最近人気の記事

2017年12月27日水曜日

時事評論 米国による北朝鮮への武力攻撃の確率は16%

今年2017年は北朝鮮の問題が大きく動いた一年でした。
北朝鮮は核弾頭、運搬手段の研究開発を進展させ、米国は北朝鮮の非核化を目的とする武力攻撃を示唆するなど、緊張状態が高まっています。
このことを受けて我が国でも朝鮮有事に関する議論が活発になっており、一部では米国による北朝鮮への武力攻撃があるのではないかという見方も出ています。

今回は情勢判断の参考資料の一つとして、米国の政治学者Bueno de Mesquitaの期待効用モデルと呼ばれるモデルを使い、武力攻撃の確率を見積もり、そこから簡単な予測を試みたいと思います。(モデルの詳細については末尾の補足を参照)

(注意喚起:政治情勢の予測モデルはまだ科学的に確立されたとは言えない段階にあります。予測結果が将来の出来事を確証するものではなく、また以下の内容の正確性について筆者が一切の法的責任を負わないことに同意する場合にのみ読み進めて下さい)

モデルと入力した情報について

期待効用モデルはゲーム理論を基本にしたモデルです。
各国は最も望ましいと考える政治的立場に他国を引き寄せようとしながら、周囲の政治的立場から判断される政治的実現可能性に応じ、自国としても譲歩を行う多国間交渉を分析することができます(モデルの詳細は補足の文献を参照して下さい)。

モデルに入力する情報としては、各国が持つ能力、各国がとる立場、そして関心の程度の三つとされており、それぞれを1から100までの間で評点します。
ここでは分析を単純化するために米国、中国、ロシア、北朝鮮、韓国、日本の6カ国に限定して考察します。

また、各国の能力は今回の問題に関して各国が使用可能な影響力のことを意味します。
そこで軍事力(軍事要員数と軍事予算額を掛けた値が、6カ国全体で占める比率)と経済力(それぞれのGDPが6カ国全体の合計値に対して占める比率)の平均値を使用することにします。
具体的な数値としては中国が28.0、北朝鮮が0.5、韓国が2.0、日本が6.0、ロシアが3.0、米国が58.0を用います。

さらに立場についても分析のために各国の立場を単純化して処理します。
つまり、武力攻撃を実施してでも北朝鮮を非核化すべきという立場を1~20、非軍事的手段で北朝鮮を非核化すべきという立場を21~40、外交交渉によって双方が譲歩すべきという立場を41~60、北朝鮮に対する非軍事的圧力に非協力的な立場を61~80、北朝鮮に対する軍事行動があれば軍事的手段でこれに対抗する立場を81~100と便宜的に分けます。
この判断基準に沿って中国を80.0、北朝鮮が100.0、韓国が55.0、日本が45.0、ロシアが70.0、米国が10.0と評点します。

最後の関心は各国がどれだけ本気でこの問題に対応しようとしているのかにかかわってきますが、これは各国がいずれも秘匿している情報であり、不明確な点が多いため、理論的な操作で数字を求めることはせず、乱数化したいと思います。

分析結果の概要と考察

このモデルで分析することによって、将来的に各国がどのような立場に移行するのかを予測することができます。試行回数50回で分析した結果をまとめると以下の通りです。
50ケースごとに米中露日韓朝6カ国の立場をプロットしたもの。
縦軸の値が各国がとる立場を示し、横軸の値が何回目のケースなのかを示している。
青色が中国、赤色が北朝鮮、灰色が韓国、黄色が日本、青色がロシア、緑色が米国を表す。
結論から先に述べると、非軍事的圧力を受けたにもかかわらず、北朝鮮が自国の立場を維持し、かつ米国が武力攻撃に踏み切るべきだと判断したケースは、試行した50回のうち8回で確認されました。つまり、16%の確率と見積もることができます。
試行回数を増やせば数値も若干変化するでしょうが、米朝戦争のような事態に至る確率はそうならない確率に比べて比較的小さくなると思われます。

結果の全般的特徴として特に注目されるのは、現在の東アジア地域で優勢な米国が、一貫して自分の立場を主張し続ける確率が64%と高いことです。
逆の視点で言えば、米国が自国の立場を大きく修正する確率は36%と見込まれることになります。この際、中国やロシアが重要な役割を果たすことになるでしょう。
日本、韓国は米中露の立場に対してちょうど中間の立場に位置するので、政治的に見れば有利な立場を占めるのですが、能力不足のために大きな影響を及ぼしているように見えません。

またモデルの結果によると、北朝鮮は周辺諸国に比べて現在の自国の立場を維持することが極めて難しい態勢にあり、米国と何らかの妥協を図る公算が大きいと判断されます。
とはいえ、北朝鮮のリスク志向性の高さには注意する必要があることをモデルは示唆しています。
これは分かりやすく言えば、北朝鮮が劣勢を挽回するために一か八かの行動に打って出る傾向が強まっているということです。

先ほどのグラフにおいても北朝鮮が選択可能な立場についてモデルがかなり大きな変動幅を予測していることも、こうしたリスク志向性の強さが影響しているものと考えられます。

むすびにかえて

モデルで計算した結果、米国による北朝鮮への武力攻撃の確率は16%と見積もられました。
これは戦争の勃発を確実視できるほど高い値と認めるには小さすぎる数値です。今後の予測として、引き続き緊張状態が維持され、外交努力が重ねられる可能性の方が高いと思われます。

ただし、16%というのは戦争のリスクを完全に無視できるような値でもありません。
戦争のリスクについては最低限の注意を払うべき局面にあることを認識しておくべきでしょう。

KT

補足

期待効用モデルはゲーム理論を使って戦争を分析する研究から生まれたモデルであり、Bueno de Mesquita, B. 1981. The War Trap. New Haven, Conn.: Yale University Press.でその原型が初めて示されました。
その後、予測モデルとして改良が重ねられ、政治的意思決定を予測する目的で使用されています。この記事では乱数を部分的に使用したが、これはBueno de Mesquita, B. 2002. Predicting Politics. Coloumbus: The Ohio State University Press, Ch. 4.の方法を参考にしています。
このモデルの基本的な概念はTed Talkのプレゼンテーション「Bruce Bueno de Mesquita: A prediction for the future of Iran」で紹介されたこともあり、サブタイトルに日本語翻訳も含まれているため、概要を把握する上で参考になると思います。

2017年12月23日土曜日

文献紹介 軍事史における通信技術―戦場における電話の歴史を中心に―

戦場において情報が正しく伝達されなければならないことは当然のことですが、問題はそれだけにとどまりません。
敵にこちらの情報が漏洩することを防止したり、敵の攻撃や戦闘の混乱でも確実に伝達することも求められるためです。

そのため、古来より軍人は通信手段の研究と開発を積み重ね、さまざまな技術や手法を確立してきました。
今回は、その成果を知ることができる文献を取り上げてみたいと思います。

文献情報
David L. Woods, A History of Tactical Communication Techniques, New York: Arno Press, 1974.

長い歴史を持つ軍事通信

この著作の特徴は、古代から現代までの軍事通信を幅広く取り上げていることです。

例えば、古代の軍事通信の事例としてアレクサンドロスの時代からトランペットやファイフのような楽器、そして軍旗がファランクスの部隊行動を統制する手段として使われていたこと、ポエニ戦争でハンニバルがアフリカとスペインに遠隔地から送信される松明の信号を受けるための通信塔を建設していたことなども紹介されています(Woods 1974: 7-8)。

しかし、著者は基本的に時代ごとに使われた軍事通信の歴史を調べるアプローチはとっていません。
その代わりに通信手段を腕木通信、信号旗、伝令、手旗信号、パイロテクニクス、電信、音響信号、光信号、軍事気球、有線通信、無線通信、航空通信のように形態ごとに分類し、それぞれの歴史的変遷を辿っています。

結果として、本書はさまざまな軍事通信の技術的変化を包括的に知る上で優れた研究資料となっています。
以下では、本書の具体的な内容を紹介するため、現代の通信においても重要な電話に関する記述に注目してみましょう。

電話の発明と軍事利用の始まり

1892年に電話の試験を実施する工学者ベル、以降の通信技術の発達に大きな影響を与えた。
Gilbert H. Grosvenor Collection, Prints and Photographs Division, Library of Congress.
現代の私たちが電話として親しんでいる通信手段を技術的に確立したのは米国の工学者ベル(Alexander Graham Bell、1847年 - 1922年)の功績とされており、彼は1875年に音響電信を開発したことで科学技術史に名前を残しています。
ところが、著者の調べたところでは、軍事通信として電話を最初に使ったのは米軍ではなく、1882年にエジプトで反乱の鎮圧に当たった英軍だったという研究報告があるようです(Ibid.: 187)。

ただし、これはあまり確実な記録ではないと著者は指摘しており、現在のパキスタンに当たる地域で1879年12月に英軍が使用した記録や、1877年12月にやはり英軍がパキスタンでの戦闘で電話を使用した記録が残されているためです(Ibid.: 188-9)。
これらを総合すると、電話は開発されてから数年も絶たずに軍事通信として利用され始めたと推測できます。

ただし、電話は通信網を構成するために作業、時間を要する制約があるだけでなく、いったん通信基地を設営すると部隊の移動を妨げるという問題もあり、軍人の間でその価値に疑問を投げかける見解も一部にあったようです(Ibid.: 190-1)。
しかし、電話の軍事利用という動きは広がり続け、米軍でも1889年から本格的に検討を始め、1896年に英軍からの技術移転を受けながら運用を開始しました(Ibid.: 191-2)。

第一次世界大戦で直面した諸問題

研究開発を通じて改良された電話は、1914年に第一次世界大戦が勃発してから、さまざまな技術的試練を受けることになりました。
当初、英軍で電話が特によく使用されていたのは旅団―大隊間の通信でしたが、1915年以降に第一線の部隊が砲兵が緊密に連絡をとる必要が生じ、電話線をより前線近くまで引く必要がでてきました(Ibid.: 194-5)。

しかし、線を第一線部隊の陣地にまで延伸することで、さまざまな通信障害が引き起こされることになります。
著者は1916年に英軍が刊行した『戦場における野戦電話の利用(The Use of Field Telephone in the field)』というパンフレットで掲載された18項目の注意事項を紹介することで、当時の電話に関する問題を示しています(Ibid.: 195)。ここではその一部を取り上げます。
「(1)急ぐとかえって時間をとられる。注意深く電話線を構成すれば結果として時間は節約される。(2)電話線を乱暴に扱うな。断線の原因となる。(3)戦闘の最中に前線と後方を電話で結ぶ際には、それが固定的な通信であり、数分間で修理ができたり、移動できるものとは考えるな。(4)前進する場合、電話は置いていけ。後で回収する時間はある……」(Ibid.: 195)
まだ戦術的な通信手段として電話の運用をめぐって、現場でさまざまな問題があったことが、こうした記述からも伺われます。

重要性を増した通信科の役割

1942年、第二次世界大戦のガダルカナルの戦闘で電話をかける米軍兵士
Hammel, Eric, Guadalcanal, Zenith Press, 2007, p. 142.
当時、敵であるドイツ軍の砲兵が道路に対して行う砲撃で断線が頻発したことも、英軍で大きな通信障害の原因となっていました。
これを避けるため、電信柱や道路脇に線を引くことを避け、交通壕の中に線を走らせることも広く行われたのですが、今度は部隊が交通壕の中を移動する時や、交通壕の拡張工事を行う時に断線が起こることになります(Ibid.: 195-6)。

戦場における通信の問題がますます大きくなる中で、英軍における通信部隊の規模は拡張されています。
ボーア戦争の頃に24名の士官と350名の下士官・兵卒だったところが、1914年には士官58名、下士官・兵卒1978名にまで急増し、この傾向は戦争が終わるまで続きました(Ibid.: 196)。

戦間期に入ると無線通信が登場しますが、それは有線通信と置き換えることができるものではなく、第二次世界大戦、朝鮮戦争でも電話は広く戦術通信のために使用されました。
電話交換機、ファクシミリなど、その過程で現代の我々が知る多くの装備が導入されたことにも触れられています。

むすびにかえて

この著作は技術史に関する多くの文献と同じく、軍事通信の技術的詳細について多くのことを語っています。
しかし、著者はそうした技術の紹介だけに専念せず、それを軍隊がどう活用しようとしたのか、という運用的側面にも考慮し、バランスのとれた記述を心がけています。

結果として、通信技術の専門家ではない読者であっても、興味深い情報が多く盛り込まれており、少し古い文献であるものの、関連する写真が多く掲載されており、それだけでも興味深い内容になっていると思います。
新たな情報技術が次々と登場する現代ですが、最新の技術を学ぶだけでなく、こうした歴史研究を通じて長期的観点を持っておくこともまた重要なことではないかと思います。

KT

2017年12月20日水曜日

学説紹介 激しい戦争が、長い平和をもたらす―ルトワックの考察

エドワード・ルトワック(Edward Luttwak)は戦略の研究で有名な研究者ですが、人道的介入と呼ばれる活動が本来の意図と逆の効果をもたらすと主張し、論争を巻き起こした人物でもあります。
つまり、戦争を防止し、その被害を抑制する目的で実施される軍事的、非軍事的手段による戦争への介入は、かえって戦争を促進し、その被害を拡大するなどとルトワックは論じたのです。

今回は、ルトワックがどのような理由に依拠してこのような議論を主張しているのかを検討し、その妥当性について考えてみたいと思います。

戦争の被害が大きいほど、その後の平和は長く続く

エドワード・ルトワック、ルーマニア出身の研究者、業績に『戦略論』など。
ルトワックの戦争の論じ方は大半の平和主義者の立場から全く受け入れがたいものです。
というのも、ルトワックは戦争を究極的に防ぐ力となるのは、戦争それ自体が持つ破壊力に他ならないと論じているためです。

もちろん、ルトワックの意図は戦争を称賛することではありません。戦争のメカニズムを理解するためには、戦争に逆説的な効果があることを理解すべきである、というのが彼の基本的な立場です。
「戦争は巨大な悪かもしれないが、大きな美徳もある。戦争の継続に込要な物質的、精神的な資源を消費し尽くし、破壊することで、戦争はそれ自体の継続を妨げる。それどころか、戦略の逆説的領域における他のあらゆる行動と同じように、戦争は、極限点を過ぎた後に最終的には反転する。その反対とは、単なる静かな無抵抗かもしれない。または、交渉による平和や休戦あるいは一時的停戦ではなく、無意識の非戦状態かもしれない」(邦訳、ルトワック、97頁)
この議論に従うと、戦争が終結し、平和に移行する基本条件は、一方の勢力が勝利することか、もしくは双方の勢力が消耗し尽くし、戦闘が停滞することになります(同上、98頁)。

ルトワックの議論で特に興味深いのは、平和が長く維持されるためには、あらゆる戦力を使い果たし、相互に莫大な損害を被る必要があることを一つの可能性として示唆していることであり、もし戦争が徹底的に行われないまま中断されると、間もなく当事者はその猶予期間を利用して軍事力を回復し、時期を見て軍事行動を再開すると述べています(同上、99頁)。

平和維持活動が逆に戦争を長引かせる理由

以上に述べたことを踏まえて、ルトワックは国際連合による平和維持の努力が、こうした戦争の力学を妨げる問題があると指摘しています。
そのような活動が平和につながることはなく、かえって戦争を恒久化させる要因になっているとして、次のように論じています。
「1945年以来、小国間の戦争は、自然な経過をたどることを滅多に許されなかった。代わりに、平和の前提条件を確立させるために戦争のエネルギーを使い果たすよりも前に、戦争は中断されることが普通であった。停戦を命じることにより、小国間の戦闘を直ちに止めることが国連安保理常任理事国のお決まりの仕事となった。停戦直後に和平交渉を促すように外交的介入が行われない限り、停戦は単に戦争疲れを和らげ、交戦当事国の再建と再軍備を助長し、停戦が終わるや戦闘の激化と長期化をもたらすことになる」(同上、100頁)
この議論が当てはまる事例としてルトワックが取り上げているのは中東戦争です。
国連は創設当初からイスラエルと周囲のアラブ諸国との間の中東戦争に関与しており、平和維持のために和平の仲介や人道援助を行ってきましたが、未だに平和からほど遠い状況にあります(同上)。

ルトワックは建国当初のイスラエル人がアラブ人に対して非常に厳しい戦いを強いられたことを考慮し、第一次中東戦争で国連安保理が2度にわたる一時的な停戦を実現させていなければ、この地域の戦争は数週間で終わったかもしれないと述べています(同上)。
つまり、国連の停戦実現に向けた外交的活動が、軍事的に劣勢なイスラエル人の勢力を支援し、アラブ人の勢力と拮抗させる上で効果を発揮したということです。

難民キャンプが武装勢力に基地機能を提供する

ルトワックの考察でもう一つ注意を要するのは、難民キャンプに対する国連の支援に関する議論です。
そこでルトワックは国連の難民支援、特に国連パレスチナ難民救済事業(UNRWA)がその意図とは裏腹に、中東における反イスラエル闘争の継続を可能にする効果があるとして次のように論じています。
「UNRWAは現在に至る半世紀以上の活動期間中、1948年時と同じ新鮮な怒りと当初の復讐感情を持続させながら、パレスチナ難民国家を恒久化した。そこでは若者たちが、新しい生活に向けた独自の道を見出すことは許されなかった。その代わり、彼らは挫折した年長者の管理下に置かれ、幼少時代からUNRWAが資金援助した学校で、復讐と再征服の義務を教え込まれた。UNRWAは地元社会への統合を思い止まらせ、域外への移民を禁じている。それに加えて、キャンプでパレスチナ人が集住していること自体が、イスラエルや仲間内で戦う武装組織への志願または強制入隊を常に促進してきた」(同上、106-7頁)
このルトワックの議論は見過ごされがちな難民キャンプの軍事的側面について述べたものだと言えます。
戦地から逃れた難民を一定の地域に収容して国連の保護下に置き、医療や食料を継続的に提供し、次世代のための教育を施すことができれば、軍事的に優勢な敵対勢力も手出しができず、軍事作戦の準備が可能となるということです。

むすびにかえて

今日の安全保障環境において国連の果たしている役割は決して小さなものではありません。ただし、その役割は戦争を防ぐ役割として解するべきではなく、むしろ戦争を長引かせる役割として理解しなければならないとルトワックは考えました。

ルトワックの議論だと、現代ではあらゆる地域戦争は国連安保理の決定に基づき介入を受ける可能性があり、その結果として戦争の原因となった問題は恒久化し、安定的な平和を構築するための決定的勝利を上げることは困難ということになります。

以上がルトワックの議論であり、非常に興味深い議論ではありますが、一方でその妥当性がどの程度なのかについては慎重に考える必要があるでしょう。
確かに、平和維持や人道援助が特定の状況で一方の勢力の戦争遂行に寄与する可能性や、激しい戦争の後に長い平和が訪れる場合もあるでしょう。

しかし、戦争が常に平和の条件になるかのような議論になると、それは行き過ぎた単純化に陥るでしょう。戦間期の戦後処理のように方法を誤れば、どれほど激しい戦争で相手の軍事力を壊滅させたとしても、平和維持には寄与しない恐れも十分考えられるためです。

ルトワックのは平和の問題について一般的な視点とは別の角度から考える必要性を示すものとして意味があると思いますが、戦争と平和の関係については、より実証的な観点から考察することも必要だと思います。

KT

参考文献

Edward Luttwak, Strategy: The Logic of War and Peace, Revised and enlarged edition, Belkknap Press of Harvard University Press, 2001.(邦訳、エドワード・ルトワック『エドワード・ルトワックの戦略論 戦争と平和の論理』武田康裕、塚本勝也訳、毎日新聞社、2014年)

2017年12月15日金曜日

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

クラウゼヴィッツの研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。
この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。

フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。
しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。

今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究

カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。
著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。
アロンの調査によれば、クラウゼヴィッツがフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。

カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。
その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。

アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。
「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、B.H.リデル・ハートのそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁)
ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容を完全に消化するまでには至らなかったとアロンは述べています。
このことを説明するため、当時のフランス陸軍で影響力があったフォッシュの著作『戦争の原理』を取り上げています。

フォッシュのクラウゼヴィッツ理解

フェルディナン・フォッシュ、フランス陸軍軍人、 1851年10月2日生まれ、1929年3月20日に死去。
軍事学の著作として『戦争の原理』などがあるほか、第一次世界大戦では連合国軍総司令官を務めた。
フォッシュは1900年に行った講演を収録した著作『戦争の原理』を1903年に出版しました。
この著作を読むと、「当時の将校たちがクラウゼヴィッツの包括的な思想を理解することができなくて、彼を戯画化し、しかも、その本質をつかんだと思いこんでいたかが分かる」とアロンは主張しています(同上、31-2頁)。
「彼は、クラウゼヴィッツの定式を取り上げて、「戦争では、戦術的結果だけが利益になる。武器による決着、これだけが有効な判断である。これによってのみ敗者と勝者がきめられるからである」というだけでなく、「最初の行動が、もっとも決定的なものであろう」と考え、また、「火器の改良は、攻撃に、懸命に指揮された襲撃に力を加えるものである。歴史がこれを証明し、水利がこれを解明する」と断ずるのである」(同上、35頁)
アロンに言わせれば、フォッシュは戦術と戦略を明確に区別することもできておらず、クラウゼヴィッツがなぜ戦略的防御と戦術的攻撃を組み合わせることの重要性を論じたのかも理解できていないと指摘しています。

フォッシュにとってみれば、クラウゼヴィッツの思想体系を包括的に解釈するということはたいして重要なことではなかったようです。
フォッシュは「兵力の経済的使用」、「行動の自由」といった自分なりの戦いの原則を擁護し、兵力の戦略的な集中とそれを遂行する司令官の精神の重要性に関する自分の主張を裏付けるためにクラウゼヴィッツを利用したに過ぎませんでした。

戦争そのものへの問題意識の欠如

ユベール・カモン(Hubert Camon)はフランス陸軍軍人、
著作『ナポレオンの戦争体系』(1923年)などの研究業績で知られていた。
アロンは、当時のフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する独断的、一面的な解釈が支配的だったことを指摘し、これがフォッシュの著作だけに見られた傾向ではなかったと強調しています。
「私がフォッシュの著書をここで取り上げたのは、この書がフランスのクラウゼヴィッツ関係図書のなかで特にすぐれているとか、代表的なものだとかいうわけではない。その平凡なところにかえってリュシアン・カルドに続くフランスの将校たちが『戦争論』から学んだ諸観念を、あけすけに示しているところがある、と思ったからである」(同上、39頁)
結局、当時のフランス陸軍が直面していた問題は、いかに決定的な時期、場所に兵力を集中し、敵に対して優勢を確保するかということでした。

つまるところ、当時の軍人にとって戦争と政治は本質的な問題ではありませんでした。
むしろ、戦争が勃発してから作戦部隊がとるべき機動の方式こそが重要な問題と考えられていたのです。

例えば、カモンのような陸軍の著述家が、クラウゼヴィッツを批判し、ナポレオンの戦争術に見られる戦略的包囲を再評価する研究したことも、当時の疑問により直接答える意味合いがありました。

むすびにかえて

フランス陸軍で、フォッシュのようにクラウゼヴィッツの思想に無理解な将校が主流派となって参謀本部を支配し、「1914年の敗北に一部責任のある戦争計画に加担していた」と思われることは驚くにあたらないとアロンは述べています(同上、41頁)。
それは必然的なことであり、だからこそ彼らは戦争においてフランス軍が攻勢をとるべきことを主張し続けたと思われます。

アロンは当時、一部の軍人が陸軍の首脳部と異なる立場をとり、戦略的攻撃に反対したことも紹介していますが、「彼の教えは、当局者の無理解にあって葬り去られた」としています(同上、42頁)。
特定の学派がいったん陸軍の要職を独占すると、それに反する意見を述べることはできなくなっていました。

広い視野で見れば、アロンの議論はフランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の不備を指摘するだけのものではありません。
これは健全な学術研究が硬直的な組織構造に阻害され、それが国家の防衛を危うくする一因になったことを示唆しています。

KT

関連記事

文献案内

  • レイモン・アロン『戦争を考える クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、佐藤毅夫、中村五雄監訳、1978年(この記事で参照している文献、ドイツ、フランス、アメリカなどでクラウゼヴィッツの思想が与えた影響を検討している)
  • Irvine, Dallas D. "The French Discovery of Clausewitz and Napoleon." Journal of the American Military Institute (1940): 143-161.(当時のフランスにおけるクラウゼヴィッツ研究の動向に関する論文であり、アロンが上記の著作でも参照している)
  • Porch, Douglas. "Clausewitz and the French 1871–1914." The Journal of Strategic Studies 9.2-3 (1986): 287-302.(フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究としてより最近の成果を知ることができる)

2017年12月12日火曜日

学説紹介 抑止だけではない懲罰(punishment)戦略―懲罰的脅迫に関するスタンの考察―

安全保障の研究で懲罰(punishment)という概念は、抑止の観点から議論されることが一般的です。
例えば、懲罰的抑止(deterrence by punishment)という用語は、敵国からの攻撃を防止する目的で、敵国に対する反撃能力(例えば弾道ミサイルなど)によって期待される抑止効果を表した言葉です。

しかし、懲罰は抑止だけでなく、例えば脅迫・強制のような対外政策の手法としても活用できます。
今回は、戦略の観点から懲罰全般について考察するため、政治学者アラン・スタン(Allan Stam)の考察を取り上げ、その要点を紹介します。

懲罰的抑止の考え方

スタンは機動戦略や消耗戦略に並ぶ第三の戦略として懲罰戦略を位置付け、その特徴を次のように説明しました。
「国家は攻撃を中止させる懲罰戦略を通じて、攻者の負担を大きく引き上げ、そのことによって自国の防御を測ることが可能である。これは相互確証破壊(mutual assured destruction, MAD)の概念に基づく威嚇の一種である。MADのおいては、国家が核兵器で攻撃するとしても、攻者の本土に対して反撃を加えることが可能である。この反撃は防者を打倒することから得られると見込まれる利益をはるかに上回る負担を攻者に負わせることになる」(Stam 1996: 83)
ここで説明されているのは、懲罰的抑止の考え方そのものです。
侵略に踏み切れば、反撃によって確実に本土に甚大な被害が生じる状況に置かれていれば、その政府は自ら進んで戦争に踏み切ることは避けると予測されます。

なぜなら、侵略を行った場合に期待される利益が、反撃で生じる損害によって相殺されるので、合理的ではなくなるためです。
ここでの反撃能力としては核兵器が一般的に想定されますが、スタンは通常兵器であってもその損害が十分であれば反撃能力を満たすことは可能であると考えています(Ibid.)。

懲罰的脅迫の考え方

スタン自身は懲罰的脅迫という用語は用いていませんが、より強引な強要を目的として懲罰を活用することは可能だと考えていました。
つまり、国家は懲罰戦略を用いて現状を変えようとすることもできる、ということです。
「この戦略において、攻者は防者の国家の決定を覆させることが可能だと確信している。ある形態において、攻者は通常であれば航空機やミサイルによってこれを試みる。この戦略は第二次世界大戦の前にドゥーエとミッチェルの理論的研究によって導き出されたものである。ニクソン政権では、米国がベトナムで戦争の後期になってからこの種類の戦略を採用した。その際、米国は地上部隊の大部分を本国に撤収し、一連の懲罰的爆撃によって敵国政府を屈服させようと強制を図った」(Ibid.: 85)
またスタンは歴史的事例として、第二次世界大戦におけるドレスデン、東京、ロンドンに対する戦略爆撃もこの懲罰戦略に基づく攻撃であったと解釈できると述べています(Ibid.)。
また興味深い点として、スタンは毛沢東のゲリラ戦の思想でも懲罰戦略の特徴があるとも指摘しています(Ibid.)。
つまり、懲罰の手段となるのはミサイルや爆撃機ばかりではなく、一撃離脱で敵に損耗を与え続けるゲリラも同様の効果をもたらすことができるということです。

このように考えていくと、懲罰は敵からの攻撃を抑止する目的だけでなく、敵に対して我が方の要求を受け入れさせる目的でも適用することができます。
懲罰戦略に基づく攻撃は大規模な戦争を前提としていないため、ある意味では機動戦略や消耗戦略のような戦略よりも柔軟に用いることができるでしょう。

むすびにかえて

いったん懲罰戦略とは何かを理解すれば、それが対話と圧力を組み合わせた戦略であることが分かります。
その狙いが抑止であれ、脅迫であれ、懲罰戦略をとる国家が計画的に状況をエスカレートさせる必要があり、しかもそれは慎重に計画されたエスカレーションでなければなりません。

現代の戦略学は戦争で敵を打倒することが全てではありません。戦略は達成すべき政治的目的や、その国家が置かれている政治的環境の特性に応じて、利用可能な軍事行動のオプションを示すことが重視されるようになっています。
スタンの考察は懲罰戦略というオプションを理解する上で参考になると思います。

参考文献

Allan C. Stam III, Win, Lose, or Draw: Domestic Politics and the Crucible of War, University of Michigan, 1996.

2017年12月8日金曜日

学説紹介 戦場で小隊長は何をしているのか―歩兵小隊の組織構造と小隊長の役割について―

時代や地域を超えて、歩兵部隊は常に陸軍の中核的戦力であり続けてきました。
歩兵は文字通り最前線において徒歩で近接戦闘などを遂行する兵科であり、主たる武器は小銃、機関銃、迫撃砲です。

今回は、そんな歩兵小隊がどのように編成されているのかについて、米軍の教範を参考にしながら、戦術の観点から解説してみたいと思います。

そもそも歩兵小隊とは何か

標準的な陸軍の編制として、小隊は分隊の上位、中隊の下位に位置付けられる部隊です。
部隊の規模もさまざまですが、30名から50名程度で編成される場合が多いようです。

現在の米軍の教範では、その組織について次のように説明されています。
「歩兵小隊は、3個の歩兵分隊、武器分隊、小隊本部によって編成される。小隊本部は小隊隷下の分隊及び随伴する部隊を指揮統制し、火力支援システムと後方支援システムとの連絡調整を行う。すべての歩兵小隊は戦闘において教義として定められた同じ基本原則を用いるが、それらの原則を応用する方法については、任務を割り当てた部隊によって異なる」(FM 1.11-1.12)
米軍では歩兵分隊の規模が9名とされ、小銃、自動小銃、擲弾などの装備を使用する人員で編成されるのですが、武器分隊(Weapon Squad)だけは機関銃、対戦車誘導弾といった装備を運用する人員がおり、必要に応じて通常の歩兵分隊を支援できるようになっています。さらに小隊本部には小隊長をサポートする小隊陸曹、小隊無線手がいます。
歩兵小隊は小隊本部(PLT HQ)、3個の歩兵分隊、武器分隊(WPN SQD)で構成されている。
小隊本部には小隊長、小隊陸曹、無線通信手が、武器分隊には機関銃班、対戦車班がある。(FM 31-8: 1.12)を参照。
以上が歩兵小隊の大まかな組織構造であり、状況にもよりますが、攻撃の時には100メートルの正面にわたって分隊を展開し、防御の時にはその2倍の正面を担当する場合もあります。
こうした数値を踏まえると、小隊という部隊の規模は交戦の際に全体を一目で見通すことができる、ぎりぎりの規模だと言えるかもしれません。
したがって、小隊長の仕事として求められるのは、現場で状況の変化に素早く反応し、必要な指揮をとることであると理解することができます。

小隊長は何をすればいいのか

さて、この小隊で小隊長が具体的に処理している仕事は何なのでしょうか。
当然、小隊を指揮しているのですから、任務の遂行に必要な命令を達し、その実施状況を監督することが基本ですが、それだけでは言い尽くせないほど様々な業務があります。

ここでは教範で小隊長の仕事がどのように規定されているのかを見てみましょう。
・上級司令部の任務を支援するように小隊を指揮する。小隊長は与えられた任務と、上級指揮官の意図、構想に基づいて行動をとる。
・分隊を機動させる。
・分隊の活動を協同させる。
・小隊の次の行動について見通しを立てる。
・支援のための装備を要請し、それを統制する。
・分隊と小隊が利用可能な指揮統制システムを運用する。
・全方向に対する警戒を実施する。
・重要な武器の配置を統制する。
・正確かつ時期に適った報告書を上級部隊に提出する。
・任務の遂行に最も必要とされる場所に赴く。
・分隊に明確な任務、目標を割り当てる。
・二段階上級の部隊(中隊、大隊)が意図している事柄を理解する(Ibid.: 1.12-1.13)。
小隊長が処理すべき仕事の内容が多岐に渡ることが分かります。
歩兵分隊、武器分隊が運用している武器の特性を十分に理解していることは当然のことですが、それらを使って、いつ、どこに、どれだけの火力を集中するべきなのか、そのために分隊をどこに配置し、どのように移動させるべきなのか、そして刻々と変化する状況で自分がどこにいればよいのか、こうした判断が求められることになります。
小隊長に任されるのは、将校として階級が最も下の少尉ですが、将校になったばかりの若者にこれほど複雑な仕事を立派にこなすことは非常に難しいことです。

そのため教範では、小隊長はこれらの業務を遂行するに当たり、小隊に関するあらゆる問題を小隊陸曹と相談するように述べられています(Ibid.: 1.12)。
小隊陸曹は歩兵小隊、歩兵分隊の戦術問題の専門家として小隊長に必要な助言を与える役割もあり、小隊長が指揮を執れなくなった場合には、その指揮権を引き継ぐ場合も想定されているためです(Ibid.: 1.13)。

むすびにかえて

陸軍の歴史を振り返ると、小隊が戦術上の単位として重要性を帯びるようになったのは、第一次世界大戦からのことだとされています。(文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか
長い戦争の歴史から見れば、比較的最近のことだと言えますが、もはや現代の陸上作戦を遂行するためには、よく訓練された歩兵小隊が欠かせなくなっています。

ちなみに近年では小火器の射程や威力の向上、通信手段の発達などの影響で、歩兵分隊の役割が増大するという議論もあるのですが、やはり大規模な戦闘に対応する上で歩兵小隊の意義は依然として大きなものがあると言えるでしょう。

KT

関連項目

文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

参考文献

U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年12月1日金曜日

学説紹介 近代的な戦略の概念が成立するまでの学説史

戦略とは基本的に政治的目的を達成するために武力をどのように運用するかを既定するものであり、軍事学の基本概念の一つとして広く知られています。
しかし、軍事学の歴史でこの概念が登場したのは18世紀の後半であり、新しい部類であることはあまり知られていません。

今回は軍事思想史の研究で知られる片岡徹也が戦略概念の成立をどのように整理しているのかに着目し、その議論を紹介したいと思います。

マイゼロアの先駆的業績

フランス学士院の正面。マイゼロアは軍事史の研究で高く評価された学者でもあり、古代の戦争術に関する著作が認められると王立アカデミーへの参加も認められた。
戦略という言葉はもともとギリシア語のstrategus(将帥)に由来するのですが、この用語が軍事学の文献で普及し始めたのは18世紀に入ってからのことだとされています。
片岡はフランス陸軍の軍人だったマイゼロア(Paul Gideon Joly Maizeroy, 1719 - 1780)が戦略という用語を新しく導入した経緯を次のように述べています。
「流通の契機を作ったのは、フランス陸軍の軍人で古戦史の研究者でもあったド・マイゼロア(1719-1780)である。彼はビザンチン帝国レオーン六世が900年頃に執筆したと推定されるTacticaの最初のフランス語訳を1770年に公刊し、さらに6世紀のビザンチン皇帝マウリキウスが将軍時代の578年頃に執筆したと推定される著書Strategiconの表題に着想を得て、Strategiesの語を新しい概念を表現として初めて1777年の自著『戦争の理論』のなかで用いた」(片岡、152-3頁)
こうして戦略という用語が軍事学の文献に登場するようになったのですが、マイゼロアは戦略と戦術を現代の私たちとかなり異なった意味で区別していました。
というのも、マイゼロアは戦争術の中で原理原則により教育可能な領域とそうでない領域を区別し、前者を戦略、後者を戦術と考えたのです(同上、153頁)。

これは明らかに現代の軍事用語としての戦略の意味と似て非なるものです。
マイゼロアは戦略という用語の提案者ではありますが、現代の私たちが考えるような戦略思想家だったというわけではありませんでした。

ビューローによる再定義

ビューローは短期間兵役に就いた後は主に著述に取り組んだ。フランスで革命が起きた時から、ヨーロッパ征服の可能性を予見し、プロイセン陸軍の改革を主張したが、受け入れられることなかった。
片岡の研究によれば、現代の意味に近い意味で戦略という概念を定義した功績はドイツのビューロー(Dietrich Adam Heinrich von Bülow, 1757-1807)に属すると考えられています。ビューローの研究業績に関して片岡は次のように整理紹介しています。
「そして今日の「戦略」と「戦術」を対概念で用いる用例を確立したのは、ドイツ人ビューローの功績である。彼ははっきりとTaktiksの意味を変更して、「戦略」と並ぶ軍隊を操縦する術という意味に用い、いわゆる用兵は「戦略」と「戦術」に区分されると主張した元祖である。そして対概念としての「戦略」と「戦術」はビューローや他のドイツ語文献を通じて19世紀の間にヨーロッパ各国に浸透し、受け入れられていった」(同上、153頁)
当時、ドイツ語圏でもマイゼロアの著作は読まれていましたが、ビューローはあえてマイゼロアの定義した戦略と戦術の意味から離れました。

ビューローの説では「戦略を「敵の視界外もしくは火砲の射程外の作戦行動」、戦術を「これらの範囲内のあらゆる作戦行動」と定義」されており、作戦部隊が戦闘状態に入る前の活動を戦略で定め、戦闘状態に入ってからの活動については戦術の領域として取り扱うことになったのです(同上)。

ただし、まだ私たちが考える戦略概念とかけ離れている部分があるとすれば、それは「視界」や「射程」によって戦略と戦術を区別していることしょう。
技術的条件が変化し、部隊行動を広域的に監視できるようになった場合のことや、武器の射程が延伸する技術的可能性をビューローが考慮していなかったことは明らかでしょう。

ビューローの研究では、戦略と戦術の概念に不確かな部分が残されることになったのですが、この問題は間もなくクラウゼヴィッツの批判によって明らかにされることになりました。

クラウゼヴィッツによる概念の発展

マイゼロアが提唱した用語をビューローが再定義し、クラウゼヴィッツはそれを軍事理論の中で洗練させた。戦略と戦術の区別を敵との接触の有無に求める方法を捨て、本質的に異なる領域のものとして戦略は戦争全体を見通し、戦術は戦闘に着目するという分類を確立した。
マイゼロアから始まり、ビューローで再定義された戦略概念は、クラウゼヴィッツの理論の下でより明確な規定が与えられることになります。
この点で片岡はクラウゼヴィッツが近代的な戦略概念を完成させたものとして位置付けており、その業績は次のように要約されています。
「ビューローの功績を認めつつも、さきの彼の戦略の定義が恣意的であると批判したのがクラウゼヴィッツである。 『戦争論」第2篇第1章で彼は戦闘において兵力を使用する手立てが戦術、戦争目的を達成するために戦闘を使用するのが戦略と定義を下している。さらにクラウゼヴィッツは第2篇第2章で戦略と戦術の目的と手段の性格を明瞭に分けて理解する必要があることについて強調している。彼によれば戦術の手段は戦闘を遂行するべく訓練を積んだ兵力、目的は勝利である。だが戦略にとって本来、戦術的勝利は手段の一つに過ぎないとクラウゼヴィッツはいう」(同上、154頁)
クラウゼヴィッツの戦略概念はビューローが定義した戦略概念よりも一般的であり、また実際的な価値もありました。
戦術においては敵との戦闘で勝利することが任務遂行の判断基準となりますが、戦略ではそうした勝敗が持つ意味は戦争を取り巻く情勢によって変化することがよく考慮されているのです。

これはクラウゼヴィッツが戦争を軍事的観点だけでなく、国家が遂行する政策の一部として考えなければならないと考えていたことと関係があり、片岡は「戦略の究極の目的は講和にあると彼は考える。戦場の勝利は講和の達成という戦略の目的に寄与したときに戦略の手段としての意味を持つ」と解説しています。

クラウゼヴィッツにとって戦略とは、ある政治的目的を達成するために戦闘行動とその結果を利用することだと考えられていたため、、戦略の成否は戦闘の勝敗で測れる性質のものではなかったということです。

むすぶにかえて

マイゼロアからビューローを経てクラウゼヴィッツに至る戦略概念の成立史をたどると、18世紀後半から19世紀前半にかけて軍事学が学問として急激に体系化されていった経緯をうかがい知ることができます。
基地や作戦線など、今では当たり前に使われている軍事学の基本概念の多くがこの時代の軍事学者の研究によって生まれており、戦略という概念もそうした研究活動の中で会い乱された概念でした。

その後、現在に至るまでに戦略という概念はさらにさまざまな研究者によって再定義、再検討が行われており、例えば大戦略と軍事戦略といった細分化も行われているのですが、こうした議論もすべて戦略という概念がなければ成り立ち得なかったでしょう。
時折、こうして現在では当たり前に使っている概念の歴史をたどると、私たちの議論が多くの学者の研究成果に支えられていることを改めて考えさせられます。

KT

関連記事

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学
学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―
学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」
学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則

参考文献

片岡徹也『軍事の事典』東京堂出版、2009年