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2016年4月16日土曜日

論文紹介 イギリス海軍における戦術の研究史

19世紀にイギリスが達成した世界規模の覇権は、その優れた海軍の能力によって可能となりましたが、イギリス海軍も最初から優れた能力を獲得していたわけではなく、長年にわたる技術的、運用的、戦術的研究の積み重ねによって他国の海軍を圧倒していたのです。

今回は、イギリス海軍の教義がどのように研究されていたのかを戦術的観点から調査した論文を紹介し、その内容について考察してみたいと思います。

文献情報
James J. Tritten. 1994. Doctrine and Fleet Tactics in the Royal Navy, Norfolk: Naval Doctrine Command.

戦闘教義を模索したイギリス海軍
イギリスは四方を海に囲まれていたため、古くから海軍の活動が見られましたが、本格的に海軍としての体制が整備されたのはヘンリー八世(Henry VIII)以降のことでした。
海軍の強化に取り組んだヘンリー八世は当時、海軍の整備が進んでいたスペインからの技術、知識の移転に努力しましたが、戦術研究においてはスペイン人のシャベス(Alonso de Chaves)が刊行した航海、海軍に関する著作を踏まえ、戦闘で風速を測定することや、敵より風上に味方の艦艇の船位を保持させること、また艦砲射撃を活用することなどを定めた訓令を海軍に出しました(Tritten 1994: 1)。

この訓令はイギリス海軍の歴史において海軍戦術の教義を発展させていく重要な一歩となりましたが、当時はイギリス海軍にはスペイン海軍のような大型艦艇が不足していたため、スペインの海軍戦術を取り入れてもそれが直ちに役立ったわけではありませんでした。
実際には艦艇がそれぞれ単独で行動し、武装商船を襲撃するような活動が主体であり、例外として1588年のアルマダの海戦で大規模な海上戦闘を経験することになりましたが、その時もスペイン的な海軍戦術が採用されていたわけではありませんでした(Ibid.)。

イギリス海軍が独自の教義を確立するためには、17世紀の英蘭戦争を経験し、さらに戦術の研究が発展する必要がありました。
イギリスで権力を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は、通商権益をめぐるオランダとの武力紛争で積極的にオランダの船団を襲撃するようにイギリス海軍の作戦を指導しましたが、当時、イギリス海軍において大規模な海上戦闘に勝利するための戦術をさらに研究する必要に直面しました(Ibid.: 2)。
そこで、当時の艦砲射撃の精度を踏まえた舷側斉射で交戦するようにし、また多数の艦艇を合理的に機動させるために一定の戦闘陣を維持して行う方法も取り入れられるようになっていきました(Ibid.)。
クロムウェルの時代における改革を踏まえて、1653年に議会は航海と海戦に関する訓令を組み合わせた教義を議決するに至り、ここにイギリス海軍の教義が明文化されたのです(Ibid.)。

戦闘教令の改訂を通じたイギリス海軍の戦術的発達
英蘭戦争で導入されたイギリス海軍の教義は非常に厳密な規定であったため、英蘭戦争が終結した後、戦闘教令の改訂が1678年、1688年、1690年、1691年、1695年、1702年、1703年という頻度で行われ(Ibid.: 3)、この一連の改訂によって制限されていた艦艇の艦長の権限の範囲が拡大されました。この改訂によりイギリス海軍の戦術はより幅広い視野から研究がなされるようになります。

ルイ十四世の拡張政策に周辺諸国が対抗したアウクスブルク同盟戦争(1688-1697年)においては、イギリス海軍は数的に優勢なフランス海軍と対決することになりましたが、当時のイギリス海軍はオランダ海軍と連携しながら、敵と直接交戦することを避け、「牽制艦隊(fleet-in-being)」という戦略姿勢をとりました(Ibid.: 4)。
これは直接的な戦闘を避けて味方の艦艇の損害を抑制しつつ、フランスの海上交通路に間接的に脅威を及ぼす戦略でしたが、これは各艦艇が自在に行動する余地を持たせる戦略であったため、イギリス海軍において研究される戦術の幅を広げていきました。

現代の研究者は当時のイギリス海軍の戦術には二つの大まかな類型が見られると指摘しています。
一つは艦艇が戦闘陣を維持したまま運動して敵を捕捉し、最大限の火力を発揮するように射撃を加える交戦するという戦術であり、もう一つは個々の艦艇が独自の判断に基づいて自在に機動しながら交戦する戦術でした(Ibid.)。
前者は火力の発揮を重視しますが、後者は機動の巧拙を重視するという意味で対照的な戦術的思想であったといえます。どちらの立場をとるにせよ、17世紀以降の研究から戦術的選択がますます複雑化、多様化するようになっていたことが分かります。

イギリス海軍の歴史に名前を残したホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson)は、1805年のトラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊の単縦陣を二列の縦陣で素早く分断し、敵の艦隊が退却できない状態で捕捉撃滅しましたが、これはイギリス海軍が得意とした砲戦能力の高さを最大限に活用し、かつ艦隊の迅速な機動を可能にしたために大きな戦果を上げることができたと考えられました(Ibid.: 14)。
この論文の著者もネルソンの成功は「よい教義を展開することよりもむしろ、よく部隊を訓練すること」にあったと認めていますが(Ibid.: 15)、ネルソンの成功はその後のイギリス海軍における戦術的な考え方に長らく影響を及ぼしました。

新時代の海軍戦術の登場と研究の実証的妥当性の低下
19世紀に蒸気機関が登場したことは、世界中の海軍軍人に新たな戦術の研究に取り組むことを促しました。風向や風速で艦艇の移動が妨げられていた時代には考えられなかった合理的かつ計画的な艦隊運動の方法を数多く検討することができるようになったためです。
現在でも世界的に有名な王立防衛学研究所(Royal United Services Institute for Defence Studies, RUSI)が1831年に創設され、1859年から定期刊行物を出版するようになると、多くの研究者が新時代の海軍戦術の研究に取り組むようになりました(Ibid.: 17)。

興味深いことに、この時代におけるイギリスにおいて展開された戦術の研究の多くが数理的モデルや技術的対応策に関するものであり、ある陣形から別の陣形に移行する際の艦艇の運動や、艦砲射撃の基礎となる射撃理論や射法の研究が主流でした(Ibid.: 19)。
第一次世界大戦が勃発した1914年、イギリス海軍では『大艦隊戦闘序列(Grand Fleet Battle Orders)』という教範が出版されていますが、この内容を承認したジョン・ジェリコー(Earl Jellicoe)は戦艦を中心とする海軍戦術の考え方を重視する立場でした(Ibid.: 20)。
つまり、19世紀における戦術研究を踏まえ、敵に最大限の火力を発揮できることが勝利の条件であり、そのためにはあらゆる艦隊運動が厳密に規定されるべきであり、各艦艇の艦長が独断で行動する余地は極めて限定すべきと考えていたのです(Ibid.: 20-1)。

イギリス海軍にとって不運なことですが、この教範は対水上戦を重視するあまり、当時まだ登場して間もない潜水艦や航空機という新たな海上戦闘の要素を取り入れておらず、1924年、1928年、1929年の改訂でも大きな改善は見られませんでした(Ibid.: 23)。
第二次世界大戦が勃発した1939年に策定した戦闘教令でイギリス海軍は依然として艦隊決戦の重要性を強調しており、航空母艦のような重要な装備を艦隊防空という防御的手段としてのみ有用であると過小評価していました(Ibid.: 24)。

その後のイギリス海軍の教義
イギリス海軍の教義がすでに通用しなくなっていたことは、第二次世界大戦の経験から徐々に明らかになり、次第に戦艦から航空母艦を重視する考え方に変化していきました。しかし、この時期からアメリカ海軍との連合作戦を重視するようになり、戦術研究においてもアメリカ海軍が主導するようになっていきました。
この関係は冷戦期に北大西洋条約機構の下で英米関係の同盟関係が強固なものになってから動かしがたいものとなり、航空母艦の運用に関してもイギリス海軍の教義はアメリカ海軍の教義に強く影響を受けるようになりました(Ibid.: 25-6)。

イギリス海軍では国王の主導の下に当初から戦闘教義の研究が積極的に推進され、全世界の海を支配するまでに海軍の能力を強化することに成功しましたが、時代の流れに応じて戦術の研究を発展させることに失敗し、第二次世界大戦においてその教義の大部分が陳腐化しているという事態に直面しました。
イギリス海軍の歴史からは多くの教訓が引き出されますが、時代の変化に応じて新戦術を研究し、自国の海軍の教義を修正できなければ、軍事的優位は失われるという教訓は特に重要なものであると思われます。
多くの戦闘経験を通じて完成された教義だとしても、それは特定の時代の条件の下でのみ機能し得るものでしかなく、新たな研究によって見直し続けなければ、いずれは役に立たなくなってしまうのです。

KT

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