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2016年11月16日水曜日

論文紹介 冷戦期にソ連はどのような戦略を持っていたのか

ソ連の戦略を研究することは、冷戦の経過を理解する上で非常に重要な課題として位置付けることができます。
一般的にソ連は得体のしれない超大国として捉えられることも多く、日本においては漠然とした脅威という印象を持たれがちですが、このような見方はソ連の実際の行動や意図を説明する上でほとんど役に立ちません。より重要なことは、冷戦期におけるソ連がその時々の内外の情勢の変化を踏まえて戦略を選択してきたということであり、その変化を捉えることができれば、冷戦期におけるソ連の理解をさらに深めることができるということです。

今回は、冷戦期においてソ連がどのような戦略を持っていたのかを長期的な観点から把握し、その変化について解説を試みた論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
橋野健二「ソ連の軍事ドクトリンと軍事戦略の変遷」佐藤誠三郎編『東西関係の戦略論的分析』第2章、日本国際問題研究所、1990年、36-74頁

スターリンの戦略思想の特徴
ヨシフ・スターリン、ソ連の第2代最高指導者
戦後のソ連の戦略は、まずヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878-1953)の戦略思想に沿って基礎付けられていました。スターリンの戦略思想の特徴としては、(1)銃後の安定、(2)軍の士気、(3)師団の量と質、(4)軍の装備、(5)軍司令官の組織能力、以上の5点を戦争の勝敗を決める「恒常的要因」として重視していたことや、電撃戦の奇襲効果を重視しない傾向があったと著者は紹介しています(同上、38頁)。

しかし、その本質的要素を広い視点で捉えれば、それは当初は防勢作戦を基本としながらも、やがては攻勢に移転し、最終的に敵国を徹底的に殲滅するために逆侵攻を仕掛けるという戦略でした。このような考え方の背景に、マルクス・レーニン主義の思想があったとして次のように説明されています。
「これは平時の対戦準備としては防勢の戦略であるが、いったん敵に攻撃され、戦争状態に入れば、初期の防勢を攻勢に転じ、最終的には昔の領土まで攻め入って、敵をその領土でせん滅するというものであった。この戦略の裏付けとしてスターリンは、資本主義が存在している限り、戦争は不可避であり、社会主義と資本主義との戦争においては必ず資本主義側が敗北、滅亡し、社会主義側が勝利するというマルクスレーニン主義の戦争論を継承していた」(同上)
戦争の長期化を大前提とするスターリンの戦略思想において、核兵器は必ずしも勝利に不可欠な要素というわけではなかったようです。スターリンは核兵器について「原爆は深刻な脅威ではない。それは単に心理的、政治的効果を狙う兵器で、戦争の命運を決する程のものではない」と評価していたことは、そうした見解を裏付けています(同上)。

しかし、スターリンは実際には核開発を初めて推進したソ連の指導者でもあり、この事実は米国に核兵器を独占させることがソ連の国防にとって不利なことであると考えていた可能性を裏付けています。スターリンの戦略思想における核兵器の意義については議論の余地が残るのですが、少なくともソ連の核開発が成果を上げるまでの間、西ヨーロッパ方面に大規模な通常戦力を配備することによって、米国からの敵対行為をソ連として防止する態勢が維持されていました(同上、39頁)。

核兵器に基づく新たな抑止態勢の模索
ニキータ・フルシチョフ、ソ連の第4代の最高指導者
スターリンの死後にはソ連の政策にさまざまな変化が見られましたが、特にニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev,1894–1971)の影響は大きなものがありました。フルシチョフは、それまでソ連で神聖視されていたスターリンに批判を加えたことで知られていますが、戦略の分野においては通常戦力から核戦力に重点を移したことが一つの業績となっています。

このことは1960年1月14日の最高会議におけるフルシチョフの報告演説で表明されており、その内容を要約すると、次の通りになります。
・戦争の不可避性がもはや存在しない
・軍事技術の進歩によってロケット兵器の重要性が高まっている
・現在の戦争の形態が国境侵犯から始まるのではなく、国内の政経中枢に対する短時間のミサイル攻撃で始まる
・ソ連としては戦略兵器であるミサイルを分散展開し、攻撃を受ければ徹底的な報復を加える必要がある
・核戦力を増強する代わりに通常戦力を削減する一環として、ソ連軍の人員を120万名削減し、242万3000名とする(同上、40-41頁)
注目すべきは通常戦力の削減によって、核戦力の比率を高めるという決定です。フルシチョフが示した見解には歴史的な意義があり、それは「敵の奇襲核攻撃に対するソ連報復核戦力の生き残る公算が敵の奇襲を思いとどまらせる、との核抑止の考え方が明確に示されたことである」と著者も述べています(同上、41頁)。
ただし、この決定以降も東ヨーロッパ方面に配備されている通常戦力の規模は依然として西側のそれよりも優越している状態は続いたことに一定の留意をしなければなりません。

再評価された通常戦力と戦域核兵器の増強
レオニード・ブレジネフ、ソ連の第5代最高指導者
核兵器による報復を基礎としていたソ連の戦略ですが、1964年にブレジネフ(Leonid Brezhnev 1907-1982)が政権を掌握してから新たな修正が加えられることになりました。著者の見解によれば、ブレジネフによる最大の修正の一つは、局地戦争が全面的な核戦争に拡大する可能性より、限定的な通常戦争の可能性の方が重視されるようになったという点です。
「1960年代前半の軍事ドクトリンでは、欧州での戦争はソ連本土に対する奇襲攻撃から開始されると想定していた。したがって、これを抑止するためには、米国本土への戦略核による先制攻撃が必至であるとされていた。しかし、60年代後半の軍事ドクトリンの修正によって、将来戦が必然的に前面的に世界戦争となり、ソ連中心部(ソ連欧州部)に対する大量の核攻撃をもたらすというフルシチョフ時代の想定は捨てられ、かわって、世界戦争が必然的に対ソ攻撃に導くとは限らない、戦争は限定されうる、という新しい結論に到達した。それは、すなわち、ソ連がこれまでの大量報復型の戦略から、柔軟反応型の戦略へと転換したことを意味している」(同上、45頁)
ここで二つの問題が出てきました。第一に、ソ連本土に対する核攻撃を回避するために、可能な限り核兵器の使用を制限しなければならなくなりました。第二に、ヨーロッパに配備された西側の核兵器の脅威を通常戦力によって対処しなければなりませんでした。

そこでソ連は「圧倒的な通常戦力での優位を利用して西欧に対し電撃戦を敢行し、西欧に配備された核戦力を通常兵器で破壊し、欧州大陸を占領するという戦略」を採用することになります(同上、46頁)。ただし、ヨーロッパにおける核戦争の可能性それ自体が完全に否定されたというわけではなかったので、米国本土には届きはしないものの、ヨーロッパの政経中枢、作戦基地を攻撃可能な中距離核ミサイルは引き続き重視されていました。ソ連が1977年から配備を始めた移動式の中距離ミサイルSS-20は、ヨーロッパ戦域における対兵力攻撃を可能にする戦域核兵器であり、西ヨーロッパを人質とした米国をはじめとする西側諸国の対ソ攻撃を抑止することが期待されていたと考えられます(同上、47頁)。

米国の軍備増強とソ連の戦略的行き詰まり

次にソ連の戦略が変化するのは1980年代前半のことでした。
この時期から西側諸国においてソ連の軍事的脅威がこれまで以上に強調されるようになります。当時、ソ連の首脳部はブレジネフからアンドロポフ(Yurii Andropov 1914-1984)、チェルネンコ(1911-1985)へと短い期間で変化していましたが(同上、48頁)、ソ連を取り巻く国際情勢は一方で刻々と厳しさを増しつつあり、それに伴ってソ連の戦略も防衛的志向を強めていきました。

1981年に米国で発足したレーガン(Ronald Reagan)の政権は、米国の対ソ政策をより強硬な路線に切り替えています。1983年12月には戦域核兵器を西ヨーロッパに配備することによって、ソ連のSS-20に対抗する動きも示してきました(同上、49頁)。さらにこの年の3月には戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative, SDI)が打ち出されます(同上)。

こうした一連の米国の戦略についてソ連側は「(1)ソ連に対する軍事的優位を目指す方針、(2)核第一撃の戦略、(3)限定核戦争遂行の戦略、(4)米ソ直接対決の戦略、への転換であると理解した」と著者は述べています。特に中距離核戦力をヨーロッパに配備したことは、ソ連本土に対する核攻撃を可能にするものであり、ヨーロッパにおける限定核戦争の準備の一環と判断されるものでした。
「すなわちソ連の地理的環境を考えれば、欧州における東西両陣営の勢力圏の接触点からソ連国境までは地続きで約800キロ、首都モスクワまでは約1,800キロしか離れていない。一方米国の首都ワシントンは、欧州の接触点から大西洋を超えて約6,000キロも彼方に位置している。米国の観点からは、限定的な意味を持たせられているパーシングⅡも、ソ連の観点からは、その中枢部を攻撃可能な戦略兵器と見なされているかもしれないのである。
 このことは欧州戦域での米ソの力関係においてソ連が決定的に不利に陥ったと言うことである。つまり、もしソ連が、優位に立つ通常戦力によって西欧に対し電撃戦を遂行しようとすれば、NATO軍の長射程の精密兵器および進入能力が高い戦闘機を用いた縦深攻撃(FOFA)によって、ソ連の後続第二梯隊部隊も多大の損害を被ることは必須であり、そのために通常戦段階が行き詰まり、核戦争に移行すれば、米国のINFによって欧州ソ連の中枢部の壊滅的な破壊を覚悟しなければならないということである」(同上、50頁)
要するに、レーガン政権が取り組んだ米国の軍備増強によって、ソ連軍がそれまで目指していた電撃的勝利の公算を大いに低下しただけでなく、ヨーロッパ戦域に配備された西側の戦域核兵器によってソ連本土に直接脅威を及び得るという状況になってしまったのです。
もはや、従来のように攻撃的な戦略をソ連としても維持することが困難であり、しかもソ連国内の経済問題も深刻さを増すばかりでした。こうした諸条件が重なったからこそ、この時期からソ連は軍事力だけに頼らずに国家を防衛する方法を模索するようになったと考えられています(同上、50-52頁)。

ゴルバチョフの新思考外交に基づく戦略転換
ミハイル・ゴルバチョフ、ソ連の第8代最高指導者
1985年3月に誕生したゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev, 1931-)の政権では、特に経済の立て直しは喫緊の課題となっており、軍備の増強に慎重になる他ありませんでした。ゴルバチョフは平和共存について新しい考え方を示しており、「社会主義と資本主義の間の階級闘争の特殊な形態」という従来の定義を「軍事力ではなく、善隣と協力が支配し、科学技術や文化財の幅広い交換が行われる国際秩序である」に変更しています(同上、55頁)。このことからも、ソ連が米国との関係を長期的視野で安定させようとしていたことが読み取れます。

こうした政策上の決定によって、ソ連の戦略はより防衛的形態に変わっていったとして著者は次のように論じています。
「すでに1986年2月の第27回党大会で採択された新党綱領には、「党の指導的役割の下で、国の防衛と安全保障政策、特別に防衛的性格を持つソ連の軍事ドクトリンが策定され、実行されている」と規定され、さらにモイセーエフ(Mikhail A. Moiseyev)参謀総長は89年に、「1985年―1986年から、防衛的軍事ドクトリンと段階的な軍備縮小に関連した新たな段階が始まった」と述べている。
 これらのことから、1985年から86年にかけて軍事ドクトリンに変更が加えられ、「戦争の防止」を課題とし、戦争の防止は可能であるという、新しい軍事ドクトリンが成立したものと考えることができる」(55-6頁)
つまり、レーガン政権の対ソ政策の転換の影響は表明から4年から5年でソ連の行動に実質的な影響を及ぼしたということになります。ここで述べられている防衛的性格の内容については著者はソ連で発表されたいくつかの政府の文章や論文を根拠として示しています。

例えば、1987年5月に発表された文章では、ソ連をはじめワルシャワ条約諸国の軍事ドクトリンは、戦争の勃発を許さないことを課題としており、どのような紛争であってもその解決のために軍事的手段を使用することは許されない、自らが武力攻撃の対象とならないかぎりは軍事行動を開始せず、最初に核兵器を使用してはならない、と定められていました(同上、59)。また1987年9月17日に『プラウダ』で発表されたゴルバチョフの論文では、ソ連軍の防衛態勢の十分性について、「起こりうる侵略を撃退するのには十分だが、攻撃行動を実施するには不十分となるような国家の軍事力構造」を想定していることを明らかにしています(同上、64頁)。

むすびにかえて
著者の見解をまとめると、次の通りとなります。

・ソ連は第二次世界大戦が終結してから1980年代に入るまで、一貫して軍備の増強に取り組み、フルシチョフ以降には米国との間で戦略核兵器による均衡状態が達成するように努力してきた。
・1980年代初頭までにソ連は通常戦力の意義を再認識するようになり、特に戦域核兵器を配備することで、いざという時には西ヨーロッパ戦域に電撃的な攻撃を加えることが可能な態勢を目指し、結果として戦略的な均衡状態が生じていた。
・しかし、米国は1980年代からソ連に対する警戒感を強めて軍備の増強に取り組むようになり、西ヨーロッパ防衛のために戦域核兵器を配備していったため、ソ連は次第に劣勢に立たされ、攻撃的な戦略についても内容を見直す必要が出てきた。
・ゴルバチョフは戦争の防止を何よりも重視したため、ソ連の戦略は従来よりも防御的形態に変化するようになり、その結果として武力攻撃を受けないかぎりは軍事行動を開始しないという立場を表明するに至った。

ソ連の戦略を形成していた教義にはさまざまな側面があるので、ここで示した内容はあくまでも一つの説でしかありません。しかし、一貫した解釈を可能にする見方であると思います。ソ連の戦略は米国の戦略と相互に作用しあいながら変化していたことや、冷戦のその時々の軍事情勢の特質が反映されていたという著者の指摘は、いずれも基本的なことではあるのですが、冷戦史の研究で見過ごされる場合があることも事実です。

KT

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