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2017年5月25日木曜日

学説紹介 戦場ではたいていの兵士が失禁している―軍事心理学者の視点から

ほとんどの兵士が戦場で失禁を経験していることはほとんど知られていません。失禁は臆病者のイメージで語られがちであり、訓練をつんだ兵士はそうした状態にならないというイメージがあります。

しかし、そうしたイメージは間違ったものであり、極度のストレスに晒された人間の正常な心理的反応であることが研究者によって明らかにされています。

今回は、軍事心理学の観点から戦闘ストレスと失禁の関係を解説した研究を紹介したいと思います。

第二次世界大戦の調査から分かる実態
そもそも、本当に失禁は前線の兵士に一般的に見られることなのでしょうか。

この疑問に答えるために、軍事心理学の研究者であるグロスマンとクリステンセンは第二次世界大戦で戦ったアメリカ軍の兵士の多くが失禁を経験していたことを説明しています。
「『アメリカの兵士』という、第二次大戦中のアメリカ軍の戦いぶりに関する公式報告があるが、それに収録されてある調査によれば、第二次大戦で戦った米兵の4分の1が尿失禁の経験があると認め、8分の1は大失禁を経験したと認めている。『先鋒』にあたる兵士だけに着目し、激しい戦闘を経験しなかった兵士を除外すれば、激戦を体験した兵士のおよそ半数が尿を漏らしたと認め、4分の1近くが大便を漏らしたと認めているのである」(邦訳、グロスマン、クリステンセン、40-1頁)
戦闘を経験した兵士の半数が失禁を経験したというこの数値は、自分からの申告に基づいているため、実際の数はさらに大きかったともグロスマンらは推測しています(同上、41頁)。

このことに戦闘の異常性を感じられるかもしれませんが、実は大きなストレスを受けた人間の生理的反応としては特異なことではないとグロスマンらは述べています。

正常なストレス反応としての失禁
研究者のクリステンセンはかつて薬物ディーラーの倉庫に連邦捜査官と共に突入した経験があり、そのときの出来事が次のように紹介されています。
「大がかりな作戦で、戦闘服を着た20人の捜査官が参加し、収音機器やハイテク兵器を用い、倉庫の四方のドアを同時に爆破して押し入ることになっていた。さて、爆音とともにドアが吹っ飛び、武器を携えた捜査官たちが掛声とともに突入してきたとき、その凶悪な男はどうしたか。彼は身動きもならず、両手を頬に充て、幼女のように悲鳴をあげていた。そしてズボンの前には、たちまち大きなしみが広がっていったそうだ」(同上、40頁)
このディーラーの失禁は典型的なストレス反応の一種であり、生きるか死ぬかという極限状況に直面すると、人間は下腹部に蓄積した大小便を本人の意志と無関係に放出してしまいます。

この軍事心理学的に興味深い事実が多くの人々に知られず、また失禁が兵士の勇敢さを損なう事実と未だに誤解されていることをグロスマンらは批判しています。

例えば2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際に貿易センタービルにいた多くの人が失禁を経験していたにもかかわらず、ほとんどそのことがアメリカ国内で知られていないこともそうした誤解による隠蔽の結果ではないかと考察しています(同上、43頁)。

戦闘ストレス反応の心理学的な対策
グロスマンとクリステンセンは心拍数はその人間が感じている恐怖、ストレスに応じて上昇していくことに着目しています。

安静時の心拍数はおおむね毎分60回から80回であり、最も高い状態になると毎分175から220になることもありますが、基本的に毎分115回から145が最も戦闘員としての能力を発揮しやすいとされています(同上、74頁)。

先ほど述べた大小失禁は、心拍数が毎分175回以上の場合に見られる症状であり、これは戦闘員にとって望ましい心理状態ではないことを示しています(同上)。

こうした場合に行うべきが深呼吸だとグロスマンらは主張しており、その具体的な方法は「戦術的呼吸法」としてまとめられています。
これはゆっくり4つ数えながら鼻で息を吸い、四つ息を止めて、また四つ数えながら口で吐き出し、腹をへこませる、という深呼吸を繰り返すという呼吸法です(詳細は、537頁)。
「戦術的呼吸法は誰にでもでき、高ストレス状況で用いれば、心臓の激しい鼓動を鎮め、手の震えをやわらげ、声がうわずってミッキーマウスのようになるのを防ぎ、自分は落ち着いている、浮足立っていないと強く感じさせてくれる。要するに交感神経系をコントロールできるのである」(同上、532頁)
たかが呼吸法だと思われるかもしれませんが、高ストレス環境で呼吸により自分の心拍数をコントロールするテクニックは、射撃術にも応用されている実績があり、戦闘員にとって必須の技術だといえます。

むすびにかえて
結局、戦場で失禁することは正常なストレス反応ですので、敵と戦闘になる前にトイレに行くこと以外に防ぎようはありませんし、それは特に特殊なものではないと考えなければなりません。

ただ、失禁を引き起こすような心理状態になった際には、心拍数を抑える呼吸法を試みるべきであり、大小失禁それ自体は有害でないとしても、そうした心理状態は戦闘員にとって望ましいものではありません。

実際に自分が戦場で失禁を経験しても、それは自分が兵士として臆病なせいでもなく、生理的な現象であると割り切ってしまうべきです。そして、適切な呼吸法で自分を落ち着かせることが、生き残る上で重要なことではないでしょうか。

KT

参考文献
Dave Grossman and Loren W. Christense. 2004. On Combat: The Psychology and Physiology of Deadly Conflict in War and in Peace. New York: International.(邦訳、グロスマン、クリステンセン『「戦争」の心理学』安原和見訳、二見書房、2008年)

2017年5月21日日曜日

論文紹介 アフガニスタンとイラクで考える21世紀の戦争

2001年のアフガニスタン侵攻、そして2003年のイラク戦争の頃を覚えている方であれば、2000年代の米国では軍制改革の文脈でトランスフォーメーション(transformation)という概念がもてはやされていたことを知っているかもしれません。

2000年代に米国で刊行された研究を調べてみると、アフガニスタン、イラクで明らかになった「21世紀型の戦争」、つまり情報技術を駆使した精密誘導兵器の発達を踏まえ、米軍の態勢を抜本的に見直すべきとする議論がありました。

しかし、こうした議論を2010年代の今から振り返り、果たして妥当な議論だったのかを検証することが必要でしょう。

今回は、米国の政治学者スティーヴン・ビドルが2010年に発表した論文を紹介し、2000年代のトランスフォーメーションの議論に対する批判的考察を紹介したいと思います。

文献情報
Biddle, Stephen. 2010. "Iraq, Afghanistan, and American Military Transformation," John Baylis, James J. Wirtz, Colin S. Gray, eds. Strategy in the Contemporary World, Third Edition. Oxford: Oxford University Press, pp. 266-287.(注意、今回の論文は2010年に刊行された版のStrategy in the Contemporary Worldにのみ掲載されているものです)
目次
・はじめに
・アフガニスタンと軍制改革論
・2003年のイラクと軍制改革論論
・異なる視点
・結論
トランスフォーメーション論争の論点
2001年以前から米国では情報革命によって戦争の性質が変化する可能性は議論されていましたが、その多くは軍事技術の発達によって、大規模な通常戦力の必要が低下することを予見していました。

著者によれば、2000年代のアフガニスタンとイラクにおける戦役によって、こうした主張がますます支配的になっていく傾向が生じ、技術的優位、特に精密誘導兵器を活用すれば、短期間のうちに敵に決定的打撃を与えることが可能になると真剣に議論されるようになります。

これは一つの見解として参考になる部分もあったのですが、トランスフォーメーションの議論を支持する人々は、技術的優位の重要性ばかりを強調するあまり、マンパワーの確保という問題を軽視しすぎる側面があったとして、著者は次のように指摘しています。
「〔トランスフォーメーションに関する〕これらの提案はこれまでにも批判を受けてこなかったわけではない。批判派は、このトランスフォーメーションの議論が、対反乱作戦(COIN)あるいは治安作戦(SASO)のような独特な意味で労働集約的、かつ低水準のテクノロジーを用いる任務の必要を見過ごしていると長らく議論してきた」(Biddle 2010: 267)
そこで著者はアフガニスタン、イラクにおける精密誘導兵器、あるいはネットワーク化された兵器システムが果たした役割が実際にどのようなものだったのかを検討しています。

21世紀の戦争の現実―アフガニスタン
著者はまずトランスフォーメーション派が論拠として注目するアフガニスタンでの精密誘導兵器の意義について検討しています。

戦争が始まった2001年から02年にかけて、アフガニスタンで活動するタリバン、アルカイダの部隊は十分な偽装、掩蔽ができておらず、そのため米軍の特殊部隊は長距離からでもその所在を発見することが可能でした。そのため精密誘導兵器は順調に戦果を上げていました。

しかし、著者はこの事例を考える上で重要な点として、精密誘導兵器が戦果を上げていたのが一時的な事象だったことだと念を押しています。

つまり、タリバンやアルカイダは次第に精密誘導兵器に対する防護として、偽装、掩蔽の重要性を理解するようになり、また組織的な戦闘を遂行する能力を向上させていった経緯があるのです(Ibid.: 269-70)。

そのため、2002年に入ってからは、米軍部隊は突如として出現するタリバン、アルカイダの部隊と近接戦闘に捲き込まれる場面が増えていき、エアパワーの限界を示す次のような状況も起きていました。
「例えば、11月5日、Bai Becheにおいて塹壕にこもったアルカイダの守備隊は米軍の集中的な爆撃を2日間にわたって受けた後も撤退することを拒んだ。彼らを排除するため、北部同盟の騎兵隊に敵防御陣地への突撃が命じられた。最初の攻撃は撃退された」(Ibid.: 270-1)
その後、著者は現地にいた米軍の特殊作戦部隊が二度目の突撃を行った味方の騎兵隊を誤爆しかけた経緯や、北部同盟の騎兵隊が敵防御陣地の後方に迂回したと判断したアルカイダの部隊も陣地を放棄して後退したことも紹介しています(Ibid.: 271-2)。

この事例はトランスフォーメーション派が考える戦争観とアフガニスタンの戦争の実態に大きな乖離があることを裏付けるものであり、どれほど技術が進歩しても、防御陣地に立てこもる敵を航空機で一掃することはできず、結局は地上部隊の行動に戦局がかかっていることを示しています(Ibid.: 274)。

21世紀の戦争―イラク
次に著者はトランスフォーメーションを支持する論者が、イラクで多国籍軍の損害が小さかった理由として、情報技術に裏付けられた精密誘導兵器の威力によって、近接戦闘を回避できたためだと論じていることに注目しています。

イラクの事例に関しても著者は精密誘導兵器が戦果を上げていたこと自体は認めていますが、実際の当時の戦争の経緯を見直していくと、それだけで説明できるほど事態は単純ではなかったと考えています。

実際、多国籍軍はイラク侵攻の前に航空作戦でイラク軍に多大な損害を与えていたにもかかわらず、特に市街地において激しい戦闘を強いられました(Ibid.: 277)。

この戦闘で出た犠牲が比較的小さかった理由として著者はバグダッドでの戦闘では敵の防御陣地に対する浸透(penetration)戦術が成果を上げたためだったと指摘しており、つまりバグダッドの戦闘における多国籍軍側の戦術が適切だったと評価しています(Ibid.: 275)。
「例えば、バグダッドで米陸軍第3歩兵師団の第2旅団は市街地の中心部に向けて2003年4月5日と7日に2度にわたる連続的浸透(「サンダー・ラン」)を遂行した。いずれの場合でも、ほとんどすべての経路において、RPGと小火器の連続射撃を受けた。事実、4月5日、旅団の縦隊のすべての車両が少なくとも1回はイラク軍のRPGを被弾し、多数の車両が複数回被弾している」(Ibid.) 
さらに、トランスフォーメーション擁護者が多国籍軍の電撃的侵攻によってイラク軍が国土を焦土化する前に前進できたという主張についても疑問を投げかけています。
「トランスフォーメーション擁護者は、2003年にRumaila油田施設の壊滅、Um Qasrの港湾施設の破壊工作、ティグリス川とユーフラテス川に架けられた橋梁の崩落、そしてKarbala渓谷の洪水を防いだのは速度であったと述べてきた。しかし、多国籍軍の速度はイラク側の選択ほど重要ではなかったことを示唆する強い証拠がある」(Ibid.: 277)
具体的には、当時の油田の労働者が破壊工作に対して組織的に抵抗していたこと、またイラク軍の内部において必ずしも首脳部の決定が末端にまで徹底されていませんでした(Ibid.: 277-8)。

以上の著者の議論を踏まえると、イラク軍に対して多国籍軍が短期間にわずかな損害で勝利を収めることができたのは、技術的優位という単純な議論で片づけられるものではなく、むしろ伝統的な兵力運用能力によるところもかなり大きかったと分かります。

むすびにかえて
著者は21世紀の戦争を考える上で、技術的優位を過度に重視することは、必ずしも根拠がある議論ではなく、また将来の米軍の在り方を論じる上でも好ましくないと考えています。

トランスフォーメーションの擁護者がアフガニスタンやイラクでの軍事的教訓を誤解している部分があり、米軍としては情報技術を活用した精密誘導兵器の威力を過信せず、従来から確立されている戦術・運用能力の重要性を見直す必要があると著者は論じました(Ibid.: 284)。

歴史的に米国の戦略文化には安全保障上の問題を運用ではなく技術で解決する傾向があるという研究もありますが(参考:論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは)、この論文の問題意識はそこに大きく重なるものだと思います。

技術の進歩を認識し、それを取り入れることは安全保障において非常に重要なことなのですが、その軍事的妥当性については詳細に検証する必要があり、それを軽視すると実態からかけ離れた印象論に陥ってしまう危険があることに注意すべきでしょう。

KT

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論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは

2017年5月19日金曜日

学説紹介 ワイリーの戦略学の意義と限界

戦略学では、さまざまな研究者が、それぞれ自分の主張を展開してきましたが、その時代や地域に固有の問題にとらわれ、適用範囲が狭い議論に陥る場合も少なくありません。

そうした中でも普遍性のある戦略理論を構築しようとする研究がいくつか報告されており、その功労者の一人としてワイリー(Joseph Caldwell Wylie, Jr., 1911-1993)が知られています。

今回は、彼の戦略思想がどのような内容なのかを要約した上で、その意義と限界について紹介したいと思います。

ワイリーの戦略思想の特徴
第二次世界大戦においてはガダルカナル島をめぐる日米の戦闘にワイリーも参加していた。ワイリーは学術の研究だけでなく、現場の経験を踏まえて、より実用的な戦略理論を模索するようになった。 Naval Battle of Guadalcanal on 14-15 November 1942, showing the U.S. battleship USS Washington (BB-56)
ワイリーはサウスカロライナ州に生まれた米海軍士官であり、第二次世界大戦では駆逐艦フレッチャーに乗組み、第三次ソロモン海戦に参加した経験も持っています(邦訳、ワイリー『戦略論の原点』212-3頁)。

戦後、海軍大学校に戻って教育に携わることをきっかけに戦略研究に取り組み、揚陸艦の艦長勤務や大西洋艦隊の幕僚勤務などを経て、1972年に少将の階級で退役しました。

米海軍士官としてキャリアを積んだワイリーですが、彼の関心は海軍だけにあったわけではありませんでした。

むしろ陸海空軍といった軍種にとらわれない戦略の総合理論を発展させることに興味を持ち、その要点を自身の著作で次のようにまとめています。
戦略の総合理論における要点
(1)戦略家が実戦時に目指さなければいけない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。
(2)これは、戦争のパターンの形態を支配することによって達成される。
(3)この戦争のパターンの支配は、味方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される(同上、99頁)
これらの要点にワイリーの戦略思想がよく示されていますが、特に重要な概念が重心(center of gravity)です。

軍事学の研究に重心という概念を最初に導入したのはカール・フォン・クラウゼヴィッツですが、彼は我の兵力が作戦において指向される敵側の地域や作戦の領域を意味する戦略用語として使っています。

さらに単純に解釈するならば、全軍としての前進目標や攻撃目標として理解することもできるでしょう。

この概念を活用することで、ワイリーは戦略の理論的基礎をより一般化することが可能になると考えたのです。

戦略では重心の分析が重要
ワイリーが自らの戦略理論を発展させる上で用いた「重心」という概念はクラウゼヴィッツの著作に由来するものであるが、ワイリー自身はこの概念の定義について明確に述べていない。
ワイリーは我の重心が敵の弱点に重なるように選択することが、最も戦略的に望ましいと論じています。
「この重心が敵の過敏に反応しやすい部分に到達することが重要で、これが国家の頸動脈にあたるような急所であればなお理想的だ。また、これは少なくとも敵にとっては神経痛程度の痛みを引き起こし、戦略家が流れを支配できるほど敵に影響を与えられるものであるべきだ。これをごく単純に言えば、戦略家によって動かされる戦争の「重心」は、このような敵の最も致命的かつ最も脆弱な箇所に向けられるべきなのだ」(同上、98-9頁)
いわば、敵の弱点を上手く捕捉し、これを継続的に圧迫することによって、戦争の全局面を支配し、戦争の展開を主導することも可能になるという考え方です。

戦略学を研究する人間にとって、この学説には興味深い特徴がいくつかあるのですが、重心が「敵の最も致命的かつ最も脆弱な箇所」に向けられるべきだと述べている箇所もその一つです。

つまり、敵の軍隊の主力を殲滅することや、その基地を破壊することを戦略の原則として重視していないのです。

つまり、状況の変化に応じて戦略家が攻撃すべき目標を柔軟に切り替えることができる可能性を理論の中に残しているのです。

例えば、もし我が方にとって最も有利な戦争のパターンが決戦の場合、我がとるべき重心は敵軍の主力に向けられるでしょう。

しかし、そもそも戦争のパターンを持久戦に持ち込みたいのであれば、我の重心は敵軍の分遣隊や防備が手薄な拠点とすべきだといえます。

つまり、選択すべき戦略上の目標はそもそもどのような戦争の形態を作り出そうとしているのかによって、大きく異なってくるとワイリーは考えており、そのことによって戦略思想に大きな柔軟性、可変性が生まれているのです。

歴史的事例と重心分析の試み
ハンニバルの軍勢が使用した経路の概略図。第二次ポエニ戦争でカルタゴの将軍ハンニバルはイベリア半島から北イタリアに向けて軍勢を前進させた。ハンニバルはイタリア半島各地で勝利を収めたため、ローマは危険な状況に置かれたが、ローマの将軍スキピオはイベリア半島に奇襲を仕掛けることで戦局を好転させた。
ワイリーは自分の戦略思想をより具体的に説明するため、ポエニ戦争の事例を紹介しています。

ポエニ戦争は、ローマと北アフリカに位置するカルタゴとが争った戦争ですが、序盤でハンニバルが率いるカルタゴ軍は、ジブラルタル海峡を越えてスペイン、南フランスを経由し、北イタリアからローマに脅威を及ぼしてきました。

不利な態勢に立たされたローマ軍ですが、将軍スキピオの下で新たな戦略を採用し、カルタゴ軍に対抗したことを、ワイリーは次のように説明しています。
「ハンニバルはイタリアに腰を据え、ローマの将軍たちも彼を追い出すことができなかった。つまりハンニバルは戦争のパタンをコントロールしていたことになる。スキピオはローマの将軍に任命されると、まずはこの戦争の重心をイタリア半島からスペインへと移し、カルタゴからハンニバルの元へ供給される兵士と物資の流れを遮断したのだ。スキピオは次に「重心」をカルタゴ付近のアフリカ沿岸に移したが、これはカルタゴを非常にいらだたせることになり、これによってハンニバルはスキピオが設定した戦争のパターンに従わざるを得ない状況になった」(同上、100頁)
ワイリーがここで指摘しているのは、スキピオの新たな戦略がローマ軍の狙うべき重心を変化させたことで、ローマ軍の状況を改善すると同時に、カルタゴ軍を窮地に立たせることが可能になったということです。

例えばジョミニの戦略理論で見れば、これはローマ軍の戦略機動によってカルタゴ軍の後方連絡線が遮断された事例として解釈できるのですが、ワイリーにとってより重要なポイントは、ローマ軍がカルタゴ軍の弱点を的確に捕捉することによって、単に敵の兵站支援を遮断しただけでなく、戦争の形態を一変させたということです。

もしカルタゴ軍の後方連絡線に当たるスペインがカルタゴ軍の兵力でしっかりと警備されていたならば、スキピオはまた別の戦略に頼らなければならなかったでしょう。

なぜなら、敵の兵站線に重心を移動させたとしても、それが敵によって想定された行動である以上、戦争のパターンを変えることができるかどうかは不明確だからです。
「ハンニバルは指揮下にあったカルタゴ軍をイタリアからカルタゴまで連れ戻している。その後、スキピオは戦場の中心地を敵が守りを固めつつあったカルタゴ周辺からカルタゴが食糧を得ていた谷間周辺に移している。ハンニバルはこれに対応して新しい動きをせざる得なくなり、スキピオによって作り上げられた状況の中で、スキピオが選んだ戦場で戦わせるはめになった。このザマの戦いでローマ軍に負けたことは、カルタゴにとって致命的になった」(同上)
ここでもワイリーが注目しているのは戦略機動の表面的な特徴ではなく、スキピオの戦略機動がポエニ戦争の形態をどのように変えたのかという点です。

まず北イタリアからスペインに重心を移してカルタゴ軍を北イタリアから撤退させていますが、カルタゴ軍が本国へ帰還してからは、前進目標をカルタゴそれ自体からカルタゴが貿易に使用していた交通路に切り替え、敵を戦場に誘致し、決戦に持ち込むことに成功しました。

ワイリーの研究は、クラウゼヴィッツが提唱した重心という概念を戦略理論の体系においてより明確に位置付け、戦略分析の可能性を拡げることができることを示して見せたのです。

むすびにかえて
ワイリーが戦略学で目指していたのは、適用範囲が広い一般的な戦略理論を確立することでした。

従来の戦略理論は陸上、海上、航空(反乱・革命)といった区別を前提としており、限られた適用範囲しかありませんでした。

そこで、重心という概念を戦略の基本概念として捉え直すことにより、より使いやすく、適用しやすい理論体系を構築したのです。

ただし、課題も残されています。というのも、ワイリーは自らの理論を具体的な事例に適用する方法について大雑把な仕方でしか示していないためです。

そのため、重心の分析を行う際に、具体的にどのような手続きを踏めばよいのか、どのような条件が揃えば重心だと判断できるのかが不明確なままになっています。

これはクラウゼヴィッツの研究においても重心という概念があまり明確に定義されていないこととも関係しているのですが、いずれにせよ重心の概念を戦略研究でどのように活用すべきかを考えることは今後の研究課題の一つだと思います。

KT

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戦略に関心を持ち始めた人のための戦略学入門

参考文献
J. C. Wylie. 1989(1967). Military Strategy: A General Theory of Power Control. Annapolis: Naval Institute Press.(邦訳、ワイリー『戦略論の原点(普及版)』奧山真司訳、芙蓉書房出版、2010年)

2017年5月14日日曜日

事例研究 ドイツの対米戦略に翻弄された日本の外交

1941年3月、日本の外相松岡がドイツのヒトラーを訪問したときの様子。当時、日本とドイツは同盟関係にあった。Japanese Foreign Minister Yōsuke Matsuoka (1880–1946, left) visits Adolf Hitler.
第二次世界大戦は1939年、ポーランドにドイツが侵攻したことで始まり、間もなくイギリス、フランスがドイツに宣戦しました。

その後、さまざまな経緯があり、1941年に日本はドイツの同盟国としてアメリカ、イギリス、オランダに対し宣戦することになるのですが、これまでにも多くの研究でその決定の政治的、軍事的非合理性は繰り返し指摘されてきました。

しかし、別の視点から見ると日本は一貫してドイツの戦略に協力していた側面もあったのです。

つまり日本独自の立場で見ると非合理的ですが、ドイツの立場で見れば一定の合理性があったという解釈もできるのです。

今回は、ドイツの対米戦略において日本がどのような位置付けを与えられていたのかを検討した研究(田嶋「東アジア国際関係の中の日独関係」2008年)を踏まえて、当時の日本の政策、戦略を再検討したいと思います。

ドイツから見た日本の利用価値
1941年の情勢図。西ヨーロッパ地域でドイツの勢力に対抗したイギリスは、アメリカを手を結ぼうとしており、対米戦をどう遂行するかが当時のドイツでは重大な課題となっていた。その対策としてヒトラーが着目したのが東アジアにおける日本の存在であり、これと同盟を結ぶことで米国の対英支援を妨害できると判断した。
1940年6月にフランスを降伏させた後、ドイツはイギリスに外交的に働きかけ(7月19日)、この戦争を終結させようとしていました(同上、47頁)。

しかし、時のイギリスの首相ウィンストン・チャーチルはドイツと和平交渉を行うことを拒否し(7月22日)、あくまでも徹底抗戦の構えを示します(同上)。

戦争の早期終結に行き詰まったヒトラーは、7月31日に国防軍の首脳部を集め、次のような判断と構想を示しました。
「イギリスの希望はロシアとアメリカである。もしロシアへの希望が潰えれば、アメリカも潰え去る。なぜならロシアが脱落すると東アジアにおいて日本の価値が飛躍的に高まるからである。つまりヒトラーから見て「ロシアは日本に向けられた英米の剣」なのであり、この「英米の剣」が除去されれば、日本の軍事力は東アジアで解き放たれる。するとアメリカは太平洋に釘付けにされ、対英支援は極めて困難になるだろう。したがって、「ロシアが打倒されればイギリスは最後の希望を失う」」(同上)
つまり、ドイツがロシア(ソ連)を倒せば、日本がアジア・太平洋方面からアメリカに圧力を加えることが可能となり、イギリスは期待した支援を受け取ることが難しくなる、とヒトラーは考えたのです。

言い換えれば、ドイツはイギリスを和平交渉に引き込むために、東アジアで日本がアメリカ、イギリスを攻撃させるという構想を描いて見せたのです。

しかし、中国と戦っていた日本は1939年から40年の段階でヨーロッパの戦争にまで手を広げる意志はなく、1939年5月2日に、平沼内閣の下でドイツとイタリアに対して軍事援助を与えない旨を通知していました(同上、42頁)。

つまり、ヒトラー政権としては、ドイツの政策を遂行するために、独ソ戦を準備するだけでなく、日本の対英米政策を変えさせる必要が生じていたということです。

対ソ戦の準備と対日政策との関係

会議の後でドイツは日本を枢軸陣営に引き入れるための外交努力を強化しました。

この会議からおよそ2カ月後に当たる1940年9月27日に日独伊三国同盟が調印されているのですが、この同盟もそうしたドイツの外交努力の成果と位置付けることができます。

当時、日本は対中戦を遂行する上で対ソ関係を改善しようとしていたため、この日独伊三国同盟の条約では独ソ不可侵条約をはじめとする対ソ関係の現状維持が取り決められていました(同上、48頁)。

これはヒトラー政権の思惑とは違っていましたが、少なくとも一時的に日本にドイツの真意を誤解させることができただけでなく、日本を枢軸陣営に組み入れる上でも外交的な意味がありました。

しかし、ヒトラーの意図はあくまでも対ソ戦にあり、12月18日に対ソ戦の準備を1941年5月15日までに完了させるように軍に命じています(同上、49-50頁)。

当然のことながら、ドイツが対ソ戦を準備していることは、日本に知らせないことが重要だとヒトラーは知っていました。

もし日本がドイツの真意を知れば、対ソ関係を維持したい日本はドイツから離れる危険があったためです。
「3月5日、最高司令部長官カイテル名で出された「総統司令第24号」は、「日本との協力」について規定していたが、「バルバロッサ計画については日本にいかなる示唆も与えてはならない」との前提の下で、「三国同盟に基づく協力の目的は、東アジアにおいて可及的速やかに日本に積極的な行動を取らせること」であるとされ、具体的には「東アジアにおけるイギリスの最重要拠点シンガポールの奪取」が明示されたのである。すなわち日本のシンガポール攻撃により「強力なイギリスの戦力が釘付けにされ、アメリカ合衆国の関心の重点が東アジアに向けられる」であろうと期待されたのである」(同上、52頁)
ここで述べられている通り、三国同盟はもとから東アジアで日本に対英米攻撃を行わせるように仕組まれた同盟でした。

さらに日本にとって不都合なことに、このようなドイツの意図を全く日本側は把握しておらず、ドイツの仲介によって日ソ関係の改善を目指していました(同上、53頁)。

結局、ドイツの企図判断を誤っていた日本の外交は、1941年6月22日のドイツ軍による対ソ侵攻で完全に破綻することになりました。

予想を裏切られた日本の対応
独ソ戦が勃発した当時の日本の政権は第二次近衛文麿内閣によって担われていた。独ソ戦の後で内閣改造が行われ、日独伊三国同盟にソ連を加える四国同盟を構想していた松岡外相が外されることになる。Cabinet ministers of Second Cabinet of Fumimaro Konoe, 1940, Mainichi Shinbun.
当時の日本がドイツがソ連に対して侵攻したこと(バルバロッサ作戦)を裏切り行為として受け止めていました(同上、54頁)。

しかし、もはや情勢は不可逆的な段階に入っており、日本としては独ソ戦の勃発にどのような対応をとるべきかが議論されることになります。

選択肢は二つあり、一つは北方でソ連の圧力が軽減されている間に南進する方策、もう一つはドイツとともにソ連を東西から挟撃することを狙って北進する方策でした。

近衛文麿内閣においては北進論を支持する勢力と南進論を支持する勢力との間で激しい議論が戦わされました。

その論争の詳細はここでは省きますが、結果としてドイツが対ソ戦で短期間のうちに勝利を収めて独ソ和平が実現し、日独伊ソの提携が実現することについて、依然として多くの関係者が希望的観測が支配的となっていきます(同上、55-6頁)。

結局、日本はソ連に対する攻撃は避けて南進論の方針を固め、12月8日、真珠湾攻撃をはじめとする対英米作戦に踏み切りました。
「真珠湾の報を聞いてヒトラーは喜びのあまり両手で膝をたたき、新たなる世界情勢を熱狂的に解説したという。彼はアメリカの対独参戦を不可避と考えており、日本の真珠湾攻撃により単独での対米戦争遂行という悪夢から解放されたのである」(同上、56頁)
ヒトラーの対日政策がここに完全に実現したといえますが、ちょうどこの時期にドイツは対ソ作戦を攻勢から防勢に切り替え、長期戦の準備を進めていました。
「しかし一方ヒトラーは同じく12月8日、対ソ戦の遂行に関し重大な行っていた。すなわち同日、「総統指令第39号」は、「東方における驚くべき早期の冬の到来と、それに伴う補給上の困難のため、大規模な攻撃作戦を即座に停止し、防衛態勢に移行する必要がある」と述べていた」(同上)
これは独ソ戦の長期化を確定する重要な決定でしたが、日本はこのことを知らないまま対英米作戦に踏み切っていました。

日本の対英米作戦の大前提に独ソの早期講和があったことを考えれば、これは日本にとって致命的な事態でしたが、ドイツはその後も重大決定を日本に知らせることなく、既成事実を積み重ねて日本との戦略協力を強化していきます。

12月11日にドイツは対米宣戦を行い、また日独伊共同行動を締結することで、日独伊共同の戦争遂行と戦後の勢力圏分割を約束したのもその一環です(同上、56-7頁)。

1942年1月18日には東経70度を基準線にしてアメリカ西岸方面を日本、アメリカ東岸方面をドイツとイタリアの作戦地域とし、完全に日本をドイツの戦略に組み入れました(同上、57頁)。

むすびにかえて
第二次世界大戦の歴史から学ぶべき教訓はたくさんあるでしょうが、その一つに同盟相手と結んだ条約であっても、その内容を全面的に信用してはならないということが含まれるでしょう。

後から振り返れば、ドイツの外交工作によって、日本はソ連との友好関係を構築する上でドイツと同盟を結ぶ方が有利だと誤認しており、それがドイツの対米戦略に利用される第一歩となっていました。

当時の日本の決断に対する評価については、例えばドイツが独ソ戦で勝利していれば、イギリスと早期講和が実現し、その恩恵で日本も対英米戦の成果を上げることが可能だったという議論もあるかもしれませんが、ヒトラーが本心のところで日本を人種主義的な理由から敵視していたことを考慮すると、その妥当性には疑問が持たれます。
「さらに反ヒトラー派の元外交官(駐イタリア大使)ハッセルは、42年3月22日、収集した情報を日記に次のように記した。「噂によれば、ヒトラー自身は日本の戦果に心から感動しているわけではなく、むしろ逆に、黄色人種を撃退するために、できればイギリスのため20個師団を派遣したいと語ったという」」(同上、57頁)
これがヒトラーの真意であるなら、日本が第二次世界大戦の勝者になれたとしても、対米戦略上の利用価値がなくなった後でドイツとの同盟関係を維持できたのかどうかは不明確です。

つまり、ドイツが日独伊共同宣言で約束した東アジアでの日本の勢力圏拡張を本当に許したのかどうかは断定できませんし、場合によっては日本がドイツの軍事的圧力の対象となる可能性も否定しきれません。

このような可能性を検討していくと、第二次世界大戦における日本の外交の失敗は単に同盟相手の選択を間違えただけではありませんでした。

同盟相手の思惑や自国との利害の相違を批判的に検証せずに、同盟政策を論じることの危険性をこの事例から学ぶべきではないでしょうか。

KT

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論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

参考文献
田嶋信雄「東アジア国際関係の中の日独関係 外交と戦略」『日独関係史 1890-1945 Ⅰ(総説/東アジアにおける邂逅)』東京大学出版会、2008年、3-75頁

2017年5月11日木曜日

学説紹介 クラウゼヴィッツは戦争をどのように定義したのか

戦争は他の手段をもってする政治の延長、という命題で有名なカール・フォン・クラウゼヴィッツです。

しかし、彼は最初から政治こそ戦争の本質であるとか、政治が戦争を支配しているといった単純な議論を提起したわけではありません。

クラウゼヴィッツはまず戦争という行為それ自体に得得な規則性、必然性があると指摘していました。

このことを理解するために今回はクラウゼヴィッツの『戦争論』で冒頭に述べられている戦争の定義とその解釈について紹介したいと思います。

戦争は拡大された決闘に他ならない
クラウゼヴィッツは戦争の定義を明らかにする際に、法学者の議論を参照することを避け、次のように論じています。
「我々は戦争について公法学者たちのあいだで論議されているようなこちたい定義を、今さらここであげつらう積りはない。我々としては、戦争を構成している究極の要素、即ち二人のあいだで行われる決闘に着目したい。およそ戦争は拡大された決闘に他ならないからである。(中略)要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意志を相手に教養しようとするのである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上巻28頁)
これらの表現はともかく、示された定義は非常に直感的で理解しやすいものです。要するに戦争は拡大された決闘でしかないということです。

自らの定義の解説として、クラウゼヴィッツは「してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」とも述べています(同上、29頁)。

この考察で興味深いのは、クラウゼヴィッツの考察が国際法の概念や学説にまったく依拠していないことです。

他者を実力で屈服させる行為こそが戦争の本質であり、この命題がクラウゼヴィッツの議論にとって出発点になっています。

戦争における目的と手段の必然性
次にクラウゼヴィッツは戦争=拡大された決闘に、どのような目的があるのか、どのような手段で遂行されるのかを考察しています。
「このような強力行使は、諸種の技術および科学の一切の発明を援用して装備に努め、持って相手の強力行使に対抗しようとするのである。なおこの強力行使は、国際法的慣習と称せられる幾多の制限を伴うけれども、しかしこれらの制限はいずれも微力であって殆んど言うに足りないものであるから、強力行為に本来の強制力を本質的に弱めるに至らないのである。それだから戦争においては、かかる強力行為、即ち物理的強力行為は(中略)手段であり、相手に我が方の意志を強要することが即ち目的である」(同上)
つまり、戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、「物理的強力手段」がその手段として用いられるのが戦争であるとクラウゼヴィッツは論じているのです。

この考察で我々が注目すべきは、クラウゼヴィッツが戦争の目的と手段との間には必然性があると指摘したことです。

二人の人間が決闘に至る経緯はさまざまでしょう。不当な理由で財産を奪われた人が奪った人に決闘を挑むこともあれば、単に名誉を傷つけられたという理由で決闘になることもあるでしょう。

しかし、ひとたび決闘が始まれば、そうした理由は背後に後退し、両者は実力を行使して敵に我の意志を強要するかどうかという問題に集中しなければならなくなります。

ここには戦争にだけ見られて、他の社会現象には見られない、独特な必然性があると考えられるのです。

善良さから戦争を誤解すべきではない
クラウゼヴィッツは自分の戦争の解釈に反発を覚える人がいることを予測していました。また、そうした人々が寄せるであろうコメントについても見当がついていました。
「ところで人道主義者たちは、ややもすればこういうことを言いたがるのである。―戦争の本質は彼我の協定によって相手の武装を解除し或いは相手を降伏させるだけでよいのである。なにも敵に過大の損傷を与えるには及ばない。そしてこれが戦争術に本来の意図なのであると、と」(同上、29-30頁)
クラウゼヴィッツが「人道主義者」と呼んでいる論者は平和主義者というわけではありません。

ここで想定されているのは、戦争それ自体を否定する論者ではなく、戦争における武力の行使を最小限度に抑制すべきと考えている論者です。

そうした論者は戦争の目的は敵を消耗させることであり、戦闘を挑むことは必要ないという考え方を持っており、決戦ではなく持久戦に持ち込む方策こそが優れた戦争術だと富んじていました。

クラウゼヴィッツはそのような考え方では戦争の本質を見過ごす危険があることを警告しているのです。
「このような主張は、それ自体としてはいかにも結構至極であるであるが、しかし我々はかかる謬見を打破しなければならない。戦争のような危険な事業においては、善良な心情から生じる謬見こそ最悪のものだからである。物理的強力の全面的行使と言っても、それは決して知性の協力を排除するものではない。それだからかかる強力を仮借なく行使し、流血を厭わずに使用する者は、相手が同じことをしない限り、優勢を占めるに違いない。こうして彼は自己の意志を、いわば掟として相手に強要するのである」(同上、30頁)
この一連の考察を単純化するとすれば、「人道主義者」の戦争観には善良さからくる盲点があるということです。

彼らは戦争で戦う敵が自分たちと同じように、流血の惨事をできるだけ避けようとするはずだと無意識のうちに思い込む傾向があるため、もし敵が想定を超える激しさで武力を行使してくると、我が方としては非常に不利な態勢に置かれる危険があります。

むすびにかえて
クラウゼヴィッツは戦争の残虐性や暴力性という現実を率直に見据えるところから自分の理論を構築しようとしました。

戦争を定義するために、学者の概念や理論を頼ることを避け、「拡大された決闘」という彼なりの定義を準備したことは、その姿勢の現れとも解釈できます。

こうした単純化に基づいてクラウゼヴィッツは戦争の目的と手段との間に論理的な必然性があることを指摘し、それがその背景にある要因をもってしても容易に打ち消すことができないと考えました。

つまり戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、そのために「物理的強力手段」が行使されると説明したのです。

自説に対しては「人道主義者」から批判が加えられる可能性があることをクラウゼヴィッツは認識していましたが、そうした人々については「善良な心情」によって戦争に対する「謬見」を抱いていると批判しました。

彼らは戦争それ自体に独自の力学があることを無視しており、それを無視すれば無制限に武力を行使する敵を目の前にしたときに支配されてしまうと警告しているのです。

戦争は政治の従属的要素という側面もあるのですが、そればかり見ていては戦争を理解することはできません。

戦争には戦争としての独自の力学があり、その上で政治が影響を及ぼしていると考える必要があるとクラウゼヴィッツは説いているのです。

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2017年5月7日日曜日

学説紹介 『孫子』の戦略思想と不戦屈敵の論理

孫武(前535?-?)は世界最古の兵書『孫子』の著者として知られている。その生い立ちはほとんど明らかになっていないが、その後の軍事学の基本文献として現在に至るまで研究されてきた。鳥取県湯梨浜町の孫武像
『孫子』は今なお多くの読者を得ている軍事学の古典であり、その解釈に関してはさまざまな研究が行われてきました。

その戦略思想の特徴としてしばしば指摘されるのは、不戦屈敵の考え方であり、つまり武力の行使は可能な限り避けるべしとする用兵思想です。

これは戦争を忌避する現代のわれわれにとっても親しみやすい軍事思想といえるかもしれません。

今回は、そんな『孫子』の戦略思想を考える上で特に重要な「謀攻篇」の一部の内容を取り上げ、戦略学の観点から解説したいと思います。

『孫子』の根本思想にある不戦屈敵
『孫子』の不戦屈敵は「謀攻篇」の冒頭においてはっきりと語られています。
「孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破る之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破る之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破る之に次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破る之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破る之に次ぐ。之の故に百戦百勝は、前の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なり」(金谷『孫子』44-5頁)
つまり、あらゆる戦争術の基本原則として、敵対する国家、軍勢をそのままの状態で屈服させることこそが優れた用兵であり、これを打ち破ることはよくない用兵である、ということです(伍は大体5名、卒は100名、旅は500名、軍は12,500名の部隊のことです)。

戦闘によらず敵の軍勢をそのままの状態で降伏させることができれば、それに勝る手はないというのが『孫子』の基本的な立場なのですが、ある研究ではこれが近代戦争においてまったく無視されてきたことが指摘されています。
「しかるに、近代戦の本質を如実に語る世界大戦は、孫子のそれとは全く反対に、ただに敵軍の殲滅を企図したばかりでなく、残虐にも無防御の都市を空襲して、非戦闘員である老若婦女子を殺戮し、或は無制限潜航艇戦を行って非戦闘員を海底の藻屑たらしめ、或は敵国の人民を飢餓に陥らしめ、肉体の水防によってそれに宿る抵抗意志を捥ぎとり、否応なしに屈服を強いるようなひどい手段を使用することになった。これ敵国敵人の全部を根こそぎ転覆せんとする全破主義であって、孫子の所論とは余りにひどい相違である」(公田、大場『孫子の兵法』90頁)
こうした解釈は確かに一面では成り立つのですが、『孫子』の戦略思想を誤解させやすいものでもあることに注意しなければなりません。

本当に『孫子』の内容を理解するためには、不戦屈敵の根拠が道徳的な論理ではなく、戦略的な論理であることを学ばなければならないのです。

不戦屈敵の背後にある戦略的思考
戦争が武力の行使に陥る傾向がある理由そのものを『孫子』は説明してはいませんが、ともかく戦略家はそうした傾向を抑制する必要があると考えていました。

そのことは次の記述からも分かります。
「故に上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ。其の次は兵を伐つ。その下は城を攻む。攻城の法は已むを得ざるが為なり」(金谷『孫子』46頁)
謀というのは計画のことをいいます。つまり、最も優れた用兵(上兵)とは、敵国が計画(謀)を実行に移す前に挫くことであり、その遂行を不可能な状況に追い込むことです。

もしそれが失敗したならば、敵国に従う同盟国や従属国に圧力を加えて離反させる政策、つまり「交を伐つ」という方法が選ばれます。

一番目と二番目の案が失敗すれば、ようやく武力による攻撃に移り、まずは敵軍の撃破、次いで敵の本拠地である城の攻略と移ります。

言うまでもなく、後の方策になるほど多くの犠牲が生じる危険が高まっていくと考えられるのですが、『孫子』はこうした一連の方策に順序立てて取り組むことを促すことで、武力の行使に至る前に事態を収拾できる可能性を残そうとしました。

ただし、これは戦争を可能な限り避けるためではなく、味方の損害はより小さく抑えることが可能となり、それだけ結果として得られる利益も大きくなると見込まれるためでした。

その根拠として『孫子』は謀攻の原則に関する次の記述が参考になります。
「必ず全きを以て天下に争う。故に兵頓れずして利全くすべし。此れ謀攻の法なり」(金谷『孫子』46-7頁)
これは戦略家がよく行う利害の比較であり、兵を失うコストを避けながら、利益を最大化することが「謀攻」の原則とされているのです。

つまり、戦争で敵を攻めるべきか、それとも戦争を避けるべきかは、費用に対して得られる利益のバランスにかかっており、不戦屈敵も費用を節約する一つの方策でしかないということです。

「謀攻篇」という表題そのものがこの考え方を端的に表しており、研究者の尾川も「我が損害を最小限度に止める為め、大に之を謀らねばならぬという意味で、本篇に謀攻と名づけたもので、中々に含蓄ある命名である」と述べています(尾川『孫子論講』65頁)。

また、『孫子』は必要があれば市民に対しても容赦なく武力を行使する可能性があることを論じていたことも考慮すべきです。

「火攻篇」で敵地に火を放てば住民をまとめて焼殺できることを示唆したことは、その一例であり、これも『孫子』は不戦屈敵を推奨しながらも、利害をその根拠においたことが分かります(同上、306-7頁)。

むすびにかえて
「謀攻篇」は『孫子』の戦略思想の基礎に当たる箇所であり、不戦屈敵の考え方がよく表れているところです。

しかし、その内容を個別に検討していくと、『孫子』が戦争を避けるべきだと単純に論じていたわけではありませんでした。

簿記で売上から経費を差し引いたものだけが本当の利益として計上できるように、『孫子』では戦争において戦利品から損失を差し引いたものだけが本当の戦果として見なしていたに過ぎませんでした。

言い換えれば、不戦屈敵が推奨された最大の理由は、戦争によって我が方が支払うコスト(人的、物的な損失など)で、将来得られる利益の価値(新領土とその住民、兵士)の価値が相殺される恐れがあったためでした。

現代の観念からすると冷徹すぎる印象を受けるかもしれませんが、万事を利害に基づいて判断したことにより、『孫子』は軍事思想史の歴史で確固とした地位を築き、また長く読み継がれてきたのです。

KT

参考文献
尾川敬二『戦綱典令原則対照 孫子論講』(湯浅邦弘監修「孫子」叢書第6巻)大空社、2013年(1936年)
公田連太郎、大場弥平『孫子の兵法』中央公論社、1935年
金谷治『新訂 孫子』岩波書店、2000年

2017年5月5日金曜日

学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則

軍事学の世界におけるベイジル・リデル・ハート(Basil Liddell Hart, 1895-1970)の業績はとてもよく知られています。

特に間接接近(indirect approach)の概念はその後の戦略思想にも大きな影響を与えましたが、その要点は日本ではまだまだ広く知られていません。

今回はリデル・ハートが書き残した戦略の原則について紹介するため、その内容について彼自身の解説を踏まえながら説明したいと思います。

リデル・ハートの説による戦略の原則
ベイジル・リデル・ハート(Basil Liddell Hart, 1895-1970)
イギリス陸軍を退役した後は軍事史の研究に取り組む、代表作は『戦略論』
リデル・ハートは自著の中で戦略原則という表現はとらず、戦略と戦術の本質(concentrated essence of strategy and tactics)という表現を用いました。つまり、彼は戦略と戦術に共通の原則が存在すると考えていたということです。

それは8個の原則から成り立っており、リデル・ハート自身の言葉を踏まえると、次のように要約できます。
  1. 目的を手段に適合させよ。
  2. 常に目的を銘記せよ。
  3. 最小予期路線(又は最小予期コース)を選択せよ。
  4. 最小抵抗線に乗ぜよ。
  5. 予備目標への切替えを許す作戦線を選択せよ。
  6. 計画及び配備が状況に適合するよう、それらの柔軟性を確保せよ。
  7. 相手が油断していないうちは―対手がわが攻撃を撃退し又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな。
  8. 一たん失敗した後、それと同一の線(又は同一の形式)に沿う攻撃を再開するな。
これらは、あたかもチェックリストのような構成になっていますが、リデル・ハートはもっと単純な原則として集中という原則を持ち出すことも検討していました。

著述の中では彼は「戦争の原則、それは単なる一つの原則ではなく多数の原則から成り立つものであるが、それを一語に圧縮すると「集中」ということである。しかし、これは事実上「弱点に対する勢力の集中」というふうに敷えんすべきである」と述べていたことが、それにあたります(邦訳、リデル・ハート、366頁)。

それにもかかわらず、リデル・ハートは自身の原則をまとめる上で兵力の集中という言葉は一切用いなかったのは、すでに当時の戦略学の研究において集中の原則がかなり知られていたものの、それを単純に適用するだけでは不十分であることが第一次世界大戦で露呈したことと関係があります

集中の原則を排除した理由として、リデル・ハートが無暗に敵の防御線に対して優勢な兵力を集めて突撃させるような運用がまかり通ることを深く懸念していました。

リデル・ハートが理想とした戦略は、我の犠牲を最小限に抑制する戦略であり、それを実現するためには集中とは異なる観点から戦略を議論すべきだと考えていました。

奇襲の威力を最大限に発揮する
リデル・ハートの議論の特徴の一つは敵の立場に立つことが繰り返し強調されていることです。

例えば、第三の原則「最小予期路線(又は最小予期コース)を選択せよ」の解説で次のように述べられています。
「敵の立場に立ってみることに努め、敵が先見し又は先制することが最も少ないコースはどれであるかを考えよ」(同上、367頁)
つまり、敵の思考過程を辿り、敵にとって最も予測し難い我の行動方針がどのような内容なのかを研究せよということです。

不意を突くことであれば、奇襲の原則と同じような意味内容を持った原則とも解釈できます。しかし、奇襲の原則は決して目新しい原則ではありません。

リデル・ハートがこの原則に込めた意味を理解するためには、第七の原則を検討する必要があり、そこで彼は敵の抵抗を麻痺状態に陥らせることが可能でなければ、攻撃には慎重になるべきだとしています。
「であるからこのようなマヒ状態が十分に進行していない限り、いかなる指揮官も敵に対する真面目な攻撃を発起すべきではない。マヒ状態は敵の組織の崩壊及び精神面での組織崩壊の同等物である士気崩壊によってひき起される」(同上、368頁)
ここで気が付くのは、リデル・ハートは漠然と奇襲を重視していたのではなく、奇襲がもたらす心理的影響を最大化することを重視していたということです。

奇襲が敵にもたらす混乱は敵の指揮能力を低下させ、士気の崩壊のような事象を引き起こすのですが、リデル・ハートは敵の人員の殺傷、装備の破壊よりも指揮統率の混乱や士気崩壊により大きな価値を見出していたのです。

この考え方を突き詰めれば、リデル・ハートは敵の装備の破壊や人員の殺傷といった方法によらずに攻撃の戦果を最大化することを戦略として構想していたのであって、それは敵の司令部を精神的に攪乱し、麻痺状態に置くことで実現できると期待されていたのです。

根本の目的を決めた上で予備目標を準備せよ
もう一つリデル・ハートの議論に独特な要素が「目的を手段に適合させよ」という原則です。

一般に軍隊では上から示された任務を完遂することが至上命題となるものですが、リデル・ハートはそのようなトップダウンの方法で目的を無条件に定義するのではなく、あくまでも「何が可能か」を第一に考えるべきだと主張しているのです。
「目的を決定するにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪食」は愚かである。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を胸としつつ、事実に直面することを学ぶべきである」(同上、367頁)
第二の原則ではこうして決定した目的を常に考慮に入れて具体的な作戦目標の選択に活用すべきだとされていますが、これと関連して興味深いのが予備目標を準備しておけという第五の原則と、計画と部隊配備に柔軟性を持たせよとする第六原則です。

つまり、ある目的を達成するために一つの目標にこだわるのではなく、いくつかの目標に対して柔軟に対応できる部隊配備を整えておけば、敵の状況判断を不確実なものにし、また混乱を助長できるとリデル・ハートは主張しているのです。
「こうすれば、敵をジレンマの立場に追込み、敵の守備の最も薄い目標を少なくとも一つは攻略できる機会を確保するところまで進むことができ、またそれを手がかりとして逐次攻略することが可能となろう」(同上、367-8頁)
この主張の大前提は、我が敵に対して主導的地位に立つべきという考え方です。

つまり、敵に対して我が先手を取り続け、自ら有利な状況を創出していれば、自然と敵にとって望ましくない決定を強いることが可能となります。

また部隊配備に柔軟性を持たせることで「成功を収めた場合もしくは失敗に陥った場合」のどちらでも次の状況に対応することができるのです(同上、368頁)。

したがって、目の前の目標を攻略できないことは大きな問題ではないとリデル・ハートは考えます。

なぜなら、その後で別の予備目標を準備していないことの方が問題であり、それは柔軟性の欠いた不都合な部隊配置だからです。

無駄な行動はとらず、兵力を節約する
第一次世界大戦の経験からリデル・ハートが危険視していたのは、敵の防御線に対して無意味な攻撃を反復するような作戦でした。

もし攻撃が失敗して目標地点が敵に露呈すれば、当然のこととして敵も防御陣地を強化してくるでしょう。

このような状況で我の兵力を増強し、同じ攻撃を反復するようなことは、兵力の経済的使用の原則に反するというのがリデル・ハートの立場でした。
「単なる兵力の増強は必ずしも新規の線に沿う攻撃を意味しない。そのわけは、敵もまたその休止の間において自己の兵力を増強しているであろうことは有り得べきことであるからである。わが方を撃退した敵の成功が敵を精神的に強化するであろうことは、さらにもっと有り得べきことである」(同上、368頁)
つまり、攻撃がある方法で一度失敗したならば、敵に企図が暴露したことをふまえて、別の予備目標の攻略に切り替えることが重要です。

これはリデル・ハートの第四の原則「最小抵抗線に乗ぜよ」にも通じる思想です。敵の弱点に我の強点をぶつける時に最も大きな兵力の節約が実現します。

それだけ戦場で流れる血が少なくなるということを意味してもいるのです。

むすびにかえて
リデル・ハートの思想で特に重要な要素は攻勢や主導を重視したことではなく、敵の裏をかくことで犠牲を最小化することが重要な特徴です。

しかも、それは味方の犠牲を最小化するだけでなく、敵の犠牲も最小化することを追求するものでした。

別の箇所でリデル・ハートは「戦略の完成は何も酷烈な戦闘を起こすことなく事態を決着に持ち込むということであろう」と述べていますが(同上、356頁)、これはまさに戦わずして勝つ、という古代から議論されている軍事の原則といえます。

しかし、このような考え方が軍人の間から失われているとリデル・ハートは考えており、それは画一的な軍事教育の弊害であると感じていました。
「軍隊訓練は主として、攻撃のためのこまごました実行法での能率向上に捧げられる。このような戦術上の技術への注意集中は心理的要素を不分明なものとする。それは奇襲の実行よりも安全の確保を重視するものとなる。それによって、教科書通りに専ら間違いをしでかさないことを願う指揮官を養成することになり、敵の指揮官に間違いを犯させる必要性は忘れ去る指揮官ができあがるのである」(同上、369頁)
こうした考察からも分かるように、リデル・ハートの戦略思想は単なる過去の学説への回帰ではありませんでした。

それは当時の定説に対する批判でもあり、指揮官が身に着けるべき戦略的思考を基礎から見直すものでもあったのです。

KT

関連記事
リデル・ハートの軍事教育論
戦術家でもあったリデル・ハート
フラーの機甲戦思想と戦車の戦略的重要性

参考文献
Liddell Hart, B. H. 1967(1954). Strategy. Second Edition. London: Faber & Faber.(邦訳、森沢亀鶴訳『戦略論 間接的アプローチ』原書房、1986年)

2017年5月1日月曜日

学説紹介 限定核戦争を狙っていたソ連の核戦略

冷戦期における最大の安全保障上の課題は核兵器による全面戦争を防ぐことにありました。

この課題は西側だけでなく、東側においても共有されており、米ソ戦争が実際に起きたとしても、それが全面核戦争にエスカレートしないようにすることがソ連の核戦略だったのです。

しかし、こうした核戦略の内容は日本だと必ずしもよく知られていないので、今回はローレンス・フリードマンの研究に基づいて、1970年代中葉から80年代初頭にかけてのソ連の核戦略を説明したいと思います。

限定核戦争に関するソ連の構想
ローレンス・フリードマン(1948-)イギリスの研究者、核戦略の研究業績などで世界的に知られている。
フリードマンの説によれば、1980年代に入ったばかりの頃の西側の専門家や研究者は、ヨーロッパの大規模戦争におけるソ連の戦略を三つの段階に区分できるものと理解されてきました。

その第一の段階は通常戦争の段階であり、この段階においてソ連は可能な限りNATOの核兵器についても破壊しようとします。

第二の段階は残存したNATOの核戦力と通常戦力の基地に対する核攻撃の実施の段階であり、第三段階においてNATOの通常戦力を戦域から一掃し、領土を獲得します(Freedman 2003: 401)。

ソ連軍の戦略方針としては西側に対して攻勢作戦をとることになるので、戦いの全局面において主導的地位に立ち続けることが求められます(Ibid.)。

この主導権を得る方法としては、NATOの核攻撃を準備段階で予防する能力を持つこと、そして米国本土を攻撃しない見返りとしてソ連本土の安全も確保し、戦闘をあくまでもヨーロッパの一部地域で完結させること、これら二点が重要と考えられました(Ibid.)。

つまり、ソ連の戦略で目指されていたのは一部の地域に限定された核戦争であったと西側において考えられていたのです。

こうしたソ連の戦略が米国の利害にもある程度配慮したものであったことについてフリードマンは「核戦争が勃発した場合、ソ連と米国ができるだけ限定された範囲に戦争を止めることについて利害の一致があったことについては疑問を差し挟む余地はほとんどなかった」と述べています(Ibid.)。

米ソ間で違った「限定戦争」の意味合い
もしヨーロッパで戦争となればソ連としては米国本土を攻撃しない代わりにソ連本土の安全を確保することで、戦争を地域内部に限定し、西ヨーロッパに対する侵攻を確実に実現しようとしていたが、米国が反撃の一環としてソ連本土を攻撃する可能性があったことは、ソ連の核戦略の実行可能性を損なう方向に作用した。
しかし、米国とソ連は限定戦争について異なる考え方を持っていたとも指摘されており、このことが核戦争における作戦行動に不確実性をもたらしていました。
「ミサイル基地、指揮通信中枢、潜水艦基地を対象とし、超大国間で反撃の応酬が実際に起これば、米国がたとえ単一の攻撃目標のまとまりと認識し、その他の攻撃目標を除外するという意味において限定された反撃を行うかもしれないが、そうした非常に論理的な攻撃の方式もソ連から見れば戦略的戦争(strategic warfare)として映るだろう」(Ibid.)
米国とソ連は互いに全面核戦争を戦略的に好ましいものだと思っていませんでした。

しかし、いざ核兵器の応酬が始まれば、相手に出し抜かれてしまう危険を考えてしまうため、相手が実は全面戦争の構えでこちらの核戦力を全滅させようとしてくるのではないかと警戒しなければならなかったのです。

戦争で両国の意思疎通が途絶すると、こうした囚人のジレンマを解決することは理論的に不可能となってしまうので、限定戦争を狙う戦略が果たして実行可能なのかという点については大きな疑問の余地が残されていました。

自国領土を聖域化できなかったソ連
SS-20(RSD-10)は冷戦史の潮流に大きな影響を及ぼしたソ連の核兵器とされており、これがヨーロッパ正面に配備されたことを受けて、米国もパーシングやトマホークといった戦域核兵器の配備に乗り出した。後に米ソ両国は中距離核戦力全廃条約に調印し、戦域核兵器は撤廃された。
ソ連が西側がヨーロッパに配備した核兵器でソ連本土を攻撃した場合、それを限定的核攻撃とは見なさないと主張していたことは、この戦略的な危険性をソ連政府が認識していることを裏付けています(Ibid.)。

しかし、だからといってソ連が限定戦争の構想を放棄していたわけではなく、そうした危険を認識しながらも限定戦争の構想を保持していました。
「それにもかかわらず、ソ連の限定の構想はいまだに存在していた。すでに述べたように、超大国の領土に対する攻撃は同盟国に対する攻撃とまったく異なる命令として考えられていた。ソ連の首脳部は本土戦域(homeland sanctuaries)の概念を認識しており、その概念においては両国の同盟国に損害を負わせることはあっても、両国に手を出すことはしないとされていた。この意味において、限定戦争から全面戦争への転換はソ連領土に対して最初の核兵器が爆発した時に起こるものであった」(Ibid.: 402)
しかし、1970年代後半以降の国際情勢はソ連の戦略の思い通りとはいきませんでした。

ソ連の核戦略が行き詰まったことにはさまざまな要因がありましたが、1977年にソ連が配備した戦域核兵器SS-20に対抗するため、米国がソ連本土を射程内に捉えることができる戦域核兵器(パーシング、トマホーク)を1980年代に配備してきたことはその一つです。

この措置は核戦争の影響をヨーロッパの一部に限定するというソ連の核戦略の実行可能性を大きく低下させることになってしまいました。

むすびにかえて
核戦略は軍事戦略であると同時に外交戦略でもあります。

ソ連が米国本土への核攻撃の可能性を交渉材料とする目的で、西ヨーロッパで核戦争が勃発した場合に、米国がソ連本土に核攻撃する事態を防ごうと計画していたことは、核戦略の本質をよく示しているともいえます。

この研究を東西冷戦の最前線にあった東西ドイツやその他の多くの東西ヨーロッパ諸国の視点で捉え直すこともできるでしょう。

つまり、非核保有国は核保有国の安全のための取引材料になる可能性があることが示唆されているのです。このことは、大国の核抑止力に全面的に依存するすべての国民にとって注意すべき可能性だといえます。

KT

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学説紹介 大国に見捨てられるリスク

参考文献
Freedman, Lawrence. 2003(1981). The Evolution of Nuclear Strategy, Third Edition, Palgrave Macmillan.