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2016年11月10日木曜日

事例研究 フランス革命戦争とワシントン政権の対外政策

1783年、アメリカは長い戦いの末にイギリスから独立を勝ち取りましたが、戦後にフランスと結んだ防衛同盟が残っていました。この条約は直ちにアメリカの国益を害するものではありませんでしたが、ヨーロッパ大陸の戦争にアメリカが巻き込まれる危険があるとも考えられました。その懸念は1789年のフランス革命戦争によって現実のものとなり、初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington, 1732-1799)がこの問題に対処することになりました。

今回は、フランス革命戦争に参戦すべきと主張する意見を封じ込め、対英宣戦を回避したワシントンの対外政策の事例について考察してみたいと思います。

当時の関係国の勢力関係
フランス革命の発端、バスティーユ襲撃事件
フランス革命戦争(1789-1798)は、もともとはフランス革命で危機的状況にあったルイ十六世の身の安全を確保しようとプロイセン、オーストリアが部隊を送り込んだことによって始まった干渉戦争でです。1793年、国外への逃亡に失敗したルイ十六世が革命政府によって処刑されると、このフランス革命戦争にイギリスも参戦することになり、結局フランスは一度にイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどを相手に戦わなければならなくなりました。

18世紀末の時点で列強がどの程度の国力を持っていたのかを判断することは容易ではありませんが、軍事力に着目して比較してみると、1789年におけるフランス軍の動員可能な兵力は18万名、イギリス軍は4万名、プロイセン軍は19万名、オーストリア軍は30万名であったという説があります(Corvisier 1979: 113)。
フランス軍については、一連の革命での事件を受けて、士官の地位にあった貴族の多くが亡命していたため、先述した数値からさらに減勢していたと推測されます。ただし、対仏連合軍の勢力の合計は53万名にもなるため、フランス軍の人員が無理やり維持されても、厳しい国際情勢であったと言えるでしょう。

こうしたヨーロッパ情勢であったにもかかわらず、アメリカでフランス革命戦争に参戦すべきという意見が公然と支持されていました。そもそも、アメリカ独立戦争が終結した時点で大陸軍は解散されています。正確な数値を知ることはできませんが、大きく見積もっても当時のアメリカが直ちに動員可能な兵力は1万名程度という状態でした。これだけの兵力でイギリスに宣戦し、英領カナダ方面において攻勢に出るという構想は、単に実行不可能なだけでなく、イギリス海軍の攻撃によって沿岸都市での経済活動や海上貿易に深刻な支障を来す恐れさえありました。

19世紀のフランスの政治思想家であり、アメリカの民主主義に関する研究で知られるトクヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805年-1859年)は、当時のアメリカ市民が対英宣戦に熱狂していたことを次のように評しています。「民主主義が政治において分別よりも感情に従い、長期にわたって練られた計画を捨てて一時の情熱の満足を求める傾向は、フランス革命が勃発したときに、アメリカにはっきり現れた」(邦訳、トクヴィル、一巻(下)109頁)。

軍備なき中立の難しさ
18世紀末から19世紀初頭のアメリカの領土の地図。
フロリダ半島、メキシコ湾の沿岸地帯を含む西部地域がスペインの領土となっており、北方にはイギリスの領土となっている点が特徴であり、国境線の一部では領土紛争が生じていることも確認できる。
フランス革命が起きた1789年にちょうど大統領に就任していたワシントンでしたが、当時はまだ大統領という地位は設置されたばかりで、前例や慣習が確立されておらず、不安定な状態にありました。しかも議会は、それぞれ議員が党の立場によって分断されており、国家体制の在り方についても意見の対立が見られていました。

この議会の分裂は1793年にフランス革命戦争にイギリスが参戦したことを契機として、一層拡大することになります。イギリスとの貿易関係を重視する勢力と、アメリカ独立戦争の勝利に貢献した仏米同盟を重視する勢力との間で対立が生じたのです。しかし、アメリカがイギリスとの戦争を決断することになったとしても、現有戦力で確実に勝利を収めることは戦略的に極めて難しかったため、ワシントンとしてはイギリスに接近し、フランスとの関係を切り捨てる方向で対外政策を調整しなければなりません。

そこでワシントンは「中立的」立場を採用することによって、フランス、イギリスのいずれにも味方しないという政策を表明します。ただし、イギリスへの宣戦を主張する国務長官だったジェファーソン(Thomas Jefferson、1743-1826)の意見を考慮し、声明で「中立」と明言することはせず、「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」と述べるに止めることにしました。こうした妥協的な立場を取ることによって、ワシントンは親仏派の理解を得ながらも、当面の国家の安全を確保しようとしたのです。

しかし、そもそもアメリカが中立の立場を保持したとしても、イギリス領のカナダからは軍事的圧力を受け続けている状態に変わりがなく、ワシントン政権として完全な中立を保つということは困難な状況にありました。そのため、さらにワシントンは踏み込んだ対外政策の転換を準備するため、イギリスと接触し、同盟締結に向けた準備を進めることにしました。

ワシントンによる苦渋の決断
ジョン・ジェイ、合衆国憲法の解釈を論じた著作『ザ・フェデラリスト』の著者の一人
ワシントンは1794年11月19日にイギリスとの間に条約を締結します。この条約は交渉に当たったアメリカの特別使節ジョン・ジェイ(John Jay, 1745-1829)の名前からジェイ条約(Jay Treaty)と呼ばれていますが、これによってアメリカはイギリスと事実上の同盟関係を形成することになりました。アメリカとしてはフランスと戦うイギリス軍の部隊に後方支援で協力することになったのです。

しかし、その条約は同時にアメリカ独立戦争の前にアメリカ商人がイギリス商人に対して負っていた債務を履行することも定める内容も含まれていたこと、さらにフランスを公然と敵に回すことになることから、ワシントン政権に対する国内の不満は一挙に高まることになりました。英米間で事実上の同盟が成立すると、フランス軍もアメリカ船舶を拿捕し始め、外交官である公使の着任も拒否します。1786年11月、ワシントンはついに大統領を2期で辞退することを決めました。

ワシントン政権は独立して日が浅いアメリカを力強く指導したことは確かですが、各種政策の裏付けとなる国力で限界がありました。その影響は特に対外政策に強く表れており、ワシントン政権として国土防衛のためには遠く離れたフランスよりも、カナダに拠点を構えて隣接するイギリスとの関係を重視せざるを得なかったのです。ワシントンは退任の際に次のような声明を残しています。
「我々の隔絶した位置は、ヨーロッパと異なる道を行くことを示し、可能にしてくれる。なぜこの特殊な位置上の利益を捨てる必要があるのだろうか。なぜ自国の有利な土地を捨てて海外へ乗り出すのか。なぜ我々の運命をヨーロッパの一部分の運命と組み合わせ、我々の平和と繁栄をヨーロッパの野心、抗争、利害、つかの間の気分、気まぐれのような苦労に関わることがあるのだろうか。
 世界のどの国家とも恒久的同盟を結ばないでおくことこそ、我々の真の国家政策である」(Richardson 1897: 224)
ジョン・アダムズ(John Adams, 1735-1826)が次の大統領に就任することになりますが、イギリスとの同盟はフランスとの同盟よりもアメリカの国益にとって有利であったと考えられるようになるまでにはさらに時間を要しました。

むすびにかえて
トクヴィルは当時のワシントン政権の対外政策が残した成果について次のように論じています。
「それにも関わらず、フランスに対する民衆の同情は熱烈に表明されたから、もしワシントンの強固な性格とその絶大な人気がなかったならば、英国に対する宣戦布告を妨げることはできなかったかもしれない。しかもなお、同胞の気高くはあるが思慮にかけた情熱に抗して、己の峻厳な理性に従って行ったこの努力のために、この偉大な人物は、彼が唯一進んで手にした報酬であった国民の敬愛を失ったのである。この時国民の多数はワシントンの政策に反対を表明したが、今日すべての国民はこれに賛成している」(邦訳、トクヴィル、一巻(下)109頁)
結局、ワシントンは自国を含む国際社会の勢力関係を正しく判断する政治家でした。だからこそ、アメリカにとって必要な政策はフランスとの同盟に基づいてイギリスと戦うことではなく、イギリスとの同盟を組むことによって、当面の安全を確保することであると考え、その方針を一貫させることにこだわっていました。このワシントン政権の決定は国内から強い反発を受けるものではありましたが、ワシントンとしては大西洋を越えなければ部隊を派遣できないフランス以上に、カナダから部隊を南進させることができるイギリスの方がはるかに深刻な脅威でした。

これは国際関係論の理論、特に勢力均衡の考え方からすれば、バンドワゴニング(bandwagoning)の一事例として片づけることもできますが、それは決して自然の成り行きによって形成された政策ではありませんでした。ワシントンという政治家の的確な情勢判断とリーダーシップがなければ、アメリカはフランスと共にイギリスとの戦争状態に入り、不十分な軍備から自滅する可能性もあったのです。

KT

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参考文献
Corvisier, A. 1979. Armies and Societies in Europe 1494-1789, trans. Abigail T. Siddall, Bloomington: Indiana University Press.
Tocqueville, Alexis de. 1840. De la démocratie en Amérique, Pagnerre.(邦訳、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』全4巻、松本礼二訳、岩波書店、2005年)
Richardson, J. D. 1897. A Compilation of the Messages and Papers of the Presidents, 1789-1897, New York: Bureau of National Literature.

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