最近人気の記事

2016年4月29日金曜日

事例研究 三十年戦争の様相を変えたリシュリューの現状打破

ヨーロッパにとって17世紀は激動の時代でした。16世紀に増加し続けたプロテスタントはカトリックと社会的、政治的な対立を深め、1618年に勃発した三十年戦争はヨーロッパのほぼ全域を巻き込む戦争に拡大しました。

この戦争によってハプスブルク朝は大幅に勢力を低下させることになりましたが、それに対抗する形で台頭したのがフランスでした。
ハプスブルク家の覇権を打破し、フランスが大国へと成長する足掛かりを築けたことは、リシュリュー枢機卿(以下、リシュリュー)の大きな功績です。彼は宗教的な価値観や信条に囚われず、政治的合理性にのみ従ってフランスの政策を指導し、ハプスブルク家の勢力を低下させることに成功しました。

しかし、政治学者の発想からすると、リシュリュー個人の外交的能力がどれほど優れていたとしても、フランスの国力がある程度確保できていないと、大国相手に現状打破を行うことはできないと思われます。
今回は、こうした観点から三十年戦争におけるリシュリューの対外政策を取り上げ、それを可能にした当時のヨーロッパ各国の勢力関係について考察したいと思います。

17世紀のヨーロッパ情勢の概観
1648年の時点におけるヨーロッパ地域の情勢図。
フランス王国(紫色)はスペイン領オランダを始め複数個所での領土に隣接していることが読み取れる。
神聖ローマ帝国の領土はオーストリア(青色)を中心に赤線で囲われているドイツ全域であり、当時の皇帝フェルディナント二世はスペイン王国と同盟関係を構築していたため、フランスは二正面で脅威を受ける態勢にあった。
長らくヨーロッパ地域はカトリックという共通の価値観と普遍性の原則に基づき、神聖ローマ皇帝を中心とする緩やかな政治的連合体を形成していましたが、宗教改革の影響を受けて、各国は次第に神聖ローマ皇帝に対する忠誠を失い始め、分裂と対立の動きを加速させていきました。

神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント二世(1578-1637)はこうした政治情勢でカトリックの復興と自らの勢力を回復を強引に図ろうとしたため、プロテスタントの反発を受け、1618年に事態は武力紛争にまで拡大してしまいました。これが後に三十年戦争と呼ばれる戦争の始まりです。

当初、三十年戦争はドイツ地域を中心にカトリックとプロテスタントの宗教戦争として推移していたのですが、この戦争は次第にヨーロッパ覇権の争奪戦へと様相が変わっていきました。
この戦争様相の変化のきっかけを作り出した国家こそ当時カトリックの立場をとっていたフランスでした。

現状打破を決断したリシュリュー
1624年、フランス国王ルイ十三世の宰相リシュリューは三十年戦争にフランスとして本格的に加わる方針を固めましたが、その政策はフェルディナント二世の期待に反するものでした。それはプロテスタントの立場を取る国家との同盟を締結し、カトリックの立場をとる諸国と敵対する政策だったためです。
アルマン・ジャン・デュ・プレシ、またはリシュリュー枢機卿(1585-1642)
当時、リシュリューが対外政策で特に懸念していたのはスペイン王国と神聖ローマ帝国の勢力がフランスを挟撃する事態であったと考えられています(Kissinger 1994. pp. 59-60)。
もし神聖ローマ帝国とスペイン王国の勢力が同時にフランスに指向されれば、フランス軍は戦力を分散させなければならず、厳しい戦局になることが予想されました。リシュリューにとってカトリックという宗教を共有していることは、国家の安全保障にとって何の優位性もありませんでした。

リシュリューは1624年6月10日にオランダとコンピエーニュ条約を締結し、本格的に神聖ローマ帝国に対する現状打破の動きを本格化させます。
カトリックであるはずのフランスとプロテスタントのオランダとが同盟関係を持ったことは、フェルディナント二世から「裏切り」と見られ、また他のカトリック諸侯もフランスの「裏切り」を非難します。
しかし、その外交的代償には見返りもありました。7月には北欧のスウェーデン、デンマーク、イタリアのサヴォイア、ヴェネツィアがフランスの主導する同盟に加盟します。
このリシュリューの政策によって神聖ローマ帝国は同盟国であったスペインまでの連絡線を失いました。結果として、フランスに加えられていた防衛上の脅威は大幅に緩和されたのです。

ただ、この同盟は後に同盟国間の作戦構想に関する意見の不一致や、同盟内での主導権争いで分裂していくことになるのですが、それはまた別の話です。

フランスの相対的国力の検討
17世紀のヨーロッパで支配的地位にあったハプスブルク家の神聖ローマ帝国に対して現状打破の姿勢を打ち出したフランスですが、なぜフランスはそのような政策をとれたのでしょうか。
以下ではこの疑問を「当時の神聖ローマ帝国はフランスの行動を抑止できなかったのか」という問題に置き換えて考えてみます。

現代の計量経済学の研究に基づいて推計された人口データを参照すると1600年代のヨーロッパ主要地域の人口は次の通りと見積もられています。
  • フランス 人口1850万
  • オーストリア 人口160万
  • チェコスロヴァキア 人口 450万
  • ドイツ 人口1200万
  • オランダ 150万
  • イタリア 人口1050万
  • スペイン 人口680万(Maddison 2007. p. 232)
これらのデータは必ずしも当時の国境線に沿ったものではないため、取り扱いには注意が必要ですが神聖ローマ帝国の支配地域に含まれるオーストリアの160万、チェコスロヴァキアの450万を基本とし、さらにドイツの半分近くを勢力下に置いていたと想定すると、神聖ローマ帝国が支配している人的資源の規模は160万+450万+600万=1210万とフランスの人口より小さく見積られることが分かります。

もし神聖ローマ帝国と同盟関係にあったスペインが支配する本国の680万とイタリア南部、オランダの人的資源があれば、フランスよりも優勢と考えられますが(1210万+680万+1050万×0.5+150万=2565万)、そうでなければ国力の面で対抗することは難しかったはずです。
この計算結果は、リシュリューが1624年の同盟網で神聖ローマ帝国とスペインの間を結ぶ連絡線を遮断したこととも符合します。

以上から、ヨーロッパの覇権争奪戦にフランスが乗り出すことを確実に抑止できるだけの国力を神聖ローマ帝国が単独では持っていなかったという判断が導かれます。
この判断が実際に正しければ、三十年戦争でフランスが見せた現状打破は現代の国際政治の理論で説明可能といえるでしょう。
つまり、神聖ローマ帝国はもはやフランスの現状打破を抑止できるだけの力を持っていなかったということです。

むすびにかえて
リシュリューが思想や宗教にとらわれず、優れた外交的手腕をもってフランスの国家的利益のための政策を最大限追及するために尽力したことは紛れもない事実です。
しかし、リシュリューは観念的な計算に基づいて対外政策を策定していたのではなく、相対的な国力の水準においてフランスが十分相手と対抗できたからこそ、神聖ローマ帝国の覇権に挑戦し、それを成功に導くことができたと考えるべきでしょう。
リシュリューは「論理に基づけば、達成すべき目標とそれを追求するための勢力の間には、互いに幾何学的均衡が保持されていなければならない」と書き残しましたが(Burckhardt, 1970. Vol. 3, p. 61)、そこでも外交で目的を達成するためには具体的、客観的な国力が必要であることが示唆されています。

優れた外交的手腕を発揮したリシュリューの偉大さは間違いありませんが、外交はそれだけで効果を発揮できるものではなく、国家の総合的な国力が背後にあるからこそ、その真価を発揮することができるのです。

KT

参考文献
Carl J. Burchhardt. 1970. Richelieu and His Age, Volumes 3, 1st edition, New York: Harcourt, Brace.(旧版)
Aungus Maddison. 2007. The World Economy: A Millennial Perspective, Development Center Studies, Organisation for Economic Co-Operation and Development.
Henry Kissinger. 1994. Diplomacy, New York: Simon & Schuster.(邦訳、岡崎久彦監訳『外交』全2巻、日本経済新聞社、1996年)

0 件のコメント:

コメントを投稿