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2017年2月1日水曜日

論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因

ペロポネソス戦争は、古代ギリシャの歴史を変えた戦争でした。前431年に勃発した戦争では、当初アテナイが圧倒的な国力をもってスパルタを一度は追い詰めていました。それにもかかわらず、前404年に戦争が終結した時にはアテナイの方が敗者となっていたのです。

アテナイの敗因についてはさまざまな分析があるのですが、今回はその戦略には「防御主義への妄信」という根本的な問題があったことを指摘する研究を紹介したいと思います。

文献情報
Murray, Williamson, Knox, MacGregor, and bemstein, Alvin, eds. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.(邦訳、ドナルド・ケーガン「ペロポンネソス戦争におけるアテネの戦略」永末聡訳『戦略の形成 支配者、国家、戦争』中央公論新社、2007年、上巻、55-125頁)

ペロポネソス戦争の概要
ペロポネソス戦争が勃発した前431年のギリシャ半島の国際情勢
黄色がアテナイ陣営、赤色がスパルタ陣営、青色が中立諸国、紫色はペルシア帝国、肌色がマケドニアの勢力圏
そもそも、この論文で分析されているペロポネソス戦争の大まかな経緯について説明しておきましょう。

当時のギリシャ世界では、アテナイという国家がデロス同盟というエーゲ海の沿岸各地に広がる同盟を通じ、大きな政治的、経済的影響力を及ぼしていました。しかし、ギリシャにはアテナイの政策に反発する勢力もおり、その代表的存在だったのがスパルタでした。
スパルタはペロポネソス同盟という陣営の盟主であり、アテナイの勢力拡大を脅威として認識していました。前431年にコリントスとアテナイとの間で局地的紛争が起きたことをきっかけとして、スパルタはアテナイと戦争状態に入ることを決断します。

開戦時点でアテナイの将軍職の地位にあったペリクレスは、スパルタ軍を領内で待ち受けて戦う籠城策を採用することにしました。ペリクレスはアテナイの優位が海軍の分野にあると考えていたため、スパルタ陸軍と正面から戦うことを避けようとしたのです。しかし、戦争が2年目に入ると、アテナイ城内で深刻な疫病が発生し、多くの市民が病死しただけでなく、ペリクレス自身もこの病気で命を落とします。
その後もアテナイとスパルタは一進一退の戦いを続きましたが、戦争が長期化するとアテナイの陣営から離反する諸国も現れ、アテナイの民会では従来の戦略を変更すべきという動議が出されるようになります。デマゴーグ(demagogos)と呼ばれた扇動政治家は、戦局挽回のために無謀な戦略を宣伝したといわれ、その一人とされるアルキビアデスが提案したシチリア島への遠征では、部隊が全滅して大失敗に終わりました。

その後、スパルタはアテナイとの戦争を続けつつ、ペルシャからの援助を利用し、それまで軽視してきた海軍の能力を着実に増強していき、最後にはアテナイ艦隊を相手に海上戦闘で勝利を収めることに成功しました。海軍を失ったアテナイはスパルタに降伏することを余儀なくされ、戦争は終わりました。城壁は破壊され、農地は荒廃し、多くのアテナイ市民が財産を失い、没落していったのです。

防衛志向が強かったペリクレスの戦略思想
これまでの研究ではアテナイの敗因として注目されてきたのがデマゴーグでした。
アテナイの政界でデマゴーグが台頭した時期に策定された戦略が、シチリア遠征の敗北によって大きく行き詰まったためです。

しかし、今回の論文の著者は、こうした従来の見方に疑問を投げかけています。なぜなら、そもそもペリクレスが当初策定した戦略は防衛を重視しすぎており、スパルタ相手では通用しない恐れが考えられたためです。この議論の出発点にあるのは、ペリクレスの戦略が極めて防衛志向の強いものであったという判断です。
「ペリクレスの戦略目的は、戦闘においてスパルタを敗北させることではなく、単にアテネとの戦争は無益であるとスパルタ側に確信させることであった。したがって、彼の戦略上の目標は完全に消極的なものであった。ペリクレスは、アテネ市民に対して次のように状況を説明した。「もしアテーナイ人が沈着に機をまち、海軍力の充実につとめ、かたわら戦時中は支配圏の拡大をつつしみポリスに危険を招かぬようつとめるならば、戦は勝利に終る」」(71-72頁)
一見すると、これはこれで筋の通った戦略であるように思えます。スパルタ軍をアテナイの領土に引き付けつつ、その侵攻を堅牢なアテナイの城壁で拒否できれば、スパルタ人は戦意を喪失するであろうという考え方です。

当時アテナイ市民だった歴史家のトゥキディデスは自らの著作でこのペリクレスの戦略計画を高く評価していました。現在に至るまでトゥキディデスの評価は歴史学者の間で影響力を持っていますが、この論文の著者はあえて「後知恵ながら、ペリクレスの戦略は彼が生きているときにすでに失敗していたと評価できるかもしれない」と異なる見解を示し(同上、81頁)、そしていくつかの数字を示しながらペリクレスの戦略を再検討しています。

数字で考えるペリクレスの戦略の妥当性
著者の調査によれば、当時のアテナイ陸軍の主力は1万3000名であり、これに加えて国境地帯やアテナイ市の城壁に守備隊として合計1万6000名の部隊が分散配置されていました(同上、74頁)。これに対するスパルタ軍の勢力は同盟国の兵士も合計すると、およそ6万名という記録があり、著者はこの数字がやや誇張されている可能性を認めながらも、全般としてアテナイ陸軍よりもスパルタ陸軍の方が数的に優勢であったと判断しています(同上、74-5頁)。

その一方でアテナイは艦隊の規模ではスパルタに優越しており、少なくとも300隻の軍船を動員することができ、しかも同盟国から100隻以上の軍船を集めることもできたと考えられています(同上、76頁)。対するスパルタの海軍は貧弱であり、同盟国の協力があっても100隻程度の軍船を集めるのが限界でした(同上)。

ただし、アテナイがこの軍事力を維持するためには予算が当然必要となります。前431年のアテナイの年間歳入は1000タラントンであり、その40%が国内から、60%が国外からもたらされていました(同上、76頁)。この歳入に対してアテナイが軍事予算として支出できる限度は600タラントンでしたが、これだけではペリクレスの考える持久戦は遂行できません(同上、76-7頁)。

そこで、国庫に蓄えた6000タラントンの銀貨と500タラントンの非鋳造の金銀、さらに40タラントン相当のアテナ女神像を解体することも緊急時には認められていました(同上、77頁)。
単純に考えれば、歳入がなくても6年強にわたって軍事予算を確保できることになりますが、これは平時を前提とした議論であり、戦時になればさらに追加的な支出が生じてきます。
「ここで重要な問題は、ペリクレスの戦略を維持するために必要な年間経費をねん出しながら、アテネの財政がどれほど長く持ち堪えることができるのかという点である。ペリクレスの戦略に必要とされる平均的な年間経費は、ペロポンネソス戦争の一年目を調べることである程度産出することができる。(中略)1隻の艦船は1カ月当たり1タラントンの費用がかかった。そして、艦隊が海上で任務に当たる期間は通常8カ月であった。(ポテイダイアの海上封鎖に参加した艦隊は、一年中海上で任務に当たる必要があった)こうした数字を計算すれば、アテネの海軍関連の支出は年間1600タラントンになる」(同上、83-4頁)
さらに陸軍の経費については次のように考察されています。
「陸上部隊の費用のなかでは、ポテイダイアの攻囲作戦に参加していた陸上部隊にかかる費用が最大の割合を占めていた。3000人を超える歩兵がポテイダイアの攻囲作戦に参加しており、その数はしばしば増えることがあった。したがって、ポテイダイアの攻囲作戦に参加していた歩兵んお平均人数は、ごく控えめに見積もっても3500人はあった。アテネの兵士には1日に約1ドラクマが支払われ、それとは別個に、部下を保持するために部下1人当たり1日1ドラクマが支払われた。したがって、アテネの軍隊にかかる1日の費用は、少なくとも7000ドラクマ、つまり約1.17タラントンであった。この数字に360を掛けて計算すると、年間およそ420タラントンになる。当然、他の軍事活動の費用も必要だが、海軍関連の費用とポテイダイアの攻囲作戦に展開した陸上部隊にかかる費用だけでも、年間2000タラントン以上かかる計算になる」(同上、84頁)
したがって、戦時におけるアテナイの陸軍と海軍の年間の経費を合計すると、3600タラントンと推計されます。これは戦争状態になればアテナイの財政収支は2年強で赤字になる可能性が高いということを意味します。しかし、ペロポネソス戦争は27年間にわたって続いたのです。
もし戦争の2年目で疫病が起こらず、ペリクレスがそのまま生きたとしても、スパルタとの和平が2年目の終わりに結ばれなければ、ペリクレスはいずれにせよ自らの間違いを認めざるを得なくなったでしょう。

ペリクレスが戦略家として冒した最大の間違いは、スパルタの継戦意欲でした。ペリクレスは戦局が停滞すればスパルタが戦争を継続するような非合理なことはしないと想定していたのですが、結果として見ればそれが現実でした。
「ペリクレスは、思惑が外れて戦争の泥沼化が明らかになっても、それでもなお同じ戦略に固執するような人物ではなかったはずである。彼は智謀に富んだ指導者であり、しばらくすれば、アテネにとって必要なことを即座に見抜いてそれを実行できていたかもしれない。彼が犯した失敗は重大な結果を招いたとはいえ、誰でも冒す可能性のある一般的なものであった。つまり、攻撃による懲罰を受けてこれ以上の戦闘は無益であることが明らかになれば、敵は正気に戻るであろうとペリクレスは想定していたのである」(同上、87頁)
アテナイに蔓延した「防御主義への妄信」
ペリクレスの戦略がこのような問題点を抱えていたことを考えれば、むしろ2年目でペリクレスが病死した後も、アテナイの戦略がなかなか変更されなかったことの方が不思議なことです。まだ余力が残っている2年目の終わりの段階でアテナイの戦略が一から見直され、スパルタに対して積極的な攻勢を伴う戦略が採用されていたとすれば、ペロポネソス戦争の展開はまったく違ったものになっていたことでしょう。

しかし、アテナイがそのような戦略の変更を行わなかった理由は、当時のアテナイの戦略文化として防御主義への絶大な支持があったためであるとして、著者は次のように論じています。
「現状に満足し、なおかつ敵を寄せ付けないことができた前431年当時のアテネのような国にとって、攻撃的な行動をとる危険を回避したいという誘惑は大きい。しかし、このような思考こそ危険をはらんでいるのである。こうした消極的な思考によって、「防御主義への妄信(the cult of the defensive)」と呼ぶべき硬直した精神がアテネで助長された。こうした精神の影響により、指導者は、自己が過去に成功体験を持つ戦略は一般的に理論として支持されている戦略を無意識に不適当な状況に応用しようとするのである」(同上、120頁)
つまり、ペリクレスの戦略が死後もアテナイで維持されていた理由は、必ずしも軍事的根拠だけに基づいていたわけではありませんでした。アテナイ人はスパルタ人の戦意を過小評価していましたが、自らの軍事的能力を過大評価してもいました。だからこそ、積極的な攻勢に出なくても戦争を有利な条件で終結させることが可能であると慢心してしまったといえます。

著者はこの論文の結論部において、もしペロポネソス戦争でアテナイに勝ち目があったとすれば、それはスパルタの弱点に対して攻撃を実施するような戦略を策定することであったと主張しています。
「「防御主義への妄信」と呼ぶべき硬直した精神が助長されることには、もう一つ不利な点がある。それは、仮想敵国が戦争を引き起こすことを抑止するこちらの能力が限られることである。断固とした防衛姿勢を示すことで敵が勝利を得る見込みを減少させることを基礎とした抑止は、敵が相当高い合理性と豊かな想像力を持つことを前提としている。前431年にスパルタがアッティカ地方に進攻したとき、スパルタはそれほど大きな危険を冒しているとは思っていなかったに違いない。(中略)結局、ペリクレスの抑止戦略は、スパルタのもっとも脆弱な地点を確実に攻撃する能力をアテネが確保しているときに限り、成功する見込みがあるものだった」(120-1頁)
現代の軍事用語では敵の侵攻を食い止める防衛能力を確保することで、敵国の軍事行動を未然に防ぐ抑止戦略を拒否的抑止(deterrence by denial)といいますが、結局ペロポネソス戦争は、この種の戦略に限界があることを示しています。たとえ、アテナイが強力な防衛力を持っていたとしても、スパルタが想定を上回る資源を戦争遂行に投入し続けるという決意を固めてしまえば、そのような戦略は容易く破綻してしまう恐れがあります。

むすぶにかえて
軍事学を学ぶ人にとって、ペロポネソス戦争は軍事的教訓の宝庫です。著者がこの論文で取り上げた要因以外にも、中東の大国ペルシャがスパルタと手を結んだことや、アテナイの国内からも裏切者が出ることなど、アテナイの敗因にはさまざまな要因が挙げられます。しかし、「防御主義への妄信」はアテナイの戦略そのものに影響を及ぼしたという意味で、特に重要な敗因だったといえるでしょう。

現状を維持さえできればよい立場にある国家は、戦争が勃発するリスクを過小評価したがる傾向がありますし、もし勃発したとしても防勢に徹していればいずれ敵国は力尽きて戦意を喪失すると想定しがちです。しかし、それは自分に都合がよい想定に基づいて独りよがりな戦略を立案しているにすぎず、あらゆる事態に対応できるものではありません。だからこそ、私たちはペリクレスの戦略的な間違いを深く研究すべきであると思いますし、ペロポネソス戦争を今一度学ぶことが必要であると思います。

KT

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