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2017年12月15日金曜日

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

クラウゼヴィッツの研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。
この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。

フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。
しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。

今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究

カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。
著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。
アロンの調査によれば、クラウゼヴィッツがフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。

カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。
その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。

アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。
「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、B.H.リデル・ハートのそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁)
ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容を完全に消化するまでには至らなかったとアロンは述べています。
このことを説明するため、当時のフランス陸軍で影響力があったフォッシュの著作『戦争の原理』を取り上げています。

フォッシュのクラウゼヴィッツ理解

フェルディナン・フォッシュ、フランス陸軍軍人、 1851年10月2日生まれ、1929年3月20日に死去。
軍事学の著作として『戦争の原理』などがあるほか、第一次世界大戦では連合国軍総司令官を務めた。
フォッシュは1900年に行った講演を収録した著作『戦争の原理』を1903年に出版しました。
この著作を読むと、「当時の将校たちがクラウゼヴィッツの包括的な思想を理解することができなくて、彼を戯画化し、しかも、その本質をつかんだと思いこんでいたかが分かる」とアロンは主張しています(同上、31-2頁)。
「彼は、クラウゼヴィッツの定式を取り上げて、「戦争では、戦術的結果だけが利益になる。武器による決着、これだけが有効な判断である。これによってのみ敗者と勝者がきめられるからである」というだけでなく、「最初の行動が、もっとも決定的なものであろう」と考え、また、「火器の改良は、攻撃に、懸命に指揮された襲撃に力を加えるものである。歴史がこれを証明し、水利がこれを解明する」と断ずるのである」(同上、35頁)
アロンに言わせれば、フォッシュは戦術と戦略を明確に区別することもできておらず、クラウゼヴィッツがなぜ戦略的防御と戦術的攻撃を組み合わせることの重要性を論じたのかも理解できていないと指摘しています。

フォッシュにとってみれば、クラウゼヴィッツの思想体系を包括的に解釈するということはたいして重要なことではなかったようです。
フォッシュは「兵力の経済的使用」、「行動の自由」といった自分なりの戦いの原則を擁護し、兵力の戦略的な集中とそれを遂行する司令官の精神の重要性に関する自分の主張を裏付けるためにクラウゼヴィッツを利用したに過ぎませんでした。

戦争そのものへの問題意識の欠如

ユベール・カモン(Hubert Camon)はフランス陸軍軍人、
著作『ナポレオンの戦争体系』(1923年)などの研究業績で知られていた。
アロンは、当時のフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する独断的、一面的な解釈が支配的だったことを指摘し、これがフォッシュの著作だけに見られた傾向ではなかったと強調しています。
「私がフォッシュの著書をここで取り上げたのは、この書がフランスのクラウゼヴィッツ関係図書のなかで特にすぐれているとか、代表的なものだとかいうわけではない。その平凡なところにかえってリュシアン・カルドに続くフランスの将校たちが『戦争論』から学んだ諸観念を、あけすけに示しているところがある、と思ったからである」(同上、39頁)
結局、当時のフランス陸軍が直面していた問題は、いかに決定的な時期、場所に兵力を集中し、敵に対して優勢を確保するかということでした。

つまるところ、当時の軍人にとって戦争と政治は本質的な問題ではありませんでした。
むしろ、戦争が勃発してから作戦部隊がとるべき機動の方式こそが重要な問題と考えられていたのです。

例えば、カモンのような陸軍の著述家が、クラウゼヴィッツを批判し、ナポレオンの戦争術に見られる戦略的包囲を再評価する研究したことも、当時の疑問により直接答える意味合いがありました。

むすびにかえて

フランス陸軍で、フォッシュのようにクラウゼヴィッツの思想に無理解な将校が主流派となって参謀本部を支配し、「1914年の敗北に一部責任のある戦争計画に加担していた」と思われることは驚くにあたらないとアロンは述べています(同上、41頁)。
それは必然的なことであり、だからこそ彼らは戦争においてフランス軍が攻勢をとるべきことを主張し続けたと思われます。

アロンは当時、一部の軍人が陸軍の首脳部と異なる立場をとり、戦略的攻撃に反対したことも紹介していますが、「彼の教えは、当局者の無理解にあって葬り去られた」としています(同上、42頁)。
特定の学派がいったん陸軍の要職を独占すると、それに反する意見を述べることはできなくなっていました。

広い視野で見れば、アロンの議論はフランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の不備を指摘するだけのものではありません。
これは健全な学術研究が硬直的な組織構造に阻害され、それが国家の防衛を危うくする一因になったことを示唆しています。

関連記事

文献案内

  • レイモン・アロン『戦争を考える クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、佐藤毅夫、中村五雄監訳、1978年(この記事で参照している文献、ドイツ、フランス、アメリカなどでクラウゼヴィッツの思想が与えた影響を検討している)
  • Irvine, Dallas D. "The French Discovery of Clausewitz and Napoleon." Journal of the American Military Institute (1940): 143-161.(当時のフランスにおけるクラウゼヴィッツ研究の動向に関する論文であり、アロンが上記の著作でも参照している)
  • Porch, Douglas. "Clausewitz and the French 1871–1914." The Journal of Strategic Studies 9.2-3 (1986): 287-302.(フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究としてより最近の成果を知ることができる)

2017年12月12日火曜日

学説紹介 抑止だけではない懲罰(punishment)戦略―懲罰的脅迫に関するスタンの考察―

安全保障の研究で懲罰(punishment)という概念は、抑止の観点から議論されることが一般的です。
例えば、懲罰的抑止(deterrence by punishment)という用語は、敵国からの攻撃を防止する目的で、敵国に対する反撃能力(例えば弾道ミサイルなど)によって期待される抑止効果を表した言葉です。

しかし、懲罰は抑止だけでなく、例えば脅迫・強制のような対外政策の手法としても活用できます。
今回は、戦略の観点から懲罰全般について考察するため、政治学者アラン・スタン(Allan Stam)の考察を取り上げ、その要点を紹介します。

懲罰的抑止の考え方

スタンは機動戦略や消耗戦略に並ぶ第三の戦略として懲罰戦略を位置付け、その特徴を次のように説明しました。
「国家は攻撃を中止させる懲罰戦略を通じて、攻者の負担を大きく引き上げ、そのことによって自国の防御を測ることが可能である。これは相互確証破壊(mutual assured destruction, MAD)の概念に基づく威嚇の一種である。MADのおいては、国家が核兵器で攻撃するとしても、攻者の本土に対して反撃を加えることが可能である。この反撃は防者を打倒することから得られると見込まれる利益をはるかに上回る負担を攻者に負わせることになる」(Stam 1996: 83)
ここで説明されているのは、懲罰的抑止の考え方そのものです。
侵略に踏み切れば、反撃によって確実に本土に甚大な被害が生じる状況に置かれていれば、その政府は自ら進んで戦争に踏み切ることは避けると予測されます。

なぜなら、侵略を行った場合に期待される利益が、反撃で生じる損害によって相殺されるので、合理的ではなくなるためです。
ここでの反撃能力としては核兵器が一般的に想定されますが、スタンは通常兵器であってもその損害が十分であれば反撃能力を満たすことは可能であると考えています(Ibid.)。

懲罰的脅迫の考え方

スタン自身は懲罰的脅迫という用語は用いていませんが、より強引な強要を目的として懲罰を活用することは可能だと考えていました。
つまり、国家は懲罰戦略を用いて現状を変えようとすることもできる、ということです。
「この戦略において、攻者は防者の国家の決定を覆させることが可能だと確信している。ある形態において、攻者は通常であれば航空機やミサイルによってこれを試みる。この戦略は第二次世界大戦の前にドゥーエとミッチェルの理論的研究によって導き出されたものである。ニクソン政権では、米国がベトナムで戦争の後期になってからこの種類の戦略を採用した。その際、米国は地上部隊の大部分を本国に撤収し、一連の懲罰的爆撃によって敵国政府を屈服させようと強制を図った」(Ibid.: 85)
またスタンは歴史的事例として、第二次世界大戦におけるドレスデン、東京、ロンドンに対する戦略爆撃もこの懲罰戦略に基づく攻撃であったと解釈できると述べています(Ibid.)。
また興味深い点として、スタンは毛沢東のゲリラ戦の思想でも懲罰戦略の特徴があるとも指摘しています(Ibid.)。
つまり、懲罰の手段となるのはミサイルや爆撃機ばかりではなく、一撃離脱で敵に損耗を与え続けるゲリラも同様の効果をもたらすことができるということです。

このように考えていくと、懲罰は敵からの攻撃を抑止する目的だけでなく、敵に対して我が方の要求を受け入れさせる目的でも適用することができます。
懲罰戦略に基づく攻撃は大規模な戦争を前提としていないため、ある意味では機動戦略や消耗戦略のような戦略よりも柔軟に用いることができるでしょう。

むすびにかえて

いったん懲罰戦略とは何かを理解すれば、それが対話と圧力を組み合わせた戦略であることが分かります。
その狙いが抑止であれ、脅迫であれ、懲罰戦略をとる国家が計画的に状況をエスカレートさせる必要があり、しかもそれは慎重に計画されたエスカレーションでなければなりません。

現代の戦略学は戦争で敵を打倒することが全てではありません。戦略は達成すべき政治的目的や、その国家が置かれている政治的環境の特性に応じて、利用可能な軍事行動のオプションを示すことが重視されるようになっています。
スタンの考察は懲罰戦略というオプションを理解する上で参考になると思います。

参考文献

Allan C. Stam III, Win, Lose, or Draw: Domestic Politics and the Crucible of War, University of Michigan, 1996.

2017年12月8日金曜日

学説紹介 戦場で小隊長は何をしているのか―歩兵小隊の組織構造と小隊長の役割について―

時代や地域を超えて、歩兵部隊は常に陸軍の中核的戦力であり続けてきました。
歩兵は文字通り最前線において徒歩で近接戦闘などを遂行する兵科であり、主たる武器は小銃、機関銃、迫撃砲です。

今回は、そんな歩兵小隊がどのように編成されているのかについて、米軍の教範を参考にしながら、戦術の観点から解説してみたいと思います。

そもそも歩兵小隊とは何か

標準的な陸軍の編制として、小隊は分隊の上位、中隊の下位に位置付けられる部隊です。
部隊の規模もさまざまですが、30名から50名程度で編成される場合が多いようです。

現在の米軍の教範では、その組織について次のように説明されています。
「歩兵小隊は、3個の歩兵分隊、武器分隊、小隊本部によって編成される。小隊本部は小隊隷下の分隊及び随伴する部隊を指揮統制し、火力支援システムと後方支援システムとの連絡調整を行う。すべての歩兵小隊は戦闘において教義として定められた同じ基本原則を用いるが、それらの原則を応用する方法については、任務を割り当てた部隊によって異なる」(FM 1.11-1.12)
米軍では歩兵分隊の規模が9名とされ、小銃、自動小銃、擲弾などの装備を使用する人員で編成されるのですが、武器分隊(Weapon Squad)だけは機関銃、対戦車誘導弾といった装備を運用する人員がおり、必要に応じて通常の歩兵分隊を支援できるようになっています。さらに小隊本部には小隊長をサポートする小隊陸曹、小隊無線手がいます。
歩兵小隊は小隊本部(PLT HQ)、3個の歩兵分隊、武器分隊(WPN SQD)で構成されている。
小隊本部には小隊長、小隊陸曹、無線通信手が、武器分隊には機関銃班、対戦車班がある。(FM 31-8: 1.12)を参照。
以上が歩兵小隊の大まかな組織構造であり、状況にもよりますが、攻撃の時には100メートルの正面にわたって分隊を展開し、防御の時にはその2倍の正面を担当する場合もあります。
こうした数値を踏まえると、小隊という部隊の規模は交戦の際に全体を一目で見通すことができる、ぎりぎりの規模だと言えるかもしれません。
したがって、小隊長の仕事として求められるのは、現場で状況の変化に素早く反応し、必要な指揮をとることであると理解することができます。

小隊長は何をすればいいのか

さて、この小隊で小隊長が具体的に処理している仕事は何なのでしょうか。
当然、小隊を指揮しているのですから、任務の遂行に必要な命令を達し、その実施状況を監督することが基本ですが、それだけでは言い尽くせないほど様々な業務があります。

ここでは教範で小隊長の仕事がどのように規定されているのかを見てみましょう。
・上級司令部の任務を支援するように小隊を指揮する。小隊長は与えられた任務と、上級指揮官の意図、構想に基づいて行動をとる。
・分隊を機動させる。
・分隊の活動を協同させる。
・小隊の次の行動について見通しを立てる。
・支援のための装備を要請し、それを統制する。
・分隊と小隊が利用可能な指揮統制システムを運用する。
・全方向に対する警戒を実施する。
・重要な武器の配置を統制する。
・正確かつ時期に適った報告書を上級部隊に提出する。
・任務の遂行に最も必要とされる場所に赴く。
・分隊に明確な任務、目標を割り当てる。
・二段階上級の部隊(中隊、大隊)が意図している事柄を理解する(Ibid.: 1.12-1.13)。
小隊長が処理すべき仕事の内容が多岐に渡ることが分かります。
歩兵分隊、武器分隊が運用している武器の特性を十分に理解していることは当然のことですが、それらを使って、いつ、どこに、どれだけの火力を集中するべきなのか、そのために分隊をどこに配置し、どのように移動させるべきなのか、そして刻々と変化する状況で自分がどこにいればよいのか、こうした判断が求められることになります。
小隊長に任されるのは、将校として階級が最も下の少尉ですが、将校になったばかりの若者にこれほど複雑な仕事を立派にこなすことは非常に難しいことです。

そのため教範では、小隊長はこれらの業務を遂行するに当たり、小隊に関するあらゆる問題を小隊陸曹と相談するように述べられています(Ibid.: 1.12)。
小隊陸曹は歩兵小隊、歩兵分隊の戦術問題の専門家として小隊長に必要な助言を与える役割もあり、小隊長が指揮を執れなくなった場合には、その指揮権を引き継ぐ場合も想定されているためです(Ibid.: 1.13)。

むすびにかえて

陸軍の歴史を振り返ると、小隊が戦術上の単位として重要性を帯びるようになったのは、第一次世界大戦からのことだとされています。(文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか
長い戦争の歴史から見れば、比較的最近のことだと言えますが、もはや現代の陸上作戦を遂行するためには、よく訓練された歩兵小隊が欠かせなくなっています。

ちなみに近年では小火器の射程や威力の向上、通信手段の発達などの影響で、歩兵分隊の役割が増大するという議論もあるのですが、やはり大規模な戦闘に対応する上で歩兵小隊の意義は依然として大きなものがあると言えるでしょう。

KT

関連項目

文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

参考文献

U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年12月1日金曜日

学説紹介 近代的な戦略の概念が成立するまでの学説史

戦略とは基本的に政治的目的を達成するために武力をどのように運用するかを既定するものであり、軍事学の基本概念の一つとして広く知られています。
しかし、軍事学の歴史でこの概念が登場したのは18世紀の後半であり、新しい部類であることはあまり知られていません。

今回は軍事思想史の研究で知られる片岡徹也が戦略概念の成立をどのように整理しているのかに着目し、その議論を紹介したいと思います。

マイゼロアの先駆的業績

フランス学士院の正面。マイゼロアは軍事史の研究で高く評価された学者でもあり、古代の戦争術に関する著作が認められると王立アカデミーへの参加も認められた。
戦略という言葉はもともとギリシア語のstrategus(将帥)に由来するのですが、この用語が軍事学の文献で普及し始めたのは18世紀に入ってからのことだとされています。
片岡はフランス陸軍の軍人だったマイゼロア(Paul Gideon Joly Maizeroy, 1719 - 1780)が戦略という用語を新しく導入した経緯を次のように述べています。
「流通の契機を作ったのは、フランス陸軍の軍人で古戦史の研究者でもあったド・マイゼロア(1719-1780)である。彼はビザンチン帝国レオーン六世が900年頃に執筆したと推定されるTacticaの最初のフランス語訳を1770年に公刊し、さらに6世紀のビザンチン皇帝マウリキウスが将軍時代の578年頃に執筆したと推定される著書Strategiconの表題に着想を得て、Strategiesの語を新しい概念を表現として初めて1777年の自著『戦争の理論』のなかで用いた」(片岡、152-3頁)
こうして戦略という用語が軍事学の文献に登場するようになったのですが、マイゼロアは戦略と戦術を現代の私たちとかなり異なった意味で区別していました。
というのも、マイゼロアは戦争術の中で原理原則により教育可能な領域とそうでない領域を区別し、前者を戦略、後者を戦術と考えたのです(同上、153頁)。

これは明らかに現代の軍事用語としての戦略の意味と似て非なるものです。
マイゼロアは戦略という用語の提案者ではありますが、現代の私たちが考えるような戦略思想家だったというわけではありませんでした。

ビューローによる再定義

ビューローは短期間兵役に就いた後は主に著述に取り組んだ。フランスで革命が起きた時から、ヨーロッパ征服の可能性を予見し、プロイセン陸軍の改革を主張したが、受け入れられることなかった。
片岡の研究によれば、現代の意味に近い意味で戦略という概念を定義した功績はドイツのビューロー(Dietrich Adam Heinrich von Bülow, 1757-1807)に属すると考えられています。ビューローの研究業績に関して片岡は次のように整理紹介しています。
「そして今日の「戦略」と「戦術」を対概念で用いる用例を確立したのは、ドイツ人ビューローの功績である。彼ははっきりとTaktiksの意味を変更して、「戦略」と並ぶ軍隊を操縦する術という意味に用い、いわゆる用兵は「戦略」と「戦術」に区分されると主張した元祖である。そして対概念としての「戦略」と「戦術」はビューローや他のドイツ語文献を通じて19世紀の間にヨーロッパ各国に浸透し、受け入れられていった」(同上、153頁)
当時、ドイツ語圏でもマイゼロアの著作は読まれていましたが、ビューローはあえてマイゼロアの定義した戦略と戦術の意味から離れました。

ビューローの説では「戦略を「敵の視界外もしくは火砲の射程外の作戦行動」、戦術を「これらの範囲内のあらゆる作戦行動」と定義」されており、作戦部隊が戦闘状態に入る前の活動を戦略で定め、戦闘状態に入ってからの活動については戦術の領域として取り扱うことになったのです(同上)。

ただし、まだ私たちが考える戦略概念とかけ離れている部分があるとすれば、それは「視界」や「射程」によって戦略と戦術を区別していることしょう。
技術的条件が変化し、部隊行動を広域的に監視できるようになった場合のことや、武器の射程が延伸する技術的可能性をビューローが考慮していなかったことは明らかでしょう。

ビューローの研究では、戦略と戦術の概念に不確かな部分が残されることになったのですが、この問題は間もなくクラウゼヴィッツの批判によって明らかにされることになりました。

クラウゼヴィッツによる概念の発展

マイゼロアが提唱した用語をビューローが再定義し、クラウゼヴィッツはそれを軍事理論の中で洗練させた。戦略と戦術の区別を敵との接触の有無に求める方法を捨て、本質的に異なる領域のものとして戦略は戦争全体を見通し、戦術は戦闘に着目するという分類を確立した。
マイゼロアから始まり、ビューローで再定義された戦略概念は、クラウゼヴィッツの理論の下でより明確な規定が与えられることになります。
この点で片岡はクラウゼヴィッツが近代的な戦略概念を完成させたものとして位置付けており、その業績は次のように要約されています。
「ビューローの功績を認めつつも、さきの彼の戦略の定義が恣意的であると批判したのがクラウゼヴィッツである。 『戦争論」第2篇第1章で彼は戦闘において兵力を使用する手立てが戦術、戦争目的を達成するために戦闘を使用するのが戦略と定義を下している。さらにクラウゼヴィッツは第2篇第2章で戦略と戦術の目的と手段の性格を明瞭に分けて理解する必要があることについて強調している。彼によれば戦術の手段は戦闘を遂行するべく訓練を積んだ兵力、目的は勝利である。だが戦略にとって本来、戦術的勝利は手段の一つに過ぎないとクラウゼヴィッツはいう」(同上、154頁)
クラウゼヴィッツの戦略概念はビューローが定義した戦略概念よりも一般的であり、また実際的な価値もありました。
戦術においては敵との戦闘で勝利することが任務遂行の判断基準となりますが、戦略ではそうした勝敗が持つ意味は戦争を取り巻く情勢によって変化することがよく考慮されているのです。

これはクラウゼヴィッツが戦争を軍事的観点だけでなく、国家が遂行する政策の一部として考えなければならないと考えていたことと関係があり、片岡は「戦略の究極の目的は講和にあると彼は考える。戦場の勝利は講和の達成という戦略の目的に寄与したときに戦略の手段としての意味を持つ」と解説しています。

クラウゼヴィッツにとって戦略とは、ある政治的目的を達成するために戦闘行動とその結果を利用することだと考えられていたため、、戦略の成否は戦闘の勝敗で測れる性質のものではなかったということです。

むすぶにかえて

マイゼロアからビューローを経てクラウゼヴィッツに至る戦略概念の成立史をたどると、18世紀後半から19世紀前半にかけて軍事学が学問として急激に体系化されていった経緯をうかがい知ることができます。
基地や作戦線など、今では当たり前に使われている軍事学の基本概念の多くがこの時代の軍事学者の研究によって生まれており、戦略という概念もそうした研究活動の中で会い乱された概念でした。

その後、現在に至るまでに戦略という概念はさらにさまざまな研究者によって再定義、再検討が行われており、例えば大戦略と軍事戦略といった細分化も行われているのですが、こうした議論もすべて戦略という概念がなければ成り立ち得なかったでしょう。
時折、こうして現在では当たり前に使っている概念の歴史をたどると、私たちの議論が多くの学者の研究成果に支えられていることを改めて考えさせられます。

KT

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学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則

参考文献

片岡徹也『軍事の事典』東京堂出版、2009年

2017年11月25日土曜日

学説紹介 第一次世界大戦にまで及んだナポレオンの戦略思想の影響

軍事思想の歴史においてナポレオンほど長期的影響を及ぼした人物は見当たりませんし、今後そのような人物が再び登場するということは恐らくあり得ないでしょう。
というのも、彼の思想的影響はナポレオン戦争が終わってから1世紀近くが経った後で起きた第一次世界大戦でさえ見られたためです。

変化が激しい軍事という領域でほぼ100年にわたって強い影響力を維持することは珍しいことであり、ナポレオン自身が著作を書き残していないという事実も総合して考慮すると、軍事学の歴史で他に例がない事象と言えます。(彼の軍事的箴言を別人がまとめて研究資料とした著作はありました)

今回は、ナポレオンの歴史的影響について考察するため、第一次世界大戦の時代のヨーロッパの軍事思想に与えた影響について考察した研究者ピーター・パレットの説を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

ナポレオンの思想は19世紀の軍事理論の基礎の一つ
フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven, 1855-1924)
ナポレオン戦争の歴史に関する研究で知られている。
パレットは第一次世界大戦の直前に書かれた三つの著作を取り上げ、それぞれの中でナポレオンの軍事思想がどのように取り扱われているのかを紹介しています。

本文では名前が伏せられていますが、パレットが最初に取り上げているのがドイツ陸軍軍人フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven)です。
彼は軍事史の観点からナポレオン戦争の研究に取り組み、その戦略思想をドイツで紹介する上で重要な役割を果たしました。
「第一次大戦で高級指揮官となるドイツの大佐が1910年に『ナポレオンの統帥とその現代的意義』と題する本を書き、その序言の中で、「ナポレオン時代の多くのものは時代遅れになったが、彼の戦争の研究はわれわれにとって依然として最大の価値がある。なぜなら、これらの戦争の教訓は今日の軍事思想の基礎を形成しているからだ」と宣言した。2年後に、ドイツ参謀本部の戦史部長は、1813年秋の戦役間にナポレオンが出した命令や公式通信文は、「今日においてさえ……すべての種類の軍事活動の実態に迫る無尽蔵の資料の源であり、19世紀の軍事理論の基礎の一つである」と述べた」(パレット、125頁)
フライターク・ローリングホーフェンは、ナポレオンの戦争術のいくつかの側面が今日では陳腐化していることを認めているため、理論と現実のバランスをとっています。
ただし、それでもナポレオンの戦争術が持つ本質的価値が失われることはないと強く確信し、これを学ぶことの意義を強調し続けました。

ちょうど彼はそれができる立場にあり、1887年から96年まで陸軍大学校で軍事史を教えていました。
そこでの教育を通じて、彼はドイツの軍人にナポレオンの軍事思想が持つ普遍的価値を広く知らしめることができたのです。

しかし、ナポレオンの戦争術に注目し続けていたのはドイツだけではありません。フランスでは20世紀に入ってからも、こうした傾向がより強く残っていたのです。

20世紀においてもナポレオンの戦争術は適用可能
20世紀初頭には、コランだけでなく複数の研究者が砲兵火力の飛躍的な増大に伴って戦闘様相が大きく変化する可能性を指摘していたが、この論点に関する学界での見解は必ずしも一様ではなく、ナポレオンの戦略思想の影響は依然としてフランスでは健在だった。
フランス陸軍軍人ジャン・コラン(Jean Colin)はナポレオンの戦争術に関する重要な議論を展開したことで知られており、その中にはナポレオンに対して批判的内容も含まれていました。
しかし、コランは依然としてナポレオンの戦争術には実践的な価値があると考えており、次のように論じています。
「フランスでは同じ時期に、ジャン・コランが、ナポレオンの翼側攻撃と日露戦争の同様な作戦を比較したなかで「われわれはナポレオンの実際の機動を真似することはできないものの、それから感じとるものがなければならない」と述べた。さらに彼は、「ただただ奴隷のように形を真似るだけではなく、それ以上を理解しうる者にとっては、霊感を得るモデル、反省の対象、20世紀においても適用できる考え方を提供するのはやはりナポレオン戦争であろう」とまで述べた」(同上、126頁)
コランは技術的進歩によって戦争の様相が大きく変化しつつあることを認識していた軍事学者であり、ナポレオンの戦争術の実効性を部分的に肯定していた理由はそれほどはっきりしていません。
20世紀の初頭におけるフランス陸軍においてナポレオン支持派の影響力が強かったため、それに反する議論を出すことが難しかったのかもしれませんが、これは推測の域を出ない話です。

もちろん、第一次世界大戦で多くのフランス軍人が戦闘を経験すると、ナポレオンのような19世紀の軍事思想に価値があるのか疑問を呈する声も出てくるようになりました(同上)。
この時点でナポレオンの戦略思想の影響力は消滅すると思われるところですが、第一次世界大戦の後でさえもフランス陸軍ではナポレオンの戦争術を熱心に擁護する論者がいました。

第一次世界大戦はナポレオン的機動
フランスのカモンはナポレオンの戦略を高く評価し、第一次世界大戦の東部戦線でルーデンドルフ(写真)が収めた勝利も彼の「ナポレオン的」な運用によるものだと論じた。カモンはフランスで名が知られた著述家だったが、英米圏では現在に至るまであまり評価されていない。
フランス陸軍軍人であり、参謀本部にも勤務したユベール・カモン(Hubert Camon)は歴史学者としての顔も持つ人物で、業績としては著作『ナポレオンの戦争体系』(1923年)で知られています。
カモンは戦略としての「ナポレオン的機動」を非常に重視しており、第一次世界大戦で成功した作戦はいずれもこの機動を採用していると主張していました。
「しかし、いまや古典的となった考え方を弁護して、フランス参謀本部の将校でかつ歴史家であるユベール・カモン将軍は、ナポレオン的戦略の妥当性が継続していることを再び断言するとともに、さらに、第一次世界大戦の最も成功した作戦に、ナポレオン戦略が直接の影響を及ぼしたと主張した」(同上)
つまるところ、カモンは第一次世界大戦で実施されたあらゆる作戦の成否をナポレオンの思想から説明がつくと考え、第一次世界大戦によってナポレオンが主張したことの妥当性が強いことを立証しようとしたのです。カモンの文章から一部を引用します。
「塹壕戦は初期のドイツ軍の機動(ベルギーを経由した北フランスへの侵入)が阻止されるまでは支配的にはならなかった。この機動は1812年のナポレオンの初期の作戦にヒントを得たものである。この機動が阻止されたのは、1914年に利用可能な手段がナポレオン的機動のシステムを時代遅れのものにしたのではなくて、実行の要領が拙劣だったからだ」(同上)
限りなく後知恵に近い論法だと言わざるを得ませんが、軍事思想史という観点からこの文章の意味を理解すると、20世紀のフランス陸軍においてナポレオンの思想がどれほどの影響力を保持していたのかをうかがい知ることができます。

ちなみにカモンは東部戦線で戦果を上げたドイツ陸軍のルーデンドルフ(Erich Ludendorff)の作戦については「ナポレオン的機動」と評価し、同じくドイツ陸軍のファルケンハイン(Erich von Falkenhayn)についてはナポレオン的機動を理解できていなかったと批判しています(同上)。

カモンの議論はあまりにも画一的、一面的な解釈であり、現代の歴史学者、軍事学者でカモンの説を支持する論者はいないでしょうが、20世紀に「ナポレオンの亡霊」がヨーロッパで勢力を残していたことを示す言説として興味深い内容だと思います。

むすびにかえて
パレットの研究は、第一次世界大戦の軍事学者の間でさえ、ナポレオンの思想的影響が根強く残っていたことを明らかにしています。
しかし、パレットはそれほどまでにナポレオンが影響力を残した理由については十分に明らかにはできていません。

パレットが仮説として述べているのは、当時の世界の軍事思想の潮流として、兵力の集中と絶対的勝利に対する固執、つまり限定戦争を拒否する軍事思想に、歴史的な権威や承認を与える必要があったのではないか、という可能性です。
確かに20世紀初頭になると、もはや全面的な戦争は不可能という考え方が出始めていました。こうした思想に抵抗しようとする人々にとってナポレオンは都合のよい偶像だったのかもしれません。

これはあくまでも仮説の一つに過ぎず、パレット自身も「これらすべては推測である」と述べています。ナポレオンが20世紀初等の軍事学の動向に与えた影響をより詳細に明らかにすることが将来の研究課題の一つと思われます。

KT

関連項目
学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」
文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか
学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

参考文献
ピーター・パレット「ナポレオンと戦争の革命」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、111-128頁

2017年11月21日火曜日

学説紹介 防衛経済学(defense economics)という学問がある

防衛経済学(defense economics)は経済学の理論や方法を防衛問題に適用する研究領域です。
そこで扱われているテーマは実に多種多様であり、軍拡競争の分析もあれば、防衛予算の変化がマクロ経済に与える影響、防衛産業基盤をめぐる問題も含まれています。

今回は、防衛経済学が軍事学の分野として成立した経緯を紹介し、そこで登場した代表的な文献にどのようなものがあるのかを紹介したいと思います。

第二次世界大戦の経験

もともと防衛経済学は第二次世界大戦における人的資源と物的資源の最適な配分を研究するために米国で生まれました。
この背景には、米国が1941年に参戦してから国家総動員の一環として各地の大学から学者を集め、さまざまな調査研究に従事させていた事情がありました。
これは軍事学という軍人だけが研究していた分野に、多くの文民研究者が参画する契機となったのです。

当初、防衛経済学の研究は兵站管理の研究が主流だったのですが(Lincoln 1954)、やがて潜在的な敵国の兵力を弱体化させるため、どうやって経済力を低下させるべきかという問題も取り扱われるようになり(Knorr 1956)、戦略爆撃の効果をマクロ経済の手法で見積る研究もこうした潮流の中で生み出されました(U.S. Strategic Bombing Survey 1945-6)。

第二次世界大戦を通じて経済学が国防問題を解決する上で有用であることが認識されると、防衛経済学を一つの学問として体系化する動きが出てきました。
その過程で防衛経済学の対象は経済に関する問題だけでなく、戦略学といった軍事学の中核的領域にまで広がるようになりました。

冷戦期の防衛経済学の成長

防衛経済学の概説書として今でも古典的業績と見なされている著作にヒッチとマケインが1960年に刊行した『核時代における国防経済学(The Economics of Defense in the Nuclear Age)』が挙げられます。
この著作は経済学の概念を防衛問題に応用するための方法が系統的にまとめられており、防衛経済学を一つの学問として確立する上で重要な一歩となりました。

1960年代には、これに続いて防衛経済学の優れた研究が相次いで出されています。
軍拡競争のメカニズムを理論的に分析したリチャードソンの『軍備と危険(Arms and Insecurity)』(1960)や、ゲーム理論に基づく抑止の分析方法を確立したシェリングの『紛争の戦略』、防衛調達市場における武器調達の問題を検討したシェーラーの『武器調達過程(The Weapons Acquisition Process)』(1962)は、いずれもその後の防衛経済学の研究者が基本文献とする優れた業績でした。

これらの研究成果の内容からも分かるように、すでに1960年代の段階で防衛経済学の研究対象は戦時経済や防衛産業の問題だけでなくなります。
防衛経済学はあらゆる軍事問題について議論するようになり、軍事学における防衛経済学の地位は確固としたものとなりました。

その後、防衛経済学は研究領域の細分化に進み、同盟理論、抑止理論、軍拡競争、防衛調達、兵役制度、軍需産業、武器貿易、軍事予算などの研究へと発展していくことになるのですが、その詳細はまた別の記事で取り上げたいと思います。

文献案内

より深く防衛経済学を学びたいなら、まずはサンドラー、ハーストの『防衛の経済学(The Economics of Defense)』(1995)を一読するべきでしょう。(文献情報については下記の参考文献を参照)
1995年出版のため少し内容が古くなっていますが、防衛経済学の研究を幅広く取り上げ、その論点を分かりやすく提示した上で、いくつかの重要な学説について要約しており、入門者にとって有益な内容です。
ただし、基本的な経済学の知識がある読者を想定して書かれているため、内容には一部難解な部分が含まれています。

1960年に出たヒッチとマケインの『核時代の国防経済学』は邦訳が出ているので、最新の研究動向を踏まえた内容でなくてもよい方は、こちらの文献の方が分かりやすいかもしれません。古典的著作とされるだけあり、目新しさはありませんが、巧みな解説が見られます。

2007年に出たポースト『戦争の経済学』は抑止や同盟といったテーマを取り扱っていませんが、比較的最近刊行された文献ということもあり、入手しやすい入門書と言えます。
狭い分野しかカバーしていないため、防衛経済学の研究領域を概観するには問題がありますが、数式も少なく抑えられており、読みやすい文献だと思います。

日本における防衛経済学の研究動向は全般として低調であり、入門者を想定した教科書や参考書を見つけることは極めて困難な状況です。
長い時間がかかるでしょうが、こうした現状は一歩ずつ改善しなければならないでしょう。防衛経済学は現代の軍事学にとって欠かすことができな重要な研究領域の一角を占めており、より多くの人々にこの学問を認知してもらう必要があると思います。

KT

参考文献

文献案内で紹介した文献
Todd Sandler, Keith Hartley, The Economics of Defense, Cambridge University Press, 1995.(『防衛の経済学』深谷庄一監訳、日本評論社、1999年)


 Charls Hitch and Roland McKean, The Economics of Defense in the Nuclear Age, Harvard University Press, 1960.(『核時代の国防経済学』前田寿夫訳、東洋政治経済研究所、1967年)


Paul Poast, The Economics of War, McGraw-Hill, 2006.(『戦争の経済学』山形浩生訳、バジリコ、2007年)



その他の文献
K. Knorr, The War Potential of Nations, Princeton University Press, 1956.
Lewis Richardson, Arms and Insecurity: A Mathematical Study of the Causes and Origins of War, Homewood, 1960.
G. Lincoln, Economics of National Security, Prentice Hall, 1954.
Thomas Schelling, The Strategy of Conflict, Harvard University Press, 1960.(『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス 』河野勝訳、勁草書房、2008年)
M. Peck and F. Scherer, The Weapons Acquisition Process, Harvard University Press, 1962.
U.S. Strategic Bombing Survey, The Effects of Strategic Bombing on the German (Japan's) War Economy, U.S. Department of the Air Force, 1945-6.

2017年11月17日金曜日

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。

最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。
これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。

イギリスの学者ベイジル・リデル・ハートが検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。

最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた

ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて
まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。
そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。
「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁)
こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。
ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。

結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送りにしました(同上、269頁)。

つまり、1941年6月22日にドイツ軍がソ連国境を越えた時も、ドイツ軍の主力がソ連のどこに向かおうとしているのかは、はっきりと決まっていなかったということです。

先送りにした問題が再浮上した7月

1941年6月22日から1941年12月5日までの状況推移
黄色の地域が7月までにドイツ軍が到達した地域を表している。その後、ドイツ軍は中部の部隊の一部を南部に転進させるなど、戦力運用に一貫性を欠いた。
6月にバルバロッサ作戦が始まると、ドイツ軍は国境地帯を突破することに成功し、目覚ましい戦果を上げました。
作戦の発起から6日しか経っていない6月29日の時点で、ドイツ軍の部隊がミンスク(現在ベラルーシ首都)に到達し、そこで30万名近いソ連軍の捕虜を獲得したことも、当時のドイツ軍の快進撃の結果でした(同上、269-270頁)。

しかし、7月に入ると次第にドイツ軍は兵站の問題に悩まされ始めます。北方の戦線ではバルト諸国の森林地帯で進撃の速度が失われ始め、中部の戦線ではソ連軍が頑強にドイツ軍に抵抗し、南部では広大な湿地帯で部隊間の連絡に支障が出始めました。

戦略的に考えれば、どの攻撃目標を重視するかを判断し、戦力の集中が必要な局面であり、ブラウヒッチュはやはりモスクワ攻撃を急ぐべきとの判断から中部に戦力集中を考えていました。しかし、ここでヒトラーとの意見対立が再度、表面化します。
「しかし、ヒトラーは、レニングラードとウクライナを主目標として取上げる自己の最初の構想を実行に移すべき時機が到来したと考えた。彼は、レニングラード及びウクライナの重要性のほうをモスクワよりも上位に格付けするに際しては、将軍らの間に居た彼への批判者の大部分が思ったように、レニングラード及びウクライナの経済的効果と政治的効果を考えていただけではなかった。彼は超特大の規模のカンネのような作戦を心に描いていたようである」(同上、271頁)
こうして7月19日にヒトラーは新たな命令でレニングラードとウクライナ方面に部隊を転進させ、ブラウヒッチュもこれを受け入れますが、モスクワ攻撃の必要性はその後も一貫して主張し続けます(同上、271-272頁)。

ブラウヒッチュに譲歩したヒトラー

1941年のモスクワ、ドイツ軍の攻撃に備えて、道路が封鎖されている
ヒトラーが求めたレニングラードにドイツ軍の部隊が到達するのは8月末のことですが、戦力が十分ではなく、陥落させることができませんでした(同上、273頁)。
北部の戦況に比べれば、南部のウクライナでは順調にドイツ軍は攻撃を続け、9月17日、キエフを占領することに成功し、20万名を超える捕虜を獲得しています(同上)。

この8月から9月にかけての情勢変化と関連して重要だったのは、ヒトラーがブラウヒッチュの主張する作戦方針を部分的に受け入れ始めたことです(同上、273-274頁)。
9月にはヒトラーは自らの考えを修正し、レニングラード攻囲戦とウクライナでの戦果拡張が続く中で、10月にモスクワ攻撃の必要を認めるに至ります。
しかし、これは積極的な賛成というより、ブラウヒッチュの執拗な主張に対する譲歩と呼ぶべきものであり、ヒトラーはモスクワ攻撃が成功するのか懸念を持っていたようです。
「一般に考えられていたことと反対に、ヒトラー自身は 、モスクワ占領への継続的努力を強いる原動力ではなかった。最初から彼は、モスクワを他の諸目標よりも重要性の少ないものと見なしていたし、彼はモスクワの方向に行なう遅れ走せの十月攻勢を裁可するにはしたが、それについての新たな危惧を再び抱いていた」(同上、274頁)
事実、当時のドイツ軍の戦闘力は極度に低下し、ソ連軍が守るモスクワを正面から攻め落とせるかどうか厳しい状況でした(同上)。
ブラウヒッチュ自身もこの問題を認識していましたが、それまで再三にわたりヒトラーにモスクワ攻撃を進言してきたので、今さら作戦中止を提案することに躊躇したとリデル・ハートは述べています(同上)。

むすびにかえて

その後、ドイツ軍はモスクワ攻撃に失敗し、ブラウヒッチュはすべての責任をヒトラーから押し付けられる形で罷免されました(同上、275頁)。
こうして、ソ連は存亡の危機を脱し、ドイツは短期決戦に持ち込む機会を失うことになります。

ここでは個人の責任問題に立ち入らず、リデル・ハートが指摘した敗因をまとめておくだけにしておきます。
リデル・ハートはバルバロッサ作戦の失敗が「最高指導層における意見の分裂」によるものであり、それは起こるべくして起きた災難だったと考えました(同上、275頁)。
ヒトラーとブラウヒッチュの意見対立は、国境地帯を突破した後のドイツ軍の行動を事前に規定することを妨げただけでなく、攻撃目標に関する一貫した決定を妨げたのです。
結果として、ドイツ軍の作戦はヒトラーとブラウヒッチュのどちらにとっても中途半端なものになってしまいました。

これが戦いの原則の一つ「目標の原則」に反していることは明らかです。
当時のソ連軍の健闘があったこともよく考慮しなければいけませんが、ドイツ軍のバルバロッサ作戦が終わりに近づくにつれて行き詰まりを見せたのは、その作戦計画そのものが不完全な状態だったからだと言えるでしょう。

KT

関連項目

学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則
学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―
論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

参考文献

Liddell Hart, B. H. 1967(1954). Strategy. Second Edition. London: Faber & Faber.(邦訳『戦略論 間接的アプローチ』森沢亀鶴訳、原書房、1986年)

 

2017年11月10日金曜日

学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―

プロイセンの軍事学者として知られるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、かつて戦争と政治の関係について重要な学説を提起したことで知られています。

彼の命題はその後の軍事学者の間で繰り返し参照されることになり、政治の観点から戦争を研究する意義を指摘したクラウゼヴィッツの思想を表わす記述として知られるようになりました。

しかし、クラウゼヴィッツは具体的に何を論じていたのかという点については、よく分からない方も少なくないと思います。

今回の記事では、クラウゼヴィッツの戦争観が読み取れる記述をいくつか紹介し、政治と戦争の関係に関する彼の思想を紹介してみたいと思います。

戦争は政治の道具である

クラウゼヴィッツの軍事思想の特徴は、戦争が政治の道具であり、政治が示した目的を達成するために戦争は遂行されるという関係をはっきりと規定したことにあります。
「そこで戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国の政治的交渉の継続であり、政治における手段とは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。
 してみると、戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に固有の性質に関連するものだけである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上、58頁)
クラウゼヴィッツが述べた通り、戦争が政治の道具であるならば、戦争において用いられる手段、つまり軍隊や武器に特有の性質が多少関連するとしても、それは必ずしもその戦争を理解する上で重要なものではありません。

もちろん、クラウゼヴィッツは軍事力を運用する上で直面するさまざまな問題や制約を理解していましたが、「かかる要求が政治的意図にどれほど強く反映されるにせよ、そのようなものがいちいち政治的意図を変更し得るなどと考えてはならない。政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段にすぎないからである」とも述べています(同上)。

戦争の原動力となっているのは政治の目的であり、軍隊の能力はそれを達成するために使用されるに過ぎません。戦争は政治の道具であり、政治が戦争の道具になるようなことは、クラウゼヴィッツの考え方からすると、到底考えられません(同上)。

政策形成における政治対立の問題

戦争が政治の道具だとして、その政治はどのように方向付けられるのでしょうか。
クラウゼヴィッツは基本的に国家で権力を握っている特権的集団によってそれが決まると考えており、そのことを次のように述べています。
「戦争は元来、一国の知能であるところの少数の政治家および軍人によって発起せられる。そしてこの人達なら、彼等の目標をしっかりと見定めて、戦争に関する一切の事項をいちいち点検することができるだろう」(同上、下362頁)
しかし、クラウゼヴィッツは実際の政治がそのように単純なものではないことも理解していました。

つまり、一カ国の内部において権力が複数の人間に分散し、一貫した政策決定が阻害される場合もあると考慮していたのです。(これは過去の記事「論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦」で紹介した事例も該当するでしょう)
「しかしそのほかにも国家の要務に携わる多数の人達があり、かかる場合には、この人達の存在も無視するわけにいかない、とは言えかかる人達がすべて当局者と同じ立場にたって、一切の事情を了解し得るとは限らないだろう。そこで反目や軋轢が生じ、この困難を切りぬけるには、多数の反対者を圧服するような力を必要とする。しかし、この力は十分に強力でないのが通例である」(同上)
ここで示唆されているのは、政策形成に携わる関係者が、それぞれ党派的な利害で対立を繰り広げた結果、政策論争で折り合えず、しかも最高権力者さえも自らの立場を押し通すことができない場合があるということです。

これが国家として一貫した戦争目標の設定を困難にするだけでなく、組織的な戦争努力を阻害する要因になることは言うまでもありません。

クラウゼヴィッツは「かかる不一致は、彼我両国のいずれかに生じるし、或はまた双方に生じることもある」と述べた上で(同上)、戦争がより長期化、緩慢になる傾向を助長すると指摘しています。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツは戦争を理解するために政治を理解せよと主張していただけではありません。

政治の領域で起こるさまざまな権力闘争や意見対立が強いリーダーシップの下で解消されないままになると、それが戦争の遂行にも影響を及ぼすということを述べていたのです。

一般にクラウゼヴィッツの分析は戦争で起こる事象にのみ焦点が絞られていると考えられがちですが、むしろ戦争で起きている軍事上の出来事を理解するためには、政治の世界で起きていることを理解すべきと論じた人物として位置付けられるべきです。

この意味においてクラウゼヴィッツは、戦争を研究するために、政治分析・政策分析を積極的に取り入れる必要があることを論じた軍事学者だと評することもできるでしょう。

KT

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論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦
事例研究 第四次中東戦争におけるアンワル・サダトの政策

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2017年11月4日土曜日

論文紹介 イラクの情勢を一変させた第三軍団の攻勢―オディエルノの作戦術―

レイモンド・オディエルノ(1954-)、元米陸軍参謀総長、2015年に大将の階級で退役
2006年に第三軍団司令官としてイラクに入り、治安回復で大きな成果を上げた。
オディエルノ(Raymond Odierno, 1954-)は米陸軍参謀総長も務めた米国の軍人であり、2017年現在ではJPモルガンで顧問として働いているそうです。
彼には2006年から2年にわたり第三軍団の司令官としてイラクにおける作戦を指揮した経験があるのですが、最近この作戦に注目する論文が発表されました。

今回は作戦術という観点からオディエルノが指揮した第三軍団の作戦を考察した研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
Wilson C. Blythe Jr., "III Corps during the Surge: A Study in Operational Art," Military Review, Vol. 97, No. 5(September-October 2017), pp. 78-85.

悪化する治安情勢、オディエルノの作戦転換

著者は、オディエルノの功績を理解する上で作戦術の視点が重要だと述べています。
もともと作戦術という概念は、ある統一された目標を達成するため、作戦地域の全域において複数の作戦部隊の行動を同時的かつ連続的に実施するためのものです(Ibid.: 78)。

オディエルノがイラクで武装勢力を相手に行った作戦はこの作戦術の考え方によく合致していると著者は指摘しています。

2006年11月、オディエルノの第三軍団がイラクで第五軍団から任務を引き継いだ時、治安情勢は悪化の一途を辿っていました。
その原因は同年2月22日に起きた爆弾攻撃で宗派間闘争が激化したことであり、11月だけでも3462名のイラク人が命を落としている状況でした(Ibid.: 79)。

当時、第五軍団に与えられた任務は、イラクにおける前方作戦基地の数を2006年末までに110カ所から50カ所に減らし、イラク治安部隊に権限を移譲する準備を進めることでした(Ibid.: 79)。
そのため、2月以降に治安情勢が急激に悪化する事態に対して有効に対応することは困難であり、結局2006年末になっても前方作戦基地を50カ所に減らす目標は未達という状況でした(Ibid.)。

オディエルノは現地の状況を把握すると、直ちにイラク多国籍軍と事後の作戦行動について検討を重ね、イラク人の安全を確保することを最優先事項と定めます(Ibid.: 80)。
その結果、前方作戦基地の削減目標は棚上げにされ、代わりに米軍の支配地域を拡大するための大規模な攻勢作戦が計画されることになりました(Ibid.)。

徹底した攻勢による敵兵站線の遮断

2007年1月上旬のバグダッド周辺における米軍部隊の配置図。
オディエルノが指導した攻勢作戦は米軍がアルカイダなどの武装勢力に甚大な被害をもたらすことになります。

まず2007年1月、オディエルノの第三軍団はまずバグダッド市内に根拠を持つ武装勢力に対して大規模な攻勢を開始し、首都圏の武装勢力を一掃しただけでなく、彼らの後方連絡線を外部から遮断することに成功しました(Ibid.: 80-1)。
首都圏から地方に退却した武装勢力を追撃するためにオディエルノは8月に別の作戦を開始させ、特にバグダッドから北にあるDiyala川沿いの渓谷では念入りな追跡が実施されています(Ibid.: 81)。
2007年6月の米軍部隊配置図。1月と比べてより広範かつ緻密に兵力を展開していることが分かる。追跡が実施された現場のDiyala川はバグダッドからちょうど北北西の方向から流れている河川。
この攻勢の後もバグダッドに潜伏し続けた武装勢力もいましたが、彼らは外部との兵站線が絶たれたために、破壊工作を行う能力は大幅に低下しました。このことを著者は次のように述べています。
「バグダッド内の過激派集団の戦闘力は、後方連絡線・後方地帯の両方を確保することに依拠しており、それらはバグダッドの周辺地域を通過していた。イラク多国籍軍が得た情報によれば、バグダッドの過激派は市内で1日に50回の攻撃を維持するためには、車載式の即席爆発装置やその他の装置の供給を常に必要としていることが判明した。この物資の流入を阻止する戦いはイラク多国籍軍の地形に対する深い認識に依拠していた」(Ibid.: 82)
ここでの著者の議論については違和感を持つ方もいるかもしれません。というのも、爆発物を使った破壊工作であれば、小人数で実施できるため、後方連絡線を維持して、そこから物資の供給を得ることは必ずしも必要ないように思えるためです。
しかし、実際にはバグダッドに潜伏していた武装勢力もやはり兵站線を確保しようとしていたことを第三軍団は掴んでいました。

IEDによる攻撃も兵站線に依拠していた

第三軍団がこのことに気づくきっかけとなったのは、Taji-Tarmiyah地域で2006年12月19日に第一騎兵旅団が襲撃でした。
これは第三軍団が第五軍団から任務を引き継いでから、本格的な攻勢作戦が始まるまでの間のことです。

著者によれば、この襲撃で現地の部隊は500ギガバイトを超える文書と、詳細な地図を入手することに成功しました(Ibid.)。
これらの情報資料によって、イラクで活動するアルカイダがどのような戦略を抱いていたのかを詳細に把握することができたのです。

情報分析の結果によれば、アルカイダはバグダッド市街地を取り囲む周辺地域に即席爆発装置(IED)と防空ミサイルを集中的に配置する構想を検討していたことが分かりました。
その目的は市内に潜伏する部隊が外部との交通手段を確保しておくことだったのです(Ibid.)。これはオディエルノが攻勢作戦を立案する上で重要な情報となりました。

オディエルノの第三軍団が2006年11月に展開してから、2008年2月に撤退するまでの間に、イラクの治安情勢を大幅に改善させることができたのは、こうした敵の弱点を的確に突くことができたためだと言えます。
著者の議論だと、第三軍団の成功は敵の後方連絡線を十分に遮断できるだけの縦深にわたって、連続的に攻勢を指導したオディエルノの作戦術によるものであると評価しています(Ibid.: 83)。

むすびにかえて

これまでのイラクにおける治安作戦の研究では、ペトレイアス(David Howell Petraeus)の功績が注目される傾向にありました。
これはペトレイアスが2007年からイラク多国籍軍司令官を、2008年から中央軍司令官として指揮に当たり、その成果が評価されているためです(文献案内を参照)。

しかし、著者はこの論文でイラクの治安情勢を回復させる上でオディエルノの功績も考慮する必要があると主張しています。
著者自身の言葉を借りれば、オディエルノは「2007年と2008年に成功を収めた作戦の基礎をもたらした」のです(Ibid.: 78)。
この解釈によると、オディエルノが実施した攻勢作戦はペトレイアスが遂行した対反乱作戦を準備するものだったと位置付けることもできるでしょう。

小規模な武装勢力を相手とする作戦であっても、作戦術という概念が有用性を持つという著者の議論は非常に興味深いものです。
正規戦争・非正規戦争という分類を超えて、作戦術が適用可能であるという命題についっては、今後さらに多くの事例も踏まえて検証されることが必要だと思います。

KT

文献案内

Michael Gordon and Bernard Trainor, The Endgame: The Inside Story of the Struggle for Iraq, from George W. Bush to Barack Obama, Vintage, 2012.
2003年から2012年までにかけてイラクで実施された米軍の作戦について包括的に記述しています。第三軍団の功績への言及に欠けていると著者は批判しますが、イラク戦争とその後の一連の治安作戦に関する有益な通史を記した基本文献として価値があるでしょう。


Thomas Ricks, The Gamble: General David Petraeus and the American Military Adventure in Iraq, 2006-2008, Penguin Press, 2009.
2006年から2008年にかけてイラクにおける米軍の作戦をペトレイアスの貢献を中心に記述しています。著者はこの文献で第三軍団の功績に言及されていることを評価していますが、第三軍団が行った作戦の内容に踏み込んでいないことを批判しています。

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2017年11月1日水曜日

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、ヘルムート・フォン・モルトケがいます。

モルトケはプロイセン陸軍でカール・フォン・クラウゼヴィッツの研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。

今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。

モルトケの戦略思想の特徴
ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。
これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。

この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。
いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。

この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。
「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁)
モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。

もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。

モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。

戦略と戦術の関係は一方的なものではない
モルトケの戦略思想の特徴としてもう一つ指摘できるのは、戦術との関係に関するものです。この点についてモルトケはクラウゼヴィッツを引用しながら次のように書き残しています。
「一方、フォン・クラウゼヴィッツ将軍は、戦略とは戦争目的達成のために戦闘を利用することであるといっている。事実、戦略は戦術に戦闘力を付与し、軍を指揮して会戦場裡で激突を行って勝てるだけの可能性を与える者である。だが一方で、戦略はそれぞれの戦闘の結果に適合し、その結果の上に構築される者である。戦術的な勝利の前では戦略の要請は沈黙する。戦略は戦術的な勝利が新たに生み出した状況にしたがうものである」(同上、16頁)
一般に戦略と聞くと、それは戦術の上位に位置付けられる概念であり、戦略が戦術に一方的に指図しているような印象を受けますが、ここでモルトケはそうした印象を払拭しようとしています。

つまり、モルトケの見解からすれば、戦略家の要諦は戦域における彼我の兵力の配置と移動を判断し、必要な時期、場所に必要なだけの我が兵力を集中させることによって、個別の戦闘で戦術家が勝利を得ることを可能にするだけの条件を整えることにあります。

しかし、戦闘の結果には不確実性があるため、敵に対して優勢な戦闘力を集中できたにもかかわらず敗北することもあれば、劣勢なはずなのに勝利を得る場合も出てきます。
そうした状況の変化の一つひとつにきめ細かく対応することが戦略の実務であり、それこそモルトケが考える技術としての戦略なのです。

したがって、「戦略は戦術が適時、適所において付与されることを求める手段を確保するものである」という記述はまさにモルトケの戦略思想の基本であり、それは「科学的原則」を忠実に守ればよいというものではないということです(同上)

むすびにかえて
モルトケは科学を基礎とした創造的技術として戦略を理解すべきと主張したのであって、科学それ自体を戦略から排斥しようとしたわけではありません。
しかし、あくまでもモルトケの関心は実際の戦争指導にあり、理論が重んじられる学術研究ではなかったということは理解しておく必要があるでしょう。

だからこそ、モルトケは戦争には理論化が難しい不確実な領域が大きいという側面を率直に認めることができましたし、学説と実践のバランスをとることもできたのだと思います。研究者のローゼンバーグは次のように述べています。
「モルトケは、戦争の目的は望ましい政治的な結果を達成することであり、そのためには、柔軟で応用的な戦略が必要であるというクラウゼヴィッツの主張にもまったく同意していた。彼は、戦争においてはすべてが不確実であると考えており、固定的なシステムは、彼にとっては排斥すべきものであった。それゆえ、彼は、どのような固定的な原則も確立することは不可能である」(邦訳、ローゼンバーグ、266頁)
モルトケは軍隊の実務で戦争が持つ不確実性は重視する必要があり、そこでは明確な因果関係で説明がつかない事象がしばしば起こることを理解していました。

そうした環境で明確に定式化された戦略理論を機械的に適用すると、意図しない間違いが生じる危険があります。
モルトケはあまりに理論化が行き過ぎた学説の影響力を押さえつつ、実践とのバランスをうまくとることが必要であるということを、自らの戦略思想で示していると思います。

KT

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参考文献
モルトケ「戦略」片岡徹也編『戦略論体系3 モルトケ』芙蓉書房出版、2002年、15-7頁
ガンサー・ローゼンバーグ「モルトケ、シュリーフェンと戦略的包囲の原則」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、263-289頁

2017年10月22日日曜日

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じてナポレオンが選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。
しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。

今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。

ナポレオンの戦略思想の基本
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。
ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。
この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。

チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。
「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162)
このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。

当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。
ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。

ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント
ナポレオンが使用した戦略を図上で一般的に表現した概念図。赤色が敵、青色がフランス軍を表す。敵の前衛を正面で拘束しておき、その間に側面を通過して背面に進出する。この機動によって敵の主力の後方連絡線を遮断し、決戦を強制することが出来ると同時に、敵の増援が戦場に到着することを防ぐことも期待される。
(Chandler 2009: 165)
チャンドラーの説によると、ナポレオンの戦略には5つの基本原則があったとされています。それは次のように説明されています。
「第一に、軍は作戦線を1本だけ保持しなければならない。つまり、目標は明確に規定され、指向可能な全ての部隊が目標に向かわなければならない」
「第二に、敵の主力が常に目標でなければならない。敵の野戦軍を撃破することによってのみ、敵に戦争をあきらめさせることができる」
「第三に、フランス軍は心理的理由ではなく、戦略的理由のために、敵の側面や背面に自らを位置付けるような仕方で移動しなければならない」
「第四に、フランス軍は常に敵のもっとも露出した側面を迂回するように努めなければならない」
「第五に、ナポレオンはフランス軍の連絡線を安全に確保し続ける必要性を強調した」(Ibid. 162)
チャンドラーは、これらの原則に裏付けられたナポレオンの戦略を「戦略的包囲(La manoeuvre sur les derrières)」という用語で説明しています(Ibid.: 163)。
(もともとの仏語に忠実に訳すと「後方への機動」となります)

戦略的包囲では、戦域で敵の主力である野戦軍に目標が限定され(第二原則)、そこに向かって全部隊を集中させることが目指されています(第一原則)。
ただし、その過程で部隊が使う経路として敵の正面を避けるよう機動させますが(第三原則、第四原則)、この際に我が方の後方連絡線の安全が敵に脅かされないような経路を選択する必要があります(第五原則)。

こうしたナポレオンの戦略は、一度その発想を理解してしまうと、その本質は驚くほど単純です。チャンドラーが掲げた五つの原則を理解していれば、ナポレオンでなくても彼の戦略を形式として再現することは可能です。

しかし、こうした戦略も完全無欠なものではなく、いくつかの敵の可能行動について注意する必要がありました。最後にナポレオンが自らの戦略を実施に移す際に考慮しなければならなかったリスクについて考えてみます。

「戦略的包囲」の際に注意すべき敵の行動
大前提としてナポレオンの戦略的包囲は敵情不明な状況で行われることを理解しておかなければなりません。

警戒部隊を先行させながら接敵機動を始めたとしましょう。こちらの前衛が最初に接触し、交戦によって動きを拘束できるのは恐らく敵の前衛であり、敵の主力ではありません。
敵の主力は前衛の背後にいるものと思われますが、その詳細な位置を知ることができるとは限らず、しばしば曖昧な情報しか得られません。

つまり、攻撃目標である敵の主力がどこにいるのかを知らないという状況の中で、司令官は敵の背後に素早く回り込むことを決断しなければならないのです。これは非常にリスク志向の強い戦略なのです。

こうした状況でリスクとして注意すべき敵の可能行動は具体的に三つあります。
一つ目は敵の主力が前衛同士の戦闘が始まった時点で一足先に動き出しているという可能性です。
「もし敵の司令官が十分に勇敢であるなら、拘束する部隊に向けて前進を続けることができる」とチャンドラーも述べているように、敵の前衛が我が前衛と遭遇戦に突入した時点で敵の主力がすぐに前進を開始している可能性があり、そうであれば我が方が戦略的包囲を試みても、それが空振りに終わる危険があります。

それだけでなく、我が前衛は敵の前衛とその応援に駆け付けた主力によって完全に撃破される恐れさえ考えなければなりません。

第二のリスクは敵も同じような戦略的包囲を仕掛けてくる可能性があるということです。
この点についてチャンドラーは「敵はフランス軍の主力の後方連絡線を遮断しようとすることもできる」と述べています(Ibid.)。
戦略的包囲は敵の作戦線を遮断することを狙う戦略であると同時に、我が方の作戦線を危険な状態に置く側面もあります。
戦略的包囲を行おうとする主力同士が同じ道路上を前進して遭遇戦になる可能性もあり、そうなれば戦略的包囲そのものは失敗するでしょう。

最後の可能性は敵が後退する可能性です。敵の前衛が戦闘を離脱し、主力も戦略的包囲を受ける危険を避けるために後退すれば、敵を捕捉撃滅する機会を逃すことになるでしょう(Ibid.)。
戦略的包囲はその後で戦闘に持ち込むことを目的としているため、敵がこのような行動に出れば成功は期待できません。

むすびにかえて
チャンドラーの分析によると、ナポレオンはこうした戦略を1796年から1815年にわたって少なくとも13回使用したとされています(Ibid.)。
ナポレオンの軍事的才能を手放しで賞賛する論者ならば、この数字は彼の戦略家としての大胆さと勝負強さを示しているとして高く評価するかもしれません。
しかし、戦略的包囲という機動にどのような危険性があるのかを考慮すれば、あまりにもリスク指向性が強い戦略家だという見方もできます。

結局、ナポレオンが愛用した戦略にも他の戦略と同じくいくつかの問題があったことを踏まえて、ナポレオンの軍事思想を検討することが必要だと思います。
ナポレオンは19世紀から20世紀前半の戦略思想に比類ない影響を及ぼし、特にフランスでは第一次世界大戦が終わった後さえ軍事学の研究に影響を与えました。
英雄崇拝に陥らないように、また批判的検討の姿勢を欠かさないようにしながら、彼の軍事思想を研究することが大事だと思います。

KT

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参考文献
Chandler, David G. 2009. The Campaigns of Napoleon:The Mind and Method of History's Greatest Soldier. Scribner.
英語で書かれたナポレオン戦争の研究書としては、最も広く読まれた基本文献。邦訳にチャンドラー『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点』全5巻、信山社、2003年があるが、これは2009年に出た改訂版の翻訳ではない点に注意。
ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、Kindle版、国家政策研究会、2016年

2017年10月18日水曜日

学説紹介 米国の覇権はいつまで続くのか

米国を中心とする覇権は今後も存続できるかどうかについては、研究者の間でも議論が分かれていますが、当面では肯定的に見る論者の方が多いと思います。
ただし、彼らを批判する論者も根強く、学界での議論は定まっているとは言えません

今回は、米国の大戦略をめぐる論争をモントゴメリー(Evan Braden Montgomery)がどのように整理しているのかを取り上げ、それを紹介したいと思います。

ディープ・エンゲージメント派の主張
モントゴメリーは米国の戦略論争において二つの学派が形成されていると考えており、それをディープ・エンゲージメント(deep engagement)とオフショア・バランシング(offshore balancing)に区別して考察しています(Montgomery 2014: 118)。

前者の立場に立つ論者は「米国はまだ覇権の費用をまかなうことが可能」と考えますが、後者の立場に立つ論者はより悲観的に情勢を判断し、「条約の履行の多くはもはや財政的に維持し得ない」と考えます(Ibid.)。

まず、ディープ・エンゲージメントを擁護する論者が展開する主張の特徴として指摘できるのは、米国の繁栄を可能にする自由主義的な経済秩序を構築し、これを維持することを構想していることです。

このような国際経済体制を実現することができれば、そこから得られる利益で安全保障上の約束をきちんと履行することは可能であり、引き続き重要な地域の平和と安定を確保する努力を継続することにも繋がると考えられます(Ibid.: 118-9)。

さらにディープ・エンゲージメントの主張を調べていくと、イラク、アフガニスタンでの戦争があったにもかかわらず、米国はGDPの5%にも満たない国防予算で対応することが可能だったという議論も出されており、ブルックス(Brooks)やウォルフォース(Wohlforth)のような研究者は「単一の超大国の世界が直ちに終わるということは極めて起こりにくい」と述べたことがあることも紹介されています(Ibid.: 119)。

つまり、米国は依然として圧倒的な優位を占めているのだから、中国がたとえこれからも経済成長を遂げたとしても、それは米国の地位を脅かすまでには至らないというのがディープ・エンゲージメント派の見解として整理されます(Ibid.: 119-20)。

オフショア・バランシング派の主張
ディープ・エンゲージメント派の見解に対してオフショア・バランシング派の見解はより慎重です。

こちらの立場に立つ論者はそもそも米国は本土から遠く離れた海外基地に部隊を維持することの財政的負担は決して小さなものではなく、米国の勢力を削いでいると考えているためです(Ibid.: 120)。

また彼らは米国の軍事力に頼る同盟国を援助するよりも、独力で対処できるようにして、少しでも米国が不必要な戦争に巻き込まれることがないようにすべきだと考えます(Ibid.)。

モントゴメリーの調査によれば、オフショア・バランシング派の側に立つ論者は増加する傾向にあり、イラクとアフガニスタンでの戦争、金融危機、中国の台頭がその背景的要因としてあることも指摘されています(Ibid.)。

オフショア・バランシングに賛成する論者の一人であるレイン(Christopher Layne)は、もはや米国を中心とする一極構造の時代ではないという見解から、特に中国が台頭していることが「米国の勢力低下を裏付ける最も確固とした証拠」だと述べたことで知られています(Ibid.: 121)。

こうした立場から見れば、海外に駐留させている米軍部隊を縮小させることは、米国の国力を温存、回復させるという意味で非常に重要なことであり、諸外国の防衛に米軍を出動させることにより慎重を期すべきだと考えられます。

その代わりとして、政府は国内の課題に取り組むことが可能となり、財政の立て直しと経済の発展のためにより多くの予算を配分することができるという議論が出されてくるのです。

むすびにかえて
核抑止など米軍の兵力に依存する程度が大きい日本の防衛体制にとって、米国が大戦略としてオフショア・バランシングの路線をとることは望ましいこととは言えません。
それは東アジアに新たな真空地帯を形成する恐れがあり、兵力を縮小するタイミングによっては中国の勢力圏がさらに躍進する事態になりかねないためです。

しかし、ここで示した議論を踏まえると、ディープ・エンゲージメントを維持するためには、米国を中心とする自由主義的な国際経済体制に日本として協力する必要があることも同時に考えなければなりません。
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の交渉をめぐる論争でしばしば日本国内で議論されたことですが、これは決して関税だけの問題ではなく、法規制を標準化する過程で国内の多くの産業に影響を及ぼす可能性があります。そのため、経済政策、産業政策の観点からもよく検討される必要があるでしょう。

この論争ではっきりしているのは、今後も米国が覇権を維持できたとしても、それは現状のまま存続することは難しいということです。日本の大戦略を改めて長期的視野に立って検討しておく時期に来ていると思います。

KT

文献案内
米国の大戦略に関する論争についてより詳細に知りたい場合は、次の論文が参考になります。
Barry R. Posen and Andrew L. Ross, "Competing Visions for U.S. Grand Strategy," International Security, Vol. 21, No. 3(Winter 1996/7), pp. 5-53.
Michele A. Flournoy and Shawn Brimley, eds. Finding Our Way: Debating American Grand Strategy, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2008.(下記リンクあり)

またディープ・エンゲージメント派の議論をより知りたい場合は以下の論文を参照してみて下さい。
Stephen G. Brooks, G. John Ikenberry, and William C. Wohlforth, "Don't Come Home, America: The Case against Retrenchment," International Security, Vol. 37, No. 3(Winter 2012/3), pp. 7-51.
Robert J. Art, "Selective Engagement in the Era of Austerity," in Richard Fontaine and Kristine M. Lord, eds., America's Path: Grand Strategy for the Next Administration, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2012.(下記リンクあり)

オフショア・バランシングに関しては以下の文献が参考になります。
Eugene Gholz, Daryl G. Press, and Harvey M. Sapolsky, "Come Home America: The Strategy of Restraint in the Face of Temptation," International Security, Vol. 21, No. 4(Spring 1997), pp. 5-48.
Christopher Layne, "From Preponderance to Offshore Balancing: America's Future Grand Strategy," International Security, Vol 22, No. 1(Summer 1997), pp. 233-248.

参考文献
Evan Braden Montogmery, "Contested Primacy in the Western Pacific: China's Rise and the Future of U.S. Power Projection," International Security, Vol. 38, No. 4(Spring 2014), pp. 115-149.

2017年10月13日金曜日

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。

例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。

今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。

1、軍の師団への分割
ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780)
イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。
ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。

しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。
「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁)
現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。

軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。

2、自在に行動できる散兵

主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてきました。
士官の監視の下で戦列を組みながら戦う従来の戦術では、こうした場面に対応できないことは明らかでした。

そのため、各国の陸軍では小規模な交戦を自律的、機動的に遂行する散兵の必要性が認識されるようになったとハワードは指摘しています。
この方面で先駆者だったのはバルカン半島の山岳地帯で多くの戦闘経験を有していたオーストリア(ハプスブルク帝国)の軍隊でした。
「国境防御のため、帝国陸軍は、地方に特有の才能ある人々を招集した例えば、クロアチアの民兵、ハンガリーの軽騎兵、アルバニアの軽騎兵などであり、主として偵察と襲撃のための軽騎兵であった。1741年、女帝マリア・テレジアがオーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの浸食に対し西の領土を守らねばならなかったとき、彼女はこれらの軍隊を非常に有効に使った。彼女の敵は、帝国軍主力のはるか前方や翼側で独立して作戦するこれらの軽装部隊を、山賊や人殺しと同じだと泣言を言ったが、それへの対抗手段をとらねばならなかった」(同上、133頁)
こうしてトルコとの戦争を通じてオーストリアが編み出した戦術は、プロイセン、フランスにも伝わっていきました。

しかし、プロイセン国王フリードリヒ二世が、前哨戦を遂行するために狩人などを集めて編成した部隊を、後になって解散させており、プロイセン陸軍において散兵を駆使する戦術が十分に発展しなかったようです(同上)。
(ハワードはフランスでの影響について述べていませんが、フランス革命戦争においてフランス軍は散兵戦術をいち早く取り入れたことは知られています)

3、砲兵の集中運用
グリボーヴァル・システムの下でフランス陸軍は野砲の規格を整理し、装備の標準化に成功した。射程の延伸と移動の容易さを両立させるなど、フランスの砲兵に技術的な優位性を与えた。
18世紀のヨーロッパで最も先進的な火砲を装備していたのは、恐らくフランス陸軍だと言って間違いないでしょう。フランスでは1760年代に火砲の独自規格を制定し、標準化に成功していたからです。
これはジャン=バティスト・グリボーヴァルの功績として知られており、ハワードもこの改革の意義を高く評価しています(同上、133-4頁)。

しかし、軍事理論の観点から考えると、ジャン・デュ・テイユが残した功績はより重要なものであったとハワードは考えています。

テイユは『野戦における新しい砲兵運用』という著作の中で、砲兵火力を集中して敵陣に突破口を形成することが可能であることを主張し、その際に正面から加える射撃よりも側射を行った方が有利であることなどを指摘しました。
「彼は、火力と運動の相互依存性や、正面射より側射の利点というような戦術的要素を強調したが、常に、兵力の集中することの必要性に戻った。「われわれは、敵を破ろうとする地点に、最大数の軍隊とできるだけ多くの火砲を、集めねばならない。……われわれは、勝利を決すべき攻撃点で、わが砲兵を増加しなければならない。……このように聡明に維持され増加された砲兵が、決定的な結果をもたらすのである」」(同上、134頁)
こうした戦術的創意によって、グリボーヴァルが残した功績が戦場で実際に威力を発揮する方法について議論されるようになりました。
ハワードはテイユが若い頃のナポレオンの後援者であったことにも触れており、その影響の大きさを指摘しています(同上)。

4、横隊から縦隊、そして混合隊形へ
ジャック・アントワーヌ・ギベール(1743 - 1790)
フランス陸軍軍人、その著作で新たな歩兵大隊の戦術に関する提案を行う。
最後にハワードが取り上げているのが特に戦列歩兵のとるべき隊形に関するものです。
当時、歩兵部隊の運用に関しては二つの考え方がありました。

一つはフランス陸軍のように縦深を大きくとる縦隊にすべきとする考え方であり、もう一つはプロイセン陸軍のように縦深を小さくとって細長い横隊に展開すべきという考え方です。
簡単に言えば、前者は突撃に有利で、後者は射撃に有利という特徴がありました。
ハワードの研究によると、フランス人は高度な規律と緻密な訓練を要するプロイセンの横隊戦術を導入することに非常に慎重だったとされています(同上、134頁)。

その一例として、18世紀の初頭に活躍したフランス陸軍の軍人フォラールが著作の中で、突撃の際の衝撃力が最大になるような縦隊を擁護する説を唱えていたことが挙げられています(同上、134-5頁)。
フォラールの説はフランスで支持者を得ましたが、次第に非現実的なものだということも露呈しました。そのことが次のように紹介されています。
「オーストリア継承戦争においてそれを実行しようとした悲惨な試みは、世紀が進むにつれて、修正され精妙になった。その戦争では、フランスの縦隊は,敵戦の火力によって、預言できたように、ずたずたにされたのである。最も有効な修正はギベールによって導入されたものである。必要に応じて横隊に展開する小さな大隊縦隊という、彼の柔軟な混合隊形は、1791年のフランス軍教令の基礎となり、少なくとも革命軍の公式の原則となった」(同上、135頁)
これは、フォラールの攻撃縦隊という着想が、フランス陸軍のギベールの学説によって発展的に改称され、「混合隊形」という思想に結びついたということです。これにより、フランス陸軍は歩兵戦術の幅を大きく広げることができました。

これは戦闘において戦列を一定の隊形の下に維持することに制約されていた当時の陸軍の歩兵戦術から抜け出す契機となりました。
ただ、ギベールはフランス革命戦争でこうした戦術が実際にどのように駆使されるのかを目撃する前に死去しました。

むすびにかえて
フランス革命以降、フランス陸軍がいち早く旧来の戦術から脱却し、当時のヨーロッパ列強を軍事的に圧倒できたのは、ナポレオンの功績だけで説明できないというのがハワードの主張です。
ブルセ、テイユ、フォラール、ギベールのようなフランス人の軍事学者の革新的な研究成果が存在していたからこそ、ナポレオンはそれらを容易に利用できたのです。

ハワードが呼んだ「ナポレオン革命」が18世紀フランスの軍事学の研究成果の集大成だったと考えると、国防に関する研究がいかに長期的視野の下に行われる必要があることが分かります。
私たちは戦争で実際に部隊を指揮した将軍や提督の功績ばかりに注目しがちですが、彼らの背後には多くの研究努力があったことも考慮しておくべきでしょう。

KT

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ナポレオンが軍団を設置した理由
学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール
マイケル・ハワード『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』奥村大作、奥村房夫訳、中央公論新社、2010年

2017年10月8日日曜日

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。
外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。

しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。

今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。

鉄道がドイツに内線の優位をもたらす
フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者
軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている
ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。
その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。

リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。
ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。

しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。
「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上)
アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常に容易になるとリストは考えたのです。

こうした考え方は第一次世界大戦の歴史でドイツ軍が実際に鉄道を活用して二正面作戦を遂行しようとした歴史を知る私たちには当然のことだと思えるかもしれません。
しかし、リストがこうした研究に取り組み始めた当時、ドイツで鉄道というインフラは登場したばかりだったということを踏まえる必要があります。

鉄道輸送の軍事的有用性が一般的に認知されるのは1861年に勃発した南北戦争以降のことなので、1830年代にリストがここまで鉄道の重要性を理解していたこと自体が驚くべきことだと言えるのです(同上、226頁)。

また、これだけでなくリストは鉄道を駆使した地政学的戦略を構想していました。それはヨーロッパと中東を一つの鉄道で結び、ロシアの南下をイギリスとともに食い止めるという壮大な計画でした。

バグダード鉄道とドイツの中東戦略
1918年当時のバグダード鉄道の路線図と延長計画を現した地図、オスマン帝国の領土を縦断する路線の構想は19世紀後半にまでさかのぼるが、実際に建設が開始されたのは20世紀以降となった。リストは英独同盟に基づく対露戦略を支援するためにバグダード鉄道を構想していた。
リストは鉄道をヨーロッパの戦略問題だけに限定して重視していたのではなく、アジアも視野に入れた上で考察を書き残しています。アールはこの方面のリストの業績を次のようにまとめて紹介しています。
「英独同盟の構想の中で、彼はイギリスのインドならびに極東への交通路を、英仏海峡からアラビア海に至る鉄道で改善すべきだと提案している。彼はナイル河と紅海を、ナポレオン時代のライン河とエルベ河のようにイギリス本島に近い存在に、ボンベイとカルカッタをリスボンやカディスのように容易に行ける場所にすべきだと書いている。これは計画されているベルギー・ドイツ鉄道をヴェネチアまで延長し、そこからバルカン、アナトリアを通ってユーフラテス渓谷、ペルシャ湾に出て、最後にはボンベイに至ることで実現できるはずだった」(同上、226頁)
これはまさに大陸国家的な特徴を持つ地政学的戦略構想であり、統一を実現した後のドイツで進められた3B政策(ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードを鉄道で結ぶ構想)の原型が見られます。

戦略の観点から見て非常に興味深いのは、ドイツからトルコを経てペルシャ湾に至る鉄道を整備し、その路線に沿ってヨーロッパから中東、そしてその先のインドをロシアに対する一続きの戦略的防衛線として再構成しようとしていることです(同上、226-7頁)。

この壮大な戦略構想の妥当性については別の機会で詳細に検討する必要があるでしょう。ただ、これが極めてユニークな戦略思想であることは間違いなく、従来の陸軍戦略で考えられたことがないものでした。

19世紀のイギリスはロシアの脅威からインドを防衛するために必要な兵力を確保することが難しくなる傾向にあったため、リストの戦略はロシアに対抗するイギリスの世界戦略を補完する意味も持っていたと言えます。
ロシアという脅威を利用してイギリスとドイツの共通の利益を確保すれば、中東におけるドイツの権益を確保しやすくなることも考慮されていたということです。

むすびにかえて
軍事学の歴史においてリストの業績を位置付けているアールは、鉄道に関するリストの研究を高く評価し、次のように述べています。
「彼が鉄道の持つ経済効果に関心を持っていたことは当然予想されるところだが(中略)上記期間による輸送がドイツに与える戦略的影響についての彼の理解には驚くべきものがあり、それはいかなる客観的な基準からいっても特筆すべきものである」(アール、224頁)
リストは、鉄道輸送の技術的進歩を重視するあまり、東西から挟撃されやすいというドイツの地政学的問題を矮小化した側面もありますし、彼の思い描いた英独関係は実現しませんでした。

しかし、それでもリストの鉄道に関する考察には先駆的な側面があったと評価すべきでしょう。

KT

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参考文献
エドワード・ミード・アール「軍事力の経済的基盤 アダム・スミス、アレグザンダー・ハミルトン、フリードリヒ・リスト」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、195-229頁