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2016年7月30日土曜日

貿易で世界が平和になるとは限らない

国際関係論の研究では、貿易によって国家間の経済的な相互依存が強化されれば、戦争が勃発して貿易が不可能になった際に相互に不利益となるため、その結果として平和を維持しやすくなる、と考える立場があります。
これはリベラリズム(liberalism)として以前から知られている学説であり、コヘインやナイ等の研究者によって主張されています(Kohane and Nye 1972, 1977)。

確かに貿易関係の強化が戦争を困難にするという可能性は注目に値するものですが、だからといって経済的相互依存によって平和を維持することが可能になるという考え方がどこまで妥当するのか疑問も残ります。

今回は、この問題を批判的立場から考察するため、20世紀に国際政治の研究で先駆的業績を残したイギリスの外交官エドワード・ハレット・カー(E. H. Carr)の議論に注目したいと思います。

平和が常に各国の共通利益とは限らない
19世紀に後れて統一を果たしたドイツはその成立当初から英仏の勢力圏に挑戦しなければ、自国の植民地を拡大できない状況にあった。1911年4月、モロッコの利権をめぐって英仏西との関係が悪化した第二次モロッコ事件では、軍艦を現地に派遣し、全面戦争も辞さない構えを英仏に示すことで、独領カメルーンを獲得している。
リベラリズムにおいて、戦争は必ずしも国家の 政策を遂行する合理的な方法とは考えられていません。
つまり、国家にとって戦争を遂行するために必要な人的、物的な損害は、その国家が目指す国益をかえって損ねる側面が大きく、結局のところ平和を維持する方が国家として目標を達成しやすいことになります。

こうしたリベラリズムの戦争観(もしくは平和観)について、カーは次のように説明しています。
「利益調和の理論は、政治的には通常次のような考え方に立っていた。すなわち、すべての国家は平和に同一の利益を持っていること、したがって平和を阻もうとする国家はすべて、理性も道義もないのだ、ということである」(カー、114頁)
しかし、このような単純化は国際社会の実情から乖離しているとカーは批判しています。
確かに武力を用いずに国家がその政策を遂行することは、多くの国家が望ましいと考えるかもしれません。
しかしそれは国際社会の「現状」を変えようとする諸国と、維持しようとする諸国との間の利害の対立を解決するものではないことを理解すべきである、というのがカーの主張です。
「共通利益としての平和は、次のような事実を覆い隠している。すなわち、戦わずして現状を維持したいと望む国もあれば、戦わずして現状を変えたいとする国もあるという事実である。現状維持であろうが、現状変更であろうが、それは世界全体のためになるのだ、という主張は事実に反している」(同上、115頁)
外交官としての経験も持っていたカーからすれば、国家間の利害が戦争を回避するという一点で常に合致するという想定は受け入れがたいものでした。
なぜなら、現状に対して満足している国家が一方であれば、他方では不満を抱く国家も存在しているのが国際政治の常態であるためであり、外交交渉によって利害の対立を巧妙に処理する必要は、まさにこの利害の不一致から生じてくるためです。

現状維持を求める国家の立場から見れば、平和は政治的に有利な状況かもしれませんが、現状変更を求める国家にとって平和は無条件に望ましい状況とはならないことを、理解しておくことが必要となります。

貿易が常に双方の利益を確証するわけではない
エドワード・ハレット・カー(1892-1982)
イギリスの外交官、歴史家。専門だったソ連史の研究業績が一般的には知られているが、国際関係論の業績としては『危機の二十年―国際関係論入門』があり、現在でも国際政治を学ぶ際の重要な文献と位置付けられている。
カーは平和が共通利益とならない場合があることを、より具体的に示すために、リベラリズムが基礎としている貿易理論についても考察しています。
経済学では貿易が国際分業による合理化、つまり国家がそれぞれの特性に応じて最も効率的に生産できる財やサービスを供給することに専念し、それを国際貿易を通じて他国と交換できれば、全体として最小限の費用で最大限の利益が得られるものと想定されています。

しかし、カーは政治の観点から見れば、国家間の貿易が自国の勢力を拡大する政策手段として、つまり相手を経済的に支配する手段として活用される場合もあるにもかかわらず、リベラリズムはそうした可能性を十分に考慮していないのではないかと指摘しています。
「一般的な利益調和の仮説は、経済関係においては、なお一層の確信をもって唱えられた。なぜなら、ここでは自由放任主義経済の基本的学説が直接反映されているからである。したがって、この分野において、われわれは同学説から生まれるジレンマを最も鮮やかに見て取ることができるのである」(同上、117頁)
リベラリズムに対するカーの批判で興味深いのは、国際政治において大きな経済力を持つ国家が、貿易を通じて優位に立てる場合がある、という部分です。これは貿易によって国家間に一定の勢力関係が確立され、一方が他方の行動を支配、または誘導することができる可能性があることを示唆しています。
貿易によって相手の行動を統制できるとはどういうことなのか、カーは具体的な国名を挙げながら次のように説明しました。
「例えば、もしロシアやイタリアが関税による保護なしに国内産業を確立できるほどに強いのでなければ、そのとき―自由放任主義者は主張していたのだが―両国はイギリスやドイツの製品を輸入し、小麦やオレンジをイギリスやドイツの市場に供給することで満足しなければならない。もし誰かがこれに関連して、この政策ではロシアもイタリアも経済・軍事両面で近隣国に依存する二流国家にとどまってしまうと異議を唱えたなら、自由放任主義者はこう答えねばならなかったであろう。すなわち、これこそ神のご意思であり、これこそ一般的な利益調和が求めてやまないものだ、と」(同上、117-118頁)
強大な技術力と発展した経済を持つ大国が、経済的に発展途上の中小国との間で貿易関係を深めるとなれば、国家間の分業体制が固定化される恐れが出てきます。
カーがここで述べているのは、その結果として発展途上の国家において新たな産業を成長させることは難しくなるだけでなく、軍事的能力を拡大することもできなくなってしまうということです。つまり、貿易の問題は経済の領域に止まらないのです。

リベラリズムが主張する経済的相互依存に基づく平和は、十分に発展した産業基盤を有する大国の立場から見た平和に過ぎず、それが全ての国家にとって共通利益であるとは必ずしも言えません。

国家政策としての経済的ナショナリズム
1871年から1935年にかけて操業し、兵器の製造を行った東京砲兵工廠を始めとする軍需産業は日本軍の武器の国産化と工業基盤の拡充に寄与しただけでなく外国からの輸入への依存度を低下させる意義があった。
経済的相互依存によって世界各国の共通利益である平和を実現することが可能になる、という学説の背後に、大国が中小国を経済的に支配することを正当化する考え方があるとすれば、あえて国際貿易の拡大を控え、自国の産業基盤を維持強化する政策、いわゆる「経済的ナショナリズム」にも一定の合理性があるということになります。
「経済ナショナリズムはそれを実行する国家に必ず不利益をもたらす、と考えるのは全く軽率なことである。19世紀、ドイツとアメリカは『激しい民族主義政策』を追求して、事実上世界貿易独占の地位にあったイギリスに挑戦した」(同上、121頁)
カーの見解によれば、経済ナショナリズム、つまり自給自足が可能な経済力の獲得を国家として目指す政策は、国家が中小国から大国へと成長するための重要な一歩ということになります。
国際貿易から大きな利益を獲得し、そこから国際政治の大国に台頭するという場合がないわけではありません。
しかし、そのような政策がうまくいくのは各国の経済が順調に成長している間だけだとも考えられます。もし世界経済の状況が一変し、多国間貿易が急激に減少すれば、たちまち国家の経済運営は行き詰まりを見せることになります。

国家の政策立案者としては、貿易から期待される利益と、リスクの程度をよく総合考慮することが求められます。
その検討の結果として、「経済的ナショナリズム」と呼ばれるような保護的政策が打ち出されることも一つの政策選択であるとカーは考えていました。
「アジアではインドと中国が、ヨーロッパからの輸入品に頼らないようにするため大規模な製造業を立ち上げた。日本は、世界市場においてヨーロッパの製品よりも安価な織物や他の製品を輸出するようになった。何よりも重要なのは、安いコストで利益になるような発展・開発が可能である領域など、これ以上どこにもなかったということである。戦前期の経済的重圧をやわらげた、移民のための広い通り道は閉ざされた。移民の自然な流れに代わって、強制的に追い立てられた難民の問題が現れた。経済的ナショナリズムとして知られる複雑な現象が、世界中に広がったのである」(同上、131-132頁)
カーがここで指摘していることは、貿易による国際分業で期待される国家間の共通利益は、その時の世界経済の状況によって異なるという可能性です。
ここで述べられている19世紀から20世紀初頭にかけての世界の情勢では植民地の獲得競争が激しさを増していた時代であり、特に欧米列強はアジア、アフリカ等で原材料を低コストで確保し、国内の過剰人口を国外に再配置することで、経済の成長を促進することができたという側面がありました。

世界各国の経済動向、政策決定等の不確実な要因によって自国の経済運営にも影響が生じてくることを考えれば、リベラリズムが想定する経済的相互依存による国際平和の実現は、世界経済の先行きに安心感があり、また実際に安定的に成長しているという状況が大前提であるように思われます。

むすびにかえて
ここで取り上げたカーのリベラリズムに対する批判で一貫しているのは、大国と中小国という国力の相違を国際政治で無視し、経済的相互依存の拡大だけで平和が維持できると考えることの危険を認識すべきだという姿勢です。これは貿易が平和維持に寄与しないというような単純な批判ではありません。

カーは国際情勢を総合検討した上で、経済的相互依存と経済的ナショナリズムのそれぞれに利害得失があると論じているのであって、リベラリズムの考え方の全てが間違っていると断定しているわけではありません。
リベラリズムから導き出される貿易を国家の政策として使いこなすためには、世界経済が順調であることや、十分な経済力を持つ国家が、現状維持の立場を取る場合など、いくつかの条件が必要であり、そうした点を踏まえれば平和の維持に寄与する可能性はあります。

結局のところ、国際協調を基礎とする政策が無条件にうまくいく状況ばかりではないのが国際政治であり、そうしたリスクを認識することが国家政策の基礎であると考えることが重要ではないかと思います。

KT

参考文献
Carr, E. H. 1946(1939). The Twinty Years' Crisis 1919-1939: An Introduction to the Study of International Relations, 2nd ed. London: Macmillan.(邦訳、カー『危機の二十年』原彬久訳、岩波書店、2011年)
Keohane, R. and Nye, J. 1972. Transnational Relations and World Politics, Cambridge: Harvard University Press.
Keohane, R. and Nye, J. 1977. Power and Interdependence: World Politics in Transition, Boston: Little, Brown.(邦訳、コヘイン、ナイ『パワーと相互依存』滝田賢治監訳、ミネルヴァ書房、2012年)

2016年7月24日日曜日

論文紹介 日本の対ソ戦略で海峡封鎖が重視された理由

レーガン米大統領と中曽根首相。
ソ連のアフガン侵攻で勃発した新冷戦では、米国の対ソ戦略で日本も積極的役割を果たそうとした。
中曽根首相は日米同盟の強化を重視し、自衛隊を「盾」、米軍を「やり」として相互に補完し合う関係を主張した。
冷戦の歴史は核兵器の歴史であり、米ソ両国は互いに相手の核戦力を念頭に置きながら、少しでも有利な軍事的態勢を実現すべくしのぎを削っていました。この政治的競合は1970年代の緊張緩和(デタント)によってひと段落するのですが、1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻で再び米ソ関係は新冷戦に突入してきました。

今回は、新冷戦が始まってから間もない1980年代前半の時期に、米国と同盟関係にある日本が対ソ抑止でどのような役割を果たすべきかを考察した自衛官の戦略研究を紹介したいと思います。

文献情報
西村繁樹「日本の防衛戦略を考える―グローバル・アプローチによる北方前方防衛論」『新防衛論集』第12巻第1号、1984年、50-79頁

極東方面におけるソ連の戦略分析
デルタIII(NATOコード)型原子力弾道ミサイル潜水艦。
北方艦隊と太平洋艦隊に配備されており、ソ連にとって第二撃を担う核戦力として運用されていた。
国際情勢が新冷戦に突入し、米ソ関係が新たな局面を迎えていることを踏まえた上で、著者は極東方面におけるソ連軍の活動が1979年以降になって極めて活発になっていることを指摘しており、具体的には以下のような事象が重要であると論じています。

(1)ソ連海軍の太平洋艦隊が増強。
(2)ソ連空軍の装備が近代化。
(3)ソ連陸軍の戦力規模がウラジオストクで15個師団、樺太2個師団、カムチャツカ半島1個師団、北方領土1個師団、バイカル湖以東には40個師団にまで増勢。
(4)極東方面に中距離弾道ミサイルSS-20が初めて配備(54-55頁)。

こうした個々の兆候を総合判断した著者は、ソ連軍が整備しようとしている軍事力は、海洋要塞として知られる戦略を実行するための能力である可能性が大きいと指摘しています。
つまり、ソ連はその戦力を外洋に進出させることよりも、近海に展開し、防勢の態勢で米軍の攻撃を待ち受けようとしている、ということです。

このような戦略を策定した要因として考えられるものとして、著者は米国の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の「ポラリス」、「ポセイドン」の射程が延伸されたことを指摘しています。
そもそもSLBMには核弾頭を搭載することが可能であるため、ソ連としては戦争の序盤で米国の地上の弾道ミサイルや戦略爆撃機を全て核攻撃で破壊できたとしても、米国の核戦力で報復される可能性をなくすことができません。
したがって、米国を第一撃で可能な限り武装解除し、事後の外交交渉を有利に進めるために、ソ連海軍の戦力を攻勢的に活用し、SLBMを搭載した米海軍の原子力潜水艦を積極的に捕捉、撃沈しなければなりません。

しかし、米国のSLBMの射程が延伸されれば、それだけ米海軍は原子力潜水艦をよりソ連から遠く、また広く配置することが可能になり、ソ連海軍がこれを撃沈できる公算は低下してしまうため、著者はソ連が戦略を見直したと判断しているのです(同上、60頁)。
ソ連の近海に米国の艦隊が進出することを拒否できれば、SLBMを搭載した原子力潜水艦をそこに展開し、ソ連としても第二撃能力を確保することが可能になります。これはその後の外交交渉での優位を確保することに寄与すると考えられます。
ソ連の太平洋艦隊が太平洋に進出して防衛圏を構成するためには、オホーツク海と日本海の制海権を確立するだけでなく、宗谷海峡か津軽海峡を通過する必要があるが、そのためには沿岸地域を攻略奪取しなければならない。そのため、樺太から近く、宗谷海峡を確保できる道北は理想的な攻撃目標と考えられる。
新たにソ連が策定した防衛の方法は「ゾーン・ディフェンス」と呼ばれるものだと著者は指摘しており(同上)、これは二重の防衛圏から構成されるものです。
内部防衛圏は本土防衛のためのものであり、極東方面ではオホーツク海がここに組み込まれます。外延防衛圏はソ連に対抗して海上封鎖を行うことが可能な国を米国から分断するためのものであり、オホーツク海の外側に位置する太平洋の一部海域がここに含まれます(61頁)。日本はいわばこの外側の防衛圏に組み込まれる地理的環境に位置することになります。

戦争が勃発した際に、ソ連海軍が太平洋艦隊を太平洋に直ちに進出させようとすると、津軽海峡か宗谷海峡を通過する必要が出てきます。
著者は米海軍の情勢判断としてはソ連軍の作戦計画で攻撃目標とされているのは道北と推定されていることを紹介しており、北海道北部の占領によって宗谷海峡の海上交通路を確保することがソ連軍の主目標ではないかと判断しています。
こうした脅威が1980年代に自衛隊が対応すべき安全保障上の課題となっていたのです。

多正面限定通常戦争のシナリオと日本の戦略
1980年の東西両陣営の勢力図。青色、水色が西側陣営、赤色、ピンク色がソ連の陣営の勢力圏。
1980年以降にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米国は欧州、極東に加えて中東でも対応が求められることになった。
著者は、日本の戦略を考えるためには、極東方面だけを考えるのではなく、世界情勢を包括的に検討することが必要だと論じています。これは日本と同盟関係にある米国が部隊を世界展開しているためです。
当時、中東ではイラン革命、アフガニスタン侵攻が発生したこともあって、ソ連軍に対する米軍の通常戦力の相対的劣勢は深刻な問題となっていました。これは戦争が勃発した際に、米軍の防衛態勢が通常戦力で維持できなくなり、早期の段階で核エスカレーションに移行せざるを得ないリスクがあると著者は指摘しています(同上、65-7頁)。

しかし、核戦力を使用するという政治的意思決定は容易なことではありません。米軍が核兵器に依存した防衛態勢を構築するようになれば、ソ連の立場から見れば米国は最後は譲歩するのではないかと判断する恐れが出てきます。
結果として、米国の抑止力に対する信頼性が低下し、ソ連が攻勢に出てくる確率を引き上げてしまいます。
この可能性を回避するには、ヨーロッパや中東で武力衝突が発生した際に、北東アジアに配備した米軍の戦力を速やかに移動させること、いわゆるスイング戦略が必要となります。
この場合の問題は、極東方面におけるソ連軍の攻撃に対して自衛隊が主体的に対処せざるを得ないことです(同上、68頁)。

著者は対ソ戦略において考慮すべきは、核戦争を想定したシナリオよりも、こうした通常戦争を想定したシナリオ、つまり多正面限定通常戦争であると主張しています。
「核均衡という今日の戦略環境においては、そのような戦争(東西の通常戦)は核戦争に至る段階で過渡的に生ずる交戦形態であろうという従来の認識よりも、そのレベルで持続し、終結へと向かう独立した形態として認識を新たにする方が妥当性がある」(同上、72頁)
つまり、核戦力を持たなくても、通常戦力を持つ日本の抑止力をもって米国の世界規模の対ソ戦略に寄与することは可能であるということです。日本がその地理的な環境から戦争に巻き込まれることを避けることは難しいため、日本がすべきことは速やかに「北方前方防衛態勢」を構築することである、というのが著者の考え方です(同上、75頁)。
北海道の防衛に当たる陸自の北部方面隊は1962年から4個師団の体制に移行した際に、機甲師団が配備されている。
樺太、千島列島方面からソ連軍の攻撃を受けた際には二正面となる危険もある地域であり、またソ連艦隊が宗谷海峡を通過することを阻止する上で重要な意味を持っていた。(写真は日米第11旅団HP「第11旅団の歴史(昭和58年)」より)
この戦略構想の特徴は、戦争が勃発した序盤で海峡を陸上戦力で確保し、ソ連海軍が太平洋に進出することを妨害するという点にあります。
道北から青函までを陸自の部隊で防衛するだけでなく、北海道の航空作戦ではアラスカ方面から米空軍、米海軍と連携し、カムチャツカ半島、オホーツク海のに対して二正面作戦を行うことで、ソ連空軍に北海道の航空優勢を奪われないようにすべきとも述べられています(同上、76頁)。

さらに著者はソ連海軍に対する海上優勢を獲得するために、水上艦発射巡航ミサイル(SLCM)の配備を要請し、ソ連が極東の兵力を他の正面(中東、ヨーロッパ正面)に転用する事態を防止することや、長期的な方針として準中距離弾道ミサイルのパーシングⅡを日本にも配備すること、核戦争を想定した単一統合作戦計画(SIOP)での対日コミットメントの明確化をすること等にも言及しています。

結びにかえて
こうした一連の取り組みによって、極東正面における日本の防衛力を強化すれば、ソ連軍がその戦略を実行に移すことを妨げ、米国はその部隊を他の正面に移動させることができるようになり、引いては米国の抑止力の信頼性を高めることに繋がることになります。
つまるところ、著者は日本の北方前方防衛態勢は、日本の国土防衛という意味を持つだけではありません。同盟国である米国が中東やヨーロッパに兵力を転用する可能性を広げ、ソ連に対する通常戦力の不足を補いやすくするというものであり、それによって世界の均衡が維持されるようになれば、ソ連軍は結果として対日侵攻も断念せざるを得なくなる、というものです。

冷戦の歴史は米国とソ連という核兵器を持つ超大国の競合という性格が強いため、日本のような核戦力を持たず、通常戦力も限られた国家の軍事的な役割はしばしば見過ごされてしまいますし、実際に国民もそうした役割を意識することはほとんどありません。
もはや米ソ冷戦は過去の話となってしまい関心も薄れる一方かもしれませんが、当時の緊迫した国際情勢の中で自衛官は日本の戦略について研究を重ね、防衛力を整備し、ソ連に対する抑止力の充実に努力していたことは、より多くの人に知られる価値があると思います。

KT

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2016年7月22日金曜日

軍人が「人殺し」ではない理由

戦争とは本質的に大量殺戮であると考える人々にとって、第一線で武器を手に戦う兵士が「人殺し」であるということには、疑問の余地がほとんどありません。
しかし、このような単純化に問題があると感じている人は少なくなく、また兵士自身にとっても自分たちの仕事が犯罪のようにレッテル張りされることは不名誉なことです。

ここで問題なのは、このレトリックに反論する方法が、多くの人々にとって明確ではないという点です。
戦場で兵士が任務を遂行するために人命を奪うことはあり得ることであり、それは兵士という職務の重要な一部分を成していることは事実です。
そのため、軍人を「人殺し」と同一視する職業差別的なレトリックであると考える人でさえ、直感的にはそのような物言いが真実の一面を捉えているようにも感じられるのです。だからこそ、これは真剣に取り組まれるべき重要な検討課題と言えます。

今回は道徳的な観点から兵士が「人殺し」ではない理由を明らかにするために、哲学者のマイケル・ウォルツァーの説を紹介し、その意味するところを考えてみたいと思います。

戦争とは他の手段をもってする政治の延長である
軍人を「人殺し」と呼び、その職務を犯罪的行為であるかのように見なすことの最大の問題とは、戦争を個人的な活動と見なしていることにあります。
かつてクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の延長である」と述べましたが、これは戦争が個人の行動に還元できるものではなく、国家を構成する人々が政治権力の下で組織的に武力を行使する活動であることを示しています。

戦争は個人の行為ではなく、国家の行為であることを裏付ける根拠として重要なものに国際法があります。
戦争はルール無用の殺し合いのように見えますが、現実には数多くのルールが存在しており、その多くは慣習法として成立してきたものですが、現代ではその多くが明文化されています。
ウォルツァーはこの点について次のように述べています。
「戦争とは、『二つか、それ以上の集団に、武力による紛争の遂行を同等に認める法的状態』である。そして、われわれの目的とってはより重要なのだが、戦争はまた、実は主権国家のレベルではなく、軍隊は個々の兵士のレベルで同一の許容が含まれている道徳的状態でもある。平等な殺人の権利がなければ、ルールに統制された活動としての戦争は焼失してしまい、それは犯罪と懲罰、邪悪な陰謀と軍事的な法執行によって取って代わられてしまうだろう」(ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』119頁)
ウォルツァーが指摘しているように、軍人はいつでも、どこでも、どのような人でも殺傷してよいというわけではありません。
戦争とは国家が武力を行使することを平等に保証している法的状態であり、その状態において軍人はルールに統制された範囲で武力を行使することが許されているのです。
国内法の下で普通の生活を送る一般市民が知る制度の中で、こうした戦争慣例に似たものはまず見当たりません。
だからこそ、戦争を個人的な活動と見なし、そこで戦う兵士を殺人者とする誤解が生じるのかもしれません。

戦争における戦闘員と非戦闘員の区別
国内で一般市民が誰かを殺害しようとしても、どのような人々を殺害してよいのか、どのような手段を使用してよいのか法的に定められているわけではありません。
しかし、戦争状態において軍人はこうした制約の下で行動しているのです。これが軍人と「人殺し」を区別すべき第二の理由となります。

何か目的を達成するために人を殺傷する行動に出るという点で軍人と「人殺し」は同じと言えるかもしれません。
しかし、軍人はその目的を達成するために行使できる軍事的手段が厳密に制限されます。これは戦闘員と非戦闘員を区別するという戦争慣習によって説明することができます。
「侵略戦争の過程において、兵士が自国の守りについている兵士を撃ったとしよう。通常の銃撃戦だとすれば、これは殺人とは呼ばれない。兵士は戦後、かつての敵からさえも殺人者とはいわれることはない。逆に敵軍の兵士がこちらの兵士を撃った場合も同様である。どちらも犯罪者ではなく、したがって双方とも自衛のための行動をとったと言えるのである。われわれが彼らを犯罪者と呼ぶのは、彼らが非戦闘員や無辜の部外者(民間人)や、負傷したり武装解除された兵士を標的にしたときだけである。もし、投降しようとする者を撃ったり、制圧した町の住民の大量虐殺に加担するなら、われわれは躊躇なく彼らを非難する(または、すべきである)。しかし、彼らが戦争のルールに従って戦う限り、非難することはできない」(同上、262頁)
つまり、軍人は戦争の法規、慣習に基づいて敵の戦闘員を殺傷したとしても、それは敵の戦闘員から自分たちが殺傷される可能性がある中で行われたならば、正当なことである、ということです。
ウォルツァーの議論では省略されていますが、こうした交戦法規をより詳しく見ていくと、さらに多くの制約が戦闘行動を規律していることが分かります。

例えば、ヘーグ陸戦規則(1907年の第4ヘーグ条約)では、交戦者は戦闘の手段を選択するに当たって、無制限の権利を有していないと明記されており、具体的な禁止事項としては毒物を使用すること、背信行為によって欺いて敵を殺傷すること、自衛の手段がなくなって降伏を申し出た敵を殺傷すること、助命しないことを宣言すること、不必要な苦痛を与える武器を使用すること等の記述が盛り込まれています。

とはいえ、ウォルツァーが述べているように、戦争慣習において戦闘員と非戦闘員の区別、そして非戦闘員の保護は極めて重要な要素であり、それは軍人が法的に認められる武力の行使の範囲を規定するものです。
もちろん、現場でこうした制約が全て完全に順守されていると言いたいわけではありません。ここで重要なことは軍人が無法状態の中で好き勝手に武器を振り回しているのではない、ということであり、もし兵士が意図的に非戦闘員を殺傷するような行動を取れば、それは戦争状態においても不正な行為と見なされるということです。

むすびにかえて
以上の議論を踏まえて、軍人が「人殺し」ではない理由としては少なくとも次の二点が挙げられます。

・軍人は個人の選択によって武力を行使しているのではない。軍人は国家の権力の下で武力を行使するのであり、また国家が武力を行使することで遂行される戦争は法的状態であるため、国内で一般市民が自分の判断で他者を殺害することとは同じではない。
・軍人は戦場において戦闘員と非戦闘員を区別しており、あくまでも戦う相手は戦闘能力を持つ戦闘員に厳密に限定されている。それだけでなく、背信行為の禁止や降伏を申し出た敵を保護する等、交戦の手段に関してもさまざまな法的制約が存在しており、戦闘能力を持たない一般市民を対象とする殺人と性質が異なっている。

軍人がその任務を遂行するために武力を行使し、時には人の命を奪うこともあるという現実を覆い隠そうとしているわけではありません。
ここで主張していることは、軍人は「人殺し」からは厳密に区別されるべき理由があるということであって、戦争それ自体の道徳性について判断しているわけではありません。それはあくまでも戦争の問題であって、軍人が「人殺し」と呼ばれるべきかどうかという問題と直接関係しないことです。

最後に、ウォルツァーが職業軍人について次のように述べていることを紹介しておきます。
「職業軍人の中には、戦争慣例に関して、しばしば独特の唱道者が見られる。騎士道は死に、戦いは自由ではなくなったが、職業軍人は彼らの一生の仕事を単なる殺戮から区別するそうした制限や制約への敏感さを維持している(あるいは、彼らの一部は間違いなく維持している)のである」(同上、125頁)
軍人とは、国家の命令に従って戦争を遂行する職業であり、人の命を奪う必要に迫られる場合もあるという道徳的な責任を承知した上で、自分たちの行動が単なる無法な殺人になることを避けなければならないことを知っている人々です。

KT

関連記事
戦争の道徳的ジレンマを考察する軍事倫理学

参考文献
マイケル・ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』萩原能久監訳、風行社、2008年

2016年7月17日日曜日

ランチェスター方程式で考える戦力集中の原則

軍事学に限らず、ある意思決定の問題を解決するために数学的アプローチを活用して研究する応用数学の研究領域をオペレーションズ・リサーチ(Operations Research, OR)と言います。
ORは広い研究領域であり、多くの研究者がその名前を残していますが、歴史的に特に早い時期から名前を残した人物にフレデリック・ランチェスター(Frederick W. Lanchester)という技術者がいます。
彼の研究業績は一般に「ランチェスターの法則」として知られているもので、現代の軍事理論の研究にも多大な影響を及ぼしました。

今回はランチェスターが構築したモデルがどのようなものであるのかを説明した上で、ランチェスターの軍事理論において戦力集中の原則がどのように理解されているのかを紹介したいと思います。

ランチェスター方程式は何のためのモデルなのか
ドイツ、オーストリアが使用した戦闘機、アルバトロスD.III。第一次世界大戦は空軍が本格的に運用された最初の戦争となった。ランチェスターは、まだ当時登場したばかりの航空機の運用を研究するところから数理モデルの構築に取り組んでいる。
「ランチェスターの法則」と呼ばれることが多いため誤解されやすい点ですが、「ランチェスターの法則」は厳密な法則ではなく、あくまでも考察を目的とした数理モデルであり、有名なニュートン力学の三法則のような幅広い説明力を持っているわけではありません。
歴史上の戦闘に関するデータで検証した研究でも、「ランチェスターの法則」の実証的妥当性に対しては否定的に評価されており(e.g. Dupuy 1977)、誤解を避ける目的では以下ではランチェスター方程式という言い方を採用することにします。

ランチェスター方程式が実際のデータによって裏付けられていないモデルであることは必ずしも驚くに値しません。
そもそもランチェスター方程式が作られた目的は、あらゆる戦闘の事例を包括的に説明できる複雑な戦闘理論を構築するということにあるのではなく、戦略の原則の一つである「集中」の意味するところを数理的な用語に置き直して理解することにあったためです。ランチェスターは次のように自らの問題関心について説明しています。
「あらゆる戦略の根本における大きな疑問の一つが集中である。これは交戦主体の資源全部を一つの目的や目標のために集中させることであり、敵の作戦地域の一つの地点に陸軍であれ、海軍であれ味方の主力を集中させることである。しかし、集中の原則それ自体は戦略の原則であるだけではなく、純粋に戦術的な活動でも同じ効果を伴って適用されるものであり、それは物質的側面から見て純粋な科学的性質に依拠した原則である」(Lanchester 1916: 39)
確かに軍事学の文献では戦力集中の原則が持つ重要性が長く論じられてきました。
しかし、ランチェスターにとってその説明というのは満足できるものではなく、より明確で客観的なモデルに基づいてその重要性が主張されるべきだと考えたのです。
そのためには、集中の原則に関する数理的モデルを構築しなければならなかったのです。

ランチェスター方程式はどのようなモデルか
ランチェスターの研究によれば、近代的な条件の下で戦われる戦争は次のような数式によって表すことができます。(ちなみに、いわゆる第一法則、第二法則の区分についてご存知の読者は、ここでは第二法則だけを取り上げていると理解下さい)
このモデルのポイントは、彼我の戦力の規模が戦闘の結果として生じる損害の大きさを規定するということにあります。そのため、損害見積のための計算式であると理解することもできるでしょう。
bは青軍、rは赤軍の戦力規模をそれぞれ表しており、tは時間を、cとkは青赤両軍の戦闘効率を表している。
ランチェスターは近代以降の軍隊は白兵ではなく、火力によって戦闘を遂行するものと想定しており、言い換えれば、歩兵が持つ小銃や砲兵が操作する火砲は彼我の間に距離があったとしても、その座標さえ判明していれば被害を与えることが可能だと考えられます。
したがって、戦闘は一対一で武器を手に対峙する兵士の交戦の集合ではなく、集団的な射撃の応酬という形態をとることになり、ランチェスターもそうした特徴をモデルに取り入れました。
そのため、戦力規模が相手よりも大きいほど、損害が増加する速度は低下し、反対に戦力規模が相手より大きいと損害が増加する速度はより上昇することになります。

次にランチェスター方程式を知れば戦力集中の原則に関してどのような理解が得られるのかを、具体的な数値を当てはめながら考えてみましょう。
まず両軍の戦闘効率、つまり武器、装備の性能や、技能、士気の水準が完全に等しいと考え、地形や陣形、戦術といった要因についても除外し、数的優劣のことだけを一般的に考えてみます。(c=k=1を想定するという意味です、今回の記事ではランチェスター方程式における武器の効果は取り扱いません)
上の3aの図では青軍が1,400、赤軍が1,000の場合、下の3bの図では赤軍が1,000、青軍が700の場合を想定し、ランチェスター方程式に基づいて彼我の損害を数値的に導き出している。ランチェスター方程式では彼我の戦力規模の格差が広がるほど戦闘結果はより決定的なものとなることが示唆されている。
(Lanchester 1914: 43)
ランチェスターは異なる戦力比で戦闘が行われると、時間の経過に伴って、彼我の戦力比がどのように変化していくのかを考察し、次のように述べています。
「3aの図表では、赤軍が青軍よりも1:√2の関係で劣勢である状況を付与しており、赤軍1,000は青軍1,400と遭遇したことを表している。彼我の部隊は一度の激しい戦闘を最後まで遂行したと仮定すると、上方の線が青軍の戦力を表すことになり、赤軍は殲滅されるであろうことが読み取れる。青軍の損害は400に過ぎない。反対に、もし赤軍が優れた戦略によって青軍を同規模の2個の部隊に分断して戦闘を強要しれば、3bの図のように、赤軍はたった300の損害で青軍は最初の戦闘で700を殲滅し、さらに二度目の戦闘では赤軍と青軍が同じ戦力規模で遭遇することになるであろう。それゆえ、われわれは戦役の最後の戦闘を描き出すことができる」(Ibid.: 44)
つまり、ランチェスターは青軍が1,400という戦力規模を持っていたとしても、赤軍の巧みな戦略(例えば陽攻や牽制、奇襲等)によって分割することを余儀なくされてしまえば、結局は引き分けに持ち込まれる恐れがあるということを指摘し、戦略における集中の原則がどれほど重要な意義を持っているのかを説明しているのです。

もっと簡単に言えば、ある戦役で50,000名の青軍が70,000名の赤軍と戦うとしても、青軍が戦略上の配備や運動によって赤軍の部隊を40,000と30,000に分割することに成功すれば、「(50,000)^2=(40,000)^2+(30,000)^2」と実質的な戦力比が拮抗するため、決定的敗北を回避できる可能性があると考えられる、ということです(Ibid.: 50)。
こうして考えれば、漠然とした根拠で戦力の集中が重要であると論じるよりも、はるかに具体的な形でその重要性を理解することが可能となります。

最後に:軍事理論におけるランチェスター方程式の意義
以上の考察は、軍事史を研究する人間にとってはそれほど目新しいものではありません。このことはランチェスターも理解していました。
ランチェスター方程式は戦争の歴史で繰り返されて来た戦略上の計算を、具体的な数式として表現したとも言えるものであり、数式の背後にある基本的な考え方は歴史上の優れた戦略家によって実践されてきたとランチェスターは述べています。
「少なくとも戦場では集中が最も重要な問題であるいうことは、あらゆる専門家が同意するところである。事実、それは近代戦における戦略と戦術の両方を支配する要因の一つとして認められている。それは敵が戦力の集中が効果を発揮する前に攻撃を仕掛けることによって行われた歴史上の偉大な戦闘によって適切に示されてきた。古典的な事例としては、イタリア戦役でナポレオンが2個に分割されたオーストリア軍に戦力を集中し、また連携を取る前に撃破したことがある」(Ibid.: 53)
考え方は目新しくないのですが、それでもランチェスターの研究が重要な意味を持っている理由は何かと言えば、それは軍事学の研究に数理モデル(またはオペレーションズ・リサーチ)という極めて強力なアプローチを適用できることを示したことが、その後の軍事学の研究を発展させる上で画期的なものだったということです。
現在では、ランチェスター方程式をさらに拡張した複雑なモデルや、全く新しい考え方に基づいて構築されたモデルも登場していますが、こうした研究も元を辿れば、ランチェスターの先駆的な業績を基礎に置いているのです。

KT

参考文献
Dupuy, Trevor N., "History and the Validity of the Lancester Hypotheses," History, Numbers, and War, Vol. 1, No. 3, (Fall 1977)pp. 146-150.
Lanchester, Frederick W. Aircraft in Warfare: The Dawn of the fourth Arm, London: Constable and Company, 1916.

2016年7月16日土曜日

戦技研究 一瞬の撃発こそ優れた射手の証

引金さえ引けば銃から弾丸は発射されますが、それを遠くの目標に命中させるためには、引金の正しい引き方、つまり撃発の技術を身に着けることが射手として必要になります。
撃発それ自体は複雑な技術ではありませんが、射手が動作としてそれを身に着け、完全に無意識に実施できるようになるまでには十分な練習が必要です。

今回は、米陸軍の教範を踏まえ、撃発をどのように行うのかを解説し、射撃についての理解を深める参考にして頂きたいと思います。

撃発と呼吸法について
これはよく知られていることですが、小銃を肩づけしていると、呼吸に伴って銃が上下に動揺します。このことは激しい運動をした直後に特に顕著であり、射撃の結果に与える影響は極めて大きなものがあります。
そのため、撃発では呼吸を止めなければなりませんが、大きく分けると呼吸の止め方には三通りのやり方があります。

(1)息を吐いてから止める方法、
(2)息を吸ってから止める方法
(3)息を少しだけ吐いてから止める方法(FM 3-22.9: 4-21)

これらの方法でどれが一番よいのかは、射手の個性によって一概には言えませんが、米軍では射撃の状況に応じて使い分けるように指示されています。一つの目標を射つ場合には(1)を、咄嗟に出現した目標を射つ場合には(2)、(3)の呼吸法が示されています。
撃発時の呼吸管理について解説した図。
上が(1)の呼吸サイクルを示した図であり、息を吐いた後に呼吸を止めて撃発する。
下が(2)、(3)の方法を示したもので、息を吐く途中か、息を吸った後に呼吸を止めている。
(FM 3-22.9: 4-22)
戦場で兵士は激しく運動することになるため、走力がないと射撃の位置についてから呼吸を整えるまでに時間がかかってしまいます。
そのため呼吸管理ができなくなるほど全力疾走すると、後になってから正確な射撃に支障を来す危険も生じてきます。射撃術と直接関係のない話ではありますが、撃発する際に呼吸を安定させることができるかどうかということは、射手にとって非常に重要な意味を持っているのです。

撃発の基本的な要領
射手の手の大きさによっても多少異なる点ですが、基本的に銃の握把を右手で握ると、右手の人差し指の第一関節が引金の最も中央の部分にかかります。
この第一関節で引金を引く際の注意事項としては、まっすぐ引金を引くということが重要です。引金を深く引こうと突き出し気味に握把を握ると、まっすぐ引金を引くことができず、右斜め後ろに圧力がかかりやすくなります。
これは手に余分な力を加え、銃に不必要な動揺を加え、正確な撃発を妨げる要因となります。

米軍の教範では撃発の要領について次のように説明しています。
「適切な撃発は当初の照準の間における引金に対する弱い圧力から始めるべきである。的に対して照星が安定した後で射手はさらに圧力を加え、同時に呼吸を止める。」
「射手の技量は練習によって向上するため、射手は撃発に時間を費やす必要がある。射撃の初心者は適切な撃発に5秒を費やすが、より熟練すると、2秒かそれ以下で撃発できるようになる」(Ibid.: 4-23)
ここでも述べられているように、銃の引金には「あそび」があるため、それは照準している段階で既に引いておき、これ以上少しでも力を加えたらすぐに撃発してしまうという状態を作っておきます。

照準が定まれば、呼吸を止め、撃発する動作に入るのですが、最初はどの程度の力で引金を引けばいいのかも分からなかったり、また慎重に撃発しようとするあまり、引き後れになる場合があります。
また反対に急いで引金を引き寄せた結果、右手の筋肉の緊張が銃に伝わってがく引きになってしまうということもあります。いずれも命中を妨げる要因であり、繰り返し激発練習を行う以外に解消する方法はありません。

米軍では撃発の練習として、射手の撃発の要領を観察して指導する他に、射手の手の上から射撃教官が手を重ね合わせながら適切な撃発の要領を体験させる等の方法が述べられており(Ibid.: 4-23)、射手が具体的にどの程度の力加減で引金を引くべきなのかを体得できるような練習が重要であることが示されています。

いずれにせよ、適切な撃発を実施できるようにならなければ、せっかく姿勢が堅固で照準が正確でも命中に繋がりません。
熟練された射手は撃発はまさに一瞬の動作ですが、それは撃発にかける時間が短いほど照準、呼吸の管理も容易となり、正確な射撃に寄与するためです。
しかし、最初からそのような撃発ができるわけではないため、まずは2秒という時間を目安に撃発要領を終えることができるようにならなければなりません。

しかし、弾道というものの気難しさは右手人差し指の微妙な力加減と残りの指の緊張だけでもかなりの偏差が発生することにあります。まずは適切な力加減で撃発ができるようになることに集中し、それができるようになってから徐々に時間を短縮していくという段階を踏んでいかなければなりません。

むすびにかえて
今回の記事で取り上げなかった連射の撃発についてですが、こちらは実弾射撃で発射音を聞きながら指切りのタイミングを覚えるという、撃発とはまた別の技能が必要となります。
自分が射ちたいと思う弾数を発射した後で正確に引金を戻すことができれば、射撃の状況に応じて弾数を管理し、不意に弾倉を交換しなければならなくなる状況を避けることもできます。そのため、撃発は引金を適切に引くだけの技術というわけでもないのです。

撃発に関する話を聞いて、非常に精密な技術の話であり、普通の戦闘員にそこまでの精度が要求されるのか疑問に感じられるかもしれません。
確かに、市街地のような地形における交戦では、そこまでの精度は必要とされませんが、平野や山地で米軍が経験した戦闘の調査から、歩兵分隊の交戦距離が500メートルになる場合も珍しくないことが指摘されており(Ehrhart 2009)、射距離500で命中させる射撃術を習得していることは、やはり重要なことであると言えます。

KT

関連項目
射撃雑学 正しい銃の射ち方を理解するために
射撃雑学 狙いを付ける前に正しい見出しを

参考文献
Ehrhart, Thomas P. 2009. Increasing Small Arms Lethality in Afghanistan: Taking Back the Infantry Half-Kilometer, School of Advanced Military Studies Monographs, Fort Leavenworth: U.S. Army Command and General Staff College.
U.S. Department of the Army. 2008. Field Manual 3-22.9, Rifle Marksmanship M16-/M-4-Series Weapons, Washington, D.C.: Governmental Printing Office.

2016年7月15日金曜日

論文紹介 A2/ADには海上戦争(war at sea)戦略で対抗せよ

現代の国際情勢で最も注目を集めている安全保障上の課題の一つが中国の接近阻止・領域拒否(A2/AD)であり、特に2010年からは対抗戦略が米国で活発に研究され、米軍ではエアシー・バトル(Air-Sea Battle)という米国の海上、航空戦力を総合発揮して中国本土に縦深攻撃を加えることが構想されるようになっていました。

今回は、2012年にエアシー・バトル構想に対して批判的見解を示した研究論文を取り上げ、新たに海上戦争戦略と呼ばれる戦略構想について紹介したいと思います。

文献紹介
Jeffrey E. Kline and Wayne P. Hughes Jr. 2012. "Between Peace and the Air-Sea Battle: A War at Sea Strategy," Naval War College Review, Vol. 65, No. 4, pp. 35-41.

海上戦争(war at sea)戦略とは何か
著者らはエアシー・バトルの重要性を全面的に否定しているわけではなく、冒頭の部分で「われわれは最も挑戦的な紛争、すなわち全面的な通常戦争に準備するための最も効果的な手段としてエアシー・バトルの一部については強く称賛する」と述べています(Kline and Hughes 2012: 35)。
しかし、著者らが懸念しているのは、そのエアシー・バトルが想定する戦争の形態が全面戦争に近く、外交によって戦争を回避しようとする危機管理との連携が非常に難しい点です。

著者らは海上戦争(war at sea)戦略と称する構想を提案しており、「この戦略であれば、協調、競合、対決、戦争未満の紛争、戦争のいずれにおいても、米中関係を強化するための手段を指導者に提供する」と述べています(Ibid.)。
著者らが考える海上戦争の要点をまとめると以下の通りです。

・「海上戦争戦略の目的は中国の陸上及び海上での侵略を抑止し、それが失敗したならば、敵対行為においては『第一列島線』(日本から台湾を経てフィリピンに至る概念的な防衛線)の内側で中国が海上交通を利用できないように拒否することにある」(Ibid.: 35-56)
・「この戦略の方策としては、中国船舶輸送に遠方から干渉し、第一列島線の内側で分散させた潜水艦に攻撃と機雷敷設を行わせ、中国の近海では交戦のためにミサイルを搭載した小規模な戦闘艦艇から構成される戦隊によって攻撃を実施し、海峡とチョークポイントでは哨戒艇で海上封鎖し、南シナ海で危険な状態にある島嶼部を保持するために海兵遠征軍を配置し、中国本土の地上部隊に地上部隊を送り込む意図は持たない」(Ibid.: 36)
・「この戦略の手段としては、通常の航空戦力、戦闘群艦艇、潜水艦、そして米国と同盟国の小型戦闘艦艇から構成される前方展開戦隊である」(Ibid.)

これらの特徴から、著者らが航空戦力の役割を強調するエアシー・バトルよりも、海上戦力の意義を重く見ていることが分かります。

抑止力の確保には信頼性の向上が必要
なぜ航空戦力よりも海上戦力により大きな役割が与えられるべきなのでしょうか。著者らはこの疑問に対して次のように答えています。
「もし米国の指導者が進入禁止海域や領土紛争において侵略に対処しようとしていると中国が認識したならば、海上作戦を選択した方がエアシー・バトルの縦深打撃能力よりも高い信頼性を持たせることができるものと、われわれは確信している。海上阻止または海上封鎖の戦略はあまりに遅効性であるとして批判されてきた。しかし、海上戦争戦略は熱狂を鎮め、交渉の機会を与えるものであり、その交渉において双方は長期にわたり、経済的に危険であり、また総動員と決定的勝利を目指す戦争、つまり第三次世界大戦から引き下がることが可能である。さらに、太平洋地域の潜在的同盟国が米国は中国の攻撃の公算を低下させる海上限定の戦略的選択を実施しようとしているのだと理解すれば、米国との友好関係を維持し、また拡大しようとすることもできる」(Ibid.: 36)
要するに、著者らはエアシー・バトルが目指す縦深打撃能力の構築によって中国の軍事行動を抑止することは、世界最高水準の軍事力を持つ米国といえども実現できるかどうか疑問が残るため、より確実に実行できる構想を基礎に置いて戦略を確立した方が、中国から見ても信頼性が高くなるため、より大きな抑止力に繋がると考えているのです。

しかも、米国としては不必要に中国との武力衝突を全面戦争にエスカレートさせる意図がないことを明確にすることによって、周辺諸国との外交においても円滑にすることも期待されます。
これは不足しがちな基礎配備兵力で同盟国の軍隊に依存する部分がある米国の世界戦略にとって重要な要素と言えます。

中国軍の軍事的優位は無力化できる
しかし、著者らは中国軍の弾道ミサイル、巡航ミサイルを駆使したA2/ADの脅威にはどのように対応しようとしているのでしょうか。従来の研究では、中国軍のミサイル技術がこれ以上に向上すれば、米海軍が誇る航空母艦が作戦海域に進出することが非常に困難になるリスクが指摘されてきました。
この論点に対して著者らは「第一列島線内部の潜水艦部隊の優勢を拡大することによって、巡航ミサイル、弾道ミサイルを装備した中国の接近阻止部隊の優勢を無力化する」と論じています(Ibid.: 37)。

空母のような水上艦艇とは異なり、潜水艦は長射程のミサイルに対する脆弱性が極めて小さいだけでなく、通商破壊や海上封鎖のような作戦に適した戦力です。
エアシー・バトルように空母から発進する航空戦力に頼るよりも、潜水艦の生存性の高さを活用し、これにミサイルを搭載した戦闘艦艇を組み合わせて運用する方が便利であると考えられるのです(Ibid.)。
なお、戦隊の具体的な規模についてですが、著者らはおおむね600トン程度で、艦対艦ミサイル6基から8基を搭載した戦闘艦艇を想定しており、戦術情報の収集のために無人機を搭載することも述べられています(Ibid.: 38)。
この程度の規模、装備であれば、8隻で1個戦隊を編成し、東アジア正面に8個の戦隊を配備したとしても、1個戦隊当たり1億ドルの予算で整備可能と見積もられています(Ibid.)。

今後、検討すべき研究課題
海上戦争戦略はエアシー・バトルの対案として提案されているものですが、まだ構想段階の戦略であり、さらに詳細な研究を進め、議論を重ねることが求められています。
著者らは、米国は海上で全面戦争に至った場合に、中国が南シナ海、東シナ海を利用することを、中国本土に配置された部隊を攻撃することなく有効に拒否できるのか、中国が海上戦争戦略に対抗するために、米国の西海岸に脅威を及ぼしてくる可能性があるのか等の論点を上げて、より詳細な研究を進めるべきであると論じています。

つまるところ、著者は「米国の空軍と海軍との間における強固な連絡と縦深攻撃を行うための能力に基づく緊密な統合はエアシー・バトルと海上戦争戦略の両方にとって望ましい目標である」と述べているように(Ibid.: 40)、エアシー・バトルの意義を認めながらも、その欠点であった危機管理の視点を強化し、より包括的な戦略構想へと発展させるべきだという立場です。

日本でもいわゆるグレーゾーン事態の問題は平和安全法制との関係でよく議論されており、その議論は必ずしも戦力の運用という戦略の本質的問題にまで踏み込めていません。
米国においてこうした研究が着実に進行していることを念頭に置き、改めて日本としてどのような防衛力を整備すべきかを考えることが求められています。

KT

関連項目
論文紹介 オフショア・コントロール(Offshore Control)とは何か、日本の視点から
論文紹介 海洋戦略の観点から見た日本の島嶼防衛

2016年7月12日火曜日

論文紹介 参謀総長モルトケの戦争術と作戦術の原点

1870年9月1日、普仏戦争のセダンの戦いの様子を捉えた写真。
この戦闘で敗北したフランス軍は降伏を余儀なくされただけでなく、フランス皇帝ナポレオン三世を捕虜に取られた。
1870年に戦われた普仏戦争のセダンの戦いでプロイセンがフランスに勝利したことは、ドイツ帝国の成立を可能にし、ヨーロッパの国際情勢に大きな影響を及ぼしました。この戦闘でプロイセン軍は巧みな作戦の指導を重視していたことが知られています。

そもそも作戦(operation)とは戦争の目的を達成するために軍隊が取る部隊行動であり、戦略と戦術の中間に位置付けられる概念です。また、戦争の目的を達成するために国家の国力をいかに運用するのかという戦略の内容を踏まえた上で、個々の作戦における我の戦闘力を指向、保持する技術は作戦術(operational art)と呼ばれています。

しかし、作戦術という考え方が登場したのは軍事学の歴史を見ても19世紀以降とかなり新しいものです。今回は、19世紀のプロイセン陸軍軍人ヘルムート・フォン・モルトケを取り上げ、当時携わった戦争の特徴か作戦の意義をモルトケが認識する上でどのような意義を持っていたのかを検討した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Michael D. Krause. 1990. "Moltke and the Origins of Operational Art," Military Review, Vol. LXX, No. 9, September, pp. 28-44.

戦略・作戦・戦術を区別する意義
ヘルムート・フォン・モルトケ(1800-1891)
デンマーク出身のプロイセンの軍人。近代ドイツ陸軍の発展に大きく寄与した功績で知られる。
モルトケはプロイセン陸軍でトルコ軍の顧問、第八軍の参謀、ヴィルヘルム親王の侍従武官等を経て、1857年に参謀総長に任命された人物であり(Krause 1990: 30)、プロイセンがデンマーク、オーストリア、フランスと戦った際には優れた作戦指導でその力量を発揮したとされる軍人です。
現代に残るモルトケの功績の一つは、まだ戦略と戦術という二分法が一般的であった時機に両者の中間に作戦という独自の戦力運用の領域が存在すると考え、具体的には師団から軍団規模の部隊を運用するには、単に戦略や戦術の原則を当てはめるだけでは不適切であると論じたことです。

著者はこのようなモルトケの考え方は1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の時点で、ある程度は確認できるとしており、次のように説明しています。
「モルトケが戦争大臣とその側近に宛てて記した書簡で示した戦役のための作戦概念は、政治的目標(戦争目的)を作戦目標に結びつけるものであった。プロイセンはデンマークを可能な限り素早く打倒しなければならなかったが、モルトケはデンマーク軍が単に沖合の島嶼に後退し、攻撃を避けることができる限りは、戦争で決定的結果をもたらすことは困難であろうと考えた。そのため、モルトケの計画は敵の後退を妨げる上で重要なアイダー川からシュレースヴィヒ川より前方にデンマーク軍を迂回するように構想されていた」(Ibid.: 31)
戦略状況として短期決戦を実現すべき状況だからといって、敵を直ちに撃滅するような攻撃を実施すべきとは限りません。
モルトケの見解によれば、戦略に対する作戦の位置付けは一定の独自性があり、戦略で指定された政治的目標が、作戦で設定すべき軍事的目標を直接規定するような関係として理解されていません。
戦略は本質的に政治的な狙いを持っているものですが、作戦はその戦略を遂行するための方法を軍事的観点から検討すべきであり、だからこそモルトケは戦略上の要求を踏まえながらも、デンマーク軍に対して素早い攻撃を加えることは避けようとしたのです。

ケーニヒグレーツの戦いとその勝利
1866年にオーストリアとの戦争でモルトケが作成した前進計画。
プロイセン軍の攻勢作戦は複数の軸線から成る攻撃として構想されていることが分かる。
(Krause 1990: 32)
デンマークとの戦争が終結した後、モルトケは1866年に勃発した普墺戦争で自らの手腕を発揮することになりました。
当初の分析においてモルトケはオーストリアにプロイセン軍が北方から侵攻する間、イタリア軍を利用してオーストリア軍を南方から牽制させるべきと考えていました(Ibid.: 32)。こうすれば、プロイセン軍に対するオーストリア軍の指向可能な兵力を制限できると期待されます。

しかし、当時のプロイセン国王のヴィルヘルム一世はモルトケの案に難色を示しました。ヴィルヘルム一世は不必要にオーストリアとの戦争に他国を巻き込むべきではないと考えていたため、モルトケは計画において達成すべき政治的、軍事的な目標を再検討し、部隊の動員から行動の開始までの時間を短期間にすることで決定的戦果を収める方針に計画を修正しています(Ibid.: 32)。
こうした処置からもモルトケの戦略と作戦の関係に対する考え方を見ることができるでしょう。

1866年に普墺戦争が勃発すると、モルトケは動員の早期決断を要望しましたが、その理由として、オーストリア軍の主力である27万名と、それとは別の12万名の部隊に対して数的に優越するためには、プロイセン軍の6万7000名では戦力不足だったためです(Ibid.)。
モルトケは27万8000名の部隊を動員し、この主力でオーストリア軍に脅威を与えつつ、西部から4万8000名の部隊をオーストリアの西部方面に向かわせ、反プロイセンの立場に立つハノーファーとヘッセンを2週間で屈服させました(Ibid.: 32-33)。

モルトケは対オーストリアの作戦でも短期決戦の姿勢を取り、ボヘミアに向けて前進するプロイセン軍の部隊をエルベ軍、第一軍、第二軍の3個部隊に区分し、同一の方向に対して各部隊それぞれに異なる前進経路を指示する外線作戦を指導します(Ibid.: 33)。
図上研究であれば、このように広域に部隊を展開させつつ異なる経路を前進する部隊がきちんと隣接する部隊と連携できるのか、各個撃破されるリスクはないのか、という問題が指摘されるところですが、モルトケは部隊の配備を完成させてから間もなく6月15日にオーストリア軍に関する詳細な情報を入手していました(Ibid.)。
敵情を検討したモルトケは、オーストリア軍が部隊を所望の地点に終結させるための所要日数は13日であり、プロイセン軍としてそれよりも早く戦力の集中を行うことは可能であるとの結論に達します(Ibid.)。

実際、プロイセン軍が前進を開始してからオーストリア軍はケーニヒグレーツで防御するために部隊の移動を開始させましたが、プロイセン軍の行動に先んじることはできませんでした。
7月3日に同地で戦闘が始まると、プロイセンの第一軍は正面から、第二軍は側面からオーストリア軍を攻撃させ、エルベ軍をその背後に進出させることで退却を許しませんでした(Ibid.)。
戦闘はオーストリア軍の大敗に終わり、勝利の立役者となったモルトケの名前は広く知られるようになりました。

教訓の研究と普仏戦争における活用
1870年の普仏戦争でモルトケは作戦方向の考え方をより明確に自身の計画に取り入れた。
プロイセン軍はフランス軍の後方連絡線を遮断するように移動し、メッツの部隊を孤立させることに成功した。
普墺戦争で勝利を得たにもかかわらず、モルトケは当時のプロイセン軍の部隊行動については批判的な見方を持っていました。
戦後の1868年7月に国王に対して覚書を提出し、当時のいくつかの師団または軍団の行動に問題があったと指摘し、教範の改訂でもその考え方が反映されています(Ibid.: 35)。

問題の本質は作戦指導において軍や軍団といった大規模な部隊の行動が適切ではないことにありました。
モルトケは「作戦指揮官に要求されることは、自身の活力を全般状況の明確な把握に費やすことであって、細かいことに没頭しすぎることではない」、「指揮官は命令を最小限にしなければならず、作戦の全体を想像すべきである。(中略)指揮官の地位が上がるほど、その命令はより端的かつ単純でなければならない」等と論じています(Ibid.: 35)。

教範の内容を調査した著者は、普墺戦争の検討がモルトケが戦略と戦術の間に位置付けられる作戦という分析レベルの重要性を認識する契機になったとして以下のように論じています。
「彼は指揮官の目標と技術は大規模な部隊を運用する場合と、小規模な部隊を運用する場合とで異なると認識した。つまり、一方の場合で正しいとされていることが、常に他方の場合でも正しいとは限らないのである。モルトケは主導と気勢を保持することを強調し続ける方がよいと考え、新たな教範では銃声に向かって行進せよという原則を再確認した。この教範では、戦役を遂行するに当たって、より上位の方向と呼ばれる戦争の階層構造を区別し始め、また勝利した戦役から教訓をえようと積極的になっていることが分かる。これは『勝者の悲劇』に陥る傾向を克服する上で重要だった」(Ibid.: 36)
こうした検討を踏まえ、モルトケは作戦レベルにおける部隊行動を詳細に研究するようになり、1870年の普仏戦争でその成果を活用しました。当時、攻撃者の立場にあったフランス軍に対してプロイセン軍は反攻に出る準備を整えつつありましたが、モルトケはフランス軍がドイツ軍を正面から攻める事態を避けるため、メス付近に大部分の戦力が集中し、セダン付近に若干の戦力が配置されることを踏まえ(Ibid.: 36)、作戦部隊を機動的に展開して敵地後方に進出することを構想します。

そこでモルトケは戦力を第一軍(6万)、第二軍(13万1000)、第三軍(10万)と区分し、その他にもオーストリアが介入した場合の予備として10万の兵力を残していました(Ibid.: 36-37)。
フランス軍が攻撃から防御の態勢に移り始めた8月、ドイツ軍の各軍は素早く前進、攻撃し始め、メスの南方を西進させてフランスに進入した第三軍をセダンに向けて前進させ、そこのフランス軍の部隊がメスの救出に駆けつけることを阻止することに成功しました(Ibid.: 37-38)。

広大な地域で自在に大規模な部隊を複数運用しているにもかかわらず、指揮統制の困難を感じさせない優れた戦機捕捉でした。これもモルトケが重視した作戦レベルにおける師団、軍団の部隊行動が適切に行われたことによるものであったと著者は考えています。

むすびにかえて
普仏戦争が終結し、その戦果をもってドイツ帝国の成立が宣言された1871年、モルトケは戦略に関する論文を書き、そこで戦略と作戦の関係について以下のように述べています。
「政治はその目的を達成するために戦争を利用する。(中略)戦争には不確実性があるが、政策の目的は存在し続けるであろう」(Ibid.: 38)
「戦略がなすべきは作戦の遂行において軍事力を活用することである」(Ibid.)
「いかなる軍事理論の知識も、指揮官になることを準備するものではなく、自身の性質に含まれるものだけが指揮官になることを準備する」(Ibid.)
特に作戦術に関する考察として興味深いのは、モルトケは「いかなる作戦計画も敵と最初に交戦する前までは確実なものではない」と書き残していることです(Ibid.: )。これは作戦が戦略と明確に異なる部分を端的に表したものと言えるでしょう。
確かに戦略の問題は作戦の問題と厳密に分離できるものではありませんが、作戦は極めて短時間の内に広大な地域の部隊行動について指導するものであるため、優れた作戦のためには平素からの教育と訓練が欠かせないのです。

著者はモルトケの功績を総合的に評価し、次のように述べています。
「決戦、短期戦、機動、戦役の計画と実施、将校団の教育はモルトケが軍事思想に残した功績である。戦争の戦略的レベル、作戦的レベル、戦術的レベルの関係に関する手の込んだ理論的体系を形成しなかったが、モルトケは暗黙裡に戦略は政治的な内容を持ち、作戦は軍事的基礎を持つという事実を認識していたのである」(Ibid.: 44)
確かに、モルトケの研究成果は理論的な体系性という点で見れば、論理的構成がそれほど明確ではないという側面はあります。しかし、彼が残した作戦に関する考察はプロイセン陸軍の参謀総長としての経験に根差したものであり、現代の研究水準から見ても多くの示唆を得ることができます。

KT

2016年7月6日水曜日

論文紹介 世界史におけるランドパワーとシーパワー

国際政治の歴史を振り返ると、ヨーロッパ諸国が大国として行動するようになったのは、比較的最近のことであり、しかもそれは大航海時代の航路開拓によって、その勢力圏を広げる余地を見出したことによるところが小さくないことが分かります。
それまでヨーロッパが世界で有力な勢力となりえなかった理由を考える上で興味深いのが地理学者マッキンダーの論文「歴史の地理的枢軸」(1904年)です。

地政学の古典的研究として知られている論文ですが、今回はその内容の要点を紹介したいと思います。

文献情報
Mackinder, Halford J. 1904. "The Geographical Pivot of History," The Geographical Journal, Vol. 23, No. 4, pp. 421-437.(邦訳、H.J.マッキンダー「地理学からみた歴史の回転軸」『マッキンダーの地政学 デモクラシーの理想と現実』曽村保信訳、原書房、2008年、251-284頁)

アジアから絶えず脅威を受けていたヨーロッパ
19世紀以前の東欧における勢力圏の境界は気候区分と同じ境界に位置してきた。
北側のバルト海、白海の近辺では7月から8月であるのに対して、南側の黒海の近辺では5月から6月となる。また植生を見ると南部では大草原が広がるのに対して、北部では大森林が広がっている。そして、モスクワは北側に位置する。
(Mackinder 1904: 424)
著者がまず指摘するのは、ヨーロッパの定住民族の歴史がアジアの遊牧民族の影響を強く受けていたということです。ウラル山脈以西の東欧ではヨーロッパの諸民族とアジアの諸民族が戦争を繰り返した歴史があったのです。
「例えば『オックスフォード・アトラス』のような歴史的な地図帳を見ていると、いわゆるヨーロッパ・ロシアと東欧の大平原とがほぼ共通した街になったのは、わずか一世紀かそこらのあいだのことで、それ以前の時代には、これと異なる政治的な布置が、執拗に繰り返されていたのを知ることができる。つまり通常二つの国家群が、これを北と南の政治的システムに分けていたのでわけである」(邦訳、256頁)
ここで注目されている南北の境界はカルパート山脈の北端からウラル山脈の南端までの線のことであり、南部は大草原が広がるステップであるのに対して、北部はうっそうとした森林が広がる地域であり、ロシア建国の歴史はこの北部で展開されていたのであって、ステップはその勢力圏に収められていませんでした(同上、257頁)。

ウラル山脈はカスピ海との間に回廊地帯を残しているため、5世紀から16世紀に至るまで、遊牧民族はその回廊地帯を通過して絶えずステップに進出することができました(同上、259頁)。
ヨーロッパ史で特に有名な遊牧民族であるフン族は、アッティラ(406?-453)の強い指導力の下でハンガリーの平野部に拠点を構築し、そこからヨーロッパの定住民族に対して大規模な攻撃を加えてきたのです(同上)。
「約1千年もの間、いろいろな騎馬民族がアジアの方角から入れ替わり立ち代わりやってきて、ウラル山脈とカスピ海の間の広い入り口からヨーロッパに接近し、南ロシアの無人の野を駆け抜けたかと思えば、またハンガリーに本拠を据えて、まさにヨーロッパの心臓部を狙うといった時代がずっと続いた。そして、これに対抗するという、やむにやまれない事情から、ロシアや、ドイツや、フランスや、イタリアや、それにビザンチン時代のギリシア人などといった、偉大な諸民族の歴史が形作られたのである」(262頁)
特に15世紀におけるモンゴル人の襲来はヨーロッパの形成にとって決定的な意義を持っていました(同上、264頁)
。というのも、その優れた機動力を持つ軍勢によって東欧だけでなく、ペルシア、メソポタミア、中国北部にまで勢力を拡大し、ユーラシア大陸の大部分を政治的に統一したためです(同上、268頁)。これはヨーロッパ人を含む「旧世界の周辺部に属するあらゆる定住民族は、遅かれ早かれ、中央アジアのステップに由来する機動戦力の勢力拡張の動きのおののかざるを得ない境遇に置かれていたのである」という状況でした(同上)。

アジアのランドパワーとヨーロッパのシーパワー
ユーラシア大陸の中核となる部分は、異常な広がりを持ったステップであり、この空間を戦略的に活用できた遊牧民族が世界各地の定住民族の歴史に大きな影響を与えてきた。大航海時代までのヨーロッパの勢力圏はヨーロッパ大陸に閉じ込められてきたが、大航海時代以降のヨーロッパは海上交通路を通じて新たに勢力圏を広げる活路を見出した。
(Mackinder 1904: 429)
ここで重要なポイントは、ユーラシア大陸の中央に分布する広大なステップ地域は遊牧民族の移動手段である馬に極めて適した空間であるばかりか、その地域を経由すれば、遊牧民族の攻撃目標となり得る中国、インド、中東、ヨーロッパのいずれにも接近可能である、ということです。
「こうして、ようやく我々が到達したユーラシアの概念を要約すれば、それは大体次のようになるだろう。すなわち、この一続きの陸の塊は、その北部を水で覆われ、また他の部分を太陽によって取り囲まれている。(中略)その反面、この地域一帯は、北極圏に属する森林地帯を除いて、馬やラクダを利用する遊牧民族の運動に極めて適している。そして、この中心地体の東側、南側および西側には、大きな半月後の形をした周辺の諸地域があって、ここには世界の船乗りたちが自由に接近できる」(邦訳、269-270頁)
したがって、ステップを支配する遊牧民族の勢力の源泉は、その組織化された騎兵であると同時に、その騎兵を機動的に運用可能な戦略陣地を確保していることにあったと言えます。そこさえ押さえておけば、遊牧民族はユーラシア大陸の大部分に戦力を投射し、軍事的に弱小な勢力を支配し、そこから経済的な利益を獲得することもできたのです。

こうした優位性を覆したのが16世紀以降に開拓された海上交通路であり、著者に言わせればそれは弱者だったヨーロッパが海洋勢力として台頭することを可能にしたという意味で画期的なものでした。
「ところが、新しい交通手段を持ったヨーロッパの人々は、これまで知っていた海や沿岸の陸地に比べて、一挙に数十倍もの世界を獲得したばかりでなく、さらに一点して、これまで彼らの存在に脅威を与えていたアジアのランドパワーを、今度は逆に政治的、軍事的に包囲できる立場に立ったのである」(同上、274頁)
アジアのランドパワーをヨーロッパはシーパワーによって乗り越えた、というのが著者の基本的解釈ですが、ただし大航海時代の中でロシア人がコサック部族を組織し、その勢力圏をステップに広げていったことも同じ重要性があるとも指摘しています。これはロシアがモスクワからシベリアへと領土を広げることを可能にした重要な一手でした(同上、276頁)。

ユーラシアを支配するロシアのランドパワー
マッキンダーの論文で最もよく引用される地図「勢力の自然的基礎(The Natural Seats of Power)」
ユーラシア大陸の中枢地域(pivot area)とその周辺に位置する内側もしくは限界的半月弧(inner or marginal crescent)、さらにその外周に外側または島嶼的半月弧の陸地(lands of outer or insular crescent)が位置付けられている。
(Mackinder 1904: 435)
著者は、以上のような考察を踏まえてユーラシア大陸の中心地を支配することの政治的、軍事的な重要性を示し、その優位がシーパワーによって大いに相殺されることになったことを認めています。
しかし大陸横断鉄道が発達したことによって、ランドパワーを規定する条件も変化していることを指摘し、それをロシアが利用すれば、その勢力は大いに増大する可能性があるとも考えられています。
「昔は騎馬民族がステップを中心にして、遠心的に各地に攻撃をかけていた。が、今ではロシアがこれに代わって、フィンランドに、スカンジナビアに、ポーランドに、トルコに、ペルシアに、インドに、そしてまた最近は中国というふうに、次々と圧迫を加えてきている。あたかもドイツがヨーロッパにおいて占める地位に似て、ロシアは世界全体との関係において、戦略上中枢の地位を占めているとはいえないだろうか」(同上、279頁)
ここで興味深いのは著者がやがて大陸を支配した国家が、その資源を艦隊の建設に役立てようとするシナリオも考えられると論じていることです。
「さて、ところで今の勢力関係を破壊して、回転軸となる国家に有利な地位を与えることは、やがてユーラシア大陸周辺の諸地域に対するその勢力の膨張を促し、引いてはまた膨大な大陸の資源をその艦隊の建設に役立てさせる結果にもなる。もし万が一ドイツとロシアとが合体したら、たちまちこの可能性が現実化する恐れがある」(同上、280頁)
著者に言わせれば、大陸の国家がシーパワーを持つことができないというわけではなく、ユーラシア大陸に分布する人的、物的資源を統一的な政策の下に動員することができれば、その国家が持つランドパワーはシーパワーに再編成することは可能であると考えられます。
特に著者が注目しているのがドイツの動きであり、当時のドイツはイギリスを相手取りながら急速な海軍の増強を行っていました。

こうした脅威に対抗するために、著者は海上戦力で対抗するのではなく、あえて陸上戦力で対抗することを視野に入れた政策を提案しています。
「したがって、もし仮にこのような不幸な事態が発生したら、フランスとしては万やむをえず海外の諸国と同盟をしなければならなくなるだろう。その場合、フランス、イタリア、エジプト、インドや朝鮮半島などは、ことごとく有力な橋頭保になり、ここでは列国の海軍がそれぞれ上陸部隊を支援して、内陸の同盟国家群に地上兵力の拡散を強いるかたちとなり、これによって回転軸の勢力がその艦隊の建設に専念できないようにすることが予想される」(同上、280頁)
これはユーラシア大陸の中枢地域を支配する大陸国家が艦隊の建設に資源を配分できないように、地上から軍事的圧力を加えるという政策です。
海で戦おうとする相手を陸に引き付ける上で重要なのが沿岸地域を領有する国家であり、イギリス人の視座から見れば、フランス、イタリア、エジプト、インド、朝鮮が特に重要な橋頭保となると考えられています。

むすびにかえて
最後にまとめると、この論文においてマッキンダーが果たした貢献は、世界規模で展開されてきた政治史を地理学の知識と結びつけたことにあります。
地政学においてランドパワーの概念を提起したと紹介されることが多いのですが、古来からユーラシア大陸を中心に展開されてきた諸民族の興亡の歴史を知ることが、近代の国際政治の理解を深めることに繋がることを示したという意味でも興味深い内容であり、歴史と地理という二つの視点が政治を理解する上でどれほど有益なものかを私たちに教えてくれる研究です。

KT

2016年7月1日金曜日

論文紹介 安全保障学とは何か

危険で不確実な世界で生き残りの確率を少しでも高めるため、古来より人間は国家を防衛する方法を研究してきました。
その意味で安全保障学には長い歴史があり、古代ギリシアのトゥキディデスや孫子にまでさかのぼることができるでしょう。しかし、安全保障学という学問が政治学、特に国際関係論で明確な位置付けを与えられたのは、やはり核兵器が登場した20世紀中盤以降のことだと言えるでしょう。

今回は、政治学者スティーヴン・ウォルトによって発表された米国における安全保障学の研究史に関する論文を取り上げ、安全保障学とはそもそもどのような学問なのか、どのように発達してきたのかを紹介したいと思います。

文献情報
Stephen M. Walt. 1991. "The Renaissance of Security Studies," International Studies Quarterly, 35: 211-239.

安全保障学は戦争を考える学問
著者は安全保障学の最も基本的な定義として「軍事力の威嚇、使用、管理に関する学問」と述べており、その基本的な関心は戦争に関する事象にあるのだと論じています。
「学問領域の境界には浸透性があるため、安全保障学の正確な範囲を描き出すいかなる試みにも何らかの恣意性が生じる。しかし、安全保障学の主な焦点は容易に特定することができる。すなわち、それは戦争に関する事象である。安全保障学は国家間の紛争が常に発生する恐れがあり、軍事力は国家と社会に絶大な影響を及ぼすものと想定する。したがって、安全保障学は軍事力の威嚇、使用、管理に関する学問と定義できるかもしれない。安全保障学は武力を使用しやすい条件や、武力の使用が個人、国家、社会に与える影響、また戦争を準備し、予防し、実施するために国家が採用した特定の政策について検討する」(Walt 1991: 212)
学問の分類体系に安全保障学を位置付けるとすれば、安全保障学は政治学の一分野と位置付けられるでしょう。
ただし、著者が「安全保障学は基本的に政治学を基礎とするものの、それは常に学際的な研究であった」と述べたように(Ibid.: 214)、安全保障学は一つの方法論でまとめられる研究領域ではないため、さまざまなアプローチが可能な学際的研究と言えます。

しかし、安全保障学は成立当初から学際的な研究であったわけではありませんでした。1950年代に始まった安全保障学という研究領域が現在のような学際化が進むまでには20年程度の時間がかかったのです。

米国における安全保障学の出発
著者によれば、安全保障学が活発に研究されるようになった根本の理由は、第一次世界大戦の経験から多くの人々が戦争は「将軍だけに任せるには重要すぎる」と考えるに至ったためです(Ibid.: 214)。
それまで、一般市民が外交や軍事という問題を学問的に取り上げることはなく、その必要性も認識されていませんでしたが、第一次世界大戦で多くの国民は直面する問題の解決を軍人任せにしていてはいけないという考え方を持つ人が増加していきました。

こうした社会背景を受けて、米国では1950年代以降に安全保障学の研究が本格化しましたが、この時期に登場した核兵器がもっぱら研究の対象でした。
核兵器は絶大な威力を持ち、第一線の軍隊どころか都市や産業さえも破壊することが可能であったため、その運用に関する研究が必要とされたのです(Ibid.)。

大量破壊兵器の運用から研究は出発し、抑止(deterrence)、強制(coercion)、エスカレーション(escalation)等の重要な概念が次々と戦略研究に導入されていきました(Ibid.: 214)。
こうした研究を通じて特に発展が著しかったのが数理モデルの応用であり、ゲーム理論やシステム分析等の分析手法が活用され、データベースの構築も進められました。この時期に活躍した研究者にはバーナード・ブロディ、ヘンリー・キッシンジャー、アルバート・ウォルステッター等がおり、彼らは今でも安全保障学の研究の理論的基礎を構築した功績で高く評価されています。

「安全保障学のルネサンス」
しかし、ベトナム戦争が始まった1960年代に入ると、研究活動は壁にぶつかることになりました。
特に重要な要因だったのは安全保障学の研究をけん引していた最初の世代が次世代の博士号保持者を適切に養成できなかったこと、またベトナム戦争で米国が直面した問題はそれまで研究されていた核戦略の枠組みをはるかに超えた複雑な問題であったことです。
そのため、著者は当時の研究者が従来の研究のあり方を見直す必要に迫られたと指摘しています(Ibid.: 216)。

「安全保障学のルネサンス」と呼ばれる第二の研究の発達期が到来するのは、1970年代の中盤のことであり、ベトナム戦争が終結したこの時期からルネサンスの時代で活躍する新たな研究者が登場し始めました。
この世代の研究の特徴を著者は次のように説明しています。

・歴史の活用:安全保障上の問題を理解する上で歴史的事例を参照するアプローチが発達。
・合理的抑止論への挑戦:歴史的事例を駆使した合理的選択理論に基づく抑止理論の批判的考察。
・核政策:研究に必要なデータや分析手法が一般に利用可能となり、核政策の研究が発達。
・通常戦争:通常戦力の運用の戦略的重要性が再認識され、戦略、戦術の研究が活発化。
・米国の大戦略:軍事的手段だけでなく、政治的、外交的、経済的手段等を駆使して安全保障を追求する方法への関心が増大。
・安全保障学と国際関係論:現実主義、自由主義といった古典的なモデルだけでなく、期待効用理論や同盟理論等の数理的モデルの導入が進んだ国際関係論の領域への接近。
・大学の役割拡大:安全保障の研究で主導的役割を果たした研究者の多くがシンクタンクに所属していたが、この時期から大学で研究が活発化。

著者が指摘している特徴で特に興味深いのは、安全保障学という学問の領域が大きく拡大されていることです。
核戦略の研究が中心だった過去の安全保障学では、歴史的事例に基づいて研究を発展させることができませんでした。そのため、必然的に理論志向の強い研究領域となり、数理的モデルの構築が重視される傾向にありました。

しかし、歴史的アプローチがこの時期から活発に研究で応用され始めたこと、そして伝統的な通常戦争への関心が復活し、歴史と通常兵器を用いた戦争への関心が見直されると、伝統的な軍事史の価値が見直されることになり、同時に安全保障の非軍事的側面も分析の対象とされるようになっていったのです。
これは安全保障という複雑な問題に取り組む上で重要な一歩となり、1980年代以降に安全保障に関する研究が持続的に発展することに寄与しました。

むすびにかえて
安全保障学がどのような学問であり、研究は日本では必ずしも活発ではない理由は一通りではありません。米国でさえ安全保障学の研究は一時停滞したことを考えれば、必ずしも日本に固有の問題ではなく、さまざまな要因が複合しているのではないかと考えられます。

著者は米国で「安全保障学のルネサンス」が可能になった条件について考察しており、
(1)ベトナム戦争の終結に伴って若い世代が米国の政策的、戦略的失敗に関心を持ったこと、
(2)米ソのデタントが崩壊し、新冷戦の下で新たな問題関心が盛り上がったこと、
(3)研究者が利用できる公式、非公式の関係資料が入手可能になったこと、
(4)定期刊行物、特に学術誌が増加したこと、
(5)フォード財団等が研究に出資し、研究の財源が拡大したこと、
(6)社会科学の一分野に安全保障学が位置付けられたこと、
を具体的な要因として挙げています。

この論文は米国における安全保障学という学問がどのように発達してきたのかを理解するための研究ですが、日本において将来的に安全保障学の研究を発展させるために、どのような取り組みが必要であるのかを考える上でも参考になるところが少なくないと思います。

KT