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2016年10月29日土曜日

モーゲンソーが考える国力の九要素

国際政治を理解する際には、ある国家と別の国家のどちらが優勢なのかを判断することが重要です。ここを間違えてしまうと、どちらの国家から軍事行動を仕掛ける恐れがあるのかを予測することもできず、また外交交渉によって衝突を回避する場合、どの程度の譲歩が必要なのかを検討することもできません。相対的な勢力関係を見積ることは、こうした問題を考える上で役立ちます。

しかし、国際政治において国家が持つ力は必ずしも単一の要素だけで成り立っているわけではありません。国力は非常に複雑な能力であり、政治的、経済的、外交的、軍事的要素などを考慮する必要があります。今回は、こうした国力に対する理解を深めるため、国際政治の分野で大きな業績を残した政治学者ハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau, 1904-1980)の説を取り上げてみたいと思います。

(1)地理
モーゲンソーの著作『諸国民の政治(Politics among Nations)』(邦訳、『国際政治』)においては、国力の要素として第一に地理が取り上げられています。一言で地理と言っても、国土の面積や形態などさまざまな側面がありますが、モーゲンソーはその一つの例として、地球上のどこに立地しているかによって、その国家が有する能力が決まると考えました。
「国家の力を決定する諸要素のなかで、明らかに地理が最も安定した要素である。例えば、アメリカの大陸領土が、東に3000マイル、西に6000マイル以上の広がりを持っている水域によって他の大陸から隔てられているという事実は、世界におけるアメリカの地位を決定する永続的な要因である」(モーゲンソー『国際政治』120頁)
地理的要因の重要性は輸送手段の発達によって低下したという見方もありますが、技術(例えば、航空機、ミサイル)がどれほど発達したとしても、国家の位置関係に関する重要性が低下していると断定すべきではないというのがモーゲンソーの立場でした。
その見解によれば、アメリカの置かれた地理的環境は確かに変化していますが、だからといってその孤立性がなくないと明確に述べています(同上)。これはアメリカがヨーロッパとアジアから切り離されているという地理的事実が持つ意味合いが多少変化したからといって、アメリカの対外政策を恒久的に制約する要因としての地理を軽視してしまうと、国力を正しく捉えることができない恐れがあるためです。

(軍事地理学から見た国土の地理的条件の意義については過去の記事「国土防衛を考えるための軍事地理学」でも取り上げています)

(2)天然資源
モーゲンソーの分類方法によると、天然資源は必ずしも鉱物資源やエネルギー資源だけではなく、(少し奇妙な言い回しかもしれませんが)食料のような生活必需品も含まれています。ここでは食料と原料の二つについて取り上げたいと思います。

政治学者が国力の一要素として食料に対して関心を寄せる最大の理由は、それを自給自足できることが緊急事態における国民の生存を保証してくれるためです。
第二次世界大戦を控えたイギリスの食料自給率がおよそ30%であったため、戦時中においても船舶輸送によって海外から食料を調達する必要があり、これが潜水艦や航空機によって脅かされれば、イギリスの食料が枯渇する危険に直面したことがあります(同上、123頁)。
このように、食料の供給能力に問題がある国家は、他国からの輸入に依存することになり、その依存は戦争において敵に突かれるかもしれません。

国力の一要素としての原料の重要性は、産業革命以降において軍需産業が稼働するために減量を管理することが不可欠になったことが関係しています。
モーゲンソーは1936年に行われた研究において、軍事目的の工業生産で必要となる鉱物の割合が石炭40、石油20、鉄15、銅4、錫4、マンガン4、硫黄4、亜鉛2、アルミニウム2、ニッケル2と見積られていたことを紹介しています(同上、125頁)。

ただし、それぞれの原料が持つ価値は技術の進歩とともに変化するものであり、第一次世界大戦以降の石油や、核の時代におけるウラニウムのように突如として戦略資源として計算される対象となる鉱物が出てくることにも注意を促しています(同上、126頁)。国家の国力を評価するためには、どのような原料が産業的に重要であるかを知っておくことが必要なのです。

(3)工業力
先ほど述べた天然資源をいくら豊富に持っていたとしても、それを国家が活用するためには土地、資本、労働力という生産要素がなければならないことは明らかです。
例えばモーゲンソーはインドは石炭や鉄鉱石の埋蔵地域としてアメリカやソ連に伯仲していると評価されているものの、豊富な原料を処理するための近代的な製鉄工場が建設されておらず、またインド人の大部分もそのような産業を成立させるための労働力を提供できないため、国力として活用されていないと指摘しています(同上、127頁)。
「現代の戦争のための輸送およびコミュニケーションの技術は、重工業の全面的な発達ということを国力の不可欠の要素にしてしまった。現代の戦争における勝利は、高速道路、鉄道、トラック、船舶、飛行機、戦車、さらには、魚雷網および自動小銃から酸素マスク、誘導ミサイルに至るあらゆる種類の装備と武器の質と量によって決まる。そのため、力をめぐる諸国家間の競争は、より大型の、より優れた、より多くの戦争手段の生産競争へと大きく変質している。工業施設の質および生産能力、勤労者の知識、技術者の技能、科学者の発明能力、官吏組織など、これらすべてが一国の工業力を、したがって国力を左右する要因なのである」(同上、128頁)
モーゲンソーの見解によれば、現代の国際政治の特徴は、大国としての地位を得るために要求される工業力の水準が飛躍的に向上したことであり、これは大国と中小国との格差がますます広がり、さらに固定化される傾向をもたらしています。

古代や中世の国際政治とは異なり、近代以降の国際政治では国家間の競合で用いられる軍事力は高度な知識や技術に裏付けられた工業に基礎を置いています。モーゲンソーはソ連が大国として台頭できた経緯について、「1930年代に一流工業国の地位に仲間入りして初めて、事実上の大国となった。またソ連は、50年代に核戦争を遂行できる工業力を獲得して、ようやくもうひとつの超大国の地位を得てアメリカの対抗国となったのである」と述べています(同上、128頁)。
その国家の産業構造が変化し、工業の比率が増大することは、経済学的に見れば経済発展の一段階に過ぎませんが、政治学的に見れば大国として台頭する準備段階でもあるのです。

(4)軍備
軍備は国力の中心的要素であり、それは国際政治の力学を形作るものです。モーゲンソーは「地理、天然資源、工業力などの諸要因が、国家の力にとって実際上の重要性を持っているのは、これらの要因が軍備の関係があるからである」として、軍備の重要性を強調しています(同上、129頁)。

軍備を構成する要素として最初に取り上げられなければならないのは科学技術です。科学技術は軍備と独立した要因と考えることもできますが、モーゲンソーの説では軍事技術としての側面が重視されています。なぜなら、科学技術こそ強力な武器の使用を可能にする前提であったためだと考えられているためです。

ヨーロッパの列強が15世紀から19世紀にかけて世界各地で勢力を拡張することができたのは、伝統的な武器に取って代わる火器が登場したためであり、これが騎兵や城塞の優位を覆していきました(同上)。こうした変化は20世紀においても健在であり、代表的な革新としては、潜水艦、戦車、航空機、そして核兵器とその運搬手段が挙げられています。その中でも核兵器が国際政治にもたらした影響は格別のものであったと言えます。

科学技術が軍備の重要な要素であるとしても、それを効率的に運用できなければなりません。モーゲンソーは軍事的リーダーシップを軍備の一要素と見なし、この要素についても考察しています。
「18世紀におけるプロイセンの力は、主としてフリードリヒ大王の軍事的天分と、彼が採用した戦略および戦術面での革新とを表すものであった。戦争術における変化は、1786年のフリードリヒ大王の死と、ナポレオンがプロイセン軍―それ自体は20年前と同様に当時も優秀で強力であったが―を破った1806年のイエナの戦いとの間に起こった。しかし、より重要なことは、フリードリヒ大王の死後も繰り返し彼の戦略・戦術を採用して戦いを行っていたプロイセンの指導者の中に、軍事の天才がいなかったということである」(一部訳文修正、同上、131-2頁)
モーゲンソーのこの言葉を解釈すれば、軍事的リーダーシップの優秀性を維持するためには、軍隊を運用する能力を持った指導者が必要であるということになります。そうした優れた人材が国家にいれば、軍隊の能力を引き出す上で有利になるということになります。

最後に軍備を規定する要因として重要なのが、軍隊の規模と効率です。その国家に何名の兵士が必要なのか、配備された武器や装備はどの程度の数が適当か、それら武器や装備はどの程度の性能であるべきか、これらは基本的な問題ではありますが、やはり国家の防衛の根本にかかわる問題でもあります(同上、133頁)。
これらの問題に対して装備が劣悪でも大規模な軍隊をもって対応するのか、それとも高性能な装備を持つ少数精鋭の軍隊で対応するのかは国家によってさまざまであり、モーゲンソーはここにその国家の個別の事情が反映されるものと考えていました。

(5)人口
モーゲンソーにとって人的資源の問題は量的側面と質的側面の両方と関係していますが、モーゲンソーが考える国力の要素としての人口の問題はまず量的側面でした。
総人口の大きさがそのまま国力を決定するわけではないのですが、モーゲンソーはその国家の人口の規模がある程度大きくなければ、近代戦争の遂行に必要な産業を動かすことも、戦闘部隊に人員、武器、弾薬を補充することもできないと述べています(同上、133-4頁)。

とはいえ、あまりに人口が膨張すると、それが国家の成長を抑制する場合もあることについても考慮しなければなりません。
「したがって、国力の物的な手段を作り出したり、それを利用したりするのに十分な人口がなければ、国家は一級国にはなりえないということは明らかである。他方で、ある国が多くの人口を持つということは同時に、その国力に極めて否定的な影響を及ぼすこともあり得る、ということが最近になって初めて明らかになった。こうしたことは、インドやエジプトのようないわゆる低開発国において起こっている。これらの国々の人口は死亡率の減少によって大きく減少したが、その食糧供給は人口増加に追いついていかなかった。これらの国々は絶えず飢饉の脅威に直面し、また多数の栄養失調および病気の人々の面倒を見なければならなかった」(同上、135頁)
このような形で人口が国力と関係していることを踏まえて、モーゲンソーは単に各国の人口の総数を把握するだけでなく、その年齢分布に注目することの重要性にも触れました。その説明は次の通りです。
「所与の人口における年齢分布は、力を算定するときの主要な要素である。他の事情がすべて等しい場合、軍事や生産に関する目標に取って最大限の潜在的な有効性を発揮するような人口(だいたい20歳から40歳の間の年齢)を比較的多くもつ国家は、その人口構成で老年層が優位を占めている国家よりも力に置いて優位に立つことになろう」(同上、136頁)
つまり、国力としての人口を検討する際には、総人口よりも労働力人口に注目しなければならないということになります。
この労働力人口をある程度確保するために重要なのが出生率の水準であり、モーゲンソーは政治家はこれを注意深く見極め、必要があれば対策を打ち出すべきだと論じており、また「我が国が世界のリーダーシップにおいて高い地位を保持し、また、外圧に対して自国を守ることができる大国として生存しようとするならば、わが国民はあらゆる手段で家族の人員を増やすよう励まなくてはならない」というチャーチルの言葉を紹介することで、国際政治における国家の地位がこの出生率と関係があることを紹介しています(同上、137頁)。

(6)国民性
先ほどの人的資源の問題との関係で重要なのが、国民性そして国民士気という二つの質的側面です。モーゲンソーはある国民の文化や慣習が長期間にわたって維持されていることに関心を持っていました。国民性は決して定量的に分析できる対象ではありませんが、繰り返し示される態度や傾向のようなものとして考察することができます。

モーゲンソーが国民性に関する考察して紹介しているものに、プロイセンの宰相として知られるオットー・フォン・ビスマルクの回顧録の一節があります。
かつてビスマルクは外交官としてロシアのサンクト・ペテルブルクに駐在していたことがありましたが、ロシアの皇帝は早春になるとポール宮殿とネヴァ川の間にある庭園を散歩する習慣がありました(同上、139頁)。
ある日ロシア皇帝が散歩していると、芝生の真ん中に衛兵が立っていることに気が付き、なぜそこに立っているのかを問いただしました(同上)。すると衛兵は命令に従っているだけで、自分がそこに立たなければならない理由は知りませんでした。そこで皇帝は上官に問い合わせ、原因を探ることにします(同上)。しかし、冬も夏もそこにずっと警衛として立ち続けなければならないという命令が誰から出されているのか誰も知らず、しかもそれが何のための命令なのかも分かりませんでした(同上)。

しばらくして、この話題が宮廷に広まると、一人の老従者が自分の父親から聞いた話を報告します。それによると、かつてエカチェリーナ女帝がその場所でスノードロップが早く咲いたことに気が付き、これを摘み取らないように命令を出したことがあり、その命令を実行するために以降は一年中衛兵がその場所に立つことになったという経緯でした(同上)。ビスマルクはこの話を紹介した上で次のように評しています。
「こうした話によって、われわれは一方で興味を持ち、また他方で非難をしたくなる。だが、この話は、ロシア人の性質の強さの原因となっている根性と忍耐―これは他のヨーロッパ人に対するロシア人の態度のなかにみられる―を示すものである。この話から1825年のサンクト・ペテルブルクで起こった洪水のときの番兵と、また1877年のシブカ山道における番兵のことが思い出される。二人とも救出されず、前者は溺死し、後者はその場で凍死したのである」(同上、139-40)
このような形で浮き彫りになる国民性は、その国民が戦時または平時に国家のために行動を起こし、政策を支持し、世論を形成する上で影響力を持っているとモーゲンソーは考えました。しかし、モーゲンソーの著作でもこの要因については曖昧さが伴うことに注意しなければならないと繰り返し述べられています。

(7)国民士気
国民性と同じように観察、測定が難しい国力の要因として国民士気があります。モーゲンソーが述べている国民士気とは決して軍事行動だけでなく、農業生産、工業生産などあらゆる国民の活動領域に作用するものです(同上、144頁)。とはいえ、やはり戦争の遂行に対する影響が重要な意味を持っています。

そもそも士気という用語は軍隊を構成する兵士が進んで戦おうとする気持ちを意味します。モーゲンソーは国民の士気が国力の要素である理由について「それは一部は国民の士気が軍事力に及ぼすと思われる影響力のためであり、また一部は、対外政策を追求しようとする政府の決意に対して国民の士気が及ぼす影響力のためである」と論じています(同上、147頁)。したがって、戦争を遂行する能力が国際政治における国家の地位を決めるという考え方はここでも一貫しています。

モーゲンソーは国民士気という国力の要素が非常に不確かなものであるという見方に同意していましたが、それが強化される場合と弱化される場合とは、政府と社会の分断の程度によって判断できると考えてもいました。
「国民の士気の質がどんなに予測不可能な者であろうとも、とくに重大な危機の場合、国民の士気が高まりそうな明白な状況がある。ところが、ある一定の異なった条件の下では、国民の士気の低い状態が有利な場合もある。一般にいえることは、国民が自己の政府の行動と目標とに一層密接に同一化すればするほど―もちろん、とくに対外問題においてであるが―国民の士気が高まるチャンスは一層多くなり、また、それとは反対に同一化が密接でなくなればなくなるほど、その士気高揚のチャンスはますます少なくなるのである。したがって、18、19世紀の独裁国のイメージによって現代の全体主義国家を誤ってみてしまう人々だけが、ナチス・ドイツでは国民の士気がほとんど最後まで高かったということに驚嘆するのである」(同上、149頁)
つまり、政府と社会の関係が一体的であるほど、国民士気は高まりやすいということになります。そのため、モーゲンソーは国内が階級的、人種的、宗教的に対立している事態を政府が解決できない場合に国民の士気は低下する傾向にあり、例えば第二次世界大戦の前のフランス国内にはこうした傾向があったと述べました(同上、150頁)。

(8)外交の質
外交の質は国力の要因として極めて大きな意義があると考えらえています。ここに問題があれば、これまで述べてきた国力の要素の優位も消失してしまう恐れがあるためです。このことについて、モーゲンソーは次のように警告しています。
「外交の質以外の、国力を決定する他のあらゆる要因は、いわば国家の力を構成する素材である。国家が持っている外交の質は、これらのいろいろな要素を、統合的な全体へと結びつけ、それぞれの要素に方向性と価値を与え、そしてこれらに現実的な力の息吹をかけることによって、その眠っている潜在力を揺り動かすのである」(同上、150-1頁)
この記述で興味深いのは、モーゲンソーが国力が単なる人的、物的資源の集合体ではなく、国際情勢に応じて適切に使われることが必須だと考えていた点です。
これは広大な領土、豊富な資源、先進的な経済力、効率的な軍事力、多数かつ有能で、士気も盛んな人的資源をいくら抱えていたとしても、それらを駆使して国際社会における自国の地位を維持または増進することができないのであれば、その国家の実質的な国力は大したものではないということを意味します。
「外交とは、ちょうど国民の士気が国力の精神であるように、国力の頭脳であると言ってかまわないだろう。もし外交のヴィジョンがぼけてしまうなら、もし外交の判断に欠陥があるなら、そしてもし外交の決断力が虚弱であるなら、地理的位置、食料・原料・工業生産物の自給自足能力、軍備、さらには人口の規模と質といったあらゆる利点は、結局は国家にとってほとんど意味がなくなるだろう。これらすべての利点を誇ることのできる国家は、それにふさわしい外交を行えないような場合でさえも、本来もっている財産だけの重みによって一時的な成功は収めるであろう。しかし長期的には、そうした国家は固有の財産を、事故の国際的な目標のために不完全に、ためらいがちに、また無駄に使用することによって、浪費してしまうのである」(同上、151)
モーゲンソーが理想的モデルと見ていたのはイギリスでした。イギリスの歴史を調べると、チェンバレンのように対外関係を巧妙に処理できなかった時期も一部に見られますが、全体として見ればイギリスを支配してきた貴族階級はイギリスの勢力を全世界にわたって拡張することに成果を上げており、その優秀性は一つの制度としてイギリスの中に確立されていたと高く評価しています(同上、153頁)。

(9)政府の質
最後にモーゲンソーが国力の要素として挙げているのは、政府の質と呼ばれているものであり、これは三つの観点から評価できると論じられています。第一に、国力を形成する各種資源と政策のバランスを保持しているかどうか、第二に運用する物的、人的資源の間のバランスを保持しているかどうか、第三に追及されるべき対外政策について国民の支持があるかどうか、以上の三点です。
「第一に、良質の政府は対外政策の目的および方法を選択する場合、それらを最大限首尾よく支えるために利用できる力を考えていかなければならない。国家の視野を極めて低次元におき、自らの力の及ぶ範囲内で対外政策を設定する国家は、諸国家からなる会議で果たすべき正しい役割を放棄することになる。アメリカは戦間期にこの過ちを犯した。ある国家はまた、その視野をあまりにも高次元におきすぎて、利用できる力をもってしてもうまく実行され得ないような政策を追求するかもしれない。これはアメリカが1919年の平和交渉において犯した過ちであった」(同上、155頁)
言い換えれば、これは達成すべき目標とそのために使用できる手段の間の均衡を保ち、実行可能性のある政策を立案する能力と考えることができるでしょう。
また、どのような手段が利用できるのかを考える場合にも、国力のさまざまな要素をバランスさせることを同時に行わなければならず、モーゲンソーはこの点について「郡の要求と民間の要求との間でバランスをとらなければならない」と説明しています(同上、156頁)。こうしたトレードオフの問題を解決できなければ、政府は決定した政策を完遂することはできないでしょう。

こうした資源配分の問題に勝るとも劣らないのが国民の支持という問題です。これは民主主義を採用する国家にとって特に処理が難しい課題であり、モーゲンソーはその理由について次のように解説しています。
「政府は、その対外政策に対する自国民の承認と、国力の諸要素―これが政策を裏付ける―を動員するためにもくろまれる国内政策への国民の承認とを獲得しなければならない。このような作業が困難なのは、ある対外政策に対する民衆の支持が得られる条件が、対外政策を首尾よく追及できる条件と必ずしも同一ではないからである」(同上、157頁)
このような状況で政府に要求されることは、国民の世論をそのまま政策に反映させることではない、とモーゲンソーは論じています。というのも、国民は政府と異なる視点を持っており、より短期的利益を追求し、非妥協的な姿勢で問題に当たる傾向があるためです。
「民衆の気持ちは、政治家の考えが優れた特性を持っているのだと、ということに気付かず、たいていの場合、絶対善とか絶対悪とかいった単純な道義主義的かつ法万能主義的な観点からものを判断している。政治家は長期的な見方をとり、ゆっくりと遠回りして進み、大きな利益を得るために小さな損失を支払わなければならない。すなわち政治家は、曖昧な態度をとったり、妥協したり、よい時機を待ったりすることができなければならない。民衆の気持ちは早急な成果を求める。すなわち、今日の表面的な利益のために明日の本物の利益を犠牲にしようとするのである」(同上、158頁)
したがって、政府は重要ではない問題については妥協しなければなりませんが、重大な国益を実現するためであれば、社会の反発を乗り越えてでも政策を実行しなければなりません。
モーゲンソーの考える優れた政府とはこうした判断を下すことができるものです。このような考え方から、別の箇所においては「政府は世論の指導者であって、その奴隷ではないということを自覚する必要がある」とも述べられています。

むすびにかえて
これら国力の九要素の相互関係についてですが、モーゲンソーは地理のような安定した要因の上に国民士気のような不安定な要因があり、相互に影響し合いながら変化すると考えていました。しかもそれは、一カ国の内部で変化するだけでなく、二カ国、または数カ国の相互作用によっても変化するものであり、また時間の経過によっても影響を受ける性質があります。
こうした事情から、国際政治における各国の勢力を厳密に測定することは大変困難です。

結局のところ、数理モデルのようなアプローチで国力を数値化し、それを比較するという作業には技術的にさまざまな問題があり、モーゲンソー自身もそのようなモデルを構築するには至っていません。このことが国家間の勢力関係の優劣についても矛盾する見解が出てくる原因にもなっています。このことに多少の失望を覚える方もいるでしょうが、それでもモーゲンソーの研究は今なお国力に関する最も包括的な考察であり、政治学者が考慮すべき要素が軍備や外交だけであってはならないと明確に指摘した意義はやはり大きなものがあります。

また、ここで取り上げた国力の九つの要素は、国家が長期的に取り組むべき基本的な政策課題でもあります。モーゲンソーの説によれば、これらのいずれかの要素が損なわれる事態が生じると、それは国力に負の影響をもたらす可能性があると考えられるためです。このような観点から見れば、国力の九要素は政策論争において個々の課題の優先順位や全体の政策構想を考えるためのチェックリストとしても活用できるでしょう。

KT

参考文献
Morgenthau, Hans J. 2005(1948). Politics among Nations: the Struggle for Power and Peace, 7th edition. New York: McGraw-Hill Humanities.(邦訳、モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会、福村出版、2008年)

2016年10月22日土曜日

論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦

現在、自衛隊では水陸機動団の創設や、有事における民間の輸送船の活用などの取り組みが進められています。これら取り組みを通じて自衛隊が目指しているのは、島嶼防衛に必要な水陸両用作戦(amphibious operation)能力を構築することなのですが、戦前においても日本で水陸両用作戦の研究が活発だった時期がありました。

今回は、第二次世界大戦以前に日本軍が水陸両用作戦の能力をどのように発展させてきたのかを検討した研究論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。

文献情報
二宮充史「日本軍の渡洋上陸作戦―水陸両用戦争の視点からの再評価」『海幹校戦略研究』2016年7月(6・1)、97-125頁

イギリス軍の強襲上陸の問題点
第一次世界大戦のガリポリの戦い(1915年)は、イギリス軍が採用する強襲上陸の方法に限界があることを示す事例であり、日本軍でも従来の水陸両用作戦の考え方を見直す契機となった。
そもそも日本軍の水陸両用作戦といっても、大陸方面で戦うことが多かった日本軍に果たして水陸両用作戦の概念が存在したのかという疑問が出てくるでしょう。
この疑問に対して著者は、日本軍が水陸両用作戦という用語を用いることはなかったものの、実際にはその重要性を認識しており、明治から昭和までの戦闘経験を通じて独自の発展を遂げてきたことを明らかにしています(二宮、99頁)。

著者によれば、日本軍が水陸両用作戦の研究に着手したのは、日清戦争、日露戦争で日本軍が先遣部隊を船舶輸送で朝鮮へ派遣してからのことでした。ただ、当時の船舶輸送は日本海軍ではなく日本陸軍の責任で実施されていたため、陸上戦力と海上戦力が統合運用されていたというわけではありませんでした(同上、100頁)。

これは明治期の日本軍がイギリス軍の教義の影響を受けていたためであると著者は論じています。
当時、イギリス軍の着上陸要領としては、第一段階では地上部隊は海上部隊によって護衛された徴用商船によって輸送され、第二段階では上陸地点において軍艦の支援を受けながら海軍の海兵隊がまず強襲上陸し、第三段階では橋頭保が確保されると地上部隊の人員や装備が揚陸され、最後に戦闘の準備を整えた後に展開していく、というものでした(同上)。
「日本軍の日清・日露戦争の上陸要領は、この英国式に類似し、英国海軍を手本とした日本海軍と陸軍が連携して構築したと思われる。明治43年の第一改正海戦要務令によると、この時期の上陸作戦は、海軍の護衛艦隊を、間接護衛と直接護衛に区分し、直接護衛に先導された陸軍輸送船団が泊地に進入、当初艦隊の陸戦隊が短艇により上陸して上陸掩護陣地を占領、その掩護下に陸軍部隊が汽船に曳航された木舟で上陸する要領で実施された」(同上、100-101頁)
したがって、イギリス軍の教義が日本軍が水陸両用作戦の教義を発展させる出発点であったと言えます。ただ、第一次世界大戦でイギリス軍がガリポリ上陸に失敗したことを受けて、日本軍は教義の見直しを進め始めました(同上、103頁)。興味深い点としては、ガリポリの戦いについて日本陸軍と日本海軍では異なる教訓を導き出したと指摘されている部分です。

論文では、日本陸軍はガリポリの事例から「企図の秘匿と奇襲、陽動、上陸即戦闘の敵前強行上陸部署、多数の揚陸資材による上陸部隊の増大、夜間上陸の追求、早期の砲兵揚陸、複数部隊の同時上陸に必要な船舶数確保等」という教訓を得たと述べられています(同上、103頁)。
しかし、日本海軍は「艦艇部隊は陸上砲台と戦闘してはならない」と判断し、着上陸作戦に主体的に関与しない傾向を強めることになっていました(同上、104頁)。つまり、日本陸軍と日本海軍はこの時点で水陸両用作戦について異なる関心、理解を持つようになっていたと考えられます。
実際、海軍においては艦隊決戦を上陸作戦に優先させる思想が出てきたこともあって、水陸両用作戦の研究はますます陸軍主体で実施されるようになっていきました。

装備開発の進展と二段上陸方式の確立
日本陸軍の「神州丸」(1937年撮影)
上陸用舟艇の「大発」を29隻搭載できる強襲揚陸艦
昭和5年頃に完成した世界初の実用的上陸用舟艇である「大発」は、日本陸軍において開発されました(同上、105頁)。大発は耐弾性を持つ鋼製の船体と揚塔用の開閉式歩板を持っていただけでなく、W型船底を採用したことで達着時に必要な安定性を確保し、さらに3メートルの耐波性があったとされています(同上、106頁)。
さらに、舟艇母船として陸軍特殊船の「神州丸」も建造されており、これは船尾から舟艇を泛水できる先進的な強襲揚陸艦に位置付けられます(同上、106頁)。1941年12月の対米戦争で投入された「あきつ丸」はこの「神州丸」の発展型に位置付けられる艦艇でした(同上)。

さらに、日本陸軍は装備だけでなく、水陸両用作戦に適した部隊編成、教育訓練の改善にも取り組んでいました。
大正5年に陸軍運輸部が拡大されて以降、陸軍大演習、陸海軍協同演習で敵前上陸が毎年実施されており、昭和4年に和歌山県の沿岸地帯で実施された演習では1個師団規模の着上陸に成功を収めています(同上、107頁)。
著者は、これらの訓練、演習の成果を通じて日本陸軍が二段上陸方式という着上陸要領を確立していたことを次のように論じています。
「これらの訓練を通じ、二段上陸(夜間、輸送船団の泊地進入以前に、陸岸から約 10 浬に漂白状態で舟艇を砭水し、第 1 回上陸部隊が上陸を開始するとともに、船団は泊地を陸岸に接近させ、帰還する舟艇の収容と第 2 回上陸部隊の上陸時間を短縮し、奇襲効果と衝撃力を増大させる)方式が編み出された」(同上)
二段階の具体的な要領については次のような図表でも説明されています。
揚陸艦から上陸用舟艇を二段階で着上陸させる二段上陸の概念図。
海岸から第一泊地は10nm、第二泊地は1,000mの距離に位置付けられている。
(同上、124頁)
この二段上陸は第一波と第二波が可能な限り同時に戦闘展開し、内陸部へ向けて迅速に攻撃前進することを優先するものといえます。
注目すべきは第一波の戦術行動に関する指示であり、護衛部隊は奇襲効果を高める目的で上陸前の艦砲射撃を実施しないこと、上陸に成功した地上部隊は敵の態勢が整う前に可能な限り奥地へ前進することなどが定められていました(同上、125頁)。

より慎重な立場で考えるならば、まずは艦砲射撃で敵の抵抗を一掃し、橋頭堡を歩兵部隊で確保し、そこで砲兵や段列を受け入れ、部隊としての戦闘態勢を十分に整えた後で、はじめて奥地へ向けて前進していくことも考えられます。こうすれば、敵が反撃を仕掛けてくるまでに時間を稼げるだけでなく、橋頭堡を敵に奪われるリスクも抑制できますが、その反面として奇襲効果が期待できません。
したがって、この二段上陸は速度を何よりも重視した大胆な上陸攻撃要領であり、その成否は奇襲の成功によるところが大きいとも考えることができるでしょう。

「海洋電撃戦」の成功と限界
1942年、ガダルカナル島に上陸する米海兵隊員
この戦闘以降、米軍の太平洋方面における反攻が本格化することになる
著者はこうした二段上陸を含む水陸両用作戦の研究蓄積が、第二次世界大戦の序盤における日本軍の勝利に大きく寄与していたと述べています。
その説明によれば、日本陸軍は中国大陸の杭州湾に11万名規模の部隊を海軍と協同しながら上陸させることに成功しており、当時の米海軍情報部はその艦船から海岸への攻撃要領を完全に確立した最初の大国であると高く評価したほどでした(同上、112)。

ただし、この作戦が成功した要因には、制空権の獲得が比較的容易な敵であったということも関係しており、1941年以降の太平洋における上陸作戦においては同様の戦果が得られるのか予断を許さない状況もありました。
「この様な困難な戦略環境を克服するため、日本軍は、航空撃滅戦に引き続く上陸作戦と航空基地推進を繰り返し制海空権を拡大する進撃要領で、空挺作戦も含む「広域多正面同時連続敵前上陸」を敢行した。この方式により日本軍は、連合軍に対応の暇を与えず、5カ月の予定を3カ月で蘭印を攻略し、短期間で南方資源地帯占領に成功した。正に、陸海空の立体戦で海上を進撃する「海洋電撃戦」であった。日本軍は、支那事変で経験した大部隊運用の技術と整備した編成装備を遺憾なく発揮し、作戦の主導権を握って殆どすべての上陸作戦を成功させたのである」(同上、113頁)
ここで著者が用いている「海洋電撃戦」という表現は、米軍の戦況分析に見られるものであり、当時の米軍は、日本軍の海空陸の協同を「aero-amphibious(航空―水陸両用)」作戦と定義した上で、「これらの地域で勝利を取り戻す問題に直面して以来、この日本軍の maritime blitzkrieg(海洋電撃戦)に使用された方法と装備が、我々の研究主題」と判断していたのです(同上、113頁)。

こうして日本軍は短期間で広範な地域を支配下に置くことができたのですが、やはり限界もありました。著者は陸海軍の協同という部分で日本軍の水陸両用作戦には課題も残されており、それがガダルカナルの戦いで露呈したことを指摘しています。
この戦闘は米軍による本格的な反攻によって始まり、結果として日本軍は敗北を喫し、ガダルカナルを手放さざるをえませんでしたが、敗因について著者は、
(1)先制主導・奇襲を基本とする日本軍の戦術を用いることができる状況でなく、受動に回った態勢で島の奪回を試みたこと
(2)米軍の航空優勢の下で艦隊決戦を重視する日本海軍が船団護衛を十分にできなかったこと
(3)近海や大陸への介入を主体とする上陸作戦に比べて、島嶼部での上陸作戦では制空権の重要性がはるかに大きかったこと
(4)状況の特性を十分に考慮せず、教範に示された原則をそのまま適用しようとしたこと
(5)根本的な問題として、日本陸軍と日本海軍で上陸作戦に対する関心や理解に大きな乖離が存在したこと(同上、116-119頁)
以上5点を挙げています。全般として著者は日本軍の水陸両用作戦には徹底した奇襲の重視などの現代でも参考にすべき要素があるとしながらも、全般としては広大な太平洋で強力な海上・航空戦力を持つ英米に通用しなかった部分もあり、また陸海軍の作戦思想が不統一であったことを反省すべきと指摘しています。

むすびにかえて

現在の自衛隊は水陸両用作戦の経験を欠いており、さらに研究を重ねる必要があるという状況にあります。
「何れにしても、海を越える作戦は、陸海軍の思想の統一、船舶・舟艇を含む編成・装備・訓練等の長期かつ多大の準備が必要であり、一朝一夕には実行できないことを肝に銘ずることが大切である」と論文の結論でも述べられている通り、水陸両用作戦の研究は検討を要する課題が多く、教義を完成させるために時間を要することが予測されます(同上、123頁)。

研究に必要な時間を短縮させる上において、軍事史の研究には大きな価値があると思われます。確かにこの手の教訓の抽出には慎重さを要するものですが、現代の新しい安全保障環境で日本が直面する課題を、歴史に照らし合わせて研究することができれば、過去の失敗を将来の成功に繋げることができるのではないでしょうか。

KT

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事例研究 作戦線から見た太平洋での米軍の戦略

2016年10月20日木曜日

なぜチェレーンは地政学を生み出したのか

地政学という言葉を最初に使い始めた研究者は、スウェーデンの政治学者チェレーン(Johan Rudolf Kjellén 1864-1922)でした。
彼は1901年にゴーテンブルグ大学、1916年にウプサラ大学で研究に取り組み、1905年以降に上院議員を務め、1910年からは下院議員となり、第一次世界大戦では末―電はドイツに味方し、ロシアと戦うべきと主張した強硬派の政治家としても知られています。

今回は、チェレーンがその研究を通じて、地政学という新しい研究領域を必要だと考えるに至った理由を、彼の議論を参照しながら紹介してみたいと思います。

法学的国家論からの脱却
チェレーンは『生活形態としての国家(邦訳、領土・民族・国家)』(1916)という著作の冒頭において、スウェーデンの政治教育が他の学科の教科に比べて軽視されている、という問題提起がなされています。すでにスウェーデンでは普通選挙制が導入されたことにより、国民が自分の運命を決する直接的な責任を負うことになったにもかかわらず、それに見合った学識が付与されていないことは望ましくないというのがチェレーンの立場でした(邦訳、4-5頁)。

しかし、チェレーンの問題提起は単にスウェーデンで政治教育が軽視されているだけに止まりません。チェレーンは政治教育の基礎に位置付けられるべき国家の研究において、法学的アプローチが主流であるため、国家の活動の実態を把握するものにはなっていないとも指摘しています。
つまり、政治学とは国家学であり、国家学とは憲法学である、という基本的な理解がアカデミアに定着しており、しかもそれは長年にわたって継承されてきたことをチェレーンは問題視しているのです。
「この根本的見解の背後には、かの力強い伝統が横たわっている。即ち、全て国家科学の発展を決定したところのもの、つまり(ルソーの)法律的契約説を伴った自然法が横たわっている。この見解の中心的目標は、国家と憲法を同一体と見る思想であって、既に、マキアヴェリにも、キケロにもこれを認められ、否、我らの科学の祖アリストテレスにも認め得るのである。されば、この問題は二千年以上に及ぶ観察方法に由来するものであって、今日この説が特に強く通用している理由は、科学的伝統以外の事情、即ち、国家生活の事実上の形態が、これを最も直截に説明するのである」(同上、8頁、訳文一部修正)
法律的、形式的な側面ばかりに注目する伝統的国家理論を脱却するためには、従来とは大きく異なるアプローチが必要であるとチェレーンは考えました。これまでの法学的国家論においては、国家はあたかも時代の潮流とは無関係に成立する存在であり、それに影響を及ぼすものは第一に憲法とされてきました。しかし、実際には国家は時代の潮流に影響を受ける存在であるため、主権国家は何人にも隷属しないというような形式的議論から脱却しなければならない、とチェレーンには思われたのです。

チェレーンの有機的国家論の提唱

チェレーンが議論を進めるに当たって影響を受けた研究者がいます。それがフリードリヒ・ラッツェルであり、彼は人文地理学の創始者であると同時に、「国家は人類の一団と組織された土地の一区域である」という言葉で国家を規定したことでも知られています(同上、32頁)。
チェレーンはこのラッツェルの地理学の観点に立った国家の概念規定を次のように批判しました。
「強国の内容は単なる国土・国民よりは一層広範・深遠なものである。例えば、ドイツ国、フランス国等の名称の下にまとめられている思想は、ドイツ・フランス等における単ある国土・国民のみではなく、そこには社会的、法律的特徴をも表彰されているのである。ドイツの相貌からいわゆる軍国主義を取り除き、フランス今日の相貌から民主主義憲法を抹消することは、何人にもできないだろう。議会制度なきイギリスを考えることもまた同様に不可能である。このような特徴はすべての特徴が変化するように、等しく変化の過程に投ぜられた。けれども時の経過につれて、それぞれの国家の本質のうちに融合する。この関係は現下の戦争に際して以前よりも一層明白に現れている。今や、敵国同士、互いに対抗して、勝たんとすることを求めているが、この目的を貫くためには単に国土と国民の力を合するのみでなく、経済の力、社会の力、法律の力、及び、一般の文化の力をこの闘争のために傾注しているのが明らかに看守されるからである」(同上、34-5頁、一部訳文修正)
チェレーンはこのように、地理的、自然的国家論の欠陥を指摘した上で、先程の形式的、法学的国家論と総合することにより、新たな学問体系を構築すべきとの判断に至ります。そのことは「我々は古い政治学の命題と地理学の反対命題とを超克して、総合し高揚するところの国家科学を必要とするに至ったのである」という記述からも読み取ることができます(同上、43頁)。

こうして提唱されているのがチェレーンの有機的国家論であり、これは有機体とは多数の人間が集合して一つの形態を持った組織体という意味に近く、チェレーン自身の言葉を借りると「国家は客観的実体である。個人を超越せる、客観的実体である。と同時に、生存原則の支配を受けつつ、国家流の仕方において存在しているものである」とされています(同上、47頁)。
有機的国家論を基礎にすることによって、これまでの政治学の研究を刷新し、また政治教育の改善にも寄与するとチェレーンは考えていました。

チェレーンにとっての地政学の位置付け

ここまで従来の法学的国家論の欠陥と、それを補完するための人文地理学の視座、そして両者を総合する有機的国家論についてチェレーンの議論を紹介してきましたが、肝心の地政学の議論はどうなっていたのでしょうか。
チェレーンは国家を有機的統一として政治学的に考察する場合には、その構成要素として、領土、民族、経済、社会、統治という5種類の要素を平時から戦時に渡って観察しなければならないと述べています。そして、それぞれの要素を研究する国家学の研究領域を次のように区分しています。
「手中にこの鍵を携えていれば、国家学の他の科学の領域に対する限界を定ることもまた容易である。その左翼は地理学に非ずして地政学(Geoplitik)であって、その対象は土地に非ずして、常に例外なく、政治的組織の行き渡った土地、即ち国土、つまり領土である。その右翼は国法ではなく、いわんや、他の表現でいえば、統治経国策(Herrschaftpolitik)である。両翼の竜王には、政治的に組織された人間集団、即ち国家機能の担当者たる国民が経ち、これを論ずるのは、人類学に非ずして民族経綸策(Ethnopolitik)である。ゲオポリティークとエスノポリティークとの間に介在して、生産に従事する国民の教説(または、家政としての国家論)が控えている。これは国民経済学に非ずして、経済経国策(Wirtschaftpolitik)である。また、エスノポリティークとヘルシャフトポリティークとの間には、自然的に文化的に育成陶治された部分の国民を論ずる教説、即ち、特殊の意味における社会としての国家を論ずる社会経綸策(Soziapolitik)が経っている」(同上、54頁)
 ここで明らかになったように、チェレーンは決して地政学を独立した研究領域として考えていたのではなく、国家の領土を研究する国家学の一分野として位置付けており、それは有機体としての国家の一要素として民族、経済、社会、統治といった他の要素と相互に影響し合うと論じていたのです。チェレーンは別の箇所で地政学についてより明確な定義を与えています。
「地政学は、国家を地理的有機体、即ち、地域における現象として考察するところの国家論である。つまり、国家を、国土、版図、領域、最も特徴的にいえば領土として考察する国家論である。地政学は政治科学としてその目標を常に国家の統一に向ける。そして国家の本質が何であるかを理解するに資せんと欲する。これに対し、政治地理学は、人間居住の場所としての地球を、地球それ以外の諸性質との関係において研究するものである」(同上、61頁)
ここでもはっきりと述べられている通り、チェレーンは地政学を領土の位置、規模、形態、さらにそこで生活を営む国民の民族構成、人口分布などを総合検討する国家論の一領域と見なしていましていました。

むすびにかえて
言葉の持つ意味が時代とともに変化していくように、学問の内容も時代によって変化していきます。現在の日本において地政学という言葉が持つ意味も、地政学の祖ともいえるチェレーンの議論とはかなりの隔たりがあることは間違いありません。私はこうした隔たりが一概に悪いと考えているわけではありませんが、今後の地政学の研究を発展させるためには、先人の研究に敬意を表しつつ、二つの点について改めて意識する必要があるだろうと思います。

第一に、チェレーンは確かに国家の地理的要素を研究するものとして地政学を位置付けましたが、これは決して孤立した学問領域ではなく、民族、経済、社会、統治といった他の要素を総合して研究すべき国家論の一部として考えていたことを忘れるべきではありません。
つまるところ、地政学は国家についての包括的な理解に到達するための一歩であり、これを他の政治学の研究と総合していくことも留意することが重要だと思います。国際政治の動態だけに視野を狭めることなく、国家のあり方について全般的理解が得られるように目指すことも地政学の重要な役割であると思います。

第二に、チェレーンは地政学の議論を政治教育の問題から始めていることは改めて強調される意味があると思います。普通選挙制の下で国民は国家の政策を適切な方向に指導するだけの見識を備えていることが求められます。しかし、政治的見識を備えることは個々人の力では限界があり、教育の力によって国家のさまざまな対内的、対外的機能を理解できるようにしなければなりません。地政学はまさにこうした目的のために構想された学問であり、その知見は政治教育において活用されることが望ましいと思われます。地図上でさまざまな国家の政策を研究するようになれば、学習者は政治をより具体的な対象として認識し、より深く研究することができるようになるでしょう。

KT

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文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ

参考文献
Kjellén, Rudolf. 1926(1916). Der Staat als Lebensform, Kurtvowinckel.(邦訳、ルドルフ・チェレーン『領土・民族・国家』金生喜造訳、三省堂、1942年)

2016年10月16日日曜日

文献紹介 ハンチントンの『文明の衝突』を読み直す

サミュエル・ハンチントン(Samuel P. Huntington 1927-2008)は、冷戦後の世界ではイデオロギーによってではなく、文化によって国家間の関係が形成されていくと予見した米国の政治学者です。
この説は1993年の論文で最初に発表され、1996年に著作『文明の衝突と世界秩序の再形成(The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order)』の内容へと発展していきました。

すでにハンチントンは死去し、学説としても文化的対立を過大評価するものとして批判され、最近の研究で言及される機会もなくなってきました。しかし、今年2016年は出版からちょうど20年という節目の年であり、また現代の移民や宗教の問題を考える上で彼の研究は意義があると思われます。今回は、この著作の要点を改めて紹介し、その意義を考察したいと思います。

文献情報
Huntington, Samuel P. 1996. The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, New York: Simon & Schuster.(邦訳、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』鈴木主税訳、集英社、1998年)

文化的アイデンティティーを求める人々
ハンチントンの議論で最も重要なポイントは、言語、宗教といった文化的要因が冷戦後の国際政治における紛争でますます重要な意味を持ってくる、という部分です。

冷戦期の世界では、自由主義の国家で構成される西側陣営と、共産主義の国家で構成される東側陣営、そしていずれの陣営にも属さない非同盟国の陣営によって分割されていました。これはイデオロギー的な繋がりこそが国際関係を規定する第一の要因であったことによります。
しかし、冷戦が終結してしまうと、各国は従来のようなイデオロギーごとに陣営を組むということはなくなり、文化的一体性をより重視する傾向を見せるようになります。この点についてハンチントンは次のように述べています。
「1980年代に共産主義世界が崩壊し、冷戦という国際関係は過去のものとなった。冷戦後の世界では、さまざまな民族の間の最も重要な違いは、イデオロギーや政治、経済ではなくなった。文化が違うのだ。民族も国家も人間が直面する最も基本的な問いに答えようとしている。「われわれはいったい何者なのか」と。そして、その問いに答えるために、人類がかつてその問いに答えてきたのと同じように、自分たちにとって最も重要な意味を持つものを頼りにする。人々は祖先や宗教、言語、歴史、価値観、収監、制度などに関連して自分たちを定義づける」(ハンチントン『文明の衝突』23頁)
他者とどのような関係を持つのか、また他者とどのような差異があるかによって、人間は自分のアイデンティティーを確認しようとします。ここでハンチントンが指摘していることは、それが有権者の政治行動を変化させる可能性があるということです。

どうして自己認識の問題が政治行動にかかわるのかといえば、それは「人々は自分の利益を増すためだけでなく、自らのアイデンティティを決定するためにも政治を利用する。人は自分が誰と異なっているかを知ってはじめて、またしばしば自分が誰と敵対しているかを知ってはじめて、自分が何者であるかを知るのである」ためです(同上)。

このハンチントンの見解によれば、冷戦後の世界で人々はアイデンティティーを安定させ、強化する欲求を満たす手段として、自分自身が所属する国家の文化や伝統を重視するようになります。そして、民主的な政権は、こうした有権者の新たな政治的関心に対応する必要に迫られます。それが対外政策にも反映され、新たな政治情勢の形成に繋がってくるものと考えられているのです。

文明ごとに再編成される世界
サミュエル・ハンチントンは米国の政治学者、ハーバード大学教授、
政軍関係論、比較政治学、国際関係論などの分野で業績を残している
ハンチントンは冷戦後の世界で人々が自分自身の文化をより重要だと考えるようになる場合、文化的繋がりの強さが国家の対外関係に影響を及ぼしてくると考えました。
そこで注目しているのが、文明(civilization)という単位です。そもそも文明は18世紀のヨーロッパで未開の対極に位置付けられる社会状態として理解されていたのですが、ハンチントンはそうした意味で文明という用語を使用することは避けています(同上、52頁)。その代わりに、地域的単位として文明を捉えており、特定の村落、地域、民族集団、国籍、宗教団体を包括しうる大きな文化的集団の単位と考えられています(同上、55頁)。

文明を分類する方法に関しては諸説あるのですが(同上、58頁)、ハンチントンは次のような分類方法を用いています。
  • 西欧文明:700年代から800年代に出現(イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、ポーランド、カナダ、アメリカ、オーストラリアなど)
  • ラテンアメリカ文明:ヨーロッパから出現したものの、西欧文明とは異なり、独自の宗教、文化を形成(メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイなど)
  • イスラム文明:イスラム教をを中核とする文明圏であるが、アラビア、トルコ、ペルシア、マレーなどの下位文明も存在(トルコ、シリア、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタン、サウジアラビア、イエメン、エジプト、アルジェリア)
  • 中華文明:中国は当然含まれるが、中国大陸以外でも地域的交流や華僑の定住を通じて文化圏の広がりが認められる(中国、北朝鮮、韓国、台湾、ベトナム)
  • ヒンドゥー文明:紀元前1500年頃から文明として成立し、ヒンドゥー教を中核としているものの、内部にイスラム教徒などさまざまな宗教集団が存在(インド、スリランカ)
  • ロシア正教会文明:すでに滅亡したビザンティン文明を親とし、西欧文明と異なる宗教を持つ(ロシア、ベラルーシ、ウクライナ)
  • 日本文明:中国文明から派生し、西暦100年ないし400年の時期に出現(日本のみ)
  • アフリカ文明(存在すると考えた場合):サハラ砂漠以南のアフリカ大陸では部族主義が依然として強いが、アフリカ人の意識も形成される聴講があり、固有の文明圏を形成する可能性は否定できない(同上、59-64頁)
このような視点から世界の歴史を振り返ると、近代以降の世界の歴史は西欧文明が非西欧文明を支配する歴史という側面がありました。
現状として西欧文明は他の文明に対して圧倒的優位を維持しているものの、ハンチントンは冷戦後に各地域で非西欧文明の台頭は着実に進んでおり、また非西欧的と見なされていた文化や宗教が再び復興しつつあることが指摘できると述べています。
「地域主義は、民主主義の内包するパラドックスによっても促進される。つまり、非西欧社会が西欧的な諸制度を取り入れることにより、地域主義者や反西欧的な政治運動が権力に近づくことを可能にし、容易にしてしまうのである。1960年代と70年代には、発展途上国の中で西欧化された国や西欧寄りの立場をとる国の政府は、クーデターや革命の危機にさいなまれた。80年代と90年代を通じて、彼らが選挙によって政権の座を追われる危険は増している。民主化が西欧化を逆行させる結果となっており、民主主義が価値観の多様性を促進するどころか、社会をより窮屈なものに変えてしまっている。非西欧圏の政治家が選挙に勝とうと思ったら、自分たちがいかに西欧的であるかを誇示してもしかたがない。むしろ、選挙戦は政治家たちに、世間に最も広く受け入れられそうな主張を考え出すことを余儀なくさせており、しかもそれは、たいていの場合、民族主義、国家主義、宗教的な性格をもつものである」(同上、136-7頁)
近代化を果たした非西欧文明圏の各国は、イデオロギーによって規定されていた対外関係を見直し、政治的境界線を次々と引き直すことになります。それが民族、宗教といった要因で形成される文明圏の境界線と重なっていき、それが文明のフォルトラインを境界とする紛争に繋がるとハンチントンは考えました。

冷戦後の国際政治とフォルト・ライン紛争
冷戦終結後に北大西洋条約機構の加盟国はロシアの国境に沿って東ヨーロッパに拡大しつつある。地図は年代順に増加していく加盟国を色分けしたもの。1990年代以降に東ヨーロッパ諸国が相次いで加盟していることが分かる。ハンチントンの視点から見れば、ロシア正教会文明の構成国を圧迫し、また同文明の中核国であるロシアの利害と対立する政策である。
フォルト・ライン紛争はハンチントンの議論から導かれる最も重要な考察の一つであり、冷戦後の国際政治を解釈するために用いられています。フォルト・ライン紛争とは一言で述べると、文明圏の境界線上で発生する紛争であり、異なる文明に属する国々や集団の対立です。
ハンチントンはこうした紛争が生じる理由としては、その文明で指導的役割を果たす中核国が他の構成国に対する統制を維持強化し、さらに周辺に文化的に類似した勢力を自らの陣営に取り込もうとすることによると考えています。
「出現しつつある世界政治の中で、主要文明の中核国は冷戦時代の二つの超大国にかわり、他の国々を引き付けたり拒絶したりする重要な極になりつつある。こうした変化が最も明確にあらわれているのは、西欧、東方正教会、中国の各文明だ。この場合、文明によるグループ化に関与するのは、中核国、構成国、隣接する国に住む文化的に似たマイノリティの国民であり、さらに議論の的になるのが、近隣の国に住む他の文化の人々である。こうした文明ブロックに属する国々は、中核国を囲む同心円状に位置することが多く、その位置はブロックとアイデンティティの一致の程度やブロックへの統合の程度を反映している」(同上、234頁)
このような過程を示す具体的な事例として、ハンチントンは冷戦後の東ヨーロッパ地域を取り上げています。
ヨーロッパ地域の統合で中心的役割を果たしている国家はフランスとドイツであり、両国は欧州連合を通じて境界線を東方へと拡大しています。同じことをアメリカも推進しており、北大西洋条約機構の範囲が東ヨーロッパ地域で広がりつつあります。
結果として、アメリカ、ドイツ、フランスはロシアから強い反発を受けることになりました。ハンチントンによると、このようなロシアの反応はかつてのソ連と異なる性格のものであり、それは「ソ連が世界に利害をもつ超大国であったのにたいし、ロシアは地域と文明に利害を持つ大国なのだ」と説明しています(同上、247頁)。

しかし、こうした文明圏の境界線上で生じるフォルトライン紛争が直ちに暴力的形態をとるというわけではなく、非軍事的手段による衝突も含まれています。ハンチントンはフォルト・ライン紛争からフォルト・ライン戦争に移行することで武力衝突に発展し、特に国内の民族的分裂が原因となれば、非常に長期化する傾向があると述べています(同上、384頁)。

こうしたフォルト・ライン戦争は共同体(コミューン)間の戦争とほとんど同じではないかという意見に対しては、ハンチントンは次のように反論しています。
「フォルト・ライン戦争は、長期的に続くこと、暴力行為が激しいこと、イデオロギー的に曖昧なことなどで、他のコミューン戦争と似ているが、二つの面で異なっている。第一に、コミューン戦争は民族的、人種的、言語的な集団の間で異なる。だが、宗教が文明を規定する最も重要なものなので、フォルト・ライン戦争はたいていの場合、異なる宗教を信ずる人々のあいだに起こる。(中略)第二に、他のコミューン戦争は個別的なものであることが多いので、新たな当事者にまで広がらず、その人たちを巻き込むことは比較的少ない。対照的に、フォルト・ライン戦争は、その定義からも、より大きな文化圏にある集団の間に起こる。(中略)現代の世界では、交通手段や通信手段が発達したので、このようなコネクションが成立しやすくなっており、フォルト・ライン紛争の「国際化」が起こっている」(同上、386頁)
したがって、フォルト・ライン戦争を終わらせるためには、紛争当事者の勢力均衡を確立するだけでなく、それに関与している勢力も利害を調整することが必要となってきます。戦争は交戦する当事者の勢力が疲弊すれば終結を迎えますが、フォルト・ライン戦争の場合には当事者の勢力を支援する多くの勢力が合意しなければ、容易に終結に至ることができないということです。

むすびにかえて

『文明の衝突』は論争的なテーマを扱った著作であり、その内容が実際にどこまで妥当するなのかという点については議論の余地が残されているでしょう。しかし、今でもハンチントンが取り組んだ研究テーマは二つの観点から意義があるといえます。

第一に、ハンチントンの著作ではやや過大に評価されている部分もあるかもしれませんが、冷戦後の世界では政治イデオロギーが魅力を失い、文化的アイデンティティーが政治に対する人々の態度を形成する度合いが大きくなっているという可能性は、注目に値するものです。
つまり、もしこの可能性が現実のものとなれば、宗教や言語といった文化的差異に基づく運動や政策はますます活発になるだけでなく、共通の文化的基盤を再評価することに対する関心も高まると予測されます。

第二に、ハンチントンの議論には、文化的アイデンティティーの世界的な高まりが、日本の政策に与える影響について示唆するところがあります。要するに、日本は中華文明、ロシア正教会文明、そして西欧文明などとも異なる独特な文明であり、文化的に孤立した国家と考えられています。
これは文化的共通性を軸とした外交を展開する状況になってくれば、不利な立場に置かれる危険があることを意味しています。将来のフォルト・ライン紛争では、多くの国々はその文明圏の中核国に対して支援を要請することがより容易になるとも考えられているのですが、日本にとってそのような利点はあまりなく、実利的関係を軸に外交を展開しなければならないとも考えられるのです。

KT

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論文紹介 世界史におけるランドパワーとシーパワー

2016年10月13日木曜日

事例研究 1986年の日米共同統合演習で見えた課題

1980年代は日本がこれまで以上に米国と防衛において連携するようになった時期に当たります。
当初、日米共同訓練は陸海空ごとに別々に行われていたのですが、1986年2月24日から28日にかけて陸海空そろって参加する初の日米共同統合演習(指揮所演習)が実施されました。しかし、この時の演習で見えてきたのは、自衛隊と米軍の作戦に齟齬だったことは、あまり知られていません。

今回は、演習が実施された当時の統合幕僚会議議長だった航空自衛官の森繁弘(1927-)の証言を踏まえながら、当時の状況について紹介し、若干の考察を付け加えたいと思います。

在日米軍と第七艦隊の関係
日本が東アジア正面で想定されていたシナリオの一つが北海道に来襲するソ連軍の対処であり、自衛隊の能力で攻撃を支え切れない場合には来援する米軍と協力して撃破することが考えられていた。しかし、オホーツク海を中心にソ連軍の潜水艦が北海道の周辺に展開していれば、米空母機動部隊は速やかに来援することは難しくなる恐れがあった。
当時の日米共同統合演習に関する森の証言で興味深いのは、第七艦隊の行動に関する部分です。
この演習の準備段階において、有事に極東正面でソ連軍に対処する状況が想定されることになると、在日米軍では自衛隊とだけでなく、第七艦隊の参加が必要であるという意向を示してきました。一般に第七艦隊と聞けば在日米軍の一部のようにイメージされるかもしれませんが、正しくは在日米軍ではなく、太平洋海軍の指揮下にある部隊であるため、森は海幕を通じて太平洋軍と直接調整することになったと述べています。
「決定的に違っていたのは、私が統幕議長になってからだいぶ後の話だけど、北部で統合共同演習をやったわけです。これは実動もやったんだけど、実動の前にCPX(共同指揮所演習)というものをやりました。その時に、米軍は「第七艦隊が参加しなければ統合演習にならない」と言ったので、第七艦隊も参加してほしいということを、海上幕僚監部を通じて第七艦隊に打診して、やっと参加してもらいました。そうすると、第七艦隊は在日米軍司令官の指揮下にないのよ。第七艦隊は太平洋軍の直接指揮下にあるから、在日米軍司令官や空軍司令官の命令はまったく関係なし。だから、こちらが共同統合演習をやるといっても、ハワイまでお伺いを立てないと演習にならない」(防衛研究所戦史研究センター『オーラル・ヒストリー 冷戦期の防衛力整備と同盟政策2』151頁)
ここで言及されている「空軍司令官」とは第五空軍司令官のことであり、第五空軍司令官は在日米軍司令官を兼ねることが慣例となっています。これは異なる部隊を同一人物が指揮することによって、指揮統一という戦いの原則が反映させるためのものです。
いずれにせよ指揮系統として在日米軍司令官の立場では第七艦隊を動かすことができないため、極東正面でのソ連軍の対処という内容の演習の円滑な準備に支障があったことを述べています。また準備だけでなく、演習が始まってからも、在日米軍とは別の考えで行動していた第七艦隊について森は次のような回想をしています。
「それを何度もすり合わせをして演習参加ということになって、まず最初はCPXをやろうといって始まったわけです。始まって「米第七艦隊の空母機動部隊、二個機動部隊、太平洋側三陸沖を北上中」という情報が入ってきた。こちらは、北海道の各飛行場に航空自衛隊の部隊を展開して、防空戦闘開始状況が進んでいるという状況までいって、いよいよ敵襲開始で敵襲が始まる状況にしたわけです。そして防空作戦をやっている時に、第七艦隊は三沢の沖に停まって動かないのね。「なんで動かないのか」と聞いたら、おそらく海軍の動き方まで知らなかったわけです。「現在、対潜警戒実施中」というわけだ。向こうの幕僚に、「対潜警戒は、どうやってやるの?」と聞いたら、なんと「攻撃型原子力潜水艦を二百海里前方に前進させて、相手の原子力潜水艦の攻撃を捜索させる。相手の潜水艦を探すなら、こちらの潜水艦がいちばん発見率が高い。だから、二百海里先にこちらの米攻撃潜水艦を配置して掃海中だ」と」(同上)
森が指摘している通り、在日米軍司令官は第七艦隊の動き方について理解していたわけではありませんでした。結局、敵が来襲する状況になっても、米空母機動部隊は直ちに戦闘に参加できる位置にまで前進することは避けたのです。これは開戦当初は敵の潜水艦がどこから空母を狙っているか予断を許さないため、空母機動部隊としては安全を最優先に確保する必要があったためです。

ちなみに200nm前方に潜水艦を空母機動部隊に先行させることになれば、おおむね370kmに相当するため、三沢の沖合からだと釧路付近までの距離になります。森としては一刻も早く空母機動部隊が戦闘力を発揮できるように希望するところでした。

第七艦隊から出された航空自衛隊への要求
1986年当時の第七艦隊で空母機動部隊の中核を担っていたのがCVのキティホークであり、有事には極東正面でソ連軍に戦略的打撃を加える役割が期待されていたが、演習では艦隊防空にも艦載機が必要となるため、敵基地攻撃で航空自衛隊に支援を要請する場面があった。
ソ連の潜水艦の脅威を警戒する米空母機動部隊が、ようやく北海道の襟裳沖合にまで進出してくると、森は第七艦隊から航空自衛隊に思いがけない支援の要求がきたことに驚かされることになりました。
「掃海が終わったといったら、やっとこさ空母機動部隊が襟裳の南まで来て、襟裳の南沖でまた動かない。「あの空母は何が任務か」と言ったら、なんと国後・択捉攻撃が空母部隊の任務なのよ。向こうのシナリオを見ると。それで、「向こうの対艦ミサイル部隊を攻撃して、まず防空作戦用戦闘機を離陸させるから、襟裳の沖から動けない」というんだ。まあ、動かんのはしようがないけど、そこの部隊から我が方の千歳は攻撃を受けているんだから、「こちらのほうは要撃戦闘をやるよ」と言って要撃戦闘をやっているんだけれども、第七艦隊からこちらに来た要求を見て、びっくりしました。「航空自衛隊全力を挙げて、国後・択捉島のソ連空軍基地を叩いてくれ」というんだ。これはもう、びっくりしました」(同上)
襟裳岬の南沖に到達したことで、米空母機動部隊は三沢から200kmほど北東に航行したこととなりますが、ここで艦載機を発進させたとなれば、そこから国後、択捉両島までの300kmから400kmを飛行するという計算になります。

具体的なソ連軍の兵力は明らかにされていないので、第七艦隊が攻撃の直前になってから空自に対して応援を要求した理由については不明ですが、少なくともこの演習で与えられた状況としては、第七艦隊がソ連軍に対して攻撃を加えるためには、自衛隊の戦力をもって敵の基地機能を低下させる必要があるというう問題が露呈したのです。
「私も第三室長に尋ねたら、第三室長は、「そんなことできませんと言って断りました」と言うけど、あたりまえだ。それは憲法上、敵の基地を攻撃しようとなると総理大臣も加えると。統幕議長主催の演習をやるのに、総理大臣のポストまで仮につくってオーケーを出すと言ってやっていたんじゃ手前味噌になり過ぎるから、「日本は憲法の制約があって、北方四島の攻撃はできない」と言って断ったんだ。そうしたら向こうは、「何で断るんだ?」と言うわけだ。「憲法がある」と言ったら、「日本の憲法なんて、糞食らえ」と言ってくる(笑)。関係ないというんだ。「戦争が始まったら、憲法も何にも関係ない。いまは戦術的に、北方四島を航空自衛隊の対地戦闘攻撃が攻撃するのは、絶好のチャンスである。攻撃してくれ」と。私は、向こうの第七艦隊司令官とは直接電話でやりとりしないけど、こちらの第三室長と向こうの作戦部長がギャンギャン、ギャンギャン、喧嘩のやり取りよ」(同上、151-2頁)
結局、演習は24時間にわたって状況が中止される事態になりました(同上、152)。その後、どのような状況で再開されたのかについて森は詳細を述べていませんが、極東有事の対処については米軍と自衛隊の考え方で大きな相違があり、さらなる協議と研究を重ねる必要が明らかになったといえます。
このことは、1986年の時点になっても、日米同盟は有事において十分な実効性を確保するには至っていなかったという判断を裏付けるものです。

むすびにかえて
1986年に最初に実施されて以来、演習は指揮所演習と実動演習の方式を入れ替えながら継続されており、今日にまで至っています。当時と比較すると、日米同盟の実効性は着実に向上しており、ガイドラインの改訂などを経て自衛隊と米軍の関係はより緊密なものとなってきました。それゆえ、当時の演習と同じ状況が現実に起きるということは考えにくくなったかもしれません。

しかし、当時の演習で浮き彫りとなった、空母機動部隊の運用に関する問題は、依然として重要です。なぜなら、新たに近代化を進める中国軍は、まさに米空母機動部隊の接近を防ぐための態勢を重視し、この問題の解決をますます難しくしようとしているためです。
森は当時の演習を思い返しながら、2010年代に中国軍のミサイル攻撃の脅威が第七艦隊の来援を阻害する可能性があることを次のように語っています。
「その時、空母というのは極めて弱虫だということがよくわかったよ。対艦攻撃で、船ぐらいミサイルが当てやすい目標はないのよ。対艦ミサイルの射程は、いまや二千海里の対艦ミサイルを中国が開発中でしょう。それが実現するかどうかは知らないけど、二百海里や三百海里の対艦ミサイルは、いま中国空軍は持っているのよね。空母や、怖くて陸地に近寄れないよ。あれはレーダーでも船ははっきり映るし、赤外線ホーミングのミサイルを撃てば、百発百中で行くんだろうね。昔の特攻隊と違って百発百中に近いから、空母はいまや陸地に近寄るのが本当に怖い時代になったと思います」(同上、152頁)
冷戦期から冷戦後にかけて、脅威が及んでくる場所が北海道から沖縄に変わったとしても、日本が直面する戦略上の問題の全てが一新されたというわけではありません。現在の日本の防衛計画は有事において米軍部隊が確実に来援するという大前提の下に組み立てられており、特に第七艦隊がその攻撃的能力を発揮することが期待されています。

しかし、だからといって第七艦隊が敵に対して自在に攻撃的能力を発揮できるかのように見なすことは賢明なことではありません。状況の推移によっては、第七艦隊の接近が阻止されるという事態はやはり検討しておくことが重要ではないでしょうか。

KT

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参考文献
防衛省防衛研究所戦史研究センター編『オーラル・ヒストリー 冷戦期の防衛力整備と同盟政策2 防衛計画の大綱と日米防衛協力のための指針(上)』防衛省防衛研究所、2013年
(冒頭の写真は陸上自衛隊第11旅団HP:http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/11d/index.htmlより)

2016年10月8日土曜日

不眠不休の軍隊は敗北する

戦闘を遂行するに当たり、指揮官は部隊の健康状態を適切に管理し、その人的戦闘力を維持する必要がありますが、そのために気を付けなければならない問題が睡眠時間の確保です。
睡眠の剥奪が健康状態に与える影響は極めて大きいことは知られていますが、それが部隊の戦闘力に与える影響については必ずしも十分に議論されておらず、具体的な数値が示されることも多くありません。

今回は、野外衛生の観点から睡眠剥奪のリスクについて説明した米陸軍の野外教範の記述を紹介し、それが人的戦闘力に及ぼす影響について考えてみたいと思います。

睡眠剥奪の心理的影響
米陸軍の教範では、戦闘ストレスを軽減し、部隊の人的戦闘力を維持する上で、睡眠の重要性が指摘されています。その具体的な症状がいくつか紹介されています。
・(最後の睡眠から)24時間後:不十分または新規に学習した活動、単調な活動、警戒を要する活動の効率が低下
・36時間後:情報を記録し、理解する能力の著しい低下
・72時間後:あらゆる活動の効率が通常と比較した場合に50%の効率に低下
・3日から4日後:精神的、身体的要素を含めて、集中的な作業に制約があり、特に生物化学兵器などを用いた状況においては、この段階またはそれ以前から幻覚が発生する可能性あり
・特に0300時から0600時は一日の中でパフォーマンスが最も低下する時間帯(FM 3-21.10:A-13)
睡眠不足の症状として特徴的なのが、血走った目、支離滅裂な発言、ふらつき、顔面蒼白、茫然自失などですが、それ以外にも士気の低下(環境に対する無関心や、活動レベルの低下)、記憶の喪失、言語の不明瞭、情報を理解する所要時間の増加、短期記憶の喪失、集中力の欠如、標準作業の間違いなども生じてきます(Ibid.)。

睡眠の不足は第一線で戦う兵士の戦闘ストレス耐性を低下させる恐れがありますが、さらに影響が大きいのが指揮官に対する影響です。
教範によると、「素早い反応、複雑な推論、詳細な計画立案を要求されるため、指揮官は睡眠剥奪の影響を最も受けやすい。指揮官は睡眠をとらなければならない。自制心のある指揮官は、睡眠を取らないことは逆効果であると認識し、睡眠をとるための措置をとるものである」(Ibid.)と述べられています。
適切な睡眠時間を奪われた場合、最初に制約を受けるのが思考力であり、部隊の行動を決定する立場にある指揮官の判断力が低下することは、戦闘効率を低下させる重大な要因となってくるのです。

不眠不休が3日続けば部隊は戦えなくなる
睡眠不足による戦闘力の低下を避けようとしても、極限状況で十分な睡眠時間を取ることが困難という状況もありえます。こうした場合にどの程度の睡眠時間を限度とすべきなのでしょうか。この点についても教範では、興味深い目安を示しています。
「睡眠を一切とらずに48時間から72時間が過ぎると、兵士は軍事的に行動不能となる。限定的な睡眠不足の場合でも、5日から7日経過すると、睡眠なしで2日から3日経過した場合と同じレベルにまでパフォーマンスが低下する」(Ibid.: A-11)
この記述によれば、一切の睡眠をとらない場合には3日で、不完全な睡眠を取らせながら戦った場合には7日で、部隊の戦闘力を使い果たす状態になると見積られます。これだけの時間が経過すれば、他の部隊と陣地を交代するか、敵との接触を断って戦場離脱しなければなりません。

ただし、教範によると24時間ごとに4時間の連続の完全な睡眠時間が確保された場合には、7日以上にわたって行動することが可能であること(Ibid.)、さらに最後の睡眠から47時間-72時間が経過した場合、回復するためには完全な睡眠が10時間にわたって必要であると述べられています(Ibid.)。結局、睡眠不足の状態のまま健康状態を適切に維持することはできず、短時間の睡眠を組み合わせることで回復することは不可能である、ということです。

ただし、先ほど示したように、3日間にわたって不眠の状態で戦い続けることが可能というのは、あくまでも目安であることに注意しなければなりません。すでに言及したように、生物化学兵器が使用された場合、3日前から兵士の一部で幻覚症状が出てくる恐れがあります。武器を操作する兵士でそのような幻覚が見られれば、単に健康管理上の問題ではなく、安全管理上の問題も生じてきます。
その他にも、敵の夜襲や激しい雨天、食料の不足など、さまざまな要因によって疲労の程度は増加するため、ここで示された数値はあくまでも参考として考える必要があるでしょう。

むすびにかえて
戦争だからといって睡眠をないがしろにしてはなりません。夜を徹して何日も戦い続けるべき状況は確かに考えられますが、そうした状況こそ勝利に繋がる鍵は睡眠だともいえるのです。
ここで述べた睡眠剥奪による戦闘力の低下は我が方にだけ起こる事象ではなく、敵の部隊にも生じてくることです。戦闘が数日間にわたって続けば、我の部隊だけでなく、敵の部隊にも睡眠不足が生じてくることは避けられません。このような状況では指揮官が自分の部下にどれほどの睡眠をとらせることができるかによって、戦闘結果、さらには勝敗までもが変わる可能性があるのです。
つまるところ、戦闘力の根幹とは人であり、人の健康は適切な睡眠によって支えられていることを指揮官は忘れてはなりません。

KT

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参考文献
U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.10, The Infantry Rifle Company, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2016年10月6日木曜日

論文紹介 斉射モデル(Salvo Model)による対水上戦闘の分析

かつて対水上戦闘で最も重要な武器は艦載砲でしたが、現代では巡航ミサイルの重要性が増しており、戦闘の様相は大きく変化しました。
戦闘様相の変化に伴って、軍事学者は巡航ミサイルを中心とする対水上戦闘の分析モデルを再構築することにも取り組んでおり、特にヒューズ(Wayne P. Hughes)の研究はその後の軍事理論の発展を促しています。

今回は、ヒューズが考案した斉射モデル(salvo model)を用いて艦艇が備えるべき耐久力について考察した論文を紹介したいと思います。

文献情報
Hughes, Wayne P. 1995. "A Salvo Model of Warships in Missile Combat Used to Evaluate Their Staying Power," Naval Research Logistics, 42: 267-289.

軍事理論における斉射モデルとは
軍事理論と一言で言ってもさまざまなモデルがあるのですが、斉射モデルはその中でも巡航ミサイルを用いる現代の対水上戦闘のモデルとして構築されたモデルです。斉射モデルは彼我の艦隊が相互に攻撃し合う際に、どの程度の損害が発生するのかを説明する方程式であり、次式のように表すことができます。
左辺のΔAはA艦隊の損害、ΔBはB艦隊の損害を表しています。この損害を計算するために、右辺では敵の攻撃力から我の防御力を引いて、耐久性で割るという計算を行っています。
AはA艦隊を構成する艦艇の数、BはB艦隊を構成する艦艇の数です。αはA艦隊の各艦から発射されるミサイルの数であり、βはB艦隊のミサイルの数です。先ほどの艦艇の数と掛け合わせることで、その艦隊が発揮できる攻撃力(αA, βB)をそれぞれ求めることができます。

次に防御力について見ると、a3はA艦隊の艦艇が敵のミサイルを迎撃できる数であり、b3はB艦隊が迎撃できるミサイルの数を表しています。先ほどと同様に艦艇の数と掛け合わせることで防御力(a3A, b3B)が求められます。

さらに耐久力についてはa1はA側を戦闘不能にするために必要なミサイルの数、b1はB側を戦闘不能にするために必要なミサイルの数です。これで敵の攻撃力から我の防御力を引いた数を割るため、耐久力の値が大きいほど損害が軽減されていく関係となっています。

なお、現実の海上戦闘ではレーダー、ソナーの性能が極めて戦闘結果に大きな影響を及ぼすのですが、斉射モデルにおいてそれらの条件については互いに等しいものとされている点に注意して下さい。

斉射モデルに基づく戦闘結果の予測
斉射モデルについて理解するために、次のような問題を考えてみます。
問題 A艦隊の勢力は2隻、B艦隊の勢力は6隻である。また、A艦隊の艦艇は2発のミサイルが命中すると行動不能となるが、B艦隊の艦艇が1発のミサイルが命中しただけで行動不能となる耐久力をそれぞれ持っている。A艦隊は一隻当たりの防空能力が非常に高く、16発までの敵ミサイルを迎撃することが可能だが、B艦隊は迎撃能力は貧弱であり、一隻あたり1発のミサイルしか迎撃できない。さらにA艦隊は24発のミサイルで同時に敵を攻撃する能力があるが、B艦隊は6発のミサイルで同時に攻撃する能力がある。Hughesの斉射モデルを用いて、戦闘の結果として生じるA艦隊とB艦隊の損害を求めよ。
A艦隊はB艦隊に対して数的にかなり不利ではありますが、優れた防空能力と耐久性を備えており、さらに斉射できるミサイルの数でも敵を圧倒しています。とはいえ、2隻だけで6隻に対抗するとなれば、損害が生じる事態も予測されます。このことをどのように理解すべきなのでしょうか。

想定で示された数値を斉射モデルの方程式に代入すると、次のような計算式になります。
A艦隊の攻撃力から計算していくと、2隻から24発のミサイルが発射されるため、48発のミサイルが敵に対して使用されることになります。このA艦隊の攻撃を受けるB艦隊6隻の防空能力は各艦が1発ずつしか迎撃できないため、48-6=42のミサイルが目標に到達します。

B艦隊の耐久力では1発の命中で行動不能となるため、2(24)-6(1)/6(1)=7となります。7隻の損害が出るとB艦隊の勢力は-1となるため、B艦隊は1隻も残らず沈められると考えられます。
同じ計算をA艦隊に当てはめると、6(6)-16(2)/2(2)=36-32/4=1なので、A艦隊の損害は1隻に止まると考えられます。以上の計算から、A艦隊の損害は1隻、B艦隊の損害は6隻と求められるのです。

(この想定に基づく計算の詳細についてはHughes 1996: 273-4を参照せよ)。

ただし、斉射モデルは彼我の勢力が同時に戦闘行動を開始することを大前提にしているだけでなく、ミサイルの性能や電子戦の能力についても一定のものとしています。つまり、その時の状況や戦術によって、理論上の戦闘結果と現実の戦闘結果の間には相違が生じてきます。

この論点について著者は、A艦隊とB艦隊の双方が発揮する攻撃力と防御力の水準は、どれだけ情報を得ているかによって変化すると指摘しています。これは奇襲によって敵の存在を察知する前に敵からミサイルが発射され、奇襲が成立すると、味方は敵のミサイル攻撃の第一波で残存した勢力でのみ実施することになる可能性があるということです(Ibid.: 275)。

艦艇の戦闘力を規定する要因について
また著者は、斉射モデルによって個々の艦艇の戦闘力を決定する個別の要因について考察しています。一般に艦艇の戦闘力はその大きさ(排水量)や搭載している兵装の種類、威力などで判断されることが多いのですが、著者は以下の7個の要因が重要であると述べています。
  • 打撃力(striking power)
  • 耐久力(staying power)
  • 敵のミサイルに対する射撃能力(counterfire)
  • 哨戒効率(scouting effectiveness)
  • 電子戦でのソフトキルの相互作用(soft-kill counteractions)
  • 戦闘配置のための即応態勢(defensive readiness)
  • 錬度、編成、教義、士気(training, organization, doctrine, and motivation)
特に著者が一般に軽視されていると指摘しているのが艦艇の耐久力です。従来の定説的見解としては、巡航ミサイルの破壊力に耐えうる構造の艦艇を設計することは技術的に困難であり、艦艇の設計で耐久性能を充実させるよりも、他方面の性能を向上させるべきとされてきました。

しかし、著者は敵のミサイルが1回命中しただけで行動不能になるのか、2回命中するまで行動できるかによって、艦隊としての生存性が倍増すると指摘しており(ibid.: 278-279)、一撃で沈められてしまう艦艇ばかりが配備されると、敵の奇襲に対する脆弱性が増大してしまい、戦闘でも反撃が不可能となる状況を懸念しました。とはいえ、この著者の主張の妥当性は軍事理論の観点だけでなく、船舶工学の観点から議論する余地があるでしょう。

むすびにかえて
今回の記事で取り上げた斉射モデルはシンプルで拡張しやすい優れた海戦のモデルであり、現代の対水上戦闘に関するさまざまな理論的分析の出発点として参照されています。
こうした特定の条件で発生する戦闘の結果を予測するモデルは、オペレーションズ・リサーチの文献ではしばしば解析的戦闘モデル(analytical combat model)と呼ばれており、所要兵力の見積りや、開発、調達する装備の要求性能を決定する際に活用されることがあります。

このような机上の計算など信頼できないという意見もあるかもしれませんが、防衛力の整備計画を立てる際には、過去の戦争から得られた経験則だけに頼るわけにもいきません。さまざまな事態を想定し、そこから生じ得る結果を考察するためには、こうした理論的な枠組みが検討の出発点として有用なこともあるのです。

KT

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