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2016年7月22日金曜日

軍人が「人殺し」ではない理由

戦争とは本質的に大量殺戮であると考える人々にとって、第一線で武器を手に戦う兵士が「人殺し」であるということには、疑問の余地がほとんどありません。
しかし、このような単純化に問題があると感じている人は少なくなく、また兵士自身にとっても自分たちの仕事が犯罪のようにレッテル張りされることは不名誉なことです。

ここで問題なのは、このレトリックに反論する方法が、多くの人々にとって明確ではないという点です。
戦場で兵士が任務を遂行するために人命を奪うことはあり得ることであり、それは兵士という職務の重要な一部分を成していることは事実です。
そのため、軍人を「人殺し」と同一視する職業差別的なレトリックであると考える人でさえ、直感的にはそのような物言いが真実の一面を捉えているようにも感じられるのです。だからこそ、これは真剣に取り組まれるべき重要な検討課題と言えます。

今回は道徳的な観点から兵士が「人殺し」ではない理由を明らかにするために、哲学者のマイケル・ウォルツァーの説を紹介し、その意味するところを考えてみたいと思います。

戦争とは他の手段をもってする政治の延長である
軍人を「人殺し」と呼び、その職務を犯罪的行為であるかのように見なすことの最大の問題とは、戦争を個人的な活動と見なしていることにあります。
かつてクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の延長である」と述べましたが、これは戦争が個人の行動に還元できるものではなく、国家を構成する人々が政治権力の下で組織的に武力を行使する活動であることを示しています。

戦争は個人の行為ではなく、国家の行為であることを裏付ける根拠として重要なものに国際法があります。
戦争はルール無用の殺し合いのように見えますが、現実には数多くのルールが存在しており、その多くは慣習法として成立してきたものですが、現代ではその多くが明文化されています。
ウォルツァーはこの点について次のように述べています。
「戦争とは、『二つか、それ以上の集団に、武力による紛争の遂行を同等に認める法的状態』である。そして、われわれの目的とってはより重要なのだが、戦争はまた、実は主権国家のレベルではなく、軍隊は個々の兵士のレベルで同一の許容が含まれている道徳的状態でもある。平等な殺人の権利がなければ、ルールに統制された活動としての戦争は焼失してしまい、それは犯罪と懲罰、邪悪な陰謀と軍事的な法執行によって取って代わられてしまうだろう」(ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』119頁)
ウォルツァーが指摘しているように、軍人はいつでも、どこでも、どのような人でも殺傷してよいというわけではありません。
戦争とは国家が武力を行使することを平等に保証している法的状態であり、その状態において軍人はルールに統制された範囲で武力を行使することが許されているのです。
国内法の下で普通の生活を送る一般市民が知る制度の中で、こうした戦争慣例に似たものはまず見当たりません。
だからこそ、戦争を個人的な活動と見なし、そこで戦う兵士を殺人者とする誤解が生じるのかもしれません。

戦争における戦闘員と非戦闘員の区別
国内で一般市民が誰かを殺害しようとしても、どのような人々を殺害してよいのか、どのような手段を使用してよいのか法的に定められているわけではありません。
しかし、戦争状態において軍人はこうした制約の下で行動しているのです。これが軍人と「人殺し」を区別すべき第二の理由となります。

何か目的を達成するために人を殺傷する行動に出るという点で軍人と「人殺し」は同じと言えるかもしれません。
しかし、軍人はその目的を達成するために行使できる軍事的手段が厳密に制限されます。これは戦闘員と非戦闘員を区別するという戦争慣習によって説明することができます。
「侵略戦争の過程において、兵士が自国の守りについている兵士を撃ったとしよう。通常の銃撃戦だとすれば、これは殺人とは呼ばれない。兵士は戦後、かつての敵からさえも殺人者とはいわれることはない。逆に敵軍の兵士がこちらの兵士を撃った場合も同様である。どちらも犯罪者ではなく、したがって双方とも自衛のための行動をとったと言えるのである。われわれが彼らを犯罪者と呼ぶのは、彼らが非戦闘員や無辜の部外者(民間人)や、負傷したり武装解除された兵士を標的にしたときだけである。もし、投降しようとする者を撃ったり、制圧した町の住民の大量虐殺に加担するなら、われわれは躊躇なく彼らを非難する(または、すべきである)。しかし、彼らが戦争のルールに従って戦う限り、非難することはできない」(同上、262頁)
つまり、軍人は戦争の法規、慣習に基づいて敵の戦闘員を殺傷したとしても、それは敵の戦闘員から自分たちが殺傷される可能性がある中で行われたならば、正当なことである、ということです。
ウォルツァーの議論では省略されていますが、こうした交戦法規をより詳しく見ていくと、さらに多くの制約が戦闘行動を規律していることが分かります。

例えば、ヘーグ陸戦規則(1907年の第4ヘーグ条約)では、交戦者は戦闘の手段を選択するに当たって、無制限の権利を有していないと明記されており、具体的な禁止事項としては毒物を使用すること、背信行為によって欺いて敵を殺傷すること、自衛の手段がなくなって降伏を申し出た敵を殺傷すること、助命しないことを宣言すること、不必要な苦痛を与える武器を使用すること等の記述が盛り込まれています。

とはいえ、ウォルツァーが述べているように、戦争慣習において戦闘員と非戦闘員の区別、そして非戦闘員の保護は極めて重要な要素であり、それは軍人が法的に認められる武力の行使の範囲を規定するものです。
もちろん、現場でこうした制約が全て完全に順守されていると言いたいわけではありません。ここで重要なことは軍人が無法状態の中で好き勝手に武器を振り回しているのではない、ということであり、もし兵士が意図的に非戦闘員を殺傷するような行動を取れば、それは戦争状態においても不正な行為と見なされるということです。

むすびにかえて
以上の議論を踏まえて、軍人が「人殺し」ではない理由としては少なくとも次の二点が挙げられます。

・軍人は個人の選択によって武力を行使しているのではない。軍人は国家の権力の下で武力を行使するのであり、また国家が武力を行使することで遂行される戦争は法的状態であるため、国内で一般市民が自分の判断で他者を殺害することとは同じではない。
・軍人は戦場において戦闘員と非戦闘員を区別しており、あくまでも戦う相手は戦闘能力を持つ戦闘員に厳密に限定されている。それだけでなく、背信行為の禁止や降伏を申し出た敵を保護する等、交戦の手段に関してもさまざまな法的制約が存在しており、戦闘能力を持たない一般市民を対象とする殺人と性質が異なっている。

軍人がその任務を遂行するために武力を行使し、時には人の命を奪うこともあるという現実を覆い隠そうとしているわけではありません。
ここで主張していることは、軍人は「人殺し」からは厳密に区別されるべき理由があるということであって、戦争それ自体の道徳性について判断しているわけではありません。それはあくまでも戦争の問題であって、軍人が「人殺し」と呼ばれるべきかどうかという問題と直接関係しないことです。

最後に、ウォルツァーが職業軍人について次のように述べていることを紹介しておきます。
「職業軍人の中には、戦争慣例に関して、しばしば独特の唱道者が見られる。騎士道は死に、戦いは自由ではなくなったが、職業軍人は彼らの一生の仕事を単なる殺戮から区別するそうした制限や制約への敏感さを維持している(あるいは、彼らの一部は間違いなく維持している)のである」(同上、125頁)
軍人とは、国家の命令に従って戦争を遂行する職業であり、人の命を奪う必要に迫られる場合もあるという道徳的な責任を承知した上で、自分たちの行動が単なる無法な殺人になることを避けなければならないことを知っている人々です。

KT

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参考文献
マイケル・ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』萩原能久監訳、風行社、2008年