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2017年6月25日日曜日

事例研究 民主主義はシビリアン・コントロールを保証しない

軍隊に対する政府の統制は一般にシビリアン・コントロール(civilian control)という用語で呼ばれており、民主的な政治システムの一部として見なされることもあります。
しかし政治史を検討していくと、民主主義のメカニズムが常にシビリアン・コントロールを強化するとは限りません。民衆の世論や圧力がシビリアン・コントロールを損なう場合があります。

今回は、第一次世界大戦のイギリスの事例を取り上げ、民主的な政治システムそれ自体はシビリアン・コントロールを保証するものではないことを考察したいと思います。

軍事に無関心な政治家の姿勢
ハーバート・アスキスの肖像画(1919年)
1919 portrait by André Cluysenaar
第一次世界大戦とは、1914年から1918年にかけてイギリス、フランス、ロシアを中心とする陣営と、ドイツ、オーストリアを中心とする陣営とが争った戦争です。

この大戦が勃発した当時、イギリス首相を務めていたアスキス(Herbert Henry Asquith, 1852 - 1928)は、ドイツ軍の脅威に対処させるため、ヘイグ(Douglas Haig, 1861 - 1928)を司令官とする地上部隊をフランスへ援軍として差し向けました。
当然、シビリアン・コントロールの観点から見ればアスキスは国家的見地からヘイグを指導し、その決定の妥当性を判断すべき立場にあったといえます。

アスキスは議会人としては有能でしたが、軍事問題について十分な知識は持ち合わせていませんでした。その結果として、軍隊に対する政府の統制は不適切なほどに弱められてしまったと歴史学者のテイラーは指摘しています。
「アスキスは戦争の遂行に伴う重要な課題を理解していなかった。アスキスは勝利することを強く決意していたものの、政治家として可能な貢献は、私企業が武器を生産し、将軍がその武器を使って勝利を収めることを妨げないことだけだと考えていた」(Taylor 1964: 21)
政府が軍隊に対する指導力を低下させた結果、現地で軍を指揮するヘイグがイギリスの戦略方針に大きな発言力を持つようになり、全体としてシビリアン・コントロールの仕組みは骨抜きとなっていく事態となりました。

こうした状況は第一次世界大戦が消耗戦の様相を呈し、膨大な人的、物的資源が戦場で消費されていく中で、大きな問題となっていきました。

戦争に熱狂していた有権者の影響
第一次世界大戦が勃発した1914年にロンドンで陸軍に入隊しようとする志願者
August 1914: London army volunteers await their pay at St. Martin-in-the-Fields
アスキスがシビリアン・コントロールにおいて主体性を著しく欠いていたことは、別の研究でも指摘されていることですが、彼の軍事的無関心だけがその原因ではなかったとする議論も出されています。

歴史学者のクレイグはアスキスがヘイグに対する圧力を強めることができなかった要因について、当時のイギリス国内の世論状況が関係していたとして次のように論じています。
「アスキスは抜け目ない政治家であったから、おそらくこの役割放棄を促したのも、個人的無気力というよりも、むしろ世論の動向に関する彼なりの理解であったのだろう。(中略)戦争が始まると、群衆の熱狂はますますかき立てられ、おそらくアスキスは、戦略問題で彼が自己主張をすれば民衆の批難にあい、政府の危機に繋がるのではないかと感じたのだろう」(邦訳、クレイグ「戦略家としての政治指導者」426頁)
つまり、反独感情で沸き立つ当時のイギリス国内において、ヨーロッパ大陸で部隊を指揮しているヘイグを批判すると、利敵行為のように解釈されてしまう危険性があったということです。

例えば1916年のソンムの戦いにおいてヘイグの作戦はイギリス軍に42万名という大損害をもたらしました。それでもドイツとの戦争が終わる兆候をアスキス政権は認めることができませんでした。

そこで総理大臣としての当然の責務として、アスキスはこの作戦の戦果が損害に見合っているのかどうかをヘイグに質問します。するとヘイグはこの作戦によってドイツ軍に大きな損害をもたらしており、6週間も経過すれば補充兵は枯渇するだろうとの見積を示した上で、政府からの批判をかわしています(同上、426-7頁)。

こうした軍事的根拠に依拠したヘイグの反論に対して、アスキスが再反論を行おうとすると、それがいかなる政治的、財政的根拠に基づいていようと、国内の有権者の眼には政府が陸軍を不当な理由で妨害しているように映る危険がありました。
世論の動向を読んで政権を維持しようとするアスキスの姿勢も、間接的な形でシビリアン・コントロールを阻害する方向に作用していたと考えることができるのです。

今回の事例はアスキスの政治家としての資質の問題だという見方をとることもできるかもしれませんが、1916年に新首相に就任したロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1863 - 1945)もヘイグの戦略に不満をいだきながらも、国民の反発を恐れて彼を解任できておらず、アスキス政権に特有の問題ではなかったことを示唆しています(同上、427頁)

むすびにかえて
今回の事例研究で注目したいのはアスキス政権の政策ではなく、民主的な手続きで選ばれた政治家が権力を握っているだけでは、シビリアン・コントロールを思うように確保できない可能性があるということです。

結局、どれほど民主的な政治システムが構築されていても、シビリアン・コントロールを担う見識を持った政治家と、そのような政治家の能力を評価する有権者集団がいなければ、制度としてのシビリアン・コントロールはただの制度に終わり、実際には運用されない危険があると認識しておかなければなりません。

シビリアン・コントロールは政府の政策と軍隊の戦略を適切な形で調整する上で極めて重要な意味を持っています。
民主主義を制度として採用する以上、こうしたリスクを真剣に受け止め、平時から安全保障の知的基盤を維持、強化しておくことが重要なのではないでしょうか。

KT

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参考文献
Taylor, A. J. P. 1965. Politics in Wartime: and Other Essays. New York: H. Hamilton.
ゴードン・A・クレイグ「戦略家としての政治家」戸部良一訳、ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、421-445頁
*冒頭の写真は1916年のThiepval峠の戦いの様子。Stretcher bearers recovering wounded during the Battle of Thiepval Ridge, September 1916. Photo by Ernest Brooks.

2017年6月23日金曜日

論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

ソ連の軍人として有名なミハイル・トゥハチェフスキー(Mikhail Tukhachevsky 1893-1937)ですが、彼は今日の軍事学のトレンドにも影響を与えた研究者の一人としても知られています。
1937年に粛清されてしまいましたが、当時のソ連軍の近代化に尽力した功労者であり、戦後のスターリン批判で名誉回復されています。

今回は、トゥハチェフスキーの生涯を簡単に紹介した上で、彼が構想した縦深戦闘の概念について紹介したいと思います。

文献情報
McPadden, Christopher P. 2006. Mikhail Nikolayevich Tukhachevsky (1893-1937): Practitioner and Theorist of War. The Land Warfare Papers, No. 56W August. Arlington: The Institute of Land Warfare.

トゥハチェフスキーはどのような軍人だったか
1935年に元帥に昇進したトゥハチェフスキー(左下)。その右にヴォロシーロフ、エゴロフ、後列左からブジョーンヌイ、ブリュヘルがいる。
もともとトゥハチェフスキーは元地主で没落した貴族の家に第4子として生まれ、経済的に厳しい生活を送っていたのですが、1909年に陸軍幼年学校に入学してからその才能を開花させていきます(McPadden 2006: 3)。

学校でトゥハチェフスキーは優れた成績を収め、1912年に入学した士官学校でも1914年の卒業時に歴代卒業生の最優秀成績保持者として記録されたほどでした(Ibid.)。
卒業した年に勃発した第一次世界大戦ではロシア軍の士官として従軍し、ドイツ軍の捕虜となってしまいますが、捕虜収容所から脱走することに成功し、1917年にロシアに帰国します(Ibid.)。

ところが、当時すでにロシア革命が進行中であったため、トゥハチェフスキーが軍に戻れる政治状況ではありませんでした。
そこでトゥハチェフスキーはトロツキーと接触を持ち、1918年にモスクワ防衛を担当する軍事委員に任命されます。それから彼はロシア内戦で軍司令官として多くの功績を上げることになり、レーニンからも高く評価されることになりました(Ibid.: 4)。

1924年にレーニンが死去し、スターリンが政権を掌握してからも、トゥハチェフスキーは軍の要職で指導的役割を果たし、1925年には赤軍の参謀総長として軍制改革に取り組むようになります(Ibid.: 5)。
この軍制改革でさまざまな成果を残したことから、1935年には元帥に昇進し、その後のソ連軍の軍事思想にとって重要な影響を及ぼす1936年度版の『野外教令』を完成させました(Ibid.: 6)。

しかし、トゥハチェフスキーの軍歴の最後は決して輝かしいものではなく、1937年には赤軍大粛清を受けて処刑されてしまいます。トゥハチェフスキーをはじめ多くの士官が粛清された結果、ソ連軍は大変な混乱に見舞われました。

縦深戦闘(Deep Battle)の先駆的研究
攻撃を控えたソ連軍、敬礼しているのは第36自動車化狙撃兵師団ペトーロフ師団長(1939年撮影)
トゥハチェフスキーの研究業績が現在でも重視されている理由はいくつかありますが、歴史的視点から考えると、彼の著作が縦深戦闘の概念を発展させる上で重要な意味があったことが挙げられます。
ここでは作戦レベルに限定して縦深戦闘に関するトゥハチェフスキーの説を紹介したいと思います。

著者はトゥハチェフスキーの著作『戦争の新たな問題』の一節として、縦深戦闘の概念に関する次の記述を紹介しています。
「縦深戦闘、つまり敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘を準備するためには、戦車が持つ2つの特性が必要である。一方においては、戦車は前方の歩兵を支援し、それに随伴しなければならない。他方においては、戦車は敵の背後に浸透し、敵を混乱させるだけでなく、敵の予備から敵の主力を完全に孤立させなければならない」(Ibid.: 17)
冒頭の記述の「敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘」が縦深戦闘のコアになる定義となります。
つまり、敵の部隊が戦場として想定した範囲をはるかに超える速度で浸透・突破することにより、第一線に配置された敵部隊と後方にいる敵の予備を切り離すことが目指されているのです。

こうした縦深戦闘において主要な目標となるのは第一線の敵部隊ではなく、砲兵陣地、後方連絡線、そして司令部に他なりません。
「そして戦車による縦深を持った浸透は、敵に後退行動を強制するような障害をもたらし、敵の主力を撃破しなければならない。それと同時に、この突破は敵の砲兵を撃破し、後方連絡線を遮断し、司令部を奪取しなければならない」(Ibid.)
トゥハチェフスキーは空挺部隊や航空阻止のような航空作戦も研究していましたが、こうした手段もすべて縦深突破の概念と結びつけて理解することができます。
敵を左右ではなく、前後に分断することによって、壊滅的な打撃を加えようという発想は、第二次世界大戦以降のソ連軍をはじめ西側の陸軍にも影響を与えました。

むすびにかえて
トゥハチェフスキーの死後、縦深戦闘の支持者は影響力を低下させ、代わって第一次世界大戦的な陣地戦を重視する考え方が台頭する時期もありました。
しかし、1939年から1940年のフィンランドとの冬戦争の散々な結果を受けて、ソ連軍は改めて自らの軍事教義を再検討する必要に迫られ、その中でトゥハチェフスキーの研究が再び注目されるようになったと著者は述べています。
「トゥハチェフスキーは粛清され、記録の大部分が破棄されたが、フィンランドの屈辱とそれに続くソ連軍の改革の後で、スターリンはトゥハチェフスキー的な作戦志向を持つ何人かの士官を復帰させた。ソ連がトゥハチェフスキーの作戦構想を実践するにつれて、第二次世界大戦の残りの期間におけるソ連軍の戦果は著しく改善した」(Ibid.: 19)
トゥハチェフスキーの研究は必ずしも縦深戦闘だけにとどまらないのですが、やはりこの概念を着想し、それを実際の運用に結び付けたことは、一つの画期だったといえるでしょう。
ちなみに、ソ連軍の専門家であり、ブッシュ政権で国務長官も務めたコンドリーザ・ライスはトゥハチェフスキーの軍事思想について検討しており、ドイツのハインツ・グデーリアンとかなり近い内容を含んでいたと指摘しています(ライス「ソ連戦略の形成」577頁)。

彼女が示唆した通り、トゥハチェフスキーの軍事思想は確かにグデーリアンとの類似性があります。しかしトゥハチェフスキーは機甲部隊が歩兵部隊の支援に回されていたことに必ずしも反対の立場をとらなかったことも考慮すると、必ずしも機甲部隊を縦深戦闘の必須の要素として考えていなかったと考えられるため、やはり両者の立場は似て非なるものと理解する必要があるでしょう。

KT

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参考文献
コンドレーザ・ライス「ソ連戦略の形成」ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、563-584頁
*冒頭画像は1936年のもの、撮影者不明

2017年6月18日日曜日

論文紹介 「海洋戦略」の策定を支えた米海軍の研究努力

戦略がないということは、どのような教育訓練を行うべきか、どのような装備体系を持つべきか、戦時にいつ、どこに、どれだけの部隊を展開すべきかも知らないことと同じです。それゆえ、平素から戦略を策定しておくことは、国家安全保障の基本中の基本といえます。

しかし、実現可能な戦略を確立するためには軍事情勢、特に対象となる脅威の意図や能力を詳細に研究する必要となります。これは一朝一夕に成果が出る作業ではありません。

今回は、1980年代の米海軍が対ソ戦略として「海洋戦略(Maritime Strategy)」を策定するに至るまで、どのような研究努力を行ったのかを考察した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Hanley, John T., Jr. "Creating the 1980s Maritime Strategy and Implications for Today," Naval War College Review, Spring 2014, Vol. 67, No. 2, pp. 11-29.

敵に隙を見せていた米海軍
カーター大統領とブレジネフ書記長が戦略兵器制限交渉条約Ⅱに調印している。カーターの対外政策は「人権外交」として知られているが、1979年のソ連軍アフガニスタン侵攻を抑止することに失敗した。
President Jimmy Carter and Soviet General Secretary Leonid Brezhnev sign the Strategic Arms Limitation Talks (SALT II) treaty, June 18, 1979, in Vienna.
1970年代の米海軍は決して準備万端とは言えない状況でした。予算は削減され、装備は旧式化し、兵力も減少していたためです。

論文の著者が調査したところによると、1962年から1972年までの10年間に米海軍は年間42隻の艦船を建造していましたが、1968年から1975年までの7年間で建造が計画されたのは年間12隻に過ぎず、艦齢が25年から30年に達する艦艇のことを考慮すると、毎年4%の艦艇を退役させなければならないと見積られていました(Hanley 2014: 11)。

1970年に第19代米海軍作戦部長に就任したエルモ・ズムウォルト(Elmo R. Zumwalt, Jr.)はこの状況に危機感を強めていました。

彼は1970年7月時点で海上における大規模な通常戦争が発生した場合、米国の勝率は55%であるが、1971年7月には45%に低下するなどと主張し、海軍予算の増額を求めていたのは、こうした危機感があったためです(Ibid.: 12-3)。

しかし、さまざまな政治的制約の下で米海軍の増勢は実現しませんでした。
もしヨーロッパ正面で米ソ戦争が勃発すれば、アジア太平洋地域に配備した戦力を振り向けるべきという議論(スイング戦略)が登場したのは、こうした米軍の戦力不足を作戦運用で補う意図がありました(Ibid.: 13)。

しかし、このような方策で国家間の軍事バランスを維持するということには、そもそも限界があり、1978-79年版の『ミリタリー・バランス』でも「もはやNATOには米ソ戦争が勃発した時点において同盟国にとり重要な海域すべての海上管制を維持する能力はない」と評価されるまでに落ちぶれてしまいます(Ibid.: 14)。

弾道ミサイル潜水艦の脅威
ヘイワードは1978年に米海軍作戦部長に就任し、米海軍の立て直しに大きな功績を残した。22nd Chief of Naval Operations Admiral Thomas B. Hayward, 2006.
しかし、1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米ソデタントの時代は終わり、米海軍を取り巻く状況は一変することになりました。

1980年以降、米国政府は対ソ政策を見直し、米海軍の増強に乗り出します。しかし、先ほど述べた通り、米国ではソ連との海上戦争について長年無関心になっていたため、軍事バランスを回復するための具体的な戦略の策定は容易なことではありませんでした。

1981年、第21代米海軍作戦部長のトーマス・ヘイワード(Thomas B. Hayward)は海軍大学校の内部に海上戦争研究所を設立し、今後の米海軍のあり方について調査研究を行う体制を作り始めます(Ibid.)。これが米海軍にとって新戦略策定の第一歩となりました。

この研究所の中では戦略研究班(Strategic Studies Group, SSG)が6名の海軍士官と2名の海兵隊士官によって立ち上げられ、多くの時間をかけて海上作戦の討議や兵棋が行われるようになります(Ibid.)。

当時、軍事機密だった情報も利用して研究が行われたため、その成果は刊行されませんでしたが、著者は特に重要な研究成果として次のような見解がまとめられたと論じています。
「・戦略核攻撃、戦域核攻撃の実施するため、事前に弾道ミサイル潜水艦を展開し、また防護すること。
 ・敵の弾道ミサイル潜水艦と航空母艦からソ連とその同盟国を防衛すること。
 これらの任務の成果は、カラ海、バレンツ海、北ノルウェー海、グリーンランド海、日本、オホーツク海、北西太平洋海域の全部もしくは一部を管制し、ソ連の領土から約2000km離れた海域において海上阻止作戦を実施しようとすることに寄与するだろう」(Ibid.: 15)
ここで注目されているのはソ連の弾道ミサイル潜水艦の脅威です。
戦略研究班はソ連の戦略を研究する過程で、ソ連が核戦争を含めた作戦行動をとる判断基準として、数的な勢力関係を重視する傾向にあることを知っていました(Ibid.: 16)。

そのため、海上においてソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦の脅威に対抗する術を用意すれば、核戦争に事態をエスカレートを防ぐことに寄与するのではないかと着想したのです。
ここから、米海軍としてソ連の弾道ミサイル潜水艦を追い詰めるための対潜戦の研究が本格化することになりました。

諸兵科連合型の対潜戦
1980年代の海軍では対潜戦においてP-3Cのような哨戒機をどのように効果的に運用すべきかが戦術研究上の課題となり、さまざまな研究が行われていた。
ソ連海軍と米海軍の兵棋を通じて、戦略研究班は米ソ戦争に突入した際に、米国がとるべき世界戦略が十分に研究されていないことを次第に認識するようになっていきます(Ibid.)。

ヨーロッパや中東などそれぞれの戦域において米軍の部隊がばらばらの考え方を持っていたため、これを対ソ戦略として一本化する研究が求められました。

さらに彼らはソ連の潜水艦を対象とした対潜戦を研究するに当たり、どのような戦術が有効なのか検討を行うようになり、次のような研究成果を出しました。
「分析によれば、米潜水艦の損失の大部分は反撃と機雷によるものだった(反撃は魚雷を発射した直後に使用された武器によるものである。米国は世界で最も静粛性の高い潜水艦を持っていたが、世界で最もやかましい魚雷も持っていた)。洋上哨戒機をヘリコプターを使用すれば、潜水艦の損害を減らすだけでなく、攻撃率を向上させることも可能となった。これは最も効率的なセンサを保護し、また弾薬の補給のために潜水艦を撤退させることを防ぐことによるものである」(Ibid.: 17)
この時に対潜戦において水上艦艇だけでなく、哨戒機を最大限に駆使すべきという戦術構想が詳細に研究されるようになり、諸兵科連合(combined arms)という陸上作戦の概念を援用するようになっていきました(Ibid.)。

諸兵科連合の概念を対潜戦に応用した方が、従来の対潜戦の戦術よりも、味方の潜水艦の損害を抑制し、かつソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦を撃破しやすくなると分析され、この成果はその後の米海軍の戦略研究に受け継がれることになります。

「海洋戦略」の骨子が固まる
1982年に海軍作戦部長に就任したワトキンスは、新冷戦における米海軍の作戦指導に直接関与した。James Watkins, former Chief of Naval Operations. 1982
1982年の夏に戦略研究班は一度解散されますが、8月には次のメンバーが加わり、より実行可能な対ソ戦略を確立するため、ヨーロッパや北東アジアにおける具体的な作戦に関する分析を始めました(Ibid.: 19)。

ヘイワードは一貫して戦略研究班の調査研究を支援し、1982年10月に新たに海軍作戦部長に就任するジェームズ・ワトキンス(James D. Watkins)にその研究成果を報告しました(Ibid.: 20)。こうして米海軍の対ソ戦略が具体的な形として表れることになります。

また戦略研究班のメンバーは戦略の実施に影響を及ぼすであろうポストに異動していきました。
その中には対潜戦の研究開発に従事したウォルケンドーファー(Dan Wolkensdorfer)、海軍の建造計画の調整に携わったオーウェンズ(Bill Owens)、空母の航空団の指揮官に任命されたアート・セブロフスキー (Art Cebrowski)が含まれており、その後も彼らは「海洋戦略」の策定に手を貸しています(Ibid.: 21)。

戦略研究班の構想は演習の内容や技術の開発にも影響を及ぼしましており(Ibid.)、その一例として著者は1986年の事例を紹介しています。
「1986年3月、大規模なNATOの演習がノルウェー海全域で実施され、イギリスのノースウッド司令部で指揮がとられたが、その内容は諸兵科連合型の対潜戦の有効性を示すものであった。敵の潜水艦の所在を見積もるためにベイジアン・アプローチが採用することで、発見と同時に出撃する攻撃機よりNATOの部隊は高い探知能力を発揮し、対潜戦の常識を覆した」(Ibid.: 22)
従来よりも高い確率で敵の潜水艦を探知できるようになったことで、ソ連の弾道ミサイル潜水艦の脆弱性が増したことを実証した演習でした。
こうした取り組みを通じて、米国としてソ連に対する海上での軍事バランスを維持することに寄与しました。

むすびにかえて
1970年代の米海軍は対ソ戦略の研究を怠っていましたが、1980年代に入ってからはそのことを反省し、真剣に研究努力を重ねていたことが、この論文から分かります。

さらに著者は「海洋戦略」の策定を支えた研究努力は冷戦後における米海軍の戦略策定にも寄与するところがあったとも指摘しています(Ibid.: 23)。当時の研究によって得られた知見は今でも米海軍の財産として受け継がれているということです。

安全保障における戦略の重要性については多くの人が同意しますが、それを研究するために資源と労力を割くことの重要性は必ずしも十分に認識されているわけではありません。

確かに研究は直ちに目に見える成果をもたらすことはありませんが、組織の運用体制を長期間にわたって最適な状態で維持するためにはやはり調査研究を行う体制が必要があり、それは結果として資源と労力を節約することに繋がるのだと思います。

KT

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2017年6月14日水曜日

学説紹介 下士官の権威で兵卒は戦う

戦場で兵士を戦わせることは大変難しい仕事です。敵前で戦列を乱し、指揮官が射撃を命じても発砲を躊躇し、挙句の果てには旗色が悪いと逃げ出す者まで出てくるのが戦場の実態でした。

軍事学者は19世紀頃から心理学的アプローチによって、兵士の統制や士気に関する問題に取り組むようになるのですが、今回は兵卒を戦わせるために下士官が果たす役割を心理学者デーブ・グロスマン(Dave Grossman)がどのように考察しているかを紹介したいと思います。

攻撃行動につきまとう心理的負担
軍隊の戦闘効率を向上するためには、武器や戦術の問題の前に、すべての兵卒が戦場で集団的な攻撃行動に参加していなければなりません。
ところが兵士全員に照準具の向こう側にいる敵を攻撃させようとしても、見も知らない他人に対して自分から攻撃を加えることを避けたいという心理が働いてしまいます。

敵との物理的、心理的な距離が小さくなるほど、殺人に対する心理的負担は大きくなる傾向があるため、敵と最前線で対峙する兵卒ほど攻撃を回避する傾向が強まっていきます。こうなると戦闘部隊の効率性は致命的なレベルにまで低下してしまいます。

グロスマンはこうした攻撃行動に伴う心理的負担を軽減するため、現場に指揮官が直接命令を達することが重要であると指摘しており、次のように論じています。
「この問題を研究したことがない人は、兵士が敵を殺す際の指揮官の影響をさほど重視しないかもしれない。だが、戦場を経験したことのあるものはそんな愚は犯すまい。1973年の研究において、クランス、カプラン、およびクランスの3人は、兵士が発表する理由を調査している。戦闘経験のない人は、「撃たないと撃たれるから」というのが決定的な理由だと考えたが、戦闘経験者が最大の理由として挙げたのは「撃てと命令されるから」だった」(邦訳、グロスマン、244頁)
実はこのような心理はイェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって実証されたことがあり、ミルグラム実験として広く知られています。

ミルグラム実験で分かる攻撃と服従の心理
ミルグラム実験の概略図。実験の略図。被験者であるTは、Lに問題を出して解答を間違える度に電気ショックを次第に強くするよう、実験者Eから命令される。実験ではLはEと打ち合わせし、電気ショックで苦しく様子を演じているが、Tはそのことを知らない。この場合、Tはどの段階で電気ショックを止めるかを観察する。
ミルグラム実験は人間の攻撃と服従に関する研究の一環で行われたものであり、その後数カ国で同様の実験が実施され、結果が再検証されてきました(詳細はミルグラム『服従の心理』を参照)。グロスマンはこの実験の概要について次のように紹介しています。
「エール大学のスタンリー・ミルグラム博士は、服従と攻撃について有名な実験を行っている。それによると、実験室環境において指示を与えられた場合、被験者の65%以上が致命的な(と被験者からは見える)電気ショックを見も知らぬ他人に与えたという。被験者は、自分が相手に大きな身体的苦痛を与えていると心から信じていた。ところが、相手が必死で止めてくれと嘆願しているのに、65%もの人が指示に従って電圧を上げてゆき、悲鳴が途切れたあとも、死亡がほぼ確実になるまでずっとショックを与え続けたのである」(グロスマン、241頁)
実験の前にミルグラムは他の心理学者に結果の予測を依頼しましたが、彼らは最大電圧のショックを与えることができる被験者は1%に満たないと見積もっていました(同上)。
自分と何の関係もない他人に身体的苦痛を与え続け、相手が死に至るまでその行動を継続することに被験者は強いストレスを感じはずだと考えたためです。

しかし、ミルグラム実験はそうしたストレスは克服可能であり、それは権威者に服従することだということを示したのです。
「自信に満ちた笑みを浮かべて、年輩の貫禄あるビジネスマンが実験室に入ってきた。20分後にはその貫禄は消え、身をよじり、口ごもる哀れな男が残っているだけだった。急速に神経衰弱に陥りつつあった。……ある時点で、こぶしをひたいに押し当て、「だめだ、もうやめよう」とつぶやいた。にもかかわらず、その後も実験者の一語一語に反応し、最後まで命令に従い続けた」(同上、243頁)
この心理は軍事的にも応用可能です。グロスマンは「たった数分前に知り合ったばかりの権威者が、実験室の白衣とクリップボードだけでこれほど人を服従させることができるなら、軍の権威と標識と数カ月の連帯があればどれほどのことができるだろうか」と指摘しています(同上)。

軍隊の階級制度によって下士官に与えられた権威は兵卒にとって絶対的な影響力があり、その心理的メカニズムを応用することで、一人ひとりに戦闘への参加を促すことが可能となるのです。

ローマ軍における百人隊長の役割
Neil Carey(2006)ローマ軍の隊形の一つ。密集した兵士の背後に隊長と副隊長が位置し、旗手が旗を保持していることが確認できる。この場合、権威者として兵卒に命令を与え、監視するのは隊長と副隊長ということになる。
ミルグラム実験の結果を踏まえると、兵卒を戦闘に参加させ、攻撃行動を持続させる上で、権威者の存在が重要だと理解できますが、それは士官では代替できないこともグロスマンは指摘しています。

つまり、現場で兵卒と行動を共にし、また分隊・小隊規模の第一線部隊を指揮する能力がある職業軍人としての権威がなければならないのです。
こうした下士官の重要性はローマが軍事的に成功した歴史からも読み取ることができるとしてグロスマンは次のように述べています。
「リーダーシップの開発と言う考え方と、現在見られるような下士官部隊を生み出したのはローマ人である。職業軍人から成るローマ軍がギリシアの市民軍をしのいだとき、その成功にはリーダーシップが重要な要因として働いていたと考えられる。(中略)ギリシアの方陣では、分隊・小隊レベルの指揮官は他の兵士とともに槍をもって戦っていた。その基本的な役割は殺人に参加することだ(装備の上からも、また方陣内の位置が固定されていることからもわかる)。いっぽうローマの陣内には、自由に動きまわれる指揮官がおおぜいいた。高度な訓練を受け、慎重に選抜された指揮官の役割は敵を殺すことではなく、部下の背後に立って殺せと命じることである」(同上、248頁)
先ほど紹介したミルグラム実験では権威者は白衣を着用し、クリップボードを持って、被験者のすぐ後ろに立ち、電気ショックを受ける犠牲者が質問に間違った答えを出すたびに電圧を上げるように被験者に指示しました。

興味深いことに、被験者の直接背後に立つのではなく、離れた場所から電話で指示を出すという場合、最大電圧のショックを与えようとする被験者の数が大幅に減少することが観察されています(同上、245頁)。
つまり、その場にいない人間の権威は被験者の立場からすると大幅に低下する傾向にある、ということを示しています。

グロスマンはローマ軍の組織構造において、下士官が兵卒と行動を共に行動させていた理由がここにあると考えています。
つまり、第一線で兵卒を効率的に戦わせるには、その兵卒のすぐ後ろに権威者が立っている必要があり、その職務内容は「殺人に参加すること」ではなく、「部下の背後に立って殺せと命じること」でなければならないのです。

職業軍人がいなかったギリシア軍のファランクスとは異なり、小規模な部隊ごとに展開も可能だったローマ軍のレギオンが戦闘効率の面で優れていたことは、戦術上の理由だけでなく、こうした心理的メカニズムの効率性という視点からも総合的に考慮すべきなのです。

むすびにかえて
グロスマンの著作では、「服従したいという欲求の強さを見くびってはならない」という精神分析学のジグムント・フロイトの言葉が紹介されています(同上、243頁)。
この心理を利用しなければ、数カ月前まで人を殺すことなど考えもしなかった普通の市民を、戦闘に積極的に参加させることは、極めて困難なことです。

軍隊が下士官に権威者としての正統性を与え、兵卒との物理的距離を小さく配置し、また直接命令させることで、軍隊は集団的な攻撃行動を可能にする心理的メカニズムを準備するものであり、すべて意味があることなのです。

もし下士官が育っていない軍隊があるとすれば、そうした心理的メカニズムを欠いた軍隊であり、どれほど優れた武器を持っていたとしても、現場で兵卒を戦わせることはできないでしょう。

KT

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論文紹介 下士官はいかに軍隊を支えてきたか

参考文献
スタンレー・ミルグラム『服従の心理』山形浩生訳、河出書房新社、2012年
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』筑摩書房、2004年

2017年6月11日日曜日

学説紹介 作為的な勝利を嫌った『孫子』の戦略

今でも『孫子』は高い評価を得ており、本屋でさまざまな解説を目にしますが、軍事学の立場で解説したものは案外少数です。
『孫子』の研究ではその内容も重要なのですが、それに先人が積み上げてきた注釈や解釈を研究することも非常に有意義です。

今回は、『孫子』を理解する一助とするため、旧陸軍士官学校の教授だった尾川敬二による解釈を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

『孫子』に見る自然尊重の思想
尾川の説によれば、『孫子』の大きな特徴は自然の尊重の思想にあるとされています。
これは『孫子』が「全く自然的に戦争及び戦闘を誘導遂行しようというのに在って、作為的な行動を否定している」と解釈できるという意味です(尾川、14頁)。

例えば、『孫子』に「兵の形は水に象る」という記述があるのですが(金谷訳注『孫子』87頁)、もともと東洋の思想には水は自然な姿をそのままあらわす比喩表現として使われており、孔子や老子もそのような意味合いで水の比喩を用いたことがあります(尾川、14-5頁)。

このような背景を踏まえておくと、『孫子』が水が高いところを避けて、低い場所に向かって方向を変えながら流れるように軍隊を運用し、実を避けて虚を撃つのだと論じたことの意味を理解しやすくなります。
このような視点から戦争においても作為的な軍隊の運用を避けるべきだと『孫子』が考えていたという解釈が示されているのです。
「さて孫子は始計篇に於て、戦端を開く前に五事七計を以て、彼我の国情軍情の比較検討を行い、確実な勝算がなければ戦争に訴えてはならぬことを切言し、軍形篇にも勝兵は先ず勝って而る後戦を求め、敗兵は先ず勝って後勝を求むと喝破して、勝敗は戦前に決定せられているのであって、戦勝は単に自然的な結果として現れるものに過ぎないことを主張し、更に戈に訴うるに及んでも、すべての行動は全く自然的な有利な推移となるように誘導すべきを説いている」(同上、16頁)
こうした議論から『孫子』の要点を彼は次のようにまとめています。
・決して無理な戦争はしないこと。
・自然の情勢上必ず勝つように戦争及び戦闘を指導し、作為的に勝利を得ようとしてはならぬ。
・戦争は天地自然の法則に一致する要する(同上、17頁)。
言い換えれば、戦争術の要諦は必然的に戦争に勝てるだけの状況を見極め、またそのような状況を作り出すことにあり、一見すると特に努力や工夫もなく敵を打ち倒したように見えるような戦争(つまり、勝利が確実な戦争)こそが最も理想的な戦争とされているのです。

逆を言えば、巧妙な戦争術でもって彼我の軍事力の優劣を挽回するような際どい兵力運用は、『孫子』の立場と基本的に相容れない戦略ということが分かります。

勝算がないなら戦うべきではない
以上の考察を踏まえると、『孫子』が戦争の始まる前に戦争の準備を万端に整えておくことを極度に重視していたことが腑に落ちます。

『孫子』で特に有名な「兵とは国家の大事なり」という一節の後には(金谷『孫子』26頁)、あらかじめ彼我の優劣を5個の基準で慎重に評価すべきだと論じられていますが、その基準とは道、天、地、将、法が挙げられています。

・道:人民たちを上の人と同じ心にならせること
・天:陰陽、気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のこと
・地:距離や険しさや広さや高低〔などの土地の状況〕のこと
・将:才智、誠信、仁慈、勇敢、威厳〔といった将軍の人材〕のこと
・法:軍隊編成の法規や官職の治め方、主軍の用途のこと

『孫子』では以上の5項目をよく研究して、彼我の優劣の判断を誤らないように論じており、尾川は次のように述べています。
「固に戦争は国運を賭して行うものであるから、宣戦を布告するに先ち、廟堂の上に於て叙上の五事七計を検討算定して、勝敗の見極わめをつけて戦うべきや否やを決すべきであるが、勝者はこの算定に於て敵国よりも優れ、敗者は敵国より劣っている筈である。即ち成算多き者は勝ち、成算少き者は敗者たるを免れぬ。それを況してや全然成算なき戦をなすものあらば、決して勝つ譯は無いのである」(尾川、45頁)
つまり、『孫子』は戦争を始める前に勝算がなければ勝者になれるはずはないと説いていることになります。

尾川も優れた戦略家ならば、戦ってから勝敗を決すべきではなく、勝敗が決した後で戦いを挑むべきであると考えました(同上)。

興味深いのは、『孫子』が戦争の展開は、それが勃発した段階でおおむね決まっていると論じることで、平和の時代において戦争の準備を万全にしておくことがどれほど重要なのかを示唆していることです。

もちろん、個別の状況においては国家として戦争の準備が不足していても戦わなければならない場合があることを尾川は認めていますが(同上、46頁)、『孫子』の立場で考えれば、それは戦う前に敗北が決している状況であり、あとは戦ってその敗北を実際の犠牲とするだけの状況だと言えるのです。

むすびにかえて
ともすれば戦略や戦術は劣勢な状況を挽回したり、小さな力で大きな力を打ち倒す奇策のようにイメージされがちですが、尾川の『孫子』解釈によれば、そのような作為的な勝利を追求することは不確かなだけでなく、本来の道から外れたことと見なされます。
『孫子』の背後にある古代中国の世界観、自然観を尊重することで、そこに表現されている戦略思想の全体像を読者が把握しやすくなることが示されているといってもよいでしょう。

KT

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学説紹介 『孫子』の戦略思想と不戦屈敵の論理
なぜキッシンジャーは毛沢東の戦略思想を評価したのか

参考文献
金谷治『新訂 孫子』岩波書店、2000年
尾川敬二『戦綱典令原則対照 孫子論講』(湯浅邦弘監修「孫子」叢書第6巻)大空社、2013年(1936年)

2017年6月9日金曜日

論文紹介 軍事学者マキアヴェリの業績は何か

イタリアのルネサンスは物理学や哲学、芸術などの発達を促しましたが、軍事学もまたそうした恩恵を受けて発展した学問の一つです。
特にニッコロ・マキアヴェリ(1469-1527)の研究はこの時代に近代的な軍事学の基礎をもたらしたとされており、戦争を合理的、体系的に分析するための出発点を残してくれました。

今回は、フェリックス・ギルバートのマキアヴェリ研究を取り上げ、その歴史的な重要性について考察してみたいと思います。

文献情報
フェリックス・ギルバート、山田積昭訳「戦術のルネサンス マキアヴェリ」エドワード・ミード・アール編著、山田積昭、石塚栄、伊藤博邦訳『新戦略の創始者 マキアヴェリからヒトラーまで』上巻、原書房、2011年、10-39頁

マキアヴェリの業績を振り返る
フィレンツェの街並み、16世紀のフィレンツェは政権を握っていたメディチ家による文化振興の成果により科学や芸術が飛躍的に発達していたが、傭兵軍に国防を依存していたため、イタリア全土で戦火が広がると、メディチ家は追放され、共和政が樹立された。
ルネサンスはさまざまな文化活動に影響を与えましたが、人文・社会科学の方面における影響としてはギリシア・ローマの古典に関する知的関心が復活したことが挙げられます。

マキアヴェリも古代ギリシア・ローマ史の研究に取り組むのですが、特に彼は古代ローマの軍事制度の価値を再発見し、これを当時のイタリアで再構築することができないかと考えるようになっていきました。
「マキアヴェリは復古主義の子である。マキアヴェリはその意見の正当さを証明する方法として、その根拠を昔の世界に求め、その手法が全巻を通じて用いられている。マキアヴェリがその理論の根拠としたのはローマの軍隊であったということである。したがってマキアヴェリの著作はその大部分をローマの軍事的制度の説明に費やしている」(ギルバート、26頁)
しかし、マキアヴェリが単なる古代史の専門家だったわけではなく、彼の軍事思想には古代の軍事思想家に見られない要素、すなわち戦闘の重要性に関する考察が随所に含まれていました。
著者はこれがマキアヴェリ独自の要素であると指摘しています。
「彼は明らかに古代軍事学の復興を主な仕事と考えていたので、このことはとくに注目に値する。ヴェゲティウスとの最も大きなちがいは戦争における戦闘の重要性について広汎な取り扱い方をしていることである。ヴェゲティウスはこの問題をむしろ簡単に取り扱っているが、マキアヴェリの『戦術論』では戦闘が全巻の主要な項目になっている」(同上、26-7頁)
戦争の分析において戦闘という要素を重視することは、現代の感覚では当たり前の考え方ですが、中世までの戦争観は宗教的、倫理的な性格が強く、戦闘の分析は必ずしも主要な位置を占めていませんでした。

そのため、著者の解釈によれば、マキアヴェリはそうした立場とは一線を画する独自の研究領域を開拓しようとしていたと考えることができるのです。

宗教的戦争観から合理的戦争観への転換
 共和国となったフィレンツェは軍備拡張に着手し、農民を集めて市民軍を編成しようとしたが、その編成作業に従事していたのが当時のマキアヴェリだった。マキアヴェリが育てた軍隊は実戦にも参加し、戦果を上げたが、神聖ローマ皇帝軍によって撃破されてしまい、間もなくマキアヴェリも失職した。絵はイタリア戦争のパヴィアの戦い(Battle of Pavia)
さらに著者は、中世の軍事文献の多くは「正義の戦い」(正戦論)の思想が主流となっており、戦争は道徳的目的を達成する手段と見なされ、その遂行の方法は一定の倫理的な基準に従属するという考え方が支配的でした(同上、34頁)。
「このようにマキアヴェリの思想とそれ以前の軍事問題の論者との間には明らかに関係があるが、マキアヴェリの軍事理論の骨子となった点については彼らと無関係であり独特なものであるということが、マキアヴェリをいよいよ有名にしている。マキアヴェリの唱えた歩兵のことや、戦闘が決定的要素だと強調したことも、戦争に対する概念も、彼以前の軍事文献には発見されなかったものである」(同上)
つまり、マキアヴェリは中世のキリスト教道徳を軍事的事実から完全に切り離し、政治的、軍事的な合理性に基づいて戦争を研究しようとしたのです。
「彼によれば政治活動は成長し発展しようとする組織間の生存競争である。したがって戦争は自然発生的なものであり、かつ必要なものである。それはどの国が生存するかを決定し、滅亡と発展のいずれの道をたどるかを決めるものである」(同上、34-5頁)
マキアヴェリは政治史の研究を通じて、国家の存亡が軍備の効率性に大きくかかっていると考えるようになっていました。

それゆえ、軍事問題は彼の思想の中で常に最重要の位置付けを与えられており、また宗教的観点ではなく、合理的観点から考察すべきだと主張していたのです。

この点について著者は「マキアヴェリの軍事理論においては、彼の観念のすべては相関連してひとつの有機的体系を成している。それは戦争と政治が渾然として一体化し、マキアヴェリの哲学を成しているのである」(同上、35頁)と述べています。

決戦を求める戦略的思考
マキアヴェリが死んだ3年後の1530年、フィレンツェは神聖ローマ帝国軍の攻囲を受けて敗北した。共和政の指導者の大部分が処刑され、または追放された。(Giorgio Vasari 1558. 1530 Siege of Florence.)
マキアヴェリにとって戦争の究極的な目標は武力によって敵国を支配することであり、それは道徳や倫理では説明できない独自の合理的法則があるということを認識していたと著者は論じています。
「戦争の最終的目的が敵国民の完全な屈服にあるという原則を確立したことによって、軍事思想はそれ自身の論理と方法をもつ独立の分野を創設したのである。また軍事問題を科学的基礎のうえに論究することも可能になった。さらに詳しくいえば、すべての軍事行動をひとつの再考目的に向かい合理的な基準をもって評価することができるようになった」(同上、37頁)
このような前提を持ち込んだことが、軍事学の歴史においてマキアヴェリを戦略思想家たらしめたと、著者は評価しており、従来の戦争観とは大きく異なる考え方を提示したと考えられています。
「そのうえ戦争の成功は軍事上の合理的な法則にしたがってその手段を準備することにあると考えられた。これを要するにマキアヴェリは戦争に勝利をもたらすべき理論的方法の解決に心血を注いだのであった。当時はいまだ戦略(strategy)という語はなかったとはいえ、マキアヴェリの考え方は戦略的考察(strategic thinking)の始まりであるといわねばならない」(同上、37頁)
そのため、マキアヴェリは戦闘で決定的勝利を収めることが、戦争術の一般的原則として重要であり、その具体的方法に強い関心を持っていました。
実戦で使用できる軍隊は規律と訓練を欠かしてはならないとマキアヴェリが繰り返し主張していたことは、その関心の現れでもあります。

例えば、著者は次のようなマキアヴェリの記述を引用して紹介しています。
「良好な軍規と訓練のため払うすべての注意と苦心は、軍隊が正しい方法で敵と戦うこととそれを準備することを目的としている。なぜならば完全な勝利は戦争を終結させるからである。そのうえ戦いの決断は運命的なものである。もし敵が闘いでことを決しようと決意したならば、彼は常にわれに戦闘を強要することができる。もし敵が決戦を強要しようとする場合には指揮官は戦闘を避けるわけにはいかない。さらに大砲が発明されてからは、城も要塞も敵の前身を阻止するには役立たなくなった。戦闘はいかなる戦争においてもとどのつまりは中心的課題となってくる」(同上、27頁)
決戦で完全な勝利を収めることによって、戦争そのものを終結に導くという思想の原点がここみ見出されます。

むすびにかえて
著者はマキアヴェリが生前に刊行した著作は政治学の『君主論』ではなく、軍事学の『戦争術(戦術論)』であり、彼が当時としては非常に革新的な説を唱えていたことを強調しました。
確かに『戦争術』は16世紀で七版を重ね、ヨーロッパ各国で翻訳が出されたことを考えると、マキアヴェリは政治思想家である前に、軍事思想家であったことに留意すべきでしょう(同上、30-1頁)。

KT

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2017年6月8日木曜日

事例研究 なぜ中ソ国境紛争が米中接近を促したのか

中ソ国境地帯の地図、赤線で示した国境線の一部に係争中の地域が含まれている
1969年3月、中国とソ連との国境地帯で武力衝突が起こりました。
戦闘はアムール川、新疆―カザフスタンの国境地帯まで拡大し、8月になると中国とソ連が核兵器を交えて全面戦争に突入するという見方さえ出てくるようになります。
この重大な危機こそがその後の冷戦の展開を大きく変える米中接近のきっかけとなりました。

今回は歴史学者ギャディス(John L. Gaddis)の研究成果を紹介し、当時の中国が対ソ政策として米中関係の強化に乗り出した経緯を勢力均衡の観点から考えてみたいと思います。

対ソ戦争で米国を利用したかった中国
1960年代に中ソ関係が悪化し、中ソ国境紛争の勃発に至ると、中国とソ連は戦争に備え始めています。

例えば、当時の毛沢東の政権は地下施設の整備や、物資の貯蔵を行うように命令を出しています(邦訳、ガディス、173頁)。

また、当時の毛沢東としてはソ連軍と単独で戦うのではなく、第三国を巻き込むことが重要だという考え方を持っていました。

自分の主治医に対して毛沢東が当時、次のような話をしていたことがギャディスの研究において紹介されています。
「このことを考えてみよ。……北と西にはソ連があり、南にはインド、東には日本がある。もしわが国のすべての敵国が団結して、東西南北から攻めてくれば、われわれはどうするべきか、君はどう考えるか」(中略)「日本の向こうにはアメリカがいる。われわれの祖先は、近隣の国とは戦い、遠く離れた国とは交渉せよと教えなかったか」(同上、173頁)
ここで毛沢東が述べているのは、戦国時代に秦の宰相として取り立てられた范雎の「遠交近攻」という政略であり、これは地理的に遠くにある国とは親しい関係を結びながら、近隣の国々を攻め取る対外政策として広く知られています。

台湾やベトナムの問題をめぐって中国と敵対関係にあった米国とあえて結ぼうとする政策を聞かされた主治医は驚きましたが、そんな素直な彼に対して毛沢東は次のように述べました。
「アメリカとソ連は違う。……アメリカの新しい大統領は積年の右翼で、あの国の反共産主義者たちの指導者だ。私は右翼と取引したい。彼らは、本当に思っていることを話す。左翼とは違う。左翼は、行っていることと本心とが違う」(同上、173頁)
この発言をそのまま受け取れば、毛沢東は当時の米大統領だったニクソンの方が、ソ連のブレジネフよりも扱いやすいと考えていたことになります。

それも、ニクソンが反共的であると分かっていたからこそ、毛沢東はこれを利用できると判断していたことになります。

米国もまた中国を必要としていた
中ソ戦争が勃発した場合、米国の政策によって結果が大きく変わることはソ連にとっても明らかでした。

そのためソ連側も対中戦争になった際に米国がどのように行動するのかを見極める必要があると考えており、外交的手段で米国の内情を探っていました。

当時、ソ連駐米大使館のある中級職員が国務省の中級職員との昼食の場で個人的な質問として、ソ連が中国の核施設を攻撃すると米国はどう反応するだろうかと質問ていますが、これはソ連軍が中国に侵攻する際に核攻撃を加える可能性を示唆する重要な質問でした。

この件についてギャディスは次のように指摘しています。
「このような質問はモスクワからの指令があって初めて訊けるもので、質問を受けた側にも答えはなく、上級者に伝えていくだけで、上級者もホワイトハウスに伝える他はなかった。ホワイトハウスでは既に答えは出ていた。数日前、ニクソン大統領は、アメリカは中ソ戦争で中国が「粉砕される」の座視できないと発言して、閣僚たちを驚かせていた。大統領が主要な共産主義国、しかも長年の的確で、接触もなかった国の生存に戦略的な利益を有すると宣言したのは、アメリカ外交政策における大事件であったと、後にキッシンジャーが論評している」(同上、174頁)
当時、ニクソンはまだ毛沢東と具体的な関係構築には至っていませんでしたが、米国にとってソ連は脅威であると認識されており、これに対抗するには米中関係の改善が極めて重要と理解していました。

中ソ国境紛争が起こる前年の1968年8月にはチェコスロバキアに対してソ連軍が侵攻しており、また同年11月にはブレジネフ政権としてマルクス・レーニン主義を資本主義に置き換えようとする地域でソ連はその国の主権を侵害する権利を持つと正式に声明を出していたことが、まだ当時の米国の政策決定者の記憶にはっきりと残っていました(同上)。

しかし、何といってもニクソン政権はベトナム戦争の問題を終わりにしたいという思いもありました。この点で中国と米国の利害はかなり一致していたと考えられています。
「ニクソンはヴェトナムから手を引きたいと望んでいた。ただしアメリカに屈辱的でないような条件で、手を引きたいと思っていた。それが翌年春の彼の「哀れで無力な巨人」演説の予定になるであろう。北ヴェトナムがアメリカを助けるとは期待できないが、中国、それまでハノイに軍事・経済援助を提供してきた主要な国の中国は、別の観点に立っていた。中国は、ソ連との間でもっと大規模で危険な紛争の可能性に直面させられており、南の国境線沿いのところで戦闘行為がいつまでも続くのは、望むところではなかった」(同上、175頁)
これは地政学的な相互作用です。つまり、ソ連が中国と対立を深めるほど、中国は兵力と資源を北方に集中する必要が生じてくるので、南方のベトナムで米国と争う事態は避けたいと考えるようになり、米国も撤退戦略を組み立てやすくなってくる、ということです。

この地球規模の政治的相互作用が動き始めると、それは米中関係を短期間のうちに改善していったのです。

それぞれが国内に抱えていた政治情勢
ギャディスの議論でさらに興味深い論点は、当時の米国と中国にもう一つの共通の利益があったと指摘している点です。それが国内政治の問題でした。
「ニクソンと毛沢東には、当時もう一つの共通の利益があった。それは、それぞれの国で秩序を回復することであった。キッシンジャーが1971年7月、彼の最初の極秘の北京訪問を行った時、毛の外相周恩来がこの点を示唆している。周が文化革命は終わっていることを、わざわざキッシンジャーに保証している。また彼は、ニクソンが国内での自分の立場を強化するのを助けたいと、約束していた。他の西側指導者はもちろん、アメリカの他の政治家は大統領よりも前に北京に迎えられることはないというのである。ニクソンは1972年2月に中国に来て、直ちに周だけではなく毛沢東とは意見の一致を見た」(同上、175頁)
この箇所であまり詳細に述べられていませんが、ニクソンが政権に就いた1969年当時の米国では大きな社会の混乱が問題となっていました。

デトロイト市では大規模な暴動が起きており、頻発していたワシントンでの反戦集会も勢力を増しつつありました。

さらに公民権運動で指導的立場にあったキング牧師の暗殺や、大統領選挙におけるロバート・ケネディ上院議員の暗殺などの凶悪な政治的犯罪も起きており、米国としては政策の重点を国内安定化に移す必要があったのです。

こうした米国の国内情勢に比べれば、中国の国内情勢はもう少し安定していましたが、それでも1966年から1968年にかけて毛沢東が政権復帰のために劉少奇などを失脚させようと起こした文化大革命の影響は残っていた時期でした。

研究では毛沢東がニクソンに次のように述べたと紹介しています。
「歴史がわれわれを再会させた。問題は、哲学は違うが、ともに地に足をつけ、人民の出身であるわれわれが、単に中国とアメリカだけでなく、何年も先の全世界に役立つような現状打破ができるかどうかだ」(同上、176頁)
ニクソンと毛沢東は大きく異なる思想信条を持っていたことは確かですが、国際政治と国内政治から考えると、両者の接近には必然性がありました。

むすびにかえて
中ソ国境紛争によって中国は米国という大国を味方につけることになり、ソ連の攻撃を抑止することができるようになりました。

ソ連の立場から見ると対中攻撃が極めて困難になり、また中国と結びついた米国の地位が向上しているため、ヨーロッパ方面においても不利な立場に置かれることになりました。

ギャディスはこの点について次のように述べています。
「アメリカの中国との国交回復がソ連の経済的必要と結びつき、ソ連は一連の問題点―戦略兵器の削減、ヴェトナム戦争終結のための交渉、東西貿易の拡大―についてアメリカと交渉する方向に押しやられていき、それは同時にジョンソン大統領の最後の時期とニクソンの最初の5年の間、アメリカ外交政策をほとんど麻痺させるに至っていた国内の批判勢力の力を弱めるであろう。要するに、新しい封じ込め戦略の条件が整っていたのである。両国は、それぞれ国内で若い反乱者の脅威に向けてこの戦略を展開する。核兵器の危険と同じように、若者たちの脅威が両国を同じ船に載せたのである」(同上、178-9頁)
勢力均衡の観点で考えると、米国と中国はソ連に対して対外的バランシング(external balancing)に成功したといえます。

このバランシングは米中両国の国際政治上の地位を強化だけでなく、国内政治上でも有利な立場に立つことができました。

つまり、それまで米国で政権を批判してきた反戦運動の勢力を低下させていき、国内の安定化を進めるための条件を整えていったのです。

KT
Gaddis, John Lewis. 2005. The Cold War: A New History. London: Penguin Books.(邦訳、ガディス『冷戦 その歴史と問題点』河合秀和、鈴木健人訳、彩流社、2007年)

2017年6月4日日曜日

論文紹介 地政学シミュレーションの構築に向けた取り組み

これまでの地政学(もしくは政治地理学)の研究者は、地図や統計を使って分析をしていましたが、今後はコンピュータを使って分析することがますます求められるかもしれません。

近年ではシミュレーションの方法が発達するにつれて、コンピュータにより世界各国の対外政策を分析する方法が模索されるようになっているためです。

今回は、ヨーロッパ各国の支配地域がどのように変化していく過程をシミュレーションで分析する試みを紹介したいと思います。

文献情報
Artzrouni, Marc, and John Komlos. "The formation of the European state system: A spatial “predatory” model." Historical Methods: A Journal of Quantitative and Interdisciplinary History 29.3 (1996): 126-134.

モデルで地政学的メカニズムを考える
初期条件として設定した状況であり、ヨーロッパ大陸の形状を模した地域に5×5の領土を持つ国家を規則的に配置している。海上国境の他にピレネー山脈とアルプス山脈の自然障害の影響を考慮し、これらの山岳地帯を超えて武力攻撃ができないと想定されている。
(Ibid.: 131)
ヨーロッパ史に見られる地政学的なダイナミクスをコンピュータ・シミュレーションで分析するため、まず著者らはヨーロッパをおよそ40kmの正方形の空間に分割しました。
さらに初期条件として、ヨーロッパ地域に存在する国家は初期条件で5×5の面積を支配していると仮定します。

次に彼らはそれぞれの国家の国力に影響を与える変数として2種類の要因を考えました。
第一の変数がその国家を構成する領土の面積であり、第二の変数が外国の領土と接する国境の長さです。

前者が大きくなるほど国家が動員可能な資源が増加するので、国力は増加しますが、同時に後者の値が大きくなるほど国境防衛に大きな資源が必要となるため、国力は減少していきます。
ただし、国境が海に面している場合なら、防衛が容易であるため、所要国力も減ると考えられます。
以上の条件を前提としているのが次に示す方程式です。
Aはその国が支配する地域の広さを、Cは防衛が必要な国境の長さを表しており、国力関数Pを規定する。eは海上国境のような例外的な国境の長さを表しており、α、β、γはそれぞれ正の定数を表している。
(Artzrouni and Komlos 1996: 127)
数式だと分かりにくいのですが、要するにこの方程式は兵力で勝る国家が武力による征服を行い、その征服で得た領土が防衛できないほど拡大すると、後退するという事象をモデル化したものです。

軍事力に優れた大国が領土を順調に拡張し続けていると、次第に国境警備に分散配置すべき兵力が増加するため、全体として動員可能な兵力が減少し、最後には周辺への侵略が完全に行き詰まってしまうので、利用可能な兵力で防衛可能な領土になるまで後退していきます。

なお、国家がどの外国を侵略するのかという判断に関してですが、まずプログラムが行動を起こす国家iをランダムに選び出し、その国力を周囲の国家の国力と一つずつ比較していきます。そして、国家iにとって最も侵略しやすい国家jを見つけ出し、戦争を仕掛けるのです。
国力が大きくなるほど戦争で勝利する確率が高くなり、敗戦国の領土は戦勝国の領土に併合されます。この一連の作業をループ処理しています。

シミュレーション結果に関する考察
シミュレーションで1950回目の処理が終わった時点(歴史的には1150年)におけるヨーロッパ各国の情勢(Ibid.: 131)。
著者らは先ほどの単純化された対外行動のモデルに基づき、歴史的に観察されるヨーロッパの政治地図を可能な限り忠実にシミュレーションで再現しようとしました。


その実施例を上図で確認すると、紀元500年時点で初期条件として234カ国存在していた国家は40カ国にまで減少しています(Ibid.: 129)。

著者らの説明によれば、その間に発生した紛争は1950回であり、小規模な紛争が数多く発生する過程で多くの中小国が滅ぼされたことが分かります(Ibid.)。

さらに時代を進めると1800年の時点までにヨーロッパに存在する国家の数はさらに減少して25カ国にまで絞り込まれました(Ibid.)。その結果は下図の通りです。
3900回目の処理が終わった1800年時点におけるヨーロッパの情勢(Ibid.: 132)
シミュレーションで生成された国境配置は実際の史実と異なる部分もかなりありますが、興味深い類似性も認められます。著者らは次のように論じています。
「当時のヨーロッパ大陸のすべての詳細な国境を再現するモデルは期待できなかったものの、フランス、スペイン、ドイツ、イタリアの輪郭は明確であり、またいくつかの東欧の小国も認められる。この段階でこのモデルは大雑把な均衡点に到達したようであり、国家の数の減少が極めて緩やかになっただけである」(Ibid.: 130)
先ほどの単純な方程式を使うだけで、歴史上の国境配置をこれだけ再現可能であるというのは興味深い発見です。

また、国際政治で大国となれるかどうかは国家の立地にかかっているという認識の妥当性も再確認されており、スペイン、フランス、ノルウェー・スウェーデンのような沿岸に立地する国家は、ドイツのような内陸に立地する国家よりも遠くまで領土を拡張しやすくなります。

むすびにかえて
このシミュレーションは非常に単純なものではありますが、ヨーロッパの国々の国境が地政学的なメカニズムで決まっているという考え方を裏付けています。

この傾向は特に国境と海岸線が一致している場合に顕著であり、例えばギリシア、イタリア、スペイン、フランス、スウェーデンは地理的利点を利用しつつ、大陸に陸路で進出できる地政学的に有利な立地だったことが示唆されています。

とはいえ、こうしたシミュレーション分析はまだ発展途上の段階であり、より詳細な分析のためにはもっと多くの要因を考慮に入れたモデルを構築する必要があるでしょう。
例えば、反乱や革命によって大国の内部から分離独立の動きが生じて来る可能性を考えることもそのうちの一つだと思います。

KT

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2017年6月1日木曜日

事例研究 なぜ交戦規則(ROE)が必要となるのか

 交戦規則の定義やその意義は必ずしも多くの人に知られていませんが、実際の防衛行動と深く関係する問題です。

というのも、政府で交戦規則を適切に策定することは、現場で活動する部隊が作戦を遂行できるかどうかにもかかわってくるためです。

今回は、交戦規則とは何かを考えた上で、それがいかに大きな影響をもたらすのかをフォークランド戦争における原子力潜水艦の事例で検討してみたいと思います。

交戦規則とは何か、その意義は何か
そもそも交戦規則(または部隊行動規則)とは何かというところから考えていきましょう。
交戦規則は英語のRules of Engagement(ROE)の訳語として使われている用語であり、1980年代以降に米海軍を中心に使用されるようになり、現在では全軍的に使用されています。

その定義としては「陸、海、空軍の部隊が敵と交戦を開始し、あるいは継続する際の環境または制限を規定する政府の指針」と述べることができます(防衛大学校・防衛学研究会、1999年、43頁)。

この交戦規則が軍事的に重要な理由としては、それが通常の規則とは異なり、戦闘行動を直接的に規定する点にあります。

つまり、具体的に、いつ、どこで、誰に対して、どのような武力の行使ができるのかが、この交戦規則によって定められるため、現場の部隊の指揮官はそれに基づいて命令を出す必要があります(同上、44頁)。

この危機における交戦規則の意義を考察した研究者は次のように述べています。
「交戦規則は政策と自衛という相反する要求の間のバランスを維持しようとするものである。交戦規則は政策を確立するものでなければ、自衛の緊急要件を決定するものでもない。危機に際して政策はしばしば奇襲に対して脆弱な地域に部隊を配置することを求める。政治指導者は部隊を進出させることに伴う危険性を判断し、それに勝るだけの利益があるかどうかを決定しなければならない」(Hayes 1989: 57)
この考察から分かる通り、交戦規則は指揮官の決心を妨げる一方で、政府の政策、つまり危機管理や対外政策の考え方を部隊行動に反映させる重要な意味もあるため、運用に当たっては慎重さが求められるのです。

フォークランド戦争における交戦規則の問題
フォークランド戦争におけるイギリス軍の行動(青色)とアルゼンチン軍の行動(赤色)
イギリスは原子力潜水艦3隻を作戦に投入したが、その際に付与する交戦規則をめぐって内部で議論があった
交戦規則は危機管理の観点から必要なことですが、現場の部隊行動に重大な支障を来す危険性と常に隣り合わせの関係にもあり、慎重な運用が必要です。

このことはフォークランド戦争におけるイギリスの原子力潜水艦が直面した問題でもありました。

イギリス海軍はフォークランド諸島をアルゼンチン軍から奪回するため、「スパルタン」、「スプレンディ」、「スプレンディド」の3隻の原子力潜水艦を作戦に投入しています。この際に交戦規則の内容をめぐって問題が起きていました。

4月2日、フォークランド諸島にアルゼンチン軍が上陸すると、イギリス政府は閣議で原子力潜水艦の出撃を決定し、交戦規則を与えました。それは当初次のようなものでした。
「4 月 1 日に出港した原子力潜水艦に対する交戦規定(ROE)は、極秘裏に移動することの重要性、別令あるまでアルゼンチン兵力を監視することが強調されていた。自艦、氷海警備船「エンデュアランス」および他のイギリス艦艇を防衛する際には最小限の武力の行使が許可されていた。もし、「エンデュアランス」が潜在的な威嚇により停船を強いられた場合には、アルゼンチン軍にイギリスの原子力潜水艦の存在を明かすことは認められていた。仮に交戦状態となった場合には原子力潜水艦は必要最低限な範囲で攻撃を止めるための反撃が許可されていた」(160頁)
つまり、イギリスの原子力潜水艦が交戦できるのは自衛目的か、または他のイギリス艦艇をアルゼンチン艦艇から防御する場合に制限されていたということです。

しかし、この交戦規則はその後さらに改訂が加えられ、4月8日には新たな交戦規則が策定されることになります。
「排除区域(EZ)内で、識別を確実に実施した結果により、アルゼンチンの艦艇、アルゼンチン海軍の補助艦艇を攻撃できる。最初の攻撃が成功したら、原子力潜水艦は現場海域から離れ、報告する。原子力潜水艦は攻撃を報告した後、または、12 時間後に報告できない場合、哨戒の継続が認められる。状況報告(Situation Reports)は次の攻撃の成功後、探知したすべてのアルゼンチンの兵力について、可能な限り速やかに、艦長所定により行うものとされた。逆に、原子力潜水艦が攻撃された際、排除水域(EZ)の内外で自衛のため必要ならば報復することが認められる」(同上、163頁)
ここで注目すべきは「識別を確実に実施した結果」によらなければ、イギリスの原子力潜水艦はアルゼンチン艦艇に攻撃できないという点です。潜水艦にとって致命的な制約でした。

というのも、潜水艦が識別を確実に実施するには、水中でアクティブ・ソナーを使用する必要があるのですが、これを使用すれば自艦の位置が敵に知られてしまうため、戦術的には可能な限り使用を避けるべき探知手段なのです。

もちろん、政府の側にも相応の理由がありました。当時のフォークランド諸島にはラテンアメリカ諸国の潜水艦やソ連の潜水艦が進出している可能性が情報として指摘されていたため、交戦規則で識別を指示しなければ、イギリスの潜水艦が誤って第三国の潜水艦を攻撃する危険があったのです(同上)。

結局、戦闘区域に第三国の潜水艦を入らせないように外交的手段で働きかける方針がまとまり、先ほどの交戦規則も見直されることになりましたが、それは原子力潜水艦が南大西洋に入る4月11日の直前である4月10日のことでした(同上、161頁)。

もし交戦規則の見直しが間に合わなければ、原子力潜水艦が哨戒任務につくことができる時期がさらに遅れていた可能性もあり、そのことが作戦の進捗に重大な支障をきたす危険も十分に考えられたのです。

むすびにかえて
フォークランド戦争においてイギリスの原子力潜水艦に与えられた交戦規則を検討すると、交戦規則が政治と軍事の調整において決定的な役割を果たしていることが理解できると思います。

もちろん、状況に適合した交戦規則を策定することは決して容易なことではなく、しばしば難解で誤解しやすいものになりがちであるため、どうすれば実効性の高い交戦規則を策定することができるのか、よく政治的、法的、行政的、軍事的観点から総合的に研究することが必要となります。

自衛隊にはまだフォークランド戦争のような戦争を遂行した経験がありませんが、もし危機的状況、さらに有事が起これば、交戦規則の運用は間違いなく大きな問題として持ち上がるはずです。

これは自衛隊だけで研究できる問題ではないため、政府、特に国家安全保障会議が統幕と事前に検討を重ねておくことが重要でしょう。

何より日本国民として交戦規則が一般にどのような意味を持つのかを理解し、政府が自衛隊に交戦規則を出せば、その内容が政治的、戦略的環境に適しているのかを議論できるようにしておくことも、民主主義の観点から見て大切なことだと思います。

KT

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参考文献
Hayes, Bradd C. 1989. Naval Rules of Engagement: Management Tools for Crisis. Santa Monica: RAND Corporation.
防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年
防衛研究所戦史センター編『フォークランド戦争史』防衛省防衛研究所、2014年

2017年5月28日日曜日

学説紹介 革命の戦略家、マルクスとエンゲルス

カール・マルクス(1818年5月5日 - 1883年3 月14日)とフリードリヒ・エンゲルス(1820年11月28日 - 1895年8月5日)は政治経済学の思想家と思われがちですが、軍事学でも大きな功績を残しています。

特にエンゲルスの著作には軍事問題を取り扱ったものが多く、19世紀以降の革命家の戦略にも影響を与えたと考えられています。

今回は、ジグムント・ノイマンとマーク・フォン・ハーゲンの研究に沿って、マルクスとエンゲルスの戦略思想の特徴について紹介してみたいと思います。

マルクスとエンゲルスの共同研究
左がカール・マルクス、右がフリードリヒ・エンゲルス
エンゲルスはマルクスと深い友情を結び、40年間の長きにわたって共に研究を行いましたが、彼らの共通の関心はやはり革命を起こして社会主義を実現することにありました。

彼らが生きた時代は「諸国民の春」として歴史家に知られる1848年革命の時期と重なっています。当然、マルクスとエンゲルスもこの革命に興味を持っていました(ノイマン、ハーゲン「エンゲルス、マルクスと革命・戦争・軍隊」235頁)。

しかし、当初期待したように事態は進まず、ヨーロッパ各地で同時多発的に発生した革命運動もやがて目に見える成果を残すことなく立ち消えてしまいます。

そのため、この敗因を究明することがマルクスとエンゲルスにとって重要な研究課題となり、特に革命の重要な手段である暴動が研究対象として位置付けられるようになります(同上、236頁)。

この研究はやがて軍事戦略の観点から暴動を考察した論文としてまとめられ、エンゲルスが執筆し、マルクスの編集を経て、マルクスの名前により1851年からおよそ1年にわたって『ニューヨーク・トリビューン』で連載されています(同上)。

暴動は戦争と同じく技術の問題である

マルクスとエンゲルスは暴動を戦争と同じく技術の問題だと考えました。つまり、そこには研究を要する法則性があり、それに従って遂行しなければならないのです。

彼らの議論は多岐に渡りますが、第一に重要なことは暴動を起こす前に準備を万全に整えておくことであり、それは暴動の後に続いて生じる状況に対応することも視野に入れたものでなければならないということです(同上)。

第二に重視すべき事柄は、「一度暴動が開始されたなら、断固として行動し、常に攻撃せよ。防御はすべての武装蜂起にとって死を意味する」ということです(同上)。

マルクスとエンゲルスは1848年にヨーロッパ各国で起きた暴動に多くの軍人が参加していたことを知っていました(同上、235頁)。

その中には単なる市街地での防御戦闘だけでなく、野戦を遂行するほどの組織力を持った革命勢力もおり(同上)、こうした戦略打撃が可能な兵力を革命に活用するためには、政府軍に立ち直る隙を与えず、一挙に攻勢に出ることこそが重要だと思われたのです。

もちろん、マルクス、エンゲルスはいずれも情勢が変化し、当初の勢いがなくなれば、それ以降の行動で成果を上げることは非現実的であるとも忠告しています。1850年代にもう一度蜂起を試みた革命勢力に対して今は準備工作に専念すべき時期だと主張したことはその一例です(同上、236頁)。

つまり、彼らの思想において「忍耐と時期を見定めることが合理的な戦略の必要条件となった」のです(同上)。それでは、いつになれば革命を起こすことができるのでしょうか。

国際情勢を利用した革命戦略
マルクスとエンゲルスは暴動の成功条件を考察する際に、国内政治の状況だけを見ていたわけではありませんでした。

マルクスは革命運動に参加したためにドイツを離れることになり、イギリスで亡命生活を余儀なくされていたのですが、そこで国際情勢を利用すべきことを研究しています。

マルクスとエンゲルスは世界の歴史が階級闘争の歴史として説明できるという命題を研究の前提としていたのですが、これは支配階級が国家権力を独占し、被支配階級を軍事的、経済的、思想的に弾圧しているという情勢認識に立つものでもありました(同上、237頁)。

こうした認識に基づくと、国家と国家との戦争は支配階級同士の争いであり、被支配階級はこうした闘争を利用することができると考えられるのです。この点についてノイマンとハーゲンは次のように解説しています。
「この観点に立つと、支配階級が互いに宣戦布告をすると、いかなる社会の階級闘争も国際政治の場に持ち込まれることになる。戦争は、支配階級を支える社会のもろい機構にあまりにも大きな負担とならない限り、彼らの利益となる。この時点で戦争は革命の促進剤となりうるのである」(同上、238頁)
つまり、マルクスとエンゲルスは戦争を社会の安定を破壊する好機と見なしていたということがいえます。

もちろん、革命で勝利を収めるために流さなければならない血を考えれば、こうした戦略が決して望ましいものではないことも彼らは理解していましたが、それでも一つの戦略的議論として筋が通ったものでした。

むすびにかえて
このような戦略構想を得たことで、マルクスとエンゲルスは大規模な世界戦争だけが革命をもたらすのではないかという憂鬱な不安を抱いたといわれています(同上、244頁)。

彼らは戦争が革命の起爆剤となり得ることを学問的に理解しましたが、19世紀後半において戦争の形態が急激に変化していることも同時に認識しており、将来の戦争がヨーロッパ全土を荒廃させる事態を真剣に恐れていました。

この洞察は第一次世界大戦でドイツ、オーストリアに起きたことを予見するものであったといえるかもしれませんが、いずれにせよ、彼らは1888年になると革命を遂行するための構想として戦争を除外してしまい、それ以降の革命運動は方向性を失っていきます。その意味でマルクスとエンゲルスの戦略は研究から実行の段階に移る過程で行き詰まったといえるでしょう。

しかし、軍事学の歴史においてマルクスとエンゲルスの研究は新しい可能性を示唆するものであったことは確かです。

ベトナムやイラクの経験を通じて、現代の戦争は軍隊だけで遂行されるものではないという見解は現在もはや一般化していると思いますが、彼らはそのような視点を最初に提示した研究者であるということは再確認しておくべきだと思います。

KT

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事例研究 戦争より革命を恐れたヴィルヘルム二世

参考文献
ジグムント・ノイマン、マーク・フォン・ハーゲン「エンゲルス、マルクスと革命・戦争・軍隊」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、231-248頁

2017年5月21日日曜日

論文紹介 アフガニスタンとイラクで考える21世紀の戦争

2001年のアフガニスタン侵攻、そして2003年のイラク戦争の頃を覚えている方であれば、2000年代の米国では軍制改革の文脈でトランスフォーメーション(transformation)という概念がもてはやされていたことを知っているかもしれません。

2000年代に米国で刊行された研究を調べてみると、アフガニスタン、イラクで明らかになった「21世紀型の戦争」、つまり情報技術を駆使した精密誘導兵器の発達を踏まえ、米軍の態勢を抜本的に見直すべきとする議論がありました。

しかし、こうした議論を2010年代の今から振り返り、果たして妥当な議論だったのかを検証することが必要でしょう。

今回は、米国の政治学者スティーヴン・ビドルが2010年に発表した論文を紹介し、2000年代のトランスフォーメーションの議論に対する批判的考察を紹介したいと思います。

文献情報
Biddle, Stephen. 2010. "Iraq, Afghanistan, and American Military Transformation," John Baylis, James J. Wirtz, Colin S. Gray, eds. Strategy in the Contemporary World, Third Edition. Oxford: Oxford University Press, pp. 266-287.(注意、今回の論文は2010年に刊行された版のStrategy in the Contemporary Worldにのみ掲載されているものです)
目次
・はじめに
・アフガニスタンと軍制改革論
・2003年のイラクと軍制改革論論
・異なる視点
・結論
トランスフォーメーション論争の論点
2001年以前から米国では情報革命によって戦争の性質が変化する可能性は議論されていましたが、その多くは軍事技術の発達によって、大規模な通常戦力の必要が低下することを予見していました。

著者によれば、2000年代のアフガニスタンとイラクにおける戦役によって、こうした主張がますます支配的になっていく傾向が生じ、技術的優位、特に精密誘導兵器を活用すれば、短期間のうちに敵に決定的打撃を与えることが可能になると真剣に議論されるようになります。

これは一つの見解として参考になる部分もあったのですが、トランスフォーメーションの議論を支持する人々は、技術的優位の重要性ばかりを強調するあまり、マンパワーの確保という問題を軽視しすぎる側面があったとして、著者は次のように指摘しています。
「〔トランスフォーメーションに関する〕これらの提案はこれまでにも批判を受けてこなかったわけではない。批判派は、このトランスフォーメーションの議論が、対反乱作戦(COIN)あるいは治安作戦(SASO)のような独特な意味で労働集約的、かつ低水準のテクノロジーを用いる任務の必要を見過ごしていると長らく議論してきた」(Biddle 2010: 267)
そこで著者はアフガニスタン、イラクにおける精密誘導兵器、あるいはネットワーク化された兵器システムが果たした役割が実際にどのようなものだったのかを検討しています。

21世紀の戦争の現実―アフガニスタン
著者はまずトランスフォーメーション派が論拠として注目するアフガニスタンでの精密誘導兵器の意義について検討しています。

戦争が始まった2001年から02年にかけて、アフガニスタンで活動するタリバン、アルカイダの部隊は十分な偽装、掩蔽ができておらず、そのため米軍の特殊部隊は長距離からでもその所在を発見することが可能でした。そのため精密誘導兵器は順調に戦果を上げていました。

しかし、著者はこの事例を考える上で重要な点として、精密誘導兵器が戦果を上げていたのが一時的な事象だったことだと念を押しています。

つまり、タリバンやアルカイダは次第に精密誘導兵器に対する防護として、偽装、掩蔽の重要性を理解するようになり、また組織的な戦闘を遂行する能力を向上させていった経緯があるのです(Ibid.: 269-70)。

そのため、2002年に入ってからは、米軍部隊は突如として出現するタリバン、アルカイダの部隊と近接戦闘に捲き込まれる場面が増えていき、エアパワーの限界を示す次のような状況も起きていました。
「例えば、11月5日、Bai Becheにおいて塹壕にこもったアルカイダの守備隊は米軍の集中的な爆撃を2日間にわたって受けた後も撤退することを拒んだ。彼らを排除するため、北部同盟の騎兵隊に敵防御陣地への突撃が命じられた。最初の攻撃は撃退された」(Ibid.: 270-1)
その後、著者は現地にいた米軍の特殊作戦部隊が二度目の突撃を行った味方の騎兵隊を誤爆しかけた経緯や、北部同盟の騎兵隊が敵防御陣地の後方に迂回したと判断したアルカイダの部隊も陣地を放棄して後退したことも紹介しています(Ibid.: 271-2)。

この事例はトランスフォーメーション派が考える戦争観とアフガニスタンの戦争の実態に大きな乖離があることを裏付けるものであり、どれほど技術が進歩しても、防御陣地に立てこもる敵を航空機で一掃することはできず、結局は地上部隊の行動に戦局がかかっていることを示しています(Ibid.: 274)。

21世紀の戦争―イラク
次に著者はトランスフォーメーションを支持する論者が、イラクで多国籍軍の損害が小さかった理由として、情報技術に裏付けられた精密誘導兵器の威力によって、近接戦闘を回避できたためだと論じていることに注目しています。

イラクの事例に関しても著者は精密誘導兵器が戦果を上げていたこと自体は認めていますが、実際の当時の戦争の経緯を見直していくと、それだけで説明できるほど事態は単純ではなかったと考えています。

実際、多国籍軍はイラク侵攻の前に航空作戦でイラク軍に多大な損害を与えていたにもかかわらず、特に市街地において激しい戦闘を強いられました(Ibid.: 277)。

この戦闘で出た犠牲が比較的小さかった理由として著者はバグダッドでの戦闘では敵の防御陣地に対する浸透(penetration)戦術が成果を上げたためだったと指摘しており、つまりバグダッドの戦闘における多国籍軍側の戦術が適切だったと評価しています(Ibid.: 275)。
「例えば、バグダッドで米陸軍第3歩兵師団の第2旅団は市街地の中心部に向けて2003年4月5日と7日に2度にわたる連続的浸透(「サンダー・ラン」)を遂行した。いずれの場合でも、ほとんどすべての経路において、RPGと小火器の連続射撃を受けた。事実、4月5日、旅団の縦隊のすべての車両が少なくとも1回はイラク軍のRPGを被弾し、多数の車両が複数回被弾している」(Ibid.) 
さらに、トランスフォーメーション擁護者が多国籍軍の電撃的侵攻によってイラク軍が国土を焦土化する前に前進できたという主張についても疑問を投げかけています。
「トランスフォーメーション擁護者は、2003年にRumaila油田施設の壊滅、Um Qasrの港湾施設の破壊工作、ティグリス川とユーフラテス川に架けられた橋梁の崩落、そしてKarbala渓谷の洪水を防いだのは速度であったと述べてきた。しかし、多国籍軍の速度はイラク側の選択ほど重要ではなかったことを示唆する強い証拠がある」(Ibid.: 277)
具体的には、当時の油田の労働者が破壊工作に対して組織的に抵抗していたこと、またイラク軍の内部において必ずしも首脳部の決定が末端にまで徹底されていませんでした(Ibid.: 277-8)。

以上の著者の議論を踏まえると、イラク軍に対して多国籍軍が短期間にわずかな損害で勝利を収めることができたのは、技術的優位という単純な議論で片づけられるものではなく、むしろ伝統的な兵力運用能力によるところもかなり大きかったと分かります。

むすびにかえて
著者は21世紀の戦争を考える上で、技術的優位を過度に重視することは、必ずしも根拠がある議論ではなく、また将来の米軍の在り方を論じる上でも好ましくないと考えています。

トランスフォーメーションの擁護者がアフガニスタンやイラクでの軍事的教訓を誤解している部分があり、米軍としては情報技術を活用した精密誘導兵器の威力を過信せず、従来から確立されている戦術・運用能力の重要性を見直す必要があると著者は論じました(Ibid.: 284)。

歴史的に米国の戦略文化には安全保障上の問題を運用ではなく技術で解決する傾向があるという研究もありますが(参考:論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは)、この論文の問題意識はそこに大きく重なるものだと思います。

技術の進歩を認識し、それを取り入れることは安全保障において非常に重要なことなのですが、その軍事的妥当性については詳細に検証する必要があり、それを軽視すると実態からかけ離れた印象論に陥ってしまう危険があることに注意すべきでしょう。

KT

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2017年5月19日金曜日

学説紹介 ワイリーの戦略学の意義と限界

戦略学では、さまざまな研究者が、それぞれ自分の主張を展開してきましたが、その時代や地域に固有の問題にとらわれ、適用範囲が狭い議論に陥る場合も少なくありません。

そうした中でも普遍性のある戦略理論を構築しようとする研究がいくつか報告されており、その功労者の一人としてワイリー(Joseph Caldwell Wylie, Jr., 1911-1993)が知られています。

今回は、彼の戦略思想がどのような内容なのかを要約した上で、その意義と限界について紹介したいと思います。

ワイリーの戦略思想の特徴
第二次世界大戦においてはガダルカナル島をめぐる日米の戦闘にワイリーも参加していた。ワイリーは学術の研究だけでなく、現場の経験を踏まえて、より実用的な戦略理論を模索するようになった。 Naval Battle of Guadalcanal on 14-15 November 1942, showing the U.S. battleship USS Washington (BB-56)
ワイリーはサウスカロライナ州に生まれた米海軍士官であり、第二次世界大戦では駆逐艦フレッチャーに乗組み、第三次ソロモン海戦に参加した経験も持っています(邦訳、ワイリー『戦略論の原点』212-3頁)。

戦後、海軍大学校に戻って教育に携わることをきっかけに戦略研究に取り組み、揚陸艦の艦長勤務や大西洋艦隊の幕僚勤務などを経て、1972年に少将の階級で退役しました。

米海軍士官としてキャリアを積んだワイリーですが、彼の関心は海軍だけにあったわけではありませんでした。

むしろ陸海空軍といった軍種にとらわれない戦略の総合理論を発展させることに興味を持ち、その要点を自身の著作で次のようにまとめています。
戦略の総合理論における要点
(1)戦略家が実戦時に目指さなければいけない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。
(2)これは、戦争のパターンの形態を支配することによって達成される。
(3)この戦争のパターンの支配は、味方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される(同上、99頁)
これらの要点にワイリーの戦略思想がよく示されていますが、特に重要な概念が重心(center of gravity)です。

軍事学の研究に重心という概念を最初に導入したのはカール・フォン・クラウゼヴィッツですが、彼は我の兵力が作戦において指向される敵側の地域や作戦の領域を意味する戦略用語として使っています。

さらに単純に解釈するならば、全軍としての前進目標や攻撃目標として理解することもできるでしょう。

この概念を活用することで、ワイリーは戦略の理論的基礎をより一般化することが可能になると考えたのです。

戦略では重心の分析が重要
ワイリーが自らの戦略理論を発展させる上で用いた「重心」という概念はクラウゼヴィッツの著作に由来するものであるが、ワイリー自身はこの概念の定義について明確に述べていない。
ワイリーは我の重心が敵の弱点に重なるように選択することが、最も戦略的に望ましいと論じています。
「この重心が敵の過敏に反応しやすい部分に到達することが重要で、これが国家の頸動脈にあたるような急所であればなお理想的だ。また、これは少なくとも敵にとっては神経痛程度の痛みを引き起こし、戦略家が流れを支配できるほど敵に影響を与えられるものであるべきだ。これをごく単純に言えば、戦略家によって動かされる戦争の「重心」は、このような敵の最も致命的かつ最も脆弱な箇所に向けられるべきなのだ」(同上、98-9頁)
いわば、敵の弱点を上手く捕捉し、これを継続的に圧迫することによって、戦争の全局面を支配し、戦争の展開を主導することも可能になるという考え方です。

戦略学を研究する人間にとって、この学説には興味深い特徴がいくつかあるのですが、重心が「敵の最も致命的かつ最も脆弱な箇所」に向けられるべきだと述べている箇所もその一つです。

つまり、敵の軍隊の主力を殲滅することや、その基地を破壊することを戦略の原則として重視していないのです。

つまり、状況の変化に応じて戦略家が攻撃すべき目標を柔軟に切り替えることができる可能性を理論の中に残しているのです。

例えば、もし我が方にとって最も有利な戦争のパターンが決戦の場合、我がとるべき重心は敵軍の主力に向けられるでしょう。

しかし、そもそも戦争のパターンを持久戦に持ち込みたいのであれば、我の重心は敵軍の分遣隊や防備が手薄な拠点とすべきだといえます。

つまり、選択すべき戦略上の目標はそもそもどのような戦争の形態を作り出そうとしているのかによって、大きく異なってくるとワイリーは考えており、そのことによって戦略思想に大きな柔軟性、可変性が生まれているのです。

歴史的事例と重心分析の試み
ハンニバルの軍勢が使用した経路の概略図。第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバルはイベリア半島から北イタリアに向けて軍勢を前進させた。ハンニバルはイタリア半島各地で勝利を収めたため、ローマは危険な状況に置かれたが、ローマの将軍スキピオはイベリア半島に奇襲を仕掛けることで戦局を好転させた。
ワイリーは自分の戦略思想をより具体的に説明するため、ポエニ戦争の事例を紹介しています。

ポエニ戦争は、ローマと北アフリカに位置するカルタゴとが争った戦争ですが、序盤でハンニバルが率いるカルタゴ軍は、ジブラルタル海峡を越えてスペイン、南フランスを経由し、北イタリアからローマに脅威を及ぼしてきました。

不利な態勢に立たされたローマ軍ですが、将軍スキピオの下で新たな戦略を採用し、カルタゴ軍に対抗したことを、ワイリーは次のように説明しています。
「ハンニバルはイタリアに腰を据え、ローマの将軍たちも彼を追い出すことができなかった。つまりハンニバルは戦争のパタンをコントロールしていたことになる。スキピオはローマの将軍に任命されると、まずはこの戦争の重心をイタリア半島からスペインへと移し、カルタゴからハンニバルの元へ供給される兵士と物資の流れを遮断したのだ。スキピオは次に「重心」をカルタゴ付近のアフリカ沿岸に移したが、これはカルタゴを非常にいらだたせることになり、これによってハンニバルはスキピオが設定した戦争のパターンに従わざるを得ない状況になった」(同上、100頁)
ワイリーがここで指摘しているのは、スキピオの新たな戦略がローマ軍の狙うべき重心を変化させたことで、ローマ軍の状況を改善すると同時に、カルタゴ軍を窮地に立たせることが可能になったということです。

例えばジョミニの戦略理論で見れば、これはローマ軍の戦略機動によってカルタゴ軍の後方連絡線が遮断された事例として解釈できるのですが、ワイリーにとってより重要なポイントは、ローマ軍がカルタゴ軍の弱点を的確に捕捉することによって、単に敵の兵站支援を遮断しただけでなく、戦争の形態を一変させたということです。

もしカルタゴ軍の後方連絡線に当たるスペインがカルタゴ軍の兵力でしっかりと警備されていたならば、スキピオはまた別の戦略に頼らなければならなかったでしょう。

なぜなら、敵の兵站線に重心を移動させたとしても、それが敵によって想定された行動である以上、戦争のパターンを変えることができるかどうかは不明確だからです。
「ハンニバルは指揮下にあったカルタゴ軍をイタリアからカルタゴまで連れ戻している。その後、スキピオは戦場の中心地を敵が守りを固めつつあったカルタゴ周辺からカルタゴが食糧を得ていた谷間周辺に移している。ハンニバルはこれに対応して新しい動きをせざる得なくなり、スキピオによって作り上げられた状況の中で、スキピオが選んだ戦場で戦わせるはめになった。このザマの戦いでローマ軍に負けたことは、カルタゴにとって致命的になった」(同上)
ここでもワイリーが注目しているのは戦略機動の表面的な特徴ではなく、スキピオの戦略機動がポエニ戦争の形態をどのように変えたのかという点です。

まず北イタリアからスペインに重心を移してカルタゴ軍を北イタリアから撤退させていますが、カルタゴ軍が本国へ帰還してからは、前進目標をカルタゴそれ自体からカルタゴが貿易に使用していた交通路に切り替え、敵を戦場に誘致し、決戦に持ち込むことに成功しました。

ワイリーの研究は、クラウゼヴィッツが提唱した重心という概念を戦略理論の体系においてより明確に位置付け、戦略分析の可能性を拡げることができることを示して見せたのです。

むすびにかえて
ワイリーが戦略学で目指していたのは、適用範囲が広い一般的な戦略理論を確立することでした。

従来の戦略理論は陸上、海上、航空(反乱・革命)といった区別を前提としており、限られた適用範囲しかありませんでした。

そこで、重心という概念を戦略の基本概念として捉え直すことにより、より使いやすく、適用しやすい理論体系を構築したのです。

ただし、課題も残されています。というのも、ワイリーは自らの理論を具体的な事例に適用する方法について大雑把な仕方でしか示していないためです。

そのため、重心の分析を行う際に、具体的にどのような手続きを踏めばよいのか、どのような条件が揃えば重心だと判断できるのかが不明確なままになっています。

これはクラウゼヴィッツの研究においても重心という概念があまり明確に定義されていないこととも関係しているのですが、いずれにせよ重心の概念を戦略研究でどのように活用すべきかを考えることは今後の研究課題の一つだと思います。

KT

関連記事
戦略に関心を持ち始めた人のための戦略学入門

参考文献
J. C. Wylie. 1989(1967). Military Strategy: A General Theory of Power Control. Annapolis: Naval Institute Press.(邦訳、ワイリー『戦略論の原点(普及版)』奧山真司訳、芙蓉書房出版、2010年)

2017年5月14日日曜日

事例研究 ドイツの対米戦略に翻弄された日本の外交

1941年3月、日本の外相松岡がドイツのヒトラーを訪問したときの様子。当時、日本とドイツは同盟関係にあった。Japanese Foreign Minister Yōsuke Matsuoka (1880–1946, left) visits Adolf Hitler.
第二次世界大戦は1939年、ポーランドにドイツが侵攻したことで始まり、間もなくイギリス、フランスがドイツに宣戦しました。

その後、さまざまな経緯があり、1941年に日本はドイツの同盟国としてアメリカ、イギリス、オランダに対し宣戦することになるのですが、これまでにも多くの研究でその決定の政治的、軍事的非合理性は繰り返し指摘されてきました。

しかし、別の視点から見ると日本は一貫してドイツの戦略に協力していた側面もあったのです。

つまり日本独自の立場で見ると非合理的ですが、ドイツの立場で見れば一定の合理性があったという解釈もできるのです。

今回は、ドイツの対米戦略において日本がどのような位置付けを与えられていたのかを検討した研究(田嶋「東アジア国際関係の中の日独関係」2008年)を踏まえて、当時の日本の政策、戦略を再検討したいと思います。

ドイツから見た日本の利用価値
1941年の情勢図。西ヨーロッパ地域でドイツの勢力に対抗したイギリスは、アメリカを手を結ぼうとしており、対米戦をどう遂行するかが当時のドイツでは重大な課題となっていた。その対策としてヒトラーが着目したのが東アジアにおける日本の存在であり、これと同盟を結ぶことで米国の対英支援を妨害できると判断した。
1940年6月にフランスを降伏させた後、ドイツはイギリスに外交的に働きかけ(7月19日)、この戦争を終結させようとしていました(同上、47頁)。

しかし、時のイギリスの首相ウィンストン・チャーチルはドイツと和平交渉を行うことを拒否し(7月22日)、あくまでも徹底抗戦の構えを示します(同上)。

戦争の早期終結に行き詰まったヒトラーは、7月31日に国防軍の首脳部を集め、次のような判断と構想を示しました。
「イギリスの希望はロシアとアメリカである。もしロシアへの希望が潰えれば、アメリカも潰え去る。なぜならロシアが脱落すると東アジアにおいて日本の価値が飛躍的に高まるからである。つまりヒトラーから見て「ロシアは日本に向けられた英米の剣」なのであり、この「英米の剣」が除去されれば、日本の軍事力は東アジアで解き放たれる。するとアメリカは太平洋に釘付けにされ、対英支援は極めて困難になるだろう。したがって、「ロシアが打倒されればイギリスは最後の希望を失う」」(同上)
つまり、ドイツがロシア(ソ連)を倒せば、日本がアジア・太平洋方面からアメリカに圧力を加えることが可能となり、イギリスは期待した支援を受け取ることが難しくなる、とヒトラーは考えたのです。

言い換えれば、ドイツはイギリスを和平交渉に引き込むために、東アジアで日本がアメリカ、イギリスを攻撃させるという構想を描いて見せたのです。

しかし、中国と戦っていた日本は1939年から40年の段階でヨーロッパの戦争にまで手を広げる意志はなく、1939年5月2日に、平沼内閣の下でドイツとイタリアに対して軍事援助を与えない旨を通知していました(同上、42頁)。

つまり、ヒトラー政権としては、ドイツの政策を遂行するために、独ソ戦を準備するだけでなく、日本の対英米政策を変えさせる必要が生じていたということです。

対ソ戦の準備と対日政策との関係

会議の後でドイツは日本を枢軸陣営に引き入れるための外交努力を強化しました。

この会議からおよそ2カ月後に当たる1940年9月27日に日独伊三国同盟が調印されているのですが、この同盟もそうしたドイツの外交努力の成果と位置付けることができます。

当時、日本は対中戦を遂行する上で対ソ関係を改善しようとしていたため、この日独伊三国同盟の条約では独ソ不可侵条約をはじめとする対ソ関係の現状維持が取り決められていました(同上、48頁)。

これはヒトラー政権の思惑とは違っていましたが、少なくとも一時的に日本にドイツの真意を誤解させることができただけでなく、日本を枢軸陣営に組み入れる上でも外交的な意味がありました。

しかし、ヒトラーの意図はあくまでも対ソ戦にあり、12月18日に対ソ戦の準備を1941年5月15日までに完了させるように軍に命じています(同上、49-50頁)。

当然のことながら、ドイツが対ソ戦を準備していることは、日本に知らせないことが重要だとヒトラーは知っていました。

もし日本がドイツの真意を知れば、対ソ関係を維持したい日本はドイツから離れる危険があったためです。
「3月5日、最高司令部長官カイテル名で出された「総統司令第24号」は、「日本との協力」について規定していたが、「バルバロッサ計画については日本にいかなる示唆も与えてはならない」との前提の下で、「三国同盟に基づく協力の目的は、東アジアにおいて可及的速やかに日本に積極的な行動を取らせること」であるとされ、具体的には「東アジアにおけるイギリスの最重要拠点シンガポールの奪取」が明示されたのである。すなわち日本のシンガポール攻撃により「強力なイギリスの戦力が釘付けにされ、アメリカ合衆国の関心の重点が東アジアに向けられる」であろうと期待されたのである」(同上、52頁)
ここで述べられている通り、三国同盟はもとから東アジアで日本に対英米攻撃を行わせるように仕組まれた同盟でした。

さらに日本にとって不都合なことに、このようなドイツの意図を全く日本側は把握しておらず、ドイツの仲介によって日ソ関係の改善を目指していました(同上、53頁)。

結局、ドイツの企図判断を誤っていた日本の外交は、1941年6月22日のドイツ軍による対ソ侵攻で完全に破綻することになりました。

予想を裏切られた日本の対応
独ソ戦が勃発した当時の日本の政権は第二次近衛文麿内閣によって担われていた。独ソ戦の後で内閣改造が行われ、日独伊三国同盟にソ連を加える四国同盟を構想していた松岡外相が外されることになる。Cabinet ministers of Second Cabinet of Fumimaro Konoe, 1940, Mainichi Shinbun.
当時の日本がドイツがソ連に対して侵攻したこと(バルバロッサ作戦)を裏切り行為として受け止めていました(同上、54頁)。

しかし、もはや情勢は不可逆的な段階に入っており、日本としては独ソ戦の勃発にどのような対応をとるべきかが議論されることになります。

選択肢は二つあり、一つは北方でソ連の圧力が軽減されている間に南進する方策、もう一つはドイツとともにソ連を東西から挟撃することを狙って北進する方策でした。

近衛文麿内閣においては北進論を支持する勢力と南進論を支持する勢力との間で激しい議論が戦わされました。

その論争の詳細はここでは省きますが、結果としてドイツが対ソ戦で短期間のうちに勝利を収めて独ソ和平が実現し、日独伊ソの提携が実現することについて、依然として多くの関係者が希望的観測が支配的となっていきます(同上、55-6頁)。

結局、日本はソ連に対する攻撃は避けて南進論の方針を固め、12月8日、真珠湾攻撃をはじめとする対英米作戦に踏み切りました。
「真珠湾の報を聞いてヒトラーは喜びのあまり両手で膝をたたき、新たなる世界情勢を熱狂的に解説したという。彼はアメリカの対独参戦を不可避と考えており、日本の真珠湾攻撃により単独での対米戦争遂行という悪夢から解放されたのである」(同上、56頁)
ヒトラーの対日政策がここに完全に実現したといえますが、ちょうどこの時期にドイツは対ソ作戦を攻勢から防勢に切り替え、長期戦の準備を進めていました。
「しかし一方ヒトラーは同じく12月8日、対ソ戦の遂行に関し重大な行っていた。すなわち同日、「総統指令第39号」は、「東方における驚くべき早期の冬の到来と、それに伴う補給上の困難のため、大規模な攻撃作戦を即座に停止し、防衛態勢に移行する必要がある」と述べていた」(同上)
これは独ソ戦の長期化を確定する重要な決定でしたが、日本はこのことを知らないまま対英米作戦に踏み切っていました。

日本の対英米作戦の大前提に独ソの早期講和があったことを考えれば、これは日本にとって致命的な事態でしたが、ドイツはその後も重大決定を日本に知らせることなく、既成事実を積み重ねて日本との戦略協力を強化していきます。

12月11日にドイツは対米宣戦を行い、また日独伊共同行動を締結することで、日独伊共同の戦争遂行と戦後の勢力圏分割を約束したのもその一環です(同上、56-7頁)。

1942年1月18日には東経70度を基準線にしてアメリカ西岸方面を日本、アメリカ東岸方面をドイツとイタリアの作戦地域とし、完全に日本をドイツの戦略に組み入れました(同上、57頁)。

むすびにかえて
第二次世界大戦の歴史から学ぶべき教訓はたくさんあるでしょうが、その一つに同盟相手と結んだ条約であっても、その内容を全面的に信用してはならないということが含まれるでしょう。

後から振り返れば、ドイツの外交工作によって、日本はソ連との友好関係を構築する上でドイツと同盟を結ぶ方が有利だと誤認しており、それがドイツの対米戦略に利用される第一歩となっていました。

当時の日本の決断に対する評価については、例えばドイツが独ソ戦で勝利していれば、イギリスと早期講和が実現し、その恩恵で日本も対英米戦の成果を上げることが可能だったという議論もあるかもしれませんが、ヒトラーが本心のところで日本を人種主義的な理由から敵視していたことを考慮すると、その妥当性には疑問が持たれます。
「さらに反ヒトラー派の元外交官(駐イタリア大使)ハッセルは、42年3月22日、収集した情報を日記に次のように記した。「噂によれば、ヒトラー自身は日本の戦果に心から感動しているわけではなく、むしろ逆に、黄色人種を撃退するために、できればイギリスのため20個師団を派遣したいと語ったという」」(同上、57頁)
これがヒトラーの真意であるなら、日本が第二次世界大戦の勝者になれたとしても、対米戦略上の利用価値がなくなった後でドイツとの同盟関係を維持できたのかどうかは不明確です。

つまり、ドイツが日独伊共同宣言で約束した東アジアでの日本の勢力圏拡張を本当に許したのかどうかは断定できませんし、場合によっては日本がドイツの軍事的圧力の対象となる可能性も否定しきれません。

このような可能性を検討していくと、第二次世界大戦における日本の外交の失敗は単に同盟相手の選択を間違えただけではありませんでした。

同盟相手の思惑や自国との利害の相違を批判的に検証せずに、同盟政策を論じることの危険性をこの事例から学ぶべきではないでしょうか。

KT

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論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

参考文献
田嶋信雄「東アジア国際関係の中の日独関係 外交と戦略」『日独関係史 1890-1945 Ⅰ(総説/東アジアにおける邂逅)』東京大学出版会、2008年、3-75頁

2017年5月11日木曜日

学説紹介 クラウゼヴィッツは戦争をどのように定義したのか

この画像の人物が、戦争は他の手段をもってする政治の延長、という命題で有名なカール・フォン・クラウゼヴィッツです。

しかし、彼は最初から政治こそ戦争の本質であるとか、政治が戦争を支配しているといった単純な議論を提起したわけではありません。

クラウゼヴィッツはまず戦争という行為それ自体に得得な規則性、必然性があると指摘していました。

このことを理解するために今回はクラウゼヴィッツの『戦争論』で冒頭に述べられている戦争の定義とその解釈について紹介したいと思います。

戦争は拡大された決闘に他ならない
クラウゼヴィッツは戦争の定義を明らかにする際に、法学者の議論を参照することを避け、次のように論じています。
「我々は戦争について公法学者たちのあいだで論議されているようなこちたい定義を、今さらここであげつらう積りはない。我々としては、戦争を構成している究極の要素、即ち二人のあいだで行われる決闘に着目したい。およそ戦争は拡大された決闘に他ならないからである。(中略)要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意志を相手に教養しようとするのである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上巻28頁)
これらの表現はともかく、示された定義は非常に直感的で理解しやすいものです。要するに戦争は拡大された決闘でしかないということです。

自らの定義の解説として、クラウゼヴィッツは「してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」とも述べています(同上、29頁)。

この考察で興味深いのは、クラウゼヴィッツの考察が国際法の概念や学説にまったく依拠していないことです。

他者を実力で屈服させる行為こそが戦争の本質であり、この命題がクラウゼヴィッツの議論にとって出発点になっています。

戦争における目的と手段の必然性
次にクラウゼヴィッツは戦争=拡大された決闘に、どのような目的があるのか、どのような手段で遂行されるのかを考察しています。
「このような強力行使は、諸種の技術および科学の一切の発明を援用して装備に努め、持って相手の強力行使に対抗しようとするのである。なおこの強力行使は、国際法的慣習と称せられる幾多の制限を伴うけれども、しかしこれらの制限はいずれも微力であって殆んど言うに足りないものであるから、強力行為に本来の強制力を本質的に弱めるに至らないのである。それだから戦争においては、かかる強力行為、即ち物理的強力行為は(中略)手段であり、相手に我が方の意志を強要することが即ち目的である」(同上)
つまり、戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、「物理的強力手段」がその手段として用いられるのが戦争であるとクラウゼヴィッツは論じているのです。

この考察で我々が注目すべきは、クラウゼヴィッツが戦争の目的と手段との間には必然性があると指摘したことです。

二人の人間が決闘に至る経緯はさまざまでしょう。不当な理由で財産を奪われた人が奪った人に決闘を挑むこともあれば、単に名誉を傷つけられたという理由で決闘になることもあるでしょう。

しかし、ひとたび決闘が始まれば、そうした理由は背後に後退し、両者は実力を行使して敵に我の意志を強要するかどうかという問題に集中しなければならなくなります。

ここには戦争にだけ見られて、他の社会現象には見られない、独特な必然性があると考えられるのです。

善良さから戦争を誤解すべきではない
クラウゼヴィッツは自分の戦争の解釈に反発を覚える人がいることを予測していました。また、そうした人々が寄せるであろうコメントについても見当がついていました。
「ところで人道主義者たちは、ややもすればこういうことを言いたがるのである。―戦争の本質は彼我の協定によって相手の武装を解除し或いは相手を降伏させるだけでよいのである。なにも敵に過大の損傷を与えるには及ばない。そしてこれが戦争術に本来の意図なのであると、と」(同上、29-30頁)
クラウゼヴィッツが「人道主義者」と呼んでいる論者は平和主義者というわけではありません。

ここで想定されているのは、戦争それ自体を否定する論者ではなく、戦争における武力の行使を最小限度に抑制すべきと考えている論者です。

そうした論者は戦争の目的は敵を消耗させることであり、戦闘を挑むことは必要ないという考え方を持っており、決戦ではなく持久戦に持ち込む方策こそが優れた戦争術だと富んじていました。

クラウゼヴィッツはそのような考え方では戦争の本質を見過ごす危険があることを警告しているのです。
「このような主張は、それ自体としてはいかにも結構至極であるであるが、しかし我々はかかる謬見を打破しなければならない。戦争のような危険な事業においては、善良な心情から生じる謬見こそ最悪のものだからである。物理的強力の全面的行使と言っても、それは決して知性の協力を排除するものではない。それだからかかる強力を仮借なく行使し、流血を厭わずに使用する者は、相手が同じことをしない限り、優勢を占めるに違いない。こうして彼は自己の意志を、いわば掟として相手に強要するのである」(同上、30頁)
この一連の考察を単純化するとすれば、「人道主義者」の戦争観には善良さからくる盲点があるということです。

彼らは戦争で戦う敵が自分たちと同じように、流血の惨事をできるだけ避けようとするはずだと無意識のうちに思い込む傾向があるため、もし敵が想定を超える激しさで武力を行使してくると、我が方としては非常に不利な態勢に置かれる危険があります。

むすびにかえて
クラウゼヴィッツは戦争の残虐性や暴力性という現実を率直に見据えるところから自分の理論を構築しようとしました。

戦争を定義するために、学者の概念や理論を頼ることを避け、「拡大された決闘」という彼なりの定義を準備したことは、その姿勢の現れとも解釈できます。

こうした単純化に基づいてクラウゼヴィッツは戦争の目的と手段との間に論理的な必然性があることを指摘し、それがその背景にある要因をもってしても容易に打ち消すことができないと考えました。

つまり戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、そのために「物理的強力手段」が行使されると説明したのです。

自説に対しては「人道主義者」から批判が加えられる可能性があることをクラウゼヴィッツは認識していましたが、そうした人々については「善良な心情」によって戦争に対する「謬見」を抱いていると批判しました。

彼らは戦争それ自体に独自の力学があることを無視しており、それを無視すれば無制限に武力を行使する敵を目の前にしたときに支配されてしまうと警告しているのです。

戦争は政治の従属的要素という側面もあるのですが、そればかり見ていては戦争を理解することはできません。

戦争には戦争としての独自の力学があり、その上で政治が影響を及ぼしていると考える必要があるとクラウゼヴィッツは説いているのです。

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年