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2016年9月1日木曜日

事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか

1938年、ウィーンのホーフブルク宮殿でオーストリア併合を宣言するヒトラー
1938年、オーストリアはドイツに併合されました。歴史的に見れば、この事件はドイツにとってヴェルサイユ体制を打破する一歩となり、チェコスロヴァキア危機に繋がる出来事でした。
しかし、当初オーストリアはヴェルサイユ体制で禁止されていた独墺合邦は回避しようと努力していました。それにもかかわらず、なぜドイツに併合されることになったのでしょうか。

今回は、オーストリア併合の事例に着目し、なぜオーストリアは独立を維持できなくなったのかを政治学の視座から説明してみたいと思います。

イタリアとの友好関係に賭けたオーストリア
エンゲルベルト・ドルフス(1892年 - 1934年)
第一次世界大戦で敗戦国となったオーストリアは、多くの領土を失い、小国の地位に転落しました。そのため、戦間期にオーストリアが第一に重視しなければならなかったのは、国力の不足を補ってくれる同盟相手を見出すことでした。
国内にはドイツとの関係を重視し、独墺合邦(アンシュルス)を目指すべきとする勢力もいましたが、これは戦勝国であるイギリスやフランスから禁じられていました。外交的配慮を重視すれば、北のドイツよりも、南のイタリアとの関係を強化する方がオーストリアの対外政策として望ましいと考えられたのです。

こうして1930年2月、オーストリアはイタリアと友好条約を締結しました。しかし、イタリアとの友好関係を確立するに当たって問題となったのは、ムッソリーニ(Benito Mussolini)がオーストリアにファシスト国家になるように求めてきたことでした。これは当時のイタリアで周辺国をファシスト国家に移行させることを一つの対外政策の目標としていたためです。
イタリアにとって幸いなことに、オーストリアはその後、ファシズムの路線に近づいていきます。
1931年に国内最大のクレディット・アンシャルタルト銀行が倒産し、オーストリアで大規模な金融恐慌が起こると、有権者は現政府に対する不満を募らせることになりました。これはファシズムを支持する有権者の拡大に寄与する要因でした。
ただし、イタリアではなくドイツとの関係を重視するオーストリア・ナチ党も同時に支持を伸ばしつつあったため、オーストリア国内では深刻な対立がもたらされることになりました。

1932年5月に首相に就任したエンゲルベルト・ドルフス(Engelbert Dollfuss, 1892 - 1934)は、イタリアとの関係をあくまでも重視する姿勢を打ち出し、ナチ党と対立する社会民主党を支持基盤として確保していました。さらにドルフスは1933年6月19日にオーストリア・ナチ党を非合法化し、オーストリア国内で親ドイツ派の立場を取る勢力が拡大しないように弾圧を加えます。
しかし、ドルフスの狙いはナチ党の排除というよりも、独裁体制を確立することにありました。
ドルフス政権は次の弾圧の対象を社会民主党として1934年2月11日に実力行使に動きました。部隊を動員し、ウィーン市内の政党の拠点に砲撃を加えたのです。
こうしてドルフスは政権に脅威を及ぼし得る有力な政党を軍事的に排除し、自らの手に権力を集中させることで、イタリアのようなファシスト国家が実現しました。

しかし、社会民主党が排除されている間も、非合法化されたオーストリア・ナチ党はドルフス政権に一撃を加える準備が進められていました。1933年に成立したヒトラー(Adolf Hitler)政権は、この非合法政党を支援することで、オーストリアにイタリア寄りの政権ではなく、ドイツ寄りの政権を打ち立てることを期待していました。
1934年7月25日、オーストリア・ナチ党はついに蜂起し、武力によって首相官邸を占領しました。ドルフースは銃弾に倒れ、出血多量で死亡します。

この蜂起はドイツにとってオーストリアに対する影響力を強化する絶好の機会となりましたが、ここでムッソリーニは迅速にイタリア軍を動員して国境に展開し、オーストリア・ナチ党の権力掌握に断固抵抗する姿勢を明確にしてきました。オーストリアと隣接するユーゴスラヴィアもこの動きに呼応して戦時体制に移行します。
ヒトラーはムッソリーニの圧力を受けて、これ以上のオーストリアへの干渉は危険だと判断し、オーストリア・ナチ党に政権を掌握させることは断念しました。
そのため、オーストリアではキリスト教社会党のシュシュニク(Kurt von Schuschunigg , 1897-1977)が新たに首相に就任することになり、イタリアとの友好関係は引き続き維持されることになりました。
少なくともこの時は、イタリアの支援があったからこそ、オーストリアが独立を維持できたと言えます。

イタリアに見放された後の手詰まり
クルト・シュシュニク(1897-1977)
しかし、その後でオーストリアを待ち受けていたのは厳しい現実でした。
イタリアは次第にオーストリアに対して、ドイツと敵対する姿勢を避け、妥協するように促してきたのです。1936年、シュシュニクは政権を他の政党組織から守るため、祖国戦線民兵を設置して国内での武力闘争のための兵力を整えます。ただし、ドイツとイタリアに対抗しうる勢力としてフランスに支援を求めましたが、これは具体的な成果に結びつきませんでした。

1937年、オーストリア・イタリア首脳会談で、ムッソリーニは以前のような政変がオーストリアで発生しても、今度はイタリア軍として介入しないことをシュシュニクに知らせてきました。
この政策変更は、イタリアがドイツと友好関係の強化に乗り出す必要が増大したことが背景としてありました。
スペインではファシスト勢力が人民戦線政府に対して反乱を起こしていたのですが、イタリアがこれを支援する目的で軍隊を派遣したところ、1937年3月にグアダラハラの戦い、ベリウエガの戦いで大敗を喫しました。これらの軍事的敗北を受けてイタリアの財政は急速に悪化しつつあり、また着実に経済再建と軍備増強を進めているヒトラーに対して、ムッソリーニとしてもこれ以上敵対することは危険だと判断されたのです。

こうして、イタリアはドイツとの関係強化を引き換えにして、オーストリアを見放す決定を下し、ムッソリーニはシュシュニクにドイツとの妥協を模索するよう勧めてきたのです。
ここでオーストリアの対外政策は破綻しました。オーストリアの主権を守ろうとする国はもはやありませんでした。

1938年2月、ヒトラーとの首脳会談においてシュシュニクは正式に完全併合を要求されます。
シュシュニクは帰国後に社会民主党の残存勢力との協議を試みましたが、合意を取りまとめることができませんでした。国民投票の実施によってシュシュニクは状況を打開しようと図りましたが、この方策はヒトラーが許可しませんでした。国民投票で独墺合邦が否決される事態を恐れたためです。
こうして行き詰まったシュシュニク政権を見たオーストリア・ナチ党は、再び武装蜂起に踏み切り、オーストリア国内は混乱状態に陥りました。これを見たヒトラーはドイツ軍に出動を命令します。1938年3月12日、ドイツ軍はオーストリアの国境を越えて進軍しました。

このドイツ軍の進軍はうまくいきました。ミクラス大統領は辞任、シュシュニクは投獄され、オーストリア・ナチ党のザイス・インクヴァルト(Arthur Seyss-Inquart, 1892-1946)が新首相に就任しました。ムッソリーニはドイツがオーストリアを獲得することを認めたために、オーストリアに打つ手はありませんでした。4月10日の国民投票においては併合に賛成する有権者が圧倒的多数を占め、オーストリアはドイツに併合されることが決定されました。この併合によって、ドイツの人口は600万人増加することになりました。

むすびにかえて
オーストリアの対外政策を検討すると、それはバックパッシング(buck-passing)と呼ぶべき特徴を持っていたことが分かります。
バックパッシングを行えば、自国が軍備増強を行う必要はそれほどありません。自国よりも大きな勢力を持つ他国と友好関係、同盟関係を築くことによって、自国に及ぶ脅威をその友好国、同盟国に対応させることが期待されるためです。
しかし、後ろ盾となる国家に裏切られ、見放されると、もはや自国だけではどうしようもなくなる事態になる恐れが常にあります。

結局、バックパッシングは自国に対する防衛負担が小さい分、それだけ見放された時に生じる損害が大きくなる傾向があるのです。オーストリアはまさにこのリスクによって国際社会から消滅しました。
だからといってイタリアが悪いとか、無責任ということを私は言いたいのではありません。イタリア政府がオーストリアを見放すことによってイタリアの国益を増進できると判断すれば、それはイタリア国民から見て支持できる政策であり、また当然の決定なのです。

KT
参考文献
Held, J., ed. 1992. The Columbia History of Eastern Europe in the Twentieth Century, New York: Columbia University Press.
南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(新編世界各国史、第19巻)山川出版社、1999年

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