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2017年9月16日土曜日

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。

各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。

しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。

今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。

参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想
ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。
ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。

つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。

例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。

無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。

また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していたのですが、1879年に刊行した戦術学の教範を執筆したことによって、30年近くにわたりロシアの軍事学の権威であり続けていました(同上)。

ドラゴミロフの思想の一部を紹介すると、「たとえば現代の進歩した速射砲を使用し、将校の指揮が優れ、兵士が大砲の操作に熟達していたとしても、彼らが図上で炸裂する砲弾に耐えられずに大砲を放棄してしまったとしたら、彼らの素晴らしい大砲も何の役にも立たなくなってしまう」と述べています(同上、324頁)。

一般論としてはもっともな部分もあるのですが、19世紀における武器の射撃速度、威力、射程といった諸条件を総合して考えれば、18世紀の軍人であるスヴォーロフの軍事思想に妥当性を見出すことには無理があったと言えます。

徹底さを欠いた日露戦争の分析
1905年、旅順攻囲戦でロシア軍の守備隊が日本軍に砲撃を加えている様子。この戦争では新たな技術が戦場の様相をどのように変化させるのかを考察する上で重要な事例と専門家の間で注目を集め、世界各国でさまざまな分析が行われたが、当事者であるロシア軍は旧来の戦術や編制を抜本的に見直すまでには至らなかった。
ピントナーはロシア軍で主流を占める研究集団が、いわゆるロシア的な戦法に傾倒する状況で、日露戦争がどのように分析されていたのかに注目しています。

後知恵ですが、ロシア軍にとって日露戦争は従来の学説の実証的な妥当性を再検討し、研究の停滞を打ち破る絶好の機会を提供していたと言えます。

日露戦争で判明した近代的な火力の意義、そして塹壕戦の難しさを知ったことによって、過去の偉人の軍事思想を現代の戦争に適用するだけでは限界であることに多くの軍人は気がついていたはずです。

しかしながら、日露戦争の後になっても参謀大学校で主流派を占める人々の見解がほとんど変化しなかったのです。このことについてピントナーは次のように述べています。
「日露戦争の結果、近代的火力の重要性と塹壕攻撃の困難性が明らかになったにもかかわらず、ロシア軍の伝統的思考は疑われなかった。たしかに日本軍の熱狂的な精神力は、ドラゴミロフが主張していた、軍隊では士気が最も重要であるという考え方を補強することになった」(同上、325頁)
軍隊の頭脳であるべき参謀大学校が、説明がつかない事実に目をつむり、従来通りの理論を守ろうとしたことは、調査研究という本来の機能が健全に果たされていなかったことを示唆しています。

無論、こうした主流派の独断的な姿勢に対して当時のロシア軍の士官全員が納得していたわけではありませんでした。

ピントナーが調査したところによると、軍事史学部長のポストを廃止する議論が参謀大学校で問題となっており、その過程で抜本的な改革を進める試みも見られたのですが、最終的には失敗に終わりました(同上)。

火力戦闘を主張したネズナモフへの反発
サンクトペテルブルクにある参謀大学校旧校舎の正面外観。1832年に陸軍士官学校として発足し、1855年には参謀大学校へと発展したことで、高級士官のための教育や高度な軍事学の研究も組織的に行われるようになったが、ロシア革命の影響で1918年に閉校となった。
こうしたロシア軍の状況に立ち向かった研究者にネズナモフ(A. A. Neznamov)という軍人がおり、ピントナーは彼が参謀大学校の教官という立場にありながら、ロシアの軍事的な後進性に関する批判的見解を発表したことで注目しています(同上)。

ネズナモフは日露戦争でロシアが軍事的に失敗した根本的な理由は、単に後方連絡線が貧弱だったためではなく、満州の慣れない気候や地形で作戦を遂行できず、無能な将官が指揮をとり、政府の政策決定にも一貫性がなかったためだと考えていました(同上)。

しかも、ネズナモフは当時のロシア軍で絶対的だと見なされていたスヴォーロフの説にも挑戦し、「火力が戦闘を決する」と主張し始めます(同上、326頁)。これは当時の参謀大学校の主流派には受け入れがたい議論でした。

ただ、ピントナーはネズナモフの議論の全てが妥当だったとは述べていません。
ネズナモフは戦争目標は決戦で敵軍を撃滅することだとする古典的な戦略思想が将来的に役に立たなくなる可能性を予見していましたが、塹壕戦が膠着状況をもたらす危険についてはそれほど認識していなかったと指摘しています(同上)。
それでも、当時のロシア軍にとってネズナモフの定説に対する批判は白兵主義から火力戦闘に脱却する機会を与えていたと言えます。

ところが、ネズナモフはスヴォーロフをはじめとするロシアの過去の軍事思想家を軽視していると見なされ、周囲から強い反発を受けることになりました。

そのため、ネズナモフは自分がピョートルやスヴォーロフのような偉人の軍事思想の価値を一概に軽視しているわけではなく、戦闘の手段が変化していることを指摘しているだけだということを自己弁護する必要に迫られました。当時のネズナモフの次のような考察を残しています。
「ピョートル大帝は天才であり、外国のものを採用するに当たって有益なものと有害なものの差をはっきりと認識していた。彼は最愛の息子よりもロシアを愛していた。彼は「模倣」ということについて次のように説明している。「われわれが彼らに背を向けるまで、ヨーロッパは数十年間にわたって必要である」、また「われわれはヨーロッパに追いつき追い越すであろう」ということも夢見ていた。軍事的分野に限られていたとはいえ、ロシアはヨーロッパに追いついたともいえる。しかしその後歴史は繰り返し、ヨーロッパは再びわれわれを追い抜いた。そして再びわれわれは同じことを繰り返すであろう。現存するものの中から最高のものを採用して国内で改良し、その後で彼らに背を向けるのである」(同上)
この考察を読めば、当時の参謀大学校でネズナモフが自分の研究に理解を示してもらうために、妥協を重ねていたことがうかがい知れます。

それは学問的根拠というより学内政治の考慮に基づく妥協であり、ネズナモフとしては自分の主張を受け入れてもらう必要がありました。

むすびにかえて
1911年にネズナモフは自らの研究成果を『現代戦争』という著作にまとめて出版しますが、ピントナーの見解では、この著作が第一次世界大戦の前にロシア軍で影響を及ぼすことはありませんでした。
結局、ネズナモフの主張は当時の参謀大学校で受け入れず、実務でも活用されなかったということです。

ネズナモフは将来の戦争を見越して参謀大学校の思想を火力戦闘に移行させるべきだと考えていた点で、先見性がありましたが、そうした改革は実行に移されることがなく、そのままロシアは第一次世界大戦に突入していきました。
驚くべきことではありますが、日露戦争から第一次世界大戦にかけてロシア軍の運用や編制が大きく変わらなかったことは、こうした経緯があったためだと考えられます。

この事例から学べることは、研究組織が存在していたとしても、それが常に研究を促進するとは限らないということでしょう。
特に研究組織の管理運営に関する権原が特定の学派によって独占される状況が続くと、後進の研究者は新しい立場で議論することや、それを批判することに極度に慎重にならざるを得なくなり、結果として健全な研究努力が妨げられることにもなります。

最近は日本でも大学改革が叫ばれていますが、こうした事例も検討した上で、どのような管理体制であれば健全な研究環境を次世代に継承できるのか、よくよく考えなければならないと思います。

KT

参考文献
ウォルター・ピントナー「ロシアの軍事思想 西欧モデルとスヴォーロフの影」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、315-330頁

2017年9月15日金曜日

論文紹介 冷戦初期の米国の東アジア戦略と日本の防衛力

第二次世界大戦に敗れた日本は、東西冷戦の時代に入ると米国が指導する西側陣営の一員となり、また米軍の極東戦略の中に位置付けられるようになっていきました。

しかし1945年で軍備を全面的に失った日本にどのような軍備を持たせるべきか、米軍との役割分担をどのようにすべきかという点については、米国の内部でもさまざまな議論があり、それによってその後の日本の再軍備のあり方が大きく規定されることになったと言えます。

今回は、冷戦初期において米国が自らの戦略に日本の防衛力をどのように位置付けていたのかを歴史的に検討した研究を紹介したいと思います。

文献情報
石田京吾「戦後日本の海上防衛力整備(1948 ~ 52 年)―海上防衛における日米の役割分担の起源―」『戦史研究年報』第 9 号(2006 年 3月)97-110頁

西側の陣営に組み入れる対日政策の転換
月刊沖縄社「東京占領」GHQが置かれた第一生命館
占領統治が始まった直後、GHQは敵国だった日本を完全に武装解除し、軍事的に無力化することを重要な目標としていました。

しかし、米国とソ連との間で東西冷戦が本格化すると、米国で日本の利用価値を再評価する動きが出てきます。

つまり、軍事的に無力化するよりも、共産主義陣営の脅威に対抗する上で日本の経済的、軍事的能力を利用した方が米国の国益に適うと考えるようになっていったのです。
「1947年5月、国務相にPPS(Policy Planning Staff: 政策企画室)が新設され、その室長としてケナン(George F. Kennan)が就任し、冷戦政策の企画立案を担当した。(中略)ケナンは欧州や日本が経済的困難に起因する国内政治の不安定化により共産化していくことを危惧し、自由主義世界の政治的、経済的安定を重視した。そして日本を「封じ込め政策」の成否を決める重要な地域の一つと見なしていた」(石田 99-100頁)
さらに同時期に行われたCIAの情勢判断においても「極東におけるアメリカの現在の地位を保つためには、地域の重要なエリア、特に日本に対するソ連の覇権を拒否することが必要である」と著者は紹介しています(同上、100頁)。

こうして日本は米国の対ソ戦略の新たな要素として位置付けられるようになりました。

とはいっても、この時点での米国の懸念は極東ソ連軍による対日攻撃ではなく、日本国内で政治工作に従事する親ソ派の日本人の動きにありました。GHQはまずは現地で治安維持に当たる警察力を整えることを優先し、海上戦力に関しては沿岸警備能力程度に限定する方針を決定します(同上、101頁)。

このことは、米国が対ソ戦略における日本の重要性を認識した後でさえ、すぐには防衛力の本格的な整備に着手しようとしなかったことを表しています。しかし、このGHQの姿勢も1950年になると変わっていきました。

朝鮮戦争で促された日本の再軍備
朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮軍を圧迫して釜山に迫ったが、米軍の来援で退却を余儀なくされた。しかし、その後も中国軍の介入があり、朝鮮戦争は長期化の様相を呈することになる。
U.S. Navy. Seoul Battle, Korean War
1950年に勃発した朝鮮戦争で、最も大きな影響を受けたのは日本に駐留していた在日米軍部隊でした。

それまで日本の占領に当たっていた部隊が朝鮮半島に逐次投入されると、GHQは日本国内の治安維持に当たることが難しくなり、日本政府に警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を命令します(同上、102-3頁)。韓国に米軍が到着した後も朝鮮戦争の戦局は一進一退が続き、東アジアの戦略環境は急激に不安定化していました。

1951年5月17日、米国は軍事的手段による封じ込めを東アジアにも適用する方針を決定することを正式に決定し、「日本に関して、国内治安と外部からの侵略に対する防衛能力を維持し、極東の安全及び安定に貢献できる能力を持つ、アメリカに友好的な自立した国家になることを支援する」という方針の下で日本の再軍備を促すことになりました(同上、105頁)。

再軍備を進めるためには憲法の問題があることは米国もよく承知していたのですが、それについては「日本の防衛のために軍事力の保有を認めるように憲法は改正されるであろう」と予測していました(同上、106頁)。
しかし、その後も長らく日本で憲法問題が議論されることになりました。

いずれにせよ、東アジア情勢が急速に展開していく中で、米国は対日政策の再検討を進め、やがて外敵の侵略に対して日本も米国と共同で対処させるという方針が現れてきます。

1951年末に統合戦略計画委員会が示した文書を踏まえて、著者は次のように論じています。
「JCS1380/127では、事態の対処について、それまでの海空兵力についてはアメリカと他の同盟国が提供するので、日本は海空兵力を考慮する必要はないという考え方に代わって、日本とアメリカが「共同および協力」して外部からの侵略に対処するという新たな考え方が提示されたのである。つまり、アメリカの政策文書に初めて日本の防衛力の任務が明示されたのであり、日米共同による外部侵略への対処、言い換えれば外部からの侵略に対処する際の、日米の「役割分担」の考え方が提示されたのである」(同上、107頁)
これは日米関係の歴史において画期的なことでした。
それまで日本に認められていたのは、治安維持に当たる警察力の延長に過ぎなかったのですが、この米国の役割分担の考え方は対外戦争への対処を想定するものに変化していたためです。

さらに統合戦略計画委員会は日本の軍備については「適正な海上・航空兵力と併せた陸上兵力19個師団」という整備目標が妥当だとも示しており、日本の防衛力の規模についても具体的な議論が始まることになります(同上、108頁)。

日本に攻撃能力を持たせない米国の思惑
ジョージ・ケナン、外交官としてソ連に対する封じ込めを主張し、冷戦期における米国の対外政策の指針に大きな影響を及ぼしたことで知られている。
しかし、日本海軍を復活させる恐れを米国の政策決定者は決して忘れてはいませんでした。日本の再軍備を促進するとしても、日本が米国に敵対できないような措置を講じておくことが必要だと考えられていたのです。

この点について著者は当時の国務長官代理と駐日大使とのやりとりを紹介しているのですが、そこでは新たな日本の海上防衛力は「対潜海軍が望ましい」と述べられており(同上)、その理由として「対潜戦を任務とするような、明らかに防衛的な艦艇は日本の潜在的な侵略能力の再現について日本国外の危惧を掻き立てることはありそうもないであろう」と説明されています(同上頁)

つまり、日本の海上戦力から攻撃機能を事前に除外しておけば、米国としては日本を無力化できるし、同時に米国の東アジア戦略のために日本を利用することもできると考えられていたのです。

むすびにかえて
著者がこの論文で明らかにしているように、日米関係の歴史は米国の占領行政の延長線上に発展し、日本の防衛力の規模や内容は米国の戦略によって強く規定されていました。

少なくとも朝鮮戦争前後の日本の防衛体制のあり方は、当時の米国の対日政策によって非常に大きな影響を受けていたということが言えるでしょう。

また第二次世界大戦の経験がまだ昨日のことのように思い出される時期において、米国政府がこうした対日政策をとったことは十分理解できることですし、ソ連を封じ込めるという米国の対外政策としても妥当性があったと思われます。

無論、日本も米国の援助を利用できたことには、少なからず利益がありました。
米国が自国の国益を追求するため日本を利用し、また日本も米国の支持を利用して防衛力を再構築していったのです。

KT

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資料
冒頭写真:毎日新聞社「昭和史第14巻 講和・独立」保安隊創立記念式典

2017年9月10日日曜日

学説紹介 日本の地政学はこれでいいのか

最近、書店で地政学のタイトルがついた書籍が増えており、議論が盛り上がること自体は喜ばしいのですが、問題もあるようです。

というのも、その大部分は地政学というタイトルにふさわしい内容とは言えなかったり、地理的知識に裏付けられていないものが少なくないのです。

個別のタイトルは挙げませんが、参考文献や脚注が一切ない文献や、地図や統計がほとんど含まれない文献もあります。

入門書や解説書であれば、それでも問題ない場合もありますが、一部では個人の政見が吐露されているだけの書籍であっても、地政学というタイトルで販売されている有様です。

今回は、この問題を考える上で参考となる考察として、河野収の考察を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

海洋国家系と大陸国家系で分かれる地政学
ルドルフ・チェレーン、「地政学」という研究領域を政治学、国家論で位置付けた最初の研究者
なぜチェレーンは地政学を生み出したのかを参照
河野収は戦前生まれの陸軍軍人でした。1919年(大正8年)に生まれ、陸軍士官学校を卒業しています。戦後は専門の中国軍事史を研究し、特に孫子の戦略思想に関する研究業績を残しています。

防衛大学校の教授として国防地理学(軍事地理学)の教育も担当しており、そこで地政学の研究にも取り組んでいました。今回取り上げる考察もその成果の一部と推察されます。

河野はその著作『地政学入門』において、地政学の歴史を理解するには、まず英米で発達した海洋国家系とドイツで発達した大陸国家系に大別することが便利であり、マハン、マッキンダー、スパイクマンの説を前者に、ラッツェル、チェレーン、ハウスホーファーの説を後者に位置付けることができる、と述べています(河野、19-20頁)。

「海洋国家系地政学は、比較的に客観的、保守的、共存認容的であり、大陸国家系地政学は、比較的に主観的、革新的、統合志向的である」というのが河野の両学派に対する大まかな評価であり、これは研究が行われた政治的環境、特に脅威認識が海洋国家と大陸国家で異なるためではないかとされています(同上)。

こうした二つの学派として発展していた地政学ですが、第二次世界大戦の影響によってその研究動向は全世界的に低迷するようになりました。

大陸国家系地政学の衰退と日本での影響
第二次世界大戦においてドイツをはじめとする枢軸国の陣営が敗北すると、大陸国家系の地政学は侵略を正当化したなどの理由で政治的非難の対象となりました(同上、75頁)。

反対に海洋国家系の地政学は賞賛されることになりますが、論敵を失ったためか研究そのものは低調となったと河野は指摘しています(同上)。

こうした状況は日本でも影響を与え、それが戦後の日本で地政学の研究がなされなくなった要因としていますが、河野は戦前の日本の地政学の内容に問題があったことも関係していたと考えています。

もともと日本には大陸国家系地政学が導入される前から地理学、政治地理学、軍事地理学の研究について学問的蓄積があり、実証的、科学的な根拠が尊重されていました。

例えば、明治時代には山崎直方、小川琢治、志賀重昂などの努力によって近代的な地理学の知識や方法がもたらされていたことが紹介されています(同上、81頁)。

ドイツの大陸国家系の地政学が研究されるようになったのは昭和時代に入ってからのことでした。

学術研究の本旨を外れていた日本の地政学
河野はこの事象を示す一例として、戦前に出された岩田孝三の『国防地政学』を取り上げています。

この著作も地政学というタイトルがついた文献ですが、その序文では「地政学が国家の動向と最も深い関連をもつ研究である限り、これも亦、日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献するものでなければならない」と述べられていました(同上、82頁)。
「これを見ると、当時の日本の地政学ないし国防地理学は、科学的な法則性追求の態度からはずれ、きわめて直接に「日本的国家総力戦理念に即応し、これと密接なる連携を保ちつつ、日本の高度国防国家体制確立に貢献」するというように、国策に直結する方向に進み、これを拡大して「世界的普遍への理念」とすべきだ、としている」(河野、82頁)
このような一部の地政学の研究者の非学問的な態度が、戦後に反動をもたらし、軍国主義、侵略主義の理論的支柱と非難される事態を招いた側面があるのではないかというのが著者の見解です(同上、83頁)。

地政学の議論が日本の政策決定に影響を与えたという説もありますが、それを厳密に立証することは難しく、地政学の研究が日本の侵略戦争を促進したなどと断定することは適当でないとも著者は考察しています。

そうすると、日本で地政学の研究が長らく途絶えることになった要因は、大陸国家系地政学の導入や、戦争での敗北といった背景的要因だけでなく、本来の学問としての態度が地政学から失われたことの方が本質的ではないかとも考えられるのです。

むすびにかえて
また地政学は外交、貿易、国防などの問題は国家の存続にかかわる重大な政策選択において貢献できると河野は考えていました。ただし、それはあくまでも客観的、実証的な学問としての地政学でなければならず、その本質を見失ってはいけないということです。

抽象論や観念論によって議論が空転すること、試行錯誤の繰り返しで貴重な資源を浪費すること、その場しのぎの対策によって大局を見失うこと、これらは決してあってはならないことであり、これらを避けるためには日本で新しい地政学を研究すべきだ、と論じられています(同上、83頁)。

1980年代の考察ではありますが、その主張の意義は2010年代においても色あせていないと私は考えます。

今の日本での地政学の議論には、もっと学問的な態度が必要であり、河野が指摘したような戦前の過ちを繰り返さないように適切な注意を払うべきでしょう。

KT

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文献情報
河野収『地政学入門』原書房、1981年

2017年9月7日木曜日

論文紹介 第5世代戦闘機F-35には、より強力な情報支援が必要

最近、米空軍で運用が始まったF-35ですが、この航空機については軍人、設計者、研究者の間で賛否両論あります。

今回は、こうした議論に関連して、米空軍の情報支援の態勢を組織的に改善すべきだと主張した研究を取り上げ、その要点を紹介します。

論文情報
Stephanie Anne Fraioli, "Intelligence Support for the F-35A Lightning II," Air & Space Power Journal, Vol. 30, No. 2(Summer 2016), pp. 106-9.

F-16とF-35はここが違う
この論文では著者はF-35が以前から運用されていたF-16と多くの点で機能が強化されていることを一般的に説明するところから議論を始まっています。

著者の説明によれば、F-35に応用されている「第五世代の技術は、〔敵の勢力によって〕拒否される空域を突破するために設計された」と説明されており、敵国領空を突破する能力が最大の特徴とされています(Fraioli 2016: 106)。

この機能は高度なステルス技術を応用することで可能になった説明されているのですが(Ibid.)、これは第五世代の戦闘機の機能の一部に過ぎないと著者は指摘し、F-35には高度な情報処理能力が付与されており、その違いは第四世代の戦闘機と明らかだとして次のように説明しています。
「F-16からF-35に至る進化は、固定電話からスマートフォンへの発展と結びつけることが可能であり、それは生活のあらゆる側面を自動化し、ソーシャル・メディアと電子メールの状況認識を絶えず保ち、銀行口座情報にいつでもアクセスすることを可能にする。第5世代航空機の作戦は時代遅れの機能を使用する必要がない。なぜなら、航空機が自動的に統合した情報資料を提供するためである。これは専門家の間でセンサー融合(sensor fusion)と呼ばれており、電磁気と赤外線スペクトルの領域で生み出された技術である」(Ibid.: 106-7)
つまり、第四世代の戦闘機だと操縦士はさまざまなセンサーを自分自身で操作する必要があったのですが、第五世代の戦闘機、つまりF-35の操縦士はそのような作業から完全に解放される、ということです。

この性能はF-35の高い戦闘効率に寄与するものであり、著者は高くこれを評価していますが、現時点でその能力を最大限に引き出す態勢が米空軍にはないとされています。これが著者によって提起されている課題なのです。

F-35を活用し切れない情報支援の現状
著者は基本的にF-35には大きな潜在力があると強調していますが、運用体制を整えることが大前提であり、特に米空軍においてF-35の機能をより発揮できるような情報支援の在り方を検討すべきと論じています。
「空軍の指揮官は、新たなプラットフォームを構築することと、戦闘情報を収集、分析、そしてそれを作戦指揮官に伝達する十分な能力を確保することが、直接的関係にあるということを理解しなければならない。(中略)情報戦においては、速度と精度が勝者を決定するのである」(Ibid.: 107)
要約すると、著者は今の米空軍の体制はF-35の優れた情報処理機能を活用できず、しかも今後も長期にわたって解決されないままになる危険性があるため、米空軍全体としてより真剣に問題に取り組むよう求めているのです(Ibid.)。

それほど著者が深刻に考えている理由はいくつかあります。
その一つとして第五世代戦闘機にインストールされているプログラムで使用されているデータ形式が、それ以外の装備にインストールされているプログラムのデータ形式と互換性がないということが挙げられます(Ibid.: 108)。

旧世代の戦闘機とやり取りするデータ形式に互換性がないことが、なぜそれほど深刻なのかというと、F-35に実装されているプログラムには空中戦における機動を制御する機能が含まれていることが関係しています。

つまり、F-35が戦闘空間で他の味方の航空機の位置を自動的に取得し続け、その情報に基づいて敵機に対して有利な距離や位置関係を瞬時に解析し、それに基づいて他のF-35との高度な戦術的な連携を実現することが目指されているのですが、味方に1機でも旧世代の戦闘機が含まれているとこの機能は使うことができなくなるということです(Ibid.)。

近接航空支援(close air support)でも問題があります。F-35ではリアルタイムで地上の映像を操縦士が受け取り、それに基づいて目標を攻撃することが可能になっているのですが、そもそも地上からそのような映像をリアルタイムで送信する能力が今の米空軍にはなく、機能を活かすことができないと指摘されています(Ibid.)。

戦闘機の性能だけが優秀でも軍事的に無意味

そもそも航空戦力の価値は航空機の性能だけで決まるものではないということはよく知られています。その航空機を支援する体制が空軍全体でどれだけ整っているかが重要であり、著者はF-35に関してはもっと米空軍に情報支援を構築する予算が必要だと主張しています(Ibid.: 108)。

さらに著者はこうした問題に取り組む上で、特に信号通信を重視することを提案しており、F-35の訓練でもこの方面に注力することを提案しています。
「情報の専門家は常に第5世代を支援する1N0(intelligence application)に注目しているが、しばしば次に示す空軍のコードは見落としている。すなわち、1N1A(地理情報分析geospatial intelligence analysis)、1N1B(目標選定targeting)、1N2A(信号分析signals analysis)である。恐らく画像情報と信号情報は1N0の支援と同じか、それ以上に重要である。これらの機体から発せられる特定の情報資料は可能な限り素早く解析され、かつ提示されなければならない。これらの領域はいずれもF-35の開発に役立つものであるし、これら専門コードの初歩的訓練は正式な訓練に組み込まれるべきである」(Ibid.: 109)
F-35の問題に関する議論はこれまでもありましたし、今後も続くでしょうが、この研究は情報支援の観点からそうした議論に一石を投じたものだと言えるでしょう。

むすびにかえて
著者は米空軍の現役士官としてF-35の情報支援に関する任務に取り組んできた経歴を持っており、この論文で示された考察も実務の経験に基づくものと推察されます。

こうした主張が今後の米空軍でどのように受け止められるのか、情報支援の体制強化がどこまで進むのかなどの点は、米国の国防政策、そして米空軍のF-35部隊の戦闘力を評価する上で注目すべき点だと思います。

航空自衛隊においてもF-35の導入が進んでいることを考慮すれば、こうした論点があることは国民としても知っておくべきだと思いますし、我が国の航空戦力をどのように整備すべきかを考察する参考にもなると思います。

KT

2017年9月1日金曜日

事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。

これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。

しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。

今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。

JCEOの構想とその特徴
まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。
米軍の定義では次のように定められています。
「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2)
こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。

例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。

したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。

注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。

しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。

第一次世界大戦の事例を参考に
1918年4月23日に実施されたZ-O作戦の要図、イギリスが海上から強襲を実施し、ドイツ海軍の基地機能を喪失させようとしていることが伺える
米軍がこうした突入作戦の研究で参照している歴史上の事例に1918年4月23日に実施された第一次世界大戦のイギリスの特殊作戦があります。

当時、イギリスは大胆にもドイツの海軍基地を強襲することによって、海上交通路の安全を確保しようとしていたのです。
「Z-O作戦は、イギリスの海軍、海兵隊、空軍によって実施された直接行動による襲撃であり、第一次世界大戦の最中1918年の春にベルギーのZeebruggeとOstendの敵港湾施設を利用不可能にすることを意図していた。そのために、海兵隊は地上攻撃を、狭隘な箇所で「ブロック船舶(block ships)」を計画的に沈没させ、ドイツの潜水艦や哨戒艇がイギリス海峡に接近することや、イギリスの外洋航路を脅かすことができなくなるように、爆発物を積載した潜水艦を重要な埠頭の下で爆発させた」(Ibid.: 3)
この事例の詳細についてはPrince(2012)やPitt(2003)の中でも説明されていますが、戦果は限定的なものにとどまっており、作戦として完全な成功からとはいえないものでした。

そのことは米軍においても承知の上ですが、それでもこうした作戦が戦力投射能力において必要であると考えられています。

この事例以外にも第二次世界大戦でのノルウェーで実施された特殊作戦の事例、1989年に実施されたパナマ侵攻の事例、1993年のソマリアでの人道支援なども取り上げた上で、突入作戦という作戦構想について具体的な検討を行っています(Joint Chiefs Of Staff 2014: 3-5)。

こうした前例を踏まえて研究を行うことにより、JCEOの内容をさらに今後発展させる狙いがあるものと推察することができます。

JCEOの軍事的リスク
敵国が支配する海岸、それも最も警備が厳重な海軍基地に対して襲撃を行うことのリスクは容易に想像がつきます。

もし序盤に完全な奇襲が成功したとしても、敵が混乱から立ち直って戦闘が本格化してしまうと、もはや現地の部隊を外洋に離脱させることが不可能になる危険もあります。

したがって、極めて小規模な特殊作戦部隊による強襲で限定的な戦果を狙うか、または大規模な着上陸侵攻によって一挙に橋頭保を確保するか、いずれかの方法でなければ作戦として成り立たない可能性があります。

米軍としてもJCEOにリスクがあることを率直に認めており、そのリスクを列挙しています。

リスクには、例えば作戦の前提となる敵の領域拒否の手段を無力化することには技術的な問題も含まれており、突入作戦の構想そのものが非現実的になる可能性があるとも指摘されています(Ibid.: 34)。

また、地上部隊を敵の領土に着上陸させる前に、敵の部隊を十分に制圧しておくことが必要であり、この制圧のために重要となるのが敵の部隊や装備がどこにあるのかを探知する情報能力も重要です(Ibid.)。

むすびにかえて
しかし、こうした困難が山積しているからといって、米軍として突入作戦の構想それ自体を放棄するわけにもいきません。成功させるための方法は今後も検討されると思われます。

なぜなら、世界の覇権を米国が握り続ける上で、米軍の勢力投射能力を高い水準に維持することが戦略的に極めて重要なことだからです。

第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦、朝鮮戦争の仁川上陸作戦など、米国がその対外政策を遂行する上で海上からの着上陸侵攻能力は決定的な役割を果たしてきました。

もし米軍が海上を支配する能力しか持たず、海上から陸上に軍隊を送り込む能力がないと認識されれば、世界で米国の軍事的プレゼンスは大きく後退するでしょう。

KT

参考文献
Joint Chiefs Of Staff, Joint Concept for Entry Operations (Washington:
U.S. Government Printing Office, 2014).(http://dtic.mil/doctrine/concepts/joint_concepts/jceo.pdf)
Stephen Prince. 2012. The Blocking of Zeebrugge, Operation Z-O, Osprey Publishing.
Barrie Pitt. 2003. Zeebrugge: Eleven VCs Before Breakfast,  Cassell Military Paperbacks.

2017年8月24日木曜日

論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

第二次世界大戦はさまざまな国家が敵味方に分かれ、それぞれが共通の目的を持って連合作戦を遂行しました。

連合国が枢軸国の陣営に対して最終的に勝利を収めることができたのも、この連合作戦の成功によるところが小さくなかったのですが、外交的、軍事的に見れば連合国の側の連合作戦にもさまざまな問題がありました。

今回は第二次世界大戦における連合国の連合作戦の問題について考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
モーリス・マトロフ「ヨーロッパにおける連合国戦略、1939-1945年」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、585-607頁

連合作戦の調整とそれぞれの政治的思惑
著者は第二次世界大戦でドイツやイタリア、日本を打倒するに至るまでの経緯を研究する場合、アメリカ、イギリス、ソ連という3カ国が、それぞれ別の思惑を持っていたことを明らかにすることが重要だと述べています(マトロフ、587頁)。
「大同盟を構成する各国は、それぞれの目的のために戦争を戦った。各国には、それぞれの戦略をつくり出す独自の政軍システムがあった。各国は、同盟の一因としての立場と、戦況の変化とによって妥協をはからねばならなかった。三つの同盟国は伝統も、利益、政策、地理、資源も異なっているため、ヨーロッパの戦争を違ったメガネで見ていた」(同上、586-7頁)
例えば、イギリスの戦略ではインドに通じる地中海の海上交通路を保護し、日本の脅威が高まる極東との連絡線を維持することが必要でした。

そのため、ヨーロッパ大陸に乗り込んでドイツから正面から戦うよりも、ドイツの占領地で反乱や破壊工作を支援し、消耗を強いることを望んでいました(同上、587頁)。

しかし、アメリカではイギリスとは異なり、ヨーロッパにおけるドイツよりもアジア太平洋における日本を深刻な脅威と見なされていました。

著者が述べているように「多くのアメリカ人にとっては、ドイツよりむしろ日本の方が本来の敵のように見えた」のです(同上、588頁)。

さらにソ連に目を移すと、英米と異なり日本とは戦争状態になく、必然的にドイツに対する作戦に専念していました。

それゆえ、ソ連軍は兵力を一正面に集中しやすい環境にあったのですが、「資本主義国による包囲をいまだにおそれ、敵にも味方にも同じように不信感を有するソ連は、第二次大戦を通じて、ぎこちない同盟国のまま」でした(同上、589頁)。

つまり、イギリス、アメリカ、ソ連は連合作戦について合意できる事柄はほんの一部に過ぎなかったのです。

戦争の最中に発展した連合国の対独戦略
著者はアメリカ、イギリス、ソ連の連合国が戦略構想を発展させる過程を1941年から1942年までの形成期、1943年の中間期、そして1944年末から1945年までの末期に区分して議論しています。

連合国としての戦略が議題となったのは1941年の初めにワシントンで開催された会議のときでした。

この会議でアメリカとイギリスはドイツの打倒をひとまず優先するという原則を確立し、日本軍に対しては連合国として防勢に徹することが決まります(同上、590-1頁)。

ただし、原則が確立された後も各作戦地域ごとの兵力の配分を決める段階で、さまざまな対立が生じました。

例えばアメリカ軍は対日戦のために太平洋に兵力をある程度残しておこうとしますが、イギリス軍は速やかにヨーロッパに兵力を移動させるよう反発したことはその一例です(同上、591頁)。

その後、アメリカとイギリスは北アフリカ方面に主力を派遣し、ヨーロッパ大陸の南側「柔らかな下腹」部分を攻撃の重点としますが、まだこの段階でソ連軍との連携は十分に図られていませんでした(同上)。

1943年に入るとソ連もスターリングラードの戦闘で勝利を収め、ドイツ軍に対して主動的地位に立つことができるようになっていました。

戦争全般におけるソ連軍の軍事的貢献が重要になると、ソ連が連合国の戦略策定に影響を及ぼす度合いも大きくなり、テヘラン会議ではソ連が強硬に北フランス侵攻を主張するようになります(同上、596頁)。

これは地中海で引き続き作戦を継続しようとしていたイギリスの立場と対立するものでした。
「チャーチルは、オーヴァーロードの延期という犠牲を払ってでも、イタリア、エーゲ海、東地中海で作戦を行うことを雄弁に訴えた。(中略)スターリンはオーヴァーロード作戦を強力に支持し、今後の地中海での作戦はオーヴァーロードを直接支援する作戦、すなわち南フランス進攻だけに限定すべきであると主張した。そのかわりソ連は、それらの作戦とともに東部戦線で全面的攻勢を開始することを約した」(同上、596頁)
ソ連軍はアメリカ軍、イギリス軍の兵力を使ってドイツ軍を東西から挟撃することが可能となり、これがオーヴァーロード作戦に繋がっていくことになり、第二次世界大戦の動向は終末期に向けて動き出すことになります。

次の時代を見据えた各国の戦略
1945年における連合国の対独作戦はおおむね順調に進んでいましたが、各国の思惑の違いが再び表面化しつつありました。

1944年までに確立されていた戦略に基づいてアメリカ軍とイギリス軍は着実に西ヨーロッパからドイツに向けて進撃を続けていたのですが、ソ連軍はポーランドからバルカン半島に向けて前進しています。

これは特に地中海に権益を持つイギリスにとって見過ごせない動きだったと著者は指摘しています。
「しかし、ポーランドとバルカンへの急速なソ連の進撃を注意深く見ていたチャーチルにとって、戦争はこれまで以上に大きな政治的利害をめぐる争いとなり、彼はドイツ軍の後退によって生じた真空地帯をうめるために西側連合軍を転用し、それによってソ連軍の殺到を阻止することを望んだ。戦略が戦場で展開されるにつれて、戦争にタイル二つのアプローチは、つまるところ、軍事的戦術か、政治的工作かという問題になった」(同上、599頁)
しかし、ローズヴェルトはこの重要な局面においてイギリスと同調してソ連に対するバランシングには動かず、あくまでもドイツと決着をつけるという姿勢を崩そうとはしませんでした(同上)。

これはローズヴェルトは対日戦に取り組むために、対独戦を早期に解決する必要があったためだったと著者は考察しています(同上)。

さらに、ローズヴェルトは熱心な国際連盟論者でもあり、勢力均衡に基づく国際政治の考え方を拒否したことも影響した、とも考えられています(同上、600頁)。

イギリスとしては地中海にソ連の脅威が及ぶことを防ごうと、アメリカに対して警告を発し続けますが、対独戦が予定よりも長引くにつれて、連合作戦の戦略策定におけるイギリスの影響力はさらに低下していきました(同上)。

むすびにかえて
第二次世界大戦における連合国の連合作戦を研究すると、それが各国の政治的・外交的思惑、戦略的考察を妥協で無理やり組み合わせたものであり、一貫性と呼べるものはほぼなかったことが分かります。

当時の連合作戦の特徴について著者も次のように結論付けています。
「その戦略は混成の産物―アメリカの直接さと、イギリスの用心深さと、ソ連のぶっきらぼうさの合成物―であった。その最大公約数は、大陸での巨大なクルミ割りの締めつけによってドイツを打倒することであった。しかし、連合同盟国の軍隊が互いに接近しドイツの敗北がより確実になると、その政治的食い違いはより明白となり、各国を結び付けていた絆も崩れ落ちた」(同上、606-7頁)
連合作戦は別の外国の兵力を自国のために利用する絶好の外交的手段に見えますが、 それは自国にとって薬にもなれば、毒にもなり得るものであり、その成否は国際情勢の動向よるところが大きいと理解する必要があります。

脅威が存在しなくなり、ともに戦う理由がなくなれば、それまで味方だった兵力が突如として敵に変わる可能性もある、ということです。

KT

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2017年8月20日日曜日

学説紹介 必要な戦力を計算する方法―戦力比(force ratio)で作戦を立案するには―

一般に軍事行動では攻者が防者を撃破するために、およそ3倍の戦闘力を要するという経験則が言われています。

近年の研究で、この種の見解に妥当性がないとする説も出されていますが、こうした経験則は今でも軍隊の実務、特に幕僚の業務で広く使われています。

そこで今回は米軍の教範を踏まえ、各部隊行動において必要とされる戦力比について一般的に解説し、その意味について考察したいと思います。

作戦立案の基本は相対戦闘力の比較分析
作戦の立案に関するプロセスは、基本的に教範で標準化されたものがあり、戦力比の計算もその一部に位置付けられています。

米軍において戦力比の計算は軍事的意思決定過程(military decision-making process, MDP)、特に相対戦闘力の評価の一部に位置付けられています。

教範によれば、ある部隊の戦闘力を評価する場合、その部隊の2段階下位に当たる部隊の数に着目せよと述べられています(FM 6-0, C2: 9-18)。

例えば、作戦の基本単位となる師団レベルで彼我の戦闘力を比較する場合、分析単位は大隊であり、大隊を基本にして彼我の戦力を比較することになります(Ibid.)。

ここで敵と味方の戦力比を計算する段階に入るのですが、もちろんこの分析は定量分析だけで済むものではないことに注意する必要があります。

教範でも「戦闘力は有形の要素だけでなく、士気や訓練の水準といった無形の要素をも両方評価することを要する」と補足されています(Ibid.)。

攻者3倍の原則は最小限の戦力比を表したもの
戦闘力の定量分析の基本として、まず敵と味方を攻者と防者に分けます。これは部隊行動によって最小限必要な戦力比が違うためです。

教範でもこのことははっきりと指摘されており、詳細については次のように解説されています。
「多くの場合、計画立案者は歴史上の事例に基づく最小限の戦力比を目安として用いる。例えば、攻撃する部隊が防者に対して約3倍の戦闘力を有していても、歴史的に考えれば防者がそれを撃破できる可能性は50%を超えている。つまり、したがって、基本的に指揮官は約1:3の戦力比を伴っていれば、それぞれの接近経路で防御することは可能なのである」(Ibid.: 9-19-20)
誤解されやすい点ですが、攻者は防者の3倍の戦力を要するという経験則は、いわば最低限必要な戦力のことを表しているのであって、3倍の戦力があれば攻撃は成功するという意味とは解されていません。

つまり、確実な成功を期するとすれば、攻者は防者に対して戦力比が3倍以上になるように部隊を集中させなければならない、ということが言えるのですが、このような計算は敵が後退行動をとっている場合や、要塞に立てこもっている場合に変化します。

任務、態勢ごとで異なる最小限の戦力比
部隊行動は攻撃や防御だけではありません。周到に準備した要塞に立てこもって戦う場合もあれば、後退行動を行う場合などがあります。

教範ではこのような状況も想定した上で、任務、態勢ごとに必要な最小限の戦力比も次のように紹介しています。
・遅滞行動 味方1:敵6
・防御(周到な準備あり):味方1:敵3
・防御(周到な準備なし):味方1:敵2.5
・攻撃(敵に周到な準備あり):味方3:敵1
・攻撃(敵に周到な準備なし):味方2.5:敵1
・逆襲(敵の側面に対して):味方1:敵1(Ibid.: 9-20を参照)
これも実質的な戦闘力が互角になる最小限の戦力比であって、この比率を満たすことができたから成功が確実視されるというわけではありません。

全般の戦力比として防者が優位だと分かりますが、興味深いのは攻者が逆襲で側面から敵を攻めることができた場合であり、この場合だけは攻者に求められる戦力比が防者に対して1となっています。

これは味方の部隊が敵の側面を突くことができれば、防者が享受する戦力3倍の効果は失われることを意味しています。

こうした判断基準を適用すれば、さまざまな分析が可能となりますが、対反乱作戦についてはまったく異なった計算方法を適用すべきことに留意して下さい。

ゲリラや反乱軍を相手にする作戦の場合、その作戦地域に居住する人口が戦力の見積で重要なデータであり、おおむね1,000名の住民がいる地域に対して20名から25名程度の兵士が確保することが必要とされています(FM 3-24)。

むすびにかえて
今回は教範の内容を紹介するにとどめましたが、この記事で取り上げたテーマは奥が深く、オペレーションズ・リサーチ、軍事シミュレーション、ウォーゲーム(兵棋)とも深く関係しています。

例えば戦闘力に関しては火力指数を作成し、敵と味方の装備の価値が技術力に応じて異なることを戦力比の分析に反映させる方法も研究がなされており、戦闘による損害の予測でも成果が上がっています。

このような定量分析を乱用してはいけないことはすでに述べた通りですが、重大な局面で軍事行動を決めなければならない場合、一つの重要な論拠となり得ますし、戦争がどのようにして遂行されているのかを理解する上で興味深いのではないでしょうか。

KT

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論文紹介 WEI/WUVとは何か、いかに応用すべきか

参考文献
U.S. Department of the Army. 2014. FM 6-0, Commander and Staff Organization and Operations, U.S. Department of the Army.
U.S. Department of the Army. 2014. FM 3-24, Insurgencies and Countering Insurgencies, U.S. Department of the Army.

2017年8月18日金曜日

論文紹介 暴動鎮圧にも戦術がある

本来なら暴動は警察学の研究テーマであって、軍事学の研究テーマにはそぐわないと感じられる読者もいるかもしれません。

しかし、世界の発展途上国で実施されている不正規戦争の事例を調べてみると、暴動がゲリラ戦を補完する戦術として利用されることもあり、一概に暴動は警察力で鎮圧すればよいと片づけるわけにはいかない場合があります。
これは米軍のように外国で占領地の治安維持に当たる場合があれば、なおさらです。

今回は、暴動を鎮圧する方法を戦術の観点から考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Stanton, Martin N. "Riot Control for the 1990s," Infantry, Vol. 86, No. 1(January-February 1996), pp. 22-9.

不正規戦争の一環としての暴動
この研究の目的は、米軍の暴動鎮圧ドクトリンを見直すことにあるのですが、著者は特に発展途上国に進駐した米軍部隊が暴徒の対処に当たるという状況を想定していました。

この研究が発表された当時は1990年代、つまりポスト冷戦の時代であり、発展途上国に米軍部隊が派遣され、現地の暴動を鎮圧する任務を数多くこなさなければなりませんでした(Stanton 1996: 22)。

著者は1990年代前半の米軍の戦闘経験に基づき、発展途上国の暴動は事実上のゲリラ戦として側面があったとして、次のように論じています(Ibid.: 23)。
「例えばソマリアにおいては、兵士は戦闘員(gunman)と対決するのと同時に、投石や手にしたもので打撃を加える群衆とも対決した。射撃を加える戦闘員を捕獲するため、部隊が暴動を起こすソマリ族を圧迫し、打撃する場面が何度も生じた。同じ暴動に致死的な暴力と非致死的な暴力を組み合わせて用いたことが、反応をより複雑なものにしてしまった」(Ibid.)
つまり、治安維持部隊を襲撃する暴徒は意図的に女性や子供を捲き込むことによって、武装している戦闘員の安全を確保する場合があり、暴動鎮圧をより困難にする可能性があるということです。

治安維持部隊にとって、このような暴徒から戦闘員だけを見つけて捕獲することは極めて困難なことですが、もし暴徒の接近を無制限に許せば部隊に多くの損害を出すことになりかねません(図1)。
暴動鎮圧の状況図、白丸が非武装の群衆、黒丸が武装したゲリラ、四角が兵士、斜線が障害をあらわしている。武器を使用する人間を非武装の人間が守ることによって、兵士は武器の使用を制限される態勢となる。
(Ibid.)
米軍は1960年代から暴動鎮圧について研究しており、野戦教範(FM 19-15)では分隊4個からなる小隊を基礎とする隊形も考案されていました。
しかし、著者はこれでは1990年代の暴動に対処することは不可能と考え、新たな小隊編制を考案することにしました。

暴動鎮圧を戦術的に考察する
それまで分隊4個からなる小隊編制がドクトリンで定められていましたが、著者は分隊3個からなる小隊編制に置き換えることを提案しています(Ibid.: 26)。

その上で全体の兵力を暴動鎮圧、監視、予備、特殊任務という4種類の部隊に区分して運用するべきとされており、それぞれの任務は次の通り示されています。
  • 暴動鎮圧部隊:群衆に対峙して暴動鎮圧隊形で通常展開する部隊であり、その規模は指向可能な兵力の3分の2を超えるべきではなく、可能な限り小規模にとどめる。
  • 監視部隊:暴動鎮圧部隊の状況を監視し、致命的な脅威から掩護するために展開する部隊であり、これは指向可能な兵力の3分の1までの規模にまで拡大できる。この部隊には狙撃手と自動火器、そして双眼鏡と望遠鏡が必要である。
  • 予備部隊:緊急事態に対処するため予備として拘置される部隊。
  • 特殊任務部隊:迫撃砲小隊のように特別な機能を果たすための部隊であり、非致死性の装備を使用する。
著者の提案する部隊の編制とその配置。群衆の正面に対峙するのが暴動鎮圧部隊だが、その左右両翼に監視部隊を配置し、後方には予備の部隊と特殊任務を遂行する部隊が配置されていることが分かる。なお、配置は地形に応じて変更することができる。(Ibid.: 27)
これまでの暴動鎮圧の要領と比較すると、小隊の規模は縮小されていますが、その分を他の任務に当たらせることができるようになり、暴動の鎮圧要領により柔軟性を持たせることが可能となります。

例えば、著者は1,000名の暴徒が50名の部隊を圧迫して戦力比が圧倒的に不利になった場合であれば、阻止線を突破される前に部隊として発砲すべきと論じていますが(Ibid.)、暴徒が集中した地点に予備を展開して400名程度の戦力を確保していれば、1,000名の暴徒が圧迫してきたとしても、それほど危険な自衛措置を取る必要なくなり、結果として互いの損害も減ると論じています。

著者の提案で注目すべきは監視部隊の配置です。暴徒が占領する街路を左右に挟む建物については、監視部隊を常に配置しておかなければならない、と著者は念入りに強調しています(Ibid.)。
これは暴徒の中に潜む戦闘要員を特定し、必要に応じて狙撃を行うための戦力であり、正面に展開する主力に情報をもたらす役割も担います。

著者の見解によれば、暴動鎮圧で最も難しいのはこの監視部隊の配置を常に適切にすることです。
もし暴徒が街路を移動すれば、部隊も状況に応じて移動しますが、この際に監視部隊を移動させることは難しく、主力である暴動鎮圧部隊との連携を保つことにも困難が生じます(Ibid.)。

例えば、著者は車両でバリケードを破壊する際に、最も警戒すべきは暴徒からのRPGによる攻撃であると指摘しており、もしそのような場面で暴徒の両翼に配置された部隊の監視がなければ、撃破される危険があると警告しています(Ibid.: 28)。

むすびにかえて
このような研究は今の日本に必要ないように思われるかもしれません。しかし、平和維持活動のような任務を遂行する場合、現地住民の暴動に捲き込まれる危険も考えられるため、決して無関係というわけでもないのです。

また、暴動が不正規戦争の一部として極めて暴力的な形態をとる可能性があるという著者の指摘は反乱または対反乱作戦の様相を考える上で興味深いものです。

一般にゲリラ戦では政府の監視が届きにくい農村部に拠点を置かれますが、支持者が多い場合などでは都市部を拠点に活動する場合もあり、市街地では一般民衆を暴動で捲き込むことによって警察や軍隊から安全を確保することも一つのテクニックです。

近代以降の戦争では国外の正規戦争と国内の不正規戦争が相互に影響し合う事例も少なくなく、こうした不正規戦争の一面を知識として知っておくことも大事なことだと思います。

KT

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学説紹介 革命の戦略家、マルクスとエンゲルス

2017年8月11日金曜日

学説紹介 嘉手納を弾道ミサイル攻撃から守り抜けるか

沖縄県の嘉手納飛行場は台湾に最も近接した米軍基地であるだけでなく、第一列島線上に位置する空軍基地でもあります。

米軍の対中作戦において嘉手納のような基地は戦力投射能力の基盤としての意味を持っていますが、これが弾道ミサイル攻撃で機能停止に追い込まれる危険はどれほどあるのでしょうか。

今回は、中国軍の弾道ミサイルの脅威を踏まえ、嘉手納飛行場の防空問題に関する分析を取り上げ、最近のデータも交えてその要点を紹介したいと思います。

弾道ミサイル攻撃の被害見積
1977年に撮影された嘉手納飛行場の航空写真、国土交通省作成
元海兵隊員で、米海軍大学校の元教授のMarshall Hoylerは嘉手納に対する弾道ミサイル攻撃について次のような想定で検討しています。
「中国が嘉手納の滑走路を破壊しようとすると想定しよう。高い命中精度のミサイルがあれば、わずか12発の単一弾頭で実行することができるだろう。6発の弾頭は3,700メートルの滑走路を3つに分断することが可能であり、戦闘機はおろか、AWACSや輸送機も着陸することができなくなる」(Hoyler 2010: 94)
さらにHoylerは滑走路だけでなく、地上に配備された機体もクラスター弾を搭載したCSS-6を40基ほど使用すれば一掃できると推計しています(Ibid.: 95)。

ちなみに、CSS-6(DF-15)は射程が600kmの短距離弾道ミサイルであり、中国では1990年から配備が確認されています。

2017年版の『ミリタリー・バランス』では推定81基保有していると報告されており、CSS-7(DF-11)の推計数と合計すると、短距離弾道ミサイルは189基と見積もられています(Military Balance 2017: 279)。

ただし、嘉手納飛行場には15カ所の掩体壕が設置されているので、それらに格納していれば、ある程度の被害軽減を図ることは可能とも指摘されています(Hoyler 2010: 95)。

中国軍の攻撃要領としては、まず滑走路を破壊し、航空機の離陸を封じてから、シェルターで防護されない機体をクラスター弾で広範囲に破壊する、という手順になるだろうとHoylerは判断しています(Ibid.)。

嘉手納飛行場の防空能力
PAC-3を整備する米兵、実戦での使用は湾岸戦争から始まり、米国以外では日本、韓国、ドイツ、イスラエルなどで運用されている。
弾道ミサイル攻撃が甚大な被害をもたらす危険があることが判明した以上、これに適切な対策を講じなければなりません。

Hoylerは、まず嘉手納飛行場の脆弱性を軽減するためにはシェルターを増設し、被害の局限を図るべきだと述べています(Hoyler 2010: 95)。

しかし、もちろんこの措置では発生する被害を事後的に小さくすることしかできません。

弾道ミサイル攻撃の脅威に対処する上で活用を考えなければならないのは地対空ミサイルであり、HoylerはPAC-3を分析対象として取り上げています。
「嘉手納のパトリオット高射大隊は、対弾道ミサイルPAC-3が配備された高射中隊4個からなる。パトリオット高射中隊には8個の発射装置があり、それぞれの発射装置には16発のミサイルが配備されている。嘉手納のPAC-3高射大隊が発射装置の再装填を行わないとしても、これらの数字は512発(4×8×16)のミサイルの保有を意味している」(Ibid.: 96)
沖縄に配備された高射大隊の規模から、Hoylerは264基のPAC-3が配備されていると見積っており、さらに早期警戒システムが完全に作動して撃破率が70%になると想定すると、対処可能な弾道ミサイル攻撃の規模は132基までだと述べています(Ibid.)。

先ほど述べた通り、2016年末時点での中国軍のCSS-6の推定数は81基とされているので、この数値をもとに計算すれば嘉手納飛行場に被害が生じるとは考えにくいでしょう。

ただし、軍事力に関するデータは情報源によってかなりの幅があることにも留意すべきでしょう。

この論文が出された2010年に出された米国防総省の見積では、中国軍がCSS-6を350基から400基も保有しているとの推計も紹介されています(Ibid.)。

むすびにかえて
嘉手納飛行場にとって弾道ミサイル攻撃の脅威は深刻なものですが、米軍もその脅威には相応の資源を割いて対応していることが分かると思います。

少なくとも2017年の『ミリタリー・バランス』のデータで推計する限り、嘉手納飛行場の防空能力は中国軍のCSS-6の攻撃に対処可能な水準にあるといえます。

ただし、米国防総省の見積が示唆するように、中国軍が132基以上のCSS-6を一斉に発射する能力を持っている可能性があるということも理解し、被害局限のための取り組みも進めておく方がよいということも分かりました。

こうした結果を見ると、米軍の防空への取り組み方が未だ不十分と感じるかもしれませんが、米国防総省が2010年度に調達したPAC-3の実績が791基であり、嘉手納の512基のPAC-3はその3分の2に近い数字になることも理解しておかなければなりません(Ibid.)。またPAC-3だけが弾道ミサイル防御のすべてというわけでもないことも付け加えておきます。

昨今、弾道ミサイルをめぐって東アジア情勢が不安定化しています。日本のミサイル防衛の体制をさらに改善できないか考えてみるきっかけになればと思います。

KT

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参考文献
Marshall Hoyler, China's Antiaccess Ballistic Missiles and U.S. Active Defense, Naval War College Review, Autumn 2010, Vol. 63, No. 4, pp. 84-105.
The Military Balance 2016-2017, 2017, The International Institute for Strategic Studies.

2017年8月9日水曜日

文献紹介 戦術学をゼロから学ぶ人への入門書

最近、戦術に関する入門書が少しずつ増えているようで、大変喜ばしいことだ思います。
しかし、戦術について何も知らない読者は、その書籍の内容がどれほど優れているのか、またどのような問題があるのかを判断できないため、その議論をそのまま受け取ってよいのか困ることも少なくないようです。

今回は、今年出版された戦術の入門書を取り上げ、その内容について簡単なコメントを行ってみたいと思います。

文献情報
木本寛明『戦術の本質 戦いには不変の原理・原則がある』サイエンス・アイ新書、SBクリエイティブ、2017年

戦いの原則から始まる堅実な解説
戦術学の研究文献にもさまざまなタイプがあり、思想的・概念分析的アプローチによるものもあれば、歴史的・定性分析的アプローチによるもの、そして理論的・定量分析的アプローチによるものなどがあります。

この著作は思想的・概念分析的アプローチに重きが置かれており、歴史的事例の分析や数理モデルの議論はほとんど出てきません。
その代わりに、初めて戦術に関心を持った読者が基本概念を幅広く理解することが目指されています。

著者が研究の基礎としているのはイギリス陸軍軍人フラー(J.F.C. Fuller)が提唱した「戦いの原則」です。

これは1924年に英陸軍が刊行した『野外要務令第2部』に初めて記載されたもので、後に米陸軍、陸自の教範にも影響を与えました。

その中には目標を確立してそれを徹底的に追及するという目標の原則や、戦闘で敵に対して主動的地位を確立することの意義を説いた攻勢の原則などがあり、『戦術の本質』の第1章「戦いには不変の法則がある」はほぼこれらの原則の解説に費やされています。

ストライカー旅団戦闘団に焦点
第2章以降は米陸軍の教範の記述に沿って戦術のさまざまなテーマについて説明がなされており、特に第2章「戦いの基盤」においては戦闘力の構成要素にどのようなものがあるのかが論じられています。

ここで印象的なのは、著者はあまり歴史上の部隊編制の分析に踏み込むことを避け、ストライカー旅団戦闘団(SBCT)のような現代の部隊に絞って紹介している点です。

SBCTはネットワーク化された米陸軍の歩兵部隊であり、3日間程度の戦闘を独立して遂行する能力を備えています。
SBCTは高度な指揮統制システムを持っているため、これについて知ることはサイバー戦を含めた現代の陸上作戦の様相を考える上での参考となりますし、兵站、人事、情報といった要素についても比較的丁寧に解説されています。

基本的に著者は旅団レベルの戦術を念頭に置いた議論を展開しており、以降の議論でも旅団に関する言及が繰り返されています。

分かりやすい図解、テーマの選択基準に疑問
第3章「戦いのサイエンス」では、機動や突破、迂回のような攻撃機動の方式から始まり、さまざまな戦闘行動のパターンについて説明がなされています。

どの項目を見ても概念図で丁寧に解説されているため、文章の意味がとりにくい初心者でも確実にイメージできるような工夫も見られます。

ただし、この章では当然取り上げられてしかるべき重要なテーマに関する解説が、部分的に省略されています。

例えば、著者は攻勢作戦の一種と分類される遭遇戦の解説に4頁を費やしていますが、同じく攻勢作戦の一種とされる陣地攻撃、戦果の拡張、追撃に関しては紙面を割いていません。

米陸軍の教範に依拠すると述べているにもかかわらず、独自の判断であえて一部の行動について取り上げずに済ませた意図はよく分かりません。

ただし、防勢作戦に関しては陣地防御、機動防御、後退行動に関する解説が一通り確保されていますし、数式を出さないもののランチェスターの交戦理論についても言及がなされています。

軍隊の思考過程が理解できる
第4章の「戦いのアート」では、状況判断から決心に至るプロセスが解説されており、ここでも米軍の教範の内容をほぼ忠実に記述しています。

米軍では軍事的意思決定過程(military decisionmaking process)が標準化されており、任務の受領から始まって、任務の分析、行動方針の案出、分析、比較、承認、そして計画・命令の作成に至るまでの間に、どのような事項について考察すべきなのかが定められています。

また任務の受領から命令の作成に至るまでに与えられる時間については、指揮下部隊の準備を考慮して、現在から作戦開始までの3分の1の時間だけを使用するという3分の1ルールも紹介されており、軍隊以外の組織における意思決定にも活かせる考え方が紹介されています。

ここでも著者が議論で念頭に置いているのは旅団レベルの部隊運用なので、ここでの議論も旅団本部での幕僚活動を想定したものとなっていますが、METT-TCという中隊以下の指揮官を対象とした任務分析の方法についても簡単に紹介されています。

第5章の事例研究には問題がある
残念ながら、第5章「アートとサイエンスの叙事詩」はこの著作で最も完成度が低い章であり、この著作の価値を著しく引き下げていると言わざるを得ません。

この章では米軍の教範の内容から離れて、歴史上の事例に関する分析が行われているのですが、その分析の視座は曖昧であり、事例の選択基準も明確ではなく、無理やり文章を寄せ集めた印象さえあります。

この著作は全般として戦術の入門書という性格が強いのですが、この章における事例分析に関しては時代背景の説明や基本情報の提示が不十分であり、しかも十分な根拠に裏付けられていない著者の印象論は知識のない読者を困惑させます。

気になったのは、ここまで陸上戦闘を前提にした戦術が議論されてきたにもかかわらず、海上戦闘の事例が2例ほど突然登場する点であり、これはまったく不適当な事例選択です。

しかも、著者は一貫して旅団レベルの戦術を想定して議論しているにもかかわらず、この章で取り上げられる事例はいずれも旅団レベルの運用ではないため、全体の一貫性が大きく損なわれているという問題も指摘できます。

むすびにかえて
防大12期の陸上自衛官だった著者は、富士学校の機甲部副部長や幹部学校の主任研究開発官などの職務を通じて機甲部隊の戦術研究に長く取り組まれていたこともあり、その考察には全体として堅実さと安定感があります。

現代の陸上作戦の様相を踏まえて、ゼロから戦術について勉強してみようと意気込む方であれば、この著作を通じてさまざまな戦術の基本概念を知ることができますし、より専門的な研究に移るための導入学習としてもちょうどよい教材だと思います。

ただ、本書の議論には全体として体系性に欠けるところがあります。
取り上げているテーマの選択の仕方にも米軍の教範に依拠する部分とそうでない部分があり、特に最後の事例分析に問題があることはすでに指摘した通りです。

結論として、戦術の基本概念をゼロから知りたいという方であれば、この著作はよい出発点であり、丁寧な図解だけでも読む価値があると思います。

ただ、戦術の原則や概念にあまり関心がなく、具体的な事例分析を読んでみたいという方であれば、この著作ではなく、家村和幸編『図解雑学 名称に学ぶ世界の戦術』ナツメ社、2009年、あるいはリーガン『「決戦」の世界史』森本哲郎監修、原書房、2008年などに当たることを推奨します。

KT

2017年8月4日金曜日

文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

戦術の発展を促してきた要因は一つではありません。その時代、その地域に主流だった隊形や編制、武器や装備など、多くの要因が相互に影響し合っています。
しかし、兵役制度が戦術思想の発展に与えた影響は比較的理解されているところが少ないかもしれません。

今回は、20世紀の兵役制度の変化が歩兵小隊の戦術をどのように変化させてきたのかを考察した社会学者アンソニー・キングの研究を紹介したいと思います。

文献情報
King, Anthony. 2013. The Combat Soldier: Infantry Tactics and Cohesion in the
Twentieth and Twenty-First Centuries. Oxford: Oxford University Press.

歩兵小隊の戦術が重要な理由
この研究の目的は、20世紀に徴兵制から志願制への移行が進む中で、陸軍の歩兵戦術、特に歩兵小隊の戦術にどのような変化が生じていたのかを解明することです。

20世紀初頭の各国陸軍では徴兵制で人員を集めることが一般的になっていましたが、そのときに問題となったのが戦闘効率の問題だったと著者は指摘しています。
「20世紀の大衆軍(mass armies)は近代的な武器を使用させる上で集団行為の問題の解答を探し求めるために努力した。つまり、集団としての戦闘効率は市民からなる歩兵部隊にとって問題であり続けたのだ」(King 2013: 60)
著者は第二次世界大戦で兵士の行動を調査したマーシャルの研究を取り上げ、第一線における兵士の発砲率の低さが指摘されていたことを紹介していますが、この研究は徴兵制で作り上げた陸軍の戦闘効率の低さを示唆していると評しています(Ibid.)。

しかし、マーシャルをはじめ、これまでの研究者は歩兵戦術の変化と戦闘効率の変化との関係について十分に考察しておらず、この研究はその空白を埋めるためのものとして位置付けられています。

戦術単位としての歩兵小隊の成立
著者の調査によれば、19世紀末から20世紀初頭の歩兵戦術は短間隔、つまり密集した状態で部隊が行動することが前提とされていました。

このことはプロイセン軍の『1888年教令』でも見出すことができますし、また20世紀に入ってからもイギリス軍の1909年版『野外勤務例』、1914年版の『歩兵訓練』で繰り返し表明され、そこでは歩兵中隊は砲兵の支援を受けながら、敵陣地に対して密集横隊で前進することが述べられていました(Ibid. 130)。

しかし、第一次世界大戦の戦闘経験から、こうした戦術思想は廃れていき、歩兵中隊ではなく歩兵小隊を単位とする戦術の発展が促されることになりました。

著者は1917年を一つの転換点と見て次のように述べています。
「1917年以降、基本戦術単位は小隊になり、通常3個から4個分隊から編成され、射撃で相互に前進を支援し合った。小隊を単位とする射撃と運動という戦術上の発見は重要であり、恐らくは歩兵の技術において歴史的な瞬間であった。ハンス・デルブリュックが古典時代の戦争研究において、ギリシアのファランクスがローマのレギオンに置き換えられたことを軍事的革新にとっての決定的瞬間だったと書き残した」(Ibid.: 131)
戦争の歴史ではじめて歩兵小隊が戦術単位となったことで、小隊長は小隊員を運用する高度な戦術能力を獲得する必要が生じてきたということです。

徴兵制から志願制への移行期
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて歩兵小隊の戦術が大きく発展するかと思われましたが、変化の速度は緩慢だったとされています。

著者の見解によれば、この移行プロセスを妨げていたのは徴兵制でした。
徴兵制の下では士官や下士官の戦術能力を養成する時間に制約があったと著者は指摘しています。
「専門職化(professionalization)もまた組織体としての軍隊にとって重要な事象であり、またしばしば見過ごされるものでもある。それは軍人、制度的忠誠、能力、運用効率の関係を抜本的に変えるものであった。専門職化は単なる軍隊と兵士の雇用関係の変化を表すものではない。それは軍隊において示される忠誠心、そして軍隊における組織形態に関する重大な変化を表している」(Ibid.: 208-9)
陸軍において軍事的プロフェッショナリズムが強化されるきっかけとなったのは、20世紀後半に各国で進んだ徴兵制の廃止でした。

イギリスは1960年に徴兵制を廃止し、1963年以降に徴兵で集められた兵士は陸軍からいなくなります(Ibid.: 209)。
アメリカで徴兵制から志願制に移行したのはもう少し遅く、ベトナム戦争の影響を受けて1973年に廃止しています(Ibid.)。

こうした経緯を経て職業軍人の陸軍が登場すると、これまでにない技術を歩兵戦術に取り入れて戦闘効率の向上を進めることも可能となっていきました。

近接戦闘(CQB)の研究と普及
完全志願制に移行した影響のうかがわせる出来事として著者は近接戦闘(Close Quarters Battle, CQB)の導入を取り上げています。

CQBの特徴は、指揮官が部隊行動を細かく統制できない市街戦のような場面においても、小隊、分隊、班、個人が細かく相互に支援し合いながら交戦することにあります。

これは歩兵小隊の戦術を大きく発展させる可能性がありましたが、現場ではCQBがあまりにも高度な訓練を要するという理由で、導入に慎重な意見もあったのです。
「CQBの技術は特に人質救出の任務に当たる特殊部隊のために開発されたものであり、それは特殊部隊にとって極めて重要なものであった。しかし、イギリス海兵隊のような正規の歩兵の基本的な役割は、市街地だけでなくあらゆる地形において大隊、旅団規模で機動することであった。(中略)CQBが有益であるとしても、大規模な歩兵部隊においてCQB技術の練度を十分な水準に維持することは不可能だとも論じられた」(Ibid.: 264)
しかし、徴兵制から志願制に移行したことで、職業軍人たちはこの問題に長期的に取り組むことができるようになり、研究が大きく前進することになりました。

20世紀末に近づくと、もはやCQBは特殊部隊の技術ではなくなり、歩兵小隊の戦闘訓練の基本要素として取り入れられるまでになりました。

むすびにかえて
1914年のイギリス軍が歩兵中隊を密集隊形で戦わせていた時機と比べれば、現代の歩兵戦術はまるで違って見えるでしょう。
部隊として行動を統制されることはもはやなく、兵士一人ひとりが状況に応じた行動をとり、それが小隊全体としての戦闘効率を高めているためです。

しかし、それは戦術それ自体の発展だけで説明できるものではなく、それを実行する軍人の能力の高度化をも表しており、引いては軍事組織のあり方が変わったことを示してもいます。

著者が主張しているのはまさにこのことであり、歩兵小隊が次第に独立した戦術単位となり、さらにそこからCQBを取り入れてより高度な戦術を発展させることができたのは、志願制の効果によるところが大きいと考えなければなりません。

兵役制度と戦術思想の関係を考える上で、本書は興味深い視座を示しているのではないでしょうか。

KT

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2017年8月1日火曜日

学説紹介 コリン・グレイの戦略論―攻撃と防御の区別を中心に

安全保障を研究する学者や専門家の間で広く使われている用語に攻撃(offense)と防御(defense)があり、例えば政策論争において攻撃的な戦略や装備は戦争のリスクを高める危険が生じて来る、などのような使われ方がされています。

しかし、そもそも戦争において攻撃と防御は明確に区別できるものなのか、という根本的な論点をめぐって論争があることにも注意しなければなりません。
今回は、コリン・グレイの研究でこの問題に関する議論を紹介したいと思います。

戦略レベルで攻撃・防御の分類は困難
ドイツの西部国境に沿って構築されたジークフリート・ラインには多数の障害が設置されていたが、それは東部国境において大規模な軍事行動を起こすための兵力集中を容易にしたと指摘されている。
グレイは政策や戦略の研究において攻撃と防御を単純に分類することは、特に国家の軍備を攻撃的なものと防御的なものに区別することは分析の視座として妥当とは言えず、混乱を引き起こしやすいして、次のように論じています。
「攻撃と防御は政策レベルにおける主体的な判断に属するものである。それは戦術、作戦、戦略と緊密に関連し合い、支え合うものなので、戦略の歴史を理解するための理論的基礎としての利点は乏しい。例えば、固定的な守備隊の火砲、地雷原、組織化された築城はいかなる定義においても防御的なものと思われる。戦術的に考えれば、コンクリートと鉄鋼で構築された防備はそれ以上でもそれ以下のものでもない。しかし、作戦、戦略、そして政治の観点で考えれば、1939年におけるナチのドイツ軍のジークリート・ラインは防御のための盾であったが、それは東部でポーランドに対して攻勢をとるための行動の自由をドイツに与えるために寄与するものであった」(Gray 1999: 180)
国境地帯に強固な防衛線を構築することは、その国家の政策、戦略、作戦が防御的な傾向を持つ証拠とはなり得ませんし、逆もまた然りです。

1939年にフランスがマジノ・ラインとして知られる防衛線を構築したことは、政策レベル、戦略レベルで防御を意図した結果でした(Ibid.)。

つまるところ、ある国家の軍備についてそれが攻撃的なものか、防御的なものかを判断することは極めて困難だという立場をグレイはとっているのです。

戦術レベルもまた政策・政治に左右される
グレイの戦略論はクラウゼヴィッツの思想に深く根差したものであり、政策と戦争を切り離して理解することはできないという考えに基礎を置いたものです。

そのため、グレイは戦術レベルの攻撃と防御すらも本質的に政策によって左右される性質のものであると考えており、それが冷戦期の研究者の議論で誤解されていたことを指摘しています。
「交戦の戦術レベルにおける軍事動向の意味も、その特定の政治体(polities)の政治的、社会的、文化的な属性に基づくものである。例えば、冷戦期に大国が保有する長射程の核兵器、いわゆる戦略攻撃(strategic offensive)戦力は防御手段であり、侵略のために使われることを許されていたわけでも、またそれが推奨されていたわけでもなかった」(Ibid.)
さらにグレイの研究では、攻撃的とされる弾道ミサイルや機甲師団のような軍備もまた、状況の特性や国家の意図によって防御的な性質を持ち得るものであると指摘されており、それは政策・政治レベルの判断によって左右されるものだと念を押しています。
「例えば大陸間弾道ミサイルや機甲部隊のような技術的、戦術的特徴を持つ軍事力はその地政学的な配置と保有者の戦略文化に応じて異なる戦略的意味合いを持つ可能性がある。(中略)南シナ海における優勢な攻撃的海上打撃力はその保有者が米国か中国かによってまったく違った戦略的、政治的な意味合いを持つことになるのである。したがって、攻撃と防御は政策目標の正統性に対する態度を含めた判断に依拠する。それらの性質は社会的に構築されるものである。またそれらは本質的、全般的に特定の兵器に潜むものではないのだ」(Ibid.: 181)
それゆえ、その軍備が攻撃的なものかどうかは外形的特徴で判断できるものではありません。もちろん、航続距離や射程などの性能でその兵器が攻撃的かどうかを評価することもグレイにとってはほとんど意味がないことです。

より重要なことは対象とする国家の政治的意図、つまり政策を分析することであり、攻撃的な意図を持つ国家の軍事力は攻撃的な傾向を持つだろうと推測できるに過ぎません。

むすびにかえて
攻撃と防御の関係についてはクラウゼヴィッツ以来、さまざまな分析が軍事学でなされてきた問題です。
ジョミニの戦略思想で強調された戦略レベルでの攻勢の優位は、後にヨーロッパ列強の陸軍で影響力を持ち、第一次世界大戦前の戦争計画を大きく規定したという議論もあります。

今回の議論はそうした攻撃と防御をめぐって展開されている議論の一部であり、グレイのより詳しい見解を知りたければ、Gray(1993)の第1章から第2章を参照するとよいでしょう。また攻撃と防御を明確に区別できると考える立場に立った研究としてはQuester(1977)があるので、こちらの文献も参照するとよりこの問題について深く理解できると思います。

最後に政策との関連を述べておくと、日本では専守防衛という既定方針の下で攻撃的兵器と分類される装備を保有することを認めてはいません。しかし、グレイの研究はその方針にどれほど意味があるのか改めて問う必要があることを示唆していると思います。

KT

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論文紹介 安全保障のジレンマの原因は軍備それ自体ではない

参考文献
Gray, C. S. 1993. Weapons Don't Make War: Policy, Strategy, and Military Technology. Lawrence:  University Press of Kansas.
Gray, C. S. 1999. Modern Strategy. Oxford: Oxford University Press.(邦訳、グレイ『現代の戦略』奥山真司訳、中央公論新社、2015年)
Quester, G. H. 2002(1977). Offense and Defense in the International System. New York: Routledge.