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2017年5月1日月曜日

学説紹介 限定核戦争を狙っていたソ連の核戦略

冷戦期における最大の安全保障上の課題は核兵器による全面戦争を防ぐことにありました。

この課題は西側だけでなく、東側においても共有されており、米ソ戦争が実際に起きたとしても、それが全面核戦争にエスカレートしないようにすることがソ連の核戦略だったのです。

しかし、こうした核戦略の内容は日本だと必ずしもよく知られていないので、今回はローレンス・フリードマンの研究に基づいて、1970年代中葉から80年代初頭にかけてのソ連の核戦略を説明したいと思います。

限定核戦争に関するソ連の構想
ローレンス・フリードマン(1948-)イギリスの研究者、核戦略の研究業績などで世界的に知られている。
フリードマンの説によれば、1980年代に入ったばかりの頃の西側の専門家や研究者は、ヨーロッパの大規模戦争におけるソ連の戦略を三つの段階に区分できるものと理解されてきました。

その第一の段階は通常戦争の段階であり、この段階においてソ連は可能な限りNATOの核兵器についても破壊しようとします。

第二の段階は残存したNATOの核戦力と通常戦力の基地に対する核攻撃の実施の段階であり、第三段階においてNATOの通常戦力を戦域から一掃し、領土を獲得します(Freedman 2003: 401)。

ソ連軍の戦略方針としては西側に対して攻勢作戦をとることになるので、戦いの全局面において主導的地位に立ち続けることが求められます(Ibid.)。

この主導権を得る方法としては、NATOの核攻撃を準備段階で予防する能力を持つこと、そして米国本土を攻撃しない見返りとしてソ連本土の安全も確保し、戦闘をあくまでもヨーロッパの一部地域で完結させること、これら二点が重要と考えられました(Ibid.)。

つまり、ソ連の戦略で目指されていたのは一部の地域に限定された核戦争であったと西側において考えられていたのです。

こうしたソ連の戦略が米国の利害にもある程度配慮したものであったことについてフリードマンは「核戦争が勃発した場合、ソ連と米国ができるだけ限定された範囲に戦争を止めることについて利害の一致があったことについては疑問を差し挟む余地はほとんどなかった」と述べています(Ibid.)。

米ソ間で違った「限定戦争」の意味合い
もしヨーロッパで戦争となればソ連としては米国本土を攻撃しない代わりにソ連本土の安全を確保することで、戦争を地域内部に限定し、西ヨーロッパに対する侵攻を確実に実現しようとしていたが、米国が反撃の一環としてソ連本土を攻撃する可能性があったことは、ソ連の核戦略の実行可能性を損なう方向に作用した。
しかし、米国とソ連は限定戦争について異なる考え方を持っていたとも指摘されており、このことが核戦争における作戦行動に不確実性をもたらしていました。
「ミサイル基地、指揮通信中枢、潜水艦基地を対象とし、超大国間で反撃の応酬が実際に起これば、米国がたとえ単一の攻撃目標のまとまりと認識し、その他の攻撃目標を除外するという意味において限定された反撃を行うかもしれないが、そうした非常に論理的な攻撃の方式もソ連から見れば戦略的戦争(strategic warfare)として映るだろう」(Ibid.)
米国とソ連は互いに全面核戦争を戦略的に好ましいものだと思っていませんでした。

しかし、いざ核兵器の応酬が始まれば、相手に出し抜かれてしまう危険を考えてしまうため、相手が実は全面戦争の構えでこちらの核戦力を全滅させようとしてくるのではないかと警戒しなければならなかったのです。

戦争で両国の意思疎通が途絶すると、こうした囚人のジレンマを解決することは理論的に不可能となってしまうので、限定戦争を狙う戦略が果たして実行可能なのかという点については大きな疑問の余地が残されていました。

自国領土を聖域化できなかったソ連
SS-20(RSD-10)は冷戦史の潮流に大きな影響を及ぼしたソ連の核兵器とされており、これがヨーロッパ正面に配備されたことを受けて、米国もパーシングやトマホークといった戦域核兵器の配備に乗り出した。後に米ソ両国は中距離核戦力全廃条約に調印し、戦域核兵器は撤廃された。
ソ連が西側がヨーロッパに配備した核兵器でソ連本土を攻撃した場合、それを限定的核攻撃とは見なさないと主張していたことは、この戦略的な危険性をソ連政府が認識していることを裏付けています(Ibid.)。

しかし、だからといってソ連が限定戦争の構想を放棄していたわけではなく、そうした危険を認識しながらも限定戦争の構想を保持していました。
「それにもかかわらず、ソ連の限定の構想はいまだに存在していた。すでに述べたように、超大国の領土に対する攻撃は同盟国に対する攻撃とまったく異なる命令として考えられていた。ソ連の首脳部は本土戦域(homeland sanctuaries)の概念を認識しており、その概念においては両国の同盟国に損害を負わせることはあっても、両国に手を出すことはしないとされていた。この意味において、限定戦争から全面戦争への転換はソ連領土に対して最初の核兵器が爆発した時に起こるものであった」(Ibid.: 402)
しかし、1970年代後半以降の国際情勢はソ連の戦略の思い通りとはいきませんでした。

ソ連の核戦略が行き詰まったことにはさまざまな要因がありましたが、1977年にソ連が配備した戦域核兵器SS-20に対抗するため、米国がソ連本土を射程内に捉えることができる戦域核兵器(パーシング、トマホーク)を1980年代に配備してきたことはその一つです。

この措置は核戦争の影響をヨーロッパの一部に限定するというソ連の核戦略の実行可能性を大きく低下させることになってしまいました。

むすびにかえて
核戦略は軍事戦略であると同時に外交戦略でもあります。

ソ連が米国本土への核攻撃の可能性を交渉材料とする目的で、西ヨーロッパで核戦争が勃発した場合に、米国がソ連本土に核攻撃する事態を防ごうと計画していたことは、核戦略の本質をよく示しているともいえます。

この研究を東西冷戦の最前線にあった東西ドイツやその他の多くの東西ヨーロッパ諸国の視点で捉え直すこともできるでしょう。

つまり、非核保有国は核保有国の安全のための取引材料になる可能性があることが示唆されているのです。このことは、大国の核抑止力に全面的に依存するすべての国民にとって注意すべき可能性だといえます。

KT

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参考文献
Freedman, Lawrence. 2003(1981). The Evolution of Nuclear Strategy, Third Edition, Palgrave Macmillan.

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