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2016年4月22日金曜日

論文紹介 戦争で作戦部隊の指揮官がいるべき場所

かなり以前に軍事学について関心を持たれたある方からこうした質問を受けたことがあります。
「昔に比べれば近代の戦争で指揮官の所在は前線から後方に変化したと思うが、それは現場からどの程度離れた場所が適切なのか」
これは非常に複雑な問題であり、作戦指揮に対する考え方や戦況、さらに組織における上官と部下の関係などと関係があります。

今回は、第二次世界大戦の事例を中心に、作戦部隊の指揮官がどこに位置するべきかを考察した研究論文を紹介します。

文献情報
Ware, Howard L., III. 1989. Command Presence: Where Should the Operational Commander be Located on the Modern Battlefield? Monograph, Fort Leavenworth: School of Advanced Military Studies, United States Army Command and General Staff College.

部下の決断を尊重したブラッドレー
この論文は、将来の戦争で作戦の指揮をとる際に、前線からどの程度の距離を置くことが適切なのかを解明することを目的としており、著者は第二次世界大戦で知られる6名の将軍の事例を選び、それぞれが作戦の指揮においてどこにいたのかを比較検討した上で、複数の教訓を抽出しています。

最初に取り上げられているのは、ブラッドレー(Omar N. Bradley)ですが、著者によればブラッドレーは米軍の歴史で最も長い期間にわたり野戦軍の指揮官であり続けた将軍であり、第82師団、第28師団の師団長を歴任した後に、北アフリカで第2軍団の指揮官となり、ノルマンディー上陸侵攻に当たっては第1軍を率い、第二次世界大戦の末期には第12軍集団の指揮をとりました(Ware 1989: 11)。
したがって、戦後には初代統合参謀本部議長にまで上り詰めたブラッドレーは、多くの戦闘経験を持つ熟練の指揮官であったといえますが、彼は次のように自らの指揮官としての考え方を述べたことがあります。
「マーシャル将軍から私は効果的な指揮の秘訣を学んだ。戦争を通じて私は注意深く部下の任務に干渉することを避けた。私が期待したように部下が行動すれば、私は彼にフリーハンドを与えた。部下がためらえば私は彼を助けた。そして部下が失敗すれば、私は彼を励ました」(Ibid.: 11)
こうした指揮のあり方を踏まえながらも、ブラッドレーは部下に仕事を任せきりにしたわけではありませんでした。ブラッドレーは軍集団司令としての時間の多くを司令部の中で費やしていましたが、戦闘の合間には部隊の視察を常態的に行っています(Ibid.: 13)。
西部戦線でドイツ軍が反攻を図って生じたバルジの戦いの際にブラッドレーの司令部の位置は前線からおよそ12マイル(19.3キロメートル)ほどしかありませんでしたが、バルジの戦い以降にブラッドレーは司令部を前線から50マイル(80.4キロメートル)程度の距離を保持するようにしています(Ibid.)。

司令部同士の距離を詰めさせたパットン
米軍で特徴的な将軍の一人とされるパットン(George S. Patton)は、北アフリカで第2軍団を指揮してロンメルと争ったことで有名です。第7軍の指揮をとった際には北フランスで積極的な前進を行い、バルジの戦いでは重要な任務を果たした功績があります。
パットンの指揮官としてのスタンスについては彼自身の言葉で次のようにそれが表現されています。
「各人は適切な範囲で自分自身により指揮をとるようにせよ。目標を達成することに失敗し、また戦史もしくは致命傷を負っていない、いかなる指揮官も自らの任務を完遂をしていない」(Ibid.)
また興味深い特徴としてパットンは自分の部下である指揮官とその参謀長に対して、少なくとも司令部の誰かが毎日前線を視察するようにさせている一方で、決して現場には干渉しないようにとも述べていることです。
「これらの士官の役割は観察することであって、干渉することではない。その専門領域に付け加えるとすれば、彼らは軍事的に重要なこと一切を観察し、報告しなければならない。非難することよりも称賛することが重要であることを忘れてはならない。また部隊の指揮をとる諸君の基本的な任務は自分の眼で見ること、そして個人的な偵察を行う一方で自分の部隊に見られることであることを忘れてはならない」(Ibid.: 14)
前線の視察の意義を重視していたこともあり、司令部の位置関係に関してパットン自身は師団の指揮所まで車両で1時間半以内に到達できる位置にあるべきと明確に規定していました(Ibid.: 15)。

口頭命令による指揮にこだわったモントゴメリー
モントゴメリー(Bernard L. Montgomery)は第一次世界大戦の経験を持つイギリス軍の軍人であり、第二次世界大戦では師団長としてフランスに赴き、エジプトでは軍の司令として指揮をとりました。北フランス地域における重要な戦闘で第21軍集団隷下の第8軍の指揮をとったことが特に有名であり、1945年には第21軍集団司令にも就任しています(Ibid.: 16)。

モントゴメリーの指揮に対する考え方は次のような彼自身の言葉で説明されています。
「それ(司令部)は小規模かつ高度に効率的でなければならず、独自の輸送手段で完全に移動可能であり、また防御の観点から自己完結的でなければならない。それは主に通信、暗号、連絡の参謀、警備の部隊、そして戦況に関して連絡を取り続けるための非常に少数の作戦幕僚から構成される」(Ibid.: 17)
司令部の位置関係に関するモントゴメリーの考え方で特徴的なのは、司令部の機能を戦闘に関するものと後方支援に関するものに区別した上で、司令部の中に兵站と行政に関する機能を明確に位置付けている点です(Ibid.: 18)。モントゴメリーは指揮官としての責務は戦闘と後方支援の両方に及んでいると考え、次のように述べていました。
「戦域において作戦部隊は隷下の司令部に対する訪問という手段によって、口頭で命令を与えることができる場所で指導されなければならない。文書命令によって承認されることはほとんど不必要である。(中略)指揮官は部下に対して口頭命令を下達する方法を知っているべきである。二人として同じ指揮官はおらず、それぞれ異なった取り扱い方が必要となるであろう」(Ibid.: 18)
モントゴメリーが司令部をどこで開設すべきと考えていたのかはそれほど明確ではありませんが、司令部の規模を小規模に抑制して自在に運動できるようにしたこと、また隷下部隊の司令部に容易に赴くことができる場所であるということが推定されます。
ただし、モントゴメリーは後方支援部隊を指揮統制する必要も大きいと考えていたことから、その距離は努めて後方にあったとも考えられます。

機動戦を遂行するため時間の喪失を嫌ったロンメル
ロンメル(Erwin Rommel)は「砂漠の狐」という名前でも知られていることから分かるように、アフリカ軍団の指揮官として有名です。ロンメルは1940年に第7装甲師団の師団長となってから野戦軍指揮官としての才能を発揮するようになり、北アフリカ戦線ではアフリカ軍団、アフリカ装甲軍、アフリカ軍集団の指揮をとりました。

資料が制約されているため、ロンメルが見せた指揮の取り方に関して知ることができるところは必ずしも十分ではありませんが、著者の調査によるとロンメルは一度決心を下せば、ロンメルは直ちに自分の眼で地形を偵察するために前線視察に出かけていたそうです(Ibid.: 20)。
これは部下に偵察を行わせて、その報告を受ける間にかかる時間を短縮するための措置でした。
この間に参謀はロンメルの決心を具体化するための命令の内容を起案し、ロンメルは自分で行った偵察を踏まえ、口頭で命令を部下に下達していたのです(Ibid.)。

ただし、司令部の配置に関してはロンメルは敵の特殊作戦部隊の攻撃に対する安全を確保できる程度の距離を保つ必要があるとも考えていたようであり、おおよそ前線から2キロメートルから10キロメートル程度の場所に司令部を置いていました(Ibid.: 21)。
ただし、司令部は絶えず状況に応じて柔軟に移動することができなければならず、無線通信の装備を充実させていたことも報告されています。
これもロンメルが報告や連絡において時間の浪費を最小限度に抑制することにこだわっていたことを反映するものであり、またロンメルが構想する作戦が機動力を要求するものであることが多かったこととも関係していました(Ibid.: 21-2)。

大規模な戦闘部隊を確実に掌握したマンシュタイン
マンシュタイン(Erich von Manstein)はリデル・ハートから「ドイツで最も優れた将軍」と称賛された指揮官であり、1940年のフランス侵攻、1941年のソ連への侵攻で重要な貢献を果たしたことで知られています。マンシュタインの野戦軍指揮官としての能力が最も発揮されたのは、第56装甲軍団の指揮を取ることになって以降であり、クルスクの戦いでは大きな功績を残しています(Ibid.: 23)。

しかし、マンシュタインが司令部の適切な位置についてどのような考え方を持っていたのかについては不明な点が少なくありません。
著者によれば、マンシュタインは最前線で指揮をとることの重要性について多くの記述を残しているものの、戦術レベルで指揮する場合と、作戦レベルで指揮する場合で指揮の取り方を区別していたようです。つまり、部下の指揮所を訪問することを日常的に欠かさない一方で、野戦軍指揮官としてはブラッドレーのように司令部で多くの時間を過ごしていたようです(Ibid.)。

マンシュタインは部下の軍団司令に対してよく質問を投げかけ、現状としてどのような意図を持っているのか、将来の作戦の展望としてはどのようなものかを確認していました(Ibid.)。
軍集団のような大規模な部隊の指揮をとっていた際には、マンシュタインは100マイル(160キロメートル)以上の距離を置いていたこともあります。

常に戦場を駆け回っていたグデーリアン
第二次世界大戦の歴史でグデーリアン(Heinz Guderian)の名前もよく知られていますが、それは彼がポーランド、フランドル、ロシアでの戦闘で機動力を重視した特徴的な作戦運用を見せたためです。戦時中、グデーリアンは3つの軍団、そして第2装甲軍の指揮に当たっています(Ibid.: 24)。
グデーリアンが指揮官として最も重視していた原則は最前線から指揮をとるというものでした。
「前方へと前進することによって指揮官が先例を作り、隷下の軍団、師団、連隊の指揮官に前進するように垂直的に強制することになる」(Ibid.)
全軍の先頭に立って進むことも辞さないこの考え方もあり、グデーリアンは前線の指揮所で自分の部下に出向くことをよく行っていました。そこではその司令部にある状況図を用いて現状と将来の方針を検討しました(Ibid.: 24-5)。
こうした手法によってグデーリアンは戦場で何が起きているのかを詳細に把握することができましたが、その反面として彼はほとんど司令部を不在にしていました。著者はこのことをグデーリアン自身の一節を引いて紹介しています。
「例えば、スモレンスク付近における決戦の最中にグデーリアンとホトの装甲集団はロシア軍の10個師団と2000両の戦車を完全包囲していた時、装甲集団司令部では22時間にわたってグデーリアンが不在だった」(Ibid.: 25)
グデーリアンが自分の指揮所にいることはほとんどなかったため、独ソ戦においてはグデーリアンの幕僚は無線通信車を2両を含む路外機動力の高い車両を各種運用していたことも指摘されています(Ibid.)。
したがって、グデーリアンにとって指揮所の位置など大した問題ではありませんでした。指揮官は各地で部下の指揮所を訪れ、適時適所から必要と思われる命令を下達すればよいと考えていたのです。

どこに指揮官はいればよいのか
著者は指揮官のそれぞれの特性に応じて指揮の取り方にも変化が生じることに留意しながらも、これらに共通して見られる特徴として以下のようなものがあると論じています。
「彼らはいずれも自分の兵士への道徳的義務について真剣である。部下の兵士に対する表面的な現地を視察するのではなく、前線で直面する試練と苦難を真に理解した有能で勇敢な兵士として部下を見る必要があることを彼らは認識していた。部下の近くに身を置き、あらゆる問題に関して連絡を緊密にし、戦闘の脈動に肌で感じながら、彼らは小さな前線司令部から仕事をしたのである」(Ibid.: 26)
こうした指揮の根本原則があるとしても、これを個別の状況に適用し、指揮所の適切な位置を判断する際にはさまざまな考え方がありえます。そのため、一律に定義することは難しいと著者も認めていますが、結論としては、「前線の状況を掌握する上で支障を来さない範囲内で前線から可能な限り遠くに位置するべき」と説明されています。
つまるところ、情報、通信の条件が悪化するほど指揮所は前線に近く位置しなければなりませんが、その範囲内で可能な限り敵から距離を置くことができる場所が指揮官のいるべき場所ということになります。

この研究は第二次世界大戦の事例に依拠しているため、さらに最近の事例で研究する必要があるかもしれません。というのも、通信技術の発達が著しく、指揮官の置かれる情報環境が大きく変化したためです。
しかし、この研究の価値は依然としてあり、指揮の問題を考える上で非常に有益な比較事例研究であると思います。軍隊だけでなく組織の中で責任ある役職に就いた場合に、部下との距離感をどのように調整すべきかを考える上でも役立つところが少なくないと思います。

KT

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