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2017年2月26日日曜日

事例研究 準備なき宣戦―1939年の「まやかし戦争」

1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込んだときに奇妙なことが起こりました。ポーランドとの同盟に基づいてドイツに宣戦したフランスとイギリスの連合国が、すぐに西部戦線からドイツの背後を突くと思いきや、いっこうに戦闘が始まらなかったのです。当時の人々はこの戦争を「まやかし戦争(phony war)」と呼びました。
ここで疑問なのは、なぜ連合国が第二次世界大戦の極めて重要な局面において対ドイツ攻撃に踏み切れなかったのかです。

今回は、米国の政治学者ジョン・ミアシャイマーの分析を紹介し、1939年の西部戦線で連合国が攻勢に出なかった理由について考察してみたいと思います。

連合国の攻勢はドイツに抑止された
当時の国際情勢についてミアシャイマーは連合国の方がドイツによって抑止された状況であったと考察しています。
すでに連合国はドイツに宣戦していたので、この主張は一見すると奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、実際の連合国の行動は形式的な宣戦布告に限られていました。そして、当時の連合国が武力の発動をためらった最大の理由は、攻勢が失敗するリスクを恐れたためだったとミアシャイマーは指摘しています。
「まやかし戦争は連合国が攻勢を開始する前の一時的な遅延に過ぎなかったと論じることができる。しかし、この議論を受け入れたとしても、連合国が短期的にドイツに対して軍事行動に出ることができなかった事実は残る。その期間は連合国の計算で最低でも2年から3年に及ぶものとされていた。連合国は1942年の前にドイツに攻め込んでも成功することはなく、大きな失敗の代償を支払うことになると考えていた」(Mearsheimer 67)
また連合国が攻勢を時期尚早と決定したのは、ポーランドが敗北する前のことだったことも述べられています(Ibid.: 68)。
このことは連合国を安全保障面で頼りにしていたポーランドにとって致命的なものでした。しかし、ドイツの主力がポーランドに向かっている状況で、連合国、特に大きな陸上戦力を持つフランスが攻勢に出なかったのは、やや不思議なことだと思われます。

攻勢に慎重なフランス、関わりたくないイギリス
1939年の状況、ポーランドがドイツ、ソ連によって東西に分割併合されている。
なぜフランスとイギリスはドイツに攻め込むのをためらったのでしょうか。
実は戦間期のフランス軍の戦略思想では防勢が重視されており、特に砲兵の集中運用を軸にした消耗戦略が研究されるようになっていました。
ミアシャイマーは「フランス人にとって、戦場での勝利は消耗戦略の遂行を成功させることにかかっていた。結果として、フランス人は砲兵を重視するようになった」と書いています(Ibid.: 71)。

このような状況を考えると1930年代のフランス軍の作戦計画が短期決戦よりも長期持久を想定したことは必然的なことでした。当時の計画の要点は次のように説明されています。
「第一に、フランスとその同盟国が動員を行い、攻勢のために必要な物資や人員で優位に立てるまでの時間を確保する。(中略)第二に、攻者は防者より損害が大きくなるのが一般的だったので、戦争の序盤におけるドイツへの攻撃はより大きな損害を受けるであろう。(中略)最後に、フランスの計画は東部国境に沿って連続的な前線を確立し、その背後で全国民を総力戦に動員する」(Ibid.: 73-4) 
戦争が始まってから、フランス軍が攻勢に出るまでに必要な時間は2年から3年と見積もられていたことも考慮すると、フランスの攻撃が開始される時期は1941年から1942年だったということになります。

一方、イギリスの戦略は政策の大幅な見直しのために不明確なままでした。
当時、イギリス政府はヨーロッパ大陸に関与する政策を見直し始めており、ドイツとの陸上戦に巻き込まれるリスクが憂慮されていたためです(Ibid.: 80)。
そのため、驚くべきことではありませんが、英仏両国の間では直前まで対ドイツ連合作戦に関する具体的な協議が行われていなかったのです(Ibid.: 82)。

誰が攻勢のリスクを引き受けるのか
フランス陸軍大将モーリス・ガムラン(1872 – 1958)
第二次世界大戦では連合軍総司令官として対ドイツ作戦を指揮した。
対ドイツ作戦についてイギリス政府が実務レベルの協議を始めると決定を下したのは1939年2月8日であり、実際の協議は3月29日から始まりました(Ibid.)
当初からドイツがポーランドに侵攻した場合の連合国の行動方針が議題となっており、イギリスは自らが大きなリスクを冒す必要がないので陸上戦をドイツに仕掛けることを主張していましたが、これは地上部隊の展開を担うことになるフランスには到底受け入れられない案でした(Ibid.)。

結局、イギリスはポーランドが戦争から離脱しないように支援する役割を担う方向で議論が進みましたが、イギリスはポーランドを助けるためにフランスが攻勢に出ることはないと察していました。
「イギリスは幕僚協議で問題を提起していたが、帝国参謀本部総長のゴート(ジョン・ヴェレカー)将軍はその問題についてガムラン将軍に直接説得した。そしてゴートはフランス人にはポーランドを支援するために攻勢に出る意図がないということを学んだ」(Ibid.: 84)
このように、明確な合意が得られないまま1939年9月を迎えてしまいます。
連合国はポーランドの戦況が日々悪化していくのをわき目にしながらも、なお次の一手をどうするかについて長い協議を行わなければばならず、ポーランドが独ソで分割される瞬間までこの議論は続きました。
3月9日から英仏協議は始まっていましたが、「連合国は西部戦線で攻勢に出る計画を発展させる上で意義ある公的枠組みがまったく確立できずにいた」と評価できる状況でした(Ibid.: 88)。

むすびにかえて
外交の観点で見れば、ポーランドは同盟条約によってイギリスとフランスの兵力によって守られていました。ドイツがポーランドに攻め入れば、イギリスとフランスがドイツに宣戦する義務がその条約では定められていたためです。
しかし武力の裏付けがない外交は国際政治において実効力を持ちませんでした。
イギリスとフランスはドイツに宣戦しますが、1940年にドイツからの侵攻を受けるまで、西部戦線で本格的な作戦行動を起こすことができなかったのです。

ミアシャイマーの見解によれば、「まやかし戦争」はドイツの抑止が連合国に対して機能したことによるものでした。
ただし、この抑止はドイツの戦略的な賢明さによるものというよりも、イギリスとフランスの攻撃能力の不備によるものと考えるべきでしょう。
ドイツ軍が兵力をポーランドに集中した隙を突いて、西部戦線から連合国が大攻勢に出ることができていれば、第二次世界大戦はもっと局地的な地域戦争に終わっていたのかもしれません。

KT

関連項目
文献紹介 抑止が難しい戦略もある
事例研究 なぜオーストリアは併合されたのか
事例研究 戦間期にイギリスが軍事的脅威を見逃した理由

参考文献
Mearsheimer, John J. 1983. Conventional Deterrence, Ithaca: Cornell University Press.

2017年2月24日金曜日

狙撃手にも独自の戦術運用がある

狙撃手の主な任務は監視と狙撃にありますが、戦術上の役割がどのようなものかは理解しずらいところがあります。
広い視野で捉えれば、狙撃手は小銃手や機関銃手、迫撃砲手のように重要な歩兵部隊の一要素に位置付けられます。
しかし、狙撃手の戦術的運用は通常の歩兵部隊と大きく異なることは確かなので、その特性について知らなければなりません。

今回は、米陸軍の野戦教範に沿って狙撃手の戦術的運用について紹介してみたいと思います。

狙撃手の役割
通常、狙撃手は分隊、小隊、中隊に配属されることはあまりなく、大隊レベル以上の部隊で運用されています。
戦術上の機能は大きく分けて二つあり、一つは敵部隊が持つ小銃や機関銃のような小火器の射程外から重要な目標を殺傷、破壊すること、もう一つは味方が持つ他の武器体系を使用することが難しい場合に目標を殺傷、破壊することです。
「狙撃手と観測手は、歩兵中隊の作戦において重要な役割を果たす。狙撃手は大隊レベルよりも下位の部隊では滅多に配属されることがないため、それぞれの歩兵分隊は選抜射手を有している。部隊の狙撃手は部隊の編成表において認められた配置を介して配属される。高度に訓練された狙撃手は、正確性と差別性に富んだ長射程の小火器火力を指揮官に与え、緊要地形と接近経路を直接観察できる。狙撃手の射撃または長射程の精密射撃を最もよく使う二つの方法は、集団的に使われる小銃または自動火器の射程外から重要な目標を狙うこと、または射程、規模、位置、可視性、警戒、ステルス性能のために、その他の武器体系で破壊できない目標を狙うことである」(FM 3-21.8: E1)
その武器の特性として、狙撃手は多数の目標を短期間で撃破するような射撃ができません。しかし、他の火力にはない大きな心理的影響を与えることができ、敵の活動を中断させ、士気低下を引き起こし、混乱を拡大させることも可能です。
「狙撃手の戦術、戦技、要領は重要かつ詳細な敵情を直接収集し、中継することを可能にする。狙撃手の有効性は、死傷者または破壊された目標以外のもので測定される。指揮官は、狙撃手が敵の活動、士気、決心に対しても影響を与えることを知っている。狙撃手が存在することが分かると、敵の移動が妨げられ、混乱が発生し、個人的な恐怖が続く。また、敵の作戦と準備を中断し、狙撃手に対処するために戦力を転用することを余儀なくされる」(Ibid.)
まとめると、狙撃手の基本的な役割は、偽装された位置から精密な射撃を行うことによって、味方の部隊の戦闘行動を支援することにあります。
警戒に当たっている敵の歩哨、指揮所に出入りする士官、車両の運転手に正確な射撃を次々と加え、また敵の狙撃手を排除することによって、味方の戦闘力の発揮をより容易にすることができるのです。

狙撃班とその警戒部隊について
米陸軍において狙撃手は3名から2名で編成される班で行動する場合が多いとされています(Ibid.)。これは狙撃手一人だけでは、射撃の際に周囲を警戒し、射距離や弾着の観測をすることができないためです。
分隊選抜射手の運用についても簡単に言及しておくと、教範では選抜射手は狙撃手ではないと念入りに指摘されています。なぜなら、選抜射手は狙撃手と同等の能力を発揮することが滅多にないので、狙撃手に準じた運用は避ける必要があるためです(Ibid.)。

狙撃班の運用について説明すると、これも部隊から完全に独立して行動するわけではありません。
分隊または小隊規模の警戒部隊とともに行動し、警戒部隊は狙撃中の狙撃班を守るように展開しなければならないのです(Ibid.: E2)。
この際に、狙撃班の班長が警戒部隊を同時に率いることで、指揮の統一を図ると教範では述べられています(Ibid.)。
しかし、狙撃はおよそ800mから1000mの射距離で実施されることが多いので、小隊規模の警戒部隊が果たして必要なのか疑問に思われる方もいるかもしれません(Ibid.)。
確かに、狙撃手は戦闘に直接参加することは避けるべきなので、小隊に狙撃班を守らせるようなことが常に重要というわけではないのですが、状況によっては目標から300mの距離で狙撃を行う場合もある点に留意しなければなりません(Ibid.)。

また、狙撃の成功で最も大事なことは、狙撃手が万全な態勢で射撃を行うことに他なりません。
射撃の正確性を低下させるような要因、例えば長時間の監視による射手の目や筋肉の疲労はできるだけ抑制できるよう指揮官は配慮する必要があります。
そのためには、警戒部隊を使って狙撃班、そして狙撃手の負担軽減に努めることは、決して戦術的に不合理なことではないのです。

さまざまな状況で活躍できる狙撃手
ここでは具体的状況で狙撃手がどのような役割を果たすことができるのかを戦術の観点から説明しましょう。
特に陣地攻撃における狙撃手と、陣地防御における狙撃手の運用について述べています。

要塞に対する陣地攻撃での狙撃
「狙撃手の精密な射撃能力と観測能力は、要塞地域を強襲する上で非常に有用である。高性能な小銃は、肉眼で見えない隠れた目標を容易に発見し、破壊できる。要塞に突撃する間の狙撃手の役割とは、監視所、暴露した人員、銃眼、通気口、出入口に精密な射撃を加えることである。指揮官は、狙撃兵が目標を破壊する順序を計画しておく。相互に支援するための敵陣地の能力を損なうことによって、敵の防御を系統的に弱体化させるべきである。敵の陣地が一旦分離されたなら、敵の防御をさらに簡単に弱体化できる。指揮官は敵の要塞陣地にどこから侵入するのかを決定し、それらの地点に対して狙撃手を配置する必要がある」(Ibid.: E5)
通常、陣地攻撃で敵の防御施設を破壊する役割を担うのは砲兵部隊と考えられています。
しかし、砲兵の突撃支援射撃はあまりにも威力が大きいため、味方を巻き添えにしないように突撃開始前には停止してしまいます。
狙撃手は歩兵が突撃している間も精密な射撃で支援が可能なため、指揮官はこの火力を突撃の方向に集中することにより、突破口を作りやすくできます。

また、歩兵にとって大きな脅威となる敵の機関銃手を排除できるだけでなく、味方の戦車や車両を狙う対戦車ミサイルのような脅威にも柔軟に対処できます。
こうして敵の動きによって自在に目標を選択できることは、突撃の支援として大きな意味を持っていると言えます。

陣地防御における狙撃手の運用
「狙撃手は、一般的に味方の防御陣地に向かう一つ以上の接近経路を観測または支配できる場所に配置される。狙撃手の運用は全方位の警戒を可能にし、指揮官は最も可能性の高い敵の接近経路に対して我の戦闘力を集中できる。狙撃手は高性能照準具を使用することによって、大隊に目標の報告と精密かつ遠距離の目標に対する射撃を行い、他の武器体系の射撃を補完することで、大隊を支援できる。 この配置は、部隊の武器体系が持つ効率性を向上させる。戦力節約の役割において狙撃手は、部隊の陣地に向かう接近経路上において下車した敵を狙うことが可能である」(Ibid.: E5-E6)
もし指揮官が複数の狙撃班を使用できる場合、防御陣地の前方にある接近経路を見渡せるように配置することが重要ですが、それぞれの配置に縦深を持たせておくことも有効な戦術と考えられます。
そうすれば、敵が味方の防御陣地に到達してしまい、突破口を開いて前進してきたとしても、後方に配置しておいた狙撃手で敵部隊を捕捉し、逆襲することができます。

防御陣地を構成する方法は地形によってさまざまですので、狙撃班の配置もそれに応じて変化するとしかいえませんが、例えば渡河点となるような川の浅瀬、橋梁のような緊要地形を見渡せる配置や、防御で特に重視している拠点への配置は一般的に有効といえます(Ibid.)。
ただし、火力発揮のことばかりでなく、狙撃班の安全が十分に確保できる場所を選ぶという原則を忘れないようにしなければならないでしょう。

むすびにかえて
一般的なイメージとして狙撃手は軍隊の中でも少し独立した運用がなされていると思われがちですが、戦術の観点から見て狙撃手はそもそも狙撃班の中の一員として運用されており、この狙撃班を守るために警戒部隊が運用されるということが分かったと思います。
また狙撃班の運用の仕方が攻撃の場合と防御の場合とでいろいろと変化してくることも紹介しました。

今回の記事では触れませんでしたが、狙撃手は治安維持や対ゲリラ作戦のような任務を遂行する際にも有効な兵力と考えられています。
小銃手や機関銃手の射撃よりも、正確に目標を捉えることができるので、交戦状態になった際に無関係な市民を巻き添えにする危険が小さいことがその理由です。
将来の戦争がますます不正規戦争の様相を呈してくるなら、狙撃手の運用は戦術の研究課題としてますます重要になってくるでしょう。

KT

関連記事
論文紹介 陣地攻撃の損害をいかに抑制するか
接近経路で分類できる防御陣地

参考文献
U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年2月22日水曜日

論文紹介 ワーテルローの戦いとナポレオンの敗因―シミュレーション分析の試み

ワーテルローの戦い(battle of Waterloo)は、ナポレオン戦争の歴史の最後を締めくくった決戦です。
この戦いでウェリントンが指揮する連合軍に敗れたナポレオンは再びフランスで政権の座を追われ、イギリス政府によって離島に幽閉されてしまいました。
軍事的天才と名高いナポレオンがこの戦闘で敗北した理由は、これまでもさまざまな角度から検討されてきましたが、その多くは歴史的アプローチを用いたものでした。

今回はシミュレーション分析を駆使してこの問題に取り組んだ研究論文を紹介し、その成果について考察してみたいと思います。

文献情報
Gray, Rocky and Fred Kagan. 1996. Analysis of the Battle of Waterloo and Napoleon's Courses of Action with the Janus Combat Modeling Simulation, Technical Report, West Point: U.S. Military Academy, Operations Research Center.

ヤヌスの概要
この研究で使用されているシミュレーション・ソフトはヤヌス(Janus)と呼ばれています。ヤヌスは冷戦期に米陸軍で大隊レベルの戦術行動を研究、教育する目的で開発されたシステムですが、最近でも学術研究において使用されています(e.g. Biddle Stephen. Military Power, 2006)。

ヤヌスは地形、気象、時期などの条件を調整した上で、部隊の規模、武器の性能、また配置や運用が異なる場合、部隊運用や戦闘結果にどのような影響が出るかを仮想的に再現します。
この研究では、当時の軍隊の編制、武器の性能、戦術の特徴などを考慮に入れつつ、戦闘の再現が試みられています。

ヤヌスの最も重要な機能の一つに、高低差がある地形を三次元空間で把握する機能があります。
これはワーテルローの戦いを分析する上で重要な機能です。というのも、実際に当時のウェリントンは稜線に沿って歩兵部隊を配置することにより、フランス軍の砲弾から部隊を掩護する措置をとっていたためです。
この研究はこうしたシミュレーション分析の方法を駆使することで、ウェリントンが率いる連合軍とナポレオンが率いるフランス軍の相互作用を解析しています。

歴史上のワーテルローの戦いの特徴
ワーテルローの戦いにおけるフランス軍(青)と連合軍(赤)の兵力配置
研究はワーテルローの戦いが歴史上、どのようなものであったのかを確認するところから始まっています。
戦闘に参加したナポレオンのフランス軍とウェリントンの連合軍の兵力を比較すると、フランス軍は歩兵9409名、騎兵10020名、砲兵118門であったのに対して、連合軍は歩兵11755名、騎兵6470名、砲兵86門とされています(Gray and Kagan 1996: 18)。
細かい数値に関しては諸説あるのですが、著者らはフランス軍の側が砲兵と騎兵の数で優勢であり、連合軍は歩兵においてのみ優勢であったと判断しています。

両軍は約1500ヤード(1.37km)ほど続く緩やかな谷を挟んで向き合う稜線をそれぞれ占領しており、戦闘正面としては西方のウーグモン(Hougoumont)邸宅から東方のパプロット(Papelotte)集落まで5000ヤード(4.57km)以上にもなったと指摘されています(Ibid.: 17-8)。
図上で戦闘の経過を判断すると、ラ・ベル・アリアンス(フランス軍の中央付近に位置)からラ・エイ・サント(連合軍中央付近に位置)に向かって走る道路に沿ってフランス軍の攻撃が繰り返し行われているように見えます。これはどのような攻撃だったのでしょうか。

史実を見ると、戦闘開始の12時30分から決着がつく18時までの間にナポレオンが少なくとも3度にわたって攻撃を実施したことが確認できます。
一つ目の動きが13時30分のフランス軍のデルロン伯が指揮する第1軍団による歩兵突撃であり、これは連合軍はこれに歩兵と騎兵を投入して撃退し、3000名の損害が出ています(Ibid.: 18-9)。
二つ目の動きが15時のフランス軍の砲兵射撃と歩兵突撃であり、連合軍の部隊が中央の前進陣地として占領していたラ・エイ・サントの家屋が破壊されました。それに乗じてフランス軍は突撃を実施していますが、激しい抵抗を受けて失敗しました(Ibid.)。
三つ目の動きが16時のフランス軍の騎兵によるラ・エイ・サントへの攻撃です。攻撃の指揮をとったのはミシェル・ネイ(Michel Ney)元帥であり、この騎兵突撃は4度にわたって反復され、18時にラ・エイ・サントを奪取できました(Ibid.)。

しかし、このネイの戦果は戦闘の結果にほとんど影響を及ぼしませんでした。
というのも、この時にはすでに戦場外から駆け付けたプロイセン軍が連合軍の増援として戦闘に加入していたためです。
フランス軍は未だ戦闘力が残っている連合軍と戦いながら、新たな敵とも戦わなければならなくなってしまったのです。
どれほどナポレオンの手腕が卓越していたとしても、戦局挽回は不可能といえる状況であり、この段階で戦闘の勝敗が確定したと評価されます。

ナポレオンが選択可能だった戦術の考察
ワーテルローの戦いで16時の戦況を示した状況図
フランス軍は連合軍の中央を突破しようとラ・エイ・サントの奪取を図った。
しかし、イギリス軍の激しい抵抗を受けて攻撃は何度も撃退され、最後に確保できたものの戦果として活用できなかった。
(Ibid.: 59)
ワーテルローの戦いでナポレオンが犯した戦術上の間違いは何だったのでしょうか。
著者らは二つの要因に注目しています。第一にラ・エイ・サントを早期に奪取できなかったこと、第二に騎兵だけで攻撃を行わせたので、歩兵や砲兵といった他の兵科との連携、つまり諸兵科連合の方法を最大限に駆使した攻撃ができていなかったことです。
「ナポレオンは戦闘を中断することもできたし、あるいはプロイセンの援軍が到着する前に、ウェリントンに全ての兵力を投入し、撃破することもできた。15時30分にラ・エイ・サントを奪取せよという正規の命令をネイは受領した。
 ナポレオンはこの陣地がどれほど重要であるかを認識しており、攻撃を再三実施するようにネイに命じた。4回にわたる騎兵攻撃がすべて失敗に終わった1800時過ぎ、「勇者の中の勇者」であるネイは再びドンズロ(François-Xavier Donzelot)師団の一部の騎兵と手頃な火器を抽出し、攻撃に向かった。結局、ネイは正しい戦術の方式、つまりあらゆる兵科を協同一致させた攻撃を実施し、攻撃は完璧に成功した。滞りなくネイ元帥はイギリス軍の中央からわずか300ヤードの距離の陣地に砲兵を配置して、激しい射撃を浴びせた。
 このように、この戦闘の分析と評価はフランス軍によって早期にラ・エイ・サントを奪取する利点と、諸兵科連合に基づいて部隊を展開する利点について研究する必要があるものと認められる」(Ibid.: 20)
そこで著者らはナポレオンが当時選択可能だった戦術を(1)ラ・エイ・サントを奪取しないまま、騎兵だけで攻撃を行う、(2)ラ・エイ・サントを奪取しないまま、諸兵科連合の方法で攻撃を実施する、(3)ラ・エイ・サントを奪取した上で、騎兵だけで攻撃する、(4)ラ・エイ・サントを奪取した上で、諸兵科連合で攻撃を仕掛ける、以上の四種類に区分し、特に16時の時点での戦況でそれぞれの戦術が持つ妥当性を検討します。

シミュレーション上のワーテルローの戦い
ヤヌスで第一案をシミュレートしたところ、戦闘の展開はほとんど史実と同じようなものとなりました。
フランス軍は騎兵突撃を繰り返し実施するのですが、そのつど連合軍は各部隊の隊形を方陣に転換させて、これを撃退します。
フランス軍の騎兵が連合軍の方陣に手間取っている間に、プロイセン軍が出現するので、その対処のためにフランス軍の兵力はますます不足し、最終的に18時までに合計4回の突撃が反復されて終わります(Ibid.: 64)。

この一連の攻撃によって局地的に生じる人的損害について、著者が5回シミュレーションを試行した結果の平均値をとると、連合軍の損害1806名、フランス軍の損害6562名という結果になりました(Ibid.: 72)。
これは史実における連合軍の損害1530名、フランス軍の損害6450名に非常に近い数値であり、ヤヌスのシミュレーションに一定程度の実証的妥当性があると認められます(Ibid.)。

次にラ・エイ・サントを占領できない状態でフランス軍が諸兵科連合の方法による攻撃を行った状況をシミュレートしてみます。
すると、フランス軍の歩兵が連合軍に大きな損害を与えることができることは分かりましたが、フランス軍の損害も甚大になることが判明しました。
連合軍が受ける損害は平均で2310名と見積られますが、フランス軍の損害も平均7264名になると予想されています(Ibid.: 74)。
戦術において諸兵科連合は戦闘力の効率を向上させる効果があるのですが、それでも連合軍はフランス軍に激しく抵抗することが確認されます。

ラ・エイ・サントを占領した後で騎兵突撃を実施する第三案をナポレオンが採用すれば、どうなったでしょうか。
ラ・エイ・サントがフランス軍の手に落ちれば、ナポレオンはそこに砲兵を配置できるようになり、連合軍の中央に対する騎兵突撃を砲兵が火力で支援できるようになります。直感的に考えれば、これは騎兵突撃の戦果を改善するはずだと予想されます。しかし、連合軍の損害はそれほど大きく増加しないはずだとヤヌスは見積っています。
著者らは5回のシミュレーション結果を平均した上で、連合軍の損害は2094名、フランス軍の損害は5962名になったと報告しています(Ibid.)。
確かにフランス軍の人的損害はやや抑制されましたが、それでも連合軍に与える損害が他の戦術案を採用した場合よりも減っており、これは驚くべき結果だといえます(Ibid.: 76)。

最後にラ・エイ・サントを占領した上で、歩兵、騎兵、砲兵の戦闘力を最大限に発揮して連合軍に向ける第四案のシミュレーション結果を見ると、これも従来と同様の結果が出ています(Ibid.)。
見積られた結果の平均値をとってみると、連合軍の損害2372名、フランス軍の損害は7528名となっています(Ibid.: 78)。
確かに連合軍の人的損害が最も大きいので、戦果は改善されていると言えなくもありませんが、フランス軍の損害もそれに応じて大きくなっています。
結局のところヤヌスのシミュレーション結果から判断すると、ラ・エイ・サントの占領が成功しようが、失敗しようが、フランス軍の戦果が大きく変わるということはなかったということになります。

ラ・エイ・サント奪取は重要な問題ではなかった
ラ・エイ・サントをフランス軍が奪取できたかどうかという要因は、戦闘結果を左右するとは認められませんでした。
このことは、ワーテルローの戦いにおいて、ナポレオンが間違った攻撃目標を選んでいたことを示唆しています。しかし、なぜこのような結果になるのでしょうか。

著者らがシミュレーションを通じて発見したのは、ワーテルローの戦いにおいて連合軍が占領した稜線が、防御施設として機能していたことを指摘しています。
つまり、フランス軍がラ・エイ・サントに砲兵を配置し、騎兵だけでなく歩兵や砲兵を組み合わせて攻撃しても、結局はイギリス軍の陣地に砲弾を落下させることができなかったのです。
「たとえラ・エイ・サントが砲兵にとって優れた場所のように見えたとしても、この場所は従来言われているほど重要ではない。連合軍部隊の南側の稜線は、騎兵突撃のための有効な火力支援を妨げてしまう。実際の戦闘でナポレオンは確固とした砲兵の射撃計画を準備する時間がなかった。そのため、砲兵による突撃準備射撃はたった30分しか行われなかった。より長い時間をかけた射撃支援の後であれば、攻撃を実施することができたであろう」(Ibid.: 80)
部隊配置で説明した通り、ワーテルローの戦いにおいて連合軍とフランス軍はそれぞれ平行して走る稜線を占領していました。
ラ・エイ・サントは連合軍が占領している稜線とフランス軍が占領している稜線の中間にある谷間の底に位置しており、そこに砲兵が進出すると谷底から稜線を見上げる位置関係になります。このような態勢でも射距離が短ければ砲兵は戦闘力を発揮できたかもしれませんが、谷底のラ・エイ・サントから稜線上の連合軍部隊まで距離があったので、射撃に支障を来したのです。

むすびにかえて
著者らの見解によれば、フランス軍がもう少し早くラ・エイ・サントを奪取できていれば勝てた、または諸兵科連合による攻撃を行っていれば勝てた、というような議論がそもそも地理的要因によって成り立ちません。
これは従来の研究であまり見られなかった分析であり、三次元空間で戦闘を再現するヤヌスの利点が発揮された研究成果だと思います。

この研究を踏まえた上で、ワーテルローにおけるナポレオンの戦術を検討すると、連合軍の中央に攻撃の重点を置くのではなく、側面や背後に置く必要があったと考えられます。確かに中央突破はナポレオンが最も得意とする戦術でしたが、イギリス軍が稜線に沿って防御態勢を固めているのであれば、側面攻撃を狙って包囲するか、敵の陣地転換を強制するように迂回機動をとることも選択肢に含まれたでしょう。
ただし、プロイセン軍と合流を果たす前に、連合軍を撃破しなければならなかったナポレオンとしては、そのような時間のかかる移動を命じることができなかったのかもしれません。

KT

関連記事
優れた戦術には射撃計画が必要
戦術家のための地形知識

参考文献
Biddle, Stephen. 2006. Military Power, Princeton: Princeton University Press.

2017年2月18日土曜日

論文紹介 通常戦力の報復攻撃でソ連を抑止すべき

戦略家は抑止という概念をしばしば拒否的抑止(deterrence by denial)と懲罰的抑止(deterrence by punishment)に分類して考えます。拒否的抑止は相手の侵攻を防ぐことによって、懲罰的抑止は侵攻する相手に報復することによって抑止を図るものです。どのような抑止の形態を目指すかによって、その国家の戦略の骨子が変わってきます。

今回は、1980年代のヨーロッパ情勢を踏まえた上で、北大西洋条約機構の抑止力を強化するために、通常兵器による報復を軸にした懲罰的抑止を重視すべきと主張した米国の政治学者サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)の論文を紹介したいと思います。

論文情報
Huntington, Samuel P. "Conventional Deterrence and Conventional Retaliation in Europe," International Security, Vol. 8, No. 3(Winter, 1983-1984), pp. 32-56.

核抑止の危険性、通常抑止の可能性
著者のサミュエル・ハンチントン(1927-2008)
米国の政治学者、専門は安全保障学、比較政治学、国際政治学
冷戦期にヨーロッパで西側諸国の防衛に当たってきたのは北大西洋条約機構(NATO)という米国を中心とする同盟です。この同盟の最大の課題はソ連を中心とするワルシャワ条約機構(WP)の平時には武力攻撃を抑止し、有事にはこれに対処することです。

しかし、NATOはWPに通常戦力の規模で劣っており、しかも加盟国が軍拡に消極的だったので、困った米国は対ソ抑止力の確保のために核兵器(戦術核兵器)を重視しなければなりませんでした。このような核抑止は確かにソ連の核戦力が劣勢である間は有効であったかもしれませんが、次第にソ連が核戦力の規模や性能で追い上げてくると、米ソ全面核戦争が現実の戦略問題として懸念されるようになります。

もしWPが通常戦力で侵攻してきた場合、NATOの通常戦力で十分に抵抗できなければ、直ちに核戦力で報復するように強いられてしまいます。これは米国としてヨーロッパの防衛のために米国本土を巻き込む核戦争を自分の手で選ばなければならなくなる可能性があるということを示唆するものでした。ソ連が限定的な侵略を仕掛けてくれば、全世界を巻き込む核戦争で対処するという戦略上の考え方は、西側諸国の国民にとって政治的に受け入れがたいものでした。著者はこのことを問題視しており、次のように述べています。
「現在のNATOの戦略は西側諸国民の間でほとんど支持されてもいない。例えば1981年の代表的な西欧諸国において、圧倒的多数(ドイツの66%、イギリスの71%、フランスの76%、イタリアの81%)が「いかなる状況でも」NATOが核兵器を使用しないこと、またはソ連が西欧に第一撃で使用した場合を除いて使用しないことを望んでいる」(Huntington 1984/84: 33)
政治的に許容されていない戦略は、どれだけ理論の上で合理的に見えたとしても、実行可能性で問題があります。WPの立場から見れば、そのような戦略が実行に移される公算は小さくなるので、結果としてNATOは十分な抑止力を得られない恐れが生じてきます。これを避けるためには、核兵器だけでなく、通常兵器によってソ連軍に立ち向かうことができなければならないと考えられます。

NATOの通常抑止は拒否能力に依存する
第四次中東戦争(1973)で破壊されたイスラエル軍のM60戦車
1980年代でも、この戦争でアラブ側の航空機による第一撃で大きな戦果を上げたことから、欧州の戦略論争においても通常兵器を用いた第一撃の問題が関心を呼んでいた
NATOとして通常抑止を重視するとしても、さまざまな問題があります。
著者はNATOの加盟国の間での負担分担の問題はNATOが創設された頃からある問題だと指摘していますが(Ibid.: 35)、かりに予算を確保できたとしても、それを使って報復ではなく拒否を図ろうとしていては、WPに利するばかりではないかと考えていました。
著者はこの問題について検討するため、軍事力が抑止力を発揮する方法を次のように区別しています。
「軍事力は三通りの方法で抑止に貢献する。第一に、それは単にその場所に存在することによって抑止することを可能にし、たとえ効果的な防衛に不十分なものであったとしても、侵略者の不確実性と潜在的な費用を増す。(中略)第二に、軍事力は効果的な防衛の可能性を高めることで抑止することが可能であり、侵略者にその活動中に撃破される危険を高め、また成功のためにさらなる費用を支払うように強要する。(中略)第三に、軍事力は潜在的な侵略者によって著しく重視されている資産に対して報復する恐れを及ぼすことによって抑止する」(Ibid.: 36)
著者の見解によれば、NATOの従来の戦略は二番目の拒否的抑止に該当します。その説明として「もしNATOだけがその軍事的な防衛態勢を拡張できるなら、ソ連の侵略は抑止されるであろう。(中略)限定的な範囲でこの想定はもちろん正当化される。NATOの部隊がより強くなれば、それだけ西欧で目標を達成するためにソ連に求められる投資もより大きくなる」と著者自身が述べているように、戦略として筋が通っている部分があります(Ibid.)。
ただし、著者はさらに詳細に調べていくと、拒否的抑止は不完全な抑止の形態であり、「拒否と報復の両方を組み合わせた戦略よりも抑止力では劣っている」という言葉で批判しています(Ibid.: 37)。
このように著者が主張している時代背景としては、当時の軍事技術の発達があり、特に1973年の中東戦争で発揮された精密誘導兵器(precision guided munitions)の威力を考慮すれば、通常兵器に使用を限定したとしても、第一撃で前線の部隊が短期間の内に撃破されてしまう可能性が出てきていました。したがって、NATOとしては完全な受け身で戦うことが軍事的に困難な情勢があると主張したのです(Ibid.: 38)。これが拒否的抑止から懲罰的抑止にNATOの戦略を変化させるべきという主張の根拠となっています。

NATOの反攻、目標はベルリン
ソ連の攻勢に対してNATOとして実行可能な反攻の構想を示す地図
東西ドイツ国境地帯の突起部以北でソ連軍が攻撃前進している間に、NATOは突起部以南で攻勢にでる
バルト海からの着上陸侵攻と組み合わせることで、突出したソ連軍の部隊の作戦線を断つように機動する
(Huntington, 1983/84: 50)
懲罰的抑止は報復能力を確保することで可能になります。著者の立場は通常兵器を用いる報復能力を確保すべきと主張していましたが、これはNATOの従来の戦略にはない要素でした。そこで著者はNATOが理論的に選択可能な戦略を列挙した上で、その中で通常戦力によって準備された報復能力が従来の戦略にはない重要な利点を持っていることを説明しています。
「NATOにはソ連の攻撃を抑止する上で以下の4種類の手法が選べる。すなわち、通常戦力による防衛、核戦力による防衛、通常戦力による報復、そして核戦力による報復である。(NATOの戦略文書)MC14/3の下で、NATOは通常戦力による防衛、核戦力による防衛、核戦力による報復という三種類の反応を選択することに依拠していた。しかし、NATOが核兵器を使用することの信頼性が低下していることは、これら反応の繋がりを弱くしてきた。その結果として、核戦力による抑止と報復的抑止が弱められている。ここでの問題は核兵器に頼らずに報復的抑止を立て直すことである。つまり、NATOの戦略に通常戦力による報復の何らかの形態を加える必要がある。その報復については、ソ連の攻撃があった場合、直ちに通常戦力による報復攻撃を東ヨーロッパに対する報復の攻勢を実施するという形態をとることが最もよい」(Ibid.: 40)
これは当時の定説に挑戦する大胆な主張といえるものでした。先ほど述べた通り、WPがヨーロッパで攻勢に出たならば、NATOは一方的に防勢の立場に回り、兵力を節約しながら敵の攻撃を食い止め、米本土からの増援を待つか、核兵器を使用するという考え方の方が支配的だったためです。
しかし、著者は通常戦力の使用に限定しながらNATOもWPに反攻すべきと主張したのです。しかし、具体的にどのような攻勢作戦が構想されるのでしょうか。

著者が冒頭の地図で示した通り、ベルリンに向かう重要な前進軸として二軸が考えられています。一軸はバルト海からベルリンに向けての着上陸侵攻であり、もう一軸は南ドイツ(一部はチェコスロヴァキア領内を前進)から北進する地上侵攻です。さらにポーランドに対する空挺作戦を組み合わせることによって、第一線に展開するソ連軍の兵站線を遮断し、また増援として接近する兵力を阻止し、集中運用を許しません。
(著者はこのような報復(通常戦力による反攻)が有事に実現可能であることを示すために、自らの作戦構想についてさまざまな説明を加えていますが、少し専門的な内容になるので、後日別の記事で述べることにします)

むすびにかえて
安全保障の研究、特に抑止の研究では軍事力の分析が非常に重要です。
この論文以前にも、WPの脅威に核戦力でないと対抗できないNATOの戦略を再検討する研究はありましたが、著者は通常戦力を防衛線に配置するだけでなく、報復としてベルリンに向けた攻勢作戦を準備することにより、懲罰的抑止が可能になると主張しました。これは米国がソ連に対する戦略として新たな選択肢を考えることを促す意義があったといえるでしょう。

現代の日本は通常戦力を基礎にした拒否的抑止を重視する国ですが、ハンチントンの立場からすると、これは改善の余地があるように見えたかもしれません。
拒否的抑止は重要ですが、それに懲罰的抑止を組み合わせることができれば、相手は攻勢に出た際に反攻を受ける危険を考慮しなければならず、それだけ後方に大きな兵力を予備として配分しなければならなくなります。これは最前線で使用可能な兵力を限定する要因となります。
平素からさまざまな戦略を研究しておくことができれば、それだけ有事における状況の変化にも対応しやすくなります。昨今の日本の防衛論争でも、従来の議論を批判するような視点がますます大事になってくると思います。

KT

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2017年2月12日日曜日

外交で成功するための四つの原則

外交関係の報道があると、それについて多くの人々は、それがよい外交であったとか、悪い外交であったというように、さまざまな評論を加えています。その中には興味深いものもあれば、一貫性がないものもあり、千差万別としかいいようがありませんが、そもそも「よい外交」と「悪い外交」はどのような基準によって評価できるものなのでしょうか。

今回は、政治学者のハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)によって提唱された外交における四つの原則を紹介し、それぞれがどのような意味を持つのかを考察したいと思います。

崇高な理想は外交を妨害する
ハンス・モーゲンソー(1904-1980)
モーゲンソーの説によれば、外交において無視された場合に、必ず戦争の原因となる手法というものがあります。その第一のものは、イデオロギー、宗教、教義、その他さまざまな抽象的な価値観にとらわれるということであり、「外交は十字軍的精神から脱却しなければならない」と論じられています。これはどういう意味なのでしょうか。
「宗教戦争によって、われわれは自己自身の宗教を唯一の真理として世界の他の人々に押しつけようとする試みが多くの犠牲を生むと同時に無益でもある、ということを教えられてきた。一世紀にわたるほとんど前例のない殺戮、荒廃、および野蛮の歴史は、二つの宗教が相互の寛容のなかで共存できるのだ、ということを対立当事者に確信させる必要に迫れれた。現代の二つの政治宗教は、16世紀、17世紀の二つの巨大なキリスト教宗派にとって代わってしまった。現代の政治宗教は三十年戦争の教訓をみずからのものにするだろうか、また、果てしない戦争を不可避的に生む普遍主義的な野望から早晩免れるであろうか」(邦訳、モーゲンソー『国際政治』569頁)
政治の問題が善悪の問題にすり替えられてしまえば、妥協の余地がなくなるということは、過去の歴史において繰り返し示されてきたことでもあります。モーゲンソーがここで懸念していることは、20世紀以降の政治イデオロギーや価値観の相違が、近世ヨーロッパの国際社会を分断してきたカトリックとプロテスタントのように作用し、戦争の回避を妨げるのではないかということです。

モーゲンソーは人々が信じる価値や教義が政治においてどれほど忌まわしいものであるかを論じたウィリアム・サムナーの「抽象的な主張は、いま問題になっているわれわれのいかなる利益ともはっきりした関連をもってはいない。そうではなくて抽象的な主張は、われわれの予測しえない混乱を生み出す多くの可能性をそのなかにもっており、しかもその混乱が起こればきっと厄介なものになるのである」という言葉も引用しています(同上、568頁)。

つまり、不変的価値観は漠然としか定義できないものであり、どのようにでも解釈することができるものでしかないということがここでは論じられています。それでは、何を行動の基準とすべきなのか、という論点についてモーゲンソーはそれは利益、それも国益でなければならないと考えました。

国益とは国家の安全保障に他ならない
モーゲンソーが外交において常に重視すべき原則の二つ目が「対外政策の目的は国益によって定義されなければならず、また適当な力によって支えられなければならない」というものです。
モーゲンソーがここで述べている国益は、あまり広い意味を持っておらず、次のような解釈に限定されています。
「平和愛好国家のナショナル・インタレストは、国家安全保障の観点からのみ定義されるべきである。しかも国家安全保障は国家の領土および諸制度の保全として定義されなければならない。そこで、国家安全保障とは、外交が相手に妥協せずに適当な力を動員して守らなければならない最小限のものをさす」(同上、570頁)
したがって、自国の領土や主権のように、国家の存立そのものを揺るがる価値については、武力をもってしても守り抜くことが国家安全保障といえるのであって、それは国民の利益に繋がるとモーゲンソーは考えていたことになります(同上)。

ただし、現代の国際情勢では遠方で勃発した二国間の紛争が世界中の安全保障に影響を及ぼす可能性が増していることについては特別な注意が必要であるとも述べており、次のように核兵器の影響を考慮しています。
「しかし外交は、国家安全保障が核時代の衝撃の下で受ける急激な変化に対してはつねに敏感でなければならない。核時代の到来までは、国家は、た国家を犠牲にしてその安全を獲得するという目的のためにその外交を活用することができた。今日外交は、各派かいからある国家を安全にするには、ある特定国に有利な形で原子力のバランス・オブ・パワーを急変させるなどということをせずに、諸国家全部を安全にしなければならないのである」(同上)
したがって、第三の問題が出てきます。新しい軍事情勢の下で国家の安全保障が歴史上かつてないほどに相互に密接な関係を持つようになるとなると、単に自国の防衛のことだけを考えていればよいというわけにはいかなくなり、さまざまな交渉を行い、妥協点を見つけていくことが絶えず必要になってくるためです。

他国の立場から政治情勢を判断する
モーゲンソーの原則で特に重要だと思われるのは「外交では他の国家の観点から政治情勢を見極めなければならない」というものです(同上)。
すでに説明したように、モーゲンソーの考え方では国益は直ちに武力の発動を引き起こす国家にとって死活的利益、つまり自国の領土と主権の保全を意味します。
したがって、戦争状態を避けるためには、他国が何を安全保障において重視しているのかを理解しなければなりません。自国の要求ばかりを考えて、不用意にも相手にとっての一線を越えてしまえば、もはや外交的解決は期待できなくなってしまうためです。

そこではじめてに取り組むべき問題とは「国家安全保障の立場に立って何が他国のナショナル・インタレストであるのか、また他国のナショナル・インタレストは自国のナショナル・インタレストと両立できるのだろうか」ということになります(同上)。
国家は安全保障のために、領土、領海、領空の外方に対して仮想敵国を想定し、相手に対して劣位に立たないような軍備の規模や形態を準備しようとします。こうすることで、仮想敵国からの攻撃が成功する確率を低下させ、結果として戦争を防止できると考えられているためです。
しかし、対峙する二カ国の軍事力の展開可能地域が地理的に重なっていると、勢力圏が干渉し合う状況となるため、どちらも譲歩する姿勢を示さなければ、外交的解決の道は閉ざされてしまいます。

モーゲンソーはこうした事態を避けるために、自国の立場だけで考えるのでなく、他国の立場から見て自国がどのように見えているのかを考察することが重要であり、安全保障上の重要性を持たない地域の取り扱いについては柔軟に対応すべきだと論じています。
「これら安全保障の埒外にある領域は、国家安全保障に何ら寄与するものではないのである。それらは、ただ負担になるだけで、戦争の場合にはもちろんこたえることのできない領域となる。それぞれの陣営が双方の国家安全保障領域を相互に引き離すための間隔を広くとればとるほど、各陣営はより一層安全になるだろう。それぞれの陣営は、互いに遠く隔たったところに線を引くことができ、そしてその線に接触あるいは接近することさえ戦争を意味することを相手に理解させることができるのである。その場合、二本の境界線の間に広がる中間領域についてはどうだろうか。ここでは第四の外交方式が適用されることになる」(同上、570-1頁)
国家はその領土によって規定されますが、外交によって互いの勢力圏を調整することができれば、それは両国の国益にかなったものとなります。互いに相手が武力を発動するレッド・ラインを理解するようになれば、戦争の危険性を大幅に低下させることができるのです。

優れた外交の本質は、優れた妥協の仕方にある
先ほどの原則と密接な関係を持っているのが、「国家は自国にとって死活的ではない争点に関して進んですべて妥協しなければならない」という原則です(同上、571頁)。
これは外交の重要な原則であり、また困難な原則でもあります。モーゲンソー自信がこの原則については「ここにおいて外交はその最も困難な仕事に遭遇する」と述べています(同上)。
「政治宗教の十字軍的熱情によって混乱させられずに、客観的に双方の側のナショナル・インタレストを観察できる人びとにとっては、これら死活的利益の境界を設けることは、そうむずかしいことではない。ところが、第二義的な争点の妥協については事情がちがう。ここでの妥協の仕事は、まさにその本質に従ってすでにそれぞれの側に分離され境界を決められている利益を、あらためて分離し定義することではない。その仕事は、多くの点で相互に抵触していて、とうてい分離などできないほどに絡み合う利益を均衡させることである」(同上)
モーゲンソーの議論はここで込み入ったものになってきます。つまり、自国にとって死活的な意義を持つ領域に関しては交渉の余地がそもそもほとんどないため、かえって外交の仕事は単純を極める傾向があります。しかし、交渉の余地が大きい二次的な問題において外交交渉は難航しやすいのです。

先ほどの自国と他国の勢力圏が干渉しないようにする場合を思い出してみましょう。両国が安全保障の観点から絶対に許容できない領域を設定できたとしても、その両国の間に緩衝地帯を設定するとなると、その干渉地帯に存在する中小国に対して両国がどの程度の影響力を行使してよいのか、一切の介入を認めないのか、などなどの問題が出てくることになります。こうした派生的な問題でうまく妥協ができない結果、交渉全体が行き詰まるということもしばしば起きて来るのです。
「重要な課題は、これら中間領域が相手側の圏内に吸収されないようにしながら、相手側のある程度の影響力をこの中間領域内で認めることである。これに劣らず重大な任務は、自己の安全保障領域に近い領域では、それ自身の圏内にこれらの領域を吸収することなく相手側の影響力をできるだけ小さくしておくことである。こういった仕事を遂行するために自動的に適用できるような公式はない。堅実と自制による絶え間ない適応の過程によるのでなければ、第二義的な争点に関する妥協はうまくいかないのである」(同上)
私たちが普段の会話で外交を評論する際に多いのは、この「第二義的な争点に関する妥協」でどれほど相手から譲歩を引き出したのかではないでしょうか。しかし、これはモーゲンソーにとってみれば、外交の成果のほんの一部でしかありません。
モーゲンソーの見解によれば、外交で最も重要なことは自国の国益、つまり国土の安全がどれだけ確保できたのかということなのです。つまり、両国が主張する勢力圏をどのように整理したのか、その中間領域にどのような緩衝地帯を設定できたのか、そのことによって国家の安全保障環境がどのように改善されたのかが優れた外交の判断基準と考えられています。

むすびにかえて
現代の政治学者の間でモーゲンソーはリアリズム(realism)の権威の一人として認められており、その著作『国際政治(Politics among Nations)』が今回の外交思想の基礎になっています。この著作の最後の部分では、現代の国際政治における権力の側面について一般の人々が軽視する傾向があることに懸念が示されています。
「外交への軽視が権力政治への軽視の結果にすぎないものである限り、われわれが後者すなわち権力政治への軽視について語ってきたことは、前者すなわち、外交への軽視についても十分あてはまるということになる。外交は、その仕事が多くの人にとって、いかに道義的に魅力のないものにみえようとも、秩序ある平和な相互関係を維持しようとする主権国家間の権力闘争のあらわれにほかならないのである」(同上、558頁)
外交という技術を特定の価値観や自国だけの立場から評価することは、もはや特に目新しいことではなくなりました。これがモーゲンソーの恐れていたことでした。

多くの有権者は特に国際政治や安全保障を熟知しているわけではありません。そうした有権者に対して政治家が自らの政治的アピールを行う手段として外交を駆使することが普通になれば、第二義的な争点においても政治家は外交的妥協を国内世論で敗北として受け止められることを恐れるようになり、他国の政府や国民に対して非難を加えたり、圧力を加えるような事態が引き起こされます。これは外交の選択肢を狭め、武力衝突のリスクを増すことに繋がることを念頭に置いておかなければなりません。

こうした事態を避ける上で、モーゲンソーが論じた外交の四原則は一つの評価基準となり得るでしょう。つまり、「よい外交」とは、善悪のような抽象的価値ではなく、安全保障という実益を国益として定義し、何が安全保障上の重要問題であり、何がそうでないのかをよく見極め、相手の国益についても考慮した上で、二義的な争点に関しては妥協する姿勢を示すような外交のことといえます。そして、これに背くような外交は「悪い外交」であり、それは国家安全保障を損なっている恐れがあるのです。

KT

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モーゲンソーが考える国力の九要素
モーゲンソーが考える世論対策の重要性

参考文献
Morgenthau, Hans J. 2005(1948). Politics among Nations: the Struggle for Power and Peace, 7th edition. New York: McGraw-Hill Humanities.(邦訳、モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会、福村出版、2008年)

2017年2月9日木曜日

軍事学を学びたい人のための文献案内(3)辞典・事典

この記事はシリーズ「軍事学を学びたい人のための文献案内」の第三回です。今回は、前回の記事に引き続き、軍事学を学ぶ際に役立つ辞典・事典について紹介しています。
辞典・事典は自分が知らない用語が出てきた時に頼りになる自習独学の頼れる相棒であり、本格的な研究を行うともなれば、繰り返し読み返すことにもなります。自分の用途にあった文献を見つけることは大事なことです。

とはいえ、日本語の文献ともなると選択肢が著しく制限されてしまうという問題があります。今回は、そうした難題を解決する助けになればと思い、いくつかの文献を紹介したいと思いました。

まず最もコンパクトな内容の辞典から紹介すると、朝雲新聞社から出されているものがあります。手始めにこれから紹介していきたいと思います。

防衛学会編『国防用語辞典』朝雲新聞社、1980年
利点:政策、戦略、戦術、武器、法令等の基本用語の解説がコンパクトにまとまっている
欠点:収録用語がそれほど多くないため、専門的な調査研究で使用するには限界がある
備考:出版された時期から少し古い本であるので、冷戦後に登場した用語についてはカバーできていない

基本的な軍事用語を少しだけ知りたいという方であれば、これ一冊でも事足りるかもしれません。ただ、かなり専門的に研究する方にとっては、少し物足りない内容であり、より多くの用語を収録している辞典が必要だろうと思われます。
率直に個人的経験をいえば、収録用語が少なすぎるので、私自身はそれほど読み返してはいません。とはいえ、小さながらも図つきで武器や装備に関する項目がある程度盛り込んだ点は初心者でも分かりやすくなる工夫として評価できると思います。時期としては第二次世界大戦から冷戦までに登場した装備が取り上げられています。

真邉正行『防衛用語辞典』国書刊行会、2000年
利点:収録用語が13,000と充実しており、部隊の運用や法令に関する分野であれば、専門的な調査研究で十分活用できるだけでなく、同一用語で自衛隊、旧日本軍、米軍、NATOなどで意味が異なる場合には、どのように定義が異なるかが説明されている
欠点:武器、装備などに関する技術用語に関してはほとんど収録されておらず、防衛行政に関係する用語への偏りが見られる

この辞典ではNATO、旧軍・各自衛隊の定義などをそのまま紹介するものですので、同じ用語でも旧軍・陸海空では訳し方が違うことが分かるようになっています。
例えば、英語でfeintという戦術用語があるのですが、現在の陸自では陽動と訳しています。しかし、旧陸軍では陽動以外にも陽攻と訳する場合があることが示されており、しかも旧陸軍の定義を読むと陽動は「諸種の行動により我が企図に関する敵の判断を誤らしめんとする」、陽攻は「攻撃を装い敵をして真面目の攻撃を受くるが如く感じせしむる」と区別されていたことが分かります。日本の軍事用語には、こうした例が他にも数多くあるため、それを学ぶという意味ではよいと思います。
しかし、初心者の段階でこの辞書を使うとなると、さまざまな定義があることにかえって混乱されるかもしれません。

また、より専門的な内容の軍事学の文献を研究する場合にも、この文献では対応が難しい部分があります。そのため、翻訳で私が一番頼ることが多い文献として次の辞典が挙げられます。

 『工業英語』編集部編『軍事用語辞典:インタープレス版』アイピーシー、1987年
利点:武器や装備などの技術用語に関する項目が充実しており、全体として16,000項目が収録されている英和辞典である
欠点:使用者にある程度の専門知識が備わっていることが前提となっており、多くの項目の説明は最小限の分量か、もしくは単に日本語訳が示されているにとどまっている
備考:1987年の刊行であるため、全般的に内容が少し古くなっている点に注意、SDIの用語解説や主要兵器の性能諸元などの参考資料も末尾に収録されており、階級一覧や米軍の組織図も参考になる

もちろん、この辞典も完全無欠というわけにはいきません。用語の中には説明の仕方が非常に不完全であったり、一部の定義に関しては抜本的に書き直す必要があるものもあります。
例えば、「軍事学」という項目を見てみると、「専門学校または大学において行われる予備役将校訓練団の教授課程」と定義されているのですが、これは米国における軍事学の教育課程を説明するものであって、軍事学それ自体の定義とはいえないでしょう。

次に事典について紹介しましょう。日本で最近になっていくつか事典が刊行されていますので、それを紹介したいと思います。

片岡徹也編著『軍事の事典』東京堂出版、2009年
利点:戦略・戦術に関する基本的な概念が取り上げられ、その概念が成立した歴史的背景などが整理されており、重要な軍事用語の意味を深く理解する上で役立つ
欠点:収録された項目の数が多くないこと、また著者自身による研究成果や問題提起も盛り込まれているため、全体の記述が事典として必ずしも一貫していない部分が見られる

実際に読んでみると、戦略・戦術に関する軍事思想史の教科書という印象も受ける構成になっていますので、戦略・戦術について学び始める方でも理解できると思います。
ただ、もし戦略思想史を系統的に研究する場合には次の文献に当たることも検討するとよいでしょう。

片岡徹也編、前原透監『戦略思想家事典』芙蓉書房出版、2003年
利点:戦略思想史に名前を残した50名の人物が取り上げられており、それぞれの経歴と戦略思想における業績を要約した上で、研究で役立つ文献が紹介されている
欠点:近代ヨーロッパの戦略思想史を中心に50名を選んでいるため、核戦略が成立した現代以降の研究に寄与した人物が一人も取り上げられていない

日本国内の研究では戦略思想を取り上げるとしても、ナポレオン、クラウゼヴィッツ、ジョミニ以前の人物が取り上げられることが非常に少ない傾向があります。しかし、この文献ではフリードリヒ二世、サックス、ギベールといった人物も取り上げられており、またそれぞれの章の末尾には参考文献も示されています。ただし、購入前に自分の関心がある人物が取り上げられているかどうかをよく確認しておいたほうがよいでしょう。

また、ここからは英語文献となりますが、私が今所持している軍事学の事典類で最も新しい文献は次の通りです。

Piehler, G. Kurt., ed. 2013. Encyclopedia of Military Science. Vol. 4. Los Angels: SAGE Reference.

利点:政策、戦略、戦術、武器、組織、戦史など幅広い分野に関する項目が収録されており、よくまとまった解説が読めるだけでなく、より専門的な学習を進めるための文献を見つける上でも役立つ
欠点:全体として現在の政策や組織に関する解説が大きな比率を占めており、軍事史に属する項目の収録が最小限度にとどめられている

最近刊行された文献ですので、陸海空の戦術といった古典的なトピックから、最近のトピックである「イラク戦争」や「サイバー戦」もカバーしている点が魅力的です。しかし、現代の軍事情勢に力点が置かれているため、軍事史に関する項目は最小限になっています。日本では軍事学となると軍事史に関心が強い方が多いので、そのような場合には次の事典の方を入手することを推奨いたします。

Dupuy, R. E., and T. N. Dupuy. 1991. The Harper Encyclopedia of Military History: From 3500 B.C. to the Present. 4th edition. New York: HarperCollins Publishers.
利点:古代から現代にかけての軍事史、特に戦争の歴史について編年体で記述されているほか、各章ごとにその時代で主流だった軍隊の制度や戦略・戦術の特徴などが要約されている
欠点:東洋史に関する記述があまりにも簡略であり、特に近代以前の中国史・日本史を参照する場合には注意を要する

著者のトレヴァー・デュピュイは数理モデルを使った軍事理論の研究で有名なのですが、もともとの専門は軍事史であり、あらゆる時代、あらゆる地域の戦争に関する事例を一望できるような著作が目指されています。しかし、どうしても日本、中国、朝鮮、インドといった地域に関する記述が少なくなる傾向にあります。
そこで、この事典を種本とした日本語の文献として次のものも紹介しておきます。

松村劭『世界全戦争史』エイチアンドアイ、2010年
利点:上記のThe Harper Encyclopedia of Military Historyの内容を基本としながらも、さらに日本、中国などに関して加筆されており、より包括的に世界全体の軍事情勢の変遷を展望できる
欠点:索引が作成されていないため、情報の検索では章ごとに設けられた目次を見ながら探す必要があり、参考文献はあらゆる地域と時代をカバーするには十分ではなく、内容に関しても定説とは言えない記述が一部分に見られる

最近の日本語の軍事史事典で、これほどボリュームがある文献はあまり例がありません。一冊だけでさまざまな時代のことを調べることができるという意味では大変便利なのですが、個別の記述に関しては議論の余地がある内容なのが気になります。研究者の間で定説が確立できていないような多くの論点に対して独自見解を盛り込んでいるため、慎重な検討を必要とする文献であると思います。

むすびにかえて
軍事学を学ぶ上で最も大きな壁は、専門用語の壁ではないかと思います。戦略、戦術、武器、装備、歴史などを満遍なく学ぼうとすると、かなりの数の用語の定義を理解しておかないといけません。
個人的経験を振り返ってみても、辞典・事典は学習の大きな助けとなりましたし、今でも読み返すことが少なくありません。ただし、それぞれに利点と欠点があるため、調達する際には何のために使うのか、その内容の相違を把握することが必要でしょう。

KT

2017年2月4日土曜日

論文紹介 戦間期におけるイギリスとドイツの空軍を比較する

1919年から1939年の20年間は各国で航空戦力の増強が飛躍的に進んだ時代に当たります。第一次世界大戦で得られた航空戦の教訓を踏まえ、空軍の役割が活発に議論されたのもこの時期のことです。当時、専門家の議論をリードした著作がジュリオ・ドゥーエの『制空』だったのですが、一方で世界中の空軍士官が彼の戦略思想に傾倒していたというわけでもありませんでした。

今回は、戦間期におけるイギリスとドイツの戦略思想を比較した研究を紹介し、両国の空軍がそれぞれ異なる発展の道を歩んだ歴史的経緯について考察したいと思います。

文献紹介
Murray, Williamson. 1980. "British and German Air Doctrine Between the Wars." Air University Review, 31: 39-57.(http://www.au.af.mil/au/afri/aspj/airchronicles/aureview/1980/mar-apr/murray.html)

イギリスとドイツで違った航空戦略
ジュリオ・ドゥーエ(1869-1930)
イタリアの軍人、将来の戦争では戦略爆撃の意義が大きくなると主張し、陸海軍から独立した空軍の創設を働きかけた。
この論文の著者は、ドゥーエが航空戦略の先駆者として歴史上、重要な役割を果たしたことを認めていますが、その一方で彼が敵国の政経中枢に対する戦略爆撃(strategic bombing)こそが空軍の最重要任務だと強調するあまり、それ以外の任務を軽視する傾向にあったことを批判してもいます。

著者の見解によれば、空軍の発達は各国の事情、特に地理的要因によって大きく異なるものでした。そのため、一概に戦略爆撃だけが空軍の最重要課題であるかのように議論するわけにはいかず、航空偵察や近接航空支援といった陸軍や海軍との統合運用についても考慮すべきという立場を取っています。このような視点から、著者はイギリス空軍の特徴を次のように述べています。
「まったく異なった戦略的要請から、独特な航空戦略と多様なエアパワー概念が導き出されたことに注意しておかなければならない。イギリス人は、島国に住んでおり、ヨーロッパ最大の海軍を保有しているため、戦略爆撃について考えるだけの余力があった。第一に、イギリスに対して敵が打撃を加えることが可能な手段は航空戦力だけであった。そのため、戦間期を通じてブリテン諸島に対する敵の爆撃の脅威についてイギリスは過剰に心配していた」
これを次のドイツの事例と比較すると、空軍を建設する前提がそもそも違っていたことが分かります。
「しかし、ドイツの戦略問題は正反対であった。ドイツは島嶼国家ではなかった。ドイツは大陸国家であった。ドイツ帝国が軍事力を用いる可能性があるすべての紛争において、ドイツ人は軍事行動の序盤から陸上作戦の可能性に直面すると考えられた。したがって、ドイツ空軍がロンドン、パリ、ワルシャワを攻撃すると同時に、ドイツの敵が国境地域でドイツ陸軍を撃破し、ドイツはシュレジエン、東プロイセン、ラインラントを失う可能性があった。ドイツの領土は敵対勢力によって取り囲まれていたために、ドイツ人は主として大陸における陸上戦争について考えざるを得なかった」
ヴェルサイユ体制の下で軍備が長らく制限されていたため、ドイツ軍は空軍に配備する装備を爆撃機ばかりにする余裕はありませんでした。ドイツ軍としては限られた陸軍を効果的に運用するためにも、空軍を積極的に活用する必要があったのです。

技術的根拠もなく主張された戦略爆撃の効果
ヒュー・トレンチャード(1873-1956)
陸軍軍人だったが、第一次世界大戦で初めて航空部隊の指揮をとり、戦時中にイギリス空軍の参謀長として創設に携わる。
次にイギリスの空軍の歴史を個別に見てみましょう。イギリス空軍の発達史はいささか理論先行型であったことが著者によって述べられています。
1918年に創設されたイギリス空軍で参謀長に就任したトレンチャード(Hugh Trenchard)は、ドゥーエが述べたように、空軍だけでイギリスを防衛することが可能であるという立場をとっていました。そのため、戦闘機や攻撃機よりも、爆撃機を重視する傾向が強く、またそのことを積極的に宣伝してもいました。

当時のイギリスでの航空作戦に関する研究にはジョン・スレッサー(John Slessor)の『エアパワーと軍(Airpower and Armies)』(1936)という著作があるのですが、その内容を読むと、将来の戦争は敵の中枢部に対する爆撃によって決する可能性が高く、産業基盤を破壊された側はもはや第一次世界大戦のような大規模な武器、弾薬を供給し続けることは不可能になるだろう、と予測されています。これはドゥーエの思想に極めて近い内容であり、著者は筋が通っている部分もあると認めていますが、あくまでも概念上の議論の段階に過ぎなかったことをあくまで強調しています。

著者の調査によれば、戦間期のイギリス空軍にそもそも戦略爆撃を実施する能力があったのか疑問が持たれます。戦略爆撃とは、要するに自国の基地から敵国の中枢まで長距離飛行を行った上で、事前に示された工業施設といった目標に対して爆弾を正確に投下する作戦ですが、そもそもそのようなことが当時の技術水準で可能であったかどうかが明らかではないのです。そして、著者は当時の戦略爆撃の擁護者はこうした技術的困難を十分に検討していなかったと指摘しています。
「専門家が目標を発見し、これを打撃することは難しくないと感じていたことは明白である。1936年の帝国防衛委員会による見積りが主張するところによると、自動爆撃照準器を搭載した航空機が10,000フィートの高度で戦艦に爆弾を命中させる確率は11%であった。しかし、この報告書は艦船の運動、高角砲の射撃や戦闘機を回避するといった問題について言及していなかった。イギリス空軍研究所のジャーナルでは晴天であれば20,000フィートの高度から投下した爆弾の50%が、マルタ、ジブラルタルなどの造船所地域内部に落下するであろうと主張しており、『海上の艦隊に対しては1日で5~10%は命中可能である』とされていた」(Ibid.)
実際のところ、当時の技術水準で事前に示された目標を爆撃するということは大変困難な作業でした。著者はその根拠として、1937年に実施された試験の結果について紹介しています。

半径が500ヤードの円形の中に配置された30機の航空機を1週間にわたって高空飛行または低空飛行でイギリス空軍の爆撃部隊が爆撃するという試験でしたが、試験終了後に完全に破壊できていたのは2機に過ぎず、修理不可能な損傷を与えたのは11機、修理可能な程度の損傷を与えたのは6機、残りの11機はまったく無傷だったとされています。
この試験に参加した爆撃機の数や種類、投下された爆弾の総量は明らかではありませんが、著者はこうした当時の実験を踏まえると、戦略爆撃はあくまでも一つの戦略思想から導かれる構想であり、実際に戦果を期待できるほどの技術的根拠に乏しかったと評価しています。

経験に裏付けられたドイツ空軍の教義
1937年、スペイン内戦でドイツが実施したゲルニカ爆撃の効果を記録した写真
戦間期のドイツ空軍の発達はイギリス空軍とは大きく異なる方向に向かって進められていました。その最も重要な点は戦略爆撃の能力が重視されていなかったということです。
一部の研究者は、戦略爆撃の軽視をドイツ空軍の欠点と評価しますが、これは著しく公平性に欠けたものであると著者は反対しています。つまり、ドイツ空軍の教義は最初からイギリス空軍の教義とはまったく異なるものを目指しながら発展していた経緯がり、それは欠点ではなく、選択の結果だったと論じられています。

この著者の議論で特に重視されているのはスペイン内戦でドイツ空軍が得たいくつかの戦訓です。
スペイン内戦に送り込まれたドイツ空軍のコンドル軍団は1937年にゲルニカを爆撃しましたが、これはドゥーエ的な戦略爆撃の考え方に沿うものでした。つまり、ドイツ人も当初はイギリス人のように戦略爆撃の効果に期待を持っていたのです。
しかし、効果を評価してみると、ゲルニカ爆撃の戦果は必ずしも期待通りではなく、むしろ長距離の戦略爆撃に技術的な課題が多くあることが認識されるきっかけとなりました。

ドイツでこのような作戦を実施しようとしても、一年を通じて悪天候が多いドイツの気候では、正確な長距離飛行を実施すること自体が技術的に難しいと考えられたのです。
それに、国内の資源が限られたドイツの戦略環境は、戦略爆撃のように効果が出るまで時間がかかる作戦に航空機を使用することを許しませんでした。
それに加えて、軍備制限の関係で陸軍でも砲兵装備が不足していたために、ドイツ陸軍は近接航空支援や航空阻止を必要としていました。
著者は、こうした要因が組み合わさったことで、ドイツ空軍は1939年に陸軍との統合運用に必要な装備や教義を整備していきました。
「1939年までにドイツ空軍は最前線で行われる作戦に継続的な支援を行うことができる航空機と教義を発展させていった。シュトゥーカ(Stuka)はドイツの機甲部隊に直接支援を行うための素晴らしい航空機であることを証明し、ハインケル(Heinkel He III)やユンカースJu 88(Junkers Ju 88)のような航空機は阻止のための優れた航空機であった。Bf 109はスピットファイアと同等でヨーロッパの他の戦闘機よりも優れていたため、ドイツ戦闘戦術は戦争の最初の空中戦で高性能であることが明らかになった」
ドイツ空軍は結局のところドゥーエが理想した形態と異なる航空戦力を発達させていきましたが、その有用性はポーランド、そしてフランスでの戦いで実証されたのです。

むすびにかえて
20世紀初頭の空軍史で興味深いのは、どの国家も手探りの状態から出発していることです。極めて限られた経験だけで将来の戦略・戦術を調査し、装備を開発させていかなければなりませんでした。こうした状況においては、その国家が持っている研究能力が大きな意味を持ちます。

過去の教訓が利用できない状況では、どうしても研究において思想や理論が先行しがちです。しかし、スタンダードだと見なされているドゥーエのような戦略思想も、各国の国力国情に合致しない場合がありました。ドイツはその手詰まりをいち早く突破した国家であtっと言えます。スペイン内戦で得た経験を素早く組織的に学習し、いち早くドゥーエの戦略思想から離れ、自国の戦略的要求に合った空軍を巧みに作り上げていったのです。

無論、著者はイギリス空軍が失敗事例であったと述べているわけではありません。イギリス空軍がその後のブリテンの戦いでドイツ空軍の攻勢を食い止めたことはよく知られています。しかし、イギリスとドイツの事例を比較すると、ドゥーエの戦略思想にも適用可能性に限界があったということを理解することができるのです。

KT

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2017年2月1日水曜日

論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因

ペロポネソス戦争は、古代ギリシャの歴史を変えた戦争でした。前431年に勃発した戦争では、当初アテナイが圧倒的な国力をもってスパルタを一度は追い詰めていました。それにもかかわらず、前404年に戦争が終結した時にはアテナイの方が敗者となっていたのです。

アテナイの敗因についてはさまざまな分析があるのですが、今回はその戦略には「防御主義への妄信」という根本的な問題があったことを指摘する研究を紹介したいと思います。

文献情報
Murray, Williamson, Knox, MacGregor, and bemstein, Alvin, eds. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.(邦訳、ドナルド・ケーガン「ペロポンネソス戦争におけるアテネの戦略」永末聡訳『戦略の形成 支配者、国家、戦争』中央公論新社、2007年、上巻、55-125頁)

ペロポネソス戦争の概要
ペロポネソス戦争が勃発した前431年のギリシャ半島の国際情勢
黄色がアテナイ陣営、赤色がスパルタ陣営、青色が中立諸国、紫色はペルシア帝国、肌色がマケドニアの勢力圏
そもそも、この論文で分析されているペロポネソス戦争の大まかな経緯について説明しておきましょう。

当時のギリシャ世界では、アテナイという国家がデロス同盟というエーゲ海の沿岸各地に広がる同盟を通じ、大きな政治的、経済的影響力を及ぼしていました。しかし、ギリシャにはアテナイの政策に反発する勢力もおり、その代表的存在だったのがスパルタでした。
スパルタはペロポネソス同盟という陣営の盟主であり、アテナイの勢力拡大を脅威として認識していました。前431年にコリントスとアテナイとの間で局地的紛争が起きたことをきっかけとして、スパルタはアテナイと戦争状態に入ることを決断します。

開戦時点でアテナイの将軍職の地位にあったペリクレスは、スパルタ軍を領内で待ち受けて戦う籠城策を採用することにしました。ペリクレスはアテナイの優位が海軍の分野にあると考えていたため、スパルタ陸軍と正面から戦うことを避けようとしたのです。しかし、戦争が2年目に入ると、アテナイ城内で深刻な疫病が発生し、多くの市民が病死しただけでなく、ペリクレス自身もこの病気で命を落とします。
その後もアテナイとスパルタは一進一退の戦いを続きましたが、戦争が長期化するとアテナイの陣営から離反する諸国も現れ、アテナイの民会では従来の戦略を変更すべきという動議が出されるようになります。デマゴーグ(demagogos)と呼ばれた扇動政治家は、戦局挽回のために無謀な戦略を宣伝したといわれ、その一人とされるアルキビアデスが提案したシチリア島への遠征では、部隊が全滅して大失敗に終わりました。

その後、スパルタはアテナイとの戦争を続けつつ、ペルシャからの援助を利用し、それまで軽視してきた海軍の能力を着実に増強していき、最後にはアテナイ艦隊を相手に海上戦闘で勝利を収めることに成功しました。海軍を失ったアテナイはスパルタに降伏することを余儀なくされ、戦争は終わりました。城壁は破壊され、農地は荒廃し、多くのアテナイ市民が財産を失い、没落していったのです。

防衛志向が強かったペリクレスの戦略思想
これまでの研究ではアテナイの敗因として注目されてきたのがデマゴーグでした。
アテナイの政界でデマゴーグが台頭した時期に策定された戦略が、シチリア遠征の敗北によって大きく行き詰まったためです。

しかし、今回の論文の著者は、こうした従来の見方に疑問を投げかけています。なぜなら、そもそもペリクレスが当初策定した戦略は防衛を重視しすぎており、スパルタ相手では通用しない恐れが考えられたためです。この議論の出発点にあるのは、ペリクレスの戦略が極めて防衛志向の強いものであったという判断です。
「ペリクレスの戦略目的は、戦闘においてスパルタを敗北させることではなく、単にアテネとの戦争は無益であるとスパルタ側に確信させることであった。したがって、彼の戦略上の目標は完全に消極的なものであった。ペリクレスは、アテネ市民に対して次のように状況を説明した。「もしアテーナイ人が沈着に機をまち、海軍力の充実につとめ、かたわら戦時中は支配圏の拡大をつつしみポリスに危険を招かぬようつとめるならば、戦は勝利に終る」」(71-72頁)
一見すると、これはこれで筋の通った戦略であるように思えます。スパルタ軍をアテナイの領土に引き付けつつ、その侵攻を堅牢なアテナイの城壁で拒否できれば、スパルタ人は戦意を喪失するであろうという考え方です。

当時アテナイ市民だった歴史家のトゥキディデスは自らの著作でこのペリクレスの戦略計画を高く評価していました。現在に至るまでトゥキディデスの評価は歴史学者の間で影響力を持っていますが、この論文の著者はあえて「後知恵ながら、ペリクレスの戦略は彼が生きているときにすでに失敗していたと評価できるかもしれない」と異なる見解を示し(同上、81頁)、そしていくつかの数字を示しながらペリクレスの戦略を再検討しています。

数字で考えるペリクレスの戦略の妥当性
著者の調査によれば、当時のアテナイ陸軍の主力は1万3000名であり、これに加えて国境地帯やアテナイ市の城壁に守備隊として合計1万6000名の部隊が分散配置されていました(同上、74頁)。これに対するスパルタ軍の勢力は同盟国の兵士も合計すると、およそ6万名という記録があり、著者はこの数字がやや誇張されている可能性を認めながらも、全般としてアテナイ陸軍よりもスパルタ陸軍の方が数的に優勢であったと判断しています(同上、74-5頁)。

その一方でアテナイは艦隊の規模ではスパルタに優越しており、少なくとも300隻の軍船を動員することができ、しかも同盟国から100隻以上の軍船を集めることもできたと考えられています(同上、76頁)。対するスパルタの海軍は貧弱であり、同盟国の協力があっても100隻程度の軍船を集めるのが限界でした(同上)。

ただし、アテナイがこの軍事力を維持するためには予算が当然必要となります。前431年のアテナイの年間歳入は1000タラントンであり、その40%が国内から、60%が国外からもたらされていました(同上、76頁)。この歳入に対してアテナイが軍事予算として支出できる限度は600タラントンでしたが、これだけではペリクレスの考える持久戦は遂行できません(同上、76-7頁)。

そこで、国庫に蓄えた6000タラントンの銀貨と500タラントンの非鋳造の金銀、さらに40タラントン相当のアテナ女神像を解体することも緊急時には認められていました(同上、77頁)。
単純に考えれば、歳入がなくても6年強にわたって軍事予算を確保できることになりますが、これは平時を前提とした議論であり、戦時になればさらに追加的な支出が生じてきます。
「ここで重要な問題は、ペリクレスの戦略を維持するために必要な年間経費をねん出しながら、アテネの財政がどれほど長く持ち堪えることができるのかという点である。ペリクレスの戦略に必要とされる平均的な年間経費は、ペロポンネソス戦争の一年目を調べることである程度産出することができる。(中略)1隻の艦船は1カ月当たり1タラントンの費用がかかった。そして、艦隊が海上で任務に当たる期間は通常8カ月であった。(ポテイダイアの海上封鎖に参加した艦隊は、一年中海上で任務に当たる必要があった)こうした数字を計算すれば、アテネの海軍関連の支出は年間1600タラントンになる」(同上、83-4頁)
さらに陸軍の経費については次のように考察されています。
「陸上部隊の費用のなかでは、ポテイダイアの攻囲作戦に参加していた陸上部隊にかかる費用が最大の割合を占めていた。3000人を超える歩兵がポテイダイアの攻囲作戦に参加しており、その数はしばしば増えることがあった。したがって、ポテイダイアの攻囲作戦に参加していた歩兵んお平均人数は、ごく控えめに見積もっても3500人はあった。アテネの兵士には1日に約1ドラクマが支払われ、それとは別個に、部下を保持するために部下1人当たり1日1ドラクマが支払われた。したがって、アテネの軍隊にかかる1日の費用は、少なくとも7000ドラクマ、つまり約1.17タラントンであった。この数字に360を掛けて計算すると、年間およそ420タラントンになる。当然、他の軍事活動の費用も必要だが、海軍関連の費用とポテイダイアの攻囲作戦に展開した陸上部隊にかかる費用だけでも、年間2000タラントン以上かかる計算になる」(同上、84頁)
したがって、戦時におけるアテナイの陸軍と海軍の年間の経費を合計すると、3600タラントンと推計されます。これは戦争状態になればアテナイの財政収支は2年強で赤字になる可能性が高いということを意味します。しかし、ペロポネソス戦争は27年間にわたって続いたのです。
もし戦争の2年目で疫病が起こらず、ペリクレスがそのまま生きたとしても、スパルタとの和平が2年目の終わりに結ばれなければ、ペリクレスはいずれにせよ自らの間違いを認めざるを得なくなったでしょう。

ペリクレスが戦略家として冒した最大の間違いは、スパルタの継戦意欲でした。ペリクレスは戦局が停滞すればスパルタが戦争を継続するような非合理なことはしないと想定していたのですが、結果として見ればそれが現実でした。
「ペリクレスは、思惑が外れて戦争の泥沼化が明らかになっても、それでもなお同じ戦略に固執するような人物ではなかったはずである。彼は智謀に富んだ指導者であり、しばらくすれば、アテネにとって必要なことを即座に見抜いてそれを実行できていたかもしれない。彼が犯した失敗は重大な結果を招いたとはいえ、誰でも冒す可能性のある一般的なものであった。つまり、攻撃による懲罰を受けてこれ以上の戦闘は無益であることが明らかになれば、敵は正気に戻るであろうとペリクレスは想定していたのである」(同上、87頁)
アテナイに蔓延した「防御主義への妄信」
ペリクレスの戦略がこのような問題点を抱えていたことを考えれば、むしろ2年目でペリクレスが病死した後も、アテナイの戦略がなかなか変更されなかったことの方が不思議なことです。まだ余力が残っている2年目の終わりの段階でアテナイの戦略が一から見直され、スパルタに対して積極的な攻勢を伴う戦略が採用されていたとすれば、ペロポネソス戦争の展開はまったく違ったものになっていたことでしょう。

しかし、アテナイがそのような戦略の変更を行わなかった理由は、当時のアテナイの戦略文化として防御主義への絶大な支持があったためであるとして、著者は次のように論じています。
「現状に満足し、なおかつ敵を寄せ付けないことができた前431年当時のアテネのような国にとって、攻撃的な行動をとる危険を回避したいという誘惑は大きい。しかし、このような思考こそ危険をはらんでいるのである。こうした消極的な思考によって、「防御主義への妄信(the cult of the defensive)」と呼ぶべき硬直した精神がアテネで助長された。こうした精神の影響により、指導者は、自己が過去に成功体験を持つ戦略は一般的に理論として支持されている戦略を無意識に不適当な状況に応用しようとするのである」(同上、120頁)
つまり、ペリクレスの戦略が死後もアテナイで維持されていた理由は、必ずしも軍事的根拠だけに基づいていたわけではありませんでした。アテナイ人はスパルタ人の戦意を過小評価していましたが、自らの軍事的能力を過大評価してもいました。だからこそ、積極的な攻勢に出なくても戦争を有利な条件で終結させることが可能であると慢心してしまったといえます。

著者はこの論文の結論部において、もしペロポネソス戦争でアテナイに勝ち目があったとすれば、それはスパルタの弱点に対して攻撃を実施するような戦略を策定することであったと主張しています。
「「防御主義への妄信」と呼ぶべき硬直した精神が助長されることには、もう一つ不利な点がある。それは、仮想敵国が戦争を引き起こすことを抑止するこちらの能力が限られることである。断固とした防衛姿勢を示すことで敵が勝利を得る見込みを減少させることを基礎とした抑止は、敵が相当高い合理性と豊かな想像力を持つことを前提としている。前431年にスパルタがアッティカ地方に進攻したとき、スパルタはそれほど大きな危険を冒しているとは思っていなかったに違いない。(中略)結局、ペリクレスの抑止戦略は、スパルタのもっとも脆弱な地点を確実に攻撃する能力をアテネが確保しているときに限り、成功する見込みがあるものだった」(120-1頁)
現代の軍事用語では敵の侵攻を食い止める防衛能力を確保することで、敵国の軍事行動を未然に防ぐ抑止戦略を拒否的抑止(deterrence by denial)といいますが、結局ペロポネソス戦争は、この種の戦略に限界があることを示しています。たとえ、アテナイが強力な防衛力を持っていたとしても、スパルタが想定を上回る資源を戦争遂行に投入し続けるという決意を固めてしまえば、そのような戦略は容易く破綻してしまう恐れがあります。

むすぶにかえて
軍事学を学ぶ人にとって、ペロポネソス戦争は軍事的教訓の宝庫です。著者がこの論文で取り上げた要因以外にも、中東の大国ペルシャがスパルタと手を結んだことや、アテナイの国内からも裏切者が出ることなど、アテナイの敗因にはさまざまな要因が挙げられます。しかし、「防御主義への妄信」はアテナイの戦略そのものに影響を及ぼしたという意味で、特に重要な敗因だったといえるでしょう。

現状を維持さえできればよい立場にある国家は、戦争が勃発するリスクを過小評価したがる傾向がありますし、もし勃発したとしても防勢に徹していればいずれ敵国は力尽きて戦意を喪失すると想定しがちです。しかし、それは自分に都合がよい想定に基づいて独りよがりな戦略を立案しているにすぎず、あらゆる事態に対応できるものではありません。だからこそ、私たちはペリクレスの戦略的な間違いを深く研究すべきであると思いますし、ペロポネソス戦争を今一度学ぶことが必要であると思います。

KT

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