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2017年8月20日日曜日

学説紹介 必要な戦力を計算する方法―戦力比(force ratio)で作戦を立案するには―

一般に軍事行動では攻者が防者を撃破するために、およそ3倍の戦闘力を要するという経験則が言われています。

近年の研究で、この種の見解に妥当性がないとする説も出されていますが、こうした経験則は今でも軍隊の実務、特に幕僚の業務で広く使われています。

そこで今回は米軍の教範を踏まえ、各部隊行動において必要とされる戦力比について一般的に解説し、その意味について考察したいと思います。

作戦立案の基本は相対戦闘力の比較分析
作戦の立案に関するプロセスは、基本的に教範で標準化されたものがあり、戦力比の計算もその一部に位置付けられています。

米軍において戦力比の計算は軍事的意思決定過程(military decision-making process, MDP)、特に相対戦闘力の評価の一部に位置付けられています。

教範によれば、ある部隊の戦闘力を評価する場合、その部隊の2段階下位に当たる部隊の数に着目せよと述べられています(FM 6-0, C2: 9-18)。

例えば、作戦の基本単位となる師団レベルで彼我の戦闘力を比較する場合、分析単位は大隊であり、大隊を基本にして彼我の戦力を比較することになります(Ibid.)。

ここで敵と味方の戦力比を計算する段階に入るのですが、もちろんこの分析は定量分析だけで済むものではないことに注意する必要があります。

教範でも「戦闘力は有形の要素だけでなく、士気や訓練の水準といった無形の要素をも両方評価することを要する」と補足されています(Ibid.)。

攻者3倍の原則は最小限の戦力比を表したもの
戦闘力の定量分析の基本として、まず敵と味方を攻者と防者に分けます。これは部隊行動によって最小限必要な戦力比が違うためです。

教範でもこのことははっきりと指摘されており、詳細については次のように解説されています。
「多くの場合、計画立案者は歴史上の事例に基づく最小限の戦力比を目安として用いる。例えば、攻撃する部隊が防者に対して約3倍の戦闘力を有していても、歴史的に考えれば防者がそれを撃破できる可能性は50%を超えている。つまり、したがって、基本的に指揮官は約1:3の戦力比を伴っていれば、それぞれの接近経路で防御することは可能なのである」(Ibid.: 9-19-20)
誤解されやすい点ですが、攻者は防者の3倍の戦力を要するという経験則は、いわば最低限必要な戦力のことを表しているのであって、3倍の戦力があれば攻撃は成功するという意味とは解されていません。

つまり、確実な成功を期するとすれば、攻者は防者に対して戦力比が3倍以上になるように部隊を集中させなければならない、ということが言えるのですが、このような計算は敵が後退行動をとっている場合や、要塞に立てこもっている場合に変化します。

任務、態勢ごとで異なる最小限の戦力比
部隊行動は攻撃や防御だけではありません。周到に準備した要塞に立てこもって戦う場合もあれば、後退行動を行う場合などがあります。

教範ではこのような状況も想定した上で、任務、態勢ごとに必要な最小限の戦力比も次のように紹介しています。
・遅滞行動 味方1:敵6
・防御(周到な準備あり):味方1:敵3
・防御(周到な準備なし):味方1:敵2.5
・攻撃(敵に周到な準備あり):味方3:敵1
・攻撃(敵に周到な準備なし):味方2.5:敵1
・逆襲(敵の側面に対して):味方1:敵1(Ibid.: 9-20を参照)
これも実質的な戦闘力が互角になる最小限の戦力比であって、この比率を満たすことができたから成功が確実視されるというわけではありません。

全般の戦力比として防者が優位だと分かりますが、興味深いのは攻者が逆襲で側面から敵を攻めることができた場合であり、この場合だけは攻者に求められる戦力比が防者に対して1となっています。

これは味方の部隊が敵の側面を突くことができれば、防者が享受する戦力3倍の効果は失われることを意味しています。

こうした判断基準を適用すれば、さまざまな分析が可能となりますが、対反乱作戦についてはまったく異なった計算方法を適用すべきことに留意して下さい。

ゲリラや反乱軍を相手にする作戦の場合、その作戦地域に居住する人口が戦力の見積で重要なデータであり、おおむね1,000名の住民がいる地域に対して20名から25名程度の兵士が確保することが必要とされています(FM 3-24)。

むすびにかえて
今回は教範の内容を紹介するにとどめましたが、この記事で取り上げたテーマは奥が深く、オペレーションズ・リサーチ、軍事シミュレーション、ウォーゲーム(兵棋)とも深く関係しています。

例えば戦闘力に関しては火力指数を作成し、敵と味方の装備の価値が技術力に応じて異なることを戦力比の分析に反映させる方法も研究がなされており、戦闘による損害の予測でも成果が上がっています。

このような定量分析を乱用してはいけないことはすでに述べた通りですが、重大な局面で軍事行動を決めなければならない場合、一つの重要な論拠となり得ますし、戦争がどのようにして遂行されているのかを理解する上で興味深いのではないでしょうか。

KT

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参考文献
U.S. Department of the Army. 2014. FM 6-0, Commander and Staff Organization and Operations, U.S. Department of the Army.
U.S. Department of the Army. 2014. FM 3-24, Insurgencies and Countering Insurgencies, U.S. Department of the Army.

2017年8月18日金曜日

論文紹介 暴動鎮圧にも戦術がある

本来なら暴動は警察学の研究テーマであって、軍事学の研究テーマにはそぐわないと感じられる読者もいるかもしれません。

しかし、世界の発展途上国で実施されている不正規戦争の事例を調べてみると、暴動がゲリラ戦を補完する戦術として利用されることもあり、一概に暴動は警察力で鎮圧すればよいと片づけるわけにはいかない場合があります。
これは米軍のように外国で占領地の治安維持に当たる場合があれば、なおさらです。

今回は、暴動を鎮圧する方法を戦術の観点から考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Stanton, Martin N. "Riot Control for the 1990s," Infantry, Vol. 86, No. 1(January-February 1996), pp. 22-9.

不正規戦争の一環としての暴動
この研究の目的は、米軍の暴動鎮圧ドクトリンを見直すことにあるのですが、著者は特に発展途上国に進駐した米軍部隊が暴徒の対処に当たるという状況を想定していました。

この研究が発表された当時は1990年代、つまりポスト冷戦の時代であり、発展途上国に米軍部隊が派遣され、現地の暴動を鎮圧する任務を数多くこなさなければなりませんでした(Stanton 1996: 22)。

著者は1990年代前半の米軍の戦闘経験に基づき、発展途上国の暴動は事実上のゲリラ戦として側面があったとして、次のように論じています(Ibid.: 23)。
「例えばソマリアにおいては、兵士は戦闘員(gunman)と対決するのと同時に、投石や手にしたもので打撃を加える群衆とも対決した。射撃を加える戦闘員を捕獲するため、部隊が暴動を起こすソマリ族を圧迫し、打撃する場面が何度も生じた。同じ暴動に致死的な暴力と非致死的な暴力を組み合わせて用いたことが、反応をより複雑なものにしてしまった」(Ibid.)
つまり、治安維持部隊を襲撃する暴徒は意図的に女性や子供を捲き込むことによって、武装している戦闘員の安全を確保する場合があり、暴動鎮圧をより困難にする可能性があるということです。

治安維持部隊にとって、このような暴徒から戦闘員だけを見つけて捕獲することは極めて困難なことですが、もし暴徒の接近を無制限に許せば部隊に多くの損害を出すことになりかねません(図1)。
暴動鎮圧の状況図、白丸が非武装の群衆、黒丸が武装したゲリラ、四角が兵士、斜線が障害をあらわしている。武器を使用する人間を非武装の人間が守ることによって、兵士は武器の使用を制限される態勢となる。
(Ibid.)
米軍は1960年代から暴動鎮圧について研究しており、野戦教範(FM 19-15)では分隊4個からなる小隊を基礎とする隊形も考案されていました。
しかし、著者はこれでは1990年代の暴動に対処することは不可能と考え、新たな小隊編制を考案することにしました。

暴動鎮圧を戦術的に考察する
それまで分隊4個からなる小隊編制がドクトリンで定められていましたが、著者は分隊3個からなる小隊編制に置き換えることを提案しています(Ibid.: 26)。

その上で全体の兵力を暴動鎮圧、監視、予備、特殊任務という4種類の部隊に区分して運用するべきとされており、それぞれの任務は次の通り示されています。
  • 暴動鎮圧部隊:群衆に対峙して暴動鎮圧隊形で通常展開する部隊であり、その規模は指向可能な兵力の3分の2を超えるべきではなく、可能な限り小規模にとどめる。
  • 監視部隊:暴動鎮圧部隊の状況を監視し、致命的な脅威から掩護するために展開する部隊であり、これは指向可能な兵力の3分の1までの規模にまで拡大できる。この部隊には狙撃手と自動火器、そして双眼鏡と望遠鏡が必要である。
  • 予備部隊:緊急事態に対処するため予備として拘置される部隊。
  • 特殊任務部隊:迫撃砲小隊のように特別な機能を果たすための部隊であり、非致死性の装備を使用する。
著者の提案する部隊の編制とその配置。群衆の正面に対峙するのが暴動鎮圧部隊だが、その左右両翼に監視部隊を配置し、後方には予備の部隊と特殊任務を遂行する部隊が配置されていることが分かる。なお、配置は地形に応じて変更することができる。(Ibid.: 27)
これまでの暴動鎮圧の要領と比較すると、小隊の規模は縮小されていますが、その分を他の任務に当たらせることができるようになり、暴動の鎮圧要領により柔軟性を持たせることが可能となります。

例えば、著者は1,000名の暴徒が50名の部隊を圧迫して戦力比が圧倒的に不利になった場合であれば、阻止線を突破される前に部隊として発砲すべきと論じていますが(Ibid.)、暴徒が集中した地点に予備を展開して400名程度の戦力を確保していれば、1,000名の暴徒が圧迫してきたとしても、それほど危険な自衛措置を取る必要なくなり、結果として互いの損害も減ると論じています。

著者の提案で注目すべきは監視部隊の配置です。暴徒が占領する街路を左右に挟む建物については、監視部隊を常に配置しておかなければならない、と著者は念入りに強調しています(Ibid.)。
これは暴徒の中に潜む戦闘要員を特定し、必要に応じて狙撃を行うための戦力であり、正面に展開する主力に情報をもたらす役割も担います。

著者の見解によれば、暴動鎮圧で最も難しいのはこの監視部隊の配置を常に適切にすることです。
もし暴徒が街路を移動すれば、部隊も状況に応じて移動しますが、この際に監視部隊を移動させることは難しく、主力である暴動鎮圧部隊との連携を保つことにも困難が生じます(Ibid.)。

例えば、著者は車両でバリケードを破壊する際に、最も警戒すべきは暴徒からのRPGによる攻撃であると指摘しており、もしそのような場面で暴徒の両翼に配置された部隊の監視がなければ、撃破される危険があると警告しています(Ibid.: 28)。

むすびにかえて
このような研究は今の日本に必要ないように思われるかもしれません。しかし、平和維持活動のような任務を遂行する場合、現地住民の暴動に捲き込まれる危険も考えられるため、決して無関係というわけでもないのです。

また、暴動が不正規戦争の一部として極めて暴力的な形態をとる可能性があるという著者の指摘は反乱または対反乱作戦の様相を考える上で興味深いものです。

一般にゲリラ戦では政府の監視が届きにくい農村部に拠点を置かれますが、支持者が多い場合などでは都市部を拠点に活動する場合もあり、市街地では一般民衆を暴動で捲き込むことによって警察や軍隊から安全を確保することも一つのテクニックです。

近代以降の戦争では国外の正規戦争と国内の不正規戦争が相互に影響し合う事例も少なくなく、こうした不正規戦争の一面を知識として知っておくことも大事なことだと思います。

KT

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2017年8月11日金曜日

学説紹介 嘉手納を弾道ミサイル攻撃から守り抜けるか

沖縄県の嘉手納飛行場は台湾に最も近接した米軍基地であるだけでなく、第一列島線上に位置する空軍基地でもあります。

米軍の対中作戦において嘉手納のような基地は戦力投射能力の基盤としての意味を持っていますが、これが弾道ミサイル攻撃で機能停止に追い込まれる危険はどれほどあるのでしょうか。

今回は、中国軍の弾道ミサイルの脅威を踏まえ、嘉手納飛行場の防空問題に関する分析を取り上げ、最近のデータも交えてその要点を紹介したいと思います。

弾道ミサイル攻撃の被害見積
1977年に撮影された嘉手納飛行場の航空写真、国土交通省作成
元海兵隊員で、米海軍大学校の元教授のMarshall Hoylerは嘉手納に対する弾道ミサイル攻撃について次のような想定で検討しています。
「中国が嘉手納の滑走路を破壊しようとすると想定しよう。高い命中精度のミサイルがあれば、わずか12発の単一弾頭で実行することができるだろう。6発の弾頭は3,700メートルの滑走路を3つに分断することが可能であり、戦闘機はおろか、AWACSや輸送機も着陸することができなくなる」(Hoyler 2010: 94)
さらにHoylerは滑走路だけでなく、地上に配備された機体もクラスター弾を搭載したCSS-6を40基ほど使用すれば一掃できると推計しています(Ibid.: 95)。

ちなみに、CSS-6(DF-15)は射程が600kmの短距離弾道ミサイルであり、中国では1990年から配備が確認されています。

2017年版の『ミリタリー・バランス』では推定81基保有していると報告されており、CSS-7(DF-11)の推計数と合計すると、短距離弾道ミサイルは189基と見積もられています(Military Balance 2017: 279)。

ただし、嘉手納飛行場には15カ所の掩体壕が設置されているので、それらに格納していれば、ある程度の被害軽減を図ることは可能とも指摘されています(Hoyler 2010: 95)。

中国軍の攻撃要領としては、まず滑走路を破壊し、航空機の離陸を封じてから、シェルターで防護されない機体をクラスター弾で広範囲に破壊する、という手順になるだろうとHoylerは判断しています(Ibid.)。

嘉手納飛行場の防空能力
PAC-3を整備する米兵、実戦での使用は湾岸戦争から始まり、米国以外では日本、韓国、ドイツ、イスラエルなどで運用されている。
弾道ミサイル攻撃が甚大な被害をもたらす危険があることが判明した以上、これに適切な対策を講じなければなりません。

Hoylerは、まず嘉手納飛行場の脆弱性を軽減するためにはシェルターを増設し、被害の局限を図るべきだと述べています(Hoyler 2010: 95)。

しかし、もちろんこの措置では発生する被害を事後的に小さくすることしかできません。

弾道ミサイル攻撃の脅威に対処する上で活用を考えなければならないのは地対空ミサイルであり、HoylerはPAC-3を分析対象として取り上げています。
「嘉手納のパトリオット高射大隊は、対弾道ミサイルPAC-3が配備された高射中隊4個からなる。パトリオット高射中隊には8個の発射装置があり、それぞれの発射装置には16発のミサイルが配備されている。嘉手納のPAC-3高射大隊が発射装置の再装填を行わないとしても、これらの数字は512発(4×8×16)のミサイルの保有を意味している」(Ibid.: 96)
沖縄に配備された高射大隊の規模から、Hoylerは264基のPAC-3が配備されていると見積っており、さらに早期警戒システムが完全に作動して撃破率が70%になると想定すると、対処可能な弾道ミサイル攻撃の規模は132基までだと述べています(Ibid.)。

先ほど述べた通り、2016年末時点での中国軍のCSS-6の推定数は81基とされているので、この数値をもとに計算すれば嘉手納飛行場に被害が生じるとは考えにくいでしょう。

ただし、軍事力に関するデータは情報源によってかなりの幅があることにも留意すべきでしょう。

この論文が出された2010年に出された米国防総省の見積では、中国軍がCSS-6を350基から400基も保有しているとの推計も紹介されています(Ibid.)。

むすびにかえて
嘉手納飛行場にとって弾道ミサイル攻撃の脅威は深刻なものですが、米軍もその脅威には相応の資源を割いて対応していることが分かると思います。

少なくとも2017年の『ミリタリー・バランス』のデータで推計する限り、嘉手納飛行場の防空能力は中国軍のCSS-6の攻撃に対処可能な水準にあるといえます。

ただし、米国防総省の見積が示唆するように、中国軍が132基以上のCSS-6を一斉に発射する能力を持っている可能性があるということも理解し、被害局限のための取り組みも進めておく方がよいということも分かりました。

こうした結果を見ると、米軍の防空への取り組み方が未だ不十分と感じるかもしれませんが、米国防総省が2010年度に調達したPAC-3の実績が791基であり、嘉手納の512基のPAC-3はその3分の2に近い数字になることも理解しておかなければなりません(Ibid.)。またPAC-3だけが弾道ミサイル防御のすべてというわけでもないことも付け加えておきます。

昨今、弾道ミサイルをめぐって東アジア情勢が不安定化しています。日本のミサイル防衛の体制をさらに改善できないか考えてみるきっかけになればと思います。

KT

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参考文献
Marshall Hoyler, China's Antiaccess Ballistic Missiles and U.S. Active Defense, Naval War College Review, Autumn 2010, Vol. 63, No. 4, pp. 84-105.
The Military Balance 2016-2017, 2017, The International Institute for Strategic Studies.

2017年8月9日水曜日

文献紹介 戦術学をゼロから学ぶ人への入門書

最近、戦術に関する入門書が少しずつ増えているようで、大変喜ばしいことだ思います。
しかし、戦術について何も知らない読者は、その書籍の内容がどれほど優れているのか、またどのような問題があるのかを判断できないため、その議論をそのまま受け取ってよいのか困ることも少なくないようです。

今回は、今年出版された戦術の入門書を取り上げ、その内容について簡単なコメントを行ってみたいと思います。

文献情報
木本寛明『戦術の本質 戦いには不変の原理・原則がある』サイエンス・アイ新書、SBクリエイティブ、2017年

戦いの原則から始まる堅実な解説
戦術学の研究文献にもさまざまなタイプがあり、思想的・概念分析的アプローチによるものもあれば、歴史的・定性分析的アプローチによるもの、そして理論的・定量分析的アプローチによるものなどがあります。

この著作は思想的・概念分析的アプローチに重きが置かれており、歴史的事例の分析や数理モデルの議論はほとんど出てきません。
その代わりに、初めて戦術に関心を持った読者が基本概念を幅広く理解することが目指されています。

著者が研究の基礎としているのはイギリス陸軍軍人フラー(J.F.C. Fuller)が提唱した「戦いの原則」です。

これは1924年に英陸軍が刊行した『野外要務令第2部』に初めて記載されたもので、後に米陸軍、陸自の教範にも影響を与えました。

その中には目標を確立してそれを徹底的に追及するという目標の原則や、戦闘で敵に対して主動的地位を確立することの意義を説いた攻勢の原則などがあり、『戦術の本質』の第1章「戦いには不変の法則がある」はほぼこれらの原則の解説に費やされています。

ストライカー旅団戦闘団に焦点
第2章以降は米陸軍の教範の記述に沿って戦術のさまざまなテーマについて説明がなされており、特に第2章「戦いの基盤」においては戦闘力の構成要素にどのようなものがあるのかが論じられています。

ここで印象的なのは、著者はあまり歴史上の部隊編制の分析に踏み込むことを避け、ストライカー旅団戦闘団(SBCT)のような現代の部隊に絞って紹介している点です。

SBCTはネットワーク化された米陸軍の歩兵部隊であり、3日間程度の戦闘を独立して遂行する能力を備えています。
SBCTは高度な指揮統制システムを持っているため、これについて知ることはサイバー戦を含めた現代の陸上作戦の様相を考える上での参考となりますし、兵站、人事、情報といった要素についても比較的丁寧に解説されています。

基本的に著者は旅団レベルの戦術を念頭に置いた議論を展開しており、以降の議論でも旅団に関する言及が繰り返されています。

分かりやすい図解、テーマの選択基準に疑問
第3章「戦いのサイエンス」では、機動や突破、迂回のような攻撃機動の方式から始まり、さまざまな戦闘行動のパターンについて説明がなされています。

どの項目を見ても概念図で丁寧に解説されているため、文章の意味がとりにくい初心者でも確実にイメージできるような工夫も見られます。

ただし、この章では当然取り上げられてしかるべき重要なテーマに関する解説が、部分的に省略されています。

例えば、著者は攻勢作戦の一種と分類される遭遇戦の解説に4頁を費やしていますが、同じく攻勢作戦の一種とされる陣地攻撃、戦果の拡張、追撃に関しては紙面を割いていません。

米陸軍の教範に依拠すると述べているにもかかわらず、独自の判断であえて一部の行動について取り上げずに済ませた意図はよく分かりません。

ただし、防勢作戦に関しては陣地防御、機動防御、後退行動に関する解説が一通り確保されていますし、数式を出さないもののランチェスターの交戦理論についても言及がなされています。

軍隊の思考過程が理解できる
第4章の「戦いのアート」では、状況判断から決心に至るプロセスが解説されており、ここでも米軍の教範の内容をほぼ忠実に記述しています。

米軍では軍事的意思決定過程(military decisionmaking process)が標準化されており、任務の受領から始まって、任務の分析、行動方針の案出、分析、比較、承認、そして計画・命令の作成に至るまでの間に、どのような事項について考察すべきなのかが定められています。

また任務の受領から命令の作成に至るまでに与えられる時間については、指揮下部隊の準備を考慮して、現在から作戦開始までの3分の1の時間だけを使用するという3分の1ルールも紹介されており、軍隊以外の組織における意思決定にも活かせる考え方が紹介されています。

ここでも著者が議論で念頭に置いているのは旅団レベルの部隊運用なので、ここでの議論も旅団本部での幕僚活動を想定したものとなっていますが、METT-TCという中隊以下の指揮官を対象とした任務分析の方法についても簡単に紹介されています。

第5章の事例研究には問題がある
残念ながら、第5章「アートとサイエンスの叙事詩」はこの著作で最も完成度が低い章であり、この著作の価値を著しく引き下げていると言わざるを得ません。

この章では米軍の教範の内容から離れて、歴史上の事例に関する分析が行われているのですが、その分析の視座は曖昧であり、事例の選択基準も明確ではなく、無理やり文章を寄せ集めた印象さえあります。

この著作は全般として戦術の入門書という性格が強いのですが、この章における事例分析に関しては時代背景の説明や基本情報の提示が不十分であり、しかも十分な根拠に裏付けられていない著者の印象論は知識のない読者を困惑させます。

気になったのは、ここまで陸上戦闘を前提にした戦術が議論されてきたにもかかわらず、海上戦闘の事例が2例ほど突然登場する点であり、これはまったく不適当な事例選択です。

しかも、著者は一貫して旅団レベルの戦術を想定して議論しているにもかかわらず、この章で取り上げられる事例はいずれも旅団レベルの運用ではないため、全体の一貫性が大きく損なわれているという問題も指摘できます。

むすびにかえて
防大12期の陸上自衛官だった著者は、富士学校の機甲部副部長や幹部学校の主任研究開発官などの職務を通じて機甲部隊の戦術研究に長く取り組まれていたこともあり、その考察には全体として堅実さと安定感があります。

現代の陸上作戦の様相を踏まえて、ゼロから戦術について勉強してみようと意気込む方であれば、この著作を通じてさまざまな戦術の基本概念を知ることができますし、より専門的な研究に移るための導入学習としてもちょうどよい教材だと思います。

ただ、本書の議論には全体として体系性に欠けるところがあります。
取り上げているテーマの選択の仕方にも米軍の教範に依拠する部分とそうでない部分があり、特に最後の事例分析に問題があることはすでに指摘した通りです。

結論として、戦術の基本概念をゼロから知りたいという方であれば、この著作はよい出発点であり、丁寧な図解だけでも読む価値があると思います。

ただ、戦術の原則や概念にあまり関心がなく、具体的な事例分析を読んでみたいという方であれば、この著作ではなく、家村和幸編『図解雑学 名称に学ぶ世界の戦術』ナツメ社、2009年、あるいはリーガン『「決戦」の世界史』森本哲郎監修、原書房、2008年などに当たることを推奨します。

KT

2017年8月4日金曜日

文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

戦術の発展を促してきた要因は一つではありません。その時代、その地域に主流だった隊形や編制、武器や装備など、多くの要因が相互に影響し合っています。
しかし、兵役制度が戦術思想の発展に与えた影響は比較的理解されているところが少ないかもしれません。

今回は、20世紀の兵役制度の変化が歩兵小隊の戦術をどのように変化させてきたのかを考察した社会学者アンソニー・キングの研究を紹介したいと思います。

文献情報
King, Anthony. 2013. The Combat Soldier: Infantry Tactics and Cohesion in the
Twentieth and Twenty-First Centuries. Oxford: Oxford University Press.

歩兵小隊の戦術が重要な理由
この研究の目的は、20世紀に徴兵制から志願制への移行が進む中で、陸軍の歩兵戦術、特に歩兵小隊の戦術にどのような変化が生じていたのかを解明することです。

20世紀初頭の各国陸軍では徴兵制で人員を集めることが一般的になっていましたが、そのときに問題となったのが戦闘効率の問題だったと著者は指摘しています。
「20世紀の大衆軍(mass armies)は近代的な武器を使用させる上で集団行為の問題の解答を探し求めるために努力した。つまり、集団としての戦闘効率は市民からなる歩兵部隊にとって問題であり続けたのだ」(King 2013: 60)
著者は第二次世界大戦で兵士の行動を調査したマーシャルの研究を取り上げ、第一線における兵士の発砲率の低さが指摘されていたことを紹介していますが、この研究は徴兵制で作り上げた陸軍の戦闘効率の低さを示唆していると評しています(Ibid.)。

しかし、マーシャルをはじめ、これまでの研究者は歩兵戦術の変化と戦闘効率の変化との関係について十分に考察しておらず、この研究はその空白を埋めるためのものとして位置付けられています。

戦術単位としての歩兵小隊の成立
著者の調査によれば、19世紀末から20世紀初頭の歩兵戦術は短間隔、つまり密集した状態で部隊が行動することが前提とされていました。

このことはプロイセン軍の『1888年教令』でも見出すことができますし、また20世紀に入ってからもイギリス軍の1909年版『野外勤務例』、1914年版の『歩兵訓練』で繰り返し表明され、そこでは歩兵中隊は砲兵の支援を受けながら、敵陣地に対して密集横隊で前進することが述べられていました(Ibid. 130)。

しかし、第一次世界大戦の戦闘経験から、こうした戦術思想は廃れていき、歩兵中隊ではなく歩兵小隊を単位とする戦術の発展が促されることになりました。

著者は1917年を一つの転換点と見て次のように述べています。
「1917年以降、基本戦術単位は小隊になり、通常3個から4個分隊から編成され、射撃で相互に前進を支援し合った。小隊を単位とする射撃と運動という戦術上の発見は重要であり、恐らくは歩兵の技術において歴史的な瞬間であった。ハンス・デルブリュックが古典時代の戦争研究において、ギリシアのファランクスがローマのレギオンに置き換えられたことを軍事的革新にとっての決定的瞬間だったと書き残した」(Ibid.: 131)
戦争の歴史ではじめて歩兵小隊が戦術単位となったことで、小隊長は小隊員を運用する高度な戦術能力を獲得する必要が生じてきたということです。

徴兵制から志願制への移行期
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて歩兵小隊の戦術が大きく発展するかと思われましたが、変化の速度は緩慢だったとされています。

著者の見解によれば、この移行プロセスを妨げていたのは徴兵制でした。
徴兵制の下では士官や下士官の戦術能力を養成する時間に制約があったと著者は指摘しています。
「専門職化(professionalization)もまた組織体としての軍隊にとって重要な事象であり、またしばしば見過ごされるものでもある。それは軍人、制度的忠誠、能力、運用効率の関係を抜本的に変えるものであった。専門職化は単なる軍隊と兵士の雇用関係の変化を表すものではない。それは軍隊において示される忠誠心、そして軍隊における組織形態に関する重大な変化を表している」(Ibid.: 208-9)
陸軍において軍事的プロフェッショナリズムが強化されるきっかけとなったのは、20世紀後半に各国で進んだ徴兵制の廃止でした。

イギリスは1960年に徴兵制を廃止し、1963年以降に徴兵で集められた兵士は陸軍からいなくなります(Ibid.: 209)。
アメリカで徴兵制から志願制に移行したのはもう少し遅く、ベトナム戦争の影響を受けて1973年に廃止しています(Ibid.)。

こうした経緯を経て職業軍人の陸軍が登場すると、これまでにない技術を歩兵戦術に取り入れて戦闘効率の向上を進めることも可能となっていきました。

近接戦闘(CQB)の研究と普及
完全志願制に移行した影響のうかがわせる出来事として著者は近接戦闘(Close Quarters Battle, CQB)の導入を取り上げています。

CQBの特徴は、指揮官が部隊行動を細かく統制できない市街戦のような場面においても、小隊、分隊、班、個人が細かく相互に支援し合いながら交戦することにあります。

これは歩兵小隊の戦術を大きく発展させる可能性がありましたが、現場ではCQBがあまりにも高度な訓練を要するという理由で、導入に慎重な意見もあったのです。
「CQBの技術は特に人質救出の任務に当たる特殊部隊のために開発されたものであり、それは特殊部隊にとって極めて重要なものであった。しかし、イギリス海兵隊のような正規の歩兵の基本的な役割は、市街地だけでなくあらゆる地形において大隊、旅団規模で機動することであった。(中略)CQBが有益であるとしても、大規模な歩兵部隊においてCQB技術の練度を十分な水準に維持することは不可能だとも論じられた」(Ibid.: 264)
しかし、徴兵制から志願制に移行したことで、職業軍人たちはこの問題に長期的に取り組むことができるようになり、研究が大きく前進することになりました。

20世紀末に近づくと、もはやCQBは特殊部隊の技術ではなくなり、歩兵小隊の戦闘訓練の基本要素として取り入れられるまでになりました。

むすびにかえて
1914年のイギリス軍が歩兵中隊を密集隊形で戦わせていた時機と比べれば、現代の歩兵戦術はまるで違って見えるでしょう。
部隊として行動を統制されることはもはやなく、兵士一人ひとりが状況に応じた行動をとり、それが小隊全体としての戦闘効率を高めているためです。

しかし、それは戦術それ自体の発展だけで説明できるものではなく、それを実行する軍人の能力の高度化をも表しており、引いては軍事組織のあり方が変わったことを示してもいます。

著者が主張しているのはまさにこのことであり、歩兵小隊が次第に独立した戦術単位となり、さらにそこからCQBを取り入れてより高度な戦術を発展させることができたのは、志願制の効果によるところが大きいと考えなければなりません。

兵役制度と戦術思想の関係を考える上で、本書は興味深い視座を示しているのではないでしょうか。

KT

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2017年8月1日火曜日

学説紹介 コリン・グレイの戦略論―攻撃と防御の区別を中心に

安全保障を研究する学者や専門家の間で広く使われている用語に攻撃(offense)と防御(defense)があり、例えば政策論争において攻撃的な戦略や装備は戦争のリスクを高める危険が生じて来る、などのような使われ方がされています。

しかし、そもそも戦争において攻撃と防御は明確に区別できるものなのか、という根本的な論点をめぐって論争があることにも注意しなければなりません。
今回は、コリン・グレイの研究でこの問題に関する議論を紹介したいと思います。

戦略レベルで攻撃・防御の分類は困難
ドイツの西部国境に沿って構築されたジークフリート・ラインには多数の障害が設置されていたが、それは東部国境において大規模な軍事行動を起こすための兵力集中を容易にしたと指摘されている。
グレイは政策や戦略の研究において攻撃と防御を単純に分類することは、特に国家の軍備を攻撃的なものと防御的なものに区別することは分析の視座として妥当とは言えず、混乱を引き起こしやすいして、次のように論じています。
「攻撃と防御は政策レベルにおける主体的な判断に属するものである。それは戦術、作戦、戦略と緊密に関連し合い、支え合うものなので、戦略の歴史を理解するための理論的基礎としての利点は乏しい。例えば、固定的な守備隊の火砲、地雷原、組織化された築城はいかなる定義においても防御的なものと思われる。戦術的に考えれば、コンクリートと鉄鋼で構築された防備はそれ以上でもそれ以下のものでもない。しかし、作戦、戦略、そして政治の観点で考えれば、1939年におけるナチのドイツ軍のジークリート・ラインは防御のための盾であったが、それは東部でポーランドに対して攻勢をとるための行動の自由をドイツに与えるために寄与するものであった」(Gray 1999: 180)
国境地帯に強固な防衛線を構築することは、その国家の政策、戦略、作戦が防御的な傾向を持つ証拠とはなり得ませんし、逆もまた然りです。

1939年にフランスがマジノ・ラインとして知られる防衛線を構築したことは、政策レベル、戦略レベルで防御を意図した結果でした(Ibid.)。

つまるところ、ある国家の軍備についてそれが攻撃的なものか、防御的なものかを判断することは極めて困難だという立場をグレイはとっているのです。

戦術レベルもまた政策・政治に左右される
グレイの戦略論はクラウゼヴィッツの思想に深く根差したものであり、政策と戦争を切り離して理解することはできないという考えに基礎を置いたものです。

そのため、グレイは戦術レベルの攻撃と防御すらも本質的に政策によって左右される性質のものであると考えており、それが冷戦期の研究者の議論で誤解されていたことを指摘しています。
「交戦の戦術レベルにおける軍事動向の意味も、その特定の政治体(polities)の政治的、社会的、文化的な属性に基づくものである。例えば、冷戦期に大国が保有する長射程の核兵器、いわゆる戦略攻撃(strategic offensive)戦力は防御手段であり、侵略のために使われることを許されていたわけでも、またそれが推奨されていたわけでもなかった」(Ibid.)
さらにグレイの研究では、攻撃的とされる弾道ミサイルや機甲師団のような軍備もまた、状況の特性や国家の意図によって防御的な性質を持ち得るものであると指摘されており、それは政策・政治レベルの判断によって左右されるものだと念を押しています。
「例えば大陸間弾道ミサイルや機甲部隊のような技術的、戦術的特徴を持つ軍事力はその地政学的な配置と保有者の戦略文化に応じて異なる戦略的意味合いを持つ可能性がある。(中略)南シナ海における優勢な攻撃的海上打撃力はその保有者が米国か中国かによってまったく違った戦略的、政治的な意味合いを持つことになるのである。したがって、攻撃と防御は政策目標の正統性に対する態度を含めた判断に依拠する。それらの性質は社会的に構築されるものである。またそれらは本質的、全般的に特定の兵器に潜むものではないのだ」(Ibid.: 181)
それゆえ、その軍備が攻撃的なものかどうかは外形的特徴で判断できるものではありません。もちろん、航続距離や射程などの性能でその兵器が攻撃的かどうかを評価することもグレイにとってはほとんど意味がないことです。

より重要なことは対象とする国家の政治的意図、つまり政策を分析することであり、攻撃的な意図を持つ国家の軍事力は攻撃的な傾向を持つだろうと推測できるに過ぎません。

むすびにかえて
攻撃と防御の関係についてはクラウゼヴィッツ以来、さまざまな分析が軍事学でなされてきた問題です。
ジョミニの戦略思想で強調された戦略レベルでの攻勢の優位は、後にヨーロッパ列強の陸軍で影響力を持ち、第一次世界大戦前の戦争計画を大きく規定したという議論もあります。

今回の議論はそうした攻撃と防御をめぐって展開されている議論の一部であり、グレイのより詳しい見解を知りたければ、Gray(1993)の第1章から第2章を参照するとよいでしょう。また攻撃と防御を明確に区別できると考える立場に立った研究としてはQuester(1977)があるので、こちらの文献も参照するとよりこの問題について深く理解できると思います。

最後に政策との関連を述べておくと、日本では専守防衛という既定方針の下で攻撃的兵器と分類される装備を保有することを認めてはいません。しかし、グレイの研究はその方針にどれほど意味があるのか改めて問う必要があることを示唆していると思います。

KT

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論文紹介 安全保障のジレンマの原因は軍備それ自体ではない

参考文献
Gray, C. S. 1993. Weapons Don't Make War: Policy, Strategy, and Military Technology. Lawrence:  University Press of Kansas.
Gray, C. S. 1999. Modern Strategy. Oxford: Oxford University Press.(邦訳、グレイ『現代の戦略』奥山真司訳、中央公論新社、2015年)
Quester, G. H. 2002(1977). Offense and Defense in the International System. New York: Routledge.

2017年7月27日木曜日

学説紹介 現存艦隊(fleet in being)とは何か

戦略はその達成目標の内容が積極的なものか、消極的なものかによって攻勢と防勢に分類できます。

海軍戦略においても攻勢的なものと防勢的なものがあると考えられていますが、海軍の研究者は防勢作戦について現存艦隊(fleet in being)という概念を中心に議論してきました。

今回は、イギリスの研究者ジュリアン・コーベットの解説に依拠しつつ、現存艦隊の原則がどのようなものであるかを紹介したいと思います。

現存艦隊は何を意味するのか
イギリスの研究者ジュリアン・コーベット(Julian Corbett 1854 - 1922)『海洋戦略の諸原則』等の業績で知られている。
そもそも海軍の作戦において防勢というものがどのようなものかという点から考えてみましょう。コーベットは次のように述べています。
「海上での主たる概念は、状況が私たちに有利に展開するまで艦隊を現存させておくよう、戦略的ないし戦術的活動によって決戦を避けることである。私たちの海軍の黄金時代には、海軍防衛の基本方針は機動性であって急速ではなかった。その考えは、攪乱作戦により管制を争うこと、私たちが好機だと思う時と場所で管制を行使するのを行使すること、そして敵の注意を常に引くことで優位に立っているにもかかわらず敵が管制を行使するのを阻止することだった」(コーベット『海洋戦略の諸原則』319頁)
要するに、海上作戦における防勢は陸上作戦の防勢とは異なり、陣地に立てこもって戦うことを意味しません。重要なのは敵主力との決戦を避ける機動であり、断続的に敵の海上交通を脅かすことです。

これはゲリラ戦の様相に似ているともいえるかもしれません。コーベット自身も「もちろん、陸上ではこうした防衛手段も良く知られているが、通常の作戦よりはゲリラ戦争に属している」と述べています(同上)。

したがって、「現存艦隊」とは単純に受け身に回る作戦として理解すべきではありません。現存艦隊はこうした海上での防勢を効果的に遂行するため、機動的かつ遊撃的に行動する戦略思想であり、イギリス人は古くからこれを実践してきました。

ウィリアム王戦争におけるイギリスの現存艦隊
初代トリントン伯爵ハーバート(Arthur Herbert, 1647 - 1716)の肖像画、「現存艦隊」の提唱者として知られている。Portrait by John Closterman of Arthur Herbert, 1st Earl of Torrington, British admiral and politician.
コーベットは海軍が戦略的防勢を実施することはできないとする見方が一部にあることを批判した上で、海軍が防勢戦略を成功させてきた歴史をよく研究すべきだと促しています(同上、316-7頁)。

その具体例として取り上げられているのはウィリアム王戦争(1689-97)ですが、ここではその要点だけを紹介しておきます(同上、321-324)。

1690年6月13日にフランス艦隊70隻がブレストから出撃し、イングランド南岸に位置するワイト島の沖合でイギリス艦隊56隻と接触しました(同上、323頁)。

当時、イギリス艦隊を指揮していたトリントン卿は、眼前に出現した敵艦隊の方が優勢だと判断すると予定を変更し、エセックス海岸の沖合まで後退してでも、戦闘を回避することを決心します(同上)。

当時の政府はトリントンの決定の意味が理解できず、閣僚の一人ノッティンガム伯は「それでは艦隊は維持できるかもしれないが、それ以外のすべてを破壊に晒すことになる」と不満を述べました(同上、325-6頁)。

しかし、当時の戦略環境をよく把握していたトリントンは、間もなく到着するであろうオランダ海軍の来援を待ってからフランス艦隊と交戦すべきだと判断し、当面の間はフランス艦隊の監視と追跡に徹したのです(同上、326-8頁)。
「船が扱いにくく艦隊戦術がまだ初期の段階だったトリントンとトゥールヴィルの時代には、覚悟を決めた敵が一度接触すると、退却する港が開かれていない限り、交戦を避けることの困難は間違いなく大きなものだった。しかし、海戦術が発展するにつれて、「現存艦隊」の可能性は、少なくともイギリス海軍では、ずっと大きいと見なされた」(同上、331頁)
ちなみに、海上戦闘の特性については現代においても「戦闘は即決戦となり、その結果は完全な勝利か壊滅的敗北化のAll or Nothingとなる特徴がある」と指摘されており、相応の勝算を持っていなければ海上戦闘は行うべきではないという原則は今でも変わっていません(平間、183頁)。

当時、トリントンがとった戦略は現存艦隊の原型として位置付けることができるものでした。
結局フランス艦隊はドーバーまで進撃しますが、決戦を避けるイギリス艦隊を捕捉することが難しく、思い描いた勝利を収めることができないまま退きました。

トリントンの戦略はフランス艦隊は優勢な戦力を有効に活用し、戦果を上げることを防ぐことに成功したといえます。

むすびにかえて
トリントンが定式化し、また実践してみせた現存艦隊という戦略思想は、その後のイギリス海軍にも受け継がれることになり、優勢な敵に対して制海権を渡すことを防ぐために活用されることになります。

現存艦隊の考え方はやや馴染みが薄いかもしれませんが、必ずしも完全に受け身の戦略ではなく、あくまでも時間的猶予を獲得したり、敵の戦闘力を消耗させる狙いで行われるものであり、その意味では弱者の戦略ともいえるかもしれません。

劣勢の戦力でもって優勢な戦力の企図を挫くという発想は、専守防衛を掲げる現在の日本の戦略にとっても参考になるところが少なくなく、例えば東アジア地域において潜水艦作戦や機雷戦、地対艦ミサイルなどの手段を駆使した場合、現存艦隊の構想はどのような中身を持ち得るのかなどは興味深い論点だと思います。

KT

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論文紹介 海洋戦略の観点から見た日本の島嶼防衛

参考文献
ジュリアン・スタフォード・コーベット『海洋戦略の諸原則』矢吹啓訳、原書房、2016年
平間洋一「現代の海上戦力」防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年、176-94頁

2017年7月22日土曜日

学説紹介 「攻撃的兵器」の分類に根拠はあるのか

日本は専守防衛の観点から、いわゆる攻撃的兵器を保有しない政策をとっていますが、その分類には何か学問的根拠があるのでしょうか。
そもそも、何のために兵器が攻撃的なものと防御的なものに区別されることになったのでしょうか。

この疑問について答えるためには、国際政治、安全保障の研究動向を少しさかのぼる必要があります。

今回は1940年代から1990年代にかけて技術と軍事バランスの関係をめぐる政治学者の学説をいくつか紹介し、そこで攻撃能力と防御能力が区別されるようになった経緯を説明したいと思います。

1940年代から1960年代までの代表的な研究
兵器を攻撃的兵器と防御的兵器に区別されるようになった遠因は、1945年の核兵器の登場にあります。
この出来事で軍事技術上の革新が世界の軍事バランスを一変させる可能性があることが学者の間で強く認識されるようになり、さまざまな研究が発表されました。

米国の研究者クインシー・ライト(Quincy Wright)も技術力と軍事バランスの関係に関心を寄せた一人であり、1949年の彼の論文「近代テクノロジーと世界秩序」は技術力が国際情勢に及ぼす影響を指摘するものでした(Wright 1949)。

また米国の政治学者バーナード・ブロディ(Bernard Brodie)らが著した1962年の著作『クロスボウから原爆まで』も、軍事史の観点から武器の発達を辿る試みであり、技術革新が戦争の歴史に与えた影響が考察されています(Brodie and Brodie 1962)。

とはいえ、ライトとブロディは軍事バランスにとって技術力が与える影響が存在することを示唆するにとどまり、それに基づいて具体的なモデルを構築するところにまでは至っていませんでした。

こうした課題が解決されるのは1970年代の後半に入ってからのことであり、二人の政治学者の業績がその後の議論の潮流を作り出しました。

「安全保障のジレンマ」で予想された技術の影響
技術力と軍事バランスの関係を考える上で現在でも広く知られる業績は米国の政治学者ロバート・ジャーヴィス(Robert Jervis)によるものです。

ジャーヴィスは1978年に「安全保障のジレンマの下での協調」と題する論文において、攻撃能力と防御能力とを区別しています。

そして、前者が強化されるほど国家間で安全保障のジレンマが悪化し、戦争のリスクが高まると論じたのですが、その際に地理的要因と技術的要因によって国家の攻撃能力が大きく左右されることも指摘しました(Jervis 1978)。

こうして攻撃能力を強化する技術が確立されることの政治的な危険性が示されることになったのですが、当時のジャーヴィスの議論で想定されていた技術は核兵器に関するものだったため、通常兵器の問題にはあまり踏み込んでいませんでした。

それでも、ある軍事技術には攻撃能力、別の軍事技術には防御能力を強化する場合があることが区別されたこと、そして技術力によって軍事バランスが大きく変化する可能性があることが研究者の間で広く認識されるようになったのは、ジャーヴィスの功績によるところが大きかったといえます。

「攻撃的兵器」としての戦車?
ジャーヴィスの業績に対して独立した研究であり、やや知名度で劣るところがあるかもしれませんが、ジョージ・クエスター(George H. Quester)も同じ問題について考察しています。

クエスターも国際システムにおいて攻撃能力と防御能力との軍事バランスが崩れた場合、国際紛争が起こる危険が高まると指摘しました。

この議論が展開された彼の著作『国際システムにおける攻撃と防御』の特徴ですが、それは通常兵器の問題も取り扱われていることです。

ジャーヴィスよりも攻撃能力を強化する技術の内容がより厳密に特定されていたことも注目に値します。

クエスターが攻撃能力を強化する技術の産物と見なしたのは、端的にいえば攻撃の速度、機動力(mobility)を向上させる機能を持つ装備でした。

その典型的事例として挙げられているのが第二次世界大戦における戦車であり、この装備が開発されたことが第一次世界大戦のような塹壕戦の再来を防いだと論じられています。

これは攻撃的兵器と防御的兵器の区別の一例ですが、特定の技術が戦争を引き起こすリスクを高めることに関する一つの説明として使われています。

確かに第二次世界大戦では戦車の研究開発が著しく、第一次世界大戦のような塹壕戦による手詰まりを回避する上で歴史的役割を果たしたかもしれません。

しかし、このようなクエスターの判断は一面的に過ぎるという批判も後の議論で加えられることになり(e.g. Levy 1984)、機動力だけで攻撃的兵器かどうかを判断することはもはや妥当とは考えられなくなってしまいました。

むすびにかえて
最後に強調すべきことは、現在に至るまで研究者は攻撃能力と防御能力とをどのような基準で区別すべきかという論点をめぐっては明確な結論を出せていない、ということです。

確かにジャーヴィスとクエスターが指摘したように、攻撃能力を持つ国家と防御能力を持つ国家との軍事バランスが前者にとって有利になれば、抑止はより困難となり、戦争のリスクが高まるでしょう。

この議論は安全保障のジレンマとして定式化され、今でも国際政治の授業で紹介されていますし、政策論争でもしばしば持ち出されている概念です。

しかし、そのような因果関係が理論的に説明されたとしても、攻撃的兵器と防御的兵器を区別すること自体が非常に難しいので、その概念に基づく情勢判断には慎重になる必要があります。

またジャーヴィスが言及した地理的要因も攻撃能力を強く制約する場合があることも忘れてはなりません。

結局、攻撃と防御は状況に応じて自在に変化するものであり、一体不可分の作戦行動として考えるべきものです。

特定の技術や装備が攻撃能力だけ、または防御能力だけを強化するはずだという議論は単純すぎるでしょう。

それでも攻撃的兵器と防御的兵器とを区別し、日本は攻撃的兵器の調達を避けるべきだという議論を続けたいなら、その定義や条件を明確にすべきでしょうし、そこに恣意的な判断が含まれていないかよく検討されるべきだと思います。

KT

参考文献
Brodie, B. and F. M. Brodie. 1962. From Crossbow to H-Bomb: The Evolution of the Weapons and Tactics of Warfare. Indiana University Press.
Jervis, R. 1978. "Corporation under the Security Dilemma," World Politics, 30(2): 167-214.
Levy, J. S. 1984. "Offensive/Defensive Balance of Military Technology: A Theoretical and Historical Analysis," International Studies Quarterly, 28.
Wright, Q. 1949. "Modern Technology and the World Order," in W. F. Ogburn, ed. Technology and International Relations. University of Chicago Press.

2017年7月18日火曜日

学説紹介 脅威認識が国家の動員応力を向上させる―16世紀オーストリアの事例

戦争の歴史は国家の歴史でもあります。古代から現代に至るまで、国家は自らを防衛するために大小さまざまな戦争を遂行してきましたが、その遂行能力はいつの時代も国家の動員能力の上限によって制限されていました。

今回は、財政史という観点から国家と軍隊の関係を歴史的に考察し、戦争が国家体制の近代化を促したとするシュンペーターの考察を紹介したいと思います。

シュンペーターが注目した財政と国家の関係
ヨーゼフ・シュンペーター(1883年2月8日 - 1950年1月8日)
オーストリア・ハンガリーの経済学者
ヨーゼフ・シュンペーターは恐らく20世紀前半に活躍したオーストリア・ハンガリー帝国の経済学者として有名ですが、政治学においても広くその名が知られている研究者です。

シュンペーターの関心は財政の観点から近代国家の成り立ちを考察することにも向かっており、その思想は第一次世界大戦が終わった1918年に刊行した著作『租税国家の危機』で知ることができます。

この著作で展開されている思想にはさまざまな側面がありますが、特に興味深いのは財政状態があらゆる国家政策を規定してきたという視点を示し、近代国家の成り立ちもこの視点から説明できるとしているところです。

このような視点は必ずしもシュンペーターの独創ではなく、もともとゴルトシャイトという社会学者の研究によるところがあり(邦訳、シュムペーター、10頁)、シュンペーター自身も彼の研究を出発点として次のように述べています。
「何よりもまず、どの国民の財政史も、その国民の歴史一般の本質的な部分である。すなわち国民の運命に対する巨大な影響は、国家需要によって強要される経済的瀉血とこの瀉血の成果がどのように利用されるか、その方法いかんから生ずる」(同上)
つまり、国家の政策の根本は、どれだけの税収を得て、どのような予算を組むかにあり、その内容を詳細に検討すれば、多くの歴史的事象を説明できると考えたのです。

16世紀に神聖ローマ帝国を統治したカール五世の政策が財政的必要によって方向付けられていた事例があり、また17世紀のフランスでコルベールが全国にツンフト制度を導入しようとし、またプロイセンでフランスから職人の移住を大規模に受け入れた背景にも財政的事情があったとシュンペーターは指摘しています(同上、11頁)。

封建的国家の政治的、財政的、軍事的限界
『ニュルンベルク年代記』の挿絵では神聖ローマ帝国の政治構造がイメージとして描き出されており、中央に神聖ローマ皇帝が座っているが、その同列の左側に3人の聖職者、右側に4人の選帝侯が立っている。
財政と国家の関係を考える大きなメリットとは戦争や軍事的脅威の接近が国家体制に与える影響を定量的な形で把握できることだといえます。

シュンペーターは中世末期において国家体制が封建的形態を捨てた理由についていくつか検討しているのですが、オーストリアにとって特に大きかった要因はオスマン帝国の軍事的脅威だとされています。

そもそも封建的な国家体制はどのようなものかといえば、さまざまな国内勢力、例えば貴族、聖職者、都市市民、自由農民に対して国家の一般的な課税権を行使することができず、戦時といえども動員できる国内の資源は非常に限定的だったとして、次のように論じられています。
「14世紀、15世紀の領主は、その土地の無条件の支配者ではなかったのであって、そうなったのは三十年戦争の後のことである。等族、すなわち、まず第一に、種々の範疇の貴族、それより低い程度で僧侶、さらにいっそう低い程度で都市の市民、最後にティロールおよび東フリースラントのあちこちに存在していた自由農民―これらは、地方領主に対抗して、自己の権力と自己の権利にもとづく強固な地位をしめていたが、その地位は、根本において領主的地位と本質を等しくし、本質的に同じ認可にもとづき、本質的に同じ要素を内容とするものであった」(同上、15頁)
つまり、このような非集権的体制では一般的な租税義務がないため、近代的な意味での国家財政というものも存在し得ませんでした。

それゆえ、国家を統治する権力者(国内の一部の直轄領を経営することで収入を得ていましたが)は、軍隊を招集する際には自分で防衛支出を負担するだけでなく、各地の封建貴族が自費で賄う兵力を招集していましたが、やはり動員能力で限界がありました(同上、22頁)。

シュンペーターの調査によれば、当時オーストリアを支配するハプスブルク家は世襲領でライン貨30万グルデンの収入を得ており、最大6000名の歩兵、2500名の騎兵の年間維持費を支払うことができましたが、当時のトルコ軍がヨーロッパに差し向けていた兵力およそ25万名だったため、軍事バランスで圧倒的に劣勢でした(同上、23頁)。

脅威の認識が国家の動員能力を強化した
スレイマン一世の時代にオスマン帝国はビザンツ帝国を滅ぼし、その勢力を中央ヨーロッパ方面にまで拡大しつつあった。この脅威を受けて神聖ローマ帝国は構造改革に乗り出すことで、より大規模な軍備を整備できる体制を整えていった。地図はオスマン帝国の領域が最大となる1683年のもの。
シュンペーターは、オーストリアの政治史においてトルコという脅威が共通の認識になったことが、国家体制の再構築に繋がったと考察しており、次のように述べています。
「例えば、トルコ戦役のような事態は、たんにかれの個人的な事柄ではないこと―すなわち、「共同の困難」であることを指摘した。そして、等族はこれに同意した。かれらがこれに同意した瞬間に、一つの事態、すなわち、租税の徴求はしないという紙の上の保障はずたずたに切り裂かれねばならなかったところの事態が承認されたのである。すなわち、この事態のもとでは、全人格を超個人的な目的体系につないでいた旧い形態が死滅し、そして、どの家族にとっても、個人経済というものがその存在の中心となって、そこに一つの私的領域が基礎づけられる。そして、これにたいしては、今や、公的領域が何か異なったものとして対置されることになったのである。「共同の困難」から国家は生れたのである」(同上、24頁)
こうしてオーストリアではトルコという「共同の困難」が共通の脅威認識となったことで、それまで租税負担を免れてきた貴族は、同意を得ることを条件としながらも、国家の防衛負担を担うことになりました(同上、25頁)。

そして、このような形態の国家体制を確立するための闘争は、オーストリアだけでなく、ヨーロッパの至るところで展開されることになり、封建的な国家体制は解体し、近代的な国家体制が発展するきっかけとなったとシュンペーターは考えています。

むすびにかえて
軍人にとって戦争の問題で思い浮かべるのは、兵士、武器、糧食であって、貨幣ではないかもしれません。というのも、軍人はすでにこうした手段を与えられた状態で戦争を遂行するためです。

しかし、実際に戦争を計画し、遂行する政策決定者の立場からすると、事情はまったく違って見えます。戦争を遂行するということは、所要の兵力を確保するところから始まっており、必然的に戦争遂行は経済・財政運営と直結しているのです。

シュンペーターの思想については、社会主義国家の成立との関係で検討すべき議論も含まれているのですが、財政と国家、そして戦争の関係は一体不可分のものであり、これらを包括的に検討することが重要であることを私たちに教えてくれるのではないでしょうか。

参考文献
Schumpeter, Joseph A. 1918. Die krise des steuerstaats. (邦訳、シュムペーター『租税国家の危機』木村元一、小谷義次訳、岩波書店、1983年

2017年7月15日土曜日

論文紹介 攻撃的な軍事教義ではなく、戦術的な非効率性が問題だった―第一次世界大戦の考察―

第一次世界大戦があれほど多くの犠牲者を出してしまったことの説明として、列強の軍事教義がいずれも攻勢を重視する傾向にあったことを重視する説があります。
つまり、技術進歩で武器の火力が増大し、防御がますます容易になるにもかかわらず、間違った戦闘教義を採用した結果、あれほどの損害が出てきたという見方です。

今回はそうした見解に批判的な歴史学者マイケル・ハワードの研究を取り上げ、第一次世界大戦で多大な犠牲が出た背景には教義以前に陸軍の戦術能力の問題があったとする説を紹介したいと思います。

文献情報
マイケル・ハワード「火力に逆らう男たち―1914年の攻勢ドクトリン」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、447-461頁

フランス陸軍での戦術研究の動向
第一次世界大戦が勃発する前からヨーロッパ列強の軍人の間で技術革新による火力の優勢がますます強化される傾向にあることをはっきりと認識していたとハワードは論じています。

しかし、その火力の強化が戦場で攻撃者を有利にするものなのか、それとも防御者を有利にするものか、という点で意見が分かれていました。
「一方の側では、ヤン・ブロッホが1898年に公刊した何巻にも及ぶ膨大な著書『将来戦』で強調したように、将来は正面への突撃は単にどうしようもなく高価なものとなるだけでなく、統計的に不可能になる、と主張された。(中略)しかし、ブロッホは民間研究者であったし、軍人の側では、新しいテクノロジーは防御と同程度以上に攻撃にも有利に働く、という意見が優位を占めた」(ハワード、448-9頁)
第一次世界大戦の壮絶なまでの火力を考えれば、攻撃を可能とする軍人側の意見はあまりにも楽観的に思えます。
しかし、これは根拠のない議論ではなく、軍人は火力の優勢の問題について認識を持っていました。

例えば、フランス陸軍大学校で教鞭をとっていたフェルディナン・フォッシュは「その手前にほとんど通過不能な地域が横たわる。そこでは、弾の雨が地面を叩き、掩護された前進経路は残っていない」と書き残しており(同上、449頁)、攻撃を成功させるにはこの地域を突破する方法を明らかにしなければならないと考えていました。

フランス陸軍が1875年の歩兵操典の改訂で散兵を攻撃を実施するための隊形として位置付けるようになったことは、そうした問題意識に対する対応の一つでした(同上、450頁)。
それまでのフランス陸軍では散兵は密集隊形の部隊よりも前方に進出し、その部隊の突撃を支援するものだと見なされていたのですが、もはやすべての部隊が散兵として攻撃を行うようになっていったのです。

ただし、問題もありました。フランス陸軍の中では密集隊形を必要とする保守的な意見が根強く残っていたため、新たな歩兵戦術は必ずしも共通の認識にならず、教育訓練や調査研究も決して十分に実施されなかったのです。

19世紀後半に密集隊形を支持する軍人がいたことは、現代の我々にとっては不思議なことに思えますが、当時の多くの士官は散兵のまま戦ったのでは兵士が容易に仲間を見失い、すぐに敗走すると思っていたのです(同上)。
1894年にフランス陸軍の歩兵操典では「肘と肘を接した密集体系で、ラッパとドラムの響きに従って」攻撃せよと規定された背景には、こうした兵士の戦場心理に対する懸念がありました(同上)。

しかし、第一次世界大戦が勃発する前の歩兵操典の改訂(1904年12月)によってフランス陸軍はまた散兵を全面的に導入する方針に切り替えました。
ただし、このときには陸軍内部で戦闘教義をめぐる深刻な内部分裂が巻き起こり、結果として意図した戦術の改革に繋がらなかったとハワードは評価しています(同上、453頁)。

軍人の一部は火力の優勢を機動の工夫で戦術的に対応できるという着想を得つつあったのですが、その研究はまだ結論を得ておらず、具体的な成果としてまとまることがありませんでした。

戦術的な非効率を合理化した消耗戦略
新たな技術環境に適応するための戦術の研究が完成しないまま1914年の戦争勃発を迎えたことは、戦闘効率で大きな問題を引き起こしました。
ハワードは1914年のフランス陸軍の問題は攻勢的な軍事教義を持っていたかどうかではなく、そもそも軍隊として効率的ではなかったことだと指摘しています(同上、458頁)。

フランス陸軍の士官は野戦での戦術能力が十分に訓練されておらず、「戦争が始まったとき、フランス軍の各級指揮官は、何らかの体系的な訓練計画にしたがって反応するよりも、直感的に反応した」と述べられています(同上)。
その代償としてフランス陸軍は1914年8月上旬に西部戦線に投入した150万名の部隊のおよそ25%に当たる38万5000名の兵士をわずか6週間で失っています(同上)。

興味深いハワードの指摘として挙げられるのは、これら序盤の損害の大部分が陣地攻撃ではなく、遭遇戦の中で発生していることです。
つまり、準備された陣地に対する攻撃ではなく、敵と味方が戦場で縦横に機動している最中に起こる戦闘で大きな損害が発生していたのです。
このことから、現場で真っ先に対応に当たらなければならない下級指揮官の戦術能力に問題があったことが伺われます。

西部戦線が大規模な塹壕戦の局面に入ったのは1915年以降のことであり、ハワードはこの時期から次第に防御陣地を全面的に破壊する砲兵火力の掩護が攻撃の成功に不可欠だという見解が形成されていったと述べています。
「しばしば攻撃は成功したが、ドイツ軍陣地に侵入して設定された橋頭堡は、十分に長期間保持するように早期に増援できなかったので、これらの失地を回復するためにドイツ軍が迅速に行った逆襲に抵抗できなかった。そして連合軍は多大の損害を出して出発地点に押し戻されるのがつねだった。唯一の解決策は逆襲に対して脆弱でない橋頭堡を確立するために、十分に広い戦線で攻撃すること、それも防者の抵抗力を全面的に破壊するほど猛烈な砲兵火力の掩護の下に攻撃することであると思われた」(同上、459頁)
しかし、砲兵の火力支援を受けながら広正面で実施される攻撃も時間がたつにつれて対策が編み出されてきました。

1916年のソンムの戦いでイギリス陸軍は突撃に先立ち集中的な砲撃を加えていますが、強固な地下壕を持つドイツの防御陣地を完全に破壊し尽くすことができず、手痛い反撃を受けて甚大な損害を出しています(同上、459-60頁)。

重要なのは、このソンムの戦いで示された戦術上の行き詰まりが消耗戦略の手段として合理化されるきっかけになったということです。

ハワードの視点からすれば、これは戦略的な必要性に基づく戦術の選択ではなく、戦術上の非効率性を戦略用語で覆い隠すものでした。
「攻撃は12月まで続いたが、そのときまでに戦闘に加わった英仏陸軍は50万近くの損害を生じた。しかし、そのときまでには戦いの目的が変わった。それはもはや地域を占領することではなく、ヴェルダンで攻撃したときのドイツ軍の本来の目的のように、ドイツ軍を戦わざるをえないようにし、その兵力を使用しつくさせることであった」(同上、460頁)
むすびにかえて
第一次世界大戦で大きな損害が出た原因についてハワードは攻撃的な軍事教義の影響をあまりに過大視すべきではないという立場をとり、次のように論じています。
「1914年以前に流行した攻勢のドクトリンと第一次世界大戦間に生じたおそるべき大損害とをあまりにも密接に結びつけようとするのは誤りだろう。新しい火力の強さの下では重大な損失が不可避なものと受け取られたことは事実である。(中略)しかし、戦争における士気の至高の重要性とあらゆる障害に直面しても攻撃的精神を維持することの必要性に関して、1914年以前に書かれたものの大部分は、あらゆる時代の戦争に妥当する心理を言い直しただけに過ぎない」(同上、460-1頁)
ハワードの眼から見てより深刻だったのは、教義の問題ではなく陸軍としての効率性の低さであり、特に「必要な規模で火力と運動を結合するときのまった組織的な問題」でした(同上、461頁)。
これはどのような時代にも繰り返し現れる戦術問題でしたが、第一次世界大戦でこの問題を解決するためには長い時間がかかりました。

一般に戦術は戦略に従いますが、だからといって戦術の問題が戦略の問題よりも重要性が小さいと理解すべきではありません。
そもそも戦術の問題が解決できていないにもかかわらず、どのような戦略が実行可能だと主張できるのでしょうか。

KT

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2017年7月13日木曜日

論文紹介 市街戦でも榴弾砲は活用できる

砲兵はその強力な火砲の威力を随時、随所に発揮し、歩兵や戦車の攻撃前進を支援することができます。
しかし、砲兵火力は市街地に立てこもる敵が相手になると、さまざまな建物で弾道が妨げられ、その威力を発揮しにくいという問題もあります。

今回は、そんな砲兵部隊が市街戦で火力を発揮するため、どのような射撃方法を採るべきかを考察した砲兵科下士官の論文を紹介したいと思います。

論文情報
Coyle, Patrick J. "Indirect Fire in MOUT," Infantry, Vol. 72, No. 2(March-April 1982), pp. 11-13.

市街地に数多く生じる死角の問題
市街地は部隊行動にとって狭隘なだけでなく、無線通信が通じにくいことも多く、部隊は容易に現在地を見失います。これら事情によって砲兵部隊は市街地でさまざまな戦術問題に直面することになります。
高層建築物で掩護された目標に対してどのように射撃を行うのかもその一つといえます。

この論文で著者が取り上げているのは、市街地に特有の高層建築物で掩護された射撃目標、いわば砲兵にとって死角に潜む目標を榴弾砲で撃破する方法です。
「これら弾道学的な諸問題の基本とは、都市部における目標に対して射撃を行う間接照準射撃装備〔火砲〕の限界である。この問題は火砲から放たれた砲弾の落角(angle of fall)と建築物の高さが組み合わさることで生じる。この組み合わせが間接照準射撃にさまざまな大きさの死角をもたらし、そこに適当な数の砲弾を到達させることができなくなる」(Coyle 1982: 11)
落角とは射撃用語の一種であり、弾道の原点から延びる延長線と砲弾が落下する際に描く線とが交わる角度をいいます。地面に対する砲弾弾道の入射角とイメージしてもよいでしょう。

いくら強力な榴弾砲といえども、射撃の目標となる敵陣地や敵部隊が建築物で掩護されていれば、命中させることは物理的に不可能です。
これは高層建築の密度が高まる都市中枢において特に深刻な問題であり、この地区に突入する歩兵部隊は必要な火力支援を要請できないということになってしまいます。

しかし、著者はそのことを理由に砲兵火力の利用をあきらめるのではなく、市街戦に特有の砲兵火力の利用方法を考えるべきだという立場をとっています。

砲弾の落角を大きくせよ
この問題を解決する最も単純な方法は陣地転換であり、邪魔になっている建築物を避けるように火砲を移動させるべきです。しかし、これは敵を掩護する建築物が1カ所だけに存在する場合にしか通用しません(Ibid.)。

そこで第二の方法として著者が提案するのは、地面に対する砲弾の落角を可能な限り大きく調整するという方法です。分かりやすくいえば、砲弾が弾道の頂点に達してから地面に落下するまでの角度を大きくするような射撃をせよ、ということです。
まるで迫撃砲の射撃について話しているようですが、著者がここで念頭に置いてるのはまぎれもなく榴弾砲であり、榴弾砲も市街戦ではこのような射撃方法を行うべき場合があると論じているのです。

このような射撃をすれば敵の対砲迫レーダーで容易に部隊の場所が特定されてしまうことは明らかなので、著者の主張は一見すると不可思議に思えるかもしれません。しかし、著者はこの方法には戦術的な正当性があるとして、次のように論じています。
「対砲迫レーダーを回避するため最小限の射角で射撃せよと指示する陸軍の現行教義と、この問題解決法は明らかに対立している。しかし、これは二つの理由で市街戦において許容可能なリスクである。第一に、市街地の地形は対砲迫レーダーの精度を低下させる。第二に、射角を増すことによって高層建築物のより近くに火砲を前進させることが可能となり、敵の間接照準射撃の死角に入ることになる」(Ibid.)
つまり、市街戦では地形の影響で射撃音が乱反射するため、砲兵部隊の場所が特定されるリスクは野戦よりも大幅に小さくなります。さらに、射角を大きくとれば建築物の近くで火砲を使用できるため、砲兵部隊も装備を建物で掩護しながら射撃可能できると著者は訴えているのです。

詳細な実施要領は伏せられていますが、著者は155ミリ榴弾砲のような装備でも適用可能な方法だと示唆しており(Ibid.)、市街戦における米陸軍の砲兵射撃の考え方を抜本的に見直すことを促しています。

実施の際に注意すべき事項
ただし、このような運用方法には注意事項があるとも著者は述べています。それは射角を小さくするほど掩護に使う建物から火砲を離しておく必要があることと関係があります。

もしその火砲が1070ミル(*)以上の射角で射撃を行っている場合、掩護として使う建物の高さの半分に当たる距離を超えて火砲を接近させてはいけません(Ibid.: 12)。
また800ミルよりも大きな射角で射撃を行う場合、その建物の高さと同じだけの距離を確保しなければなりません(Ibid.)。
最後に、535ミルよりも大きな射角で射撃を行う場合、建物の高さの2倍の距離を確保するようにすべきです(Ibid.)。

著者は以上の原則さえ覚えておけば、地面に対する砲弾の落角を大きくすることが可能となり、建物が密集する地区の目標であっても撃破できると述べています。

むすびにかえて
現代の戦争でも市街地は防御者に有利な地形であり、砲兵火力を発揮しにくい地形であるという事情は大きく変わっていません。
著者の研究はそうした状況を受け入れたとしても、砲兵火力の利用を全面的に断念すべきではなく、その地形に応じた射撃によって火力支援を行うことが戦術的に可能な場合があることを示唆してみせたのです。

提案の実用性についてはより詳細な検討が必要ですが、市街戦における砲兵部隊の戦術について理解を深めることに繋がる興味深い議論だと思います。

補足(*)ミルは射撃で一般的に使用されている角度の単位であり、1ミルは円周の6400分の1の弧に対する角度をいいます。もしある基線に対して1ミルの角度をつけて射撃を行えば、1000メートル先で基線から1メートル離れたところに弾丸は命中すると見積もることができます。

KT

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2017年7月9日日曜日

事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難

19世紀のイギリスにとってロシアの脅威からインドを防衛することは、経済的に極めて重大な意味を持っていたが、小規模な陸軍では所要兵力を現地で維持できないという問題が生じていた。(Richard Simkin. 1896)
近代史において国際貿易は常に重要な国家政策の問題でした。
特に19世紀のイギリスは自国通貨を中心とする国際レジームで巧妙な通商政策を展開し、自国経済成長に繋げてきたという歴史があります。

ただし、軍事的観点から見れば、こうした海外市場に頼って成長する経済政策には軍事的な限界もありました。経済的利権がある地域で安全を確保するには、それだけ軍備の広域的配備を必要とするためです。
したがって、自国経済と世界経済の一体化が進むほど、有事における兵力の集中が妨げられやすくなるのです。

今回は、この問題を考えるために、19世紀後半のイギリスの戦略、特にインド防衛のための対ロシア戦略について取り上げます。

戦略の観点から見たインド問題
20世紀初頭のインド帝国の地図、色ごとに主要宗教の信者の分布が示されている。ロシア軍の脅威を最も受けていたのは北西のアフガニスタン方面であり、ロシア軍は1885年にアフガニスタン国境付近のペンジャを攻略占領していた。John George Bartholomew. The Imperial Gazetteer of India, Oxford University Press, 1909. 
19世紀後半、イギリスは全世界に植民地を保持していましたが、その中でも特に重要だったのはインドの植民地でした。

当時、イギリスは欧米諸国に対する貿易赤字が膨張する傾向にあったので、国際金融体制における自国通貨ポンドの価値を維持するには輸出拡大が必要でした(川北『イギリス史』1998: 310-2)。
そこでイギリスは本国で生産される綿製品などの消費財をインドに集中的に輸出できるように関税を操作し、貿易赤字を削減していたのです。

いわば、インドはイギリスの貿易収支を調整する安全弁としての役割を与えられていたので、1880年代、中央アジア方面からロシアの脅威がインドに迫ると、インド防衛のためにイギリス陸軍として対応が求められることになります。

当初、イギリス陸軍が策定した戦略は、いわゆる前方防衛(forward defense)であり、インドよりも北方の地域で防衛線を構成するというものだった、と研究者のグーチは指摘しています。
「1884年、ロシアはメルヴ〔現トルクメニスタン〕に進攻し、翌年にはアフガニスタン国境のペンジャを制圧したため、ロシアによるアフガニスタン国境を越えたインド進攻が、イギリス本土に対する進攻よりも現実味を帯びてきた。1890年に陸軍省が下した結論は、ロシアを押さえ込むためには、アフガニスタンに軍を派遣して、カブール―カンダハル線でロシアの進攻軍を迎え撃つというものであった」(グーチ「疲弊した老大国」560頁)
地図上で判断すると、この防衛線はちょうどヒンドゥークシュ山脈に当たります。ヒンドゥークシュ山脈は延長1,200km、幅500kmにも及ぶ巨大な山地であり、最高峰は7,708mにもなる天然障害です。
この天然障害を利用してロシア軍の攻勢を食い止めるという構想ですが、これほど消極的な構想が採用された背景には、当時のイギリス陸軍の兵力不足の問題がありました。

慢性的に兵力が不足していたイギリス陸軍
イギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)
1902年にインド軍司令官に就任してからは、インド兵を対ロシア作戦のため動員する改革を進めた
なぜイギリス陸軍はカブール―カンダハル線に防衛線を構成しようとしたのでしょうか。
最大の理由として当時インドに駐留するイギリス軍の兵力が対峙するロシア軍に対して劣勢だったことが挙げられます。

グーチも当時のインドの防衛に必要な兵力をイギリス軍が確保することが難しかったことを指摘しています。
「19世紀後半の陸軍戦略は論点が限られていたため、海軍の戦略よりも立案が容易であった。陸軍省がもっとも重視したのはフランスによるイギリス本土上陸作戦の防衛とロシアによるインド進攻の防衛であった。この二つの問題は、すべての陸軍戦略が繰り返してきた根本的事実をさらけ出すものであった。その根本的事実とは、戦略の伝統と嗜好が常に陸軍を小規模に制限しようとする動きに結びつくということである」(同上、559頁)
当時のイギリス陸海軍は全人員を合計しても27万5000名程度であり、ロシア軍の84万4000名に対して32.58%の兵力しか保有していませんでした。

しかし、地形を利用して防勢作戦を行うにしても、敵に対してこれほど我が戦力が貧弱では作戦に支障が出ます。そこでイギリス政府としてはインドを経済的に利用するだけでなく、軍事的にも利用しようとしました。
イギリス陸軍が徴兵したインド人で部隊を編成するようになったのは、こうした陸上戦力の不足を補う狙いがあったのです。
「1903年には4カ月で10万人もの多くのインド兵が要求されることとなったのである。帝国防衛委員会の書記官のジョージ・シドナム・クラーク卿は、イギリス軍が戦場で使用するラクダの数を計算して要求していた。1905年までにキッチナーは、アフガニスタンには15万5000人の兵力が必要であると吹聴しており、その規模の軍隊の補給を支えるためには、500万頭を優に超えるラクダが要求されたら、それは現地の供給能力をはるかに超えた頭数であった」(グーチ、560-1頁)
ここで言及されるキッチナーとは、1902年から1909年までインド軍司令官として改革に取り組んだイギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)のことです。
キッチナーは限られた陸上兵力でロシア軍の南進を食い止めるために、インド人の部隊をロシアに対する作戦で有効活用する戦略を具体化するため努力し、インド正面の兵力増強である程度の成果を上げています。

それでも、いざイギリス軍とロシア軍と本格的な戦争状態に陥れば、インド軍とイギリス軍の兵力を15万5000名まで確保できるかどうか疑問の余地がありました(Singer 1987)。
というのも、結局イギリス軍は情勢によってヨーロッパ正面や東アジア正面などにも兵力を転用する必要があったので、インド人を徴兵してもなお厳しい状況であることには変わりなかったためです。

同盟国を利用してロシアの脅威を緩和
1923年に北西国境地帯和ワジリスタンに派遣されたインド軍のグルカ兵、キッチナーの改革でインドの辺境部隊の指揮系統が一元化されたため、兵力運用状況の改善につながった。
Ministry of Defence. 2004. 
An Outline History of the Brigade of Gurkhas. 5th Royal Gurkha Rifles North-West Frontier 1923.
軍事的手段だけでロシアからインドを防衛することが難しいことは明らかでした。そこで、イギリスはロシアと敵対する同盟国の軍事力を利用するという外交的手段を検討するようになります。
つまり、イギリスが運用できる軍事力だけでなく、同盟国の軍事力を利用し、ロシアに対する対外的バランシングを図る方針に変わっていったのです。

当初、オスマン・トルコがイギリスの同盟国の候補とされていたとされています。
トルコ軍には1890年代におよそ23万から24万程度の兵力があったので、クリミア戦争のように対ロシア共同作戦に組み込むことができれば、インド防衛はそれだけ容易になると思われたためです(Singer 1987)。しかし、トルコとの交渉は思うようにいかず、実現しませんでした。
「前回のクリミア戦争の時と同様に、ロシア軍を打ち破るには、トルコの支援を受けるかたちでもう一度クリミア戦争を戦う必要があると考えられた。しかし、この数年のうちにそのような協力への希望ははかなくも消え去ってしまった。そのためにインド防衛戦略は、インド亜大陸そのものだけを守るものになり、戦争の際に要求されるインド兵の数は飛躍的に増大していた」(グーチ、560頁)
さらにこの時期に東アジアでロシア軍が南下の動きを見せていたため、イギリスは日英同盟によって日本の軍事力を対ロシア戦略に利用しました。
すでにヨーロッパ正面ではドイツがイギリスの脅威として台頭しつつあったため、日本軍がロシア軍と戦ったことは、イギリス軍の兵力の節約に大いに寄与しました。

同盟はイギリスの防衛体制を強化したことは間違いありませんが、それでも十分とはいえませんでした。肝心のインド正面を見ると、依然としてロシア軍の兵力は重大な脅威であり、日露戦争で敗北した後でさえも全軍で123万6000名体制をロシアは維持していました(Singer 1987)。

軍事的限界に達して転換した対ロシア戦略
イギリスはついにロシアと敵対する姿勢を改める方針をとるようになり、それが1907年の英露協商の成立に繋がりました。
「1904年から1905年の日露戦争の結果によってロシアの脅威は減少したが、完全に消え去ったわけではなかった。ジョージ・クラーク卿が述べているように、インド防衛は外務省の焦点であり続けた。彼は兵站分野におけるロシアの脅威を消し去ることに執念を注いでいたのである。外務省が認めたように、もし現実にロシアがアフガニスタンに侵攻した場合、イギリスは必要とされる巨大な兵力に予算を当てることも編成することもしないので防ぎようがなかった。このような難問に直面して、外務省は1907年に英露協商の締結に踏み切ったのである」(グーチ、562頁)
結局、イギリスの経済圏は自国の軍備の限度を大きく超えて拡張していたため、その防衛正面で必要な勢力比を維持することがほとんど不可能な状況になっていました。
1907年の英露協商はそうした軍事的限界を受け入れ、ロシアと対立するのではなく、協調することを目指す重要な政策転換でした。

英露協商から間もなく、イギリスは対ドイツ戦略の研究に専念するようになり、1914年の第一次世界大戦を迎えることになるのですが、それはまた別の話となります。

むすびにかえて
19世紀後半は今の言葉でいうとグローバル化、国際化が急激に進んだ時代と言えます。世界各地が貿易と金融で結びついて複雑な経済的相互依存が形成されていきました。

一般的な国際経済学の教科書では、こうしたプロセスは比較優位による分業化を推し進めるという意味で合理的であると説明されています。
しかし、安全保障の観点から見れば、経済的に依存する国家・地域が広域化するほど、それだけ警備や防衛のための兵力を分散させる必要が出てくることに注意する必要があります。

これは、多正面で脅威に直面することを意味するだけでなく、兵力の恒常的な分散配置を強いられるため、戦略的には不利に立たされやすくなります。19世紀後半にイギリスが直面した問題はこうした多正面同時作戦に陥る危険性であり、いずれの正面でも不利な勢力比で戦うことを余儀なくされる恐れがありました。

あらゆる政策選択には利点と欠点がつきものであり、国際貿易の拡大に関しても同様のことがいえます。
世界と深く繋がるほど、世界の情勢に広く関わらざるを得なくなり、それは自国の兵力の分散を加速させてしまうのです。

KT

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参考文献
川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)
Singer, J. David. 1987. "Reconstructing the Correlates of War Dataset on Material Capabilities of States, 1816-1985" International Interactions, 14: 115-32.

2017年7月4日火曜日

学説紹介 なぜ戦時中に国内の党派は争うのか―トゥキディデスの考察―

戦争のような国家の一大事が起こったならば、各党各派は政治的休戦を図り、挙国一致の体制に移行することが何よりも求められます。
しかし、歴史を振り返ると、戦争が勃発したことによって国内の政治的分裂がかえって激しくなってしまった事例が見られます。

古代アテナイの歴史家トゥキディデスもこのような事例について記述していますが、今回はその要因と結果に対する彼の考えを紹介したいとお思います。

外国勢力による国内政治の混乱
トゥキディデスによれば、戦争という国家の一大事であるにもかかわらず、国内の各党派の対立が起きてしまう理由の一つに外国勢力の影響が挙げられます。

そもそも戦争が勃発すると国防上の理由から特定の大国と緊密な外交関係を結ぶことになります。
すると国内政治においても外国勢力の影響力が強まることになり、さまざまな党派がその余波を受けることになります。一部の党派にとってそれは党勢拡大のチャンスになるのです。
「平和でさえあれば、これらの外部勢力の干渉を仰ぐ理由も意志もない各派指導者も、戦時となってからは、いずれかの陣営との同盟関係が生じ、国内反対派の弾圧とそれによる自派の勢力増大を求めて政治的均衡を崩そうと望む者たちにとっては、外国勢力の導入が簡単にはかれるようになった」(『戦史』中100頁)
当時、ペロポネソス戦争では民主政を採るアテナイと君主政を採るスパルタの二大大国が対立しました。
両大国の狭間に置かれた多くの中小国はアテナイとスパルタのどちらかと同盟を結ぶことで、自国の安全を確保しようとします。

しかし、こうした中小国の国内では民主政の導入を訴える民衆派と、君主政を主導する貴族派が対立していたため、アテナイとの同盟は民衆派の立場を強化し、スパルタとの同盟は貴族派の立場に有利に作用しました。
これが従来までの国内の均衡を破壊する方向に作用してしまい、各国で激しい権力闘争を引き起こすことになったとトゥキディデスは指摘しています。

生活の悪化が人々を短期の利益に駆り立てる
ペロポネソス戦争が勃発した当時のギリシアの情勢図、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが争った。
戦争状態で国内が分裂する原因は外国勢力の影響だけではありません。トゥキディデスは生活水準が低下することも人々の行動を変化させると指摘しています。
「なぜなら、平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人も己の意に反するごとき強制の下におかれることがないために、よりよき判断をえらぶことができる。しかるに戦争は日々の円滑な暮しを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするからである」(同上)
戦争が勃発すると国民の生活はさまざまな制約を受けるだけでなく、食料や物資の慢性的な不足に直面することになります。
こうした状況の中で人々は短期的な利益を確保することをますます重視するようになり、また言動も過激さを増していきます。

例えば、トゥキディデスはこうした状況になると、将来をよく見通した慎重派の意見が「臆病者のかくれもの」と見なされるようになる傾向や、きまぐれな謀略が「男らしさをますもの」とされる傾向が生じることを述べています(同上、101頁)。

こうした対外的、対内的な要因が組み合わさることで、戦時中に国内の政治は混乱するようになり、党派間の権力闘争がすべてにおいて優先される状況が現れてくるのです。

党派間の闘争で犠牲を被る中道派
歴史家トゥキディデス(紀元前460年? - 紀元前395年)の胸像
アテナイ市民としてペロポネソス戦争を経験し、そのことを記録に残した業績で知られている。
戦争が引き起こす国内情勢の混乱は、人々をますます権力闘争にのめり込ませますが、結果として最も大きな被害を被るのは中道派であるともトゥキディデスは論じています。
なぜなら、こうした党派間の権力闘争は勢いを増し、多くの血が流れる事態にまで陥ることがあり、そうなれば権力闘争から距離を置く中道派も無関係ではいられなくなるためです。
「というのは、諸都市における両派の領袖たちはそれぞれ、体裁のよい旗印しをかかげ、民衆派の首領は政治的平等を、貴族派は穏健な良識優先を標榜し、言葉の上では国家公共の善に尽すといいながら、公けの益を私物化せんとし、反対派に勝つためにはあらゆる術策をもちいて抗争し、ついには極端な残虐行為すら辞さず、またこれを受けた側はさらに過激な復讐をやってのけた」(同上、102頁)
ここまでの事態になると、自分の党派と敵対する勢力に損害を与えることが最重要となり、その場限りの優越感に浸ることばかりを人々は考えるようになってしまいます。

こうした状況の中でトゥキディデスは民衆派とも貴族派とも距離を置いて、中道を保とうとしていた市民が両派から非協力的態度を理由に攻撃されるようになると指摘しており、結果として権力闘争の過程で壊滅していくことになると述べています(同上、102-3頁)。

むすびにかえて
トゥキディデスはこうした党派間紛争の典型として、ケルキュラの内乱を挙げていますが、これはあらゆる時代に共通して見られるパターンの一種であるとも洞察しています。
「内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れなかった。この時生じたごとき実例は、人間の性情が変らない限り、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰返されるであろう」(同上、100頁)
党派の利益を国家の利益に優先させて行動することは、権力の掌握を目的とする政治家の常でもあり、現実には防ぎようがない場合もあるでしょう。
しかし、それが国家の分裂を招けば、その代償を支払うのは党派の立場から距離を置いている中道派であるとすれば、戦時中に党派的闘争を最小限に抑制することの重要性が再認識されるのではないでしょうか。

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参考文献
トゥーキュディデース『戦史』久保正彰訳、全3冊、岩波書店、1966年