最近人気の記事

2018年2月16日金曜日

文献紹介 なぜルイ十四世は戦争を繰り返したのか―シュンペーターの考察―

戦争の歴史を調べていると、その国家の指導者がどのような国益を求めていたのか曖昧な侵略戦争の事例が決して少なくないことが分かります。

国際政治学でも特にリアリズムの議論には、国家を一つの主体として捉えて戦争の勃発を説明するものもありますが、実際の戦争に至る意思決定のプロセスはより複雑であり、実際には国内政治上のさまざまな利害の対立が関係してきます。

今回は、オーストリアの政治経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの研究を取り上げ、彼が17世紀のフランス国王ルイ十四世の戦争を説明する際に、国内政治上の力学で説明していることを紹介してみたいと思います。

ルイ十四世が直面していた国内の脅威

ルイ十四世(Louis XIV, 位1643-1715)は、1653年にフランスの実権を握ると、周辺諸国に次々と戦争を仕掛けたことで歴史的に知られています。
特にスペイン領のネーデルラントやオランダに対する軍事行動は執拗に繰り返されたのですが、イギリスの介入を受けたこともあって、結果としてフランスが得た政治的、軍事的な成果は乏しいものでした。

外交的、軍事的観点から見れば、ルイ十四世の戦争指導には多くの疑問点が残るところであり、多額の債務をフランスに残す原因にもなりました。
シュンペーターはこうした不合理な政策決定を説明するためには、ルイ十四世がフランス国内に抱えていた政治勢力、特に貴族階級の政治的脅威を理解しなければならないと論じています。
「貴族はその独立と政治的権力とを、或いは少なくとも、それらを行使する機会を、国王にいわば明渡していた。かつては自分自身の臣下をもつ確固たる主権者であったところの強情な地方貴族も、いまでは外面上極度に従順な宮廷貴族となってしまっていた。しかし、貴族階級の社会的地位は依然として確固たるものがあったのだ。かれらは自分自身の領地をもっていた。そして自分の土地の近隣では、依然として威信をもち続けていたし、農民たちにたいしても制裁与奪の権を多かれ少なかれもっていた。位の高い貴族は位の低い貴族を依然として自分の配下に従えていた。このように、貴族階級は全体としては、無視しがたい一つの権力要素をなしていたのである」(邦訳、104頁)
ここの説明でシュンペーターが触れていないことですが、ルイ十四世が国王に即位して間もない1648年にフランスでは絶対王政に抵抗する貴族勢力が反乱を起こしたことがあります(フロンドの乱)。

この反乱は1653年まで5年にわたって続き、最後は鎮圧することができました。
しかし、ルイ十四世にとってみれば、貴族階級の脅威は現実の問題であり続けており、彼らが再び歯向かうことがないように手を打つ必要があったのです。

貴族の脅威を緩和する対外戦争

シュンペーターはルイ十四世の政策を調べた上で、その政策が一貫して貴族勢力の懐柔に向けられていると考えました。
そして官僚制度の整備、年金の交付、ヴェルサイユ宮殿の造営、サロンでの文化の奨励は、いずれも地方から貴族を引き離し、宮廷に抑留するための政治的手段として用いられていたとして、次のように説明されています。
「国家の実権者は、国王個人ではなくて貴族階級であったのだ。この階級はきらびやかな中心点を必要としていたのであり、宮廷こそはそれであった。さもなければ宮廷は議会に転化しかねなかったのである。ところが、長いあいだ自分の領地から離れて宮廷で生活することは、どの貴族にとっても経済的負担たらざるをえなかった。したがって、宮廷は、貴族を引き止めておくためには、かれにたいして償いをしなければならず、それは、使節・司令官・役職等に任命したり、年金を与えたり、いずれにしろ、労無くして効多きものでなければならなかった。国王がこのようなことをすればこそ、貴族は忠誠を続けたのである」(同上、105頁)
しかし、地位や年金をばらまく方法には自ずと限界がありました。これはルイ十四世に仕える貴族の大部分は軍人の家系であり、戦争で功績を上げることを望んでいたことが関係しています。
シュンペーターは当時の貴族の気質について次のように述べています。
「ところで、ヴェルサイユで娯楽に興じていたこれらの貴族の家柄というのは、みんな昔日の武勇や、好戦的な思想・標語・本能などを思いおこすことができた連中である。かれらの百人のうちの九十九人までは、武力行為でなえれば「行為」でないと考えていた。だから、内乱を避けようとすれば、外国との戦争が必要であったのだ。外国と戦争をすれば、貴族たちをそれに没頭させることができ、それによってかれらを満足させることができた。国王の立場からしても、外国との戦争は無害のものであり、有利なものでさえあった」(同上、106頁)
現代の感覚からすると理解しがたいものかもしれませんが、当時の貴族階級にとって軍人としての功績を上げることは、一族の社会的地位を高める方法として広く認められており、彼らはチャンスを絶えず伺っていました。

ルイ十四世は、自らの安全を確保するため、何としても貴族を手懐ける必要があり、彼らの望むものを与えなければなりませんでした。そのことが、ルイ十四世を戦争に向かわせる要因になった、というのがシュンペーターの説明です。
結果として、ルイ十四世は戦果の乏しい戦争を何度も繰り返すことになったということになります。

むすびにかえて

このような説明を展開しているからといって、シュンペーターは貴族階級が無暗に戦争を求める勢力だと決めつけているわけではありません。
彼は当時のフランスにおける貴族階級の家族が、どのような歴史を持っているかが重要だと指摘しており、ルイ十四世の時代にあっては軍人として出世を地位向上の戦略とする家族が貴族階級の大きな部分を占めていたことから、こうした事態が起きたと考えられています。

シュンペーターの議論で得られる重要な知見は、戦争という国家の命運をかけた政策決定であったとしても、それが必ずしも国益のために行われるとは限らず、国内の脅威に対処するための方策として利用される可能性があるということです。
「このように、独裁国の好戦的性格やその戦争政策は、その国の社会構造上の要請や、支配階級の伝来の資質等によって説明できるのであって、征服の結果直接得られるような利益が問題なのではない。征服の結果直接得られるような利益を問題とするとしても、ブルジョアジーの利得が動機としての役割を果たしたものとはかぎらぬ、ということを銘記しておかなければならない」(同上、107頁)
つまり、シュンペーターの理論によれば、外交的、軍事的に無意味に見えたとしても、国内における好戦的な支配階級が存在することや、権力者が自らの威信を保持しようとした結果として、戦争を起こす場合があり、それは既存の勢力の利害で合理的に説明できる事象ではありません(同上、112頁)。

シュンペーターの研究は国内政治と対外戦争の関係を考える上で有益な示唆を与えるものだと言えるでしょう。また、これはクラウゼヴィッツが考える戦争と政治の関係を具体的に示した研究として読むことができるかもしれません。

KT

関連記事

論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

参考文献

シュンペーター『帝国主義と社会階級』都留重人訳、岩波書店、1956年

2018年2月8日木曜日

文献紹介 イギリス潜水艦隊の知られざる冷戦史

もともと潜水艦の運用には秘密事項が多いため、研究者でも資料の収集が非常に難しいという事情があります。
そのため、イギリスの海軍史の研究においても潜水艦の方面になると研究があまり多くありません。ただ、最近では内部資料の閲覧を許可された研究者による文献も刊行され始めています。

今回は冷戦期におけるイギリス潜水艦隊の活動を調査した研究を紹介したいと思います。

文献情報
Peter Hennessy and James Jinks. 2015. The Silent Deep: The Royal Navy Submarine Service since 1945, London: Penguin.

イギリス海軍における潜水艦の発達

1986年、ヴァリアント級原子力潜水艦ヴァリアント
イギリス海軍で潜水艦隊(Royal Navy Submarine Service)が発足したのは1901年のことです。しかし、当時のイギリス海軍では砲戦能力の高い戦艦の研究開発が優先されていたため、本格的な潜水艦技術の研究開発は第二次世界大戦が終結してからのことになります。

著者らの調査によると、戦後の研究で特に大きな影響を及ぼしたのはドイツ海軍の潜水艦技術であり、特にXXI型潜水艦の設計は詳細に研究されました。
XXI型潜水艦は従来の潜水艦と異なり、水中行動に特化した流線型の船体構造を取り入れるなど、冷戦期の潜水艦にも広く使用される技術が活用されていたためです(Hennessy and Jinks 2015: Ch. 2)。

ところが、イギリスにおける潜水艦の開発はドイツの技術的成果の導入だけでは限界がありました。これは新たに原子力推進機関が登場していたためです。
イギリス海軍は当初、原子力潜水艦の独自開発に取り組みましたが、結局はアメリカから技術移転を受けて攻撃型原子力潜水艦ドレッドノートを1963年に就役させ、1966年にはその技術を初の国産攻撃型原子力潜水艦ヴァリアントを就役させます(Ibid.: Ch. 3)。

これに平行してイギリス海軍では潜水艦発射弾道ミサイルの調達も進められています。
1963年に署名されたナッソー協定に基づいてアメリカから潜水艦発射弾道ミサイルであるポラリスの提供を受けることになるのですが、1964年のイギリス総選挙で政権交代が起こると、ポラリスの調達は中止の危機に直面しますが、最終的に費用対効果で優れていることが認められ、承認を受けています(Ibid.: Ch. 4)。

イギリス海軍における潜水艦技術の発達はドイツ、アメリカの技術移転に頼るところが大きく、特に原子力に関連する技術に関してはアメリカからの技術提供に深く依存していたと言えるでしょう。

冷戦期における潜水艦の作戦運用

1982年、フォークランド紛争で出撃していた原潜コンカラーがクライド海軍基地に入る様子 
この研究においては潜水艦の行政管理だけでなく、作戦運用についても1960年代から現在までの時期がカバーされています。

そこでは、1960年代にヴァリアント級原子力潜水艦の2番艦に当たるウォースパイト(HMS Warspite)がソ連海軍が弾道ミサイル潜水艦に関する最新の情報を収集していたことや(Ch. 5)、1970年代にスウィフトシュア級原子力潜水艦の2番艦であるソヴリンが1978年にソ連の潜水艦で長距離追跡を行ったこと(Ibid.: Ch. 6)、1980年代にはフォークランド紛争においては原子力潜水艦として初めて巡洋艦の撃沈に成功したことなどが紹介されています(Ch. 7)。

戦略的観点から驚くべきは、その活動範囲が実に広いことです。
原子力潜水艦の利点である航続距離の長さを活用し、本国から近いバレンツ海や北海といった海域だけでなく、極東の方面でもソ連(冷戦後になるとロシア)の潜水艦の動向を探るための哨戒も行っていたことなどが述べられています。

また戦術的観点からも興味深い記述があり、特に1982年5月2日にフォークランド諸島をアルゼンチンから奪回するためにイギリスが派遣した攻撃型原子力潜水艦コンカラー(HMS Conqueror)がアルゼンチンの艦艇(巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ)を撃沈した事例について細かな検討が行われています。
そこでは当時のコンカラーの艦長が、最新式の魚雷であるMark 24ではなく、第二次世界大戦でも使われていた旧式の魚雷Mark 8を使用することを決断した経緯が取り上げられており、現代の潜水艦戦術を研究する上で興味深いものです。

むすびにかえて

この文献は現代のイギリス海軍において潜水艦が極めて重要な役割を果たしてきたことを明らかにしたという点で大きな意義があります。

イギリス政府は決して潜水艦の作戦行動についてコメントすることはないので、どうしても世間の関心は小さくなる傾向にあり、国民から活動について理解を得ることや、予算の充実を図ることが難しいという問題があります。
しかし、こうした研究によって潜水艦が現代世界で遂行する作戦の困難性、重要性について知る人が増えれば、この方面で防衛努力を強化することの必要も認識されると思います。

ちなみに、現代の潜水艦の活動を取り扱った日本語文献を探されている場合は、ソンタグ、ドルーによる『潜水艦諜報戦』(下記の参考文献を参照)を一読されることを勧めます。
同書は潜水艦の乗組員に対して実施した膨大な面接調査に依拠して書かれており、冷戦期のアメリカ海軍において潜水艦がどのように管理、運用されていたのかが当事者の目線でドキュメンタリー的に記されています。

KT

関連記事
論文紹介 米ソ決戦における米海軍のASW戦略
論文紹介 中国軍の潜水艦発射弾道ミサイルとその課題
事例研究 なぜ交戦規則(ROE)が必要となるのか

参考文献
Sherry Sontag and Christopher Drew, Blind Man's Bluff, Random House, 1998.(邦訳、ソンタグ、ドルー『潜水艦諜報戦』平賀秀明訳、全2巻、新潮社、2000年)

 

2018年2月1日木曜日

論文紹介 兵士の士気を保つ要因は何か―軍事社会学者の分析―

軍隊の戦闘効率にとって士気が極めて重要であるということは疑問の余地がありません。士気とは戦闘に進んで参加する兵士の心理的状態であり、これが部隊の中で共有されることによって、戦闘力を効果的に発揮することが可能になります。
しかし、士気の発揚にとってどのような要因が重要なのかについては、さまざまな議論があります。

今回は、第二次世界大戦におけるドイツ軍の士気について軍事社会学の方法で分析している有名な研究成果の一部を紹介してみたいと思います。

論文情報
Shils, E. A., & Janowitz, M. (1948). Cohesion and disintegration in the Wehrmacht in World War II. Public Opinion Quarterly, 12(2), 280-315.

プロパガンダで士気は維持できない

1939年に第二次世界大戦が勃発した頃、評論家や専門家の多くがドイツ軍の士気の高さをプロパガンダの巧妙さで説明しようとしていました。

つまり、ドイツ軍は自国の兵士に対する心理的操作が優れているからこそ、士気を保つことができている、という考え方が主流だったのです(Shils and Janowitz 1948: 280)。

しかし、戦後に改めて分析が進むと、著者らはこうした通説が間違っているのではないかと考えるようになりました。
つまり、ドイツ軍の心理戦の能力が特に優れていたから士気を維持できたと主張することには無理があることが判明してきたのです。
「過去3年間におけるドイツ陸軍の士気と戦闘効率に関する研究は、そのような仮説に対して数多くの疑問を投げかけている。というのも、科学的な厳格さに立脚して追及されてきたそれら研究によれば、ドイツ陸軍の忠誠心は政治的な確信や広い意味での民族的な信念から非常に間接的、部分的な影響しか受けていないことが見出されている」(Ibid.)
それまでの理解はナチ党が展開するプロパガンダのイメージに引きずられているところがあり、より客観的な観点から説明の仕方を見直すべきだと著者らは指摘します。
その代わりに出された説が親密な個人的関係を共有する一次的集団(primary group)を重視するものでした。

小さな社会集団こそ士気の土台となる

一次的集団とは日常的に接触する頻度が高い社会集団であり、軍隊では営内班や分隊がこれに該当します。
著者らは当時のドイツ軍で下士官(または下級士官)が果たした役割に注目しており、彼らを中心に一次的集団が強固に形成されていたことが、士気の発揚に繋がっていたと考えています。
「ドイツ軍の行動を見てみると、個人の直接的な対人関係に基づく社会集団に注意を払い、それが些細なことであるという考え方をとっていないことが分かる。そして、実際にそれは高度な軍事的効率を達成する妨げにはなっていないのだ」(Ibid.)
彼らの議論によると、一次的集団の役割については現場レベルで認識されていただけでなく、組織レベルで認識されており、補給の組織や部隊の戦略的な配備を決定するに当たっても、それを攪乱しないように慎重に考慮されていました(Ibid.)。

こうしたことから、一次的集団の団結を組織的に維持する取り組みによって、高い戦闘効率を維持できたと著者らは解釈しています。
「(ドイツ軍から)一次的集団が解体すると、プロパガンダは激励や分析といった性格は後退し、生存の追及を全面に打ち出すようになり、生命を維持するための具体的な手順を描くようになったが、それは解体の作用をさらに加速させるものだった」(Ibid.)
この考察で指摘されている通り、戦局の悪化とともにドイツ軍の第一線部隊が次々と壊滅し、補充兵ばかりになると、もはや一次的集団としての凝集性・同一性を維持することができなくなり、プロパガンダで戦闘効率を回復する試みも成果が出なくなります。

兵士は思想や理念によって戦うのではなく、日常的に接触を持つ人々の集団に帰属することによって戦うことが、この研究で示されています。

むすびにかえて

軍事組織の末端における一次的集団が戦闘効率と関係を持っているという議論は当時の通説に挑戦するものでしたが、その後に多くの派生的研究をもたらすことになります。
それだけに、この研究が学界で与えた影響は重要なものだったと言わなければならないでしょう。

例えば、今回の論文を参照している最近の研究としては、Watson, Alexander. Enduring the Great War: Combat, morale and collapse in the German and British armies, 1914–1918. Cambridge University Press, 2008.があり、これは第一次世界大戦におけるドイツとイギリスの士気について分析し、評価を得ているものです。

士気の源泉として末端の部隊の社会構造に注目する議論はさまざまな検証を受けており、一定の妥当性を持つ学説だったと見ることができるでしょう。

ただし、士気の問題に関しては一次的集団だけが要因だと考えられているわけではありません。
特に軍事史学、軍事心理学の立場からは異なる説明が示されている点に注意が必要です。
ノルマンディー上陸作戦で壊滅的被害を受け、補充兵が大量に配属された米軍の部隊が、その後の戦闘でも一定の効率を維持した事例があるなど、一次的集団だけで士気を説明できない場合もあることが分かっています。

そのため、士気は一次的集団を含めた複合的な要因によって形成されると考えるべきであり、今後もそれぞれの影響の違いなどについて研究が進められる必要があるでしょう。

KT

関連記事
学説紹介 下士官の権威で兵卒は戦う
学説紹介 戦闘で兵士の内面で何が起きるのか
論文紹介 時代や地域で異なる士気の学説

参考文献
Watson, Alexander. Enduring the Great War: Combat, morale and collapse in the German and British armies, 1914–1918. Cambridge University Press, 2008.

2018年1月27日土曜日

学説紹介 リベラリズムにおける軍事力の位置付け―コヘインとナイの学説を中心に―

国際政治学では代表的な理論として、リアリズムとリベラリズムという二つの異なる理論があります。
安全保障学の研究はリアリズムに依拠した学説も多いのですが、リベラリズムに依拠する研究も決して少数派というわけではありません。

今回は、リベラリズムについて簡単に紹介し、そこで軍事力がどのように位置付けられているのかを紹介したいと思います。

リベラリズムとは何か


諸説あるところですが、一般にリアリズムは国際社会で戦争が引き起こされる要因を各国の勢力関係の不均衡として考える学説です。
つまり、環境的な要因に基づいて各国の対外政策を説明するのに適した理論と言えます。

それに対してリベラリズムは国内政治上の要因、つまり各国の内部で起きる政策決定のメカニズムの結果として考える傾向にあります。
これは各国の政治体制、社会状況を考慮に入れることを重視している理論と言えるでしょう。貿易を通じて経済的相互依存が深まれば、戦争のリスクが低下するという考え方も、この理論から導かれます。

安全保障学の学説史をどのように区切るかにもよりますが、リベラリズムがこの分野で本格的に参照され始めるのは基本的に1970年代以降です。
当時、貿易のグローバル化、国際金融秩序の動揺、エネルギー問題の顕在化などが国家の防衛に影響を及ぼすことが認識されるようになっていました。

人々は軍備や同盟だけでなく、より広い視点から安全保障を捉え直すようになり、そのことが国際政治学におけるリベラリズムの地位を高めることに繋がりました。

リベラリズムにおける安全保障

ロバート・コヘイン(Robert Owen Keohane, 1941-現在)
米国の政治学者、国際関係論でネオリベラリズムの理論を唱えたことで知られる。
リベラリズムの研究で名をはせた米国の政治学者にジョセフ・ナイとロバート・コヘインがいます。彼らの共著『パワーと相互依存』(1977)は今でもよく知られているリベラリズムの文献であり、日本でも最近になって翻訳されました。

彼らはリアリズムが抱く安全保障の考え方は現代の世界情勢に適合しない部分があるのではないかと考え、次のように述べています。
「安全保障上の冷戦的な脅威感が緩むにつれて、対外的な経済競争と対内的な配分をめぐる対立が高まっていった。多様で矛盾することがしばしばある関与の形態が、(国家安全保障という)唯一のレトリックの傘の中に雨宿りをしていたので、「国家安全保障」という概念の知的曖昧性は益々顕著になった」(コヘイン、ナイ、8頁)
冷戦期には核兵器の登場などを受けて、軍事力の役割についても認識が変化していました。通貨や貿易を通じて国家間の相互依存が強化されたことも、安全保障に対する従来の視座を見直す契機となっていたのです。

コヘインとナイは「勢力均衡と国家安全保障というイメージが、経済的・静態的相互依存関係という問題を分析するのにうまく適用されることは少ない」とも述べています(同上、9頁)。

リベラリズムにおける軍事力

以上の議論を踏まえると、リベラリズムはリアリズムよりも軍事力の意義を相対化して考える傾向にあることが分かります。

つまり、軍事力の効果は犠牲が大きいうえに不確実であり、また国際政治上の争点は防衛だけでなく貿易や金融などにも拡大しているので、軍事行動にはより慎重にならざるを得なくなっているということです。

こうした状況をもたらしたのは核兵器によるところが大きいと指摘されており、「核兵器の破壊力のために、核保有国への攻撃は危険なものとなった」とナイとコヘインは論じています(同上、37頁)。

それにもかかわらず、コヘインとナイは軍事力が重要性を失ったとか、軍備が不要になったと論じているのだと誤解してはいけません。

そもそも、国際社会で相互依存の関係がさほど強くない状況であれば、彼らはリベラリズムの前提と一致しないことを認めており、また争点の領域が貿易や通貨といった経済の領域から、国民の生命と財産がかかわる軍事の領域に移行すれば、リアリズムは依然として妥当性を持っていると述べているためです(同上、38頁)。

むすびにかえて

結局、リベラリズムはあくまでもリアリズムが想定しない相互依存関係を前提にした国際政治学の理論であって、軍事的争点が前面に出てくる場合にはリアリズムのアプローチを適用する必要があるのです。
「世界政治についてのリアリストの説明の仕方に取って代わる説明の仕方を発展させようとする我々の目的は、(ある種の近代主義者がするように)極端な単純化を別の単純化と置き換えるのではなく、世界政治に関して時限と領域を明確に区別するアプローチを発展させることである」(同上)
この記述からも、リアリズムとリベラリズムは状況により使い分けられるべき理論であるということが分かるでしょう。
国家安全保障政策を考える際に、軍事力の運用を主体に対外政策を考えるべき状況もあれば、経済力の運用を主体にすべき状況もあり、どちらも重要であるということを改めて理解することが重要だと思います。

KT

参考文献

Robert O. Keohane and Joseph S. Nye, Power and Interdependence, 3rd edition, (1977)2011.(邦訳、ロバート・O・コヘイン、ジョセフ・S・ナイ『パワーと相互依存』滝田賢治監訳、ミネルヴァ書房、2012年)

2018年1月24日水曜日

学説紹介 ラッツェルの政治地理学と空間運動(räumliche bewegung)

国家は成立すると同時に領土の占有を行い、そこに住む人々の生活を法令、課税などの方法で統制を加えます。
この地理的範囲は決して固定的なものではなく、時間の経過によって大きくなることもあれば、小さくなることもあります。

政治地理学の研究で国家の空間支配がどのように変化するかを考察することは重要な問題です。今回は地理学者ラッツェル(Friedrich Ratzel)がこの問題についてどのように考えていたのか、その見解に対して研究者からどのような批判が加えられたのかを簡単に紹介してみましょう。

国家とは空間運動を行う有機体である

ロシア(地図上部)と英領インド(地図下部)に挟まれた位置関係にあるアフガニスタンだが、ロシアが南に向かう空間運動を加え、それに対抗するイギリスと両国から圧力を加えられる位置関係にある。
(Ratzel 1897: 111)
ラッツェルは国家を有機体の一種として捉えるべきと主張したことで知られています。つまり、ラッツェルにとって国家は他の有機体と同じように増大し、成長し、移動する存在なのです。

この移動する国家という考え方から空間運動(räumliche bewegung)という概念が導かれているのですが、これは国家が空間的に支配を及ぼしている領土が拡大し、また縮小するプロセス全体のことを指しています。

ラッツェルはこの空間運動が歴史上、広く認められる事象であり、特に対抗となる国家は空間的拡大を志向することには法則性があると主張しました(Ratzel 1897: 154)。

さらにラッツェルは大国が空間運動を起こす際に選択する方向に地理的なパターンがあると考察し、自然障害が国境形成に与える影響にも規則性があるのではないかという議論を展開しています。

例えばラッツェルは河川のことを政治的方向線(politische richtungslinien)と呼んだのですが、これは河川が海上、内陸の両方を結ぶ重要な交通路であり、国家の歴史を振り返っても河川に沿って空間運動をとった事例が多く見られることが理由とされています(Ibid.: 529)。

また、ラッツェルは文献で地理的地平線(der geographische Horizont)という用語を使っているのですが(Ibid.: 159)、これは国家が空間運動で支配する地域の限界のことです。
平原のような地形であれば、地理的地平線は前に向かって推進しやすいのですが、山脈や沿岸に達すると推進力は弱まるため、山地は政治的に境界地帯となりやすい地域だと言えます(Ibid.)。

強い批判を受けたラッツェルの学説

ウィットフォーゲルはナチス・ドイツから米国に移り住んだ歴史学者であり、中国の研究で知られている。彼が提唱した征服王朝という概念は中国史における周辺民族の位置付けを見直すことに寄与した。政治地理学では環境決定論に反対したことでも知られている。
ラッツェルは各国がそれぞれ空間運動を展開し、それらが相互に干渉し合う地域で政治的境界が発生してくると考えました。
このラッツェルの観点から地図を眺めると、無数にある国境がいずれも各国の空間運動がぶつかり合った結果として形成されたものとして分析することができるようになります。

ただ、このラッツェルの見方は行き過ぎた環境決定論ではないかという疑問が出されることになりました。
有機体として国家を位置付け、その空間運動に一貫した法則性を見出そうとしたラッツェルの姿勢は、地理が政治に及ぼす影響をあまりにも直接的に関連付けているのではないかと疑問を持たれたのです。
ドイツ出身の歴史学者のウィットフォーゲル(Karl August Wittfogel)はラッツェルの学説が行き過ぎた決定論と見なして特に強く批判したことで知られています。

こうした批判が出たことで、法則性を強調する環境決定論から距離を置いた環境可能論と呼ばれる立場が登場しました。
これは自然環境が人間社会のあり方を一方的に規定するのではなく、あくまでも可能性を与えているに過ぎないという立場に基づく説であり、フランスの地理学者として有名なブラーシュ(Paul Vidal de la Blache)もこの潮流に属しています。

むすびにかえて

現代の研究ではラッツェルが空間運動の法則を文字通りの「法則」として分析するよりも、彼の思想の一部として分析することの方が一般的になっていると言えるでしょう。

しかし、政治地理学でラッツェルの業績が完全に忘れ去られたわけではありません。
少なくとも、政治地理学の学説史においてラッツェルが残した著作は古典的な地位を占めていると言えるでしょう。
アフガニスタンや朝鮮半島など、歴史の中で何度も戦争が繰り返される地域がある地理的理由を考える上で、ラッツェルの分析には参考になるところが多いと思います。

KT

関連記事
学説紹介 国土に人口を分散配置せよ―マキアヴェリの考察―
領土拡張のための「成長尖端」
国家の「中核地域」をいかに考えるべきか
国土防衛を考えるための軍事地理学

参考文献
Ratzel, F. Politische Geographie, München, R. Oldernbourg, 1897.

2018年1月19日金曜日

学説紹介 航空作戦でも予備は最後まで残しておけ―バトル・オブ・ブリテンの教訓―

航空作戦の研究において予備(reserve)の運用が持つ重要性が軽視される傾向にあるということは、以前から言われています。
敵の航空部隊の攻撃を待ち受ける防勢の場合、予備を確保した上でどこまで攻撃に持ち堪えるべきかは勝敗を分ける重要な問題なのですが、必ずしも十分に議論されていません。

今回は、そんな中でワーデン(John Warden III)が航空作戦における予備の重要性を指摘した議論を紹介し、その意味を考えてみたいと思います。

なぜ航空作戦で予備が重要なのか

ワーデンは航空作戦に関する議論で予備の問題に注目している研究者がごくわずかであることを指摘し、これが誤りであり、より真剣に考察する必要があると主張しています(Warden 1988: 115)。
「クラウゼヴィッツは戦争の霧、戦争の摩擦、そして戦争の不確実性について語っている。完璧な活動を妨げるこれらの要因を除去することは不可能だが、予備は少なくとも2通りの方法でその悪影響を緩和することができる。まず、予備は敵の錯誤や失敗を利用することを可能にする。(中略)他方で、予備は自身の間違いを利用しようとする敵に対して投入することができる」(Ibid.: 116)
いわば、予備は刻々と変化する状況で、絶好のタイミングが訪れた時にはじめて投入する戦力であると同時に、危機的な状況を切り抜けるための戦力でもあり、いずれにおいても戦局を大きく動かす役割があるということです。

この予備の重要性が示された事例として、ワーデンは第二次世界大戦におけるバトル・オブ・ブリテンの事例を取り上げています。

バトル・オブ・ブリテンの概要

1940年8月、第二次世界大戦は重要な局面に差し掛かっていました。
ドイツは5月から6月までの作戦でオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを相次いで支配下に置くだけでなく、フランスも打倒し、西ヨーロッパでドイツと戦い続けるのがイギリスだけになっていたためです。

バトル・オブ・ブリテン(battle of Britain)はこうした国際情勢の中で実施された英本土航空決戦であり、時期区分には諸説ありますが、8月から10月まで継続したとされています。
ドイツ空軍は4週間でイギリス空軍を撃滅する計画を立案し、爆撃機1200機、単発戦闘機700機、双発戦闘機250機、合計2150機を投入しました。全体で見れば、これはイギリス空軍の戦力規模のおおよそ2倍でした(Ibid.: 120)。

しかし、イギリス空軍はその劣勢な戦力の3分の1を予備に回すことにします(Ibid.)。ただでさえ劣勢な状況で、さらに戦力の一部を使用しないことを決めたことは、一見すると戦力集中の原則に反するようですが、当時のイギリス空軍には考えがありました。

8月から9月6日までにイギリス空軍の基地施設や通信施設はドイツ空軍に破壊され、操縦士や機体の損耗も深刻になっていきました。
9月7日からドイツはイギリス戦闘機部隊の撃滅が十分に済んだと判断し、攻撃を都市部に対する爆撃に切り替え始めます(Ibid.: 121)。ここが勝敗の分かれ目となりました。
「しかし、彼らはコインの反対側を無視していた。ドイツ空軍がロンドンに集中することで、戦闘機に対する飛行場への圧力が減少し、より重要なことに、イギリス空軍がドイツ空軍に対してより効率的に戦力を集中することが可能となった」(Ibid.: 121)
イギリス空軍はここで予備を投入しました。9月15日、イギリス空軍はドイツ空軍の大規模な攻撃を察知し、予備とされた6個の飛行隊を全て使用して、ドイツ空軍に甚大な損害を与えることに成功します(Ibid: 121-2)。

むすびにかえて

ヒトラーは9月17日、イギリス本土上陸作戦の無期延期を決めました。
その後もロンドン、コベントリ、リバプール、マンチェスター、プリマス、サウサンプトンなどの都市に対して効果の薄い夜間爆撃は続きますが、やがて独ソ戦に備えるためにドイツ空軍は戦力を東方へと移動させ、イギリスは危機を脱したのです。

数的劣勢なイギリス空軍がドイツ空軍の攻勢に持ち堪えることができたのは、決定的な瞬間まで戦力の一部を残しておくことができたためだとワーデンは主張しています。
空軍で予備という考え方があまり一般的ではないことはワーデンも認めていますが、やはり戦争の霧、摩擦、不確実性の影響を考慮するならば、空軍にとって重要な研究テーマと考えなければならないというのがワーデンの立場です。

ワーデンの議論を踏まえれば、防勢の立場で航空作戦を遂行する場合、航空戦力の一部を予備として温存しておくために、あえて敵の攻撃で被害が出ることを受け入れなければならないこともあると覚悟しておかなければならないでしょう。

KT

関連記事


参考文献

John Warden, The Air Campaign: Planning for Combat, National Defense University Press, 1988.

2018年1月12日金曜日

文献紹介 技術革新は組織文化で決まる―あるイスラエル人の軍事組織論的考察―

技術革新(イノベーション)の重要性を主張した軍事学の文献はすでにたくさんあります。

しかし、敵が戦場で新たなドクトリン、作戦、技術を用いて奇襲してきた場合の対処法については、まだ多くの研究が必要とされています。

今回はこうした問題に取り組んだイスラエル国防軍軍人による研究を取り上げ、その要点を紹介してみたいと思います。

文献情報
Meir Finkel, On Flexibility: Recovery from Technological and Doctrinal Surprise on the Battlefield, Stanford Security Studies, 2011.

軍隊は高い適応性を維持しなければならない

著者がこの著作を通じて打ち出している主張は、軍隊が技術革新を効率的に推進する上で、柔軟性を持たせた組織文化を維持することが重要だ、というものです。

そもそも戦争には不確実な問題が多数存在しており、計画の段階であらゆる問題を予見した上で準備することには限界があります。
事前に準備ができない以上、事後的対応の適切さの方を重視しなければなりません。

この能力が最も試されるのは、戦争で敵が何か新しい技術やドクトリンを使って奇襲してきた場合であり、著者は次のように説明しています。
「不確実性は戦争で最も基本的な要素の一つであり、それはあらゆる戦闘状況に固有のものであるが、しばしば奇襲の形態で現れる。(中略)バートン・ホーエリーの古典的著作『謀略:戦争における欺騙と奇襲(Strategem: Deception and Surprise in War)』では、奇襲の要素あるいは形態が5種類に区分されている。すなわち、意図、時間、場所、戦力、そして形式である。最後の区分が教義(ドクトリン)と技術による奇襲と関係している」(Ibid.: 23-24)
こちらが予測しない時期または場所で敵が出現することも奇襲の一つですが、こちらが予測しない技術やドクトリンで敵が戦い始めることも奇襲の一形態であり、これは警戒を厳重にしていたとしても、対応が困難な奇襲です。

つまり、こうした技術的な奇襲の効果は長く持続する危険があり、こちらの技術革新が遅れると戦闘効率比が不利なまま戦い続ける事態になりかねません。
軍事組織はこうした問題を速やかに特定し、分析し、対策を講じるだけの柔軟性を備えていなければならないのです。

歴史的事例に基づく考察

著者は軍隊の技術革新を考える上でさまざまな歴史的事例に着目しており、その中には第二次世界大戦、中東戦争、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の事例が含まれています。
分析の手法は比較であり、著者は技術や教義による奇襲を受けた際に速やかに対応することに成功した事例として、特に中東戦争におけるイスラエル軍の対応を評価しています。

1973年の第四次中東戦争でイスラエル軍がエジプト軍やシリア軍に対して高い戦闘効率を発揮できた背景には、現場の部隊に戦術上の意思決定の権限を委ねる組織文化があったと論じられています。
当時のイスラエル軍は武器や装備の多様性で不利だったものの、シナイ半島でエジプトの戦車が大挙してイスラエルに押し寄せようとした際には、有効な対戦車戦術を駆使して撃退することができたためです(Ch. 9)。

反対に失敗した事例とされているのがアフガニスタンにおけるソ連軍の作戦です。
当時、ソ連軍はアフガニスタンのゲリラから低強度紛争(low-intensity conflict, LIC)のような限定的かつ小規模な交戦の形態に直面しました。
しかし、この時のソ連軍は指揮統制の階層構造が極めて厳格であったため、現場の部隊に戦術上の判断や対応に支障がありました。結果として問題解決に時間がかかってしまい、多くの犠牲を出すことになりました。
このことは中東戦争におけるイスラエル軍の事例と対照的だと著者は考えています(Ch. 11)。

以上の事例研究から、著者は分権的な組織文化を維持することが、軍隊の適応性にとって重要な要素であると考え、結論部分で次のように述べています。
「柔軟性の費用は『高い』ものだと思われたとしても、技術、教義による奇襲に対応することに失敗した場合の費用は、柔軟性を低い水準に止めれば陸軍にとってより大きなものになるだろう。このことは、近年の紛争の事例で見てきたように、本書の理論の適用を正当化するものである」(Ibid.: 225)

むすびにかえて

ここで著者が主張していることは、ボトムアップ型の技術革新を促進するような組織文化を軍隊の中で維持することが重要だということです。
階層的な指揮系統を持つ軍事組織として、こうした取り組みにはさまざまな限界があることは著者も認めています。

それでも、組織文化として現場の創意工夫を重視することが、結果として戦時に新たな技術、教義による奇襲を受けた際の対応能力を強化するという広い視点から考えるように著者は促しています。

第一線に近い部隊指揮官の権限を強化することが戦闘効率の改善に繋がることは、19世紀にプロイセン陸軍が訓令戦術として取り組んだことがあり、現代でも一つのモデルとして認知されてきました。

本書の議論で新規性と言えるのは、訓令戦術を実践するための組織文化が、技術革新においても有効だと論じたことでしょう。
組織構造と技術革新の効率の関係に関する彼の議論の妥当性はさらに研究される必要がありますが、特定の研究拠点に研究者を集めて推進させる形とは違った技術革新のあり方を示唆していると思います。

KT

関連記事

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか
事例研究 第四次中東戦争におけるアンワル・サダトの政策