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2017年9月23日土曜日

論文紹介 北朝鮮の核開発を中国の目線で考えてみる

北朝鮮が核開発をこれほど長期間にわたって続けてきた動機については、さまざまな議論があります。米国に対する抑止力として核兵器を持とうとしているという議論もその一つです。
しかし、北朝鮮の核政策を理解するためには、軍事的、外交的な観点だけでなく、政治的、経済的観点からも多面的に考察する必要もあります。

今回は、中朝関係を中心に北朝鮮の核政策を考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Thomas Plant and Ben Thode, "China, North Korea and the Spread of Nuclear Weapons," Survival, 55.2 (2013): 61-80.

北朝鮮と中国を結び付ける外交的利害
中朝国境を一部構成する鴨緑江に架橋された中朝友誼橋。ここから軍事境界線に至る北朝鮮の領土は中国にとって在韓米軍をはじめとする米国の脅威を緩和する緩衝地帯にもなっている。
まず著者らは中国にとって朝鮮半島がどれほど大きな戦略的意義を持っているかを考察するところから議論を始めています。

もし北朝鮮の体制崩壊が起これば、中朝国境には多くの難民が押し寄せる危険があるだけでなく、韓国が主導する形で朝鮮半島が統一されれば、在韓米軍の兵力が北朝鮮に進駐し、それが中国に対する脅威になる可能性も考えられます(Plant and Thode 2013: 61-2)。

これは中国の安全保障にとって受け入れがたい事態です。だからこそ、中国はこれまで北朝鮮との貿易、投資を通じて経済連携を強化し、北朝鮮が崩壊することがないようにさまざまな政策を実施してきました。

著者らの言葉を借りると中朝関係は「北朝鮮は存続のために中国を必要とし、中国は北朝鮮が崩壊しないことを必要とする」とも形容できるでしょう(Ibid.: 62)。
こうした中国の思惑で保護を受けることができた北朝鮮ですが、北朝鮮は必ずしも中国の支援だけで体制崩壊を食い止めきたわけでもありませんでした。

というのも、北朝鮮はその国力の制約の中で政権運営に必要な財源を確保するため、さまざまな取り組みを進めてきたためです。核開発もその一つとして位置付けられてきました。

北朝鮮が核開発を行う経済的理由
北朝鮮は冷戦期から核開発に乗り出しており、長期計画で研究開発を推進してきた。1980年代に原子炉の建設と運用を開始し、1990年代に使用済み核燃料の再処理施設の建設に移行し、2000年代にはウラン濃縮の技術の開発に入っていた。この間に北朝鮮は米中露韓日を含めた核問題の協議に参加し、一時的に開発プロセスを停止した時期もあるが、結果として交渉はいずれも失敗に終わっている。
教科書的な勢力均衡理論で考えるならば、中国の支援を得ている北朝鮮は、国防のために必ずしも脅威に対抗できる規模の軍備を必要としません。
なぜなら、対外的な脅威が及んだとしても、中国の軍事的介入を期待することができると考えられるためです。

それにもかかわらず、北朝鮮が自国の防衛力をさらに強化しようとすることについて、著者らは北朝鮮には国防以外にも核開発を行っている可能性があると指摘しており、それは武器輸出による外貨の獲得であるとの仮説を示しています。
「北朝鮮の弾道ミサイル拡散と通常兵器の販売に関する報告によれば、リビアの指導者カダフィ(Muammar Gadhafi)が2003年に秘密裡に進めていた核開発計画を放棄することを決定する前から、数十年にわたって拡大を続けてきたとされている」(Ibid.: 67)
「北朝鮮がリビアに核物質を提供したことが発覚した2004年以降も、北朝鮮はシリアとの核関連技術協力を継続している。この事件に対する懲罰的措置が実施されていないことからも、北朝鮮の神経の図太さがうかがわれる」(Ibid.: 68)
すでに武器輸出国として北朝鮮には一定の販売実績があり、品揃えに関しても高濃縮ウランから反射炉技術など他国では手に入らない分、市場における競争優位があると言えます。(果たして国際社会に取引に応じる顧客が実際にいるかどうかは、また別の問題ですが)

著者らの議論に従うと、北朝鮮にとって核開発を放棄することは、外貨獲得のための手段となる有力商品の製造を放棄するという意味合いがあり、これまでの研究開発に投資してきた経費を回収できなくなります。

北朝鮮の核開発を中国はどう見ているか
朝鮮戦争で中国は北朝鮮と事実上の同盟国として米韓に対し戦った。しかし、著者らは中国と北朝鮮の利害は必ずしも一致しているわけではなく、核開発において中国は北朝鮮の動向について懸念を抱いていると判断している。その一方で、体制変更を含めて朝鮮半島の現状を大幅に変更することには大きなリスクがあるため、これまでも中国としては北朝鮮に対する圧力の強化で慎重な立場をとってきた。
この論文で特に興味深いのは、こうした北朝鮮の核開発の思惑とそれに関連する貿易事業について中国がどのように判断しているのかを考察している箇所です。

そもそも、北朝鮮が核関連技術を諸外国に売却して利益を得ていることは、長期的視点に立ってみると中国にとって決して好ましいことではありません。
この観点から見ると、中国が北朝鮮を経済的に支援するのは、現在保有する核物質や武器を海外に輸出することを防いでいる側面さえあります。
つまり、中国の政策は核拡散の防止という点に限定すると、米国と利害が一致している箇所もあるということです。

しかし、この問題の本質は中国が米国の動きを予測できず、北朝鮮に対する具体的な行動に踏み切ることができない状況にある、と著者らは考えています。

もし北朝鮮の体制変動を含めた緊急事態に対処するとなれば、中国としては利害関係がある米国、韓国と事前に協議しておく必要が生じます。
しかし、中国にとって米国は決して「信用に値する相手ではない」ために、具体的な作戦行動に関する情報を共有できる外交環境ではなく、中国の政策決定者にとって緊急事態の際のリスクを見積もることが非常に難しくなっていると著者らは指摘しています(Ibid.: 72)。
「米国、韓国、中国はいずれも体制崩壊の際には核物質を確保する必要があると考えているものの、中国は米国や韓国とそのようなシナリオ、あるいは緊急事態の計画について協議することを拒否している。この手詰まりの原因としてよく指摘されるのは、同盟国との仲間意識を表す必要があるということ、すでに手の負えない隣国とさらに関係が悪化することを望まないこと、そして中国にとって米国が信頼できないことである」(Ibid.)
結果として、中国にとって現実的な措置は限定的、場当たり的な措置となってしまいます。

その措置には北朝鮮に経済的手段で圧力をかけることも含まれていますが、これは北朝鮮が中国に対する経済的依存を減らすことに繋がり、核物質や核施設の輸出を含めた外貨獲得を促進させ、コントロールしにくくなる側面もあります(Ibid.: 73)。

このようなリスクを総合して考えると、中国としては北朝鮮を経済的に支え続けた方が、米国と一緒に北朝鮮の非核化を推進するよりも、全般の情勢から考えて中国の利益に適うという判断になるでしょう。

むすびにかえて
北朝鮮の問題を考える際には、つい日本、米国の立場に立ってしまいますが、中国の立場から北朝鮮の問題を理解することも、大変重要なことです。
米国がその強大な軍事力で北朝鮮に圧力を加え、非核化を強制すればよいという単純な問題ではなく、北朝鮮の背後にいる中国と朝鮮半島の「望ましい状態」についてどのような合意が形成可能なのかを考えなければならないのです。

著者らはこの論文で中国が米国、韓国と情報交換から始め、危機的状況での対応について協議するための準備を進めることが問題解決にとって必要と述べていますが、米中関係から判断してそのような外交はなかなか現実には難しいことは率直に認めています(Ibid.: 74)。

もし米国が中国の同意も得ずに北朝鮮に対して軍事行動を起こすなら、米中間で軍事的緊張が高まることは必至でしょう。
もし両国が衝突に至った場合に予想される物的、人的犠牲が、北朝鮮の非核化という目的から考えて許容可能な範囲に収まらないのであれば、米国は北朝鮮に対して戦略的に譲歩する可能性は十分に考えられます。

どのような展開になるにしても、この北朝鮮の核開発の問題を過度に単純化することなく、背後関係も含めて分析し、日本の政策が適切なのかどうかを絶えず監視しておくことは重要なことだと思います。

KT

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2017年9月16日土曜日

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。

各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。

しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。

今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。

参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想
ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。
ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。

つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。

例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。

無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。

また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していたのですが、1879年に刊行した戦術学の教範を執筆したことによって、30年近くにわたりロシアの軍事学の権威であり続けていました(同上)。

ドラゴミロフの思想の一部を紹介すると、「たとえば現代の進歩した速射砲を使用し、将校の指揮が優れ、兵士が大砲の操作に熟達していたとしても、彼らが図上で炸裂する砲弾に耐えられずに大砲を放棄してしまったとしたら、彼らの素晴らしい大砲も何の役にも立たなくなってしまう」と述べています(同上、324頁)。

一般論としてはもっともな部分もあるのですが、19世紀における武器の射撃速度、威力、射程といった諸条件を総合して考えれば、18世紀の軍人であるスヴォーロフの軍事思想に妥当性を見出すことには無理があったと言えます。

徹底さを欠いた日露戦争の分析
1905年、旅順攻囲戦でロシア軍の守備隊が日本軍に砲撃を加えている様子。この戦争では新たな技術が戦場の様相をどのように変化させるのかを考察する上で重要な事例と専門家の間で注目を集め、世界各国でさまざまな分析が行われたが、当事者であるロシア軍は旧来の戦術や編制を抜本的に見直すまでには至らなかった。
ピントナーはロシア軍で主流を占める研究集団が、いわゆるロシア的な戦法に傾倒する状況で、日露戦争がどのように分析されていたのかに注目しています。

後知恵ですが、ロシア軍にとって日露戦争は従来の学説の実証的な妥当性を再検討し、研究の停滞を打ち破る絶好の機会を提供していたと言えます。

日露戦争で判明した近代的な火力の意義、そして塹壕戦の難しさを知ったことによって、過去の偉人の軍事思想を現代の戦争に適用するだけでは限界であることに多くの軍人は気がついていたはずです。

しかしながら、日露戦争の後になっても参謀大学校で主流派を占める人々の見解がほとんど変化しなかったのです。このことについてピントナーは次のように述べています。
「日露戦争の結果、近代的火力の重要性と塹壕攻撃の困難性が明らかになったにもかかわらず、ロシア軍の伝統的思考は疑われなかった。たしかに日本軍の熱狂的な精神力は、ドラゴミロフが主張していた、軍隊では士気が最も重要であるという考え方を補強することになった」(同上、325頁)
軍隊の頭脳であるべき参謀大学校が、説明がつかない事実に目をつむり、従来通りの理論を守ろうとしたことは、調査研究という本来の機能が健全に果たされていなかったことを示唆しています。

無論、こうした主流派の独断的な姿勢に対して当時のロシア軍の士官全員が納得していたわけではありませんでした。

ピントナーが調査したところによると、軍事史学部長のポストを廃止する議論が参謀大学校で問題となっており、その過程で抜本的な改革を進める試みも見られたのですが、最終的には失敗に終わりました(同上)。

火力戦闘を主張したネズナモフへの反発
サンクトペテルブルクにある参謀大学校旧校舎の正面外観。1832年に陸軍士官学校として発足し、1855年には参謀大学校へと発展したことで、高級士官のための教育や高度な軍事学の研究も組織的に行われるようになったが、ロシア革命の影響で1918年に閉校となった。
こうしたロシア軍の状況に立ち向かった研究者にネズナモフ(A. A. Neznamov)という軍人がおり、ピントナーは彼が参謀大学校の教官という立場にありながら、ロシアの軍事的な後進性に関する批判的見解を発表したことで注目しています(同上)。

ネズナモフは日露戦争でロシアが軍事的に失敗した根本的な理由は、単に後方連絡線が貧弱だったためではなく、満州の慣れない気候や地形で作戦を遂行できず、無能な将官が指揮をとり、政府の政策決定にも一貫性がなかったためだと考えていました(同上)。

しかも、ネズナモフは当時のロシア軍で絶対的だと見なされていたスヴォーロフの説にも挑戦し、「火力が戦闘を決する」と主張し始めます(同上、326頁)。これは当時の参謀大学校の主流派には受け入れがたい議論でした。

ただ、ピントナーはネズナモフの議論の全てが妥当だったとは述べていません。
ネズナモフは戦争目標は決戦で敵軍を撃滅することだとする古典的な戦略思想が将来的に役に立たなくなる可能性を予見していましたが、塹壕戦が膠着状況をもたらす危険についてはそれほど認識していなかったと指摘しています(同上)。
それでも、当時のロシア軍にとってネズナモフの定説に対する批判は白兵主義から火力戦闘に脱却する機会を与えていたと言えます。

ところが、ネズナモフはスヴォーロフをはじめとするロシアの過去の軍事思想家を軽視していると見なされ、周囲から強い反発を受けることになりました。

そのため、ネズナモフは自分がピョートルやスヴォーロフのような偉人の軍事思想の価値を一概に軽視しているわけではなく、戦闘の手段が変化していることを指摘しているだけだということを自己弁護する必要に迫られました。当時のネズナモフの次のような考察を残しています。
「ピョートル大帝は天才であり、外国のものを採用するに当たって有益なものと有害なものの差をはっきりと認識していた。彼は最愛の息子よりもロシアを愛していた。彼は「模倣」ということについて次のように説明している。「われわれが彼らに背を向けるまで、ヨーロッパは数十年間にわたって必要である」、また「われわれはヨーロッパに追いつき追い越すであろう」ということも夢見ていた。軍事的分野に限られていたとはいえ、ロシアはヨーロッパに追いついたともいえる。しかしその後歴史は繰り返し、ヨーロッパは再びわれわれを追い抜いた。そして再びわれわれは同じことを繰り返すであろう。現存するものの中から最高のものを採用して国内で改良し、その後で彼らに背を向けるのである」(同上)
この考察を読めば、当時の参謀大学校でネズナモフが自分の研究に理解を示してもらうために、妥協を重ねていたことがうかがい知れます。

それは学問的根拠というより学内政治の考慮に基づく妥協であり、ネズナモフとしては自分の主張を受け入れてもらう必要がありました。

むすびにかえて
1911年にネズナモフは自らの研究成果を『現代戦争』という著作にまとめて出版しますが、ピントナーの見解では、この著作が第一次世界大戦の前にロシア軍で影響を及ぼすことはありませんでした。
結局、ネズナモフの主張は当時の参謀大学校で受け入れず、実務でも活用されなかったということです。

ネズナモフは将来の戦争を見越して参謀大学校の思想を火力戦闘に移行させるべきだと考えていた点で、先見性がありましたが、そうした改革は実行に移されることがなく、そのままロシアは第一次世界大戦に突入していきました。
驚くべきことではありますが、日露戦争から第一次世界大戦にかけてロシア軍の運用や編制が大きく変わらなかったことは、こうした経緯があったためだと考えられます。

この事例から学べることは、研究組織が存在していたとしても、それが常に研究を促進するとは限らないということでしょう。
特に研究組織の管理運営に関する権原が特定の学派によって独占される状況が続くと、後進の研究者は新しい立場で議論することや、それを批判することに極度に慎重にならざるを得なくなり、結果として健全な研究努力が妨げられることにもなります。

最近は日本でも大学改革が叫ばれていますが、こうした事例も検討した上で、どのような管理体制であれば健全な研究環境を次世代に継承できるのか、よくよく考えなければならないと思います。

KT

参考文献
ウォルター・ピントナー「ロシアの軍事思想 西欧モデルとスヴォーロフの影」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、315-330頁

2017年9月15日金曜日

論文紹介 冷戦初期の米国の東アジア戦略と日本の防衛力

第二次世界大戦に敗れた日本は、東西冷戦の時代に入ると米国が指導する西側陣営の一員となり、また米軍の極東戦略の中に位置付けられるようになっていきました。

しかし1945年で軍備を全面的に失った日本にどのような軍備を持たせるべきか、米軍との役割分担をどのようにすべきかという点については、米国の内部でもさまざまな議論があり、それによってその後の日本の再軍備のあり方が大きく規定されることになったと言えます。

今回は、冷戦初期において米国が自らの戦略に日本の防衛力をどのように位置付けていたのかを歴史的に検討した研究を紹介したいと思います。

文献情報
石田京吾「戦後日本の海上防衛力整備(1948 ~ 52 年)―海上防衛における日米の役割分担の起源―」『戦史研究年報』第 9 号(2006 年 3月)97-110頁

西側の陣営に組み入れる対日政策の転換
月刊沖縄社「東京占領」GHQが置かれた第一生命館
占領統治が始まった直後、GHQは敵国だった日本を完全に武装解除し、軍事的に無力化することを重要な目標としていました。

しかし、米国とソ連との間で東西冷戦が本格化すると、米国で日本の利用価値を再評価する動きが出てきます。

つまり、軍事的に無力化するよりも、共産主義陣営の脅威に対抗する上で日本の経済的、軍事的能力を利用した方が米国の国益に適うと考えるようになっていったのです。
「1947年5月、国務相にPPS(Policy Planning Staff: 政策企画室)が新設され、その室長としてケナン(George F. Kennan)が就任し、冷戦政策の企画立案を担当した。(中略)ケナンは欧州や日本が経済的困難に起因する国内政治の不安定化により共産化していくことを危惧し、自由主義世界の政治的、経済的安定を重視した。そして日本を「封じ込め政策」の成否を決める重要な地域の一つと見なしていた」(石田 99-100頁)
さらに同時期に行われたCIAの情勢判断においても「極東におけるアメリカの現在の地位を保つためには、地域の重要なエリア、特に日本に対するソ連の覇権を拒否することが必要である」と著者は紹介しています(同上、100頁)。

こうして日本は米国の対ソ戦略の新たな要素として位置付けられるようになりました。

とはいっても、この時点での米国の懸念は極東ソ連軍による対日攻撃ではなく、日本国内で政治工作に従事する親ソ派の日本人の動きにありました。GHQはまずは現地で治安維持に当たる警察力を整えることを優先し、海上戦力に関しては沿岸警備能力程度に限定する方針を決定します(同上、101頁)。

このことは、米国が対ソ戦略における日本の重要性を認識した後でさえ、すぐには防衛力の本格的な整備に着手しようとしなかったことを表しています。しかし、このGHQの姿勢も1950年になると変わっていきました。

朝鮮戦争で促された日本の再軍備
朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮軍を圧迫して釜山に迫ったが、米軍の来援で退却を余儀なくされた。しかし、その後も中国軍の介入があり、朝鮮戦争は長期化の様相を呈することになる。
U.S. Navy. Seoul Battle, Korean War
1950年に勃発した朝鮮戦争で、最も大きな影響を受けたのは日本に駐留していた在日米軍部隊でした。

それまで日本の占領に当たっていた部隊が朝鮮半島に逐次投入されると、GHQは日本国内の治安維持に当たることが難しくなり、日本政府に警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を命令します(同上、102-3頁)。韓国に米軍が到着した後も朝鮮戦争の戦局は一進一退が続き、東アジアの戦略環境は急激に不安定化していました。

1951年5月17日、米国は軍事的手段による封じ込めを東アジアにも適用する方針を決定することを正式に決定し、「日本に関して、国内治安と外部からの侵略に対する防衛能力を維持し、極東の安全及び安定に貢献できる能力を持つ、アメリカに友好的な自立した国家になることを支援する」という方針の下で日本の再軍備を促すことになりました(同上、105頁)。

再軍備を進めるためには憲法の問題があることは米国もよく承知していたのですが、それについては「日本の防衛のために軍事力の保有を認めるように憲法は改正されるであろう」と予測していました(同上、106頁)。
しかし、その後も長らく日本で憲法問題が議論されることになりました。

いずれにせよ、東アジア情勢が急速に展開していく中で、米国は対日政策の再検討を進め、やがて外敵の侵略に対して日本も米国と共同で対処させるという方針が現れてきます。

1951年末に統合戦略計画委員会が示した文書を踏まえて、著者は次のように論じています。
「JCS1380/127では、事態の対処について、それまでの海空兵力についてはアメリカと他の同盟国が提供するので、日本は海空兵力を考慮する必要はないという考え方に代わって、日本とアメリカが「共同および協力」して外部からの侵略に対処するという新たな考え方が提示されたのである。つまり、アメリカの政策文書に初めて日本の防衛力の任務が明示されたのであり、日米共同による外部侵略への対処、言い換えれば外部からの侵略に対処する際の、日米の「役割分担」の考え方が提示されたのである」(同上、107頁)
これは日米関係の歴史において画期的なことでした。
それまで日本に認められていたのは、治安維持に当たる警察力の延長に過ぎなかったのですが、この米国の役割分担の考え方は対外戦争への対処を想定するものに変化していたためです。

さらに統合戦略計画委員会は日本の軍備については「適正な海上・航空兵力と併せた陸上兵力19個師団」という整備目標が妥当だとも示しており、日本の防衛力の規模についても具体的な議論が始まることになります(同上、108頁)。

日本に攻撃能力を持たせない米国の思惑
ジョージ・ケナン、外交官としてソ連に対する封じ込めを主張し、冷戦期における米国の対外政策の指針に大きな影響を及ぼしたことで知られている。
しかし、日本海軍を復活させる恐れを米国の政策決定者は決して忘れてはいませんでした。日本の再軍備を促進するとしても、日本が米国に敵対できないような措置を講じておくことが必要だと考えられていたのです。

この点について著者は当時の国務長官代理と駐日大使とのやりとりを紹介しているのですが、そこでは新たな日本の海上防衛力は「対潜海軍が望ましい」と述べられており(同上)、その理由として「対潜戦を任務とするような、明らかに防衛的な艦艇は日本の潜在的な侵略能力の再現について日本国外の危惧を掻き立てることはありそうもないであろう」と説明されています(同上頁)

つまり、日本の海上戦力から攻撃機能を事前に除外しておけば、米国としては日本を無力化できるし、同時に米国の東アジア戦略のために日本を利用することもできると考えられていたのです。

むすびにかえて
著者がこの論文で明らかにしているように、日米関係の歴史は米国の占領行政の延長線上に発展し、日本の防衛力の規模や内容は米国の戦略によって強く規定されていました。

少なくとも朝鮮戦争前後の日本の防衛体制のあり方は、当時の米国の対日政策によって非常に大きな影響を受けていたということが言えるでしょう。

また第二次世界大戦の経験がまだ昨日のことのように思い出される時期において、米国政府がこうした対日政策をとったことは十分理解できることですし、ソ連を封じ込めるという米国の対外政策としても妥当性があったと思われます。

無論、日本も米国の援助を利用できたことには、少なからず利益がありました。
米国が自国の国益を追求するため日本を利用し、また日本も米国の支持を利用して防衛力を再構築していったのです。

KT

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資料
冒頭写真:毎日新聞社「昭和史第14巻 講和・独立」保安隊創立記念式典

2017年9月10日日曜日

学説紹介 日本の地政学はこれでいいのか

最近、書店で地政学のタイトルがついた書籍が増えており、議論が盛り上がること自体は喜ばしいのですが、問題もあるようです。

というのも、その大部分は地政学というタイトルにふさわしい内容とは言えなかったり、地理的知識に裏付けられていないものが少なくないのです。

個別のタイトルは挙げませんが、参考文献や脚注が一切ない文献や、地図や統計がほとんど含まれない文献もあります。

入門書や解説書であれば、それでも問題ない場合もありますが、一部では個人の政見が吐露されているだけの書籍であっても、地政学というタイトルで販売されている有様です。

今回は、この問題を考える上で参考となる考察として、河野収の考察を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

海洋国家系と大陸国家系で分かれる地政学
ルドルフ・チェレーン、「地政学」という研究領域を政治学、国家論で位置付けた最初の研究者
なぜチェレーンは地政学を生み出したのかを参照
河野収は戦前生まれの陸軍軍人でした。1919年(大正8年)に生まれ、陸軍士官学校を卒業しています。戦後は専門の中国軍事史を研究し、特に孫子の戦略思想に関する研究業績を残しています。

防衛大学校の教授として国防地理学(軍事地理学)の教育も担当しており、そこで地政学の研究にも取り組んでいました。今回取り上げる考察もその成果の一部と推察されます。

河野はその著作『地政学入門』において、地政学の歴史を理解するには、まず英米で発達した海洋国家系とドイツで発達した大陸国家系に大別することが便利であり、マハン、マッキンダー、スパイクマンの説を前者に、ラッツェル、チェレーン、ハウスホーファーの説を後者に位置付けることができる、と述べています(河野、19-20頁)。

「海洋国家系地政学は、比較的に客観的、保守的、共存認容的であり、大陸国家系地政学は、比較的に主観的、革新的、統合志向的である」というのが河野の両学派に対する大まかな評価であり、これは研究が行われた政治的環境、特に脅威認識が海洋国家と大陸国家で異なるためではないかとされています(同上)。

こうした二つの学派として発展していた地政学ですが、第二次世界大戦の影響によってその研究動向は全世界的に低迷するようになりました。

大陸国家系地政学の衰退と日本での影響
第二次世界大戦においてドイツをはじめとする枢軸国の陣営が敗北すると、大陸国家系の地政学は侵略を正当化したなどの理由で政治的非難の対象となりました(同上、75頁)。

反対に海洋国家系の地政学は賞賛されることになりますが、論敵を失ったためか研究そのものは低調となったと河野は指摘しています(同上)。

こうした状況は日本でも影響を与え、それが戦後の日本で地政学の研究がなされなくなった要因としていますが、河野は戦前の日本の地政学の内容に問題があったことも関係していたと考えています。

もともと日本には大陸国家系地政学が導入される前から地理学、政治地理学、軍事地理学の研究について学問的蓄積があり、実証的、科学的な根拠が尊重されていました。

例えば、明治時代には山崎直方、小川琢治、志賀重昂などの努力によって近代的な地理学の知識や方法がもたらされていたことが紹介されています(同上、81頁)。

ドイツの大陸国家系の地政学が研究されるようになったのは昭和時代に入ってからのことでした。

学術研究の本旨を外れていた日本の地政学
河野はこの事象を示す一例として、戦前に出された岩田孝三の『国防地政学』を取り上げています。

この著作も地政学というタイトルがついた文献ですが、その序文では「地政学が国家の動向と最も深い関連をもつ研究である限り、これも亦、日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献するものでなければならない」と述べられていました(同上、82頁)。
「これを見ると、当時の日本の地政学ないし国防地理学は、科学的な法則性追求の態度からはずれ、きわめて直接に「日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献」するというように、国策に直結する方向に進み、これを拡大して「世界的普遍への理念」とすべきだ、としている」(河野、82頁)
このような一部の地政学の研究者の非学問的な態度が、戦後に反動をもたらし、軍国主義、侵略主義の理論的支柱と非難される事態を招いた側面があるのではないかというのが著者の見解です(同上、83頁)。

地政学の議論が日本の政策決定に影響を与えたという説もありますが、それを厳密に立証することは難しく、地政学の研究が日本の侵略戦争を促進したなどと断定することは適当でないとも著者は考察しています。

そうすると、日本で地政学の研究が長らく途絶えることになった要因は、大陸国家系地政学の導入や、戦争での敗北といった背景的要因だけでなく、本来の学問としての態度が地政学から失われたことの方が本質的ではないかとも考えられるのです。

むすびにかえて
また地政学は外交、貿易、国防などの問題は国家の存続にかかわる重大な政策選択において貢献できると河野は考えていました。ただし、それはあくまでも客観的、実証的な学問としての地政学でなければならず、その本質を見失ってはいけないということです。

抽象論や観念論によって議論が空転すること、試行錯誤の繰り返しで貴重な資源を浪費すること、その場しのぎの対策によって大局を見失うこと、これらは決してあってはならないことであり、これらを避けるためには日本で新しい地政学を研究すべきだ、と論じられています(同上、83頁)。

1980年代の考察ではありますが、その主張の意義は2010年代においても色あせていないと私は考えます。

今の日本での地政学の議論には、もっと学問的な態度が必要であり、河野が指摘したような戦前の過ちを繰り返さないように適切な注意を払うべきでしょう。

KT

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文献情報
河野収『地政学入門』原書房、1981年

2017年9月7日木曜日

論文紹介 第5世代戦闘機F-35には、より強力な情報支援が必要

最近、米空軍で運用が始まったF-35ですが、この航空機については軍人、設計者、研究者の間で賛否両論あります。

今回は、こうした議論に関連して、米空軍の情報支援の態勢を組織的に改善すべきだと主張した研究を取り上げ、その要点を紹介します。

論文情報
Stephanie Anne Fraioli, "Intelligence Support for the F-35A Lightning II," Air & Space Power Journal, Vol. 30, No. 2(Summer 2016), pp. 106-9.

F-16とF-35はここが違う
この論文では著者はF-35が以前から運用されていたF-16と多くの点で機能が強化されていることを一般的に説明するところから議論を始まっています。

著者の説明によれば、F-35に応用されている「第五世代の技術は、〔敵の勢力によって〕拒否される空域を突破するために設計された」と説明されており、敵国領空を突破する能力が最大の特徴とされています(Fraioli 2016: 106)。

この機能は高度なステルス技術を応用することで可能になった説明されているのですが(Ibid.)、これは第五世代の戦闘機の機能の一部に過ぎないと著者は指摘し、F-35には高度な情報処理能力が付与されており、その違いは第四世代の戦闘機と明らかだとして次のように説明しています。
「F-16からF-35に至る進化は、固定電話からスマートフォンへの発展と結びつけることが可能であり、それは生活のあらゆる側面を自動化し、ソーシャル・メディアと電子メールの状況認識を絶えず保ち、銀行口座情報にいつでもアクセスすることを可能にする。第5世代航空機の作戦は時代遅れの機能を使用する必要がない。なぜなら、航空機が自動的に統合した情報資料を提供するためである。これは専門家の間でセンサー融合(sensor fusion)と呼ばれており、電磁気と赤外線スペクトルの領域で生み出された技術である」(Ibid.: 106-7)
つまり、第四世代の戦闘機だと操縦士はさまざまなセンサーを自分自身で操作する必要があったのですが、第五世代の戦闘機、つまりF-35の操縦士はそのような作業から完全に解放される、ということです。

この性能はF-35の高い戦闘効率に寄与するものであり、著者は高くこれを評価していますが、現時点でその能力を最大限に引き出す態勢が米空軍にはないとされています。これが著者によって提起されている課題なのです。

F-35を活用し切れない情報支援の現状
著者は基本的にF-35には大きな潜在力があると強調していますが、運用体制を整えることが大前提であり、特に米空軍においてF-35の機能をより発揮できるような情報支援の在り方を検討すべきと論じています。
「空軍の指揮官は、新たなプラットフォームを構築することと、戦闘情報を収集、分析、そしてそれを作戦指揮官に伝達する十分な能力を確保することが、直接的関係にあるということを理解しなければならない。(中略)情報戦においては、速度と精度が勝者を決定するのである」(Ibid.: 107)
要約すると、著者は今の米空軍の体制はF-35の優れた情報処理機能を活用できず、しかも今後も長期にわたって解決されないままになる危険性があるため、米空軍全体としてより真剣に問題に取り組むよう求めているのです(Ibid.)。

それほど著者が深刻に考えている理由はいくつかあります。
その一つとして第五世代戦闘機にインストールされているプログラムで使用されているデータ形式が、それ以外の装備にインストールされているプログラムのデータ形式と互換性がないということが挙げられます(Ibid.: 108)。

旧世代の戦闘機とやり取りするデータ形式に互換性がないことが、なぜそれほど深刻なのかというと、F-35に実装されているプログラムには空中戦における機動を制御する機能が含まれていることが関係しています。

つまり、F-35が戦闘空間で他の味方の航空機の位置を自動的に取得し続け、その情報に基づいて敵機に対して有利な距離や位置関係を瞬時に解析し、それに基づいて他のF-35との高度な戦術的な連携を実現することが目指されているのですが、味方に1機でも旧世代の戦闘機が含まれているとこの機能は使うことができなくなるということです(Ibid.)。

近接航空支援(close air support)でも問題があります。F-35ではリアルタイムで地上の映像を操縦士が受け取り、それに基づいて目標を攻撃することが可能になっているのですが、そもそも地上からそのような映像をリアルタイムで送信する能力が今の米空軍にはなく、機能を活かすことができないと指摘されています(Ibid.)。

戦闘機の性能だけが優秀でも軍事的に無意味

そもそも航空戦力の価値は航空機の性能だけで決まるものではないということはよく知られています。その航空機を支援する体制が空軍全体でどれだけ整っているかが重要であり、著者はF-35に関してはもっと米空軍に情報支援を構築する予算が必要だと主張しています(Ibid.: 108)。

さらに著者はこうした問題に取り組む上で、特に信号通信を重視することを提案しており、F-35の訓練でもこの方面に注力することを提案しています。
「情報の専門家は常に第5世代を支援する1N0(intelligence application)に注目しているが、しばしば次に示す空軍のコードは見落としている。すなわち、1N1A(地理情報分析geospatial intelligence analysis)、1N1B(目標選定targeting)、1N2A(信号分析signals analysis)である。恐らく画像情報と信号情報は1N0の支援と同じか、それ以上に重要である。これらの機体から発せられる特定の情報資料は可能な限り素早く解析され、かつ提示されなければならない。これらの領域はいずれもF-35の開発に役立つものであるし、これら専門コードの初歩的訓練は正式な訓練に組み込まれるべきである」(Ibid.: 109)
F-35の問題に関する議論はこれまでもありましたし、今後も続くでしょうが、この研究は情報支援の観点からそうした議論に一石を投じたものだと言えるでしょう。

むすびにかえて
著者は米空軍の現役士官としてF-35の情報支援に関する任務に取り組んできた経歴を持っており、この論文で示された考察も実務の経験に基づくものと推察されます。

こうした主張が今後の米空軍でどのように受け止められるのか、情報支援の体制強化がどこまで進むのかなどの点は、米国の国防政策、そして米空軍のF-35部隊の戦闘力を評価する上で注目すべき点だと思います。

航空自衛隊においてもF-35の導入が進んでいることを考慮すれば、こうした論点があることは国民としても知っておくべきだと思いますし、我が国の航空戦力をどのように整備すべきかを考察する参考にもなると思います。

KT

2017年9月1日金曜日

事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。

これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。

しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。

今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。

JCEOの構想とその特徴
まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。
米軍の定義では次のように定められています。
「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2)
こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。

例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。

したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。

注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。

しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。

第一次世界大戦の事例を参考に
1918年4月23日に実施されたZ-O作戦の要図、イギリスが海上から強襲を実施し、ドイツ海軍の基地機能を喪失させようとしていることが伺える
米軍がこうした突入作戦の研究で参照している歴史上の事例に1918年4月23日に実施された第一次世界大戦のイギリスの特殊作戦があります。

当時、イギリスは大胆にもドイツの海軍基地を強襲することによって、海上交通路の安全を確保しようとしていたのです。
「Z-O作戦は、イギリスの海軍、海兵隊、空軍によって実施された直接行動による襲撃であり、第一次世界大戦の最中1918年の春にベルギーのZeebruggeとOstendの敵港湾施設を利用不可能にすることを意図していた。そのために、海兵隊は地上攻撃を、狭隘な箇所で「ブロック船舶(block ships)」を計画的に沈没させ、ドイツの潜水艦や哨戒艇がイギリス海峡に接近することや、イギリスの外洋航路を脅かすことができなくなるように、爆発物を積載した潜水艦を重要な埠頭の下で爆発させた」(Ibid.: 3)
この事例の詳細についてはPrince(2012)やPitt(2003)の中でも説明されていますが、戦果は限定的なものにとどまっており、作戦として完全な成功からとはいえないものでした。

そのことは米軍においても承知の上ですが、それでもこうした作戦が戦力投射能力において必要であると考えられています。

この事例以外にも第二次世界大戦でのノルウェーで実施された特殊作戦の事例、1989年に実施されたパナマ侵攻の事例、1993年のソマリアでの人道支援なども取り上げた上で、突入作戦という作戦構想について具体的な検討を行っています(Joint Chiefs Of Staff 2014: 3-5)。

こうした前例を踏まえて研究を行うことにより、JCEOの内容をさらに今後発展させる狙いがあるものと推察することができます。

JCEOの軍事的リスク
敵国が支配する海岸、それも最も警備が厳重な海軍基地に対して襲撃を行うことのリスクは容易に想像がつきます。

もし序盤に完全な奇襲が成功したとしても、敵が混乱から立ち直って戦闘が本格化してしまうと、もはや現地の部隊を外洋に離脱させることが不可能になる危険もあります。

したがって、極めて小規模な特殊作戦部隊による強襲で限定的な戦果を狙うか、または大規模な着上陸侵攻によって一挙に橋頭保を確保するか、いずれかの方法でなければ作戦として成り立たない可能性があります。

米軍としてもJCEOにリスクがあることを率直に認めており、そのリスクを列挙しています。

リスクには、例えば作戦の前提となる敵の領域拒否の手段を無力化することには技術的な問題も含まれており、突入作戦の構想そのものが非現実的になる可能性があるとも指摘されています(Ibid.: 34)。

また、地上部隊を敵の領土に着上陸させる前に、敵の部隊を十分に制圧しておくことが必要であり、この制圧のために重要となるのが敵の部隊や装備がどこにあるのかを探知する情報能力も重要です(Ibid.)。

むすびにかえて
しかし、こうした困難が山積しているからといって、米軍として突入作戦の構想それ自体を放棄するわけにもいきません。成功させるための方法は今後も検討されると思われます。

なぜなら、世界の覇権を米国が握り続ける上で、米軍の勢力投射能力を高い水準に維持することが戦略的に極めて重要なことだからです。

第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、朝鮮戦争の仁川上陸作戦など、米国がその対外政策を遂行する上で海上からの着上陸侵攻能力は決定的な役割を果たしてきました。

もし米軍が海上を支配する能力しか持たず、海上から陸上に軍隊を送り込む能力がないと認識されれば、世界で米国の軍事的プレゼンスは大きく後退するでしょう。

KT

参考文献
Joint Chiefs Of Staff, Joint Concept for Entry Operations (Washington:
U.S. Government Printing Office, 2014).(http://dtic.mil/doctrine/concepts/joint_concepts/jceo.pdf)
Stephen Prince. 2012. The Blocking of Zeebrugge, Operation Z-O, Osprey Publishing.
Barrie Pitt. 2003. Zeebrugge: Eleven VCs Before Breakfast,  Cassell Military Paperbacks.

2017年8月24日木曜日

論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

第二次世界大戦はさまざまな国家が敵味方に分かれ、それぞれが共通の目的を持って連合作戦を遂行しました。

連合国が枢軸国の陣営に対して最終的に勝利を収めることができたのも、この連合作戦の成功によるところが小さくなかったのですが、外交的、軍事的に見れば連合国の側の連合作戦にもさまざまな問題がありました。

今回は第二次世界大戦における連合国の連合作戦の問題について考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
モーリス・マトロフ「ヨーロッパにおける連合国戦略、1939-1945年」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、585-607頁

連合作戦の調整とそれぞれの政治的思惑
著者は第二次世界大戦でドイツやイタリア、日本を打倒するに至るまでの経緯を研究する場合、アメリカ、イギリス、ソ連という3カ国が、それぞれ別の思惑を持っていたことを明らかにすることが重要だと述べています(マトロフ、587頁)。
「大同盟を構成する各国は、それぞれの目的のために戦争を戦った。各国には、それぞれの戦略をつくり出す独自の政軍システムがあった。各国は、同盟の一因としての立場と、戦況の変化とによって妥協をはからねばならなかった。三つの同盟国は伝統も、利益、政策、地理、資源も異なっているため、ヨーロッパの戦争を違ったメガネで見ていた」(同上、586-7頁)
例えば、イギリスの戦略ではインドに通じる地中海の海上交通路を保護し、日本の脅威が高まる極東との連絡線を維持することが必要でした。

そのため、ヨーロッパ大陸に乗り込んでドイツから正面から戦うよりも、ドイツの占領地で反乱や破壊工作を支援し、消耗を強いることを望んでいました(同上、587頁)。

しかし、アメリカではイギリスとは異なり、ヨーロッパにおけるドイツよりもアジア太平洋における日本を深刻な脅威と見なされていました。

著者が述べているように「多くのアメリカ人にとっては、ドイツよりむしろ日本の方が本来の敵のように見えた」のです(同上、588頁)。

さらにソ連に目を移すと、英米と異なり日本とは戦争状態になく、必然的にドイツに対する作戦に専念していました。

それゆえ、ソ連軍は兵力を一正面に集中しやすい環境にあったのですが、「資本主義国による包囲をいまだにおそれ、敵にも味方にも同じように不信感を有するソ連は、第二次大戦を通じて、ぎこちない同盟国のまま」でした(同上、589頁)。

つまり、イギリス、アメリカ、ソ連は連合作戦について合意できる事柄はほんの一部に過ぎなかったのです。

戦争の最中に発展した連合国の対独戦略
著者はアメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦略構想を発展させる過程を1941年から1942年までの形成期、1943年の中間期、そして1944年末から1945年までの末期に区分して議論しています。

連合国としての戦略が議題となったのは1941年の初めにワシントンで開催された会議のときでした。

この会議でアメリカとイギリスはドイツの打倒をひとまず優先するという原則を確立し、日本軍に対しては連合国として防勢に徹することが決まります(同上、590-1頁)。

ただし、原則が確立された後も各作戦地域ごとの兵力の配分を決める段階で、さまざまな対立が生じました。

例えばアメリカ軍は対日戦のために太平洋に兵力をある程度残しておこうとしますが、イギリス軍は速やかにヨーロッパに兵力を移動させるよう反発したことはその一例です(同上、591頁)。

その後、アメリカとイギリスは北アフリカ方面に主力を派遣し、ヨーロッパ大陸の南側「柔らかな下腹」部分を攻撃の重点としますが、まだこの段階でソ連軍との連携は十分に図られていませんでした(同上)。

1943年に入るとソ連もスターリングラードの戦闘で勝利を収め、ドイツ軍に対して主動的地位に立つことができるようになっていました。

戦争全般におけるソ連軍の軍事的貢献が重要になると、ソ連が連合国の戦略策定に影響を及ぼす度合いも大きくなり、テヘラン会議ではソ連が強硬に北フランス侵攻を主張するようになります(同上、596頁)。

これは地中海で引き続き作戦を継続しようとしていたイギリスの立場と対立するものでした。
「チャーチルは、オーヴァーロードの延期という犠牲を払ってでも、イタリア、エーゲ海、東地中海で作戦を行うことを雄弁に訴えた。(中略)スターリンはオーヴァーロード作戦を強力に支持し、今後の地中海での作戦はオーヴァーロードを直接支援する作戦、すなわち南フランス進攻だけに限定すべきであると主張した。そのかわりソ連は、それらの作戦とともに東部戦線で全面的攻勢を開始することを約した」(同上、596頁)
ソ連軍はアメリカ軍、イギリス軍の兵力を使ってドイツ軍を東西から挟撃することが可能となり、これがオーヴァーロード作戦に繋がっていくことになり、第二次世界大戦の動向は終末期に向けて動き出すことになります。

次の時代を見据えた各国の戦略
1945年における連合国の対独作戦はおおむね順調に進んでいましたが、各国の思惑の違いが再び表面化しつつありました。

1944年までに確立されていた戦略に基づいてアメリカ軍とイギリス軍は着実に西ヨーロッパからドイツに向けて進撃を続けていたのですが、ソ連軍はポーランドからバルカン半島に向けて前進しています。

これは特に地中海に権益を持つイギリスにとって見過ごせない動きだったと著者は指摘しています。
「しかし、ポーランドとバルカンへの急速なソ連の進撃を注意深く見ていたチャーチルにとって、戦争はこれまで以上に大きな政治的利害をめぐる争いとなり、彼はドイツ軍の後退によって生じた真空地帯をうめるために西側連合軍を転用し、それによってソ連軍の殺到を阻止することを望んだ。戦略が戦場で展開されるにつれて、戦争にタイル二つのアプローチは、つまるところ、軍事的戦術か、政治的工作かという問題になった」(同上、599頁)
しかし、ローズヴェルトはこの重要な局面においてイギリスと同調してソ連に対するバランシングには動かず、あくまでもドイツと決着をつけるという姿勢を崩そうとはしませんでした(同上)。

これはローズヴェルトは対日戦に取り組むために、対独戦を早期に解決する必要があったためだったと著者は考察しています(同上)。

さらに、ローズヴェルトは熱心な国際連盟論者でもあり、勢力均衡に基づく国際政治の考え方を拒否したことも影響した、とも考えられています(同上、600頁)。

イギリスとしては地中海にソ連の脅威が及ぶことを防ごうと、アメリカに対して警告を発し続けますが、対独戦が予定よりも長引くにつれて、連合作戦の戦略策定におけるイギリスの影響力はさらに低下していきました(同上)。

むすびにかえて
第二次世界大戦における連合国の連合作戦を研究すると、それが各国の政治的・外交的思惑、戦略的考察を妥協で無理やり組み合わせたものであり、一貫性と呼べるものはほぼなかったことが分かります。

当時の連合作戦の特徴について著者も次のように結論付けています。
「その戦略は混成の産物―アメリカの直接さと、イギリスの用心深さと、ソ連のぶっきらぼうさの合成物―であった。その最大公約数は、大陸での巨大なクルミ割りの締めつけによってドイツを打倒することであった。しかし、連合同盟国の軍隊が互いに接近しドイツの敗北がより確実になると、その政治的食い違いはより明白となり、各国を結び付けていた絆も崩れ落ちた」(同上、606-7頁)
連合作戦は別の外国の兵力を自国のために利用する絶好の外交的手段に見えますが、 それは自国にとって薬にもなれば、毒にもなり得るものであり、その成否は国際情勢の動向よるところが大きいと理解する必要があります。

脅威が存在しなくなり、ともに戦う理由がなくなれば、それまで味方だった兵力が突如として敵に変わる可能性もある、ということです。

KT

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