最近人気の記事

2017年5月14日日曜日

事例研究 ドイツの対米戦略に翻弄された日本の外交

1941年3月、日本の外相松岡がドイツのヒトラーを訪問したときの様子。当時、日本とドイツは同盟関係にあった。Japanese Foreign Minister Yōsuke Matsuoka (1880–1946, left) visits Adolf Hitler.
第二次世界大戦は1939年、ポーランドにドイツが侵攻したことで始まり、間もなくイギリス、フランスがドイツに宣戦しました。

その後、さまざまな経緯があり、1941年に日本はドイツの同盟国としてアメリカ、イギリス、オランダに対し宣戦することになるのですが、これまでにも多くの研究でその決定の政治的、軍事的非合理性は繰り返し指摘されてきました。

しかし、別の視点から見ると日本は一貫してドイツの戦略に協力していた側面もあったのです。

つまり日本独自の立場で見ると非合理的ですが、ドイツの立場で見れば一定の合理性があったという解釈もできるのです。

今回は、ドイツの対米戦略において日本がどのような位置付けを与えられていたのかを検討した研究(田嶋「東アジア国際関係の中の日独関係」2008年)を踏まえて、当時の日本の政策、戦略を再検討したいと思います。

ドイツから見た日本の利用価値
1941年の情勢図。西ヨーロッパ地域でドイツの勢力に対抗したイギリスは、アメリカを手を結ぼうとしており、対米戦をどう遂行するかが当時のドイツでは重大な課題となっていた。その対策としてヒトラーが着目したのが東アジアにおける日本の存在であり、これと同盟を結ぶことで米国の対英支援を妨害できると判断した。
1940年6月にフランスを降伏させた後、ドイツはイギリスに外交的に働きかけ(7月19日)、この戦争を終結させようとしていました(同上、47頁)。

しかし、時のイギリスの首相ウィンストン・チャーチルはドイツと和平交渉を行うことを拒否し(7月22日)、あくまでも徹底抗戦の構えを示します(同上)。

戦争の早期終結に行き詰まったヒトラーは、7月31日に国防軍の首脳部を集め、次のような判断と構想を示しました。
「イギリスの希望はロシアとアメリカである。もしロシアへの希望が潰えれば、アメリカも潰え去る。なぜならロシアが脱落すると東アジアにおいて日本の価値が飛躍的に高まるからである。つまりヒトラーから見て「ロシアは日本に向けられた英米の剣」なのであり、この「英米の剣」が除去されれば、日本の軍事力は東アジアで解き放たれる。するとアメリカは太平洋に釘付けにされ、対英支援は極めて困難になるだろう。したがって、「ロシアが打倒されればイギリスは最後の希望を失う」」(同上)
つまり、ドイツがロシア(ソ連)を倒せば、日本がアジア・太平洋方面からアメリカに圧力を加えることが可能となり、イギリスは期待した支援を受け取ることが難しくなる、とヒトラーは考えたのです。

言い換えれば、ドイツはイギリスを和平交渉に引き込むために、東アジアで日本がアメリカ、イギリスを攻撃させるという構想を描いて見せたのです。

しかし、中国と戦っていた日本は1939年から40年の段階でヨーロッパの戦争にまで手を広げる意志はなく、1939年5月2日に、平沼内閣の下でドイツとイタリアに対して軍事援助を与えない旨を通知していました(同上、42頁)。

つまり、ヒトラー政権としては、ドイツの政策を遂行するために、独ソ戦を準備するだけでなく、日本の対英米政策を変えさせる必要が生じていたということです。

対ソ戦の準備と対日政策との関係

会議の後でドイツは日本を枢軸陣営に引き入れるための外交努力を強化しました。

この会議からおよそ2カ月後に当たる1940年9月27日に日独伊三国同盟が調印されているのですが、この同盟もそうしたドイツの外交努力の成果と位置付けることができます。

当時、日本は対中戦を遂行する上で対ソ関係を改善しようとしていたため、この日独伊三国同盟の条約では独ソ不可侵条約をはじめとする対ソ関係の現状維持が取り決められていました(同上、48頁)。

これはヒトラー政権の思惑とは違っていましたが、少なくとも一時的に日本にドイツの真意を誤解させることができただけでなく、日本を枢軸陣営に組み入れる上でも外交的な意味がありました。

しかし、ヒトラーの意図はあくまでも対ソ戦にあり、12月18日に対ソ戦の準備を1941年5月15日までに完了させるように軍に命じています(同上、49-50頁)。

当然のことながら、ドイツが対ソ戦を準備していることは、日本に知らせないことが重要だとヒトラーは知っていました。

もし日本がドイツの真意を知れば、対ソ関係を維持したい日本はドイツから離れる危険があったためです。
「3月5日、最高司令部長官カイテル名で出された「総統司令第24号」は、「日本との協力」について規定していたが、「バルバロッサ計画については日本にいかなる示唆も与えてはならない」との前提の下で、「三国同盟に基づく協力の目的は、東アジアにおいて可及的速やかに日本に積極的な行動を取らせること」であるとされ、具体的には「東アジアにおけるイギリスの最重要拠点シンガポールの奪取」が明示されたのである。すなわち日本のシンガポール攻撃により「強力なイギリスの戦力が釘付けにされ、アメリカ合衆国の関心の重点が東アジアに向けられる」であろうと期待されたのである」(同上、52頁)
ここで述べられている通り、三国同盟はもとから東アジアで日本に対英米攻撃を行わせるように仕組まれた同盟でした。

さらに日本にとって不都合なことに、このようなドイツの意図を全く日本側は把握しておらず、ドイツの仲介によって日ソ関係の改善を目指していました(同上、53頁)。

結局、ドイツの企図判断を誤っていた日本の外交は、1941年6月22日のドイツ軍による対ソ侵攻で完全に破綻することになりました。

予想を裏切られた日本の対応
独ソ戦が勃発した当時の日本の政権は第二次近衛文麿内閣によって担われていた。独ソ戦の後で内閣改造が行われ、日独伊三国同盟にソ連を加える四国同盟を構想していた松岡外相が外されることになる。Cabinet ministers of Second Cabinet of Fumimaro Konoe, 1940, Mainichi Shinbun.
当時の日本がドイツがソ連に対して侵攻したこと(バルバロッサ作戦)を裏切り行為として受け止めていました(同上、54頁)。

しかし、もはや情勢は不可逆的な段階に入っており、日本としては独ソ戦の勃発にどのような対応をとるべきかが議論されることになります。

選択肢は二つあり、一つは北方でソ連の圧力が軽減されている間に南進する方策、もう一つはドイツとともにソ連を東西から挟撃することを狙って北進する方策でした。

近衛文麿内閣においては北進論を支持する勢力と南進論を支持する勢力との間で激しい議論が戦わされました。

その論争の詳細はここでは省きますが、結果としてドイツが対ソ戦で短期間のうちに勝利を収めて独ソ和平が実現し、日独伊ソの提携が実現することについて、依然として多くの関係者が希望的観測が支配的となっていきます(同上、55-6頁)。

結局、日本はソ連に対する攻撃は避けて南進論の方針を固め、12月8日、真珠湾攻撃をはじめとする対英米作戦に踏み切りました。
「真珠湾の報を聞いてヒトラーは喜びのあまり両手で膝をたたき、新たなる世界情勢を熱狂的に解説したという。彼はアメリカの対独参戦を不可避と考えており、日本の真珠湾攻撃により単独での対米戦争遂行という悪夢から解放されたのである」(同上、56頁)
ヒトラーの対日政策がここに完全に実現したといえますが、ちょうどこの時期にドイツは対ソ作戦を攻勢から防勢に切り替え、長期戦の準備を進めていました。
「しかし一方ヒトラーは同じく12月8日、対ソ戦の遂行に関し重大な行っていた。すなわち同日、「総統指令第39号」は、「東方における驚くべき早期の冬の到来と、それに伴う補給上の困難のため、大規模な攻撃作戦を即座に停止し、防衛態勢に移行する必要がある」と述べていた」(同上)
これは独ソ戦の長期化を確定する重要な決定でしたが、日本はこのことを知らないまま対英米作戦に踏み切っていました。

日本の対英米作戦の大前提に独ソの早期講和があったことを考えれば、これは日本にとって致命的な事態でしたが、ドイツはその後も重大決定を日本に知らせることなく、既成事実を積み重ねて日本との戦略協力を強化していきます。

12月11日にドイツは対米宣戦を行い、また日独伊共同行動を締結することで、日独伊共同の戦争遂行と戦後の勢力圏分割を約束したのもその一環です(同上、56-7頁)。

1942年1月18日には東経70度を基準線にしてアメリカ西岸方面を日本、アメリカ東岸方面をドイツとイタリアの作戦地域とし、完全に日本をドイツの戦略に組み入れました(同上、57頁)。

むすびにかえて
第二次世界大戦の歴史から学ぶべき教訓はたくさんあるでしょうが、その一つに同盟相手と結んだ条約であっても、その内容を全面的に信用してはならないということが含まれるでしょう。

後から振り返れば、ドイツの外交工作によって、日本はソ連との友好関係を構築する上でドイツと同盟を結ぶ方が有利だと誤認しており、それがドイツの対米戦略に利用される第一歩となっていました。

当時の日本の決断に対する評価については、例えばドイツが独ソ戦で勝利していれば、イギリスと早期講和が実現し、その恩恵で日本も対英米戦の成果を上げることが可能だったという議論もあるかもしれませんが、ヒトラーが本心のところで日本を人種主義的な理由から敵視していたことを考慮すると、その妥当性には疑問が持たれます。
「さらに反ヒトラー派の元外交官(駐イタリア大使)ハッセルは、42年3月22日、収集した情報を日記に次のように記した。「噂によれば、ヒトラー自身は日本の戦果に心から感動しているわけではなく、むしろ逆に、黄色人種を撃退するために、できればイギリスのため20個師団を派遣したいと語ったという」」(同上、57頁)
これがヒトラーの真意であるなら、日本が第二次世界大戦の勝者になれたとしても、対米戦略上の利用価値がなくなった後でドイツとの同盟関係を維持できたのかどうかは不明確です。

つまり、ドイツが日独伊共同宣言で約束した東アジアでの日本の勢力圏拡張を本当に許したのかどうかは断定できませんし、場合によっては日本がドイツの軍事的圧力の対象となる可能性も否定しきれません。

このような可能性を検討していくと、第二次世界大戦における日本の外交の失敗は単に同盟相手の選択を間違えただけではありませんでした。

同盟相手の思惑や自国との利害の相違を批判的に検証せずに、同盟政策を論じることの危険性をこの事例から学ぶべきではないでしょうか。

KT

関連記事
事例研究 第二次世界大戦におけるヒトラーの外交と戦略
論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

参考文献
田嶋信雄「東アジア国際関係の中の日独関係 外交と戦略」『日独関係史 1890-1945 Ⅰ(総説/東アジアにおける邂逅)』東京大学出版会、2008年、3-75頁

0 件のコメント:

コメントを投稿