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2016年4月8日金曜日

論文紹介 ローマ帝国の衰退と国家社会主義の限界

ローマ帝国が滅亡に至った原因は研究者の間でも長らく論争が続いてきた研究テーマであり、かつてはキリスト教の誕生を原因と見なす説もありましたが、現在では財政の破綻がローマの存続を不可能にしたのではないかと考えられるようになっています。
これはつまるところ、ローマは5世紀には自らを守るために必要な武器、兵士、要塞、軍船に伴う公的支出に耐えきれなくなり、外部からの軍事的侵攻を許してしまった、という説です。
もしそうだとすれば、なぜローマの財政はそれほど危機的状況に陥ってしまったのでしょうか。

今回は、ローマ帝国の滅亡を引き起こした国家財政の危機を国家社会主義の限界として考察した研究を紹介したいと思います。

論文紹介
Bruce Bartlett. 1994. "How Excessive Government Killed Ancient Rome," Cato Journal, Vol. 14, No. 2(Fall 1994), pp. 287-303.

初期におけるローマ帝国の自由放任
アウグストゥス(前63-14年)ローマ帝国初代皇帝。
常備軍を設置し、親衛隊を創設するなどの軍制改革をはじめ、税制と通貨の改革、都市設備の大規模な改修などの事業に取り組み、その後のローマ帝国の基礎を整えたことで高く評価されている。
この論文の特徴は、ローマ帝国の衰退を国家社会主義体制の限界と結びつけて説明している点にあります。ローマ帝国の歴史は初代皇帝アウグストゥスが即位した前27年に始まりますが、当時のローマでは政治権力の集中が強化されたにもかかわらず、経済的自由は拡大される傾向が続いていました。

アウグストゥスはローマで民間部門の成長を促進するため規制緩和に取り組み、またローマで続いてきた徴税請負人に特定地域から物納で税を取り立てる権利を売却するタックス・ファーミングを廃止し、貨幣による徴税に切り替えました(Bartlett 1994: 288)。
エジプトの事例のように、経済的自由がローマ帝国の全土で確保されていたわけではありませんでしたが、銀行業の規制緩和によって多くの銀行が設立され、それに伴って民間事業が拡大したことはローマの経済成長を大いに推進することになったと考えられています(Ibid.: 289)。

また、徴税権の競売を廃止したことで、徴税請負人が税務に介入する余地をなくし、税制の公平性を確保することができましたが(Ibid.: 291)。これは通貨の安定が確保されている限りにおいては成長を促進しましたが、通貨の安定が失われたならば大きな経済的危機に繋がる恐れがありました。

国家社会主義体制への移行
ディオクレティアヌス(244-311年)一兵卒から親衛隊隊長にまで出世し、軍部の支持でローマ皇帝に即位した。
インフレ対策のため国家による物価統制を目的とした価格統制令を発令したことでも知られている。
皇帝トラヤヌス(在位98-117年)の時代までにローマの勢力圏は着実に拡大を続けていましたが、これ以降のローマは軍事力で領土を拡張し、歳入を増加させる政策に限界が来たと判断するようになります(Ibid.: 293)。この時期からローマ帝国は厳しい財政運営が求められるようになりました。

当時、ローマの通貨には金貨アウレウス、銀貨デナリウス、青銅貨セステルティウスなどが使用されていましたが、ローマ帝国では財政運営に必要な通貨を確保するため、これら通貨に含まれる貴金属の含有率を減らすという通貨の改悪が繰り返され、これがインフレーションの問題を引き起こす結果に繋がりました(Ibid.: 294)。

一部には高く評価する見解もありますが、皇帝ディオクレティアヌス(244-311年)の物価統制令はローマの国家社会主義経済への移行と決定づけ、しかもローマ経済の混迷をより深刻なものにしたといえます。
ディオクレティアヌスはインフレ対策のため生活必需品の価格を厳格に統制し、公定価格以外で商品を売買した者を死刑に処すとしましたが、この法令によって市場から商品が一掃されてしまいました(Ibid.: 297-8)。インフレに苦しんでいたローマ市民ですが、必需品が入手できなくなると、その不満をさらに高めました。

しかも悪いことに、ローマ経済の中枢を担ってきた多くのローマの事業主が経営環境の悪化を理由に廃業し、土地を離れ始めてしまいます。こうした経済の縮小に伴う歳入の減少を食い止めるため、ディオクレティアヌスはさまざまな産業を国有化し、また増税も繰り返し行われました。その結果、従来の二倍にまで市民の税負担が膨張し(Ibid.: 299)、多くの中産階級を没落させてしまったのです。

市民から見放されたローマ帝国
ゲルマン人の集会を描いた様子。4世紀以降にゲルマン人は欧州各地で勢力を拡大した。
東西に二分した後、西ローマ帝国は476年にゲルマン人のオドアケルによって滅ぼされた。
アウグストゥスが構築した国家体制は、ディオクレティアヌスの時代に国家社会主義へ変容しましたが、結果としてディオクレティアヌスはインフレーションの問題を根本から解決することには失敗しました。この失敗はローマ経済を崩壊に導いたと著者は考えており、ローマの軍事力の低下が蛮族による侵略を招いたことについて次のように説明されています。
「最終的に、(ローマには)軍隊、要塞、軍船建造、国境警備などに支出する通貨がなかった。5世紀にローマ帝国に最後の一撃を加えた蛮族の侵略は、国家が自らを防衛する上で必要な財政力を3世紀にわたって低下させてきたことの表れでしかなかった。事実、多くのローマ人は煩わしい税負担からの救世主として蛮族を歓迎したのである」(Ibid.: 301)
この論文の結論として、著者はローマの没落が根本的には「過剰な課税、インフレーション、過大な規制」と述べており、これらがローマの中流階級を下流階級へと没落させた重大性を次のように強調しています。
「税率を引き上げれば引き上げるほど、歳入の改善は難しくなっていった。これは、上流階級の納税者は巧妙にそのような課税から逃れることができたものの、中流階級――そしてその納税能力――は根絶やしにされてしまったためである」(Ibid.)
兵士を雇う金が残されていないとしても、著者が示唆するようにローマに中流階級さえ残っていれば、ゲルマン人に対するローマ帝国の対応はまた違ったものになっていたかもしれません。
かつてのローマのように、市民は自らの財産を守るために武器を取り、戦場で粘り強く戦うことができたかもしれないためです。しかし、最後のローマに残されたのは、自分で武装するだけの経済的余力もない下流階級と、自分で武器をとることを知らない上流階級だけであり、多くがローマの将来を見限っていました。

むすびにかえて
この論文で著者はローマの滅亡を経済運営の知識を欠いた指導者による国家社会主義の限界によって説明しています。
領土拡張の限界、通貨の改悪、物価の統制、経済の縮小というローマの衰退のプロセスは現代の国家の置かれている政治情勢と大きく異なっていますが、ディオクレティアヌスが実施した価格統制令の事例は、短期的視野に基づき、十分な研究もなく、限られた知識で決定された政策が、国家にどれほど大きな損害をもたらすのかを示しました。

無論、この論文だけでローマの滅亡がすべて説明されるわけではありませんが、ソ連崩壊の原因を考える上でローマの歴史が参考になることを示唆している点は興味深いと思います。

KT

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