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2016年4月17日日曜日

事例研究 シチリア遠征の失敗から学べること

ソクラテス(右)とアルキビアデス(左)の関係を描いた絵。
アルキビアデスはソクラテスの下で哲学を学び、ペロポネソス戦争当時はアテナイで最も有力な政治家の一人だったが、国内に政敵も多く、シラクサ遠征の最中にスパルタに亡命することになった。
Jean-Léon Gérôme作
「兵も船も、ことごく失われ、さしもの大軍も故国に帰り着いたものは、数えるほどしかいなかった」
歴史家トゥキディデスがこのように書き記すほど、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)におけるアテナイ軍のシチリア遠征作戦は凄惨な戦いとなりました。

そもそも戦争が勃発した当時のアテナイ指導者だったペリクレスは、敵国スパルタが保有する優勢な陸軍の侵攻を正面から食い止めることは危険と判断し、アテナイ軍として地上で防勢作戦を展開しつつ、優勢なアテナイ海軍をもってスパルタの同盟国に洋上から攻撃を加え、時間をかけて消耗させるという戦略を策定していました。
しかし、長期にわたる籠城でアテナイ市街に疫病が発生すると、それでペリクレスは命を落としてしまい、また想定以上にスパルタとの戦争が長期化したことで、アテナイ市民の間で不満が高まっていました。

このシチリア遠征はアテナイにとって戦況を一変させる一手としてアルキビアデスの主導の下に実施されましたが、結果的にアテナイ軍は多くの兵士を失い、アテナイがペロポネソス戦争に敗北する要因ともなってしまったのです。なぜ、このような事態になってしまったのかを理解するためには、当時の政策過程と作戦指導の関係を知らなければなりません。

アテナイの政治システムとシチリア遠征問題
アテナイの中心部に位置するプニュクスという丘は民会における論壇。
ペロポネソス戦争当時では民衆扇動を行う政治家が複数現れ、それが政策決定を難しくしていたとされている。
当時のアテナイの政治システムは民主制でした。議会に当たる民会では複数の市民が各党各派に分かれており、戦争に関する重要な問題については議論した上で多数決により決定を下していました。
ペリクレスの死後、アテナイの民会で影響力を拡大していた市民は複数いましたが、いずれも市民を扇動して政治力を拡大しようとする傾向があり、歴史家からは扇動政治家(デマゴーゴスdemagogos)と呼ばれていました。その中でも特に有力だった政治家にペリクレスの甥である主戦派のアルキビアデスがおり、彼は和平派のニキアスと激しく対立していました。
前421年にニキアスが主導して締結した講和条約によって当時のアテナイはスパルタとの戦争を中断していましたが、条約で定められた領土返還が進んでいなかったために、アルキビアデスは戦争を再開するべきだと考えていたためです。

アルキビアデスは前415年、シチリア島のアテナイのある同盟国から援軍の要請があったことを受けて、スパルタとの戦争を再開し、シチリアへ遠征軍を派遣すべきことを強く主張します。
アルキビアデスは議会で議員に働き掛け、民会でシチリア遠征軍の派遣に必要な予算案を審議しようとしました。アルキビアデスはシチリア遠征に必要な部隊規模については最小限に見積り、出動を要請する軍船の数は60隻とされていました。

しかし、ニキアスは審議の場でこの作戦を何としても中止に追い込もうと次のように発言し、そもそもシチリア遠征の必要があるのか否かを次のように論じて問題としました。
「今日の民議会は、シケリア(シチリア)への遠征軍出航に際して、われらの行うべき準備の細目を議するために催された。しかしここで私見を述べるならば、われらはまだ、遠征そのものの是非を検討するべき段階にあるのではないかと思う。つまり、船隊派遣がはたしてとるべき道か否か、これを充分に見極めるべきであり、重大な作戦を議するに、かくも軽々しく他国人の甘言に惑わされて思慮を誤り、本来われらの関与するべきではない戦争を始めることがあってはならぬと思う」(下30頁)
しかし、自分に対する支持が広がらず、追い詰められたニキアスは、シチリア遠征軍が任務を遂行するには、さらにその兵力の規模を大規模にすべきであると主張し、市民に遠征軍が直面する問題の深刻さを印象付け、作戦の中止に同意させようとしましたが、これも不発に終わりました。

ところが、民会ではニキアスが主張した大規模な遠征軍の編成については同意し、またアルキビアデスだけに作戦の指揮を委ねるのではなく、ニキアスも指揮官としてこの作戦に参加させること、さらに政治的に対立しているアルキビアデスとニキアスの両者を取り持つため、ラマコスという将軍もこの作戦で指揮をとらせることを決議しました。
こうした政治的妥協の産物としてシチリア遠征作戦は開始されることになったのです。

はじめから破綻していたシチリア遠征の戦略
アテナイからシチリアまでの遠征軍の移動経路。本国からの兵站線が伸びきったため、現地に近い同盟国に基地を置くことが不可欠であったが、遠征軍の規模があまりに大きく同盟国が援助を拒んだことで作戦は行き詰まりを見せた。
シチリアに向けて出発し、海路を進んだ遠征軍は、同盟国のレギウムで足止めされました。
アルキビアデスの計画としては、レギウムで基地を開設し、そこからシチリアへと侵攻する予定だったのですが、アテナイ軍の規模があまりに大規模であったため、レギウム政府はアテナイ軍を城内に受け入れることを拒否したのです。ニキアスの提案が思いがけない形でアルキビアデスの戦略の妨げとなりました。

しかし、アルキビアデスはこのまま帰国すれば自分の政治的影響力が大きく低下することを恐れ、何とか別の方法を見出そうとしました。
そこで、アルキビアデス、ニキアス、ラマコスの三者協議で、アルキビアデスは当初の戦略計画を見直し、シチリアで遠征軍に基地を提供する別の国を探し、現地で十分な体制を整えた後に本格的な作戦を開始するという方針を主張しました。これにニキアスは反対し、アテナイ軍はシチリアで敵のシラクサに一撃を加えたならば直ちに帰国すべきと主張しました。これは軍事的な意味は対してありませんが、本国でニキアスの主張の正しさを裏付ける結果となると期待されましたが、当然アルキビアデスは強く反対しました。
ラマコスは今からシラクサ軍に直接的に攻めかかる戦略を主張しましたが、結局三者の意見はまとまらず、最終的にラマコスはアルキビアデスの案に同意します。

しかし、アテナイ本国からアルキビアデスにとって驚くべき知らせが入ります。アルキビアデスがアテナイ本国で告発されたのです。
遠征軍がアテナイを離れた後で、アルキビアデスの政敵は神を冒とくした容疑でアルキビアデスを告訴する準備を進めていたのです。この告訴を受けてアルキビアデスはアテナイに帰国することは政治的に危険すぎると判断し、敵国のスパルタに亡命してしまいました。またラマコスも戦死したために、シチリア遠征軍の指揮官はこの作戦に反対していたニキアスただ一人になってしまいました。

シラクサに対する攻囲は長期にわたって続きましたが戦果が乏しく、本来であればニキアスは引き返したかったはずですが、この時期になるとニキアスだけが作戦の責任をとることになるため、自分の判断で帰国することは避けたいと考えました。
そこでニキアスはアテナイ本国から帰国命令を引き出そうと大規模な増援を派遣するように要請したのですが、ニキアスの本心とは裏腹に大規模な援軍が実際に送り込まれてしまいました。ニキアスはこれ以上の増援を得てもシチリアで軍事的勝利を得ることは難しいと理解していましたが、本国において自分の政治的影響力が低下することを恐れて撤退を可能な限り遅らせたのです。
こうしている間にもアテナイ軍の戦力は着実に消耗を重ねていき、最終的にはシチリア遠征軍は壊滅的な損害を受けてしまったのです。

シチリア遠征作戦の教訓
アテナイ軍にとってシチリア遠征作戦は大きな失敗でしたが、それを回避することができる機会は一回だけではありませんでした。
ニキアスは民会でアルキビアデスに対する反対工作の一環として部隊規模の拡充を主張し、不必要なまでにシチリア遠征のリスクを大きくしましたし、アルキビアデスは当初の計画が実行不可能になったにもかかわらず、シチリア遠征作戦の全体像を見直すことを拒否しました。アテナイ本国は作戦が進展している最中に指揮官の一人を告訴して亡命させてしまい、ラマコスが戦死した後にニキアスは敗戦の失敗が自分になることを恐れて撤退の決断を下すことができませんでした。

アルキビアデスとニキアスは互いに自らの政治的影響力を拡大することを優先し、軍事的に必要な処置を講じなかったことが、結果として重大な失敗に繋がったのです。
権力をめぐる闘争は政治の本質ですが、重要な政策決定を適切にするためには、権力闘争のレベルが不必要に拡大してはなりません。
当時のアテナイでは民主制が確立されていましたので、政治家には説明責任があり、市民の意向が政策の形成に影響を与えていましたが、政治制度それ自体が優れた政治を確証するわけではないということをシチリア遠征の事例から読み取ることができます。

KT

参考文献
久保正彰訳『トゥーキュディデース 戦史』 全3巻、岩波書店、2014年

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