協商国(緑色)の間で戦われた戦争。この政治地図では同盟国の盟主であるドイツはロシアを東側に、フランス、イギリスを西側に挟まれる位置関係にあることが分かる。
第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)はおよそ4年にわたってヨーロッパだけでなく世界を巻き込んで戦われた戦争であり、イギリス、フランス、ロシア(後にアメリカ、イタリア)等の協商国とドイツ、オーストリア(後にトルコ)等の同盟国が熾烈な戦いを繰り広げました。

政治情勢を概観するため各国の勢力比を人的動員能力で比較すると、ドイツは1325万名、オーストリアは900万名、ブルガリアとトルコは285万名であり、同盟国の総兵力は2510万名でした。それに対してイギリスは950万名、フランスは820万名、ロシアは1300万名、イタリアは560万名、アメリカは260万名、その他ベルギー、ポルトガル、セルビアなどが260万名で、総兵力は4070万名でした。
したがって、同盟国に対する協商国の勢力比は1対1.62と協商国が全般的には優勢な状況でした。

これらの数値をざっと調べた時に印象的なのは、同盟国はその戦力の過半数をドイツに依存しているという点、そして協商国のロシアは(少なくとも軍隊の規模という面で言えば)ほぼ一カ国だけでそのドイツに拮抗できるだけの大規模な動員能力を持っていた点です。もしドイツの立場で戦争計画を立案するとすれば、どこかの段階で必ずロシアに勝利を収める必要があると考えられます。

実際、戦争勃発前にドイツ軍が立案した戦争計画「シュリーフェン・プラン」はロシアに主眼に置いたものとなっていました。
つまり、ドイツ領土の位置から見て西側にフランス軍の脅威、東側にロシア軍の脅威が併存するため、戦争が勃発すると短期間のうちに対仏攻撃を完了させ、次いで西部戦線から東部戦線にドイツ軍の部隊を移動させ、対露攻撃へと迅速に移行することになっていたのです。しかし、ドイツ軍に許される時間的猶予は、ロシア軍が総動員を開始してからそれが完了するまでの時間しかなく、極めて厳しいスケジュールとなっていました(Trachtenberg 1990-1991: 121)。

これまで研究者はロシアを含む各国の政治家たちが、このようなドイツの戦争計画について十分に理解できていなかったのではないかと考えてきました。
つまり、ロシアは敵国の行動を抑止するために動員を発令したに過ぎないにもかかわらず、その結果としてドイツの戦争計画の開始を引き起こし、それによって第一次世界大戦が戦争を「意図せず」引き起こしたと解釈してきたのです(Ibid. 122)。

ロシアは意図して戦争を決断した
この論文の著者が批判しているのは、この「意図せず勃発した第一次世界大戦」という解釈です。著者はロシアが非常に意識的にこの戦争を引き起こした可能性が大きいことを指摘しています。つまり、ロシア政府は当時の国際情勢で総動員を発令することが、ドイツの軍事行動を引き起こすことを承知していたということです。
このことを説明するために、著者は当時のロシア政府における政策過程を検討しています。

この発端は6月28日、サラエボでオーストリア皇太子夫妻暗殺事件が発生した時点にまでさかのぼります。この事件を受けてオーストリアはドイツの了解を取り付けてから、7月23日にセルビアに対して最後通牒を提示し、48時間以内の回答を要求した上で無回答だった場合に備え、作戦開始の準備を整えます。
7月25日、セルビアを防衛するためにロシア政府は対オーストリア作戦のための部分動員を発令しました(Ibid.: 124)。この時のロシアの部分動員はあくまでもオーストリアに対する軍事行動を準備するためのものでしたが、ロシアでは総動員の発令がすでに検討され始めていました。
セルゲイ・セゾーノフ(1860-1927)
ロシア帝国の外務大臣として皇帝ニコライ二世に仕えた。
問題となるのは、この時までにロシアの政策決定者が世界戦争の危険にどれだけ気が付いていたのかという点です。
この点について著者はBaron M. F. Schillingの史料をたよりに、6月30日に外務大臣サゾーノフ(Sergey Sazonov)が重要な決定を後押ししたことを指摘しています(Ibid.: 125)。
それによると、サゾーノフは6月30日の時点で「可能な限り早期の総動員」を主張していただけでなく、ニコライ二世にドイツがすでに開戦を決断したことは誰に目にも明らかであるとして「戦争は不可避のものにりつつある」と見なし、「我が方の好戦的な準備措置が戦争をもたらすという恐れをすべて捨て去り、恐怖から戦争に無意識に引きずり込まれるのではなく、準備措置を慎重に継続する必要がある」と主張していました(Ibid.: 125-6)

またこの時のサゾーノフはロシア軍に対して総動員を発令することが、重大な戦争を引き起こすことについて認識していたことが外国の大使の警告からも分かっています。
当時、イギリス大使はサゾーノフに対して「もしロシアが動員を行えば、ドイツは単なる動員に満足しないであろうし、ロシアがそれを完了させるまで待たないであろう。そうなれば、ドイツは恐らくは直ちに宣戦する」と警告し、サゾーノフもそれに同意しました(Ibid.: 127)。

一部の研究者にはサゾーノフがやはり戦争の危険を理解していなかったと主張する見方があることを著者は紹介していますが(Ibid.: 127-8)、こうした史料を基礎に考えれば、その根拠は薄弱であると見なさざるを得ないと批判しています。「要するに、ロシアの首脳部は確実に動員の意味するところを理解していた」というのが著者の一貫した主張です(Ibid.: 128)。

終わりに
第一次世界大戦でドイツ軍が立案したシュリーフェン・プランは確かに戦争の拡大という意味において重要な影響をもたらし、戦争の様相を左右したことは確かです。しかし、あの戦争が誤解に基づいて意図せず始められたという解釈は、この研究で示された史実を説明することができません。少なくともロシアは戦争のリスクをあえて取るという決断を自覚的に下していたということが伺えます。

第一次世界大戦の歴史は数多くの教訓を私たちに与えてくれますが、この研究から導き出される教訓も重要な意味を持っていると思います。
我々にとって戦争が恐るべき状況であるように、政治家にとっても開戦の決定は大きなリスクであり、だからこそ各国は問題を可能な限り平和的手段によって解決しようとするものである、という考え方は国際政治では通用しません。
一旦、戦争が不可避のものであると判断されたならば、軍事的優位を確保するために積極的な武力の行使に走るということも、政治的にはあり得るのです。

KT

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