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2016年4月29日金曜日

事例研究 三十年戦争の様相を変えたリシュリューの現状打破

ヨーロッパにとって17世紀は激動の時代でした。16世紀に増加し続けたプロテスタントはカトリックと社会的、政治的な対立を深め、1618年に勃発した三十年戦争はヨーロッパのほぼ全域を巻き込む戦争に拡大しました。

この戦争によってハプスブルク朝は大幅に勢力を低下させることになりましたが、それに対抗する形で台頭したのがフランスでした。
ハプスブルク家の覇権を打破し、フランスが大国へと成長する足掛かりを築けたことは、リシュリュー枢機卿(以下、リシュリュー)の大きな功績です。彼は宗教的な価値観や信条に囚われず、政治的合理性にのみ従ってフランスの政策を指導し、ハプスブルク家の勢力を低下させることに成功しました。

しかし、政治学者の発想からすると、リシュリュー個人の外交的能力がどれほど優れていたとしても、フランスの国力がある程度確保できていないと、大国相手に現状打破を行うことはできないと思われます。
今回は、こうした観点から三十年戦争におけるリシュリューの対外政策を取り上げ、それを可能にした当時のヨーロッパ各国の勢力関係について考察したいと思います。

17世紀のヨーロッパ情勢の概観
1648年の時点におけるヨーロッパ地域の情勢図。
フランス王国(紫色)はスペイン領オランダを始め複数個所での領土に隣接していることが読み取れる。
神聖ローマ帝国の領土はオーストリア(青色)を中心に赤線で囲われているドイツ全域であり、当時の皇帝フェルディナント二世はスペイン王国と同盟関係を構築していたため、フランスは二正面で脅威を受ける態勢にあった。
長らくヨーロッパ地域はカトリックという共通の価値観と普遍性の原則に基づき、神聖ローマ皇帝を中心とする緩やかな政治的連合体を形成していましたが、宗教改革の影響を受けて、各国は次第に神聖ローマ皇帝に対する忠誠を失い始め、分裂と対立の動きを加速させていきました。

神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント二世(1578-1637)はこうした政治情勢でカトリックの復興と自らの勢力を回復を強引に図ろうとしたため、プロテスタントの反発を受け、1618年に事態は武力紛争にまで拡大してしまいました。これが後に三十年戦争と呼ばれる戦争の始まりです。

当初、三十年戦争はドイツ地域を中心にカトリックとプロテスタントの宗教戦争として推移していたのですが、この戦争は次第にヨーロッパ覇権の争奪戦へと様相が変わっていきました。
この戦争様相の変化のきっかけを作り出した国家こそ当時カトリックの立場をとっていたフランスでした。

現状打破を決断したリシュリュー
1624年、フランス国王ルイ十三世の宰相リシュリューは三十年戦争にフランスとして本格的に加わる方針を固めましたが、その政策はフェルディナント二世の期待に反するものでした。それはプロテスタントの立場を取る国家との同盟を締結し、カトリックの立場をとる諸国と敵対する政策だったためです。
アルマン・ジャン・デュ・プレシ、またはリシュリュー枢機卿(1585-1642)
当時、リシュリューが対外政策で特に懸念していたのはスペイン王国と神聖ローマ帝国の勢力がフランスを挟撃する事態であったと考えられています(Kissinger 1994. pp. 59-60)。
もし神聖ローマ帝国とスペイン王国の勢力が同時にフランスに指向されれば、フランス軍は戦力を分散させなければならず、厳しい戦局になることが予想されました。リシュリューにとってカトリックという宗教を共有していることは、国家の安全保障にとって何の優位性もありませんでした。

リシュリューは1624年6月10日にオランダとコンピエーニュ条約を締結し、本格的に神聖ローマ帝国に対する現状打破の動きを本格化させます。
カトリックであるはずのフランスとプロテスタントのオランダとが同盟関係を持ったことは、フェルディナント二世から「裏切り」と見られ、また他のカトリック諸侯もフランスの「裏切り」を非難します。
しかし、その外交的代償には見返りもありました。7月には北欧のスウェーデン、デンマーク、イタリアのサヴォイア、ヴェネツィアがフランスの主導する同盟に加盟します。
このリシュリューの政策によって神聖ローマ帝国は同盟国であったスペインまでの連絡線を失いました。結果として、フランスに加えられていた防衛上の脅威は大幅に緩和されたのです。

ただ、この同盟は後に同盟国間の作戦構想に関する意見の不一致や、同盟内での主導権争いで分裂していくことになるのですが、それはまた別の話です。

フランスの相対的国力の検討
17世紀のヨーロッパで支配的地位にあったハプスブルク家の神聖ローマ帝国に対して現状打破の姿勢を打ち出したフランスですが、なぜフランスはそのような政策をとれたのでしょうか。
以下ではこの疑問を「当時の神聖ローマ帝国はフランスの行動を抑止できなかったのか」という問題に置き換えて考えてみます。

現代の計量経済学の研究に基づいて推計された人口データを参照すると1600年代のヨーロッパ主要地域の人口は次の通りと見積もられています。
  • フランス 人口1850万
  • オーストリア 人口160万
  • チェコスロヴァキア 人口 450万
  • ドイツ 人口1200万
  • オランダ 150万
  • イタリア 人口1050万
  • スペイン 人口680万(Maddison 2007. p. 232)
これらのデータは必ずしも当時の国境線に沿ったものではないため、取り扱いには注意が必要ですが神聖ローマ帝国の支配地域に含まれるオーストリアの160万、チェコスロヴァキアの450万を基本とし、さらにドイツの半分近くを勢力下に置いていたと想定すると、神聖ローマ帝国が支配している人的資源の規模は160万+450万+600万=1210万とフランスの人口より小さく見積られることが分かります。

もし神聖ローマ帝国と同盟関係にあったスペインが支配する本国の680万とイタリア南部、オランダの人的資源があれば、フランスよりも優勢と考えられますが(1210万+680万+1050万×0.5+150万=2565万)、そうでなければ国力の面で対抗することは難しかったはずです。
この計算結果は、リシュリューが1624年の同盟網で神聖ローマ帝国とスペインの間を結ぶ連絡線を遮断したこととも符合します。

以上から、ヨーロッパの覇権争奪戦にフランスが乗り出すことを確実に抑止できるだけの国力を神聖ローマ帝国が単独では持っていなかったという判断が導かれます。
この判断が実際に正しければ、三十年戦争でフランスが見せた現状打破は現代の国際政治の理論で説明可能といえるでしょう。
つまり、神聖ローマ帝国はもはやフランスの現状打破を抑止できるだけの力を持っていなかったということです。

むすびにかえて
リシュリューが思想や宗教にとらわれず、優れた外交的手腕をもってフランスの国家的利益のための政策を最大限追及するために尽力したことは紛れもない事実です。
しかし、リシュリューは観念的な計算に基づいて対外政策を策定していたのではなく、相対的な国力の水準においてフランスが十分相手と対抗できたからこそ、神聖ローマ帝国の覇権に挑戦し、それを成功に導くことができたと考えるべきでしょう。
リシュリューは「論理に基づけば、達成すべき目標とそれを追求するための勢力の間には、互いに幾何学的均衡が保持されていなければならない」と書き残しましたが(Burckhardt, 1970. Vol. 3, p. 61)、そこでも外交で目的を達成するためには具体的、客観的な国力が必要であることが示唆されています。

優れた外交的手腕を発揮したリシュリューの偉大さは間違いありませんが、外交はそれだけで効果を発揮できるものではなく、国家の総合的な国力が背後にあるからこそ、その真価を発揮することができるのです。

KT

参考文献
Carl J. Burchhardt. 1970. Richelieu and His Age, Volumes 3, 1st edition, New York: Harcourt, Brace.(旧版)
Aungus Maddison. 2007. The World Economy: A Millennial Perspective, Development Center Studies, Organisation for Economic Co-Operation and Development.
Henry Kissinger. 1994. Diplomacy, New York: Simon & Schuster.(邦訳、岡崎久彦監訳『外交』全2巻、日本経済新聞社、1996年)

2016年4月28日木曜日

論文紹介 陣地攻撃の損害をいかに抑制するか

敵の防御陣地に対して攻撃を加えることは状況が許す限り避けるべきである、というのは戦術の鉄則です。強化された陣地で敵の部隊が待ち受けているところに、味方の部隊をわざわざ差し向けるようなことをすれば、多くの損害が出ることを覚悟しなければならないためです。

しかし、現地の状況からやむを得ず任務遂行のため陣地攻撃を行わなければならないことがあることも事実です。そこで戦術研究としていかに効率的な陣地攻撃を実施するのかという問題が出てくることになります。今回は、第二次世界大戦の最中にこの問題を検討した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Barker, M. E. 1945. "Assault on Fortified Positions," Military Review, Vol. XXV, No. 1, April, pp. 3-7.

陣地攻撃を完遂することの難しさ
第二次世界大戦において、米軍はヨーロッパから太平洋にわたる広大な戦域で攻勢作戦を行いました。
当時、ドイツ軍と日本軍の部隊は各地で強固な防御陣地を構築し、米軍の攻撃を破砕しようとしたため、米軍部隊からは攻撃の過程で多くの犠牲が出ています。著者は陣地攻撃の困難さを承知した上で、局地的な防御陣地に対して有効な攻撃を加えるためには化学攻撃を組み合わせることが重要になっていると判断しました。

この論文の著者の最大の関心事はいかにすれば人的損害を最小限に抑制しながら陣地攻撃を成功させることができるのか、という点にあります。
まず著者が着目しているのは防御陣地の形態の相違であり、一人だけが入れるタコツボのような簡易な形態もあれば、鉄とコンクリートで構築された要塞までさまざまあると指摘しています(Barker 1945: 3)。イタリア戦線のアンツィオの戦いでドイツ軍が使用した掩体や、日本軍が活用した洞窟陣地であり、特に洞窟については入口をS字形にすることで進入しにくくする工夫が見られたことなども紹介しています(Ibid.: 4)。
こうした小規模な防御陣地に配備された部隊は迫撃砲、機関銃、手榴弾などを使用して抵抗し続け、また陣地の内部には地雷が敷設される場合もありました(Ibid.)。

著者はこれほどの施設、武器を利用して抵抗する敵を排除することは非常に難しいものの、弱点があると考えていました。それは自在に機動できないこと、そして戦闘で主導的地位を保持できないことです。そこで陣地攻撃ではこうした弱点を突くような戦術が必要であると考えました。

実戦の中で発展した歩兵の突撃要領
著者は陣地攻撃において重要なことは適切な突撃支援射撃に基づき同時に攻撃を加えることであり、そのためには少数の突撃班が主体的に活動するべきだとして次のように論じています。
「突撃は相互に支援している多数の野戦陣地に対して同時に実施し、多数の班の攻撃を同時に実施させ、特に突撃を受けた陣地にいる防御者の射撃効果を低下させることによって各班が相互に支援するものである。これらの突撃班は1個歩兵分隊または1個歩兵中隊によって実施し、場合によっては少数の戦車によって支援し、また常に迫撃砲と砲兵の射撃によって支援する。あらゆる場合において突撃班は突撃が進行している間は、個人が携行する武器を最大限に活用する」(Ibid.: 4)
ここで著者が指摘しているように、突撃は常に砲兵によって支援されていなければならず、最低でも敵の施設の一部を破壊し、その通信を混乱させなければなりません。
この砲撃の際に榴弾だけでなく白リン弾を使用して偽装のための草木を焼失させること、煙幕によって突撃する味方を掩護する方法についても触れられています(Ibid.)。
特に著者が重視したのは迫撃砲の価値であり、当時米軍で使用されていた107mm迫撃砲の正確性をもってすれば、支援射撃の最中に突撃班は敵陣付近に接近可能と書いています(Ibid.)。

しかし、こうした突撃支援射撃だけではなく、陣地攻撃では特殊な装備を使用する必要があります。
それは高性能爆薬、火炎放射器、バンガロール爆薬筒などであり、こうした装備がない場合は普通のガソリンと一緒に火炎放射器や白リン手榴弾を使用することも可能であると著者は説明しています(Ibid.: 5)。
敵陣の内部に進入すると近接戦闘の段階に入ってからも、火炎放射器や白リン手榴弾が威力を発揮すると説明されており、その理由は敵の兵士に火傷を負わせることができなくても、洞窟の奥に身を潜めた兵士の周囲の酸素を一瞬で奪うことができるためです(Ibid.: 6)。
いわば、敵を施設の中で酸欠に追い込みながら戦うことで、敵が待ち受ける中を味方が進むという状況を避けることができるということです。

むすびにかえて
陣地攻撃においては砲兵火力を十分に発揮し、突撃支援射撃を行った上で突撃を実施すべきという主張は戦術研究において一般的な見解ですが、火炎放射器や白リン手榴弾などを駆使した化学攻撃の要素をこれほど詳細に検討しているところは興味深く、化学戦の専門家でありながら歩兵の突撃要領に関する見識が感じられました。

第二次世界大戦に米軍が火炎放射器を使用したことは知られていますが、この論文を読むと日本軍が島嶼防衛のために地下施設を構築し始めたことと関係があったことが分かります。
著者はペリリューの戦い以降に日本軍が積極的に利用した洞窟陣地は通気性が悪く、化学攻撃に対して脆弱という戦術的弱点を正しく理解していました。こうした観点からこの論文を読むと、米軍の戦術研究を通じて当時の日本軍の戦術の限界についても考えさせられるところが少なくありません。

KT

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論文紹介 沖縄戦で日本軍が用いた戦術とその限界

2016年4月27日水曜日

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ナポレオン・ボナパルト『ナポレオンの軍事箴言集』(Kindle版)武内和人訳、国家政策研究会、2016年4月
1815年にナポレオン戦争が終結してから間もなく、ナポレオンが書き残した文書から戦略、戦術に関する記述を箴言として取りまとめた著作であり、当初はフランス語で刊行されていましたが、間もなくヨーロッパ各国で翻訳が出されることになり、今なお海外では新しい翻訳や解説が出され続けている軍事学の古典です。箴言を訳出するだけでなく、逐条の解説を付して理解しやすくなるように努めています。


福沢諭吉『兵論:明治日本の国防論』(Kindle版)武内和人訳、国家政策研究会、2017年1月(配信予定)
1882年、朝鮮の問題を巡って清国と対立を深めていく中、日本は依然として十分な軍備を整えることができていないでいました。啓蒙思想家として知られる福沢諭吉もこの問題を認識し、一刻も早く軍備の拡張に努める必要があると国民に広く呼び掛けるために『兵論』を発表しました。明治時代の日本を取り巻く国際情勢を踏まえ、軍事、経済、政治の観点から国防を多角的に論じた一冊であり、今回は現代語訳を試みています。

今後も引き続き、国内外の軍事学の著作の翻訳、普及を進めていく方針です。

※電子書籍のご質問を受けて 大変申し訳ありませんが、現在のところは電子書籍のみの取り扱いとなっています。専用の端末ではなく、スマートフォンやPC等でアマゾンKindleのサービスを利用される場合には、Kindle電子書籍リーダーを端末にインストールすることが必要です。インストールと設定登録は無料で行うことができます。(PCでの閲覧を希望される場合にはアマゾンの「Kindle for PC (Windows)」を一度ご確認下さい)

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「安全保障学を学ぶ」では安全保障に関連する幅広いテーマに関して調査研究を行っており、その成果を短い記事にしてまとめていますが、以下では関心に応じて記事を参照しやすいように分野ごとに分類しています。なお、今後も記事の増加を予定しており、随時加筆修正を加える点をご了承下さい。

政治理論、政策、国際関係

政治全般
国家の政策を左右する政治の論理
講義録 中間層が減少するほど、政治家は急進化する
支持基盤理論はいかに政治を説明するか

国家論
近代的国家の成立と軍隊の官僚化
モーゲンソーが考える国力の九要素

政治システム
論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ

政治地理学、地政学、軍事地理学
なぜチェレーンは地政学を生み出したのか
国家の「中核地域」をいかに考えるべきか
国土防衛を考えるための軍事地理学
領土拡張のための「成長尖端」
文献紹介 ハウスホーファーによる地政学への手引き
文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ

国際関係論
外交で成功するための四つの原則
はじめて学ぶ人のための勢力均衡―モーゲンソーの理論を中心に
文献紹介 国際政治で生き残るための政治的リーダーシップ
文献紹介 世界戦争に周期性はあるのか
論文紹介 国家はオオカミ、ジャッカル、子羊、ライオンに分類される
文献紹介 ハンチントンの『文明の衝突』を読み直す

安全保障全般
軍事学を学びたい人のための文献案内(1)
軍事学を学びたい人のための文献案内(2)教科書
論文紹介 安全保障学とは何か
軍事学は何を研究しているのか
論文紹介 健全な通常戦力こそ安全保障の基礎である
論文紹介 安全保障のジレンマの原因は軍備それ自体ではない
論文紹介 移民は安全保障上の脅威となり得るか
軍事学は戦争を称揚せず、ただそれを理解する

思想、倫理
戦争の道徳的ジレンマを考察する軍事倫理学
軍人が「人殺し」ではない理由


戦争、平和、外交

戦争
文献紹介 非対称戦争とは、戦略理論のアプローチから
文献紹介 戦争目的が戦争の勝敗を分ける理由

平和
貿易で世界が平和になるとは限らない
計量で考える平和の条件
文献紹介 平和学の戦争論

脅迫
国家が脅迫を成功させるための四条件

抑止
文献紹介 抑止が難しい戦略もある
論文紹介 戦略だけで抑止論を語ってはならない
論文紹介 なぜ抑止は(時として)失敗するのか
文献紹介 平和のための核兵器
論文紹介 通常戦力による抑止
論文紹介 安定した抑止と戦略の相互作用
海上で強制外交を成功させるには

同盟
大国が同盟国を見捨てる理由


戦争、戦略、戦術

軍事分析のレベル
戦争のレベルとは
文献紹介 政治学者のための軍事分析入門

教義
論文紹介 軍事教義(military doctrine)の意味を考える

戦略
戦略に関心を持ち始めた人のための戦略学入門
適切な行進こそ戦略の最重要事項
作戦線を失った部隊は戦略的に敗北している
論文紹介 本来の戦略の意味を取り戻す
二正面作戦は本当に不利なのか
ランチェスター方程式で考える戦力集中の原則

戦術
演習問題 状況判断のテクニックとして使えるMETT-TC分析
優れた戦術には射撃計画が必要
砂場で戦術を考えてみる
論文紹介 戦術を科学と見るのか、技術と見るのか
基本戦術と応用戦術の区分とその意義
はじめて戦術学を研究する人のために
戦術家のための地形知識
戦争で味方に休養を取らせるための戦術
論文紹介 軍事的虚構としての「フーチェル戦術」
COCOAで分かる地形分析

作戦、作戦術
論文紹介 作戦指導における機動戦と消耗戦の相違
論文紹介 作戦レベルにおける機動を考える

戦闘陣
戦闘陣の正しい使い分け方

諸兵科連合
変化する戦闘様相と諸兵科連合大隊の必要

攻勢、攻撃
陸軍戦術の基礎、攻撃機動の五方式

防勢、防御
論文紹介 広正面防御では「縦深」が重要である

機動
論文紹介 機動戦略に伴う軍事的リスク

重心
戦争における「重心」

部隊符号
分かると楽しい部隊符号

軍事理論
論文紹介 どのような理論で軍事バランスを分析すべきか
論文紹介 クルスクの戦いは軍事理論で説明できるか
武器の威力を数値化する方法
補足 武器の威力を定量的に評価する意義と限界
論文紹介 WEI/WUVとは何か、いかに応用すべきか
論文紹介 斉射モデル(Salvo Model)による対水上戦闘の分析


指揮、組織、管理

指揮
論文紹介 戦争で作戦部隊の指揮官がいるべき場所

人事
論文紹介 女性を戦闘から排除すべきなのか
不眠不休の軍隊は敗北する

幕僚
軍隊の計画を担う幕僚

士官
論文紹介 アメリカ軍を蝕む士官の知的水準の低下

下士官
論文紹介 軍隊の作戦を下から支え続けた下士官の歴史

戦闘ストレス、士気
学説紹介 どうすれば士気を高めることができるか
戦闘で兵士の内面で何が起きるのか
論文紹介 戦争における士気の問題
論文紹介 兵士は恐怖との戦い方を知っている

軍隊・軍事行政
ジョミニが考える軍事政策の基本原則
論文紹介 民間軍事会社の軍事的な有用性

軍葬、宗教
軍葬で故人を送るとき

慣習
なぜ軍人は挙手の敬礼をするのか

兵役
徴兵制と志願制、どちらを採用すべきか

広報、民事
論文紹介 いかに作戦を命名するのか


陸上作戦、陸軍、ランドパワー

ランドパワー
国際政治におけるランドパワーの重要性

陸軍
いかに陸軍の戦闘陣形は拡大してきたか
ナポレオンが軍団を設置した理由

前哨
敵前で休止するときは前哨を忘れずに

歩兵
狙撃手にも独自の戦術運用がある
演習問題 小斥候か、部隊斥候か
論文紹介 未来の戦場では歩兵分隊が重要となる
偵察だけが斥候ではない
歩兵部隊の戦闘陣形とその歴史的変化

騎兵
文献紹介 クセノフォンの騎兵戦術

機甲
攻撃だけが戦車の仕事ではない
論文紹介 主力戦車M1エイブラムズの意義と限界
敵の戦車を側面から射つためには
戦車小隊の隊形とその戦術的な特徴

攻撃ヘリコプター
攻撃ヘリコプターの編成と運用
論文紹介 対ソ戦略とヘリコプターの機動力

陣地攻撃
論文紹介 陣地攻撃の損害を減らすために

築城
はじめて学ぶ築城学の基本基礎
論文紹介 19世紀のイギリス陸軍と築城学の発達

市街戦
兵士の眼から見た都市の地形
市街戦における歩兵小隊の攻撃について

特殊作戦
陸軍におけるレンジャーの歴史とその伝統


海上作戦、海軍、シーパワー

海軍
戦闘時における海軍の編成

制海権・海上優勢
論文紹介 海上優勢とは何か
軍事学において制海権は何を意味するのか

航空母艦
論文紹介 航空母艦に将来性はあるのか
論文紹介 風の流れが空母の針路を決める

攻撃型潜水艦
論文紹介 図上研究で考える潜水艦の戦術

対水上戦
論文紹介 巡航ミサイルによる対水上戦闘の理論的分析

対潜水艦戦
論文紹介 対潜水艦戦における新たな戦力としての無人水上艇
論文紹介 米ソ決戦における米海軍のASW戦略

船団護衛
論文紹介 地球規模で船団を護衛するには

沿岸防衛
論文紹介 西太平洋地域における地対艦ミサイルの戦略的可能性

水陸両用作戦
論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦

航空作戦、空軍、エアパワー

空軍
論文紹介 戦間期におけるイギリスとドイツの空軍を比較する
論文紹介 いかに空軍の後方支援はあるべきか


反乱、テロリズム、犯罪

テロリズム
論文紹介 NATO加盟国は対テロ作戦で団結せよ

兵站、経済、貿易

兵站
軍事学における兵站とは何か
クラウゼヴィッツの兵站学

輸送
文献紹介 重たい部隊は強く、軽い部隊は弱い
論文紹介 強大な戦闘力は戦略的機動性を低下させる

基地
兵站システムから基地の機能を考える


戦技

射撃術、射撃統制
正しい銃の射ち方を理解するために
狙いを付ける前に正しい見出しを
一瞬の撃発こそ優れた射手の証
正しい射撃号令の出し方

射撃と運動
戦車の戦術でも重要な射撃と運動
戦場で生き残るための射撃と運動の技術

体育
軍隊の歴史における体育訓練の近代化

格闘
論文紹介 現代の戦場に格闘は必要なのか

武器、装備
爆薬
ホプキンソン-クランツ相似則で考えるTNTの殺傷範囲
いかに自爆攻撃は行われるか

電子戦、サイバー安全保障
論文紹介 サイバー戦のゲームを制作すべし

核兵器
軍事的観点から考える水爆の重要性
文献紹介 いかに核戦争を戦い抜くのか


人物、思想家、研究者
孫武
学説紹介 『孫子』の戦略思想と不戦屈敵の論理

プラトン
講義録 プラトンは戦争の原因をいかに説明しているのか

アリストテレス
講義録 アリストテレスが語る、政治の逆説的論理

ニッコロ・マキアヴェリ
学説紹介 国土に人口を分散配置せよ―マキアヴェリの考察―
マキアヴェッリ式陰謀心得
軍備と抑止、マキアヴェッリの論考から
マキアヴェッリの政治理論における都市の問題
マキアヴェリから権力者への助言

トマス・ホッブズ
ホッブズの政治理論における戦争

デイヴィッド・ヒューム
論文紹介 ヒュームが語る安全保障と国債の関係

アダム・スミス
アダム・スミスが考える防衛意識の問題

セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン
論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

シャルル・ド・モンテスキュー
モンテスキューによる征服者への助言

ジャック・アントワーヌ・ギベール
18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか

カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831)
クラウゼヴィッツの勢力均衡論

ヘルムート・フォン・モルトケ(1800-1891)
論文紹介 参謀総長モルトケの戦争と作戦術の原点

フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)
文献紹介 エンゲルスが考える散兵戦術の歴史的重要性

アルフレッド・マハン(1840-1914)
マハンによる水陸両用作戦の考察

ハルフォード・マッキンダー(1861-1947)
論文紹介 世界史におけるランドパワーとシーパワー

マックス・ウェーバー(1864-1920)
ウェーバーの古代国家論と軍事制度

ジュリオ・ドゥーエ(1869-1930)
ドゥーエが考える航空作戦の原理とその応用

ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(1878-1966)
文献紹介 戦略家が考える戦車の価値

エドワード・ハレット・カー(1892-1982)


ベイジル・リデル・ハート(1895-1970)
学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則
戦術家でもあったリデル・ハート
リデル・ハートが考える大戦略と日本の安全保障
リデル・ハートの軍事教育論

ハロルド・ニコルソン
文献紹介 ニコルソンの外交理論

ジョン・ボイド
文献紹介 ジョン・ボイドの空軍戦術

ハンス・モーゲンソー
モーゲンソーが考える国力の九要素
モーゲンソーが考える世論対策の重要性
モーゲンソーの勢力均衡理論

ヘンリー・キッシンジャー
なぜキッシンジャーは毛沢東の戦略思想を評価したのか
文献紹介 限定核戦争のための戦略理論

バーナード・ブロディ
「平時」の戦略を確立した政治学者バーナード・ブロディ

ケネス・ウォルツ
文献紹介 ケネス・ウォルツの勢力均衡理論
論文紹介 核兵器の重要性と日本が核武装する可能性

アンドリュー・マーシャル
米軍専属の戦略家アンドリュー・マーシャルの知られざる功績

歴史、政治史、軍事史

ペロポネソス戦争
論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因
講義録 シチリア遠征の失敗から学べること

アレクサンドロスの東方遠征
戦史研究 アレクサンドロスのペルシア遠征作戦

ローマ帝国
論文紹介 ローマ帝国の衰退と国家社会主義の限界
ローマの征服を推進した外交術

イタリア戦争
事例研究 イタリア戦争とフランスの限界
事例研究 武器を持たないローマ教皇のバンドワゴンとその限界

八十年戦争
オランダの独立を可能にした軍事革命
ニーウポールト会戦におけるマウリッツの戦術

三十年戦争
事例研究 三十年戦争の様相を変えたリシュリューの現状打破

フランス革命戦争・ナポレオン戦争
論文紹介 ワーテルローの戦いとナポレオンの敗因―シミュレーション分析の試み
事例研究 フランス革命戦争とワシントン政権の対外政策
アウステルリッツ会戦におけるナポレオンの戦争術

南北戦争
事例研究 リンカーンの憲法違反と戦争権限

第一次世界大戦
事例研究 戦争より革命を恐れたヴィルヘルム二世
文献紹介 第一次世界大戦の心理戦と移民コミュニティーの宣伝活動
事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争
事例研究 第一次世界大戦のドイツを苦しめた食料問題
論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない
事例研究 師団の過失とホイットルセーの戦功
ガリポリでチャーチルは何を間違えたのか
論文紹介 裏切られた短期決戦の想定

戦間期
事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由
事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか

第二次世界大戦
論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦
事例研究 準備なき宣戦―1939年の「まやかし戦争」
文献紹介 ヒトラーに戦争計画はあったのか
事例研究 ヒトラーの対外政策に見られる論理とその限界
論文紹介 知られざる太平洋戦争での米海軍戦術発達史
事例研究 作戦線から見た太平洋での米軍の戦略
論文紹介 ノルマンディー戦役で考える火力の重要性
論文紹介 沖縄戦で日本軍が用いた戦術とその限界

冷戦
学説紹介 限定核戦争を狙っていたソ連の核戦略
論文紹介 通常戦力の報復攻撃でソ連を抑止すべき
論文紹介 冷戦期の「海洋戦略(Maritime Strategy)」に対する批判
事例研究 新冷戦でレーガン政権が重視した海上戦力
論文紹介 即応展開部隊(RDF)とウォルツの中東戦略
事例研究 デタントの裏側で進んでいたソ連の軍備増強
事例研究 1986年の日米共同統合演習で見えた課題
論文紹介 ソ連から見た東アジアの新冷戦
論文紹介 冷戦期にソ連はどのような戦略を持っていたのか

中東戦争
事例研究 第四次中東戦争におけるアンワル・サダトの政策

レバノン紛争
事例研究 空軍史に残るレバノン紛争の航空戦


地域、国家、国際機構

アジア
論文紹介 東アジアの地域特性と勢力均衡の安定性

アメリカ合衆国
論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは
論文紹介 オフショア・コントロールとは何か、日本の視点から
論文紹介 エアシー・バトル(AirSea Battle)とは何か、なぜ日本が関係するのか
論文紹介 アメリカ軍による島嶼防衛の限界
論文紹介 アメリカ太平洋空軍による対中戦略の基本構想
論文紹介 ISとの戦いでアメリカの地上部隊が必要な理由
論文紹介 A2/ADには海上戦争(war at sea)戦略で対抗せよ
論文紹介 オフショア・バランシング(offshore balancing)とは何か
アメリカ社会が移民を拒絶する理由―トッドの人類学的考察から
論文紹介 対テロ戦争でアメリカが採るべき戦略とは

日本
明治日本の国防論―福沢諭吉の論考から―
論文紹介 海洋戦略の観点から見た日本の島嶼防衛
論文紹介 東アジア地域の安定と日本の島嶼防衛
論文紹介 日本版A2/ADと日米共同作戦のあり方
論文紹介 日本のシーレーン防衛と陸上自衛隊の意義
論文紹介 自衛隊も接近阻止/領域拒否(A2AD)を重視すべきか
文献紹介 日本の安全保障とヘッジング
論文紹介 現代日本の国家戦略としてのバックパス
論文紹介 防衛学とは何か、自衛隊の視座から
論文紹介 敵地攻撃能力から考える日本の防衛
論文紹介 沖縄に基地を置く軍事的理由
論文紹介 日本の対ソ戦略で海峡封鎖が重視された理由
事例研究 冷戦期における基盤的防衛力の妥当性
時事評論 尖閣諸島、新たな段階に入る
論文紹介 冷戦期における日本の陸上防衛力の発展とその課題
論文紹介 米ソ冷戦で日本の防衛力が重要だった理由

中華人民共和国
今さら聞けない中国軍の接近阻止/領域拒否(A2/AD)
論文紹介 中国の立場から見た在日米軍基地
論文紹介 中国軍の潜水艦発射型弾道ミサイルが抱える課題
論文紹介 中国の航空母艦は脅威となるのか

朝鮮民主主義人民共和国
地域研究 データで分かる北朝鮮の軍事力

ノルウェー王国
文献紹介 東西冷戦の最前線となったノルウェー


KT


2016年4月22日金曜日

論文紹介 戦争で作戦部隊の指揮官がいるべき場所

かなり以前に軍事学について関心を持たれたある方からこうした質問を受けたことがあります。
「昔に比べれば近代の戦争で指揮官の所在は前線から後方に変化したと思うが、それは現場からどの程度離れた場所が適切なのか」
これは非常に複雑な問題であり、作戦指揮に対する考え方や戦況、さらに組織における上官と部下の関係などと関係があります。

今回は、第二次世界大戦の事例を中心に、作戦部隊の指揮官がどこに位置するべきかを考察した研究論文を紹介します。

文献情報
Ware, Howard L., III. 1989. Command Presence: Where Should the Operational Commander be Located on the Modern Battlefield? Monograph, Fort Leavenworth: School of Advanced Military Studies, United States Army Command and General Staff College.

部下の決断を尊重したブラッドレー
この論文は、将来の戦争で作戦の指揮をとる際に、前線からどの程度の距離を置くことが適切なのかを解明することを目的としており、著者は第二次世界大戦で知られる6名の将軍の事例を選び、それぞれが作戦の指揮においてどこにいたのかを比較検討した上で、複数の教訓を抽出しています。

最初に取り上げられているのは、ブラッドレー(Omar N. Bradley)ですが、著者によればブラッドレーは米軍の歴史で最も長い期間にわたり野戦軍の指揮官であり続けた将軍であり、第82師団、第28師団の師団長を歴任した後に、北アフリカで第2軍団の指揮官となり、ノルマンディー上陸侵攻に当たっては第1軍を率い、第二次世界大戦の末期には第12軍集団の指揮をとりました(Ware 1989: 11)。
したがって、戦後には初代統合参謀本部議長にまで上り詰めたブラッドレーは、多くの戦闘経験を持つ熟練の指揮官であったといえますが、彼は次のように自らの指揮官としての考え方を述べたことがあります。
「マーシャル将軍から私は効果的な指揮の秘訣を学んだ。戦争を通じて私は注意深く部下の任務に干渉することを避けた。私が期待したように部下が行動すれば、私は彼にフリーハンドを与えた。部下がためらえば私は彼を助けた。そして部下が失敗すれば、私は彼を励ました」(Ibid.: 11)
こうした指揮のあり方を踏まえながらも、ブラッドレーは部下に仕事を任せきりにしたわけではありませんでした。ブラッドレーは軍集団司令としての時間の多くを司令部の中で費やしていましたが、戦闘の合間には部隊の視察を常態的に行っています(Ibid.: 13)。
西部戦線でドイツ軍が反攻を図って生じたバルジの戦いの際にブラッドレーの司令部の位置は前線からおよそ12マイル(19.3キロメートル)ほどしかありませんでしたが、バルジの戦い以降にブラッドレーは司令部を前線から50マイル(80.4キロメートル)程度の距離を保持するようにしています(Ibid.)。

司令部同士の距離を詰めさせたパットン
米軍で特徴的な将軍の一人とされるパットン(George S. Patton)は、北アフリカで第2軍団を指揮してロンメルと争ったことで有名です。第7軍の指揮をとった際には北フランスで積極的な前進を行い、バルジの戦いでは重要な任務を果たした功績があります。
パットンの指揮官としてのスタンスについては彼自身の言葉で次のようにそれが表現されています。
「各人は適切な範囲で自分自身により指揮をとるようにせよ。目標を達成することに失敗し、また戦史もしくは致命傷を負っていない、いかなる指揮官も自らの任務を完遂をしていない」(Ibid.)
また興味深い特徴としてパットンは自分の部下である指揮官とその参謀長に対して、少なくとも司令部の誰かが毎日前線を視察するようにさせている一方で、決して現場には干渉しないようにとも述べていることです。
「これらの士官の役割は観察することであって、干渉することではない。その専門領域に付け加えるとすれば、彼らは軍事的に重要なこと一切を観察し、報告しなければならない。非難することよりも称賛することが重要であることを忘れてはならない。また部隊の指揮をとる諸君の基本的な任務は自分の眼で見ること、そして個人的な偵察を行う一方で自分の部隊に見られることであることを忘れてはならない」(Ibid.: 14)
前線の視察の意義を重視していたこともあり、司令部の位置関係に関してパットン自身は師団の指揮所まで車両で1時間半以内に到達できる位置にあるべきと明確に規定していました(Ibid.: 15)。

口頭命令による指揮にこだわったモントゴメリー
モントゴメリー(Bernard L. Montgomery)は第一次世界大戦の経験を持つイギリス軍の軍人であり、第二次世界大戦では師団長としてフランスに赴き、エジプトでは軍の司令として指揮をとりました。北フランス地域における重要な戦闘で第21軍集団隷下の第8軍の指揮をとったことが特に有名であり、1945年には第21軍集団司令にも就任しています(Ibid.: 16)。

モントゴメリーの指揮に対する考え方は次のような彼自身の言葉で説明されています。
「それ(司令部)は小規模かつ高度に効率的でなければならず、独自の輸送手段で完全に移動可能であり、また防御の観点から自己完結的でなければならない。それは主に通信、暗号、連絡の参謀、警備の部隊、そして戦況に関して連絡を取り続けるための非常に少数の作戦幕僚から構成される」(Ibid.: 17)
司令部の位置関係に関するモントゴメリーの考え方で特徴的なのは、司令部の機能を戦闘に関するものと後方支援に関するものに区別した上で、司令部の中に兵站と行政に関する機能を明確に位置付けている点です(Ibid.: 18)。モントゴメリーは指揮官としての責務は戦闘と後方支援の両方に及んでいると考え、次のように述べていました。
「戦域において作戦部隊は隷下の司令部に対する訪問という手段によって、口頭で命令を与えることができる場所で指導されなければならない。文書命令によって承認されることはほとんど不必要である。(中略)指揮官は部下に対して口頭命令を下達する方法を知っているべきである。二人として同じ指揮官はおらず、それぞれ異なった取り扱い方が必要となるであろう」(Ibid.: 18)
モントゴメリーが司令部をどこで開設すべきと考えていたのかはそれほど明確ではありませんが、司令部の規模を小規模に抑制して自在に運動できるようにしたこと、また隷下部隊の司令部に容易に赴くことができる場所であるということが推定されます。
ただし、モントゴメリーは後方支援部隊を指揮統制する必要も大きいと考えていたことから、その距離は努めて後方にあったとも考えられます。

機動戦を遂行するため時間の喪失を嫌ったロンメル
ロンメル(Erwin Rommel)は「砂漠の狐」という名前でも知られていることから分かるように、アフリカ軍団の指揮官として有名です。ロンメルは1940年に第7装甲師団の師団長となってから野戦軍指揮官としての才能を発揮するようになり、北アフリカ戦線ではアフリカ軍団、アフリカ装甲軍、アフリカ軍集団の指揮をとりました。

資料が制約されているため、ロンメルが見せた指揮の取り方に関して知ることができるところは必ずしも十分ではありませんが、著者の調査によるとロンメルは一度決心を下せば、ロンメルは直ちに自分の眼で地形を偵察するために前線視察に出かけていたそうです(Ibid.: 20)。
これは部下に偵察を行わせて、その報告を受ける間にかかる時間を短縮するための措置でした。
この間に参謀はロンメルの決心を具体化するための命令の内容を起案し、ロンメルは自分で行った偵察を踏まえ、口頭で命令を部下に下達していたのです(Ibid.)。

ただし、司令部の配置に関してはロンメルは敵の特殊作戦部隊の攻撃に対する安全を確保できる程度の距離を保つ必要があるとも考えていたようであり、おおよそ前線から2キロメートルから10キロメートル程度の場所に司令部を置いていました(Ibid.: 21)。
ただし、司令部は絶えず状況に応じて柔軟に移動することができなければならず、無線通信の装備を充実させていたことも報告されています。
これもロンメルが報告や連絡において時間の浪費を最小限度に抑制することにこだわっていたことを反映するものであり、またロンメルが構想する作戦が機動力を要求するものであることが多かったこととも関係していました(Ibid.: 21-2)。

大規模な戦闘部隊を確実に掌握したマンシュタイン
マンシュタイン(Erich von Manstein)はリデル・ハートから「ドイツで最も優れた将軍」と称賛された指揮官であり、1940年のフランス侵攻、1941年のソ連への侵攻で重要な貢献を果たしたことで知られています。マンシュタインの野戦軍指揮官としての能力が最も発揮されたのは、第56装甲軍団の指揮を取ることになって以降であり、クルスクの戦いでは大きな功績を残しています(Ibid.: 23)。

しかし、マンシュタインが司令部の適切な位置についてどのような考え方を持っていたのかについては不明な点が少なくありません。
著者によれば、マンシュタインは最前線で指揮をとることの重要性について多くの記述を残しているものの、戦術レベルで指揮する場合と、作戦レベルで指揮する場合で指揮の取り方を区別していたようです。つまり、部下の指揮所を訪問することを日常的に欠かさない一方で、野戦軍指揮官としてはブラッドレーのように司令部で多くの時間を過ごしていたようです(Ibid.)。

マンシュタインは部下の軍団司令に対してよく質問を投げかけ、現状としてどのような意図を持っているのか、将来の作戦の展望としてはどのようなものかを確認していました(Ibid.)。
軍集団のような大規模な部隊の指揮をとっていた際には、マンシュタインは100マイル(160キロメートル)以上の距離を置いていたこともあります。

常に戦場を駆け回っていたグデーリアン
第二次世界大戦の歴史でグデーリアン(Heinz Guderian)の名前もよく知られていますが、それは彼がポーランド、フランドル、ロシアでの戦闘で機動力を重視した特徴的な作戦運用を見せたためです。戦時中、グデーリアンは3つの軍団、そして第2装甲軍の指揮に当たっています(Ibid.: 24)。
グデーリアンが指揮官として最も重視していた原則は最前線から指揮をとるというものでした。
「前方へと前進することによって指揮官が先例を作り、隷下の軍団、師団、連隊の指揮官に前進するように垂直的に強制することになる」(Ibid.)
全軍の先頭に立って進むことも辞さないこの考え方もあり、グデーリアンは前線の指揮所で自分の部下に出向くことをよく行っていました。そこではその司令部にある状況図を用いて現状と将来の方針を検討しました(Ibid.: 24-5)。
こうした手法によってグデーリアンは戦場で何が起きているのかを詳細に把握することができましたが、その反面として彼はほとんど司令部を不在にしていました。著者はこのことをグデーリアン自身の一節を引いて紹介しています。
「例えば、スモレンスク付近における決戦の最中にグデーリアンとホトの装甲集団はロシア軍の10個師団と2000両の戦車を完全包囲していた時、装甲集団司令部では22時間にわたってグデーリアンが不在だった」(Ibid.: 25)
グデーリアンが自分の指揮所にいることはほとんどなかったため、独ソ戦においてはグデーリアンの幕僚は無線通信車を2両を含む路外機動力の高い車両を各種運用していたことも指摘されています(Ibid.)。
したがって、グデーリアンにとって指揮所の位置など大した問題ではありませんでした。指揮官は各地で部下の指揮所を訪れ、適時適所から必要と思われる命令を下達すればよいと考えていたのです。

どこに指揮官はいればよいのか
著者は指揮官のそれぞれの特性に応じて指揮の取り方にも変化が生じることに留意しながらも、これらに共通して見られる特徴として以下のようなものがあると論じています。
「彼らはいずれも自分の兵士への道徳的義務について真剣である。部下の兵士に対する表面的な現地を視察するのではなく、前線で直面する試練と苦難を真に理解した有能で勇敢な兵士として部下を見る必要があることを彼らは認識していた。部下の近くに身を置き、あらゆる問題に関して連絡を緊密にし、戦闘の脈動に肌で感じながら、彼らは小さな前線司令部から仕事をしたのである」(Ibid.: 26)
こうした指揮の根本原則があるとしても、これを個別の状況に適用し、指揮所の適切な位置を判断する際にはさまざまな考え方がありえます。そのため、一律に定義することは難しいと著者も認めていますが、結論としては、「前線の状況を掌握する上で支障を来さない範囲内で前線から可能な限り遠くに位置するべき」と説明されています。
つまるところ、情報、通信の条件が悪化するほど指揮所は前線に近く位置しなければなりませんが、その範囲内で可能な限り敵から距離を置くことができる場所が指揮官のいるべき場所ということになります。

この研究は第二次世界大戦の事例に依拠しているため、さらに最近の事例で研究する必要があるかもしれません。というのも、通信技術の発達が著しく、指揮官の置かれる情報環境が大きく変化したためです。
しかし、この研究の価値は依然としてあり、指揮の問題を考える上で非常に有益な比較事例研究であると思います。軍隊だけでなく組織の中で責任ある役職に就いた場合に、部下との距離感をどのように調整すべきかを考える上でも役立つところが少なくないと思います。

KT

2016年4月17日日曜日

事例研究 シチリア遠征の失敗から学べること

ソクラテス(右)とアルキビアデス(左)の関係を描いた絵。
アルキビアデスはソクラテスの下で哲学を学び、ペロポネソス戦争当時はアテナイで最も有力な政治家の一人だったが、国内に政敵も多く、シラクサ遠征の最中にスパルタに亡命することになった。
Jean-Léon Gérôme作
「兵も船も、ことごく失われ、さしもの大軍も故国に帰り着いたものは、数えるほどしかいなかった」
歴史家トゥキディデスがこのように書き記すほど、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)におけるアテナイ軍のシチリア遠征作戦は凄惨な戦いとなりました。

そもそも戦争が勃発した当時のアテナイ指導者だったペリクレスは、敵国スパルタが保有する優勢な陸軍の侵攻を正面から食い止めることは危険と判断し、アテナイ軍として地上で防勢作戦を展開しつつ、優勢なアテナイ海軍をもってスパルタの同盟国に洋上から攻撃を加え、時間をかけて消耗させるという戦略を策定していました。
しかし、長期にわたる籠城でアテナイ市街に疫病が発生すると、それでペリクレスは命を落としてしまい、また想定以上にスパルタとの戦争が長期化したことで、アテナイ市民の間で不満が高まっていました。

このシチリア遠征はアテナイにとって戦況を一変させる一手としてアルキビアデスの主導の下に実施されましたが、結果的にアテナイ軍は多くの兵士を失い、アテナイがペロポネソス戦争に敗北する要因ともなってしまったのです。なぜ、このような事態になってしまったのかを理解するためには、当時の政策過程と作戦指導の関係を知らなければなりません。

アテナイの政治システムとシチリア遠征問題
アテナイの中心部に位置するプニュクスという丘は民会における論壇。
ペロポネソス戦争当時では民衆扇動を行う政治家が複数現れ、それが政策決定を難しくしていたとされている。
当時のアテナイの政治システムは民主制でした。議会に当たる民会では複数の市民が各党各派に分かれており、戦争に関する重要な問題については議論した上で多数決により決定を下していました。
ペリクレスの死後、アテナイの民会で影響力を拡大していた市民は複数いましたが、いずれも市民を扇動して政治力を拡大しようとする傾向があり、歴史家からは扇動政治家(デマゴーゴスdemagogos)と呼ばれていました。その中でも特に有力だった政治家にペリクレスの甥である主戦派のアルキビアデスがおり、彼は和平派のニキアスと激しく対立していました。
前421年にニキアスが主導して締結した講和条約によって当時のアテナイはスパルタとの戦争を中断していましたが、条約で定められた領土返還が進んでいなかったために、アルキビアデスは戦争を再開するべきだと考えていたためです。

アルキビアデスは前415年、シチリア島のアテナイのある同盟国から援軍の要請があったことを受けて、スパルタとの戦争を再開し、シチリアへ遠征軍を派遣すべきことを強く主張します。
アルキビアデスは議会で議員に働き掛け、民会でシチリア遠征軍の派遣に必要な予算案を審議しようとしました。アルキビアデスはシチリア遠征に必要な部隊規模については最小限に見積り、出動を要請する軍船の数は60隻とされていました。

しかし、ニキアスは審議の場でこの作戦を何としても中止に追い込もうと次のように発言し、そもそもシチリア遠征の必要があるのか否かを次のように論じて問題としました。
「今日の民議会は、シケリア(シチリア)への遠征軍出航に際して、われらの行うべき準備の細目を議するために催された。しかしここで私見を述べるならば、われらはまだ、遠征そのものの是非を検討するべき段階にあるのではないかと思う。つまり、船隊派遣がはたしてとるべき道か否か、これを充分に見極めるべきであり、重大な作戦を議するに、かくも軽々しく他国人の甘言に惑わされて思慮を誤り、本来われらの関与するべきではない戦争を始めることがあってはならぬと思う」(下30頁)
しかし、自分に対する支持が広がらず、追い詰められたニキアスは、シチリア遠征軍が任務を遂行するには、さらにその兵力の規模を大規模にすべきであると主張し、市民に遠征軍が直面する問題の深刻さを印象付け、作戦の中止に同意させようとしましたが、これも不発に終わりました。

ところが、民会ではニキアスが主張した大規模な遠征軍の編成については同意し、またアルキビアデスだけに作戦の指揮を委ねるのではなく、ニキアスも指揮官としてこの作戦に参加させること、さらに政治的に対立しているアルキビアデスとニキアスの両者を取り持つため、ラマコスという将軍もこの作戦で指揮をとらせることを決議しました。
こうした政治的妥協の産物としてシチリア遠征作戦は開始されることになったのです。

はじめから破綻していたシチリア遠征の戦略
アテナイからシチリアまでの遠征軍の移動経路。本国からの兵站線が伸びきったため、現地に近い同盟国に基地を置くことが不可欠であったが、遠征軍の規模があまりに大きく同盟国が援助を拒んだことで作戦は行き詰まりを見せた。
シチリアに向けて出発し、海路を進んだ遠征軍は、同盟国のレギウムで足止めされました。
アルキビアデスの計画としては、レギウムで基地を開設し、そこからシチリアへと侵攻する予定だったのですが、アテナイ軍の規模があまりに大規模であったため、レギウム政府はアテナイ軍を城内に受け入れることを拒否したのです。ニキアスの提案が思いがけない形でアルキビアデスの戦略の妨げとなりました。

しかし、アルキビアデスはこのまま帰国すれば自分の政治的影響力が大きく低下することを恐れ、何とか別の方法を見出そうとしました。
そこで、アルキビアデス、ニキアス、ラマコスの三者協議で、アルキビアデスは当初の戦略計画を見直し、シチリアで遠征軍に基地を提供する別の国を探し、現地で十分な体制を整えた後に本格的な作戦を開始するという方針を主張しました。これにニキアスは反対し、アテナイ軍はシチリアで敵のシラクサに一撃を加えたならば直ちに帰国すべきと主張しました。これは軍事的な意味は対してありませんが、本国でニキアスの主張の正しさを裏付ける結果となると期待されましたが、当然アルキビアデスは強く反対しました。
ラマコスは今からシラクサ軍に直接的に攻めかかる戦略を主張しましたが、結局三者の意見はまとまらず、最終的にラマコスはアルキビアデスの案に同意します。

しかし、アテナイ本国からアルキビアデスにとって驚くべき知らせが入ります。アルキビアデスがアテナイ本国で告発されたのです。
遠征軍がアテナイを離れた後で、アルキビアデスの政敵は神を冒とくした容疑でアルキビアデスを告訴する準備を進めていたのです。この告訴を受けてアルキビアデスはアテナイに帰国することは政治的に危険すぎると判断し、敵国のスパルタに亡命してしまいました。またラマコスも戦死したために、シチリア遠征軍の指揮官はこの作戦に反対していたニキアスただ一人になってしまいました。

シラクサに対する攻囲は長期にわたって続きましたが戦果が乏しく、本来であればニキアスは引き返したかったはずですが、この時期になるとニキアスだけが作戦の責任をとることになるため、自分の判断で帰国することは避けたいと考えました。
そこでニキアスはアテナイ本国から帰国命令を引き出そうと大規模な増援を派遣するように要請したのですが、ニキアスの本心とは裏腹に大規模な援軍が実際に送り込まれてしまいました。ニキアスはこれ以上の増援を得てもシチリアで軍事的勝利を得ることは難しいと理解していましたが、本国において自分の政治的影響力が低下することを恐れて撤退を可能な限り遅らせたのです。
こうしている間にもアテナイ軍の戦力は着実に消耗を重ねていき、最終的にはシチリア遠征軍は壊滅的な損害を受けてしまったのです。

シチリア遠征作戦の教訓
アテナイ軍にとってシチリア遠征作戦は大きな失敗でしたが、それを回避することができる機会は一回だけではありませんでした。
ニキアスは民会でアルキビアデスに対する反対工作の一環として部隊規模の拡充を主張し、不必要なまでにシチリア遠征のリスクを大きくしましたし、アルキビアデスは当初の計画が実行不可能になったにもかかわらず、シチリア遠征作戦の全体像を見直すことを拒否しました。アテナイ本国は作戦が進展している最中に指揮官の一人を告訴して亡命させてしまい、ラマコスが戦死した後にニキアスは敗戦の失敗が自分になることを恐れて撤退の決断を下すことができませんでした。

アルキビアデスとニキアスは互いに自らの政治的影響力を拡大することを優先し、軍事的に必要な処置を講じなかったことが、結果として重大な失敗に繋がったのです。
権力をめぐる闘争は政治の本質ですが、重要な政策決定を適切にするためには、権力闘争のレベルが不必要に拡大してはなりません。
当時のアテナイでは民主制が確立されていましたので、政治家には説明責任があり、市民の意向が政策の形成に影響を与えていましたが、政治制度それ自体が優れた政治を確証するわけではないということをシチリア遠征の事例から読み取ることができます。

KT

参考文献
久保正彰訳『トゥーキュディデース 戦史』 全3巻、岩波書店、2014年

2016年4月16日土曜日

論文紹介 イギリス海軍における戦術の研究史

19世紀にイギリスが達成した世界規模の覇権は、その優れた海軍の能力によって可能となりましたが、イギリス海軍も最初から優れた能力を獲得していたわけではなく、長年にわたる技術的、運用的、戦術的研究の積み重ねによって他国の海軍を圧倒していたのです。

今回は、イギリス海軍の教義がどのように研究されていたのかを戦術的観点から調査した論文を紹介し、その内容について考察してみたいと思います。

文献情報
James J. Tritten. 1994. Doctrine and Fleet Tactics in the Royal Navy, Norfolk: Naval Doctrine Command.

戦闘教義を模索したイギリス海軍
イギリスは四方を海に囲まれていたため、古くから海軍の活動が見られましたが、本格的に海軍としての体制が整備されたのはヘンリー八世(Henry VIII)以降のことでした。
海軍の強化に取り組んだヘンリー八世は当時、海軍の整備が進んでいたスペインからの技術、知識の移転に努力しましたが、戦術研究においてはスペイン人のシャベス(Alonso de Chaves)が刊行した航海、海軍に関する著作を踏まえ、戦闘で風速を測定することや、敵より風上に味方の艦艇の船位を保持させること、また艦砲射撃を活用することなどを定めた訓令を海軍に出しました(Tritten 1994: 1)。

この訓令はイギリス海軍の歴史において海軍戦術の教義を発展させていく重要な一歩となりましたが、当時はイギリス海軍にはスペイン海軍のような大型艦艇が不足していたため、スペインの海軍戦術を取り入れてもそれが直ちに役立ったわけではありませんでした。
実際には艦艇がそれぞれ単独で行動し、武装商船を襲撃するような活動が主体であり、例外として1588年のアルマダの海戦で大規模な海上戦闘を経験することになりましたが、その時もスペイン的な海軍戦術が採用されていたわけではありませんでした(Ibid.)。

イギリス海軍が独自の教義を確立するためには、17世紀の英蘭戦争を経験し、さらに戦術の研究が発展する必要がありました。
イギリスで権力を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は、通商権益をめぐるオランダとの武力紛争で積極的にオランダの船団を襲撃するようにイギリス海軍の作戦を指導しましたが、当時、イギリス海軍において大規模な海上戦闘に勝利するための戦術をさらに研究する必要に直面しました(Ibid.: 2)。
そこで、当時の艦砲射撃の精度を踏まえた舷側斉射で交戦するようにし、また多数の艦艇を合理的に機動させるために一定の戦闘陣を維持して行う方法も取り入れられるようになっていきました(Ibid.)。
クロムウェルの時代における改革を踏まえて、1653年に議会は航海と海戦に関する訓令を組み合わせた教義を議決するに至り、ここにイギリス海軍の教義が明文化されたのです(Ibid.)。

戦闘教令の改訂を通じたイギリス海軍の戦術的発達
英蘭戦争で導入されたイギリス海軍の教義は非常に厳密な規定であったため、英蘭戦争が終結した後、戦闘教令の改訂が1678年、1688年、1690年、1691年、1695年、1702年、1703年という頻度で行われ(Ibid.: 3)、この一連の改訂によって制限されていた艦艇の艦長の権限の範囲が拡大されました。この改訂によりイギリス海軍の戦術はより幅広い視野から研究がなされるようになります。

ルイ十四世の拡張政策に周辺諸国が対抗したアウクスブルク同盟戦争(1688-1697年)においては、イギリス海軍は数的に優勢なフランス海軍と対決することになりましたが、当時のイギリス海軍はオランダ海軍と連携しながら、敵と直接交戦することを避け、「牽制艦隊(fleet-in-being)」という戦略姿勢をとりました(Ibid.: 4)。
これは直接的な戦闘を避けて味方の艦艇の損害を抑制しつつ、フランスの海上交通路に間接的に脅威を及ぼす戦略でしたが、これは各艦艇が自在に行動する余地を持たせる戦略であったため、イギリス海軍において研究される戦術の幅を広げていきました。

現代の研究者は当時のイギリス海軍の戦術には二つの大まかな類型が見られると指摘しています。
一つは艦艇が戦闘陣を維持したまま運動して敵を捕捉し、最大限の火力を発揮するように射撃を加える交戦するという戦術であり、もう一つは個々の艦艇が独自の判断に基づいて自在に機動しながら交戦する戦術でした(Ibid.)。
前者は火力の発揮を重視しますが、後者は機動の巧拙を重視するという意味で対照的な戦術的思想であったといえます。どちらの立場をとるにせよ、17世紀以降の研究から戦術的選択がますます複雑化、多様化するようになっていたことが分かります。

イギリス海軍の歴史に名前を残したホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson)は、1805年のトラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊の単縦陣を二列の縦陣で素早く分断し、敵の艦隊が退却できない状態で捕捉撃滅しましたが、これはイギリス海軍が得意とした砲戦能力の高さを最大限に活用し、かつ艦隊の迅速な機動を可能にしたために大きな戦果を上げることができたと考えられました(Ibid.: 14)。
この論文の著者もネルソンの成功は「よい教義を展開することよりもむしろ、よく部隊を訓練すること」にあったと認めていますが(Ibid.: 15)、ネルソンの成功はその後のイギリス海軍における戦術的な考え方に長らく影響を及ぼしました。

新時代の海軍戦術の登場と研究の実証的妥当性の低下
19世紀に蒸気機関が登場したことは、世界中の海軍軍人に新たな戦術の研究に取り組むことを促しました。風向や風速で艦艇の移動が妨げられていた時代には考えられなかった合理的かつ計画的な艦隊運動の方法を数多く検討することができるようになったためです。
現在でも世界的に有名な王立防衛学研究所(Royal United Services Institute for Defence Studies, RUSI)が1831年に創設され、1859年から定期刊行物を出版するようになると、多くの研究者が新時代の海軍戦術の研究に取り組むようになりました(Ibid.: 17)。

興味深いことに、この時代におけるイギリスにおいて展開された戦術の研究の多くが数理的モデルや技術的対応策に関するものであり、ある陣形から別の陣形に移行する際の艦艇の運動や、艦砲射撃の基礎となる射撃理論や射法の研究が主流でした(Ibid.: 19)。
第一次世界大戦が勃発した1914年、イギリス海軍では『大艦隊戦闘序列(Grand Fleet Battle Orders)』という教範が出版されていますが、この内容を承認したジョン・ジェリコー(Earl Jellicoe)は戦艦を中心とする海軍戦術の考え方を重視する立場でした(Ibid.: 20)。
つまり、19世紀における戦術研究を踏まえ、敵に最大限の火力を発揮できることが勝利の条件であり、そのためにはあらゆる艦隊運動が厳密に規定されるべきであり、各艦艇の艦長が独断で行動する余地は極めて限定すべきと考えていたのです(Ibid.: 20-1)。

イギリス海軍にとって不運なことですが、この教範は対水上戦を重視するあまり、当時まだ登場して間もない潜水艦や航空機という新たな海上戦闘の要素を取り入れておらず、1924年、1928年、1929年の改訂でも大きな改善は見られませんでした(Ibid.: 23)。
第二次世界大戦が勃発した1939年に策定した戦闘教令でイギリス海軍は依然として艦隊決戦の重要性を強調しており、航空母艦のような重要な装備を艦隊防空という防御的手段としてのみ有用であると過小評価していました(Ibid.: 24)。

その後のイギリス海軍の教義
イギリス海軍の教義がすでに通用しなくなっていたことは、第二次世界大戦の経験から徐々に明らかになり、次第に戦艦から航空母艦を重視する考え方に変化していきました。しかし、この時期からアメリカ海軍との連合作戦を重視するようになり、戦術研究においてもアメリカ海軍が主導するようになっていきました。
この関係は冷戦期に北大西洋条約機構の下で英米関係の同盟関係が強固なものになってから動かしがたいものとなり、航空母艦の運用に関してもイギリス海軍の教義はアメリカ海軍の教義に強く影響を受けるようになりました(Ibid.: 25-6)。

イギリス海軍では国王の主導の下に当初から戦闘教義の研究が積極的に推進され、全世界の海を支配するまでに海軍の能力を強化することに成功しましたが、時代の流れに応じて戦術の研究を発展させることに失敗し、第二次世界大戦においてその教義の大部分が陳腐化しているという事態に直面しました。
イギリス海軍の歴史からは多くの教訓が引き出されますが、時代の変化に応じて新戦術を研究し、自国の海軍の教義を修正できなければ、軍事的優位は失われるという教訓は特に重要なものであると思われます。
多くの戦闘経験を通じて完成された教義だとしても、それは特定の時代の条件の下でのみ機能し得るものでしかなく、新たな研究によって見直し続けなければ、いずれは役に立たなくなってしまうのです。

KT

2016年4月14日木曜日

論文紹介 下士官はいかに軍隊を支えてきたか―歴史的考察

軍人の階級は士官、下士官、兵卒の三種類に分類できることは、広く知られています。
しかし、下士官が士官と兵卒の中間においてどのような役割を果たしているのかは、それほど広く知られていません。

今回は、歴史的観点から下士官の役割を考察するため、米軍の歴史における下士官の制度の発展を調査した研究について紹介したいと思います。

論文情報
Arms, L. R. 2009. "The NCO: A Short History," NCO Journal, 18(1): 14-20.

創設期のアメリカ軍における下士官の位置付け
米国の歴史で下士官の重要性を最初に明確にした著作は、1778年にシュトイベン(Friedrich von Steuben)が出した『合衆国軍の組織と規律に関する規則(Regulations for the Order and Discipline of the Troops of the United States)』であり、これによって下士官の任務がはじめて体系的に整理されました。

元プロイセン陸軍大尉だったシュトイベンはヨーロッパでもともと就職活動をしていたのですが、最終的にアメリカ独立戦争でイギリス軍と戦っていたアメリカ大陸軍に入隊を果たし、ワシントンの部下として訓練計画や教範作成に携わります。
業務を通じてシュトイベンはアメリカ軍に決定的に欠けているのは下士官であると強く認識するようになります。

先ほどの著作は当時では単に「青本(Blue Book)」と呼ばれたもので、そこでシュトイベンは下士官の階級を伍長(Corporals)、軍曹(Sergeants)、曹長(First Sergeants)、需品軍曹(quartermaster sergeants)、先任曹長(sergeants major)に区別し、それぞれの任務を次のように規定しました(Arms 2009: 14)

・先任曹長 連隊付の副官の業務を補佐し、部隊の名簿を管理し、部隊の内情を掌握し、連隊の対内的な管理や規律に関する問題を処理する。
・需品軍曹 連隊の需品科士官の業務を補佐し、適切に所要を見積り、行進における連隊の物資の輸送を監視する。
・曹長 部隊において規律を保ち、任務の遂行を確実にする。また部隊の名簿を管理することや、中隊長に早朝の報告を行うこと、中隊ごとに管理されている兵士の氏名、年齢、伸長、出生地、以前の職業などを記録した文書を作成し、管理すること。
・軍曹、伍長 新兵に対する訓練においてあらゆる必要な指導を行うこと(Ibid.)。

さらにシュトイベンは連隊長や中隊長が現場の状況を把握するために、優秀な兵卒を下士官に取り立て、彼らに適切な権限を与える意義を解説しています。
アメリカ独立戦争が起こるまで正規の常備軍を持たなかったアメリカ人にとって、「青本」に示された見解は画期的なものでした。

下士官の役割と規模の拡大
アメリカ独立戦争で勝利を収めた後も、アメリカ軍では体系的な下士官の選抜、訓練というものは行われていませんでした。当時のアメリカがそれほど大規模な軍隊を保持しない政策がその原因でしたが、1825年になるとアメリカ軍でも下士官の最初の選抜試験が行われるようになり、新たな教育訓練の制度が整備され始めます(Ibid.: 14-5)。

その制度整備で注目すべきは下士官に一定の戦術知識を付与する取り組みでした。
1829年に刊行された『歩兵戦術概論(Abstract of Infantry Tactics)』は下士官に対する教育訓練で教範として使用されていたものですが、下士官に正しく兵士を行進、射撃を行わせる能力を付与することが意図されていました(Ibid.: 15)。

当時はまだ士官が戦術上の意思決定を下し、下士官はそれを兵卒に実行させるという考え方が主流でしたが、下士官に戦術知識が必要な役割を担わせる機会は増加しつつあり、教育内容にもそうした事情が反映されていました。

実際に南北戦争が勃発すると、下士官は少数の兵卒を指揮して散兵戦を行う場面が増えていき、その活動領域を大きく拡大させます。しかし、戦争が長引くにつれて下士官の不足が徐々に深刻な問題となっていきました(Ibid.: 16)。
南北戦争が終結すると、アメリカ軍は下士官の不足という経験を踏まえ、下士官のための学校を設置することを決め(Ibid.)、また専門技術を持つ下士官に関しては給与の見直しを行うことで対応し始めます(Ibid.: 17)。

19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカ軍が下士官の規模を拡充するための取り組みを進めていたことは、第一次、第二次世界大戦で大いに役立ちました。これらの戦争では分隊ごとの部隊行動を指揮、統制できる要員が大量に必要となっていたためです。
第二次世界大戦の最中、アメリカ陸軍では歩兵分隊の定員を8名から12名に拡充し、1942年までに分隊長に伍長を充てる分散統制の体制を導入します(Ibid.: 18)。

現代陸軍の標準的な編制では下士官が分隊を指揮するのは一般的ですが、アメリカ軍でこの体制が完成したのはこれ以降のことでした。

むすびにかえて
この論文の著者は『下士官の歴史(A History of the NCO)』という本の著者でもあり、この論文はその文献で述べられた研究成果を要約したものになっています。

この記事でも米軍における下士官の歴史をごく一部しか紹介できませんでしたが、その時代の要請に応じて下士官が戦争でだんだんと活動の場所を広げていったことが分かると思います。

KT

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2016年4月11日月曜日

論文紹介 日本版A2/ADと日米共同作戦のあり方

近年、東アジア地域の安全保障環境が厳しさを増している理由は一つだけではありませんが、その最も重要な要因は中国が接近阻止・領域拒否(以下、A2/AD)を戦略構想として重視していることです。A2/ADは作戦領域に敵が進入することを阻止し、また作戦領域に進入した敵の活動を拒否することをいいます。
つまり、中国は台湾をはじめとする東アジア地域の戦略要点に米軍部隊が接近することができない状況を創出することに取り組んでいるのです。

この軍事的脅威を受けて米国は確証接近(Assured Access, AA)という対抗戦略を打ち出しましたが、国内の政治情勢が国防予算の増額を抑制する方向に作用しているため、戦略に十分な実効性が伴うのか疑問が残されています(米国が直面する国防予算の限界を受けて、オフショア・コントロールを主張する研究も一部で出されていることは以前にも紹介した通りです)。

こうした安全保障環境の変化の中で、中国が採用したA2/ADを日本でも採用できないかという議論が出されています。今回は、日本版A2/ADの実効性について考察した論文の要点を紹介したいと思います。

文献紹介
永岩俊道「米国の対中軍事戦略と日本の対応―日本版「接近阻止・領域拒否戦略」体制の構築―」『国際安全保障』第41巻、第1号、2013年6月、60-72頁

中国は長期的観点からA2/AD戦略を展開している
戦闘訓練のために離陸する中国空軍の戦闘機J-11。
2015年末の時点で95機が配備され、防空任務等の目的で使用されている。
中国の戦略の源流として著者は毛沢東が1938年に『遊撃戦論』の中で展開し、鄧小平によって再解釈された戦略思想に着目しており、その基本的な特徴を次のように説明しています。
「その戦略思想は彼我の戦力比が味方に不利な段階では戦略的防御を意味する「韜光養晦(とうこうようかい)」を基本とする。つまり、能力を隠し、力を蓄えることを堅持し、将来の好機に備える。彼我の戦力比が改善されてほぼ拮抗状態になった場合には、戦略的対峙へと進み、「堅持韜光養晦、積極有所作為」へと移行する」(永岩、61頁)
さらに著者は、中国は最終的に戦力比が味方に有利になれば、戦略的反攻に移行し、当該地域での覇権を確立することを目指すとも述べています。
興味深いのは中国の戦略が単に一局面における戦力運用の問題だけを考えるものではなく、より長期的、将来的な視点に立っているという指摘です。中国は自国が相対的に弱者であり、米国と正面から戦っても勝てないことをよく理解しており、その上でA2/ADのような構想を打ち出してきているのです。

このことからも、中国のA2/AD戦略が単に米国の接近を一時的に食い止めることに終始するものではなく、より長期的観点に基づいて、米国の軍事的優位を脅かす意図があると考えなければなりません。
著者は中国軍の近代化の状況を見ても1991年の湾岸戦争を一つの契機として国防予算を継続的に増額させてきたことにも言及しており、中国が軍備を近代化させる取り組みが長期的な展望に立っていることを示しています(同上、62頁)。

東シナ海正面において日本版A2/AD戦略を準備
2013年の演習の際にF-15Jに搭乗する航空自衛隊の操縦士。
2015年末の時点で201機が運用されており、配備数としては空自で最も数が多い戦闘機。
著者は尖閣諸島を含む南西地域が中国軍の海洋進出を阻む障害として重要性を持つという判断に基づいて、「日本版A2/AD戦略」を実施するために自衛隊の戦力を活用することを主張しています。
その具体的な構想として以下のように説明がなされています。

(1)南西諸島域に堅固な海上・航空優勢領域を構築
(2)第一列島線以内に所在する中国海空戦力に対するスタンドオフ攻撃能力を自ら整備
(3)第二砲兵の弾道ミサイルおよび巡航ミサイル攻撃等に対し残存性、継戦性を高め、作戦基盤を堅固にするとともに戦力の適切な分散体制を確立
(4)南西諸島には堅固な作戦基盤を複数確保し、所要の陸海空自衛隊を事前配備(同上、67頁)

これは第二次安倍内閣で策定された「防衛計画の大綱」の内容に非常に近い戦略構想ではあります。特に航空優勢と海上優勢を南西地域に確立する重要性については、複数の研究が同じ見解を示しています。

ただし特異な事項として「第一列島線以内に所在する中国海空戦力に対するスタンドオフ攻撃能力を自ら整備」が盛り込まれていることが挙げられます。
この「スタンドオフ攻撃能力」が具体的にどの程度の射程を有する武器のことを指しているのかにもよりますが、著者としては東シナ海に展開し、活動している中国軍の海上、航空部隊を積極的に自衛隊として捕捉し、攻撃を加える能力を保持すべき、と考えています。

中国の領域を脅かさない限度で攻撃的能力を整備
中国海軍のミサイル駆逐艦「珠海」、排水量が3,670t、最大速力は35kn。
「日本版A2/AD」を掲げていますが、この論文で著者は日本が中国と同じ戦略を採用すればよいという単純な主張をしているわけではありません。
なぜなら、A2/ADという戦略構想を準備するためには従来の専守防衛の考え方のままでは限界が生じてくるためです。著者が強調しているのは、むしろその問題点の方です。

著者は中国の領土または領海に対する攻撃は行うべきではない、という姿勢を明らかにした上で、東シナ海においては一定程度の攻撃的能力を自衛隊が保持すべきと考えました。
「中国同様、日本も攻防兼備の能力を確保する。かつては専ら侵略的装備品と見なされた遠距離攻撃兵器や空母ですら、中国は自らのA2/AD戦略のために整備している。日本の場合、原則として中国の領空・領海いないへの攻撃は企図しないことを言明しつつ、第一列島線内の緊要な領域で機能できる攻防兼備の能力を確保し、必要に応じ迅速に対応する」(同上、68頁)
これは、それまで専守防衛の姿勢にそぐわないと見なしてきた防衛装備品であっても、攻撃と防御の両面でバランスよく戦闘力を発揮する必要も考えられるため、今後はそれを取得することも検討すべきという考え方です。(同上、64-5頁)。
中国の領土、領海、領空に対する脅威を脅かさないことを一つの限度としてはいるものの、これは自衛隊のそれまでの戦略を大きく見直す必要があることを指摘したものとして注目すべき内容といえるでしょう。

中国に対抗できる日米防衛協力のあり方
日本が構築すべき防衛体制が従来の路線の延長であってはならないという立場に立つ著者ですが、その考え方は日米防衛協力の将来像に関する考察でも表れています。
まず日米共同作戦の考え方として著者は「日米はその堅固な作戦基盤を根拠に第一列島線領域付近における作戦の主導権を確保する。その際、敵防空網を突破できる複数の回廊を確保しつつ、敵縦深部のA2/AD防御態勢の無力化を追求できる統合共同作戦態勢を整備する」と述べています(同上、68頁)。
これはエアシー・バトル構想で予定された米軍による中国本土に対する攻撃の可能性が想定されたものといえます。

その役割分担に関しては同盟の片務性に関する見直しをはじめ、グレーゾーン事態における対応を詳細に検討し、「日米防衛協力の指針」の改訂により、自衛隊と米軍の協力をより緊密なものとする必要が述べられています。
こうした一連の議論で著者が目指しているのは、米国がその厳しい財政状況により単独で所要の防衛体制を確立することができない分、それを強化された自衛隊の能力で補完し、東アジア地域の安定を確保するということです(同上、69頁)。
従来のような受け身の日米同盟ではなく、日本が積極的に地域の勢力関係に関わっていくことがここでは意図されているのです。

むすびにかえて
この記事では日本のことが中心となりましたが、著者は元空将であることもあり、この論文では中国の軍備の近代化の状況や米国の戦略に関しても細かな検討が読み取れます。

中国が直ちに日本に対して軍事行動を起こし、大規模な武力紛争が発生するという可能性は依然として小さいと著者は見積っていますが、引き続き不意の軍事衝突から大規模な紛争へと事態が拡大する恐れがあるとも認めています(同上)。
この安全保障上の課題に対応するに当たって、日米同盟だけを頼りにすることは必要なことであるが、日本自身の安全保障体制を整えてこそ日米両国の同盟がより一層強固なものとなるという著者の考え方は、原則論ではありますが非常に重要だと思います。

ただし、この原則論をもって日本版A2/AD戦略を受け入れるべきかどうかは、さらに議論されるべき論点だと私は考えます。
確かにA2/AD戦略を日本として採用すれば、それは中国のA2/AD戦略にとって新たな障害となるかもしれませんが、それは具体的にどのような武器体系をどの程度の規模保有することにより実現されるのかは必ずしも明確ではありませんし、また国民の理解が得られるのかどうかという問題もあります。

戦略の選択は究極的には政策、政治上の意思決定に従属する問題です。この論文で提起された議論を受けて、日本がどのような防衛力を保有するべきなのか、改めて国民的な議論が求められると思います。

KT

2016年4月8日金曜日

論文紹介 ローマ帝国の衰退と国家社会主義の限界

ローマ帝国が滅亡に至った原因は研究者の間でも長らく論争が続いてきた研究テーマであり、かつてはキリスト教の誕生を原因と見なす説もありましたが、現在では財政の破綻がローマの存続を不可能にしたのではないかと考えられるようになっています。
これはつまるところ、ローマは5世紀には自らを守るために必要な武器、兵士、要塞、軍船に伴う公的支出に耐えきれなくなり、外部からの軍事的侵攻を許してしまった、という説です。
もしそうだとすれば、なぜローマの財政はそれほど危機的状況に陥ってしまったのでしょうか。

今回は、ローマ帝国の滅亡を引き起こした国家財政の危機を国家社会主義の限界として考察した研究を紹介したいと思います。

論文紹介
Bruce Bartlett. 1994. "How Excessive Government Killed Ancient Rome," Cato Journal, Vol. 14, No. 2(Fall 1994), pp. 287-303.

初期におけるローマ帝国の自由放任
アウグストゥス(前63-14年)ローマ帝国初代皇帝。
常備軍を設置し、親衛隊を創設するなどの軍制改革をはじめ、税制と通貨の改革、都市設備の大規模な改修などの事業に取り組み、その後のローマ帝国の基礎を整えたことで高く評価されている。
この論文の特徴は、ローマ帝国の衰退を国家社会主義体制の限界と結びつけて説明している点にあります。ローマ帝国の歴史は初代皇帝アウグストゥスが即位した前27年に始まりますが、当時のローマでは政治権力の集中が強化されたにもかかわらず、経済的自由は拡大される傾向が続いていました。

アウグストゥスはローマで民間部門の成長を促進するため規制緩和に取り組み、またローマで続いてきた徴税請負人に特定地域から物納で税を取り立てる権利を売却するタックス・ファーミングを廃止し、貨幣による徴税に切り替えました(Bartlett 1994: 288)。
エジプトの事例のように、経済的自由がローマ帝国の全土で確保されていたわけではありませんでしたが、銀行業の規制緩和によって多くの銀行が設立され、それに伴って民間事業が拡大したことはローマの経済成長を大いに推進することになったと考えられています(Ibid.: 289)。

また、徴税権の競売を廃止したことで、徴税請負人が税務に介入する余地をなくし、税制の公平性を確保することができましたが(Ibid.: 291)。これは通貨の安定が確保されている限りにおいては成長を促進しましたが、通貨の安定が失われたならば大きな経済的危機に繋がる恐れがありました。

国家社会主義体制への移行
ディオクレティアヌス(244-311年)一兵卒から親衛隊隊長にまで出世し、軍部の支持でローマ皇帝に即位した。
インフレ対策のため国家による物価統制を目的とした価格統制令を発令したことでも知られている。
皇帝トラヤヌス(在位98-117年)の時代までにローマの勢力圏は着実に拡大を続けていましたが、これ以降のローマは軍事力で領土を拡張し、歳入を増加させる政策に限界が来たと判断するようになります(Ibid.: 293)。この時期からローマ帝国は厳しい財政運営が求められるようになりました。

当時、ローマの通貨には金貨アウレウス、銀貨デナリウス、青銅貨セステルティウスなどが使用されていましたが、ローマ帝国では財政運営に必要な通貨を確保するため、これら通貨に含まれる貴金属の含有率を減らすという通貨の改悪が繰り返され、これがインフレーションの問題を引き起こす結果に繋がりました(Ibid.: 294)。

一部には高く評価する見解もありますが、皇帝ディオクレティアヌス(244-311年)の物価統制令はローマの国家社会主義経済への移行と決定づけ、しかもローマ経済の混迷をより深刻なものにしたといえます。
ディオクレティアヌスはインフレ対策のため生活必需品の価格を厳格に統制し、公定価格以外で商品を売買した者を死刑に処すとしましたが、この法令によって市場から商品が一掃されてしまいました(Ibid.: 297-8)。インフレに苦しんでいたローマ市民ですが、必需品が入手できなくなると、その不満をさらに高めました。

しかも悪いことに、ローマ経済の中枢を担ってきた多くのローマの事業主が経営環境の悪化を理由に廃業し、土地を離れ始めてしまいます。こうした経済の縮小に伴う歳入の減少を食い止めるため、ディオクレティアヌスはさまざまな産業を国有化し、また増税も繰り返し行われました。その結果、従来の二倍にまで市民の税負担が膨張し(Ibid.: 299)、多くの中産階級を没落させてしまったのです。

市民から見放されたローマ帝国
ゲルマン人の集会を描いた様子。4世紀以降にゲルマン人は欧州各地で勢力を拡大した。
東西に二分した後、西ローマ帝国は476年にゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされた。
アウグストゥスが構築した国家体制は、ディオクレティアヌスの時代に国家社会主義へ変容しましたが、結果としてディオクレティアヌスはインフレーションの問題を根本から解決することには失敗しました。この失敗はローマ経済を崩壊に導いたと著者は考えており、ローマの軍事力の低下が蛮族による侵略を招いたことについて次のように説明されています。
「最終的に、(ローマには)軍隊、要塞、軍船建造、国境警備などに支出する通貨がなかった。5世紀にローマ帝国に最後の一撃を加えた蛮族の侵略は、国家が自らを防衛する上で必要な財政力を3世紀にわたって低下させてきたことの表れでしかなかった。事実、多くのローマ人は煩わしい税負担からの救世主として蛮族を歓迎したのである」(Ibid.: 301)
この論文の結論として、著者はローマの没落が根本的には「過剰な課税、インフレーション、過大な規制」と述べており、これらがローマの中流階級を下流階級へと没落させた重大性を次のように強調しています。
「税率を引き上げれば引き上げるほど、歳入の改善は難しくなっていった。これは、上流階級の納税者は巧妙にそのような課税から逃れることができたものの、中流階級――そしてその納税能力――は根絶やしにされてしまったためである」(Ibid.)
兵士を雇う金が残されていないとしても、著者が示唆するようにローマに中流階級さえ残っていれば、ゲルマン人に対するローマ帝国の対応はまた違ったものになっていたかもしれません。
かつてのローマのように、市民は自らの財産を守るために武器を取り、戦場で粘り強く戦うことができたかもしれないためです。しかし、最後のローマに残されたのは、自分で武装するだけの経済的余力もない下流階級と、自分で武器をとることを知らない上流階級だけであり、多くがローマの将来を見限っていました。

むすびにかえて
この論文で著者はローマの滅亡を経済運営の知識を欠いた指導者による国家社会主義の限界によって説明しています。
領土拡張の限界、通貨の改悪、物価の統制、経済の縮小というローマの衰退のプロセスは現代の国家の置かれている政治情勢と大きく異なっていますが、ディオクレティアヌスが実施した価格統制令の事例は、短期的視野に基づき、十分な研究もなく、限られた知識で決定された政策が、国家にどれほど大きな損害をもたらすのかを示しました。

無論、この論文だけでローマの滅亡がすべて説明されるわけではありませんが、ソ連崩壊の原因を考える上でローマの歴史が参考になることを示唆している点は興味深いと思います。

KT

2016年4月7日木曜日

攻撃だけが戦車の仕事ではない

戦車という装備は、その速度を発揮して敵に迅速な攻撃を行う場合にこそ適しており、防御に回るとその能力を十分に発揮できないという考え方は、結局のところは間違っているのですが、普通の人からすれば説得力がないともいえません。
戦車の優位が優れた路外での運動性能にあることは事実ですし、そもそも陣地防御を行う場合に戦車がどのような要領で敵と交戦しているのかをイメージしずらいところがあるからかもしれません。

これまでにも戦術研究の観点から戦車小隊の運用方法に関して何回か取り上げていますが(戦車小隊の戦術とその隊形敵の戦車を側面から射つためには)、今回は陣地防御における戦車の戦術に関して説明します。戦車が陣地防御においても適切に運用すれば大きな戦果を上げることができるということを知って頂くきっかけとなればと思います。

陣地防御における戦車小隊の基本動作
戦闘陣地に展開した戦車小隊の各車両の射線は敵が接近の際に使用する経路を把握しておくだけでなく、小隊長においては車両ごとにどの目標を射撃するのかを予め指示しておくことで与えられた火力を最大限に敵に対して発揮できる。
(FM17-15: 105)
防御の本質は敵の攻撃を破砕することにあるため、必然的に防御に回る戦車小隊の車両はそれぞれ陣地で敵を待ち受ける態勢となります。
ただし、敵との交戦が始まると各車両は当初の陣地に止まり続けて戦うのではなく、事前に指定しておいた戦闘陣地へと移動を続けながら各要点で敵に射撃を加え続けるのです。
戦車小隊は通常だと4両で編成されていますが、こうした陣地転換の際には2両ずつ交互に敵を制圧しつつ移動を行うことで安全を確保することは、攻撃の交互躍進の要領の応用となります。

戦闘陣地でハル・ダウンとタレット・ダウンを使い分ける
しかし、戦車が陣地に配置されているからといって安心するわけにはいきません。戦闘陣地で戦車が射撃している際には、ハル・ダウン(Hull-down)という姿勢で射撃を行っています。
ハル・ダウンは戦車が射撃のために上部の砲塔部分を稜線から乗り出して暴露させているため、敵の射撃を受ける危険があります。もしハル・ダウンの位置に車両を前進させるとしても、その位置を占める時間を最小限にするように各車長、小隊長は留意する必要があります。
戦闘陣地では車長が完全に身を隠す状態、タレット・ダウン、ハル・ダウンを選択できる。
図の左側がハル・ダウンの位置であり、その右がタレット・ダウン、最も右側で戦車全体が障害に掩護されている。
(Ibid.: 110)
安全のために稜線の後ろへ後退すると、各車両は敵の所在を確認できなくなります。
そこで、射撃の前に敵情を確認したい場合には、各車両はタレット・ダウン(Turret-down)の位置まで前進することもできます。
タレット・ダウンでは戦車の最上部にあるキューポラ(車長が周囲の状況を確認するための展望塔)だけを露出させることで、車長が前方の敵情を確認することが可能です。タレット・ダウンであれば、ハル・ダウンよりも被害を受ける危険は遥かに小さくすることができます。

ただし、タレット・ダウンに危険がないというわけではありません。ハル・ダウンと同じようにタレット・ダウンも稜線から車体を暴露させることには変わりありません。
それゆえ戦車長は背後の地形に気を配る必要が出てきます。ハル・ダウンやタレット・ダウンが危険な理由は、稜線を超えて車体を敵に暴露しているだけでなく、空際線に乗り出してしまう状態であり、非常に目立ってしまうことと関係しています。

ハル・ダウンやタレット・ダウンで空際線に車体を乗り出させないためには、車両の背後に何かしらの地形があり、車体の輪郭線が空際線に重ならないことが必要です。そのような場所に戦闘陣地を設定するだけでも、敵からは発見しにくくなり、味方が敵の射撃を受ける危険も減少するのです。
空際線に車体を乗り出す場合と乗り出さない場合では視認性が大きく異なるため、車両の背後がどのような地形になっているのかを理解し、敵からどのように味方が見えているのかを注意しておくことが必要となる。
(Ibid.: 119)
敵を陣地正面に引き付け、効果的な逆襲を加える
敵の攻撃を陣地で待ち構えるだけが陣地防御ではありません。陣地防御の趣旨は敵の攻撃を破砕することですので、所定の陣地で戦い続けるだけでなく、適切な逆襲を加えることも陣地防御の重要な一部として理解しなければなりません。
2個の戦車小隊が防御陣地の正面で敵を引き付けて置き、予備で敵の側面に射撃を加える逆襲の一例。
(Ibid.: 125)
この図で示しているのは味方の一部で敵の側面に射撃を加えさせる逆襲の一例です。
戦闘陣地に配置された2個の戦車小隊が敵の部隊に対して射撃を加え、敵が自在に移動できなくなっているところを、予備として拘置しておいた戦車小隊を側面へと回り込ませることで側面から射撃を加えています。
ただし、逆襲で陣地転換を行う際には敵に察知されない経路を前進しなければなりません。

攻撃と防御の両方で戦車は真価を発揮できる
戦車は移動、射撃、防護、通信といった機能を備えた武器体系であり、適切に運用すれば攻撃と防御の両面で活用することができます。

機甲戦の研究で有名なフラー(J. F. C. Fuller)はかつて戦車が戦術に与えた影響を説明する際に、「第一に、戦車は機械力で筋力を置き換えることで運動性を向上させ、第二に弾丸を跳ね返す装甲を用いることで安全性を向上させ、第三に兵士が自分の武器を運搬することから解放することで攻撃力を向上させた」と述べたことがあります(Fuller 1936)。
フラーが述べた通り、陸上戦闘における戦車の優位は複合的な性格のものであり、特定の状況でのみ発揮される性質のものではありません。

武器が持っている価値はその運用方法によって左右される部分が小さくなく、戦車の真価もまた技術的観点だけでなく、それが戦場でいかに運用されるのかという戦術的観点から判断しなければならないでしょう。

KT

参考文献
Fuller, J. F. C. 1936. Memoirs of an Unconventional Soldier, London: I. Nicholson and Watson.
U.S. Department of the Army. 1996. Field Manual 17-15: Tank Platoon, Washington, D.C.: U.S. Governmental Printing Office.

2016年4月3日日曜日

論文紹介 オフショア・コントロール(Offshore Control)とは何か、日本の視点から

中国が接近阻止/領域拒否の能力を強化していることを受けて、エアシー・バトルという構想で米国はこれに対抗すべきという議論が研究者の間で議論されたことは、以前の記事で説明した通りです。
しかし、最近の戦略論争ではエアシー・バトルの構想に対して批判的立場を取る研究者も少なくなく、近年の米国国内の政治情勢が国防予算の増額を妨げている以上、より現実的な戦略を策定する必要があるという論調が見られます。

今回は、このエアシー・バトルの代替案となる戦略としてオフショア・コントロール(Offshore Control)の実効性を主張した研究の要点を紹介したいと思います。

文献情報
Hammes, Thomas X. 2012. "Offshore Control: A Proposed Strategy for an Unlikely Conflict," Strategic Forum, National Defense University, SF No. 278, (June), pp. 1- 16. http://www.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a577602.pdf (Accessed, 2016 Feb. 4)

中国が核保有国である事実は見過ごせない
エアシー・バトルとオフショア・コントロールの違いとして興味深いのは、オフショア・コントロールが米中間で核のエスカレーションが発生する危険をより重視している点です。
中国は核保有国であり、弾道ミサイル攻撃を行う能力があるのですから、政治的決断が下されれば通常兵器による戦争を核兵器による戦争へと移行させることが理論上は可能です。

したがって、米国が対中戦略を考える際には、以下のような想定を置くことが必要であると著者は論じています。

前提(1)中国の側が紛争を開始する。
前提(2)中国との紛争は長期化する。
前提(3)米中の大規模紛争は世界経済に甚大な損害を与える。
前提(4)米国は中国の核使用に関する意思決定過程を理解していない。
前提(5)宇宙及びサイバー空間では第一撃が大きな優位性をもたらす(Hammes 2012: 3-4)。

これらの想定を踏まえれば、米国が中国を全面的に攻撃するような戦略は実行不可能です。
中国軍で核兵器がどのように運用されるのかを熟知していれば、核のエスカレーションを管理することも可能かもしれませんが、そのような情報は最高機密の扱いであり、米国としてこれを完全に把握できている保証はありません。

対中戦略の研究において核戦争の可能性を軽視するようなことは適切ではありません。著者は「中国の装備品を攻撃する方法は、中国が持つ核の能力によって制限されることを米国は受け入れなければならない」と著者は述べています(Ibid.: 4)。

予算内で米軍に実行可能な戦略は海上封鎖である
もう一つ考えるべきは、最近の米国の政治情勢で歳出の増加は現実的ではなくなっているということです。どのような戦略であれ、その計画を予算化して実効性を確保できなければ、現実に意味を持ちません。
現在の米国の歳出削減の動きから考えれば、著者は少なくとも紛争が開始された時点において限られた装備品で実行できる戦略を組み立てておく必要があると考えました。

オフショア・コントロールはこうした情勢判断に基づいて組み立てられた戦略であり、中国を遠方から封鎖するというのがその基本的な構想です。
「それ(オフショア・コントロール)は第一列島線の内側の海域を利用することを拒否し、第一列島線の海域と空域を防衛し、第一列島線の外側の空域と海域で優位に立つという多層的構造を確立するものである。中国の空域に進出する作戦は行わない。この進出の禁止は、核のエスカレーションの確率を低下させ、戦争をより容易に終結に導くことを意図したものである」(Ibid.: 4)
東シナ海と南シナ海に沿った線が第一列島線、東京からグアム、ミクロネシアに至る線が第二列島線。
より詳細にこの戦略の特徴を見ていくと、著者は第一列島線の内側つまり東シナ海に展開されるのは第一に潜水艦、機雷、そして小規模な航空兵力であると述べています(Ibid.)。
これらの兵力は中国が海上交通路を利用できなくさせ、海上封鎖を直接的に行う部隊に位置付けられます。

さらに第一列島線上の防衛では米軍の各種装備をもって当たりますが、この地域で米軍は同盟国とともに中国軍を迎え撃つことができる体制をとります。特に重視されているのは戦力の空白地帯を作らないように間隙なく空軍、海軍の展開に適した陸上基地を設置することであり、そこでは地対空ミサイルと地対艦ミサイル、さらに機雷戦能力を重視します(Ibid.: 5)。

そして第一列島線の外側では中国の経済を支える海上交通路を完全に遮断してしまいます。著者は「中国に輸入される原油の80%がマラッカ海峡を通過する。もしマラッカ海峡、ロンボク海峡、スンダ海峡、そしてオーストラリアの北部と南部の海上交通路を支配すれば、海運を遮断することができる」と分析しています(Ibid.)。これらの海上交通路を失えば中国の経済力は大幅に低下させることができると同時に、軍事力の稼働にも影響を及ぼすことが期待されます。
こうすれば、中国本土を攻撃しなくとも、戦争を終結に導きやすいというのが著者の考えなのです。

予想される中国の対抗戦略のリスクは限定的
オフショア・コントロールに対して中国が取り得る戦略を著者は直接的なものと間接的なものに区分して考察しています。

第一に、中国は平時に行う威嚇を強化する戦略をとる可能性があります。もともとオフショア・コントロールは第一列島線に領土を持つ諸国家との同盟を前提にした戦略であり、特に韓国、日本、オーストラリアとの防衛協力が重要であると指摘されています(Ibid.: 7)。
つまり中国はオフショア・コントロールに対抗するには、米国と直接的に敵対する必要はなく、その同盟国への圧力を強め、戦争に巻き込まれるリスクを見せつけることで、同盟から脱落させることが可能なのです。
さらに、中国が同盟国に対して航空機やミサイルによる攻撃を加えることや、経済制裁による報復措置をとることもまた予測されます(Ibid.)。

第二に、中国はオフショア・コントロールに対抗して世界規模の通商破壊を行うことも戦略的には考えられます。
オフショア・コントロールでは第一列島線を防衛線として重視していますが、中国が潜水艦を増強し、また世界各地に置いた作戦基地を利用できるようにしておけば、そのような防衛線の外側で中国軍の部隊が活動を展開し、米国とその同盟国の海上交通路に脅威を及ぼすことは可能です(Ibid.: 8)。
さらに中国の対応として、無人機による攻撃、宇宙空間、サイバー空間における攻撃、証券市場における米国債の売り浴びせ、また情報戦、心理戦の展開なども予測されますが(Ibid.: 8-9)、著者は基本的にこれらのリスクに対応することはオフショア・コントロールの枠組みで対処可能であると論じています(Ibid.: 7-9)。

東アジア地域における台湾の防衛をどう考えるべきか
このオフショア・コントロールの最も重要な問題の一つは台湾の問題です。台湾防衛の可能性は米中関係の研究で最も長らく研究者が検討を続けてきた論点ですが、著者はこの論点について次のように述べています。
「中国は台湾に対して奇襲的に圧倒的なミサイル攻撃を加える能力を保有する。米軍部隊は台湾軍部隊と行動を共にすることも、台湾に展開することもできない以上、米国が突発的な攻勢を食い止めることも、せめて攻勢を遅らせることもできない。もしこの地域で米国の航空勢力が存在するとしても、移動式発射装置を捜索し、攻撃するために航空戦力が有効ではないことが歴史的経験から明らかである」(Ibid.: 12)
著者は海兵隊員らしい率直さをもって米軍の現戦力で中国のミサイル攻撃から台湾を防衛することはができるとは考えにくいことを認めています。
ただし、対上陸防衛に対しては台湾にも対応できることがあり、特に機雷、対艦ミサイル、潜水艦、防空能力の強化によって中国軍が重視する短期決戦を阻止することは米国の援助があれば実行可能とされています(Ibid.: 13)。

全体としてオフショア・コントロールという戦略の特徴を見ると、米国の歳出削減という制約の中でも実効性が期待されるように工夫された戦略ですが、それと同時に中国との対外関係を悪化させる事態は避けたいという米国の意向を反映した戦略という側面があることも確認されます。
つまり、もし中国が武力攻撃を仕掛けたとしても、米国としては可能な限り速やかに中国と講和に持ち込むことを重視しており、東アジア地域で使用する兵力が過剰に大きくなることを避けようとしているのです。

オフショア・コントロールと日本の防衛
この議論を踏まえて日本が考えるべき安全保障上の論点が少なくとも二つあります。

一つはオフショア・コントロールで中国の軍事行動をはじめとする武力攻撃を抑止し、また必要に応じて対処する上で果たして十分なのかという疑問が残ります。
自衛隊は憲法9条の下で攻撃的能力を持たない専守防衛の戦略方針を採用していますが、これは米軍が自衛隊に代わって攻撃的能力を発揮することを一定程度想定したものです。もし米軍がオフショア・コントロールのような戦略を本格的に採用した場合、自衛隊の態勢を大幅に見直す必要がどれほど出てくるのか、検討しておくことが必要かもしれません。

第二の課題は、中国がこのオフショア・コントロールをどのように認識するのかという点です。
著者は米国のオフショア・コントロールに対する中国の可能行動を検討した上で、中国にできることは必ずしも多くはなく、中国の海上交通路を封鎖しさえすれば、時間をかけて米中対立を軟着陸させることができると見ています。
しかし、もし米国がオフショア・コントロールで中国本土を攻撃しない方針をとると、中国の政策決定者は武力攻撃が失敗したとしても、予想される損害を小さく見積もる危険が出てきます。これは抑止の観点から望ましいことではありません。

結局のところ、東アジア地域で米軍部隊が後退配備をとると、それだけ他の同盟国の部隊が前進配備を取らざるを得ません。そして米国には米国の国益があり、日本の国益のために米国が行動するに違いないと無条件に想定するべきではありません。

大国との同盟に安全保障体制を依拠するすべての国家は、その大国の国内政治の展開によって国家の主権や独立が左右されてしまいます。
絶えず変化する国際政治の世界で生き残るためには、情勢の変化に素早く対応できるように、平素からさまざまな安全保障戦略を研究し、備えておくことを欠かせないことを今一度確認すべきだと思います。

KT

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