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2017年11月21日火曜日

学説紹介 防衛経済学(defense economics)という学問がある

防衛経済学(defense economics)は経済学の理論や方法を防衛問題に適用する研究領域です。
そこで扱われているテーマは実に多種多様であり、軍拡競争の分析もあれば、防衛予算の変化がマクロ経済に与える影響、防衛産業基盤をめぐる問題も含まれています。

今回は、防衛経済学が軍事学の分野として成立した経緯を紹介し、そこで登場した代表的な文献にどのようなものがあるのかを紹介したいと思います。

第二次世界大戦の経験

もともと防衛経済学は第二次世界大戦における人的資源と物的資源の最適な配分を研究するために米国で生まれました。
この背景には、米国が1941年に参戦してから国家総動員の一環として各地の大学から学者を集め、さまざまな調査研究に従事させていた事情がありました。
これは軍事学という軍人だけが研究していた分野に、多くの文民研究者が参画する契機となったのです。

当初、防衛経済学の研究は兵站管理の研究が主流だったのですが(Lincoln 1954)、やがて潜在的な敵国の兵力を弱体化させるため、どうやって経済力を低下させるべきかという問題も取り扱われるようになり(Knorr 1956)、戦略爆撃の効果をマクロ経済の手法で見積る研究もこうした潮流の中で生み出されました(U.S. Strategic Bombing Survey 1945-6)。

第二次世界大戦を通じて経済学が国防問題を解決する上で有用であることが認識されると、防衛経済学を一つの学問として体系化する動きが出てきました。
その過程で防衛経済学の対象は経済に関する問題だけでなく、戦略学といった軍事学の中核的領域にまで広がるようになりました。

冷戦期の防衛経済学の成長

防衛経済学の概説書として今でも古典的業績と見なされている著作にヒッチとマケインが1960年に刊行した『核時代における国防経済学(The Economics of Defense in the Nuclear Age)』が挙げられます。
この著作は経済学の概念を防衛問題に応用するための方法が系統的にまとめられており、防衛経済学を一つの学問として確立する上で重要な一歩となりました。

1960年代には、これに続いて防衛経済学の優れた研究が相次いで出されています。
軍拡競争のメカニズムを理論的に分析したリチャードソンの『軍備と危険(Arms and Insecurity)』(1960)や、ゲーム理論に基づく抑止の分析方法を確立したシェリングの『紛争の戦略』、防衛調達市場における武器調達の問題を検討したシェーラーの『武器調達過程(The Weapons Acquisition Process)』(1962)は、いずれもその後の防衛経済学の研究者が基本文献とする優れた業績でした。

これらの研究成果の内容からも分かるように、すでに1960年代の段階で防衛経済学の研究対象は戦時経済や防衛産業の問題だけでなくなります。
防衛経済学はあらゆる軍事問題について議論するようになり、軍事学における防衛経済学の地位は確固としたものとなりました。

その後、防衛経済学は研究領域の細分化に進み、同盟理論、抑止理論、軍拡競争、防衛調達、兵役制度、軍需産業、武器貿易、軍事予算などの研究へと発展していくことになるのですが、その詳細はまた別の記事で取り上げたいと思います。

文献案内

より深く防衛経済学を学びたいなら、まずはサンドラー、ハーストの『防衛の経済学(The Economics of Defense)』(1995)を一読するべきでしょう。(文献情報については下記の参考文献を参照)
1995年出版のため少し内容が古くなっていますが、防衛経済学の研究を幅広く取り上げ、その論点を分かりやすく提示した上で、いくつかの重要な学説について要約しており、入門者にとって有益な内容です。
ただし、基本的な経済学の知識がある読者を想定して書かれているため、内容には一部難解な部分が含まれています。

1960年に出たヒッチとマケインの『核時代の国防経済学』は邦訳が出ているので、最新の研究動向を踏まえた内容でなくてもよい方は、こちらの文献の方が分かりやすいかもしれません。古典的著作とされるだけあり、目新しさはありませんが、巧みな解説が見られます。

2007年に出たポースト『戦争の経済学』は抑止や同盟といったテーマを取り扱っていませんが、比較的最近刊行された文献ということもあり、入手しやすい入門書と言えます。
狭い分野しかカバーしていないため、防衛経済学の研究領域を概観するには問題がありますが、数式も少なく抑えられており、読みやすい文献だと思います。

日本における防衛経済学の研究動向は全般として低調であり、入門者を想定した教科書や参考書を見つけることは極めて困難な状況です。
長い時間がかかるでしょうが、こうした現状は一歩ずつ改善しなければならないでしょう。防衛経済学は現代の軍事学にとって欠かすことができな重要な研究領域の一角を占めており、より多くの人々にこの学問を認知してもらう必要があると思います。

KT

参考文献

文献案内で紹介した文献
Todd Sandler, Keith Hartley, The Economics of Defense, Cambridge University Press, 1995.(『防衛の経済学』深谷庄一監訳、日本評論社、1999年)


 Charls Hitch and Roland McKean, The Economics of Defense in the Nuclear Age, Harvard University Press, 1960.(『核時代の国防経済学』前田寿夫訳、東洋政治経済研究所、1967年)


Paul Poast, The Economics of War, McGraw-Hill, 2006.(『戦争の経済学』山形浩生訳、バジリコ、2007年)



その他の文献
K. Knorr, The War Potential of Nations, Princeton University Press, 1956.
Lewis Richardson, Arms and Insecurity: A Mathematical Study of the Causes and Origins of War, Homewood, 1960.
G. Lincoln, Economics of National Security, Prentice Hall, 1954.
Thomas Schelling, The Strategy of Conflict, Harvard University Press, 1960.(『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス 』河野勝訳、勁草書房、2008年)
M. Peck and F. Scherer, The Weapons Acquisition Process, Harvard University Press, 1962.
U.S. Strategic Bombing Survey, The Effects of Strategic Bombing on the German (Japan's) War Economy, U.S. Department of the Air Force, 1945-6.

2017年11月17日金曜日

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。

最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。
これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。

イギリスの学者ベイジル・リデル・ハートが検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。

最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた

ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて
まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。
そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。
「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁)
こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。
ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。

結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送りにしました(同上、269頁)。

つまり、1941年6月22日にドイツ軍がソ連国境を越えた時も、ドイツ軍の主力がソ連のどこに向かおうとしているのかは、はっきりと決まっていなかったということです。

先送りにした問題が再浮上した7月

1941年6月22日から1941年12月5日までの状況推移
黄色の地域が7月までにドイツ軍が到達した地域を表している。その後、ドイツ軍は中部の部隊の一部を南部に転進させるなど、戦力運用に一貫性を欠いた。
6月にバルバロッサ作戦が始まると、ドイツ軍は国境地帯を突破することに成功し、目覚ましい戦果を上げました。
作戦の発起から6日しか経っていない6月29日の時点で、ドイツ軍の部隊がミンスク(現在ベラルーシ首都)に到達し、そこで30万名近いソ連軍の捕虜を獲得したことも、当時のドイツ軍の快進撃の結果でした(同上、269-270頁)。

しかし、7月に入ると次第にドイツ軍は兵站の問題に悩まされ始めます。北方の戦線ではバルト諸国の森林地帯で進撃の速度が失われ始め、中部の戦線ではソ連軍が頑強にドイツ軍に抵抗し、南部では広大な湿地帯で部隊間の連絡に支障が出始めました。

戦略的に考えれば、どの攻撃目標を重視するかを判断し、戦力の集中が必要な局面であり、ブラウヒッチュはやはりモスクワ攻撃を急ぐべきとの判断から中部に戦力集中を考えていました。しかし、ここでヒトラーとの意見対立が再度、表面化します。
「しかし、ヒトラーは、レニングラードとウクライナを主目標として取上げる自己の最初の構想を実行に移すべき時機が到来したと考えた。彼は、レニングラード及びウクライナの重要性のほうをモスクワよりも上位に格付けするに際しては、将軍らの間に居た彼への批判者の大部分が思ったように、レニングラード及びウクライナの経済的効果と政治的効果を考えていただけではなかった。彼は超特大の規模のカンネのような作戦を心に描いていたようである」(同上、271頁)
こうして7月19日にヒトラーは新たな命令でレニングラードとウクライナ方面に部隊を転進させ、ブラウヒッチュもこれを受け入れますが、モスクワ攻撃の必要性はその後も一貫して主張し続けます(同上、271-272頁)。

ブラウヒッチュに譲歩したヒトラー

1941年のモスクワ、ドイツ軍の攻撃に備えて、道路が封鎖されている
ヒトラーが求めたレニングラードにドイツ軍の部隊が到達するのは8月末のことですが、戦力が十分ではなく、陥落させることができませんでした(同上、273頁)。
北部の戦況に比べれば、南部のウクライナでは順調にドイツ軍は攻撃を続け、9月17日、キエフを占領することに成功し、20万名を超える捕虜を獲得しています(同上)。

この8月から9月にかけての情勢変化と関連して重要だったのは、ヒトラーがブラウヒッチュの主張する作戦方針を部分的に受け入れ始めたことです(同上、273-274頁)。
9月にはヒトラーは自らの考えを修正し、レニングラード攻囲戦とウクライナでの戦果拡張が続く中で、10月にモスクワ攻撃の必要を認めるに至ります。
しかし、これは積極的な賛成というより、ブラウヒッチュの執拗な主張に対する譲歩と呼ぶべきものであり、ヒトラーはモスクワ攻撃が成功するのか懸念を持っていたようです。
「一般に考えられていたことと反対に、ヒトラー自身は 、モスクワ占領への継続的努力を強いる原動力ではなかった。最初から彼は、モスクワを他の諸目標よりも重要性の少ないものと見なしていたし、彼はモスクワの方向に行なう遅れ走せの十月攻勢を裁可するにはしたが、それについての新たな危惧を再び抱いていた」(同上、274頁)
事実、当時のドイツ軍の戦闘力は極度に低下し、ソ連軍が守るモスクワを正面から攻め落とせるかどうか厳しい状況でした(同上)。
ブラウヒッチュ自身もこの問題を認識していましたが、それまで再三にわたりヒトラーにモスクワ攻撃を進言してきたので、今さら作戦中止を提案することに躊躇したとリデル・ハートは述べています(同上)。

むすびにかえて

その後、ドイツ軍はモスクワ攻撃に失敗し、ブラウヒッチュはすべての責任をヒトラーから押し付けられる形で罷免されました(同上、275頁)。
こうして、ソ連は存亡の危機を脱し、ドイツは短期決戦に持ち込む機会を失うことになります。

ここでは個人の責任問題に立ち入らず、リデル・ハートが指摘した敗因をまとめておくだけにしておきます。
リデル・ハートはバルバロッサ作戦の失敗が「最高指導層における意見の分裂」によるものであり、それは起こるべくして起きた災難だったと考えました(同上、275頁)。
ヒトラーとブラウヒッチュの意見対立は、国境地帯を突破した後のドイツ軍の行動を事前に規定することを妨げただけでなく、攻撃目標に関する一貫した決定を妨げたのです。
結果として、ドイツ軍の作戦はヒトラーとブラウヒッチュのどちらにとっても中途半端なものになってしまいました。

これが戦いの原則の一つ「目標の原則」に反していることは明らかです。
当時のソ連軍の健闘があったこともよく考慮しなければいけませんが、ドイツ軍のバルバロッサ作戦が終わりに近づくにつれて行き詰まりを見せたのは、その作戦計画そのものが不完全な状態だったからだと言えるでしょう。

KT

関連項目

学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則
学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―
論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

参考文献

Liddell Hart, B. H. 1967(1954). Strategy. Second Edition. London: Faber & Faber.(邦訳『戦略論 間接的アプローチ』森沢亀鶴訳、原書房、1986年)

 

2017年11月10日金曜日

学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―

プロイセンの軍事学者として知られるカール・フォン・クラウゼヴィッツは、かつて戦争と政治の関係について重要な学説を提起したことで知られています。

彼の命題はその後の軍事学者の間で繰り返し参照されることになり、政治の観点から戦争を研究する意義を指摘したクラウゼヴィッツの思想を表わす記述として知られるようになりました。

しかし、クラウゼヴィッツは具体的に何を論じていたのかという点については、よく分からない方も少なくないと思います。

今回の記事では、クラウゼヴィッツの戦争観が読み取れる記述をいくつか紹介し、政治と戦争の関係に関する彼の思想を紹介してみたいと思います。

戦争は政治の道具である

クラウゼヴィッツの軍事思想の特徴は、戦争が政治の道具であり、政治が示した目的を達成するために戦争は遂行されるという関係をはっきりと規定したことにあります。
「そこで戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国の政治的交渉の継続であり、政治における手段とは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。
 してみると、戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争において用いられる手段に固有の性質に関連するものだけである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上、58頁)
クラウゼヴィッツが述べた通り、戦争が政治の道具であるならば、戦争において用いられる手段、つまり軍隊や武器に特有の性質が多少関連するとしても、それは必ずしもその戦争を理解する上で重要なものではありません。

もちろん、クラウゼヴィッツは軍事力を運用する上で直面するさまざまな問題や制約を理解していましたが、「かかる要求が政治的意図にどれほど強く反映されるにせよ、そのようなものがいちいち政治的意図を変更し得るなどと考えてはならない。政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段にすぎないからである」とも述べています(同上)。

戦争の原動力となっているのは政治の目的であり、軍隊の能力はそれを達成するために使用されるに過ぎません。戦争は政治の道具であり、政治が戦争の道具になるようなことは、クラウゼヴィッツの考え方からすると、到底考えられません(同上)。

政策形成における政治対立の問題

戦争が政治の道具だとして、その政治はどのように方向付けられるのでしょうか。
クラウゼヴィッツは基本的に国家で権力を握っている特権的集団によってそれが決まると考えており、そのことを次のように述べています。
「戦争は元来、一国の知能であるところの少数の政治家および軍人によって発起せられる。そしてこの人達なら、彼等の目標をしっかりと見定めて、戦争に関する一切の事項をいちいち点検することができるだろう」(同上、下362頁)
しかし、クラウゼヴィッツは実際の政治がそのように単純なものではないことも理解していました。

つまり、一カ国の内部において権力が複数の人間に分散し、一貫した政策決定が阻害される場合もあると考慮していたのです。(これは過去の記事「論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦」で紹介した事例も該当するでしょう)
「しかしそのほかにも国家の要務に携わる多数の人達があり、かかる場合には、この人達の存在も無視するわけにいかない、とは言えかかる人達がすべて当局者と同じ立場にたって、一切の事情を了解し得るとは限らないだろう。そこで反目や軋轢が生じ、この困難を切りぬけるには、多数の反対者を圧服するような力を必要とする。しかし、この力は十分に強力でないのが通例である」(同上)
ここで示唆されているのは、政策形成に携わる関係者が、それぞれ党派的な利害で対立を繰り広げた結果、政策論争で折り合えず、しかも最高権力者さえも自らの立場を押し通すことができない場合があるということです。

これが国家として一貫した戦争目標の設定を困難にするだけでなく、組織的な戦争努力を阻害する要因になることは言うまでもありません。

クラウゼヴィッツは「かかる不一致は、彼我両国のいずれかに生じるし、或はまた双方に生じることもある」と述べた上で(同上)、戦争がより長期化、緩慢になる傾向を助長すると指摘しています。

むすびにかえて

クラウゼヴィッツは戦争を理解するために政治を理解せよと主張していただけではありません。

政治の領域で起こるさまざまな権力闘争や意見対立が強いリーダーシップの下で解消されないままになると、それが戦争の遂行にも影響を及ぼすということを述べていたのです。

一般にクラウゼヴィッツの分析は戦争で起こる事象にのみ焦点が絞られていると考えられがちですが、むしろ戦争で起きている軍事上の出来事を理解するためには、政治の世界で起きていることを理解すべきと論じた人物として位置付けられるべきです。

この意味においてクラウゼヴィッツは、戦争を研究するために、政治分析・政策分析を積極的に取り入れる必要があることを論じた軍事学者だと評することもできるでしょう。

KT

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参考文献
クラウゼヴィッツ『戦争論』篠田英雄訳、全3巻、岩波書店、1968年

2017年11月4日土曜日

論文紹介 イラクの情勢を一変させた第三軍団の攻勢―オディエルノの作戦術―

レイモンド・オディエルノ(1954-)、元米陸軍参謀総長、2015年に大将の階級で退役
2006年に第三軍団司令官としてイラクに入り、治安回復で大きな成果を上げた。
オディエルノ(Raymond Odierno, 1954-)は米陸軍参謀総長も務めた米国の軍人であり、2017年現在ではJPモルガンで顧問として働いているそうです。
彼には2006年から2年にわたり第三軍団の司令官としてイラクにおける作戦を指揮した経験があるのですが、最近この作戦に注目する論文が発表されました。

今回は作戦術という観点からオディエルノが指揮した第三軍団の作戦を考察した研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

文献情報
Wilson C. Blythe Jr., "III Corps during the Surge: A Study in Operational Art," Military Review, Vol. 97, No. 5(September-October 2017), pp. 78-85.

悪化する治安情勢、オディエルノの作戦転換

著者は、オディエルノの功績を理解する上で作戦術の視点が重要だと述べています。
もともと作戦術という概念は、ある統一された目標を達成するため、作戦地域の全域において複数の作戦部隊の行動を同時的かつ連続的に実施するためのものです(Ibid.: 78)。

オディエルノがイラクで武装勢力を相手に行った作戦はこの作戦術の考え方によく合致していると著者は指摘しています。

2006年11月、オディエルノの第三軍団がイラクで第五軍団から任務を引き継いだ時、治安情勢は悪化の一途を辿っていました。
その原因は同年2月22日に起きた爆弾攻撃で宗派間闘争が激化したことであり、11月だけでも3462名のイラク人が命を落としている状況でした(Ibid.: 79)。

当時、第五軍団に与えられた任務は、イラクにおける前方作戦基地の数を2006年末までに110カ所から50カ所に減らし、イラク治安部隊に権限を移譲する準備を進めることでした(Ibid.: 79)。
そのため、2月以降に治安情勢が急激に悪化する事態に対して有効に対応することは困難であり、結局2006年末になっても前方作戦基地を50カ所に減らす目標は未達という状況でした(Ibid.)。

オディエルノは現地の状況を把握すると、直ちにイラク多国籍軍と事後の作戦行動について検討を重ね、イラク人の安全を確保することを最優先事項と定めます(Ibid.: 80)。
その結果、前方作戦基地の削減目標は棚上げにされ、代わりに米軍の支配地域を拡大するための大規模な攻勢作戦が計画されることになりました(Ibid.)。

徹底した攻勢による敵兵站線の遮断

2007年1月上旬のバグダッド周辺における米軍部隊の配置図。
オディエルノが指導した攻勢作戦は米軍がアルカイダなどの武装勢力に甚大な被害をもたらすことになります。

まず2007年1月、オディエルノの第三軍団はまずバグダッド市内に根拠を持つ武装勢力に対して大規模な攻勢を開始し、首都圏の武装勢力を一掃しただけでなく、彼らの後方連絡線を外部から遮断することに成功しました(Ibid.: 80-1)。
首都圏から地方に退却した武装勢力を追撃するためにオディエルノは8月に別の作戦を開始させ、特にバグダッドから北にあるDiyala川沿いの渓谷では念入りな追跡が実施されています(Ibid.: 81)。
2007年6月の米軍部隊配置図。1月と比べてより広範かつ緻密に兵力を展開していることが分かる。追跡が実施された現場のDiyala川はバグダッドからちょうど北北西の方向から流れている河川。
この攻勢の後もバグダッドに潜伏し続けた武装勢力もいましたが、彼らは外部との兵站線が絶たれたために、破壊工作を行う能力は大幅に低下しました。このことを著者は次のように述べています。
「バグダッド内の過激派集団の戦闘力は、後方連絡線・後方地帯の両方を確保することに依拠しており、それらはバグダッドの周辺地域を通過していた。イラク多国籍軍が得た情報によれば、バグダッドの過激派は市内で1日に50回の攻撃を維持するためには、車載式の即席爆発装置やその他の装置の供給を常に必要としていることが判明した。この物資の流入を阻止する戦いはイラク多国籍軍の地形に対する深い認識に依拠していた」(Ibid.: 82)
ここでの著者の議論については違和感を持つ方もいるかもしれません。というのも、爆発物を使った破壊工作であれば、小人数で実施できるため、後方連絡線を維持して、そこから物資の供給を得ることは必ずしも必要ないように思えるためです。
しかし、実際にはバグダッドに潜伏していた武装勢力もやはり兵站線を確保しようとしていたことを第三軍団は掴んでいました。

IEDによる攻撃も兵站線に依拠していた

第三軍団がこのことに気づくきっかけとなったのは、Taji-Tarmiyah地域で2006年12月19日に第一騎兵旅団が襲撃でした。
これは第三軍団が第五軍団から任務を引き継いでから、本格的な攻勢作戦が始まるまでの間のことです。

著者によれば、この襲撃で現地の部隊は500ギガバイトを超える文書と、詳細な地図を入手することに成功しました(Ibid.)。
これらの情報資料によって、イラクで活動するアルカイダがどのような戦略を抱いていたのかを詳細に把握することができたのです。

情報分析の結果によれば、アルカイダはバグダッド市街地を取り囲む周辺地域に即席爆発装置(IED)と防空ミサイルを集中的に配置する構想を検討していたことが分かりました。
その目的は市内に潜伏する部隊が外部との交通手段を確保しておくことだったのです(Ibid.)。これはオディエルノが攻勢作戦を立案する上で重要な情報となりました。

オディエルノの第三軍団が2006年11月に展開してから、2008年2月に撤退するまでの間に、イラクの治安情勢を大幅に改善させることができたのは、こうした敵の弱点を的確に突くことができたためだと言えます。
著者の議論だと、第三軍団の成功は敵の後方連絡線を十分に遮断できるだけの縦深にわたって、連続的に攻勢を指導したオディエルノの作戦術によるものであると評価しています(Ibid.: 83)。

むすびにかえて

これまでのイラクにおける治安作戦の研究では、ペトレイアス(David Howell Petraeus)の功績が注目される傾向にありました。
これはペトレイアスが2007年からイラク多国籍軍司令官を、2008年から中央軍司令官として指揮に当たり、その成果が評価されているためです(文献案内を参照)。

しかし、著者はこの論文でイラクの治安情勢を回復させる上でオディエルノの功績も考慮する必要があると主張しています。
著者自身の言葉を借りれば、オディエルノは「2007年と2008年に成功を収めた作戦の基礎をもたらした」のです(Ibid.: 78)。
この解釈によると、オディエルノが実施した攻勢作戦はペトレイアスが遂行した対反乱作戦を準備するものだったと位置付けることもできるでしょう。

小規模な武装勢力を相手とする作戦であっても、作戦術という概念が有用性を持つという著者の議論は非常に興味深いものです。
正規戦争・非正規戦争という分類を超えて、作戦術が適用可能であるという命題についっては、今後さらに多くの事例も踏まえて検証されることが必要だと思います。

KT

文献案内

Michael Gordon and Bernard Trainor, The Endgame: The Inside Story of the Struggle for Iraq, from George W. Bush to Barack Obama, Vintage, 2012.
2003年から2012年までにかけてイラクで実施された米軍の作戦について包括的に記述しています。第三軍団の功績への言及に欠けていると著者は批判しますが、イラク戦争とその後の一連の治安作戦に関する有益な通史を記した基本文献として価値があるでしょう。


Thomas Ricks, The Gamble: General David Petraeus and the American Military Adventure in Iraq, 2006-2008, Penguin Press, 2009.
2006年から2008年にかけてイラクにおける米軍の作戦をペトレイアスの貢献を中心に記述しています。著者はこの文献で第三軍団の功績に言及されていることを評価していますが、第三軍団が行った作戦の内容に踏み込んでいないことを批判しています。

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2017年11月1日水曜日

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、ヘルムート・フォン・モルトケがいます。

モルトケはプロイセン陸軍でカール・フォン・クラウゼヴィッツの研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。

今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。

モルトケの戦略思想の特徴
ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。
これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。

この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。
いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。

この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。
「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁)
モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。

もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。

モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。

戦略と戦術の関係は一方的なものではない
モルトケの戦略思想の特徴としてもう一つ指摘できるのは、戦術との関係に関するものです。この点についてモルトケはクラウゼヴィッツを引用しながら次のように書き残しています。
「一方、フォン・クラウゼヴィッツ将軍は、戦略とは戦争目的達成のために戦闘を利用することであるといっている。事実、戦略は戦術に戦闘力を付与し、軍を指揮して会戦場裡で激突を行って勝てるだけの可能性を与える者である。だが一方で、戦略はそれぞれの戦闘の結果に適合し、その結果の上に構築される者である。戦術的な勝利の前では戦略の要請は沈黙する。戦略は戦術的な勝利が新たに生み出した状況にしたがうものである」(同上、16頁)
一般に戦略と聞くと、それは戦術の上位に位置付けられる概念であり、戦略が戦術に一方的に指図しているような印象を受けますが、ここでモルトケはそうした印象を払拭しようとしています。

つまり、モルトケの見解からすれば、戦略家の要諦は戦域における彼我の兵力の配置と移動を判断し、必要な時期、場所に必要なだけの我が兵力を集中させることによって、個別の戦闘で戦術家が勝利を得ることを可能にするだけの条件を整えることにあります。

しかし、戦闘の結果には不確実性があるため、敵に対して優勢な戦闘力を集中できたにもかかわらず敗北することもあれば、劣勢なはずなのに勝利を得る場合も出てきます。
そうした状況の変化の一つひとつにきめ細かく対応することが戦略の実務であり、それこそモルトケが考える技術としての戦略なのです。

したがって、「戦略は戦術が適時、適所において付与されることを求める手段を確保するものである」という記述はまさにモルトケの戦略思想の基本であり、それは「科学的原則」を忠実に守ればよいというものではないということです(同上)

むすびにかえて
モルトケは科学を基礎とした創造的技術として戦略を理解すべきと主張したのであって、科学それ自体を戦略から排斥しようとしたわけではありません。
しかし、あくまでもモルトケの関心は実際の戦争指導にあり、理論が重んじられる学術研究ではなかったということは理解しておく必要があるでしょう。

だからこそ、モルトケは戦争には理論化が難しい不確実な領域が大きいという側面を率直に認めることができましたし、学説と実践のバランスをとることもできたのだと思います。研究者のローゼンバーグは次のように述べています。
「モルトケは、戦争の目的は望ましい政治的な結果を達成することであり、そのためには、柔軟で応用的な戦略が必要であるというクラウゼヴィッツの主張にもまったく同意していた。彼は、戦争においてはすべてが不確実であると考えており、固定的なシステムは、彼にとっては排斥すべきものであった。それゆえ、彼は、どのような固定的な原則も確立することは不可能である」(邦訳、ローゼンバーグ、266頁)
モルトケは軍隊の実務で戦争が持つ不確実性は重視する必要があり、そこでは明確な因果関係で説明がつかない事象がしばしば起こることを理解していました。

そうした環境で明確に定式化された戦略理論を機械的に適用すると、意図しない間違いが生じる危険があります。
モルトケはあまりに理論化が行き過ぎた学説の影響力を押さえつつ、実践とのバランスをうまくとることが必要であるということを、自らの戦略思想で示していると思います。

KT

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参考文献
モルトケ「戦略」片岡徹也編『戦略論体系3 モルトケ』芙蓉書房出版、2002年、15-7頁
ガンサー・ローゼンバーグ「モルトケ、シュリーフェンと戦略的包囲の原則」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、263-289頁

2017年10月22日日曜日

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じてナポレオンが選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。
しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。

今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。

ナポレオンの戦略思想の基本
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。
ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。
この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。

チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。
「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162)
このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。

当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。
ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。

ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント
ナポレオンが使用した戦略を図上で一般的に表現した概念図。赤色が敵、青色がフランス軍を表す。敵の前衛を正面で拘束しておき、その間に側面を通過して背面に進出する。この機動によって敵の主力の後方連絡線を遮断し、決戦を強制することが出来ると同時に、敵の増援が戦場に到着することを防ぐことも期待される。
(Chandler 2009: 165)
チャンドラーの説によると、ナポレオンの戦略には5つの基本原則があったとされています。それは次のように説明されています。
「第一に、軍は作戦線を1本だけ保持しなければならない。つまり、目標は明確に規定され、指向可能な全ての部隊が目標に向かわなければならない」
「第二に、敵の主力が常に目標でなければならない。敵の野戦軍を撃破することによってのみ、敵に戦争をあきらめさせることができる」
「第三に、フランス軍は心理的理由ではなく、戦略的理由のために、敵の側面や背面に自らを位置付けるような仕方で移動しなければならない」
「第四に、フランス軍は常に敵のもっとも露出した側面を迂回するように努めなければならない」
「第五に、ナポレオンはフランス軍の連絡線を安全に確保し続ける必要性を強調した」(Ibid. 162)
チャンドラーは、これらの原則に裏付けられたナポレオンの戦略を「戦略的包囲(La manoeuvre sur les derrières)」という用語で説明しています(Ibid.: 163)。
(もともとの仏語に忠実に訳すと「後方への機動」となります)

戦略的包囲では、戦域で敵の主力である野戦軍に目標が限定され(第二原則)、そこに向かって全部隊を集中させることが目指されています(第一原則)。
ただし、その過程で部隊が使う経路として敵の正面を避けるよう機動させますが(第三原則、第四原則)、この際に我が方の後方連絡線の安全が敵に脅かされないような経路を選択する必要があります(第五原則)。

こうしたナポレオンの戦略は、一度その発想を理解してしまうと、その本質は驚くほど単純です。チャンドラーが掲げた五つの原則を理解していれば、ナポレオンでなくても彼の戦略を形式として再現することは可能です。

しかし、こうした戦略も完全無欠なものではなく、いくつかの敵の可能行動について注意する必要がありました。最後にナポレオンが自らの戦略を実施に移す際に考慮しなければならなかったリスクについて考えてみます。

「戦略的包囲」の際に注意すべき敵の行動
大前提としてナポレオンの戦略的包囲は敵情不明な状況で行われることを理解しておかなければなりません。

警戒部隊を先行させながら接敵機動を始めたとしましょう。こちらの前衛が最初に接触し、交戦によって動きを拘束できるのは恐らく敵の前衛であり、敵の主力ではありません。
敵の主力は前衛の背後にいるものと思われますが、その詳細な位置を知ることができるとは限らず、しばしば曖昧な情報しか得られません。

つまり、攻撃目標である敵の主力がどこにいるのかを知らないという状況の中で、司令官は敵の背後に素早く回り込むことを決断しなければならないのです。これは非常にリスク志向の強い戦略なのです。

こうした状況でリスクとして注意すべき敵の可能行動は具体的に三つあります。
一つ目は敵の主力が前衛同士の戦闘が始まった時点で一足先に動き出しているという可能性です。
「もし敵の司令官が十分に勇敢であるなら、拘束する部隊に向けて前進を続けることができる」とチャンドラーも述べているように、敵の前衛が我が前衛と遭遇戦に突入した時点で敵の主力がすぐに前進を開始している可能性があり、そうであれば我が方が戦略的包囲を試みても、それが空振りに終わる危険があります。

それだけでなく、我が前衛は敵の前衛とその応援に駆け付けた主力によって完全に撃破される恐れさえ考えなければなりません。

第二のリスクは敵も同じような戦略的包囲を仕掛けてくる可能性があるということです。
この点についてチャンドラーは「敵はフランス軍の主力の後方連絡線を遮断しようとすることもできる」と述べています(Ibid.)。
戦略的包囲は敵の作戦線を遮断することを狙う戦略であると同時に、我が方の作戦線を危険な状態に置く側面もあります。
戦略的包囲を行おうとする主力同士が同じ道路上を前進して遭遇戦になる可能性もあり、そうなれば戦略的包囲そのものは失敗するでしょう。

最後の可能性は敵が後退する可能性です。敵の前衛が戦闘を離脱し、主力も戦略的包囲を受ける危険を避けるために後退すれば、敵を捕捉撃滅する機会を逃すことになるでしょう(Ibid.)。
戦略的包囲はその後で戦闘に持ち込むことを目的としているため、敵がこのような行動に出れば成功は期待できません。

むすびにかえて
チャンドラーの分析によると、ナポレオンはこうした戦略を1796年から1815年にわたって少なくとも13回使用したとされています(Ibid.)。
ナポレオンの軍事的才能を手放しで賞賛する論者ならば、この数字は彼の戦略家としての大胆さと勝負強さを示しているとして高く評価するかもしれません。
しかし、戦略的包囲という機動にどのような危険性があるのかを考慮すれば、あまりにもリスク指向性が強い戦略家だという見方もできます。

結局、ナポレオンが愛用した戦略にも他の戦略と同じくいくつかの問題があったことを踏まえて、ナポレオンの軍事思想を検討することが必要だと思います。
ナポレオンは19世紀から20世紀前半の戦略思想に比類ない影響を及ぼし、特にフランスでは第一次世界大戦が終わった後さえ軍事学の研究に影響を与えました。
英雄崇拝に陥らないように、また批判的検討の姿勢を欠かさないようにしながら、彼の軍事思想を研究することが大事だと思います。

KT

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参考文献
Chandler, David G. 2009. The Campaigns of Napoleon:The Mind and Method of History's Greatest Soldier. Scribner.
英語で書かれたナポレオン戦争の研究書としては、最も広く読まれた基本文献。邦訳にチャンドラー『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点』全5巻、信山社、2003年があるが、これは2009年に出た改訂版の翻訳ではない点に注意。
ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、Kindle版、国家政策研究会、2016年

2017年10月18日水曜日

学説紹介 米国の覇権はいつまで続くのか

米国を中心とする覇権は今後も存続できるかどうかについては、研究者の間でも議論が分かれていますが、当面では肯定的に見る論者の方が多いと思います。
ただし、彼らを批判する論者も根強く、学界での議論は定まっているとは言えません

今回は、米国の大戦略をめぐる論争をモントゴメリー(Evan Braden Montgomery)がどのように整理しているのかを取り上げ、それを紹介したいと思います。

ディープ・エンゲージメント派の主張
モントゴメリーは米国の戦略論争において二つの学派が形成されていると考えており、それをディープ・エンゲージメント(deep engagement)とオフショア・バランシング(offshore balancing)に区別して考察しています(Montgomery 2014: 118)。

前者の立場に立つ論者は「米国はまだ覇権の費用をまかなうことが可能」と考えますが、後者の立場に立つ論者はより悲観的に情勢を判断し、「条約の履行の多くはもはや財政的に維持し得ない」と考えます(Ibid.)。

まず、ディープ・エンゲージメントを擁護する論者が展開する主張の特徴として指摘できるのは、米国の繁栄を可能にする自由主義的な経済秩序を構築し、これを維持することを構想していることです。

このような国際経済体制を実現することができれば、そこから得られる利益で安全保障上の約束をきちんと履行することは可能であり、引き続き重要な地域の平和と安定を確保する努力を継続することにも繋がると考えられます(Ibid.: 118-9)。

さらにディープ・エンゲージメントの主張を調べていくと、イラク、アフガニスタンでの戦争があったにもかかわらず、米国はGDPの5%にも満たない国防予算で対応することが可能だったという議論も出されており、ブルックス(Brooks)やウォルフォース(Wohlforth)のような研究者は「単一の超大国の世界が直ちに終わるということは極めて起こりにくい」と述べたことがあることも紹介されています(Ibid.: 119)。

つまり、米国は依然として圧倒的な優位を占めているのだから、中国がたとえこれからも経済成長を遂げたとしても、それは米国の地位を脅かすまでには至らないというのがディープ・エンゲージメント派の見解として整理されます(Ibid.: 119-20)。

オフショア・バランシング派の主張
ディープ・エンゲージメント派の見解に対してオフショア・バランシング派の見解はより慎重です。

こちらの立場に立つ論者はそもそも米国は本土から遠く離れた海外基地に部隊を維持することの財政的負担は決して小さなものではなく、米国の勢力を削いでいると考えているためです(Ibid.: 120)。

また彼らは米国の軍事力に頼る同盟国を援助するよりも、独力で対処できるようにして、少しでも米国が不必要な戦争に巻き込まれることがないようにすべきだと考えます(Ibid.)。

モントゴメリーの調査によれば、オフショア・バランシング派の側に立つ論者は増加する傾向にあり、イラクとアフガニスタンでの戦争、金融危機、中国の台頭がその背景的要因としてあることも指摘されています(Ibid.)。

オフショア・バランシングに賛成する論者の一人であるレイン(Christopher Layne)は、もはや米国を中心とする一極構造の時代ではないという見解から、特に中国が台頭していることが「米国の勢力低下を裏付ける最も確固とした証拠」だと述べたことで知られています(Ibid.: 121)。

こうした立場から見れば、海外に駐留させている米軍部隊を縮小させることは、米国の国力を温存、回復させるという意味で非常に重要なことであり、諸外国の防衛に米軍を出動させることにより慎重を期すべきだと考えられます。

その代わりとして、政府は国内の課題に取り組むことが可能となり、財政の立て直しと経済の発展のためにより多くの予算を配分することができるという議論が出されてくるのです。

むすびにかえて
核抑止など米軍の兵力に依存する程度が大きい日本の防衛体制にとって、米国が大戦略としてオフショア・バランシングの路線をとることは望ましいこととは言えません。
それは東アジアに新たな真空地帯を形成する恐れがあり、兵力を縮小するタイミングによっては中国の勢力圏がさらに躍進する事態になりかねないためです。

しかし、ここで示した議論を踏まえると、ディープ・エンゲージメントを維持するためには、米国を中心とする自由主義的な国際経済体制に日本として協力する必要があることも同時に考えなければなりません。
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の交渉をめぐる論争でしばしば日本国内で議論されたことですが、これは決して関税だけの問題ではなく、法規制を標準化する過程で国内の多くの産業に影響を及ぼす可能性があります。そのため、経済政策、産業政策の観点からもよく検討される必要があるでしょう。

この論争ではっきりしているのは、今後も米国が覇権を維持できたとしても、それは現状のまま存続することは難しいということです。日本の大戦略を改めて長期的視野に立って検討しておく時期に来ていると思います。

KT

文献案内
米国の大戦略に関する論争についてより詳細に知りたい場合は、次の論文が参考になります。
Barry R. Posen and Andrew L. Ross, "Competing Visions for U.S. Grand Strategy," International Security, Vol. 21, No. 3(Winter 1996/7), pp. 5-53.
Michele A. Flournoy and Shawn Brimley, eds. Finding Our Way: Debating American Grand Strategy, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2008.(下記リンクあり)

またディープ・エンゲージメント派の議論をより知りたい場合は以下の論文を参照してみて下さい。
Stephen G. Brooks, G. John Ikenberry, and William C. Wohlforth, "Don't Come Home, America: The Case against Retrenchment," International Security, Vol. 37, No. 3(Winter 2012/3), pp. 7-51.
Robert J. Art, "Selective Engagement in the Era of Austerity," in Richard Fontaine and Kristine M. Lord, eds., America's Path: Grand Strategy for the Next Administration, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2012.(下記リンクあり)

オフショア・バランシングに関しては以下の文献が参考になります。
Eugene Gholz, Daryl G. Press, and Harvey M. Sapolsky, "Come Home America: The Strategy of Restraint in the Face of Temptation," International Security, Vol. 21, No. 4(Spring 1997), pp. 5-48.
Christopher Layne, "From Preponderance to Offshore Balancing: America's Future Grand Strategy," International Security, Vol 22, No. 1(Summer 1997), pp. 233-248.

参考文献
Evan Braden Montogmery, "Contested Primacy in the Western Pacific: China's Rise and the Future of U.S. Power Projection," International Security, Vol. 38, No. 4(Spring 2014), pp. 115-149.

2017年10月13日金曜日

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。

例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。

今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。

1、軍の師団への分割
ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780)
イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。
ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。

しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。
「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁)
現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。

軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。

2、自在に行動できる散兵

主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてきました。
士官の監視の下で戦列を組みながら戦う従来の戦術では、こうした場面に対応できないことは明らかでした。

そのため、各国の陸軍では小規模な交戦を自律的、機動的に遂行する散兵の必要性が認識されるようになったとハワードは指摘しています。
この方面で先駆者だったのはバルカン半島の山岳地帯で多くの戦闘経験を有していたオーストリア(ハプスブルク帝国)の軍隊でした。
「国境防御のため、帝国陸軍は、地方に特有の才能ある人々を招集した例えば、クロアチアの民兵、ハンガリーの軽騎兵、アルバニアの軽騎兵などであり、主として偵察と襲撃のための軽騎兵であった。1741年、女帝マリア・テレジアがオーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの浸食に対し西の領土を守らねばならなかったとき、彼女はこれらの軍隊を非常に有効に使った。彼女の敵は、帝国軍主力のはるか前方や翼側で独立して作戦するこれらの軽装部隊を、山賊や人殺しと同じだと泣言を言ったが、それへの対抗手段をとらねばならなかった」(同上、133頁)
こうしてトルコとの戦争を通じてオーストリアが編み出した戦術は、プロイセン、フランスにも伝わっていきました。

しかし、プロイセン国王フリードリヒ二世が、前哨戦を遂行するために狩人などを集めて編成した部隊を、後になって解散させており、プロイセン陸軍において散兵を駆使する戦術が十分に発展しなかったようです(同上)。
(ハワードはフランスでの影響について述べていませんが、フランス革命戦争においてフランス軍は散兵戦術をいち早く取り入れたことは知られています)

3、砲兵の集中運用
グリボーヴァル・システムの下でフランス陸軍は野砲の規格を整理し、装備の標準化に成功した。射程の延伸と移動の容易さを両立させるなど、フランスの砲兵に技術的な優位性を与えた。
18世紀のヨーロッパで最も先進的な火砲を装備していたのは、恐らくフランス陸軍だと言って間違いないでしょう。フランスでは1760年代に火砲の独自規格を制定し、標準化に成功していたからです。
これはジャン=バティスト・グリボーヴァルの功績として知られており、ハワードもこの改革の意義を高く評価しています(同上、133-4頁)。

しかし、軍事理論の観点から考えると、ジャン・デュ・テイユが残した功績はより重要なものであったとハワードは考えています。

テイユは『野戦における新しい砲兵運用』という著作の中で、砲兵火力を集中して敵陣に突破口を形成することが可能であることを主張し、その際に正面から加える射撃よりも側射を行った方が有利であることなどを指摘しました。
「彼は、火力と運動の相互依存性や、正面射より側射の利点というような戦術的要素を強調したが、常に、兵力の集中することの必要性に戻った。「われわれは、敵を破ろうとする地点に、最大数の軍隊とできるだけ多くの火砲を、集めねばならない。……われわれは、勝利を決すべき攻撃点で、わが砲兵を増加しなければならない。……このように聡明に維持され増加された砲兵が、決定的な結果をもたらすのである」」(同上、134頁)
こうした戦術的創意によって、グリボーヴァルが残した功績が戦場で実際に威力を発揮する方法について議論されるようになりました。
ハワードはテイユが若い頃のナポレオンの後援者であったことにも触れており、その影響の大きさを指摘しています(同上)。

4、横隊から縦隊、そして混合隊形へ
ジャック・アントワーヌ・ギベール(1743 - 1790)
フランス陸軍軍人、その著作で新たな歩兵大隊の戦術に関する提案を行う。
最後にハワードが取り上げているのが特に戦列歩兵のとるべき隊形に関するものです。
当時、歩兵部隊の運用に関しては二つの考え方がありました。

一つはフランス陸軍のように縦深を大きくとる縦隊にすべきとする考え方であり、もう一つはプロイセン陸軍のように縦深を小さくとって細長い横隊に展開すべきという考え方です。
簡単に言えば、前者は突撃に有利で、後者は射撃に有利という特徴がありました。
ハワードの研究によると、フランス人は高度な規律と緻密な訓練を要するプロイセンの横隊戦術を導入することに非常に慎重だったとされています(同上、134頁)。

その一例として、18世紀の初頭に活躍したフランス陸軍の軍人フォラールが著作の中で、突撃の際の衝撃力が最大になるような縦隊を擁護する説を唱えていたことが挙げられています(同上、134-5頁)。
フォラールの説はフランスで支持者を得ましたが、次第に非現実的なものだということも露呈しました。そのことが次のように紹介されています。
「オーストリア継承戦争においてそれを実行しようとした悲惨な試みは、世紀が進むにつれて、修正され精妙になった。その戦争では、フランスの縦隊は,敵戦の火力によって、預言できたように、ずたずたにされたのである。最も有効な修正はギベールによって導入されたものである。必要に応じて横隊に展開する小さな大隊縦隊という、彼の柔軟な混合隊形は、1791年のフランス軍教令の基礎となり、少なくとも革命軍の公式の原則となった」(同上、135頁)
これは、フォラールの攻撃縦隊という着想が、フランス陸軍のギベールの学説によって発展的に改称され、「混合隊形」という思想に結びついたということです。これにより、フランス陸軍は歩兵戦術の幅を大きく広げることができました。

これは戦闘において戦列を一定の隊形の下に維持することに制約されていた当時の陸軍の歩兵戦術から抜け出す契機となりました。
ただ、ギベールはフランス革命戦争でこうした戦術が実際にどのように駆使されるのかを目撃する前に死去しました。

むすびにかえて
フランス革命以降、フランス陸軍がいち早く旧来の戦術から脱却し、当時のヨーロッパ列強を軍事的に圧倒できたのは、ナポレオンの功績だけで説明できないというのがハワードの主張です。
ブルセ、テイユ、フォラール、ギベールのようなフランス人の軍事学者の革新的な研究成果が存在していたからこそ、ナポレオンはそれらを容易に利用できたのです。

ハワードが呼んだ「ナポレオン革命」が18世紀フランスの軍事学の研究成果の集大成だったと考えると、国防に関する研究がいかに長期的視野の下に行われる必要があることが分かります。
私たちは戦争で実際に部隊を指揮した将軍や提督の功績ばかりに注目しがちですが、彼らの背後には多くの研究努力があったことも考慮しておくべきでしょう。

KT

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学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール
マイケル・ハワード『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』奥村大作、奥村房夫訳、中央公論新社、2010年

2017年10月8日日曜日

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。
外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。

しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。

今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。

鉄道がドイツに内線の優位をもたらす
フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者
軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている
ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。
その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。

リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。
ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。

しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。
「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上)
アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常に容易になるとリストは考えたのです。

こうした考え方は第一次世界大戦の歴史でドイツ軍が実際に鉄道を活用して二正面作戦を遂行しようとした歴史を知る私たちには当然のことだと思えるかもしれません。
しかし、リストがこうした研究に取り組み始めた当時、ドイツで鉄道というインフラは登場したばかりだったということを踏まえる必要があります。

鉄道輸送の軍事的有用性が一般的に認知されるのは1861年に勃発した南北戦争以降のことなので、1830年代にリストがここまで鉄道の重要性を理解していたこと自体が驚くべきことだと言えるのです(同上、226頁)。

また、これだけでなくリストは鉄道を駆使した地政学的戦略を構想していました。それはヨーロッパと中東を一つの鉄道で結び、ロシアの南下をイギリスとともに食い止めるという壮大な計画でした。

バグダード鉄道とドイツの中東戦略
1918年当時のバグダード鉄道の路線図と延長計画を現した地図、オスマン帝国の領土を縦断する路線の構想は19世紀後半にまでさかのぼるが、実際に建設が開始されたのは20世紀以降となった。リストは英独同盟に基づく対露戦略を支援するためにバグダード鉄道を構想していた。
リストは鉄道をヨーロッパの戦略問題だけに限定して重視していたのではなく、アジアも視野に入れた上で考察を書き残しています。アールはこの方面のリストの業績を次のようにまとめて紹介しています。
「英独同盟の構想の中で、彼はイギリスのインドならびに極東への交通路を、英仏海峡からアラビア海に至る鉄道で改善すべきだと提案している。彼はナイル河と紅海を、ナポレオン時代のライン河とエルベ河のようにイギリス本島に近い存在に、ボンベイとカルカッタをリスボンやカディスのように容易に行ける場所にすべきだと書いている。これは計画されているベルギー・ドイツ鉄道をヴェネチアまで延長し、そこからバルカン、アナトリアを通ってユーフラテス渓谷、ペルシャ湾に出て、最後にはボンベイに至ることで実現できるはずだった」(同上、226頁)
これはまさに大陸国家的な特徴を持つ地政学的戦略構想であり、統一を実現した後のドイツで進められた3B政策(ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードを鉄道で結ぶ構想)の原型が見られます。

戦略の観点から見て非常に興味深いのは、ドイツからトルコを経てペルシャ湾に至る鉄道を整備し、その路線に沿ってヨーロッパから中東、そしてその先のインドをロシアに対する一続きの戦略的防衛線として再構成しようとしていることです(同上、226-7頁)。

この壮大な戦略構想の妥当性については別の機会で詳細に検討する必要があるでしょう。ただ、これが極めてユニークな戦略思想であることは間違いなく、従来の陸軍戦略で考えられたことがないものでした。

19世紀のイギリスはロシアの脅威からインドを防衛するために必要な兵力を確保することが難しくなる傾向にあったため、リストの戦略はロシアに対抗するイギリスの世界戦略を補完する意味も持っていたと言えます。
ロシアという脅威を利用してイギリスとドイツの共通の利益を確保すれば、中東におけるドイツの権益を確保しやすくなることも考慮されていたということです。

むすびにかえて
軍事学の歴史においてリストの業績を位置付けているアールは、鉄道に関するリストの研究を高く評価し、次のように述べています。
「彼が鉄道の持つ経済効果に関心を持っていたことは当然予想されるところだが(中略)上記期間による輸送がドイツに与える戦略的影響についての彼の理解には驚くべきものがあり、それはいかなる客観的な基準からいっても特筆すべきものである」(アール、224頁)
リストは、鉄道輸送の技術的進歩を重視するあまり、東西から挟撃されやすいというドイツの地政学的問題を矮小化した側面もありますし、彼の思い描いた英独関係は実現しませんでした。

しかし、それでもリストの鉄道に関する考察には先駆的な側面があったと評価すべきでしょう。

KT

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参考文献
エドワード・ミード・アール「軍事力の経済的基盤 アダム・スミス、アレグザンダー・ハミルトン、フリードリヒ・リスト」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、195-229頁

2017年10月4日水曜日

論文紹介 米陸軍がソ連軍の作戦術を取り入れた理由

冷戦期に米陸軍ではヨーロッパ正面での対ソ作戦を想定し、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)からエアランド・バトル(AirLand Battle)にドクトリンが変更された歴史的経緯があります。
それは米陸軍がソ連軍に対して劣勢だったためだとか、ソ連軍のドクトリンに対抗するという観点から説明されることが一般的でしょう。

しかし、エアランド・バトルについては異なる視点から評価する議論もあり、そこではベトナム戦争で政府の首脳部が前線の指揮所の決定に過剰に介入する傾向をドクトリンとして是正する意味合いがあったのではないかと指摘されています。

今回は、作戦術の観点から1980年代の米陸軍のドクトリンの発達過程について考察した研究の要点を取り上げて紹介したいと思います。

文献情報
北川敬三「安全保障研究としての「作戦術」―その意義と必要性」『国際安全保障』44巻4号、93-109頁

なぜ作戦術の問題が重要なのか
作戦術(operational art)という概念は、後述するようにもともとソ連軍で発展したものであり、大規模な野戦軍による統合的、独立的な作戦行動を準備または遂行するための理論と実践を取り扱うものと定義され、戦略と戦術の中間に位置付けられてきました。

本来、戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を運用する計画や方策を定めるものであり、戦術は戦闘で任務を遂行するために戦闘力を運用する方法を定めるものです。
その中間に作戦という領域を置いて、一定の自律性、独立性を持たせることができれば、戦略と戦術の連絡調整を迅速化し、より動態的、機動的な戦力運用が可能になることが期待されます。

西側では1980年代に入ってから研究が活発になり、軍事理論の一領域を構成するまでに発展したのですが、その理由は軍事専門的な観点だけで把握すべきではないと著者は考えました。
「1980年代以降、「作戦術」は英米を中心とした軍事組織における革新運動の一環として盛んになり、一般の研究者における研究も盛んになっている。これまでの研究の蓄積により、「作戦術」は軍事理論の一つの分野として認識されている。すなわち、「作戦術」は軍事専門家のみが研究し、軍が実践する領域ではなく、軍事を包含した広範囲の安全保障研究の中で考えられるものとなっている」(北側、93頁)
このことを理解するためには、まず作戦術の概念の成り立ち、1980年代に作戦術に注目が集まった経緯を確認し、1980年代後半に米陸軍が作戦術を基礎とするドクトリンを発展させるまでの経緯を確認しなければなりません。

ソ連軍が先行していた作戦術の理論研究
ロシア・ソ連の陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)
1878年にオデッサで生まれ、陸軍ではロシア戦争で従軍した他、作戦術に関する先駆的な研究を残した。1938年に死去
軍事理論の歴史においては、作戦術という概念を20世紀初頭に編み出されたと考えられており、その最初の提唱者は1922年にソ連陸軍士官学校教官だった陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)と見られています。
彼はクリミア戦争、日露戦争、第一次世界大戦でロシア軍が得た戦闘経験に基づき、この概念を考案しました(同上、98頁)。

スヴェーチンの以前の記事でも紹介したトゥハチェフスキーの縦深戦闘の構想も、この作戦術の影響を受けていたことが指摘されています。(論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

第二次世界大戦でソ連軍がドイツ軍と戦うために採用したドクトリンは、スヴェーチンの研究に一定程度依拠していたので、西側としてもソ連軍の研究を通じて作戦術という概念を知り得る状況にはありましたが、著者が指摘するように、その意義は直ちに認識されませんでした。
「これらの思想は、ソ連軍において第二次世界大戦や冷戦中の欧州における大規模作戦計画に活かされ、機動力を重視し敵縦深に至る「縦深作戦(Deep Operation)の概念に繋がった。さらに注目すべきは、政治的イデオロギーが軍の編成や戦術までも規定したソ連から、政治的に翻訳可能な軍事的概念が出てきたことである。これは現時点で見れば一見当たり前のようにも思えるが、認知されるまでかなりの時間を要した」(同上、98-9頁)
西側の軍事学の文献では、戦略と戦術という二分法がすでに定着していたこともあり、その中間に作戦術のような概念を導入することの必要性が感じられなかったのかもしれません。

しかし、そうした状況を変える研究が1980年代に登場します。それがエドワード・ルトワックの研究でした。

ルトワックの研究が米陸軍のドクトリンに与えた影響
ルーマニア出身の政治学者、エドワード・ルトワック(1942年-)
戦略理論、国際政治、軍事史を専門とし、冷戦期には対ソ戦略の分析を中心に論文を発表していた。
米ソが新冷戦の局面に入った80年代は、西側でさまざまな防衛改革が進められた時代であり、ヨーロッパ正面におけるNATOのソ連軍に対する防衛態勢についてさまざまな批判的な検討がなされています。

ルトワックも1981年の論文「戦争の作戦的次元」で戦略と戦術の中間に作戦レベルという分析レベルを設定した上で、米陸軍のドクトリンを消耗戦から機動戦に移行すべきことを主張しました(同上、99頁)。
ソ連軍との戦闘において米陸軍の第一線部隊を防御陣地に止めるのではなく、より機動的な戦闘要領で交戦することが求められると主張したのです。

ルトワックが当時の論争に及ぼした影響は大きなものがあり、1982年版の米陸軍の野戦教範『FM100-5』で正式に作戦レベルの概念が導入され、1986年の改訂ではソ連軍の概念である「作戦術」が盛り込まれました(同上、99-100頁)。米陸軍はこれ以降、作戦術の研究を本格化させます。
ただし、1980年代に作戦術の概念が導入された理由として、ルトワックの議論だけが重要だったわけではなく、複数の背景的要因が関係していたことも著者は指摘しています。

一つはベトナム戦争の反省であり、「戦術的勝利を得ていたにもかかわらず、戦略的結果に結び付けられなかった」経験からドクトリンの見直しを積極的に進める動きが米陸軍にあったことと説明されています(同上、100頁)。
ベトナム戦争では政府首脳部の戦略と前線司令部の戦術との関係にさまざまな齟齬が生じたことが反省されていました。

さらに、将来の戦争の技術的革新の問題も認識されており、「第四次中東戦争では、ミサイルや高機動の戦車を含む最新兵器が使用され、機動戦が近代戦の要諦であることが再認識された」として想定する戦争の様相では機動力を重視すべきという意識の変化がありました(同上)。
同時に以前の米陸軍で策定されていたドクトリンである「アクティブ・ディフェンス」に対する批判が高まっていた事情もあり、「防御中心かつ、小規模兵力による戦術次元に焦点をあてた「アクティブ・ディフェンス」には、欧州正面におけるワルシャワ機構軍の大規模な波状攻撃という戦闘様相に合致していないという批判があった」と著者は紹介しています(同上)。

エアランド・バトルを可能にした作戦術の導入
米陸軍軍人、オーティス(Glenn K. Otis)米陸軍のドクトリンとしてエアランド・バトルが検討されていた時期に、米陸軍訓練教義軍(United States Army Training and Doctrine Command, TRADOC)の指揮をとった。その後、米欧州陸軍の総司令官にも任命されている。
ベトナムでの苦い経験、新たな武器体系の登場、アクティブ・ディフェンスの行き詰まり、これらを背景としながら、ルトワックの研究は1920年代よりソ連軍で発展していた作戦術の意義を西側の研究者に再評価するよう促したのです。

さまざまな検討が重ねられた結果、1980年代後半に米陸軍ではエアランド・バトルという新しいドクトリンが策定されることになります。
論文では言及されていませんが、当時このドクトリンを策定したオーティスは後に米欧州陸軍総司令官も務めた人物であり、これが当時のヨーロッパの米陸軍の戦略思想に与えた影響は大きなものがありました。
「上述の要素は、大部隊の運用、機動力を要する縦深性、技術の進歩の必要性に関し、ドクトリンと組織改革の両方に作用していった。この成果が陸上兵力のみならず、陸空軍の航空兵力と統合した「エアランド・バトル(Air Land Battle)」の開発に繋がっていくつことになる。「エアランド・バトル」の要諦は、同時攻勢作戦を戦場の幅と縦深において実施し、敵を敗北させるものである」(同上、101頁)
1982年に制定された「エアランド・バトル」の構想は、1991年の湾岸戦争で実践されたと著者は考えており、「第一次湾岸戦争は、米国と有志連合の「作戦術」の勝利でもあった」と述べています(同上)。

著者の見解によれば、戦略と戦術だけで軍事行動を考えた場合、政府の首脳部が示す戦略が、現場の作戦部隊の戦術に過剰に干渉する恐れがあるが、その間に作戦という中間的領域を置くことで、政治的意思決定と軍事的意思決定の両方の自律性を保ち、かつ両者を調整できるようになると考えられます(同上、103頁)。

これは示唆に富む議論であり、その意味するところに従うと米陸軍がエアランド・バトルという機動的な戦力運用を目指すドクトリンを策定できたのは、戦略を一方的に押し付ける政府首脳部に対して、作戦の自律性と独立性を一定程度回復し、その下で戦術的意思決定に柔軟性と融通性を持たせることが可能になったためだと解釈できます。

むすびにかえて
現代の日本では統合機動防衛力という防衛力の整備構想に基づき、自衛隊をより機動的に運用することも検討されていますが、そうした検討を進めるに当たって戦略、作戦、戦術の関係性を改めて整理しておくことは必要なことだと思います。
さもなければ、政府レベルで策定される戦略上の決定が、どこまでも戦術を制約することになりかねないでしょう。

現代の軍事行動において政治的制約を踏まえた戦略の決定は危機管理や戦争指導において決定的に重要なものだと言えます。しかし、戦略と戦術との線引きを踏み越えるようなことがあれば、たちまち現場の部隊行動に悪影響を及ぼす恐れがあり、また刻々と変化する状況で第一線の指揮官に対する統制が強まれば、機動的な部隊運用は実現不可能となるでしょう。

戦略、作戦、戦術に論理的な一貫性を持たせることの重要性について、より理論的な分析を読みたいなら、ルトワックの『戦略論』が参考になるでしょう。またアクティブ・ディフェンスからエアランド・バトルに至るドクトリンの歴史を知りたい場合には『Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993』(邦訳なし)が参考になります。

KT

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参考文献
エドワード・ルトワック『エドワード・ルトワックの戦略論 戦争と平和の論理』武田康裕、塚本勝也訳、毎日新聞社、2014年
Romjue, J. L., Anne W. Chapman, Susan Canedy. 2002. Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993, University Press of the Pacific.

2017年10月1日日曜日

文献紹介 どれだけ健康なら兵役適格なのか―第二次世界大戦と米陸軍の採用基準―

軍事行政においては徴兵制、志願制いずれの場合であっても、兵役適格者を識別するために採用基準(accession standard)を設定します。

20世紀、多くの国家の軍事行政では徴兵制の施行に伴って採用基準の検討が始められ、健康、体力、知能の検査に面接調査を組み合わせて実施されてきました。

今回は、第二次世界大戦当時の米陸軍でどのような採用基準が採用されていたのかを検討した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Anderson, R. S., and C. M. Wiltse, eds. 1967. Physical Standards in World War II, Washington, D.C.: U.S. Army Medical Department.
(外部リンク)https://collections.nlm.nih.gov/catalog/nlm:nlmuid-0126710-bk

採用基準をめぐる歴史的背景
もともと米国では18世紀の独立戦争の時代から体力に関する採用基準を設定する必要があることは知られていました。
特に19世紀の南北戦争では健康面で兵役不適な兵士が各部隊で続出したことが深刻な問題となっており、統一的な採用基準を設定しなければならないことが議論されたこともあります。

しかし、常備軍に対する反発が根強い米国では採用基準に関する議論がなかなか進まず、20世紀に入って以降も採用基準の問題は軍で十分に研究されていませんでした。
こうした状況が変わり、米国で採用基準の検討が本格的に始まったのは、第一次世界大戦が終わった後になります。

著者らは1923年5月29日に制定された陸軍規則「合衆国陸軍、州兵および予備役への入隊のための身体検査基準」(AR 40-105)を制定して以降、採用基準の内容が次第に見直されていったことを紹介しています(Ibid.: 2)。

米陸軍でこの取り組みを推進していたのは主に軍医であり、特に軍医総監室の貢献が重要だったと指摘しています。
彼らは第一次世界大戦の経験を踏まえ、医学的見地に基づく検査方法を導入し、兵役不適格者と兵役適格者を選別する客観的指標を確立しようと研究を始めました。

しかし、採用基準によって兵役不適格者を軍隊から排除する努力は、第二次世界大戦でさまざまな障害に直面し、論争を引き起こすことになります。

「糧食を食べる歯があれば、兵役適格と認める」
米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の段階で、米陸軍は全国民を動員する体制を整えておく必要を認識し、徴兵検査の準備も進めていました。

ところが、軍医総監室が策定していた採用基準を実際に運用してみると、戦時の総動員に支障を来すことが次第に明らかになってきます。要するに、採用基準が厳しすぎて、部隊に欠員が生じてしまうということです。

その要因の一つが歯科に関する採用基準に関するものでした。徴兵検査の段階になって、多数の徴兵対象者が軍医の策定した基準を合格できるほどの歯を持っていなかったのです。そこで直ちに米陸軍はこの基準を見直すことにしました。
「戦争が勃発し、総動員が開始された際に、歯の基準は劇的に引き下げられた。暫定的な措置の下で、1942年2月には、深刻な感染症を持っておらず、『戦闘糧食を喫食するために十分な歯(人工の歯も含む)があるならば、』徴兵登録者は歯科的に兵役適格者であると宣言された」(Ibid.: 23)
治療を受けることができない戦場で長期にわたり活動することになる兵士にとって、十分な数の歯がないことは決して小さな問題ではありませんでした。しかし、このままでは動員計画に後れを生じさせる恐れもあったため、妥協が図られたのです。

しかし、歯に関する採用基準は1942年にさらに引き下げられる事態になり、10月にほとんど基準としては抹消されるまでに至っています。それだけ当時の若者の歯科保健に問題が多かったということが示されています。

こうした問題は歯科だけで終わりませんでした。米陸軍は所要の兵力を確保するためにどの程度の精神障害を許容すべきかという面でも検討を余儀なくされています。

「精神疾患も程度によっては、兵役適格と認める」
軍医総監室が策定した採用基準で次に問題となったのは、精神科に関する基準でした。
動員の前に行われた研究では、家庭から分離され、プライバシーがない場所で生活し、劣悪な環境と慢性的な飢餓、そして強い疲労感と身体的負傷に耐えるためには、精神的、人格的異常のある人間については、兵役適格者から排除する必要があると考えられていました。

一見するともっともに見えますが、こうした採用基準はやはり実際に徴兵の検査が始まると予想以上に多くの兵役不適格者を出すことが分かってきました。
著者らは「特定の例外はあったが、精神的、人格的障害のための基準は、陸軍規則において確立されたいかなる基準で最も抜本的かつ継続的な修正を受けたものである」と述べています(Ibid.: 37)。
それほどの譲歩を求められるほど、精神的な問題を抱える徴兵対象者は多かったのです。

統計的調査を調べると、米国が参戦して動員が開始されてから戦争が終わるまで、徴兵検査を受けた米国市民の中で10%を超える人々が精神異常、人格異常に関する採用基準を合格できず、その合計は199万2950名を数え、その数は兵役不適格者全体の30%以上を占めていました(Ibid.)。

結局、米陸軍は所要兵力の確保のため、1942年3月の改訂でこの採用基準は大幅に緩和することを認めます。1943年に強迫性障害(自分の意志に反して不合理な行動を繰り返してしまう精神障害の一種)が採用基準から除外されたことも、こうした経緯で行われています。

むすびにかえて
著者らの調査によると、米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の時点で米軍にはおよそ102万4789名の軍人がおり、51万9805名が陸軍に所属していました(Ibid.: 15)。
しかし、参戦する1941年12月になると米軍の規模は229万6086名にまで拡大され、1942年11月に677万3809名に達し、陸軍の規模も493万2496名に膨らんでいます(Ibid.)。

数字だけ読むと驚異的な大規模動員ですが、これを実現するために米陸軍で採用基準に関する大きな譲歩が繰り返されていたことが研究から分かります。
健康状態に問題がある兵士を軍隊に多数抱え込んでしまうと、戦闘効率に悪影響を及ぼす危険があるだけでなく、衛生管理上の負担を増大させることにも繋がります。
当時の米陸軍の措置の功罪については防衛行政、特に人的資源管理の観点からよく検討しておくべきでしょう。

残念ながら日本語で書かれた軍事学の文献で採用基準の問題を取り扱ったものを見つけることはできませんが、英語だと今でもさまざまな文献が発表されています。
最近の傾向として、国民の基礎体力の低下や肥満化の傾向を踏まえた採用基準の設定がよく議論されていると思います。日本でも今後ますます参考になる議論だと思います。

ちなみに、第二次世界大戦より前の採用基準の歴史を調べたい場合は、軍事医学の分野で定評がある教科書シリーズのMilitary Preventive Medicine, Mobilization And Deploymentの第1巻第7章に掲載されている論文「Evolution of Military Recruit: Accession Standard」に当たることを推奨します。

KT

2017年9月23日土曜日

論文紹介 北朝鮮の核開発を中国の目線で考えてみる

北朝鮮が核開発をこれほど長期間にわたって続けてきた動機については、さまざまな議論があります。米国に対する抑止力として核兵器を持とうとしているという議論もその一つです。
しかし、北朝鮮の核政策を理解するためには、軍事的、外交的な観点だけでなく、政治的、経済的観点からも多面的に考察する必要もあります。

今回は、中朝関係を中心に北朝鮮の核政策を考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Thomas Plant and Ben Thode, "China, North Korea and the Spread of Nuclear Weapons," Survival, 55.2 (2013): 61-80.

北朝鮮と中国を結び付ける外交的利害
中朝国境を一部構成する鴨緑江に架橋された中朝友誼橋。ここから軍事境界線に至る北朝鮮の領土は中国にとって在韓米軍をはじめとする米国の脅威を緩和する緩衝地帯にもなっている。
まず著者らは中国にとって朝鮮半島がどれほど大きな戦略的意義を持っているかを考察するところから議論を始めています。

もし北朝鮮の体制崩壊が起これば、中朝国境には多くの難民が押し寄せる危険があるだけでなく、韓国が主導する形で朝鮮半島が統一されれば、在韓米軍の兵力が北朝鮮に進駐し、それが中国に対する脅威になる可能性も考えられます(Plant and Thode 2013: 61-2)。

これは中国の安全保障にとって受け入れがたい事態です。だからこそ、中国はこれまで北朝鮮との貿易、投資を通じて経済連携を強化し、北朝鮮が崩壊することがないようにさまざまな政策を実施してきました。

著者らの言葉を借りると中朝関係は「北朝鮮は存続のために中国を必要とし、中国は北朝鮮が崩壊しないことを必要とする」とも形容できるでしょう(Ibid.: 62)。
こうした中国の思惑で保護を受けることができた北朝鮮ですが、北朝鮮は必ずしも中国の支援だけで体制崩壊を食い止めきたわけでもありませんでした。

というのも、北朝鮮はその国力の制約の中で政権運営に必要な財源を確保するため、さまざまな取り組みを進めてきたためです。核開発もその一つとして位置付けられてきました。

北朝鮮が核開発を行う経済的理由
北朝鮮は冷戦期から核開発に乗り出しており、長期計画で研究開発を推進してきた。1980年代に原子炉の建設と運用を開始し、1990年代に使用済み核燃料の再処理施設の建設に移行し、2000年代にはウラン濃縮の技術の開発に入っていた。この間に北朝鮮は米中露韓日を含めた核問題の協議に参加し、一時的に開発プロセスを停止した時期もあるが、結果として交渉はいずれも失敗に終わっている。
教科書的な勢力均衡理論で考えるならば、中国の支援を得ている北朝鮮は、国防のために必ずしも脅威に対抗できる規模の軍備を必要としません。
なぜなら、対外的な脅威が及んだとしても、中国の軍事的介入を期待することができると考えられるためです。

それにもかかわらず、北朝鮮が自国の防衛力をさらに強化しようとすることについて、著者らは北朝鮮には国防以外にも核開発を行っている可能性があると指摘しており、それは武器輸出による外貨の獲得であるとの仮説を示しています。
「北朝鮮の弾道ミサイル拡散と通常兵器の販売に関する報告によれば、リビアの指導者カダフィ(Muammar Gadhafi)が2003年に秘密裡に進めていた核開発計画を放棄することを決定する前から、数十年にわたって拡大を続けてきたとされている」(Ibid.: 67)
「北朝鮮がリビアに核物質を提供したことが発覚した2004年以降も、北朝鮮はシリアとの核関連技術協力を継続している。この事件に対する懲罰的措置が実施されていないことからも、北朝鮮の神経の図太さがうかがわれる」(Ibid.: 68)
すでに武器輸出国として北朝鮮には一定の販売実績があり、品揃えに関しても高濃縮ウランから反射炉技術など他国では手に入らない分、市場における競争優位があると言えます。(果たして国際社会に取引に応じる顧客が実際にいるかどうかは、また別の問題ですが)

著者らの議論に従うと、北朝鮮にとって核開発を放棄することは、外貨獲得のための手段となる有力商品の製造を放棄するという意味合いがあり、これまでの研究開発に投資してきた経費を回収できなくなります。

北朝鮮の核開発を中国はどう見ているか
朝鮮戦争で中国は北朝鮮と事実上の同盟国として米韓に対し戦った。しかし、著者らは中国と北朝鮮の利害は必ずしも一致しているわけではなく、核開発において中国は北朝鮮の動向について懸念を抱いていると判断している。その一方で、体制変更を含めて朝鮮半島の現状を大幅に変更することには大きなリスクがあるため、これまでも中国としては北朝鮮に対する圧力の強化で慎重な立場をとってきた。
この論文で特に興味深いのは、こうした北朝鮮の核開発の思惑とそれに関連する貿易事業について中国がどのように判断しているのかを考察している箇所です。

そもそも、北朝鮮が核関連技術を諸外国に売却して利益を得ていることは、長期的視点に立ってみると中国にとって決して好ましいことではありません。
この観点から見ると、中国が北朝鮮を経済的に支援するのは、現在保有する核物質や武器を海外に輸出することを防いでいる側面さえあります。
つまり、中国の政策は核拡散の防止という点に限定すると、米国と利害が一致している箇所もあるということです。

しかし、この問題の本質は中国が米国の動きを予測できず、北朝鮮に対する具体的な行動に踏み切ることができない状況にある、と著者らは考えています。

もし北朝鮮の体制変動を含めた緊急事態に対処するとなれば、中国としては利害関係がある米国、韓国と事前に協議しておく必要が生じます。
しかし、中国にとって米国は決して「信用に値する相手ではない」ために、具体的な作戦行動に関する情報を共有できる外交環境ではなく、中国の政策決定者にとって緊急事態の際のリスクを見積もることが非常に難しくなっていると著者らは指摘しています(Ibid.: 72)。
「米国、韓国、中国はいずれも体制崩壊の際には核物質を確保する必要があると考えているものの、中国は米国や韓国とそのようなシナリオ、あるいは緊急事態の計画について協議することを拒否している。この手詰まりの原因としてよく指摘されるのは、同盟国との仲間意識を表す必要があるということ、すでに手の負えない隣国とさらに関係が悪化することを望まないこと、そして中国にとって米国が信頼できないことである」(Ibid.)
結果として、中国にとって現実的な措置は限定的、場当たり的な措置となってしまいます。

その措置には北朝鮮に経済的手段で圧力をかけることも含まれていますが、これは北朝鮮が中国に対する経済的依存を減らすことに繋がり、核物質や核施設の輸出を含めた外貨獲得を促進させ、コントロールしにくくなる側面もあります(Ibid.: 73)。

このようなリスクを総合して考えると、中国としては北朝鮮を経済的に支え続けた方が、米国と一緒に北朝鮮の非核化を推進するよりも、全般の情勢から考えて中国の利益に適うという判断になるでしょう。

むすびにかえて
北朝鮮の問題を考える際には、つい日本、米国の立場に立ってしまいますが、中国の立場から北朝鮮の問題を理解することも、大変重要なことです。
米国がその強大な軍事力で北朝鮮に圧力を加え、非核化を強制すればよいという単純な問題ではなく、北朝鮮の背後にいる中国と朝鮮半島の「望ましい状態」についてどのような合意が形成可能なのかを考えなければならないのです。

著者らはこの論文で中国が米国、韓国と情報交換から始め、危機的状況での対応について協議するための準備を進めることが問題解決にとって必要と述べていますが、米中関係から判断してそのような外交はなかなか現実には難しいことは率直に認めています(Ibid.: 74)。

もし米国が中国の同意も得ずに北朝鮮に対して軍事行動を起こすなら、米中間で軍事的緊張が高まることは必至でしょう。
もし両国が衝突に至った場合に予想される物的、人的犠牲が、北朝鮮の非核化という目的から考えて許容可能な範囲に収まらないのであれば、米国は北朝鮮に対して戦略的に譲歩する可能性は十分に考えられます。

どのような展開になるにしても、この北朝鮮の核開発の問題を過度に単純化することなく、背後関係も含めて分析し、日本の政策が適切なのかどうかを絶えず監視しておくことは重要なことだと思います。

KT

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2017年9月16日土曜日

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。

各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。

しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。

今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。

参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想
ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。
ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。

つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。

例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。

無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。

また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していたのですが、1879年に刊行した戦術学の教範を執筆したことによって、30年近くにわたりロシアの軍事学の権威であり続けていました(同上)。

ドラゴミロフの思想の一部を紹介すると、「たとえば現代の進歩した速射砲を使用し、将校の指揮が優れ、兵士が大砲の操作に熟達していたとしても、彼らが図上で炸裂する砲弾に耐えられずに大砲を放棄してしまったとしたら、彼らの素晴らしい大砲も何の役にも立たなくなってしまう」と述べています(同上、324頁)。

一般論としてはもっともな部分もあるのですが、19世紀における武器の射撃速度、威力、射程といった諸条件を総合して考えれば、18世紀の軍人であるスヴォーロフの軍事思想に妥当性を見出すことには無理があったと言えます。

徹底さを欠いた日露戦争の分析
1905年、旅順攻囲戦でロシア軍の守備隊が日本軍に砲撃を加えている様子。この戦争では新たな技術が戦場の様相をどのように変化させるのかを考察する上で重要な事例と専門家の間で注目を集め、世界各国でさまざまな分析が行われたが、当事者であるロシア軍は旧来の戦術や編制を抜本的に見直すまでには至らなかった。
ピントナーはロシア軍で主流を占める研究集団が、いわゆるロシア的な戦法に傾倒する状況で、日露戦争がどのように分析されていたのかに注目しています。

後知恵ですが、ロシア軍にとって日露戦争は従来の学説の実証的な妥当性を再検討し、研究の停滞を打ち破る絶好の機会を提供していたと言えます。

日露戦争で判明した近代的な火力の意義、そして塹壕戦の難しさを知ったことによって、過去の偉人の軍事思想を現代の戦争に適用するだけでは限界であることに多くの軍人は気がついていたはずです。

しかしながら、日露戦争の後になっても参謀大学校で主流派を占める人々の見解がほとんど変化しなかったのです。このことについてピントナーは次のように述べています。
「日露戦争の結果、近代的火力の重要性と塹壕攻撃の困難性が明らかになったにもかかわらず、ロシア軍の伝統的思考は疑われなかった。たしかに日本軍の熱狂的な精神力は、ドラゴミロフが主張していた、軍隊では士気が最も重要であるという考え方を補強することになった」(同上、325頁)
軍隊の頭脳であるべき参謀大学校が、説明がつかない事実に目をつむり、従来通りの理論を守ろうとしたことは、調査研究という本来の機能が健全に果たされていなかったことを示唆しています。

無論、こうした主流派の独断的な姿勢に対して当時のロシア軍の士官全員が納得していたわけではありませんでした。

ピントナーが調査したところによると、軍事史学部長のポストを廃止する議論が参謀大学校で問題となっており、その過程で抜本的な改革を進める試みも見られたのですが、最終的には失敗に終わりました(同上)。

火力戦闘を主張したネズナモフへの反発
サンクトペテルブルクにある参謀大学校旧校舎の正面外観。1832年に陸軍士官学校として発足し、1855年には参謀大学校へと発展したことで、高級士官のための教育や高度な軍事学の研究も組織的に行われるようになったが、ロシア革命の影響で1918年に閉校となった。
こうしたロシア軍の状況に立ち向かった研究者にネズナモフ(A. A. Neznamov)という軍人がおり、ピントナーは彼が参謀大学校の教官という立場にありながら、ロシアの軍事的な後進性に関する批判的見解を発表したことで注目しています(同上)。

ネズナモフは日露戦争でロシアが軍事的に失敗した根本的な理由は、単に後方連絡線が貧弱だったためではなく、満州の慣れない気候や地形で作戦を遂行できず、無能な将官が指揮をとり、政府の政策決定にも一貫性がなかったためだと考えていました(同上)。

しかも、ネズナモフは当時のロシア軍で絶対的だと見なされていたスヴォーロフの説にも挑戦し、「火力が戦闘を決する」と主張し始めます(同上、326頁)。これは当時の参謀大学校の主流派には受け入れがたい議論でした。

ただ、ピントナーはネズナモフの議論の全てが妥当だったとは述べていません。
ネズナモフは戦争目標は決戦で敵軍を撃滅することだとする古典的な戦略思想が将来的に役に立たなくなる可能性を予見していましたが、塹壕戦が膠着状況をもたらす危険についてはそれほど認識していなかったと指摘しています(同上)。
それでも、当時のロシア軍にとってネズナモフの定説に対する批判は白兵主義から火力戦闘に脱却する機会を与えていたと言えます。

ところが、ネズナモフはスヴォーロフをはじめとするロシアの過去の軍事思想家を軽視していると見なされ、周囲から強い反発を受けることになりました。

そのため、ネズナモフは自分がピョートルやスヴォーロフのような偉人の軍事思想の価値を一概に軽視しているわけではなく、戦闘の手段が変化していることを指摘しているだけだということを自己弁護する必要に迫られました。当時のネズナモフの次のような考察を残しています。
「ピョートル大帝は天才であり、外国のものを採用するに当たって有益なものと有害なものの差をはっきりと認識していた。彼は最愛の息子よりもロシアを愛していた。彼は「模倣」ということについて次のように説明している。「われわれが彼らに背を向けるまで、ヨーロッパは数十年間にわたって必要である」、また「われわれはヨーロッパに追いつき追い越すであろう」ということも夢見ていた。軍事的分野に限られていたとはいえ、ロシアはヨーロッパに追いついたともいえる。しかしその後歴史は繰り返し、ヨーロッパは再びわれわれを追い抜いた。そして再びわれわれは同じことを繰り返すであろう。現存するものの中から最高のものを採用して国内で改良し、その後で彼らに背を向けるのである」(同上)
この考察を読めば、当時の参謀大学校でネズナモフが自分の研究に理解を示してもらうために、妥協を重ねていたことがうかがい知れます。

それは学問的根拠というより学内政治の考慮に基づく妥協であり、ネズナモフとしては自分の主張を受け入れてもらう必要がありました。

むすびにかえて
1911年にネズナモフは自らの研究成果を『現代戦争』という著作にまとめて出版しますが、ピントナーの見解では、この著作が第一次世界大戦の前にロシア軍で影響を及ぼすことはありませんでした。
結局、ネズナモフの主張は当時の参謀大学校で受け入れず、実務でも活用されなかったということです。

ネズナモフは将来の戦争を見越して参謀大学校の思想を火力戦闘に移行させるべきだと考えていた点で、先見性がありましたが、そうした改革は実行に移されることがなく、そのままロシアは第一次世界大戦に突入していきました。
驚くべきことではありますが、日露戦争から第一次世界大戦にかけてロシア軍の運用や編制が大きく変わらなかったことは、こうした経緯があったためだと考えられます。

この事例から学べることは、研究組織が存在していたとしても、それが常に研究を促進するとは限らないということでしょう。
特に研究組織の管理運営に関する権原が特定の学派によって独占される状況が続くと、後進の研究者は新しい立場で議論することや、それを批判することに極度に慎重にならざるを得なくなり、結果として健全な研究努力が妨げられることにもなります。

最近は日本でも大学改革が叫ばれていますが、こうした事例も検討した上で、どのような管理体制であれば健全な研究環境を次世代に継承できるのか、よくよく考えなければならないと思います。

KT

参考文献
ウォルター・ピントナー「ロシアの軍事思想 西欧モデルとスヴォーロフの影」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、315-330頁

2017年9月15日金曜日

論文紹介 冷戦初期の米国の東アジア戦略と日本の防衛力

第二次世界大戦に敗れた日本は、東西冷戦の時代に入ると米国が指導する西側陣営の一員となり、また米軍の極東戦略の中に位置付けられるようになっていきました。

しかし1945年で軍備を全面的に失った日本にどのような軍備を持たせるべきか、米軍との役割分担をどのようにすべきかという点については、米国の内部でもさまざまな議論があり、それによってその後の日本の再軍備のあり方が大きく規定されることになったと言えます。

今回は、冷戦初期において米国が自らの戦略に日本の防衛力をどのように位置付けていたのかを歴史的に検討した研究を紹介したいと思います。

文献情報
石田京吾「戦後日本の海上防衛力整備(1948 ~ 52 年)―海上防衛における日米の役割分担の起源―」『戦史研究年報』第 9 号(2006 年 3月)97-110頁

西側の陣営に組み入れる対日政策の転換
月刊沖縄社「東京占領」GHQが置かれた第一生命館
占領統治が始まった直後、GHQは敵国だった日本を完全に武装解除し、軍事的に無力化することを重要な目標としていました。

しかし、米国とソ連との間で東西冷戦が本格化すると、米国で日本の利用価値を再評価する動きが出てきます。

つまり、軍事的に無力化するよりも、共産主義陣営の脅威に対抗する上で日本の経済的、軍事的能力を利用した方が米国の国益に適うと考えるようになっていったのです。
「1947年5月、国務相にPPS(Policy Planning Staff: 政策企画室)が新設され、その室長としてケナン(George F. Kennan)が就任し、冷戦政策の企画立案を担当した。(中略)ケナンは欧州や日本が経済的困難に起因する国内政治の不安定化により共産化していくことを危惧し、自由主義世界の政治的、経済的安定を重視した。そして日本を「封じ込め政策」の成否を決める重要な地域の一つと見なしていた」(石田 99-100頁)
さらに同時期に行われたCIAの情勢判断においても「極東におけるアメリカの現在の地位を保つためには、地域の重要なエリア、特に日本に対するソ連の覇権を拒否することが必要である」と著者は紹介しています(同上、100頁)。

こうして日本は米国の対ソ戦略の新たな要素として位置付けられるようになりました。

とはいっても、この時点での米国の懸念は極東ソ連軍による対日攻撃ではなく、日本国内で政治工作に従事する親ソ派の日本人の動きにありました。GHQはまずは現地で治安維持に当たる警察力を整えることを優先し、海上戦力に関しては沿岸警備能力程度に限定する方針を決定します(同上、101頁)。

このことは、米国が対ソ戦略における日本の重要性を認識した後でさえ、すぐには防衛力の本格的な整備に着手しようとしなかったことを表しています。しかし、このGHQの姿勢も1950年になると変わっていきました。

朝鮮戦争で促された日本の再軍備
朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮軍を圧迫して釜山に迫ったが、米軍の来援で退却を余儀なくされた。しかし、その後も中国軍の介入があり、朝鮮戦争は長期化の様相を呈することになる。
U.S. Navy. Seoul Battle, Korean War
1950年に勃発した朝鮮戦争で、最も大きな影響を受けたのは日本に駐留していた在日米軍部隊でした。

それまで日本の占領に当たっていた部隊が朝鮮半島に逐次投入されると、GHQは日本国内の治安維持に当たることが難しくなり、日本政府に警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を命令します(同上、102-3頁)。韓国に米軍が到着した後も朝鮮戦争の戦局は一進一退が続き、東アジアの戦略環境は急激に不安定化していました。

1951年5月17日、米国は軍事的手段による封じ込めを東アジアにも適用する方針を決定することを正式に決定し、「日本に関して、国内治安と外部からの侵略に対する防衛能力を維持し、極東の安全及び安定に貢献できる能力を持つ、アメリカに友好的な自立した国家になることを支援する」という方針の下で日本の再軍備を促すことになりました(同上、105頁)。

再軍備を進めるためには憲法の問題があることは米国もよく承知していたのですが、それについては「日本の防衛のために軍事力の保有を認めるように憲法は改正されるであろう」と予測していました(同上、106頁)。
しかし、その後も長らく日本で憲法問題が議論されることになりました。

いずれにせよ、東アジア情勢が急速に展開していく中で、米国は対日政策の再検討を進め、やがて外敵の侵略に対して日本も米国と共同で対処させるという方針が現れてきます。

1951年末に統合戦略計画委員会が示した文書を踏まえて、著者は次のように論じています。
「JCS1380/127では、事態の対処について、それまでの海空兵力についてはアメリカと他の同盟国が提供するので、日本は海空兵力を考慮する必要はないという考え方に代わって、日本とアメリカが「共同および協力」して外部からの侵略に対処するという新たな考え方が提示されたのである。つまり、アメリカの政策文書に初めて日本の防衛力の任務が明示されたのであり、日米共同による外部侵略への対処、言い換えれば外部からの侵略に対処する際の、日米の「役割分担」の考え方が提示されたのである」(同上、107頁)
これは日米関係の歴史において画期的なことでした。
それまで日本に認められていたのは、治安維持に当たる警察力の延長に過ぎなかったのですが、この米国の役割分担の考え方は対外戦争への対処を想定するものに変化していたためです。

さらに統合戦略計画委員会は日本の軍備については「適正な海上・航空兵力と併せた陸上兵力19個師団」という整備目標が妥当だとも示しており、日本の防衛力の規模についても具体的な議論が始まることになります(同上、108頁)。

日本に攻撃能力を持たせない米国の思惑
ジョージ・ケナン、外交官としてソ連に対する封じ込めを主張し、冷戦期における米国の対外政策の指針に大きな影響を及ぼしたことで知られている。
しかし、日本海軍を復活させる恐れを米国の政策決定者は決して忘れてはいませんでした。日本の再軍備を促進するとしても、日本が米国に敵対できないような措置を講じておくことが必要だと考えられていたのです。

この点について著者は当時の国務長官代理と駐日大使とのやりとりを紹介しているのですが、そこでは新たな日本の海上防衛力は「対潜海軍が望ましい」と述べられており(同上)、その理由として「対潜戦を任務とするような、明らかに防衛的な艦艇は日本の潜在的な侵略能力の再現について日本国外の危惧を掻き立てることはありそうもないであろう」と説明されています(同上頁)

つまり、日本の海上戦力から攻撃機能を事前に除外しておけば、米国としては日本を無力化できるし、同時に米国の東アジア戦略のために日本を利用することもできると考えられていたのです。

むすびにかえて
著者がこの論文で明らかにしているように、日米関係の歴史は米国の占領行政の延長線上に発展し、日本の防衛力の規模や内容は米国の戦略によって強く規定されていました。

少なくとも朝鮮戦争前後の日本の防衛体制のあり方は、当時の米国の対日政策によって非常に大きな影響を受けていたということが言えるでしょう。

また第二次世界大戦の経験がまだ昨日のことのように思い出される時期において、米国政府がこうした対日政策をとったことは十分理解できることですし、ソ連を封じ込めるという米国の対外政策としても妥当性があったと思われます。

無論、日本も米国の援助を利用できたことには、少なからず利益がありました。
米国が自国の国益を追求するため日本を利用し、また日本も米国の支持を利用して防衛力を再構築していったのです。

KT

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資料
冒頭写真:毎日新聞社「昭和史第14巻 講和・独立」保安隊創立記念式典