最近人気の記事

2017年10月13日金曜日

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。

例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。

今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。

1、軍の師団への分割
ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780)
イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。
ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。

しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。
「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁)
現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。

軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。

2、自在に行動できる散兵

主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてきました。
士官の監視の下で戦列を組みながら戦う従来の戦術では、こうした場面に対応できないことは明らかでした。

そのため、各国の陸軍では小規模な交戦を自律的、機動的に遂行する散兵の必要性が認識されるようになったとハワードは指摘しています。
この方面で先駆者だったのはバルカン半島の山岳地帯で多くの戦闘経験を有していたオーストリア(ハプスブルク帝国)の軍隊でした。
「国境防御のため、帝国陸軍は、地方に特有の才能ある人々を招集した例えば、クロアチアの民兵、ハンガリーの軽騎兵、アルバニアの軽騎兵などであり、主として偵察と襲撃のための軽騎兵であった。1741年、女帝マリア・テレジアがオーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの浸食に対し西の領土を守らねばならなかったとき、彼女はこれらの軍隊を非常に有効に使った。彼女の敵は、帝国軍主力のはるか前方や翼側で独立して作戦するこれらの軽装部隊を、山賊や人殺しと同じだと泣言を言ったが、それへの対抗手段をとらねばならなかった」(同上、133頁)
こうしてトルコとの戦争を通じてオーストリアが編み出した戦術は、プロイセン、フランスにも伝わっていきました。

しかし、プロイセン国王フリードリヒ二世が、前哨戦を遂行するために狩人などを集めて編成した部隊を、後になって解散させており、プロイセン陸軍において散兵を駆使する戦術が十分に発展しなかったようです(同上)。
(ハワードはフランスでの影響について述べていませんが、フランス革命戦争においてフランス軍は散兵戦術をいち早く取り入れたことは知られています)

3、砲兵の集中運用
グリボーヴァル・システムの下でフランス陸軍は野砲の規格を整理し、装備の標準化に成功した。射程の延伸と移動の容易さを両立させるなど、フランスの砲兵に技術的な優位性を与えた。
18世紀のヨーロッパで最も先進的な火砲を装備していたのは、恐らくフランス陸軍だと言って間違いないでしょう。フランスでは1760年代に火砲の独自規格を制定し、標準化に成功していたからです。
これはジャン=バティスト・グリボーヴァルの功績として知られており、ハワードもこの改革の意義を高く評価しています(同上、133-4頁)。

しかし、軍事理論の観点から考えると、ジャン・デュ・テイユが残した功績はより重要なものであったとハワードは考えています。

テイユは『野戦における新しい砲兵運用』という著作の中で、砲兵火力を集中して敵陣に突破口を形成することが可能であることを主張し、その際に正面から加える射撃よりも側射を行った方が有利であることなどを指摘しました。
「彼は、火力と運動の相互依存性や、正面射より側射の利点というような戦術的要素を強調したが、常に、兵力の集中することの必要性に戻った。「われわれは、敵を破ろうとする地点に、最大数の軍隊とできるだけ多くの火砲を、集めねばならない。……われわれは、勝利を決すべき攻撃点で、わが砲兵を増加しなければならない。……このように聡明に維持され増加された砲兵が、決定的な結果をもたらすのである」」(同上、134頁)
こうした戦術的創意によって、グリボーヴァルが残した功績が戦場で実際に威力を発揮する方法について議論されるようになりました。
ハワードはテイユが若い頃のナポレオンの後援者であったことにも触れており、その影響の大きさを指摘しています(同上)。

4、横隊から縦隊、そして混合隊形へ
ジャック・アントワーヌ・ギベール(1743 - 1790)
フランス陸軍軍人、その著作で新たな歩兵大隊の戦術に関する提案を行う。
最後にハワードが取り上げているのが特に戦列歩兵のとるべき隊形に関するものです。
当時、歩兵部隊の運用に関しては二つの考え方がありました。

一つはフランス陸軍のように縦深を大きくとる縦隊にすべきとする考え方であり、もう一つはプロイセン陸軍のように縦深を小さくとって細長い横隊に展開すべきという考え方です。
簡単に言えば、前者は突撃に有利で、後者は射撃に有利という特徴がありました。
ハワードの研究によると、フランス人は高度な規律と緻密な訓練を要するプロイセンの横隊戦術を導入することに非常に慎重だったとされています(同上、134頁)。

その一例として、18世紀の初頭に活躍したフランス陸軍の軍人フォラールが著作の中で、突撃の際の衝撃力が最大になるような縦隊を擁護する説を唱えていたことが挙げられています(同上、134-5頁)。
フォラールの説はフランスで支持者を得ましたが、次第に非現実的なものだということも露呈しました。そのことが次のように紹介されています。
「オーストリア継承戦争においてそれを実行しようとした悲惨な試みは、世紀が進むにつれて、修正され精妙になった。その戦争では、フランスの縦隊は,敵戦の火力によって、預言できたように、ずたずたにされたのである。最も有効な修正はギベールによって導入されたものである。必要に応じて横隊に展開する小さな大隊縦隊という、彼の柔軟な混合隊形は、1791年のフランス軍教令の基礎となり、少なくとも革命軍の公式の原則となった」(同上、135頁)
これは、フォラールの攻撃縦隊という着想が、フランス陸軍のギベールの学説によって発展的に改称され、「混合隊形」という思想に結びついたということです。これにより、フランス陸軍は歩兵戦術の幅を大きく広げることができました。

これは戦闘において戦列を一定の隊形の下に維持することに制約されていた当時の陸軍の歩兵戦術から抜け出す契機となりました。
ただ、ギベールはフランス革命戦争でこうした戦術が実際にどのように駆使されるのかを目撃する前に死去しました。

むすびにかえて
フランス革命以降、フランス陸軍がいち早く旧来の戦術から脱却し、当時のヨーロッパ列強を軍事的に圧倒できたのは、ナポレオンの功績だけで説明できないというのがハワードの主張です。
ブルセ、テイユ、フォラール、ギベールのようなフランス人の軍事学者の革新的な研究成果が存在していたからこそ、ナポレオンはそれらを容易に利用できたのです。

ハワードが呼んだ「ナポレオン革命」が18世紀フランスの軍事学の研究成果の集大成だったと考えると、国防に関する研究がいかに長期的視野の下に行われる必要があることが分かります。
私たちは戦争で実際に部隊を指揮した将軍や提督の功績ばかりに注目しがちですが、彼らの背後には多くの研究努力があったことも考慮しておくべきでしょう。

KT

関連記事
ナポレオンが軍団を設置した理由
学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール
マイケル・ハワード『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』奥村大作、奥村房夫訳、中央公論新社、2010年

2017年10月8日日曜日

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。
外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。

しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。

今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。

鉄道がドイツに内線の優位をもたらす
フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者
軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている
ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。
その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。

リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。
ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。

しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。
「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上)
アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常に容易になるとリストは考えたのです。

こうした考え方は第一次世界大戦の歴史でドイツ軍が実際に鉄道を活用して二正面作戦を遂行しようとした歴史を知る私たちには当然のことだと思えるかもしれません。
しかし、リストがこうした研究に取り組み始めた当時、ドイツで鉄道というインフラは登場したばかりだったということを踏まえる必要があります。

鉄道輸送の軍事的有用性が一般的に認知されるのは1861年に勃発した南北戦争以降のことなので、1830年代にリストがここまで鉄道の重要性を理解していたこと自体が驚くべきことだと言えるのです(同上、226頁)。

また、これだけでなくリストは鉄道を駆使した地政学的戦略を構想していました。それはヨーロッパと中東を一つの鉄道で結び、ロシアの南下をイギリスとともに食い止めるという壮大な計画でした。

バグダード鉄道とドイツの中東戦略
1918年当時のバグダード鉄道の路線図と延長計画を現した地図、オスマン帝国の領土を縦断する路線の構想は19世紀後半にまでさかのぼるが、実際に建設が開始されたのは20世紀以降となった。リストは英独同盟に基づく対露戦略を支援するためにバグダード鉄道を構想していた。
リストは鉄道をヨーロッパの戦略問題だけに限定して重視していたのではなく、アジアも視野に入れた上で考察を書き残しています。アールはこの方面のリストの業績を次のようにまとめて紹介しています。
「英独同盟の構想の中で、彼はイギリスのインドならびに極東への交通路を、英仏海峡からアラビア海に至る鉄道で改善すべきだと提案している。彼はナイル河と紅海を、ナポレオン時代のライン河とエルベ河のようにイギリス本島に近い存在に、ボンベイとカルカッタをリスボンやカディスのように容易に行ける場所にすべきだと書いている。これは計画されているベルギー・ドイツ鉄道をヴェネチアまで延長し、そこからバルカン、アナトリアを通ってユーフラテス渓谷、ペルシャ湾に出て、最後にはボンベイに至ることで実現できるはずだった」(同上、226頁)
これはまさに大陸国家的な特徴を持つ地政学的戦略構想であり、統一を実現した後のドイツで進められた3B政策(ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードを鉄道で結ぶ構想)の原型が見られます。

戦略の観点から見て非常に興味深いのは、ドイツからトルコを経てペルシャ湾に至る鉄道を整備し、その路線に沿ってヨーロッパから中東、そしてその先のインドをロシアに対する一続きの戦略的防衛線として再構成しようとしていることです(同上、226-7頁)。

この壮大な戦略構想の妥当性については別の機会で詳細に検討する必要があるでしょう。ただ、これが極めてユニークな戦略思想であることは間違いなく、従来の陸軍戦略で考えられたことがないものでした。

19世紀のイギリスはロシアの脅威からインドを防衛するために必要な兵力を確保することが難しくなる傾向にあったため、リストの戦略はロシアに対抗するイギリスの世界戦略を補完する意味も持っていたと言えます。
ロシアという脅威を利用してイギリスとドイツの共通の利益を確保すれば、中東におけるドイツの権益を確保しやすくなることも考慮されていたということです。

むすびにかえて
軍事学の歴史においてリストの業績を位置付けているアールは、鉄道に関するリストの研究を高く評価し、次のように述べています。
「彼が鉄道の持つ経済効果に関心を持っていたことは当然予想されるところだが(中略)上記期間による輸送がドイツに与える戦略的影響についての彼の理解には驚くべきものがあり、それはいかなる客観的な基準からいっても特筆すべきものである」(アール、224頁)
リストは、鉄道輸送の技術的進歩を重視するあまり、東西から挟撃されやすいというドイツの地政学的問題を矮小化した側面もありますし、彼の思い描いた英独関係は実現しませんでした。

しかし、それでもリストの鉄道に関する考察には先駆的な側面があったと評価すべきでしょう。

KT

関連記事
文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ
事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難
事例研究 第一次世界大戦のドイツを苦しめた食料問題

参考文献
エドワード・ミード・アール「軍事力の経済的基盤 アダム・スミス、アレグザンダー・ハミルトン、フリードリヒ・リスト」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、195-229頁

2017年10月4日水曜日

論文紹介 米陸軍がソ連軍の作戦術を取り入れた理由

冷戦期に米陸軍ではヨーロッパ正面での対ソ作戦を想定し、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)からエアランド・バトル(AirLand Battle)にドクトリンが変更された歴史的経緯があります。
それは米陸軍がソ連軍に対して劣勢だったためだとか、ソ連軍のドクトリンに対抗するという観点から説明されることが一般的でしょう。

しかし、エアランド・バトルについては異なる視点から評価する議論もあり、そこではベトナム戦争で政府の首脳部が前線の指揮所の決定に過剰に介入する傾向をドクトリンとして是正する意味合いがあったのではないかと指摘されています。

今回は、作戦術の観点から1980年代の米陸軍のドクトリンの発達過程について考察した研究の要点を取り上げて紹介したいと思います。

文献情報
北川敬三「安全保障研究としての「作戦術」―その意義と必要性」『国際安全保障』44巻4号、93-109頁

なぜ作戦術の問題が重要なのか
作戦術(operational art)という概念は、後述するようにもともとソ連軍で発展したものであり、大規模な野戦軍による統合的、独立的な作戦行動を準備または遂行するための理論と実践を取り扱うものと定義され、戦略と戦術の中間に位置付けられてきました。

本来、戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を運用する計画や方策を定めるものであり、戦術は戦闘で任務を遂行するために戦闘力を運用する方法を定めるものです。
その中間に作戦という領域を置いて、一定の自律性、独立性を持たせることができれば、戦略と戦術の連絡調整を迅速化し、より動態的、機動的な戦力運用が可能になることが期待されます。

西側では1980年代に入ってから研究が活発になり、軍事理論の一領域を構成するまでに発展したのですが、その理由は軍事専門的な観点だけで把握すべきではないと著者は考えました。
「1980年代以降、「作戦術」は英米を中心とした軍事組織における革新運動の一環として盛んになり、一般の研究者における研究も盛んになっている。これまでの研究の蓄積により、「作戦術」は軍事理論の一つの分野として認識されている。すなわち、「作戦術」は軍事専門家のみが研究し、軍が実践する領域ではなく、軍事を包含した広範囲の安全保障研究の中で考えられるものとなっている」(北側、93頁)
このことを理解するためには、まず作戦術の概念の成り立ち、1980年代に作戦術に注目が集まった経緯を確認し、1980年代後半に米陸軍が作戦術を基礎とするドクトリンを発展させるまでの経緯を確認しなければなりません。

ソ連軍が先行していた作戦術の理論研究
ロシア・ソ連の陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)
1878年にオデッサで生まれ、陸軍ではロシア戦争で従軍した他、作戦術に関する先駆的な研究を残した。1938年に死去
軍事理論の歴史においては、作戦術という概念を20世紀初頭に編み出されたと考えられており、その最初の提唱者は1922年にソ連陸軍士官学校教官だった陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)と見られています。
彼はクリミア戦争、日露戦争、第一次世界大戦でロシア軍が得た戦闘経験に基づき、この概念を考案しました(同上、98頁)。

スヴェーチンの以前の記事でも紹介したトゥハチェフスキーの縦深戦闘の構想も、この作戦術の影響を受けていたことが指摘されています。(論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

第二次世界大戦でソ連軍がドイツ軍と戦うために採用したドクトリンは、スヴェーチンの研究に一定程度依拠していたので、西側としてもソ連軍の研究を通じて作戦術という概念を知り得る状況にはありましたが、著者が指摘するように、その意義は直ちに認識されませんでした。
「これらの思想は、ソ連軍において第二次世界大戦や冷戦中の欧州における大規模作戦計画に活かされ、機動力を重視し敵縦深に至る「縦深作戦(Deep Operation)の概念に繋がった。さらに注目すべきは、政治的イデオロギーが軍の編成や戦術までも規定したソ連から、政治的に翻訳可能な軍事的概念が出てきたことである。これは現時点で見れば一見当たり前のようにも思えるが、認知されるまでかなりの時間を要した」(同上、98-9頁)
西側の軍事学の文献では、戦略と戦術という二分法がすでに定着していたこともあり、その中間に作戦術のような概念を導入することの必要性が感じられなかったのかもしれません。

しかし、そうした状況を変える研究が1980年代に登場します。それがエドワード・ルトワックの研究でした。

ルトワックの研究が米陸軍のドクトリンに与えた影響
ルーマニア出身の政治学者、エドワード・ルトワック(1942年-)
戦略理論、国際政治、軍事史を専門とし、冷戦期には対ソ戦略の分析を中心に論文を発表していた。
米ソが新冷戦の局面に入った80年代は、西側でさまざまな防衛改革が進められた時代であり、ヨーロッパ正面におけるNATOのソ連軍に対する防衛態勢についてさまざまな批判的な検討がなされています。

ルトワックも1981年の論文「戦争の作戦的次元」で戦略と戦術の中間に作戦レベルという分析レベルを設定した上で、米陸軍のドクトリンを消耗戦から機動戦に移行すべきことを主張しました(同上、99頁)。
ソ連軍との戦闘において米陸軍の第一線部隊を防御陣地に止めるのではなく、より機動的な戦闘要領で交戦することが求められると主張したのです。

ルトワックが当時の論争に及ぼした影響は大きなものがあり、1982年版の米陸軍の野戦教範『FM100-5』で正式に作戦レベルの概念が導入され、1986年の改訂ではソ連軍の概念である「作戦術」が盛り込まれました(同上、99-100頁)。米陸軍はこれ以降、作戦術の研究を本格化させます。
ただし、1980年代に作戦術の概念が導入された理由として、ルトワックの議論だけが重要だったわけではなく、複数の背景的要因が関係していたことも著者は指摘しています。

一つはベトナム戦争の反省であり、「戦術的勝利を得ていたにもかかわらず、戦略的結果に結び付けられなかった」経験からドクトリンの見直しを積極的に進める動きが米陸軍にあったことと説明されています(同上、100頁)。
ベトナム戦争では政府首脳部の戦略と前線司令部の戦術との関係にさまざまな齟齬が生じたことが反省されていました。

さらに、将来の戦争の技術的革新の問題も認識されており、「第四次中東戦争では、ミサイルや高機動の戦車を含む最新兵器が使用され、機動戦が近代戦の要諦であることが再認識された」として想定する戦争の様相では機動力を重視すべきという意識の変化がありました(同上)。
同時に以前の米陸軍で策定されていたドクトリンである「アクティブ・ディフェンス」に対する批判が高まっていた事情もあり、「防御中心かつ、小規模兵力による戦術次元に焦点をあてた「アクティブ・ディフェンス」には、欧州正面におけるワルシャワ機構軍の大規模な波状攻撃という戦闘様相に合致していないという批判があった」と著者は紹介しています(同上)。

エアランド・バトルを可能にした作戦術の導入
米陸軍軍人、オーティス(Glenn K. Otis)米陸軍のドクトリンとしてエアランド・バトルが検討されていた時期に、米陸軍訓練教義軍(United States Army Training and Doctrine Command, TRADOC)の指揮をとった。その後、米欧州陸軍の総司令官にも任命されている。
ベトナムでの苦い経験、新たな武器体系の登場、アクティブ・ディフェンスの行き詰まり、これらを背景としながら、ルトワックの研究は1920年代よりソ連軍で発展していた作戦術の意義を西側の研究者に再評価するよう促したのです。

さまざまな検討が重ねられた結果、1980年代後半に米陸軍ではエアランド・バトルという新しいドクトリンが策定されることになります。
論文では言及されていませんが、当時このドクトリンを策定したオーティスは後に米欧州陸軍総司令官も務めた人物であり、これが当時のヨーロッパの米陸軍の戦略思想に与えた影響は大きなものがありました。
「上述の要素は、大部隊の運用、機動力を要する縦深性、技術の進歩の必要性に関し、ドクトリンと組織改革の両方に作用していった。この成果が陸上兵力のみならず、陸空軍の航空兵力と統合した「エアランド・バトル(Air Land Battle)」の開発に繋がっていくつことになる。「エアランド・バトル」の要諦は、同時攻勢作戦を戦場の幅と縦深において実施し、敵を敗北させるものである」(同上、101頁)
1982年に制定された「エアランド・バトル」の構想は、1991年の湾岸戦争で実践されたと著者は考えており、「第一次湾岸戦争は、米国と有志連合の「作戦術」の勝利でもあった」と述べています(同上)。

著者の見解によれば、戦略と戦術だけで軍事行動を考えた場合、政府の首脳部が示す戦略が、現場の作戦部隊の戦術に過剰に干渉する恐れがあるが、その間に作戦という中間的領域を置くことで、政治的意思決定と軍事的意思決定の両方の自律性を保ち、かつ両者を調整できるようになると考えられます(同上、103頁)。

これは示唆に富む議論であり、その意味するところに従うと米陸軍がエアランド・バトルという機動的な戦力運用を目指すドクトリンを策定できたのは、戦略を一方的に押し付ける政府首脳部に対して、作戦の自律性と独立性を一定程度回復し、その下で戦術的意思決定に柔軟性と融通性を持たせることが可能になったためだと解釈できます。

むすびにかえて
現代の日本では統合機動防衛力という防衛力の整備構想に基づき、自衛隊をより機動的に運用することも検討されていますが、そうした検討を進めるに当たって戦略、作戦、戦術の関係性を改めて整理しておくことは必要なことだと思います。
さもなければ、政府レベルで策定される戦略上の決定が、どこまでも戦術を制約することになりかねないでしょう。

現代の軍事行動において政治的制約を踏まえた戦略の決定は危機管理や戦争指導において決定的に重要なものだと言えます。しかし、戦略と戦術との線引きを踏み越えるようなことがあれば、たちまち現場の部隊行動に悪影響を及ぼす恐れがあり、また刻々と変化する状況で第一線の指揮官に対する統制が強まれば、機動的な部隊運用は実現不可能となるでしょう。

戦略、作戦、戦術に論理的な一貫性を持たせることの重要性について、より理論的な分析を読みたいなら、ルトワックの『戦略論』が参考になるでしょう。またアクティブ・ディフェンスからエアランド・バトルに至るドクトリンの歴史を知りたい場合には『Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993』(邦訳なし)が参考になります。

KT

関連記事
論文紹介 「海洋戦略」の策定を支えた米海軍の研究努力
論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは
論文紹介 参謀総長モルトケの戦争術と作戦術の原点

参考文献
エドワード・ルトワック『エドワード・ルトワックの戦略論 戦争と平和の論理』武田康裕、塚本勝也訳、毎日新聞社、2014年
Romjue, J. L., Anne W. Chapman, Susan Canedy. 2002. Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993, University Press of the Pacific.

2017年10月1日日曜日

文献紹介 どれだけ健康なら兵役適格なのか―第二次世界大戦と米陸軍の採用基準―

軍事行政においては徴兵制、志願制いずれの場合であっても、兵役適格者を識別するために採用基準(accession standard)を設定します。

20世紀、多くの国家の軍事行政では徴兵制の施行に伴って採用基準の検討が始められ、健康、体力、知能の検査に面接調査を組み合わせて実施されてきました。

今回は、第二次世界大戦当時の米陸軍でどのような採用基準が採用されていたのかを検討した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Anderson, R. S., and C. M. Wiltse, eds. 1967. Physical Standards in World War II, Washington, D.C.: U.S. Army Medical Department.
(外部リンク)https://collections.nlm.nih.gov/catalog/nlm:nlmuid-0126710-bk

採用基準をめぐる歴史的背景
もともと米国では18世紀の独立戦争の時代から体力に関する採用基準を設定する必要があることは知られていました。
特に19世紀の南北戦争では健康面で兵役不適な兵士が各部隊で続出したことが深刻な問題となっており、統一的な採用基準を設定しなければならないことが議論されたこともあります。

しかし、常備軍に対する反発が根強い米国では採用基準に関する議論がなかなか進まず、20世紀に入って以降も採用基準の問題は軍で十分に研究されていませんでした。
こうした状況が変わり、米国で採用基準の検討が本格的に始まったのは、第一次世界大戦が終わった後になります。

著者らは1923年5月29日に制定された陸軍規則「合衆国陸軍、州兵および予備役への入隊のための身体検査基準」(AR 40-105)を制定して以降、採用基準の内容が次第に見直されていったことを紹介しています(Ibid.: 2)。

米陸軍でこの取り組みを推進していたのは主に軍医であり、特に軍医総監室の貢献が重要だったと指摘しています。
彼らは第一次世界大戦の経験を踏まえ、医学的見地に基づく検査方法を導入し、兵役不適格者と兵役適格者を選別する客観的指標を確立しようと研究を始めました。

しかし、採用基準によって兵役不適格者を軍隊から排除する努力は、第二次世界大戦でさまざまな障害に直面し、論争を引き起こすことになります。

「糧食を食べる歯があれば、兵役適格と認める」
米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の段階で、米陸軍は全国民を動員する体制を整えておく必要を認識し、徴兵検査の準備も進めていました。

ところが、軍医総監室が策定していた採用基準を実際に運用してみると、戦時の総動員に支障を来すことが次第に明らかになってきます。要するに、採用基準が厳しすぎて、部隊に欠員が生じてしまうということです。

その要因の一つが歯科に関する採用基準に関するものでした。徴兵検査の段階になって、多数の徴兵対象者が軍医の策定した基準を合格できるほどの歯を持っていなかったのです。そこで直ちに米陸軍はこの基準を見直すことにしました。
「戦争が勃発し、総動員が開始された際に、歯の基準は劇的に引き下げられた。暫定的な措置の下で、1942年2月には、深刻な感染症を持っておらず、『戦闘糧食を喫食するために十分な歯(人工の歯も含む)があるならば、』徴兵登録者は歯科的に兵役適格者であると宣言された」(Ibid.: 23)
治療を受けることができない戦場で長期にわたり活動することになる兵士にとって、十分な数の歯がないことは決して小さな問題ではありませんでした。しかし、このままでは動員計画に後れを生じさせる恐れもあったため、妥協が図られたのです。

しかし、歯に関する採用基準は1942年にさらに引き下げられる事態になり、10月にほとんど基準としては抹消されるまでに至っています。それだけ当時の若者の歯科保健に問題が多かったということが示されています。

こうした問題は歯科だけで終わりませんでした。米陸軍は所要の兵力を確保するためにどの程度の精神障害を許容すべきかという面でも検討を余儀なくされています。

「精神疾患も程度によっては、兵役適格と認める」
軍医総監室が策定した採用基準で次に問題となったのは、精神科に関する基準でした。
動員の前に行われた研究では、家庭から分離され、プライバシーがない場所で生活し、劣悪な環境と慢性的な飢餓、そして強い疲労感と身体的負傷に耐えるためには、精神的、人格的異常のある人間については、兵役適格者から排除する必要があると考えられていました。

一見するともっともに見えますが、こうした採用基準はやはり実際に徴兵の検査が始まると予想以上に多くの兵役不適格者を出すことが分かってきました。
著者らは「特定の例外はあったが、精神的、人格的障害のための基準は、陸軍規則において確立されたいかなる基準で最も抜本的かつ継続的な修正を受けたものである」と述べています(Ibid.: 37)。
それほどの譲歩を求められるほど、精神的な問題を抱える徴兵対象者は多かったのです。

統計的調査を調べると、米国が参戦して動員が開始されてから戦争が終わるまで、徴兵検査を受けた米国市民の中で10%を超える人々が精神異常、人格異常に関する採用基準を合格できず、その合計は199万2950名を数え、その数は兵役不適格者全体の30%以上を占めていました(Ibid.)。

結局、米陸軍は所要兵力の確保のため、1942年3月の改訂でこの採用基準は大幅に緩和することを認めます。1943年に強迫性障害(自分の意志に反して不合理な行動を繰り返してしまう精神障害の一種)が採用基準から除外されたことも、こうした経緯で行われています。

むすびにかえて
著者らの調査によると、米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の時点で米軍にはおよそ102万4789名の軍人がおり、51万9805名が陸軍に所属していました(Ibid.: 15)。
しかし、参戦する1941年12月になると米軍の規模は229万6086名にまで拡大され、1942年11月に677万3809名に達し、陸軍の規模も493万2496名に膨らんでいます(Ibid.)。

数字だけ読むと驚異的な大規模動員ですが、これを実現するために米陸軍で採用基準に関する大きな譲歩が繰り返されていたことが研究から分かります。
健康状態に問題がある兵士を軍隊に多数抱え込んでしまうと、戦闘効率に悪影響を及ぼす危険があるだけでなく、衛生管理上の負担を増大させることにも繋がります。
当時の米陸軍の措置の功罪については防衛行政、特に人的資源管理の観点からよく検討しておくべきでしょう。

残念ながら日本語で書かれた軍事学の文献で採用基準の問題を取り扱ったものを見つけることはできませんが、英語だと今でもさまざまな文献が発表されています。
最近の傾向として、国民の基礎体力の低下や肥満化の傾向を踏まえた採用基準の設定がよく議論されていると思います。日本でも今後ますます参考になる議論だと思います。

ちなみに、第二次世界大戦より前の採用基準の歴史を調べたい場合は、軍事医学の分野で定評がある教科書シリーズのMilitary Preventive Medicine, Mobilization And Deploymentの第1巻第7章に掲載されている論文「Evolution of Military Recruit: Accession Standard」に当たることを推奨します。

KT

2017年9月23日土曜日

論文紹介 北朝鮮の核開発を中国の目線で考えてみる

北朝鮮が核開発をこれほど長期間にわたって続けてきた動機については、さまざまな議論があります。米国に対する抑止力として核兵器を持とうとしているという議論もその一つです。
しかし、北朝鮮の核政策を理解するためには、軍事的、外交的な観点だけでなく、政治的、経済的観点からも多面的に考察する必要もあります。

今回は、中朝関係を中心に北朝鮮の核政策を考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Thomas Plant and Ben Thode, "China, North Korea and the Spread of Nuclear Weapons," Survival, 55.2 (2013): 61-80.

北朝鮮と中国を結び付ける外交的利害
中朝国境を一部構成する鴨緑江に架橋された中朝友誼橋。ここから軍事境界線に至る北朝鮮の領土は中国にとって在韓米軍をはじめとする米国の脅威を緩和する緩衝地帯にもなっている。
まず著者らは中国にとって朝鮮半島がどれほど大きな戦略的意義を持っているかを考察するところから議論を始めています。

もし北朝鮮の体制崩壊が起これば、中朝国境には多くの難民が押し寄せる危険があるだけでなく、韓国が主導する形で朝鮮半島が統一されれば、在韓米軍の兵力が北朝鮮に進駐し、それが中国に対する脅威になる可能性も考えられます(Plant and Thode 2013: 61-2)。

これは中国の安全保障にとって受け入れがたい事態です。だからこそ、中国はこれまで北朝鮮との貿易、投資を通じて経済連携を強化し、北朝鮮が崩壊することがないようにさまざまな政策を実施してきました。

著者らの言葉を借りると中朝関係は「北朝鮮は存続のために中国を必要とし、中国は北朝鮮が崩壊しないことを必要とする」とも形容できるでしょう(Ibid.: 62)。
こうした中国の思惑で保護を受けることができた北朝鮮ですが、北朝鮮は必ずしも中国の支援だけで体制崩壊を食い止めきたわけでもありませんでした。

というのも、北朝鮮はその国力の制約の中で政権運営に必要な財源を確保するため、さまざまな取り組みを進めてきたためです。核開発もその一つとして位置付けられてきました。

北朝鮮が核開発を行う経済的理由
北朝鮮は冷戦期から核開発に乗り出しており、長期計画で研究開発を推進してきた。1980年代に原子炉の建設と運用を開始し、1990年代に使用済み核燃料の再処理施設の建設に移行し、2000年代にはウラン濃縮の技術の開発に入っていた。この間に北朝鮮は米中露韓日を含めた核問題の協議に参加し、一時的に開発プロセスを停止した時期もあるが、結果として交渉はいずれも失敗に終わっている。
教科書的な勢力均衡理論で考えるならば、中国の支援を得ている北朝鮮は、国防のために必ずしも脅威に対抗できる規模の軍備を必要としません。
なぜなら、対外的な脅威が及んだとしても、中国の軍事的介入を期待することができると考えられるためです。

それにもかかわらず、北朝鮮が自国の防衛力をさらに強化しようとすることについて、著者らは北朝鮮には国防以外にも核開発を行っている可能性があると指摘しており、それは武器輸出による外貨の獲得であるとの仮説を示しています。
「北朝鮮の弾道ミサイル拡散と通常兵器の販売に関する報告によれば、リビアの指導者カダフィ(Muammar Gadhafi)が2003年に秘密裡に進めていた核開発計画を放棄することを決定する前から、数十年にわたって拡大を続けてきたとされている」(Ibid.: 67)
「北朝鮮がリビアに核物質を提供したことが発覚した2004年以降も、北朝鮮はシリアとの核関連技術協力を継続している。この事件に対する懲罰的措置が実施されていないことからも、北朝鮮の神経の図太さがうかがわれる」(Ibid.: 68)
すでに武器輸出国として北朝鮮には一定の販売実績があり、品揃えに関しても高濃縮ウランから反射炉技術など他国では手に入らない分、市場における競争優位があると言えます。(果たして国際社会に取引に応じる顧客が実際にいるかどうかは、また別の問題ですが)

著者らの議論に従うと、北朝鮮にとって核開発を放棄することは、外貨獲得のための手段となる有力商品の製造を放棄するという意味合いがあり、これまでの研究開発に投資してきた経費を回収できなくなります。

北朝鮮の核開発を中国はどう見ているか
朝鮮戦争で中国は北朝鮮と事実上の同盟国として米韓に対し戦った。しかし、著者らは中国と北朝鮮の利害は必ずしも一致しているわけではなく、核開発において中国は北朝鮮の動向について懸念を抱いていると判断している。その一方で、体制変更を含めて朝鮮半島の現状を大幅に変更することには大きなリスクがあるため、これまでも中国としては北朝鮮に対する圧力の強化で慎重な立場をとってきた。
この論文で特に興味深いのは、こうした北朝鮮の核開発の思惑とそれに関連する貿易事業について中国がどのように判断しているのかを考察している箇所です。

そもそも、北朝鮮が核関連技術を諸外国に売却して利益を得ていることは、長期的視点に立ってみると中国にとって決して好ましいことではありません。
この観点から見ると、中国が北朝鮮を経済的に支援するのは、現在保有する核物質や武器を海外に輸出することを防いでいる側面さえあります。
つまり、中国の政策は核拡散の防止という点に限定すると、米国と利害が一致している箇所もあるということです。

しかし、この問題の本質は中国が米国の動きを予測できず、北朝鮮に対する具体的な行動に踏み切ることができない状況にある、と著者らは考えています。

もし北朝鮮の体制変動を含めた緊急事態に対処するとなれば、中国としては利害関係がある米国、韓国と事前に協議しておく必要が生じます。
しかし、中国にとって米国は決して「信用に値する相手ではない」ために、具体的な作戦行動に関する情報を共有できる外交環境ではなく、中国の政策決定者にとって緊急事態の際のリスクを見積もることが非常に難しくなっていると著者らは指摘しています(Ibid.: 72)。
「米国、韓国、中国はいずれも体制崩壊の際には核物質を確保する必要があると考えているものの、中国は米国や韓国とそのようなシナリオ、あるいは緊急事態の計画について協議することを拒否している。この手詰まりの原因としてよく指摘されるのは、同盟国との仲間意識を表す必要があるということ、すでに手の負えない隣国とさらに関係が悪化することを望まないこと、そして中国にとって米国が信頼できないことである」(Ibid.)
結果として、中国にとって現実的な措置は限定的、場当たり的な措置となってしまいます。

その措置には北朝鮮に経済的手段で圧力をかけることも含まれていますが、これは北朝鮮が中国に対する経済的依存を減らすことに繋がり、核物質や核施設の輸出を含めた外貨獲得を促進させ、コントロールしにくくなる側面もあります(Ibid.: 73)。

このようなリスクを総合して考えると、中国としては北朝鮮を経済的に支え続けた方が、米国と一緒に北朝鮮の非核化を推進するよりも、全般の情勢から考えて中国の利益に適うという判断になるでしょう。

むすびにかえて
北朝鮮の問題を考える際には、つい日本、米国の立場に立ってしまいますが、中国の立場から北朝鮮の問題を理解することも、大変重要なことです。
米国がその強大な軍事力で北朝鮮に圧力を加え、非核化を強制すればよいという単純な問題ではなく、北朝鮮の背後にいる中国と朝鮮半島の「望ましい状態」についてどのような合意が形成可能なのかを考えなければならないのです。

著者らはこの論文で中国が米国、韓国と情報交換から始め、危機的状況での対応について協議するための準備を進めることが問題解決にとって必要と述べていますが、米中関係から判断してそのような外交はなかなか現実には難しいことは率直に認めています(Ibid.: 74)。

もし米国が中国の同意も得ずに北朝鮮に対して軍事行動を起こすなら、米中間で軍事的緊張が高まることは必至でしょう。
もし両国が衝突に至った場合に予想される物的、人的犠牲が、北朝鮮の非核化という目的から考えて許容可能な範囲に収まらないのであれば、米国は北朝鮮に対して戦略的に譲歩する可能性は十分に考えられます。

どのような展開になるにしても、この北朝鮮の核開発の問題を過度に単純化することなく、背後関係も含めて分析し、日本の政策が適切なのかどうかを絶えず監視しておくことは重要なことだと思います。

KT

関連記事
地域研究 データで分かる北朝鮮の軍事力
学説紹介 国家が脅迫を成功させるための四条件
論文紹介 なぜ抑止は(時として)失敗するのか

2017年9月16日土曜日

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。

各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。

しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。

今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。

参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想
ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。
ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。

つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。

例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。

無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。

また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していたのですが、1879年に刊行した戦術学の教範を執筆したことによって、30年近くにわたりロシアの軍事学の権威であり続けていました(同上)。

ドラゴミロフの思想の一部を紹介すると、「たとえば現代の進歩した速射砲を使用し、将校の指揮が優れ、兵士が大砲の操作に熟達していたとしても、彼らが図上で炸裂する砲弾に耐えられずに大砲を放棄してしまったとしたら、彼らの素晴らしい大砲も何の役にも立たなくなってしまう」と述べています(同上、324頁)。

一般論としてはもっともな部分もあるのですが、19世紀における武器の射撃速度、威力、射程といった諸条件を総合して考えれば、18世紀の軍人であるスヴォーロフの軍事思想に妥当性を見出すことには無理があったと言えます。

徹底さを欠いた日露戦争の分析
1905年、旅順攻囲戦でロシア軍の守備隊が日本軍に砲撃を加えている様子。この戦争では新たな技術が戦場の様相をどのように変化させるのかを考察する上で重要な事例と専門家の間で注目を集め、世界各国でさまざまな分析が行われたが、当事者であるロシア軍は旧来の戦術や編制を抜本的に見直すまでには至らなかった。
ピントナーはロシア軍で主流を占める研究集団が、いわゆるロシア的な戦法に傾倒する状況で、日露戦争がどのように分析されていたのかに注目しています。

後知恵ですが、ロシア軍にとって日露戦争は従来の学説の実証的な妥当性を再検討し、研究の停滞を打ち破る絶好の機会を提供していたと言えます。

日露戦争で判明した近代的な火力の意義、そして塹壕戦の難しさを知ったことによって、過去の偉人の軍事思想を現代の戦争に適用するだけでは限界であることに多くの軍人は気がついていたはずです。

しかしながら、日露戦争の後になっても参謀大学校で主流派を占める人々の見解がほとんど変化しなかったのです。このことについてピントナーは次のように述べています。
「日露戦争の結果、近代的火力の重要性と塹壕攻撃の困難性が明らかになったにもかかわらず、ロシア軍の伝統的思考は疑われなかった。たしかに日本軍の熱狂的な精神力は、ドラゴミロフが主張していた、軍隊では士気が最も重要であるという考え方を補強することになった」(同上、325頁)
軍隊の頭脳であるべき参謀大学校が、説明がつかない事実に目をつむり、従来通りの理論を守ろうとしたことは、調査研究という本来の機能が健全に果たされていなかったことを示唆しています。

無論、こうした主流派の独断的な姿勢に対して当時のロシア軍の士官全員が納得していたわけではありませんでした。

ピントナーが調査したところによると、軍事史学部長のポストを廃止する議論が参謀大学校で問題となっており、その過程で抜本的な改革を進める試みも見られたのですが、最終的には失敗に終わりました(同上)。

火力戦闘を主張したネズナモフへの反発
サンクトペテルブルクにある参謀大学校旧校舎の正面外観。1832年に陸軍士官学校として発足し、1855年には参謀大学校へと発展したことで、高級士官のための教育や高度な軍事学の研究も組織的に行われるようになったが、ロシア革命の影響で1918年に閉校となった。
こうしたロシア軍の状況に立ち向かった研究者にネズナモフ(A. A. Neznamov)という軍人がおり、ピントナーは彼が参謀大学校の教官という立場にありながら、ロシアの軍事的な後進性に関する批判的見解を発表したことで注目しています(同上)。

ネズナモフは日露戦争でロシアが軍事的に失敗した根本的な理由は、単に後方連絡線が貧弱だったためではなく、満州の慣れない気候や地形で作戦を遂行できず、無能な将官が指揮をとり、政府の政策決定にも一貫性がなかったためだと考えていました(同上)。

しかも、ネズナモフは当時のロシア軍で絶対的だと見なされていたスヴォーロフの説にも挑戦し、「火力が戦闘を決する」と主張し始めます(同上、326頁)。これは当時の参謀大学校の主流派には受け入れがたい議論でした。

ただ、ピントナーはネズナモフの議論の全てが妥当だったとは述べていません。
ネズナモフは戦争目標は決戦で敵軍を撃滅することだとする古典的な戦略思想が将来的に役に立たなくなる可能性を予見していましたが、塹壕戦が膠着状況をもたらす危険についてはそれほど認識していなかったと指摘しています(同上)。
それでも、当時のロシア軍にとってネズナモフの定説に対する批判は白兵主義から火力戦闘に脱却する機会を与えていたと言えます。

ところが、ネズナモフはスヴォーロフをはじめとするロシアの過去の軍事思想家を軽視していると見なされ、周囲から強い反発を受けることになりました。

そのため、ネズナモフは自分がピョートルやスヴォーロフのような偉人の軍事思想の価値を一概に軽視しているわけではなく、戦闘の手段が変化していることを指摘しているだけだということを自己弁護する必要に迫られました。当時のネズナモフの次のような考察を残しています。
「ピョートル大帝は天才であり、外国のものを採用するに当たって有益なものと有害なものの差をはっきりと認識していた。彼は最愛の息子よりもロシアを愛していた。彼は「模倣」ということについて次のように説明している。「われわれが彼らに背を向けるまで、ヨーロッパは数十年間にわたって必要である」、また「われわれはヨーロッパに追いつき追い越すであろう」ということも夢見ていた。軍事的分野に限られていたとはいえ、ロシアはヨーロッパに追いついたともいえる。しかしその後歴史は繰り返し、ヨーロッパは再びわれわれを追い抜いた。そして再びわれわれは同じことを繰り返すであろう。現存するものの中から最高のものを採用して国内で改良し、その後で彼らに背を向けるのである」(同上)
この考察を読めば、当時の参謀大学校でネズナモフが自分の研究に理解を示してもらうために、妥協を重ねていたことがうかがい知れます。

それは学問的根拠というより学内政治の考慮に基づく妥協であり、ネズナモフとしては自分の主張を受け入れてもらう必要がありました。

むすびにかえて
1911年にネズナモフは自らの研究成果を『現代戦争』という著作にまとめて出版しますが、ピントナーの見解では、この著作が第一次世界大戦の前にロシア軍で影響を及ぼすことはありませんでした。
結局、ネズナモフの主張は当時の参謀大学校で受け入れず、実務でも活用されなかったということです。

ネズナモフは将来の戦争を見越して参謀大学校の思想を火力戦闘に移行させるべきだと考えていた点で、先見性がありましたが、そうした改革は実行に移されることがなく、そのままロシアは第一次世界大戦に突入していきました。
驚くべきことではありますが、日露戦争から第一次世界大戦にかけてロシア軍の運用や編制が大きく変わらなかったことは、こうした経緯があったためだと考えられます。

この事例から学べることは、研究組織が存在していたとしても、それが常に研究を促進するとは限らないということでしょう。
特に研究組織の管理運営に関する権原が特定の学派によって独占される状況が続くと、後進の研究者は新しい立場で議論することや、それを批判することに極度に慎重にならざるを得なくなり、結果として健全な研究努力が妨げられることにもなります。

最近は日本でも大学改革が叫ばれていますが、こうした事例も検討した上で、どのような管理体制であれば健全な研究環境を次世代に継承できるのか、よくよく考えなければならないと思います。

KT

参考文献
ウォルター・ピントナー「ロシアの軍事思想 西欧モデルとスヴォーロフの影」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、315-330頁

2017年9月15日金曜日

論文紹介 冷戦初期の米国の東アジア戦略と日本の防衛力

第二次世界大戦に敗れた日本は、東西冷戦の時代に入ると米国が指導する西側陣営の一員となり、また米軍の極東戦略の中に位置付けられるようになっていきました。

しかし1945年で軍備を全面的に失った日本にどのような軍備を持たせるべきか、米軍との役割分担をどのようにすべきかという点については、米国の内部でもさまざまな議論があり、それによってその後の日本の再軍備のあり方が大きく規定されることになったと言えます。

今回は、冷戦初期において米国が自らの戦略に日本の防衛力をどのように位置付けていたのかを歴史的に検討した研究を紹介したいと思います。

文献情報
石田京吾「戦後日本の海上防衛力整備(1948 ~ 52 年)―海上防衛における日米の役割分担の起源―」『戦史研究年報』第 9 号(2006 年 3月)97-110頁

西側の陣営に組み入れる対日政策の転換
月刊沖縄社「東京占領」GHQが置かれた第一生命館
占領統治が始まった直後、GHQは敵国だった日本を完全に武装解除し、軍事的に無力化することを重要な目標としていました。

しかし、米国とソ連との間で東西冷戦が本格化すると、米国で日本の利用価値を再評価する動きが出てきます。

つまり、軍事的に無力化するよりも、共産主義陣営の脅威に対抗する上で日本の経済的、軍事的能力を利用した方が米国の国益に適うと考えるようになっていったのです。
「1947年5月、国務相にPPS(Policy Planning Staff: 政策企画室)が新設され、その室長としてケナン(George F. Kennan)が就任し、冷戦政策の企画立案を担当した。(中略)ケナンは欧州や日本が経済的困難に起因する国内政治の不安定化により共産化していくことを危惧し、自由主義世界の政治的、経済的安定を重視した。そして日本を「封じ込め政策」の成否を決める重要な地域の一つと見なしていた」(石田 99-100頁)
さらに同時期に行われたCIAの情勢判断においても「極東におけるアメリカの現在の地位を保つためには、地域の重要なエリア、特に日本に対するソ連の覇権を拒否することが必要である」と著者は紹介しています(同上、100頁)。

こうして日本は米国の対ソ戦略の新たな要素として位置付けられるようになりました。

とはいっても、この時点での米国の懸念は極東ソ連軍による対日攻撃ではなく、日本国内で政治工作に従事する親ソ派の日本人の動きにありました。GHQはまずは現地で治安維持に当たる警察力を整えることを優先し、海上戦力に関しては沿岸警備能力程度に限定する方針を決定します(同上、101頁)。

このことは、米国が対ソ戦略における日本の重要性を認識した後でさえ、すぐには防衛力の本格的な整備に着手しようとしなかったことを表しています。しかし、このGHQの姿勢も1950年になると変わっていきました。

朝鮮戦争で促された日本の再軍備
朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮軍を圧迫して釜山に迫ったが、米軍の来援で退却を余儀なくされた。しかし、その後も中国軍の介入があり、朝鮮戦争は長期化の様相を呈することになる。
U.S. Navy. Seoul Battle, Korean War
1950年に勃発した朝鮮戦争で、最も大きな影響を受けたのは日本に駐留していた在日米軍部隊でした。

それまで日本の占領に当たっていた部隊が朝鮮半島に逐次投入されると、GHQは日本国内の治安維持に当たることが難しくなり、日本政府に警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を命令します(同上、102-3頁)。韓国に米軍が到着した後も朝鮮戦争の戦局は一進一退が続き、東アジアの戦略環境は急激に不安定化していました。

1951年5月17日、米国は軍事的手段による封じ込めを東アジアにも適用する方針を決定することを正式に決定し、「日本に関して、国内治安と外部からの侵略に対する防衛能力を維持し、極東の安全及び安定に貢献できる能力を持つ、アメリカに友好的な自立した国家になることを支援する」という方針の下で日本の再軍備を促すことになりました(同上、105頁)。

再軍備を進めるためには憲法の問題があることは米国もよく承知していたのですが、それについては「日本の防衛のために軍事力の保有を認めるように憲法は改正されるであろう」と予測していました(同上、106頁)。
しかし、その後も長らく日本で憲法問題が議論されることになりました。

いずれにせよ、東アジア情勢が急速に展開していく中で、米国は対日政策の再検討を進め、やがて外敵の侵略に対して日本も米国と共同で対処させるという方針が現れてきます。

1951年末に統合戦略計画委員会が示した文書を踏まえて、著者は次のように論じています。
「JCS1380/127では、事態の対処について、それまでの海空兵力についてはアメリカと他の同盟国が提供するので、日本は海空兵力を考慮する必要はないという考え方に代わって、日本とアメリカが「共同および協力」して外部からの侵略に対処するという新たな考え方が提示されたのである。つまり、アメリカの政策文書に初めて日本の防衛力の任務が明示されたのであり、日米共同による外部侵略への対処、言い換えれば外部からの侵略に対処する際の、日米の「役割分担」の考え方が提示されたのである」(同上、107頁)
これは日米関係の歴史において画期的なことでした。
それまで日本に認められていたのは、治安維持に当たる警察力の延長に過ぎなかったのですが、この米国の役割分担の考え方は対外戦争への対処を想定するものに変化していたためです。

さらに統合戦略計画委員会は日本の軍備については「適正な海上・航空兵力と併せた陸上兵力19個師団」という整備目標が妥当だとも示しており、日本の防衛力の規模についても具体的な議論が始まることになります(同上、108頁)。

日本に攻撃能力を持たせない米国の思惑
ジョージ・ケナン、外交官としてソ連に対する封じ込めを主張し、冷戦期における米国の対外政策の指針に大きな影響を及ぼしたことで知られている。
しかし、日本海軍を復活させる恐れを米国の政策決定者は決して忘れてはいませんでした。日本の再軍備を促進するとしても、日本が米国に敵対できないような措置を講じておくことが必要だと考えられていたのです。

この点について著者は当時の国務長官代理と駐日大使とのやりとりを紹介しているのですが、そこでは新たな日本の海上防衛力は「対潜海軍が望ましい」と述べられており(同上)、その理由として「対潜戦を任務とするような、明らかに防衛的な艦艇は日本の潜在的な侵略能力の再現について日本国外の危惧を掻き立てることはありそうもないであろう」と説明されています(同上頁)

つまり、日本の海上戦力から攻撃機能を事前に除外しておけば、米国としては日本を無力化できるし、同時に米国の東アジア戦略のために日本を利用することもできると考えられていたのです。

むすびにかえて
著者がこの論文で明らかにしているように、日米関係の歴史は米国の占領行政の延長線上に発展し、日本の防衛力の規模や内容は米国の戦略によって強く規定されていました。

少なくとも朝鮮戦争前後の日本の防衛体制のあり方は、当時の米国の対日政策によって非常に大きな影響を受けていたということが言えるでしょう。

また第二次世界大戦の経験がまだ昨日のことのように思い出される時期において、米国政府がこうした対日政策をとったことは十分理解できることですし、ソ連を封じ込めるという米国の対外政策としても妥当性があったと思われます。

無論、日本も米国の援助を利用できたことには、少なからず利益がありました。
米国が自国の国益を追求するため日本を利用し、また日本も米国の支持を利用して防衛力を再構築していったのです。

KT

関連記事
論文紹介 米ソ冷戦で日本の防衛力が重要だった理由
論文紹介 米ソ決戦における米海軍のASW戦略
論文紹介 日本の対ソ戦略で海峡封鎖が重視された理由

資料
冒頭写真:毎日新聞社「昭和史第14巻 講和・独立」保安隊創立記念式典

2017年9月10日日曜日

学説紹介 日本の地政学はこれでいいのか

最近、書店で地政学のタイトルがついた書籍が増えており、議論が盛り上がること自体は喜ばしいのですが、問題もあるようです。

というのも、その大部分は地政学というタイトルにふさわしい内容とは言えなかったり、地理的知識に裏付けられていないものが少なくないのです。

個別のタイトルは挙げませんが、参考文献や脚注が一切ない文献や、地図や統計がほとんど含まれない文献もあります。

入門書や解説書であれば、それでも問題ない場合もありますが、一部では個人の政見が吐露されているだけの書籍であっても、地政学というタイトルで販売されている有様です。

今回は、この問題を考える上で参考となる考察として、河野収の考察を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

海洋国家系と大陸国家系で分かれる地政学
ルドルフ・チェレーン、「地政学」という研究領域を政治学、国家論で位置付けた最初の研究者
なぜチェレーンは地政学を生み出したのかを参照
河野収は戦前生まれの陸軍軍人でした。1919年(大正8年)に生まれ、陸軍士官学校を卒業しています。戦後は専門の中国軍事史を研究し、特に孫子の戦略思想に関する研究業績を残しています。

防衛大学校の教授として国防地理学(軍事地理学)の教育も担当しており、そこで地政学の研究にも取り組んでいました。今回取り上げる考察もその成果の一部と推察されます。

河野はその著作『地政学入門』において、地政学の歴史を理解するには、まず英米で発達した海洋国家系とドイツで発達した大陸国家系に大別することが便利であり、マハン、マッキンダー、スパイクマンの説を前者に、ラッツェル、チェレーン、ハウスホーファーの説を後者に位置付けることができる、と述べています(河野、19-20頁)。

「海洋国家系地政学は、比較的に客観的、保守的、共存認容的であり、大陸国家系地政学は、比較的に主観的、革新的、統合志向的である」というのが河野の両学派に対する大まかな評価であり、これは研究が行われた政治的環境、特に脅威認識が海洋国家と大陸国家で異なるためではないかとされています(同上)。

こうした二つの学派として発展していた地政学ですが、第二次世界大戦の影響によってその研究動向は全世界的に低迷するようになりました。

大陸国家系地政学の衰退と日本での影響
第二次世界大戦においてドイツをはじめとする枢軸国の陣営が敗北すると、大陸国家系の地政学は侵略を正当化したなどの理由で政治的非難の対象となりました(同上、75頁)。

反対に海洋国家系の地政学は賞賛されることになりますが、論敵を失ったためか研究そのものは低調となったと河野は指摘しています(同上)。

こうした状況は日本でも影響を与え、それが戦後の日本で地政学の研究がなされなくなった要因としていますが、河野は戦前の日本の地政学の内容に問題があったことも関係していたと考えています。

もともと日本には大陸国家系地政学が導入される前から地理学、政治地理学、軍事地理学の研究について学問的蓄積があり、実証的、科学的な根拠が尊重されていました。

例えば、明治時代には山崎直方、小川琢治、志賀重昂などの努力によって近代的な地理学の知識や方法がもたらされていたことが紹介されています(同上、81頁)。

ドイツの大陸国家系の地政学が研究されるようになったのは昭和時代に入ってからのことでした。

学術研究の本旨を外れていた日本の地政学
河野はこの事象を示す一例として、戦前に出された岩田孝三の『国防地政学』を取り上げています。

この著作も地政学というタイトルがついた文献ですが、その序文では「地政学が国家の動向と最も深い関連をもつ研究である限り、これも亦、日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献するものでなければならない」と述べられていました(同上、82頁)。
「これを見ると、当時の日本の地政学ないし国防地理学は、科学的な法則性追求の態度からはずれ、きわめて直接に「日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献」するというように、国策に直結する方向に進み、これを拡大して「世界的普遍への理念」とすべきだ、としている」(河野、82頁)
このような一部の地政学の研究者の非学問的な態度が、戦後に反動をもたらし、軍国主義、侵略主義の理論的支柱と非難される事態を招いた側面があるのではないかというのが著者の見解です(同上、83頁)。

地政学の議論が日本の政策決定に影響を与えたという説もありますが、それを厳密に立証することは難しく、地政学の研究が日本の侵略戦争を促進したなどと断定することは適当でないとも著者は考察しています。

そうすると、日本で地政学の研究が長らく途絶えることになった要因は、大陸国家系地政学の導入や、戦争での敗北といった背景的要因だけでなく、本来の学問としての態度が地政学から失われたことの方が本質的ではないかとも考えられるのです。

むすびにかえて
また地政学は外交、貿易、国防などの問題は国家の存続にかかわる重大な政策選択において貢献できると河野は考えていました。ただし、それはあくまでも客観的、実証的な学問としての地政学でなければならず、その本質を見失ってはいけないということです。

抽象論や観念論によって議論が空転すること、試行錯誤の繰り返しで貴重な資源を浪費すること、その場しのぎの対策によって大局を見失うこと、これらは決してあってはならないことであり、これらを避けるためには日本で新しい地政学を研究すべきだ、と論じられています(同上、83頁)。

1980年代の考察ではありますが、その主張の意義は2010年代においても色あせていないと私は考えます。

今の日本での地政学の議論には、もっと学問的な態度が必要であり、河野が指摘したような戦前の過ちを繰り返さないように適切な注意を払うべきでしょう。

KT

関連記事
論文紹介 地政学シミュレーションの構築に向けた取り組み
国家の「中核地域」をいかに考えるべきか
国土防衛を考えるための軍事地理学
領土拡張のための「成長尖端」
文献紹介 ハウスホーファーによる地政学への手引き
文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ

文献情報
河野収『地政学入門』原書房、1981年

2017年9月7日木曜日

論文紹介 第5世代戦闘機F-35には、より強力な情報支援が必要

最近、米空軍で運用が始まったF-35ですが、この航空機については軍人、設計者、研究者の間で賛否両論あります。

今回は、こうした議論に関連して、米空軍の情報支援の態勢を組織的に改善すべきだと主張した研究を取り上げ、その要点を紹介します。

論文情報
Stephanie Anne Fraioli, "Intelligence Support for the F-35A Lightning II," Air & Space Power Journal, Vol. 30, No. 2(Summer 2016), pp. 106-9.

F-16とF-35はここが違う
この論文では著者はF-35が以前から運用されていたF-16と多くの点で機能が強化されていることを一般的に説明するところから議論を始まっています。

著者の説明によれば、F-35に応用されている「第五世代の技術は、〔敵の勢力によって〕拒否される空域を突破するために設計された」と説明されており、敵国領空を突破する能力が最大の特徴とされています(Fraioli 2016: 106)。

この機能は高度なステルス技術を応用することで可能になった説明されているのですが(Ibid.)、これは第五世代の戦闘機の機能の一部に過ぎないと著者は指摘し、F-35には高度な情報処理能力が付与されており、その違いは第四世代の戦闘機と明らかだとして次のように説明しています。
「F-16からF-35に至る進化は、固定電話からスマートフォンへの発展と結びつけることが可能であり、それは生活のあらゆる側面を自動化し、ソーシャル・メディアと電子メールの状況認識を絶えず保ち、銀行口座情報にいつでもアクセスすることを可能にする。第5世代航空機の作戦は時代遅れの機能を使用する必要がない。なぜなら、航空機が自動的に統合した情報資料を提供するためである。これは専門家の間でセンサー融合(sensor fusion)と呼ばれており、電磁気と赤外線スペクトルの領域で生み出された技術である」(Ibid.: 106-7)
つまり、第四世代の戦闘機だと操縦士はさまざまなセンサーを自分自身で操作する必要があったのですが、第五世代の戦闘機、つまりF-35の操縦士はそのような作業から完全に解放される、ということです。

この性能はF-35の高い戦闘効率に寄与するものであり、著者は高くこれを評価していますが、現時点でその能力を最大限に引き出す態勢が米空軍にはないとされています。これが著者によって提起されている課題なのです。

F-35を活用し切れない情報支援の現状
著者は基本的にF-35には大きな潜在力があると強調していますが、運用体制を整えることが大前提であり、特に米空軍においてF-35の機能をより発揮できるような情報支援の在り方を検討すべきと論じています。
「空軍の指揮官は、新たなプラットフォームを構築することと、戦闘情報を収集、分析、そしてそれを作戦指揮官に伝達する十分な能力を確保することが、直接的関係にあるということを理解しなければならない。(中略)情報戦においては、速度と精度が勝者を決定するのである」(Ibid.: 107)
要約すると、著者は今の米空軍の体制はF-35の優れた情報処理機能を活用できず、しかも今後も長期にわたって解決されないままになる危険性があるため、米空軍全体としてより真剣に問題に取り組むよう求めているのです(Ibid.)。

それほど著者が深刻に考えている理由はいくつかあります。
その一つとして第五世代戦闘機にインストールされているプログラムで使用されているデータ形式が、それ以外の装備にインストールされているプログラムのデータ形式と互換性がないということが挙げられます(Ibid.: 108)。

旧世代の戦闘機とやり取りするデータ形式に互換性がないことが、なぜそれほど深刻なのかというと、F-35に実装されているプログラムには空中戦における機動を制御する機能が含まれていることが関係しています。

つまり、F-35が戦闘空間で他の味方の航空機の位置を自動的に取得し続け、その情報に基づいて敵機に対して有利な距離や位置関係を瞬時に解析し、それに基づいて他のF-35との高度な戦術的な連携を実現することが目指されているのですが、味方に1機でも旧世代の戦闘機が含まれているとこの機能は使うことができなくなるということです(Ibid.)。

近接航空支援(close air support)でも問題があります。F-35ではリアルタイムで地上の映像を操縦士が受け取り、それに基づいて目標を攻撃することが可能になっているのですが、そもそも地上からそのような映像をリアルタイムで送信する能力が今の米空軍にはなく、機能を活かすことができないと指摘されています(Ibid.)。

戦闘機の性能だけが優秀でも軍事的に無意味

そもそも航空戦力の価値は航空機の性能だけで決まるものではないということはよく知られています。その航空機を支援する体制が空軍全体でどれだけ整っているかが重要であり、著者はF-35に関してはもっと米空軍に情報支援を構築する予算が必要だと主張しています(Ibid.: 108)。

さらに著者はこうした問題に取り組む上で、特に信号通信を重視することを提案しており、F-35の訓練でもこの方面に注力することを提案しています。
「情報の専門家は常に第5世代を支援する1N0(intelligence application)に注目しているが、しばしば次に示す空軍のコードは見落としている。すなわち、1N1A(地理情報分析geospatial intelligence analysis)、1N1B(目標選定targeting)、1N2A(信号分析signals analysis)である。恐らく画像情報と信号情報は1N0の支援と同じか、それ以上に重要である。これらの機体から発せられる特定の情報資料は可能な限り素早く解析され、かつ提示されなければならない。これらの領域はいずれもF-35の開発に役立つものであるし、これら専門コードの初歩的訓練は正式な訓練に組み込まれるべきである」(Ibid.: 109)
F-35の問題に関する議論はこれまでもありましたし、今後も続くでしょうが、この研究は情報支援の観点からそうした議論に一石を投じたものだと言えるでしょう。

むすびにかえて
著者は米空軍の現役士官としてF-35の情報支援に関する任務に取り組んできた経歴を持っており、この論文で示された考察も実務の経験に基づくものと推察されます。

こうした主張が今後の米空軍でどのように受け止められるのか、情報支援の体制強化がどこまで進むのかなどの点は、米国の国防政策、そして米空軍のF-35部隊の戦闘力を評価する上で注目すべき点だと思います。

航空自衛隊においてもF-35の導入が進んでいることを考慮すれば、こうした論点があることは国民としても知っておくべきだと思いますし、我が国の航空戦力をどのように整備すべきかを考察する参考にもなると思います。

KT

2017年9月1日金曜日

事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。

これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。

しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。

今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。

JCEOの構想とその特徴
まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。
米軍の定義では次のように定められています。
「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2)
こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。

例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。

したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。

注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。

しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。

第一次世界大戦の事例を参考に
1918年4月23日に実施されたZ-O作戦の要図、イギリスが海上から強襲を実施し、ドイツ海軍の基地機能を喪失させようとしていることが伺える
米軍がこうした突入作戦の研究で参照している歴史上の事例に1918年4月23日に実施された第一次世界大戦のイギリスの特殊作戦があります。

当時、イギリスは大胆にもドイツの海軍基地を強襲することによって、海上交通路の安全を確保しようとしていたのです。
「Z-O作戦は、イギリスの海軍、海兵隊、空軍によって実施された直接行動による襲撃であり、第一次世界大戦の最中1918年の春にベルギーのZeebruggeとOstendの敵港湾施設を利用不可能にすることを意図していた。そのために、海兵隊は地上攻撃を、狭隘な箇所で「ブロック船舶(block ships)」を計画的に沈没させ、ドイツの潜水艦や哨戒艇がイギリス海峡に接近することや、イギリスの外洋航路を脅かすことができなくなるように、爆発物を積載した潜水艦を重要な埠頭の下で爆発させた」(Ibid.: 3)
この事例の詳細についてはPrince(2012)やPitt(2003)の中でも説明されていますが、戦果は限定的なものにとどまっており、作戦として完全な成功からとはいえないものでした。

そのことは米軍においても承知の上ですが、それでもこうした作戦が戦力投射能力において必要であると考えられています。

この事例以外にも第二次世界大戦でのノルウェーで実施された特殊作戦の事例、1989年に実施されたパナマ侵攻の事例、1993年のソマリアでの人道支援なども取り上げた上で、突入作戦という作戦構想について具体的な検討を行っています(Joint Chiefs Of Staff 2014: 3-5)。

こうした前例を踏まえて研究を行うことにより、JCEOの内容をさらに今後発展させる狙いがあるものと推察することができます。

JCEOの軍事的リスク
敵国が支配する海岸、それも最も警備が厳重な海軍基地に対して襲撃を行うことのリスクは容易に想像がつきます。

もし序盤に完全な奇襲が成功したとしても、敵が混乱から立ち直って戦闘が本格化してしまうと、もはや現地の部隊を外洋に離脱させることが不可能になる危険もあります。

したがって、極めて小規模な特殊作戦部隊による強襲で限定的な戦果を狙うか、または大規模な着上陸侵攻によって一挙に橋頭保を確保するか、いずれかの方法でなければ作戦として成り立たない可能性があります。

米軍としてもJCEOにリスクがあることを率直に認めており、そのリスクを列挙しています。

リスクには、例えば作戦の前提となる敵の領域拒否の手段を無力化することには技術的な問題も含まれており、突入作戦の構想そのものが非現実的になる可能性があるとも指摘されています(Ibid.: 34)。

また、地上部隊を敵の領土に着上陸させる前に、敵の部隊を十分に制圧しておくことが必要であり、この制圧のために重要となるのが敵の部隊や装備がどこにあるのかを探知する情報能力も重要です(Ibid.)。

むすびにかえて
しかし、こうした困難が山積しているからといって、米軍として突入作戦の構想それ自体を放棄するわけにもいきません。成功させるための方法は今後も検討されると思われます。

なぜなら、世界の覇権を米国が握り続ける上で、米軍の勢力投射能力を高い水準に維持することが戦略的に極めて重要なことだからです。

第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、朝鮮戦争の仁川上陸作戦など、米国がその対外政策を遂行する上で海上からの着上陸侵攻能力は決定的な役割を果たしてきました。

もし米軍が海上を支配する能力しか持たず、海上から陸上に軍隊を送り込む能力がないと認識されれば、世界で米国の軍事的プレゼンスは大きく後退するでしょう。

KT

参考文献
Joint Chiefs Of Staff, Joint Concept for Entry Operations (Washington:
U.S. Government Printing Office, 2014).(http://dtic.mil/doctrine/concepts/joint_concepts/jceo.pdf)
Stephen Prince. 2012. The Blocking of Zeebrugge, Operation Z-O, Osprey Publishing.
Barrie Pitt. 2003. Zeebrugge: Eleven VCs Before Breakfast,  Cassell Military Paperbacks.

2017年8月24日木曜日

論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

第二次世界大戦はさまざまな国家が敵味方に分かれ、それぞれが共通の目的を持って連合作戦を遂行しました。

連合国が枢軸国の陣営に対して最終的に勝利を収めることができたのも、この連合作戦の成功によるところが小さくなかったのですが、外交的、軍事的に見れば連合国の側の連合作戦にもさまざまな問題がありました。

今回は第二次世界大戦における連合国の連合作戦の問題について考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
モーリス・マトロフ「ヨーロッパにおける連合国戦略、1939-1945年」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、585-607頁

連合作戦の調整とそれぞれの政治的思惑
著者は第二次世界大戦でドイツやイタリア、日本を打倒するに至るまでの経緯を研究する場合、アメリカ、イギリス、ソ連という3カ国が、それぞれ別の思惑を持っていたことを明らかにすることが重要だと述べています(マトロフ、587頁)。
「大同盟を構成する各国は、それぞれの目的のために戦争を戦った。各国には、それぞれの戦略をつくり出す独自の政軍システムがあった。各国は、同盟の一因としての立場と、戦況の変化とによって妥協をはからねばならなかった。三つの同盟国は伝統も、利益、政策、地理、資源も異なっているため、ヨーロッパの戦争を違ったメガネで見ていた」(同上、586-7頁)
例えば、イギリスの戦略ではインドに通じる地中海の海上交通路を保護し、日本の脅威が高まる極東との連絡線を維持することが必要でした。

そのため、ヨーロッパ大陸に乗り込んでドイツから正面から戦うよりも、ドイツの占領地で反乱や破壊工作を支援し、消耗を強いることを望んでいました(同上、587頁)。

しかし、アメリカではイギリスとは異なり、ヨーロッパにおけるドイツよりもアジア太平洋における日本を深刻な脅威と見なされていました。

著者が述べているように「多くのアメリカ人にとっては、ドイツよりむしろ日本の方が本来の敵のように見えた」のです(同上、588頁)。

さらにソ連に目を移すと、英米と異なり日本とは戦争状態になく、必然的にドイツに対する作戦に専念していました。

それゆえ、ソ連軍は兵力を一正面に集中しやすい環境にあったのですが、「資本主義国による包囲をいまだにおそれ、敵にも味方にも同じように不信感を有するソ連は、第二次大戦を通じて、ぎこちない同盟国のまま」でした(同上、589頁)。

つまり、イギリス、アメリカ、ソ連は連合作戦について合意できる事柄はほんの一部に過ぎなかったのです。

戦争の最中に発展した連合国の対独戦略
著者はアメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦略構想を発展させる過程を1941年から1942年までの形成期、1943年の中間期、そして1944年末から1945年までの末期に区分して議論しています。

連合国としての戦略が議題となったのは1941年の初めにワシントンで開催された会議のときでした。

この会議でアメリカとイギリスはドイツの打倒をひとまず優先するという原則を確立し、日本軍に対しては連合国として防勢に徹することが決まります(同上、590-1頁)。

ただし、原則が確立された後も各作戦地域ごとの兵力の配分を決める段階で、さまざまな対立が生じました。

例えばアメリカ軍は対日戦のために太平洋に兵力をある程度残しておこうとしますが、イギリス軍は速やかにヨーロッパに兵力を移動させるよう反発したことはその一例です(同上、591頁)。

その後、アメリカとイギリスは北アフリカ方面に主力を派遣し、ヨーロッパ大陸の南側「柔らかな下腹」部分を攻撃の重点としますが、まだこの段階でソ連軍との連携は十分に図られていませんでした(同上)。

1943年に入るとソ連もスターリングラードの戦闘で勝利を収め、ドイツ軍に対して主動的地位に立つことができるようになっていました。

戦争全般におけるソ連軍の軍事的貢献が重要になると、ソ連が連合国の戦略策定に影響を及ぼす度合いも大きくなり、テヘラン会議ではソ連が強硬に北フランス侵攻を主張するようになります(同上、596頁)。

これは地中海で引き続き作戦を継続しようとしていたイギリスの立場と対立するものでした。
「チャーチルは、オーヴァーロードの延期という犠牲を払ってでも、イタリア、エーゲ海、東地中海で作戦を行うことを雄弁に訴えた。(中略)スターリンはオーヴァーロード作戦を強力に支持し、今後の地中海での作戦はオーヴァーロードを直接支援する作戦、すなわち南フランス進攻だけに限定すべきであると主張した。そのかわりソ連は、それらの作戦とともに東部戦線で全面的攻勢を開始することを約した」(同上、596頁)
ソ連軍はアメリカ軍、イギリス軍の兵力を使ってドイツ軍を東西から挟撃することが可能となり、これがオーヴァーロード作戦に繋がっていくことになり、第二次世界大戦の動向は終末期に向けて動き出すことになります。

次の時代を見据えた各国の戦略
1945年における連合国の対独作戦はおおむね順調に進んでいましたが、各国の思惑の違いが再び表面化しつつありました。

1944年までに確立されていた戦略に基づいてアメリカ軍とイギリス軍は着実に西ヨーロッパからドイツに向けて進撃を続けていたのですが、ソ連軍はポーランドからバルカン半島に向けて前進しています。

これは特に地中海に権益を持つイギリスにとって見過ごせない動きだったと著者は指摘しています。
「しかし、ポーランドとバルカンへの急速なソ連の進撃を注意深く見ていたチャーチルにとって、戦争はこれまで以上に大きな政治的利害をめぐる争いとなり、彼はドイツ軍の後退によって生じた真空地帯をうめるために西側連合軍を転用し、それによってソ連軍の殺到を阻止することを望んだ。戦略が戦場で展開されるにつれて、戦争にタイル二つのアプローチは、つまるところ、軍事的戦術か、政治的工作かという問題になった」(同上、599頁)
しかし、ローズヴェルトはこの重要な局面においてイギリスと同調してソ連に対するバランシングには動かず、あくまでもドイツと決着をつけるという姿勢を崩そうとはしませんでした(同上)。

これはローズヴェルトは対日戦に取り組むために、対独戦を早期に解決する必要があったためだったと著者は考察しています(同上)。

さらに、ローズヴェルトは熱心な国際連盟論者でもあり、勢力均衡に基づく国際政治の考え方を拒否したことも影響した、とも考えられています(同上、600頁)。

イギリスとしては地中海にソ連の脅威が及ぶことを防ごうと、アメリカに対して警告を発し続けますが、対独戦が予定よりも長引くにつれて、連合作戦の戦略策定におけるイギリスの影響力はさらに低下していきました(同上)。

むすびにかえて
第二次世界大戦における連合国の連合作戦を研究すると、それが各国の政治的・外交的思惑、戦略的考察を妥協で無理やり組み合わせたものであり、一貫性と呼べるものはほぼなかったことが分かります。

当時の連合作戦の特徴について著者も次のように結論付けています。
「その戦略は混成の産物―アメリカの直接さと、イギリスの用心深さと、ソ連のぶっきらぼうさの合成物―であった。その最大公約数は、大陸での巨大なクルミ割りの締めつけによってドイツを打倒することであった。しかし、連合同盟国の軍隊が互いに接近しドイツの敗北がより確実になると、その政治的食い違いはより明白となり、各国を結び付けていた絆も崩れ落ちた」(同上、606-7頁)
連合作戦は別の外国の兵力を自国のために利用する絶好の外交的手段に見えますが、 それは自国にとって薬にもなれば、毒にもなり得るものであり、その成否は国際情勢の動向よるところが大きいと理解する必要があります。

脅威が存在しなくなり、ともに戦う理由がなくなれば、それまで味方だった兵力が突如として敵に変わる可能性もある、ということです。

KT

関連記事
事例研究 準備なき宣戦―1939年の「まやかし戦争」
文献紹介 ヒトラーに戦争計画はあったのか
事例研究 作戦線から見た太平洋での米軍の戦略

2017年8月20日日曜日

学説紹介 必要な戦力を計算する方法―戦力比(force ratio)で作戦を立案するには―

一般に軍事行動では攻者が防者を撃破するために、およそ3倍の戦闘力を要するという経験則が言われています。

近年の研究で、この種の見解に妥当性がないとする説も出されていますが、こうした経験則は今でも軍隊の実務、特に幕僚の業務で広く使われています。

そこで今回は米軍の教範を踏まえ、各部隊行動において必要とされる戦力比について一般的に解説し、その意味について考察したいと思います。

作戦立案の基本は相対戦闘力の比較分析
作戦の立案に関するプロセスは、基本的に教範で標準化されたものがあり、戦力比の計算もその一部に位置付けられています。

米軍において戦力比の計算は軍事的意思決定過程(military decision-making process, MDP)、特に相対戦闘力の評価の一部に位置付けられています。

教範によれば、ある部隊の戦闘力を評価する場合、その部隊の2段階下位に当たる部隊の数に着目せよと述べられています(FM 6-0, C2: 9-18)。

例えば、作戦の基本単位となる師団レベルで彼我の戦闘力を比較する場合、分析単位は大隊であり、大隊を基本にして彼我の戦力を比較することになります(Ibid.)。

ここで敵と味方の戦力比を計算する段階に入るのですが、もちろんこの分析は定量分析だけで済むものではないことに注意する必要があります。

教範でも「戦闘力は有形の要素だけでなく、士気や訓練の水準といった無形の要素をも両方評価することを要する」と補足されています(Ibid.)。

攻者3倍の原則は最小限の戦力比を表したもの
戦闘力の定量分析の基本として、まず敵と味方を攻者と防者に分けます。これは部隊行動によって最小限必要な戦力比が違うためです。

教範でもこのことははっきりと指摘されており、詳細については次のように解説されています。
「多くの場合、計画立案者は歴史上の事例に基づく最小限の戦力比を目安として用いる。例えば、攻撃する部隊が防者に対して約3倍の戦闘力を有していても、歴史的に考えれば防者がそれを撃破できる可能性は50%を超えている。つまり、したがって、基本的に指揮官は約1:3の戦力比を伴っていれば、それぞれの接近経路で防御することは可能なのである」(Ibid.: 9-19-20)
誤解されやすい点ですが、攻者は防者の3倍の戦力を要するという経験則は、いわば最低限必要な戦力のことを表しているのであって、3倍の戦力があれば攻撃は成功するという意味とは解されていません。

つまり、確実な成功を期するとすれば、攻者は防者に対して戦力比が3倍以上になるように部隊を集中させなければならない、ということが言えるのですが、このような計算は敵が後退行動をとっている場合や、要塞に立てこもっている場合に変化します。

任務、態勢ごとで異なる最小限の戦力比
部隊行動は攻撃や防御だけではありません。周到に準備した要塞に立てこもって戦う場合もあれば、後退行動を行う場合などがあります。

教範ではこのような状況も想定した上で、任務、態勢ごとに必要な最小限の戦力比も次のように紹介しています。
・遅滞行動 味方1:敵6
・防御(周到な準備あり):味方1:敵3
・防御(周到な準備なし):味方1:敵2.5
・攻撃(敵に周到な準備あり):味方3:敵1
・攻撃(敵に周到な準備なし):味方2.5:敵1
・逆襲(敵の側面に対して):味方1:敵1(Ibid.: 9-20を参照)
これも実質的な戦闘力が互角になる最小限の戦力比であって、この比率を満たすことができたから成功が確実視されるというわけではありません。

全般の戦力比として防者が優位だと分かりますが、興味深いのは攻者が逆襲で側面から敵を攻めることができた場合であり、この場合だけは攻者に求められる戦力比が防者に対して1となっています。

これは味方の部隊が敵の側面を突くことができれば、防者が享受する戦力3倍の効果は失われることを意味しています。

こうした判断基準を適用すれば、さまざまな分析が可能となりますが、対反乱作戦についてはまったく異なった計算方法を適用すべきことに留意して下さい。

ゲリラや反乱軍を相手にする作戦の場合、その作戦地域に居住する人口が戦力の見積で重要なデータであり、おおむね1,000名の住民がいる地域に対して20名から25名程度の兵士が確保することが必要とされています(FM 3-24)。

むすびにかえて
今回は教範の内容を紹介するにとどめましたが、この記事で取り上げたテーマは奥が深く、オペレーションズ・リサーチ、軍事シミュレーション、ウォーゲーム(兵棋)とも深く関係しています。

例えば戦闘力に関しては火力指数を作成し、敵と味方の装備の価値が技術力に応じて異なることを戦力比の分析に反映させる方法も研究がなされており、戦闘による損害の予測でも成果が上がっています。

このような定量分析を乱用してはいけないことはすでに述べた通りですが、重大な局面で軍事行動を決めなければならない場合、一つの重要な論拠となり得ますし、戦争がどのようにして遂行されているのかを理解する上で興味深いのではないでしょうか。

KT

関連記事
論文紹介 WEI/WUVとは何か、いかに応用すべきか

参考文献
U.S. Department of the Army. 2014. FM 6-0, Commander and Staff Organization and Operations, U.S. Department of the Army.
U.S. Department of the Army. 2014. FM 3-24, Insurgencies and Countering Insurgencies, U.S. Department of the Army.

2017年8月18日金曜日

論文紹介 暴動鎮圧にも戦術がある

本来なら暴動は警察学の研究テーマであって、軍事学の研究テーマにはそぐわないと感じられる読者もいるかもしれません。

しかし、世界の発展途上国で実施されている不正規戦争の事例を調べてみると、暴動がゲリラ戦を補完する戦術として利用されることもあり、一概に暴動は警察力で鎮圧すればよいと片づけるわけにはいかない場合があります。
これは米軍のように外国で占領地の治安維持に当たる場合があれば、なおさらです。

今回は、暴動を鎮圧する方法を戦術の観点から考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Stanton, Martin N. "Riot Control for the 1990s," Infantry, Vol. 86, No. 1(January-February 1996), pp. 22-9.

不正規戦争の一環としての暴動
この研究の目的は、米軍の暴動鎮圧ドクトリンを見直すことにあるのですが、著者は特に発展途上国に進駐した米軍部隊が暴徒の対処に当たるという状況を想定していました。

この研究が発表された当時は1990年代、つまりポスト冷戦の時代であり、発展途上国に米軍部隊が派遣され、現地の暴動を鎮圧する任務を数多くこなさなければなりませんでした(Stanton 1996: 22)。

著者は1990年代前半の米軍の戦闘経験に基づき、発展途上国の暴動は事実上のゲリラ戦として側面があったとして、次のように論じています(Ibid.: 23)。
「例えばソマリアにおいては、兵士は戦闘員(gunman)と対決するのと同時に、投石や手にしたもので打撃を加える群衆とも対決した。射撃を加える戦闘員を捕獲するため、部隊が暴動を起こすソマリ族を圧迫し、打撃する場面が何度も生じた。同じ暴動に致死的な暴力と非致死的な暴力を組み合わせて用いたことが、反応をより複雑なものにしてしまった」(Ibid.)
つまり、治安維持部隊を襲撃する暴徒は意図的に女性や子供を捲き込むことによって、武装している戦闘員の安全を確保する場合があり、暴動鎮圧をより困難にする可能性があるということです。

治安維持部隊にとって、このような暴徒から戦闘員だけを見つけて捕獲することは極めて困難なことですが、もし暴徒の接近を無制限に許せば部隊に多くの損害を出すことになりかねません(図1)。
暴動鎮圧の状況図、白丸が非武装の群衆、黒丸が武装したゲリラ、四角が兵士、斜線が障害をあらわしている。武器を使用する人間を非武装の人間が守ることによって、兵士は武器の使用を制限される態勢となる。
(Ibid.)
米軍は1960年代から暴動鎮圧について研究しており、野戦教範(FM 19-15)では分隊4個からなる小隊を基礎とする隊形も考案されていました。
しかし、著者はこれでは1990年代の暴動に対処することは不可能と考え、新たな小隊編制を考案することにしました。

暴動鎮圧を戦術的に考察する
それまで分隊4個からなる小隊編制がドクトリンで定められていましたが、著者は分隊3個からなる小隊編制に置き換えることを提案しています(Ibid.: 26)。

その上で全体の兵力を暴動鎮圧、監視、予備、特殊任務という4種類の部隊に区分して運用するべきとされており、それぞれの任務は次の通り示されています。
  • 暴動鎮圧部隊:群衆に対峙して暴動鎮圧隊形で通常展開する部隊であり、その規模は指向可能な兵力の3分の2を超えるべきではなく、可能な限り小規模にとどめる。
  • 監視部隊:暴動鎮圧部隊の状況を監視し、致命的な脅威から掩護するために展開する部隊であり、これは指向可能な兵力の3分の1までの規模にまで拡大できる。この部隊には狙撃手と自動火器、そして双眼鏡と望遠鏡が必要である。
  • 予備部隊:緊急事態に対処するため予備として拘置される部隊。
  • 特殊任務部隊:迫撃砲小隊のように特別な機能を果たすための部隊であり、非致死性の装備を使用する。
著者の提案する部隊の編制とその配置。群衆の正面に対峙するのが暴動鎮圧部隊だが、その左右両翼に監視部隊を配置し、後方には予備の部隊と特殊任務を遂行する部隊が配置されていることが分かる。なお、配置は地形に応じて変更することができる。(Ibid.: 27)
これまでの暴動鎮圧の要領と比較すると、小隊の規模は縮小されていますが、その分を他の任務に当たらせることができるようになり、暴動の鎮圧要領により柔軟性を持たせることが可能となります。

例えば、著者は1,000名の暴徒が50名の部隊を圧迫して戦力比が圧倒的に不利になった場合であれば、阻止線を突破される前に部隊として発砲すべきと論じていますが(Ibid.)、暴徒が集中した地点に予備を展開して400名程度の戦力を確保していれば、1,000名の暴徒が圧迫してきたとしても、それほど危険な自衛措置を取る必要なくなり、結果として互いの損害も減ると論じています。

著者の提案で注目すべきは監視部隊の配置です。暴徒が占領する街路を左右に挟む建物については、監視部隊を常に配置しておかなければならない、と著者は念入りに強調しています(Ibid.)。
これは暴徒の中に潜む戦闘要員を特定し、必要に応じて狙撃を行うための戦力であり、正面に展開する主力に情報をもたらす役割も担います。

著者の見解によれば、暴動鎮圧で最も難しいのはこの監視部隊の配置を常に適切にすることです。
もし暴徒が街路を移動すれば、部隊も状況に応じて移動しますが、この際に監視部隊を移動させることは難しく、主力である暴動鎮圧部隊との連携を保つことにも困難が生じます(Ibid.)。

例えば、著者は車両でバリケードを破壊する際に、最も警戒すべきは暴徒からのRPGによる攻撃であると指摘しており、もしそのような場面で暴徒の両翼に配置された部隊の監視がなければ、撃破される危険があると警告しています(Ibid.: 28)。

むすびにかえて
このような研究は今の日本に必要ないように思われるかもしれません。しかし、平和維持活動のような任務を遂行する場合、現地住民の暴動に捲き込まれる危険も考えられるため、決して無関係というわけでもないのです。

また、暴動が不正規戦争の一部として極めて暴力的な形態をとる可能性があるという著者の指摘は反乱または対反乱作戦の様相を考える上で興味深いものです。

一般にゲリラ戦では政府の監視が届きにくい農村部に拠点を置かれますが、支持者が多い場合などでは都市部を拠点に活動する場合もあり、市街地では一般民衆を暴動で捲き込むことによって警察や軍隊から安全を確保することも一つのテクニックです。

近代以降の戦争では国外の正規戦争と国内の不正規戦争が相互に影響し合う事例も少なくなく、こうした不正規戦争の一面を知識として知っておくことも大事なことだと思います。

KT

関連記事
学説紹介 革命の戦略家、マルクスとエンゲルス