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2017年5月11日木曜日

学説紹介 クラウゼヴィッツは戦争をどのように定義したのか

戦争は他の手段をもってする政治の延長、という命題で有名なカール・フォン・クラウゼヴィッツです。

しかし、彼は最初から政治こそ戦争の本質であるとか、政治が戦争を支配しているといった単純な議論を提起したわけではありません。

クラウゼヴィッツはまず戦争という行為それ自体に得得な規則性、必然性があると指摘していました。

このことを理解するために今回はクラウゼヴィッツの『戦争論』で冒頭に述べられている戦争の定義とその解釈について紹介したいと思います。

戦争は拡大された決闘に他ならない
クラウゼヴィッツは戦争の定義を明らかにする際に、法学者の議論を参照することを避け、次のように論じています。
「我々は戦争について公法学者たちのあいだで論議されているようなこちたい定義を、今さらここであげつらう積りはない。我々としては、戦争を構成している究極の要素、即ち二人のあいだで行われる決闘に着目したい。およそ戦争は拡大された決闘に他ならないからである。(中略)要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意志を相手に教養しようとするのである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上巻28頁)
これらの表現はともかく、示された定義は非常に直感的で理解しやすいものです。要するに戦争は拡大された決闘でしかないということです。

自らの定義の解説として、クラウゼヴィッツは「してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」とも述べています(同上、29頁)。

この考察で興味深いのは、クラウゼヴィッツの考察が国際法の概念や学説にまったく依拠していないことです。

他者を実力で屈服させる行為こそが戦争の本質であり、この命題がクラウゼヴィッツの議論にとって出発点になっています。

戦争における目的と手段の必然性
次にクラウゼヴィッツは戦争=拡大された決闘に、どのような目的があるのか、どのような手段で遂行されるのかを考察しています。
「このような強力行使は、諸種の技術および科学の一切の発明を援用して装備に努め、持って相手の強力行使に対抗しようとするのである。なおこの強力行使は、国際法的慣習と称せられる幾多の制限を伴うけれども、しかしこれらの制限はいずれも微力であって殆んど言うに足りないものであるから、強力行為に本来の強制力を本質的に弱めるに至らないのである。それだから戦争においては、かかる強力行為、即ち物理的強力行為は(中略)手段であり、相手に我が方の意志を強要することが即ち目的である」(同上)
つまり、戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、「物理的強力手段」がその手段として用いられるのが戦争であるとクラウゼヴィッツは論じているのです。

この考察で我々が注目すべきは、クラウゼヴィッツが戦争の目的と手段との間には必然性があると指摘したことです。

二人の人間が決闘に至る経緯はさまざまでしょう。不当な理由で財産を奪われた人が奪った人に決闘を挑むこともあれば、単に名誉を傷つけられたという理由で決闘になることもあるでしょう。

しかし、ひとたび決闘が始まれば、そうした理由は背後に後退し、両者は実力を行使して敵に我の意志を強要するかどうかという問題に集中しなければならなくなります。

ここには戦争にだけ見られて、他の社会現象には見られない、独特な必然性があると考えられるのです。

善良さから戦争を誤解すべきではない
クラウゼヴィッツは自分の戦争の解釈に反発を覚える人がいることを予測していました。また、そうした人々が寄せるであろうコメントについても見当がついていました。
「ところで人道主義者たちは、ややもすればこういうことを言いたがるのである。―戦争の本質は彼我の協定によって相手の武装を解除し或いは相手を降伏させるだけでよいのである。なにも敵に過大の損傷を与えるには及ばない。そしてこれが戦争術に本来の意図なのであると、と」(同上、29-30頁)
クラウゼヴィッツが「人道主義者」と呼んでいる論者は平和主義者というわけではありません。

ここで想定されているのは、戦争それ自体を否定する論者ではなく、戦争における武力の行使を最小限度に抑制すべきと考えている論者です。

そうした論者は戦争の目的は敵を消耗させることであり、戦闘を挑むことは必要ないという考え方を持っており、決戦ではなく持久戦に持ち込む方策こそが優れた戦争術だと富んじていました。

クラウゼヴィッツはそのような考え方では戦争の本質を見過ごす危険があることを警告しているのです。
「このような主張は、それ自体としてはいかにも結構至極であるであるが、しかし我々はかかる謬見を打破しなければならない。戦争のような危険な事業においては、善良な心情から生じる謬見こそ最悪のものだからである。物理的強力の全面的行使と言っても、それは決して知性の協力を排除するものではない。それだからかかる強力を仮借なく行使し、流血を厭わずに使用する者は、相手が同じことをしない限り、優勢を占めるに違いない。こうして彼は自己の意志を、いわば掟として相手に強要するのである」(同上、30頁)
この一連の考察を単純化するとすれば、「人道主義者」の戦争観には善良さからくる盲点があるということです。

彼らは戦争で戦う敵が自分たちと同じように、流血の惨事をできるだけ避けようとするはずだと無意識のうちに思い込む傾向があるため、もし敵が想定を超える激しさで武力を行使してくると、我が方としては非常に不利な態勢に置かれる危険があります。

むすびにかえて
クラウゼヴィッツは戦争の残虐性や暴力性という現実を率直に見据えるところから自分の理論を構築しようとしました。

戦争を定義するために、学者の概念や理論を頼ることを避け、「拡大された決闘」という彼なりの定義を準備したことは、その姿勢の現れとも解釈できます。

こうした単純化に基づいてクラウゼヴィッツは戦争の目的と手段との間に論理的な必然性があることを指摘し、それがその背景にある要因をもってしても容易に打ち消すことができないと考えました。

つまり戦争の目的は「我が方の意志を強要すること」であり、そのために「物理的強力手段」が行使されると説明したのです。

自説に対しては「人道主義者」から批判が加えられる可能性があることをクラウゼヴィッツは認識していましたが、そうした人々については「善良な心情」によって戦争に対する「謬見」を抱いていると批判しました。

彼らは戦争それ自体に独自の力学があることを無視しており、それを無視すれば無制限に武力を行使する敵を目の前にしたときに支配されてしまうと警告しているのです。

戦争は政治の従属的要素という側面もあるのですが、そればかり見ていては戦争を理解することはできません。

戦争には戦争としての独自の力学があり、その上で政治が影響を及ぼしていると考える必要があるとクラウゼヴィッツは説いているのです。

KT

参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

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